[25672] KMKZ さん
なぜ、下総台地から離れた板橋区赤塚の地に下総台地の地形の呼称「谷津」があるのでしょうか?
戦国時代に下総からからやって来た千葉氏が下総の谷津と同様の赤塚の地形に谷津と命名し、その名残が、上記の公園名なのではないか、と思います。
下総の谷津と同様の赤塚の地形は、千葉氏以前にも、
同様の地形を武蔵野台地東端では、「谷(や)」、西部では「谷戸(やと)」と呼ぶようですが
というように、古くは武蔵野台地の言葉に従って「ヤ」あるいは「ヤト」と呼ばれていたのではないでしょうか。それを千葉氏が下総の言葉に従って「谷津」と写した(発音への影響もあったかもしれません)ということはあっても、「命名」というほどのことは無いように思います。
「谷」の字を、通常、西では「タニ」、東では「ヤ」「ヤツ(谷津)」「ヤト(谷戸)」等と読むことが知られています(鎌倉にはヤツ…谷が多いですね)。もちろん、厳密に検証すれば、それぞれの語が意味するところは時代・地域によって異なるのでしょうが、同じ「谷」の字を当てていることからも、だいたい似たような地形を指すものと考えて構わないかと思います。甲斐や人名の熊谷に通ずる「カイ(峡)」系もあるようですね。
むしろ西方におけるヤ系の方が、後の歴史の影響があるようで興味深く思われます。
ついでながら、東京の「タニ」地名について、少し調べてみました。
【茗荷谷(みょうがだに)】
一般に、茗荷が多く生えていたところから「茗荷谷」と呼ばれたという説が行われていますが、一説によれば、江戸時代、鉄砲を撃って良く的に中る冥加(神仏の守護のこと)があるという稲荷が同所にあり、そこから「冥加稲荷」「冥加谷」の名が生じ、後、「茗荷谷」の字が用いられるようになったといいます。
後者であれば、「タニ」地域出身の武家の関係者が命名に関与したとものと思われます。
【鶯谷(うぐいすだに)】
一帯に多くのウグイスがいたことから「鶯谷」と呼ばれたようですが、そのウグイスの主たるものは、寛永寺(上野)の主・輪王寺宮に従った陶芸家・尾形乾山が京都から取り寄せて放ったものといいます。やはり江戸時代のことです。
とりえず上記2例だけ思いついたのですが、どちらも諸国の人間が関東に流入した江戸時代に起源を有するということになりそうです。少なくとも東京の場合は同様のケースが多いのではないのでしょうか。
現在、通常「谷」は「タニ」と読まれていますし、江戸時代以前も、歴史的に西の「タニ」系の人間が東国の地名に影響を与えたケースは多いと想像しています。
逆に東国から京都に人が動いた例としては、足利氏による室町幕府の成立の頃くらいしか思いつかないのですが、地名等に与えた影響はあるのでしょうか?
[25709] 愛比売命 さん
あえて地形的制約があるところに作った都市について
はじめから「都市を作ろう」と計画していたのであれば、あえて地形的制約があるところを選択せずに、平野部での都市建設も検討できたことでしょう。個人的な想像の域を出ないのですが、狭いところに人が集まったからこそ、人間の存在によるエネルギーが高まるとともに交流が活発になり、結果として、都市としての発展を見せることになったのではないでしょうか。また、平地は農地としての利用が優先されていたとも思います。
ところで、一説に、狭いところに人口が集中した結果として、古代のギリシャ人は海に活路を求めて数多くの植民地を築いたのに対し、ローマ人は土木技術を駆使して都市を拡大し、ついには大帝国を築いたとか。
無数の台地と谷の上に広がる東京圏は後者でしょうか?
[25684] KMKZ さん
[25682] miki さん
埼玉に限る話ではないのですが、「県」漫画といえば、どうしても吉田戦車「ぷりぷり県」が思い出されます。人に教えられて読んで、思うところ多でした。