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千本桜さんの記事が30件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[81277]2012年8月8日
千本桜
[81261]2012年8月6日
千本桜
[81260]2012年8月6日
千本桜
[81222]2012年8月1日
千本桜
[81214]2012年7月31日
千本桜
[81211]2012年7月30日
千本桜
[81207]2012年7月29日
千本桜
[81201]2012年7月29日
千本桜
[81196]2012年7月29日
千本桜
[81088]2012年7月13日
千本桜
[81048]2012年7月8日
千本桜
[81047]2012年7月8日
千本桜
[81038]2012年7月7日
千本桜
[81019]2012年7月1日
千本桜
[80986]2012年6月22日
千本桜
[80971]2012年6月17日
千本桜
[80942]2012年6月7日
千本桜
[80934]2012年6月4日
千本桜
[80895]2012年5月25日
千本桜
[80418]2012年3月21日
千本桜
[80412]2012年3月20日
千本桜
[80403]2012年3月14日
千本桜
[80331]2012年2月25日
千本桜
[80301]2012年2月17日
千本桜
[80290]2012年2月14日
千本桜
[80283]2012年2月12日
千本桜
[80282]2012年2月12日
千本桜
[80253]2012年2月5日
千本桜
[79929]2012年1月4日
千本桜
[79788]2011年12月29日
千本桜

[81277] 2012年 8月 8日(水)18:55:01千本桜 さん
八戸と鮫
現代では八戸そのものが港町として捉えられているわけですが、本来は少し内陸部に城下町・八戸の市街が広がり、その外港の役割を果たしていたのは鮫。・・・だと思います。
[81261] 2012年 8月 6日(月)06:40:26千本桜 さん
忘れてしまって漢字で書けない
[81239] 白桃さん
ところで、千本桜さんのお母様はどこなんでしょうか。

認知症で地名の記憶が失われて行くなか、今でも忘れずにいるのは生まれ故郷の「白石」です。でも、残っているのは「白石」と言う名のホルダーだけ。保存してあったファイルはことごとく破損または消去されてしまったようです。

実は私も最近になって書けなくなった市町村名が増えて困っています。三重県の「いなべ」の漢字が思い出せないのですよ。「そうさ」「しそう」もダメっぽい。これって認知症の始まりなんでしょうか。
[81260] 2012年 8月 6日(月)06:07:33千本桜 さん
赤穂と尾崎
hmtさん
「明治13年共武政表を眺める」の続編を期待しています。

明治13年共武政表「戸数1千以上地名表」を見て、おや?と思ったのが播磨の赤穂郡。リストに尾崎があって赤穂(加里屋・ 上仮屋)がないのですね。ちょっと奇異に感じましたが、当時の赤穂はその程度の町だったのでしょうか。
[81222] 2012年 8月 1日(水)07:57:03千本桜 さん
矢吹町の大字柿之内
[81213] 皿さん
他の字を合わせて大字の線を引いても、後から間違っている所が指摘されることがあるからです。

皿さんが求めている大字界線は大雑把なもので良いはずです。地権や水利権が絡むことではありませんから精密さを必要としません。ならば、角川地名大辞典とマピオンがあれば解決できる範疇の問題だとと思います。本当は皿さんご自身の手で調べてもらいたいのですが、1つだけ私がやってしまいます。大字柿之内をターゲットにします。時間がないので結果だけ書きます。なぜその結果が出たのかは書きません。
大字柿之内の領域は現在の境町本郷町南町東の内田内子ハ清水と推測しました。
大字柿之内の近隣に位置する堰の上、井戸尻、川原などは大字大和久の領域。花咲、舘沢、滝八幡などは大字矢吹の領域と推測しました。
現在の字(字か町丁かは大きな問題ではありません)をそのまま旧大字に当てはめるのは無理があるとは思いますが、こまかなことを気にしなければ、こんなもので良いのではないですか。
[81214] 2012年 7月 31日(火)01:04:27千本桜 さん
大字の探し方
[81213] 皿 さん
現時点で引っ張り出せるのは13の大字のうちわずか3つです。
その3つ、どういうわけか知らないけど、3つとも奥州街道の宿場町ですね。どのようにして引っ張り出したのですか。
[81211] 2012年 7月 30日(月)21:57:22千本桜 さん
矢吹町の大字
[81209] 皿さん
最後に矢吹町の字に関して一部確定しているところがあります。
大字矢吹:中町~本町
大字中畑新田:新町
大字大和久:大和久

ひょっとして、皿さんは矢吹町に13の大字があったことをご存知ないのでは?。だとすると、それを知ることから始める必要があると思います。13の大字名とその場所をリンクします。大字の「首部」にあたる位置にポインターが表示されるように狙い撃ちしていますのでご覧ください。
松倉中畑大畑三城目須乗神田中野目明新矢吹中畑新田大和久柿之内
これだけでは皿さんの疑問解決にはなりませんね。できるなら、私がリンクした13大字の首部と周辺部をにらめっこしながら、各大字の地域範囲をイメージして大字界線を線引きしてほしいのです。私がイメージするのではなく、皿さんがイメージするのです。

私がほしいのは、昭和54年までの矢吹町の大字図です。
それは、どうすれば入手できるのか私には分かりません。いっそのこと、 皿さんご自身が大字界図を作ってみてはいかがですか。精密さを求めない大まかなものでよければ作れるはずです。資料は角川地名大辞典とマピオンがあれば充分です。その二つを駆使すれば、大字の地域範囲と所属していた郡が明らかになるはずです。問題は皿さんが角川地名大辞典を読むか否かにかかっています。角川地名大辞典を読みたいと思われたとき、その旨を落書き帳に書き込んでください。微力ながら矢吹町の大字に関して多少のアドバイスはできると思いますので。
[81207] 2012年 7月 29日(日)23:55:14千本桜 さん
矢吹町の字(あざ)
[81198] 皿さん
福島県矢吹町の現行町名と江戸時代にのちの現在の矢吹町にあった村の位置が全然わかりません。
矢吹町の字(あざ)にハマってしまいましたね。あの町は大胆に字の整理を実施しましたから、現況の字界図をもとにして過去の村(近世村)の範囲を知るのは無理だと思います。町役場に問い合わせをするのが最良かと思いますが、それを実行しても埒があかなかったから落書き帳に書き込んだのですよね。私も三十数年前、矢吹町の字界図を入手したことがあります。でもそれはあくまでも現況字界図です。皿さんに必要なのは字の整理前と整理後をオーバーラップさせた地図ですよね。やっぱり、無いよね。役場には。困った、困った。
ところで、矢吹町の字にハマったということは、旧二本松市の字にもハマっておられるのでしょうか。
[81201] 2012年 7月 29日(日)08:35:06千本桜 さん
近世村「西野村」と町場名「米岡」
[81146] hmtさん
このような 町場名・近世村名・町村名の関係については、千本桜さんが事例を挙げて考察された 記事 が多数あります。
上にリンクしたのは一例で、マガジンの形にまとめて利用できればよいと思うのですが、私は手を出せずにいます。
千本桜さんの視点による 新マガジンの創刊を期待しています。
ありがたいお言葉、感謝申し上げます。しかし私は今、なかなか時間がとれない状況にあり、落書き帳への書き込みも途切れることがあるのが実状です。マガジン創刊など出来るかどうか自信がありません。とは言うものの「近世村と町場」、「町場名と町村名」、「公称と通称」、「住所と大字」の関係などは、次の世代に語り継がなければならない大切なものだと考えています。時間があれば何らかの形でまとめてみたいとは思っています。

近世の町場名が町村制下の村名に影響したと考えられる記事を一つ書きます。

明治22年、宮城県登米郡の西野・中津山2ヶ村が合併して米山村が成立しました。旧村名を継承する2大字を編成し、村役場を大字西野に置きました。角川地名大辞典は米山の村名由来を次のように書いています。
江戸期から干拓・開墾・新田開発の盛んに行われた米どころで、米の山を築く意味からなづけられたといわれる。
この説を否定するつもりはありません。けれども、どことなく作り話の臭いがしますね。「米の山を築く」は後で付けた理由で、本当は西野・中津山両村から1文字ずつ出し合って合成した村名だと思うのです。西野の「米」と中津山の「山」で米山です。西野に「米」の文字は見えませんが、実はあるんです。西野村には米岡と言う名の町場がありました。米岡は江戸期に商業活動を許された町場で、地籍の上では西野村に属していました。米岡宿、米岡驛、米岡町などと称されていたようですが、宿・驛・町の使い分けには明確な基準があるのでしょうか。ご存知の方、教えて頂けたら幸いです。

元来、米岡とは西野村の町場を指す地名ですが、時には西野村を指す名称としても用いられていた可能性があります。その根拠は、宮城県柴田郡において村名の前川と町場名の川崎、村名の入間野と町場名の槻木、村名の平と町場名の金ヶ瀬が混用されているばかりでなく、各地に同様のケースが見られるからです。槻木宿と書いてあるかと思えば、物によっては入間野宿と書いてあったり、入間野村と表記すべき所に槻木驛と書いてあったりで、大いに悩まされたものです。この通称町場名の川崎・槻木・金ヶ瀬は明治22年、それまでの公称村名である前川・入間野・平を抑えて町村制下の新村名に躍りでました。しかし、米岡は町村制下の新村名に躍りでることができなかった。なぜでしょうね。

なぜ米岡は町村制下の村名に採択されなかったのか。これにズバリ言及した記述を見たことがありません。そのような視点からの記録はたぶん存在しないのでしょう。ならば自分流に想像力を働かせて考えるしかありません。以下の文は想像で書く創作ですから鵜呑みにしないでください。でも本筋はそれほど大きく外れてはいないはずです。

(明治22年、西野村は中津山村との合併に向けて内部調整の話し合いをしていた。)
【西野村職員A】志田郡千石村など5ヶ村合併の新村名は、千石村の町場名をとって松山村とするそです。
【西野村職員B】桃生郡相野谷村など6ヶ村合併も、相野谷村の町場名をとって飯野川村とするそうです。
【西野村村長】すると西野・中津山の2ヶ村合併も、西野村の町場名をとって米岡村にするか。
【西野村職員A】西野村の名が消えるのは淋しいですね。
【西野村職員B】米岡村になっても西野の名は消えません。米岡村大字西野として後世に残ります。
【西野村職員A】そうなんですか。米岡も西野も消えずに残るなら、新村名は米岡村にしましょう。
【西野村村長】それに、西野より米岡の方が対外的に通りが良いだろう。
【西野村職員B】確かにそうです。佐沼や涌谷の人は西野のことを米岡と呼んでますね。
【西野村職員A】白石の近くから来ましたという人も、西野を知らないのに米岡を知っていました。
【西野村職員B】白石の近くから来ましたという人って、それ、大河原村の人だろう。
【西野村職員A】そうらしいです。なんで大河原から来ましたと言わないのだろう。
【西野村村長】主体性がないんだよ、大河原村は。我々もそうならないように気をつけよう。
【西野村職員B】やはり胸を張って自分の村の名を言えるようにしたいですね。
【西野村職員A】これからは対外的に通じやすい米岡の名を名乗り、胸を張って生きましょう。
【西野村職員B】了解しました。新村名は米岡村ということで、中津山村に話し掛けましょう。

(そして西野・中津山2ヶ村の合併協議が始まった。)
【西野村職員B】西野村としては、新村名を米岡村とすることを希望します。
【中津山村職員A】米岡って西野村の別称でしょう。西野村主体の考えは納得できません。
【西野村職員A】牡鹿郡根岸村など3ヶ村合併の新町名は、根岸村の町場名をとって渡波町とするそです。
【西野村職員B】近世の町場名をもって町村制下の町村名とする所が多いですね。
【中津山村職員B】そんな馬鹿な。人口の多い中津山が、人口の少ない西野に馬鹿にされてたまるか。
【西野村職員A】そんな馬鹿な。西野の方が人口が多いに決まってるだろう。
【中津山村職員B】そんな馬鹿な。中津山の方が多いんです。
【相談役の県職員】人口のことは落書き帳の方々が調べてくれるはずですから、話を先に進めましょう。
【中津山村職員B】中津山村としては、新たな合成村名を作ることを希望します。
【中津山村職員A】例えば、西野村の西と中津山村の山で「西山村」はどうでしょう。
【西野村職員B】西野村としては、西野より米岡の名を残したいのですが・・・。
【中津山村職員A】では、米岡の米と中津山村の山で「米山村」はどうでしょう。
【西野村村長】それは名案だ。
【中津山村村長】米どころにふさわしい村名だね。
【相談役の県職員】では「米の山を築く」という意味合いを込めて「米山村」としましょう。

こうして米山村は誕生したのではないだろうか。この場合、後世に伝え継ぐ村名由来は、下記の内のどちらがふさわしいのでしょうか。
1・西野村の町場名である米岡の「米」と中津山村の「山」を合成して「米山村」とした。
2・米どころなので、米の山を築く意味から「米山村」とした。

なお、人口のことで西野村と中津山村がもめていましたが、実際はどちらが多かったのでしょう。明治22年頃には、中津山村が西野村を凌いでいたと思うのですが、詳しいことが分かりません。ただし、西野村が中津山村を隷属扱いできるほどの開きは絶対なかったはずです。もし、西野村が中津山村を隷属扱いしていたなら「米山村」の名称は生まれず、「米岡村」の名称が誕生していた可能性が高いと思います。西野村の町場名「米岡」が町村制下の村名になれなかった理由の一つは、合併相手の中津山村が西野村に比して遜色なく、思いのほか大きな村だったからではないかと踏んでいます。
[81196] 2012年 7月 29日(日)01:15:49千本桜 さん
♪母の鞄
[81136] 白桃さん
3位 武豊(愛知) 29,634

武豊の文字から「たけゆたか」を連想する人は多いはず。ところが、私が連想するのは「武智豊子」。昔からそうでした。地図を見て武豊町の存在を知ったのは中学生の頃ですが、あれからずっと武智豊子は武豊町の生れだと思い込んでいました。実際は違うらしいけれど・・・。武豊から武智豊子を連想する人はもともと数が少ないはずだから、今となっては絶滅危惧種でしょうね。

ところで、私はいま老老介護の最中にあります。母親の口にスプーンで食事を与え、おむつの交換をする毎日。結構辛うございます。母は四捨五入すると100歳になります。認知症で親の名前も子の名前も忘れてしまいました。地名もほとんどすっかり忘れたようです。近隣の集落名は勿論、昔馴染みの人が住んでいる栃木・桐生・清水なども忘れてしまいました。そんな母が今も忘れずにすらすらと口にする地名が一つだけあります。それは、次の内のどれでしょう。

1・生れ故郷の「白石」
白石のど真んなか、中町の生れ。大正時代は町場と農村部のメリハリがはっきりしていたようで、町場生れの母の話言葉は、白石近郊の農村出身者と少し異なっていました。

2・楽しかった娘時分に暮らした「仙台」
数年間だけ仙台は大町東一番丁角あたりに住んでいました。大町と東一番丁の角といったら、銀座四丁目みたいなものです。凄い所に住んでいたんですね。

3・現在の居住地「大河原」

さて、地名の記憶が失われていく中、いまも母の脳内に張りついて剥がれないのは白石・仙台・大河原の内、どれでしょう。団塊世代のおじさんが思わず涙ぐむ静かなヒット曲、♪母の鞄をタイトルに用いました。
[81088] 2012年 7月 13日(金)20:05:41千本桜 さん
山目と中里の関係。輻輳地の鹿島台とはどこか。高須賀の輻輳地は荒浜
[81073] 白桃さん
山ノ目駅西側と(一関駅方面から来て)磐井川を渡った一帯の山目は同じ山目(旧村→旧町)なのでしょうか、多分そうなんでしょうけど、だとすると(旧)中里村が入りこんでいて不自然な気がします。
JR山ノ目駅がある場所は山目村ではなく中里村の領域です。また、また現在の新町蘭梅町山目町二丁目山目町三丁目なども元をたどれば中里村の領域でした。ですから、本来は山目村と中里村の間に不自然な領域の入込みはありませんでした。ではなぜ中里村にJR山ノ目駅や山目町があるのかというと、これには宿駅「山目」の存在が絡んでいます。山目宿は山目村と中里村に跨がる宿場で、山目町(現在の山目町一丁目、二丁目)と呼ばれる町場を形成していました。山目村に属す町場は現在の山目町一丁目、中里村に属す町場が現在の山目町二丁目です。中里村の内に山目町という町場があったわけですから、中里地区民はJR山ノ目駅や山目町二丁目の呼称も自然に受け入れていたと思います。

[81048]
明治11~13年当時、一関と山目の町並みは一体化していたのだろうか。
と書きましたが、角川地名大辞典を読んでみると、磐井川で分断されるものの、連続した町並みの様子が見えてきました。

明治11、12、13年の共武政表を見て思うのですが、宮城県の輻輳地のうち、下記の2箇所は場所を勘違いする人がいるかもしれませんね。
輻輳地明治11年の表記明治12年の表記明治13年の表記
鹿島台記載なし鹿島臺126人鹿島臺127人
高須賀高須賀村2,352人高須賀2,301人高須賀1,770人
共武政表は人口120人ほどの小さな輻輳地「鹿島台」を掲出しています。鹿島台とはどこを指すのでしょう。現代の我々が思い浮かべる鹿島台の町並みといえば、平渡地区(藩政村の平渡村)に展開するJR鹿島台駅前の町並みでしょう。でも、江戸~明治初期において平渡村内に鹿島台と呼ばれる集落があった話は聞いたことがありません。しかし、平渡地区に隣接した広長地区(藩政村の広長村)には元鹿島台(通称)という集落があり、2.5万分の1地形図にもその名が記載されています。また、宮城県各村字調書によると広長村に鹿島台(たぶん通称)があり、鹿島台には鹿島、琵琶原という二つの小字が記載されています。鹿島、琵琶原を頼りに場所を探すと、2.5万分の1地形図の元鹿島台と同じ場所に行き着きます。よって、共武政表の鹿島台とは元鹿島台の集落を指していると判断します。
また、共武政表は輻輳地「高須賀」を掲出しています。現代の我々が思い浮かべる高須賀はここ。でも、明治13年共武政表の輻輳地「高須賀」は、高須賀村の端郷で河口港の荒浜を指していると判断します。
[81048] 2012年 7月 8日(日)11:33:58千本桜 さん
岩手県の輻輳地「磐井」とは。宮城県の茶屋町ってどこでしょう。
共武政表の岩手県西磐井郡に「磐井」と言う名の輻輳地が記載されていますが、そのことでお尋ねします。磐井の人口は明治11年共武政表で4,561人、明治12年4,293人、明治13年4,310人となっています。人口規模からして磐井とは一関のことだと推測しますが、なにゆえ「一関」と表記しないで「磐井」と表記するのか、その理由が分かりません。一関城下は藩政期の一関、二関、三関の3村に跨がっていますが、3村は明治8年に合併して一関村を名乗っています。古来より城下町としての名称は一関、宿駅名も一関、村名も一関。ならば輻輳地の名称も一関で良いはずなのに、「一関」と表記できない何かがあるのでしょう。つらつら思うに、この「磐井」は一関以外のどこかを含んでいるのではないだろうか。そんな考えに至りました。一関宿の2キロほど北に山目宿があります。普通に考えれば山目は人口100人以上の輻輳地に該当するはずです。ところが共武政表には「山目」の記載がありません。そのことから、一関と山目を併せて1個の輻輳地とし、便宜上の名称を「磐井」としたのではないだろうかと考えるようになりました。明治11~13年当時、一関と山目の町並みは一体化していたのだろうか。いろいろ調べましたが定かなことは分かりませんでした。よって「磐井は一関と山目を併せた便宜上の名称」というのも、私個人の発想の域を脱していません。どなたか、共武政表に記載された「磐井」の正体をご存知の方はおられませんか。

共武政表の宮城県宮城郡に茶屋町という輻輳地が記載されています。初めて見る地名です。これは二軒茶屋のことなのでしょうか。それしか思い浮かびません。でもマピオンを見て、あれ!と思いました。本来の二軒茶屋はこのへんではなかったでしょうか。だって昔、新寺小路から延びてきた道路のこのへんに二軒茶屋南というバス停があったのですから。二軒茶屋は二軒茶屋南バス停より北にあったはずだと思うのですが、みんな遠い過去の思い出。
[81047] 2012年 7月 8日(日)10:45:29【1】千本桜 さん
町裏とは町の外側か、内側か
[81018] YTさん
これら三年分の『共武政表』はそれぞれの地方についてはるかに詳しい内容を含んでいます。是非皆さんも確認してください。
拝見いたしました。予想以上に小規模な集落まで掲出していますね。宮城県柴田郡菅生村(現・村田町)に造営された宿場町菅生驛や名取郡坪沼村(現・仙台市)に造営された宿場町赤石驛、宮城郡竹谷村(現・松島町)に形成された新田町などまで輻輳地として取り上げられているのには感動しました。
ところで、宮城県内には「町」と言う名の字(あざ)があちこちにあります。角田市角田字町、村田町大字村田字町、蔵王町宮字町、大河原町金ヶ瀬字町などです。みな町の中心部にあたります。少し詳しく見ると、金ヶ瀬の字町は奥州街道に沿った宿場町の区域であることが分かります。字町の裏側(外、陰、後、そんなイメージ)には字町裏があります。メイン道路に沿って字町が区割りされ、字町の背後には字町裏が区割りされる。それが一般的だと自分は思っているのですが、菅生(現・村田町大字菅生)の場合は様子が異なります。字町という区域がなくて、宿場の街道沿いに、いきなり字町裏が区割りされています。どう見ても町裏ではなく町そのものに見える区域です。街道を挟んで東側に連なる家並が字町東裏、西側に連なる家並が字町西裏です。主体となるはずの字町はどこにあるの?という感じです。
もしかすると、町裏=外側、背後、陰などを連想するからいけないので、裏=内側と解釈すれば良いのかなと考えたりもします。洋服の裏地は内側にありますからね。すると町裏は町の内側を指す地名、つまり町そのものになります。でも、このような考えは成立するのでしょうか?。実は竹谷村(現・松島町)の新田町にも字町裏があり、これまた街道に面した町並みの一角ですから町裏とは思えない区域です。どなたか、裏事情に詳しい方、字町裏の解釈の仕方を教えてください。
注:菅生でリンクしたマピオン地図に「町」という地名が記載されていますが、あれは字名ではありません。菅生宿の町並みの区域を指して通称「町」と呼ぶ慣わしがある。その意味での「町」です。

脱字1文字追加修正しました。
[81038] 2012年 7月 7日(土)11:51:29千本桜 さん
見ていないので難問でした
[81034] 白桃さん
次の市に共通する事柄は?
角田市 米沢市 亀山市 神戸市 伊丹市
どうでもいいけど、戸田、松本、蟹江、小野、長門、阿南に共通する事柄は?
付け加えると、平成の合併時期に惜しまれながらお亡くなりになられた前沢、石橋、津川、萩原、山崎も由紀恵ちゃんです。
[81019] 2012年 7月 1日(日)21:18:51千本桜 さん
昼夜間人口比率
[80994] 白桃さん
総務省から「従業地・通学地による○○・産業等集計」が公表になります。これで、昼間○○、昼夜間○○比率が明らかになります。
地域における中心性が高まる一方で、それに背を向けるように昼夜間人口比率が低下していく大河原町。おそるおそる平成22年国勢調査の昼間人口を閲覧すると案の定、昼夜間人口比率の下落は止まらず、前回調査の95.9%から1.6ポイント下がって94.3%まで落ち込んでいました。あーぁ、ひよわな中心都市。県は仙南圏を白石市、角田市、大河原町、柴田町を中心とする地域としていますが、力が分散して強力な中心都市が育たない地域です。大局的に見れば、昼夜間人口比率が高ければ吸引力が強く、中心性の高い自治体ということになるのでしょう。それを否定するつもりはありませんが、仙南圏の様子からは昼夜間人口比率と中心性の関連が見えてこないのです。

平成22年の昼夜間人口比率の高い順に仙南圏の自治体を並べてみます。

自治体名H22比率H17比率比率の増減H22昼間人口H17昼間人口昼間人口減少数昼間人口減少率
角田市102.5%100.8%1.7ポイント31,336人33,453人2,117人6.3%
七ヶ宿町101.6%101.9%-0.3ポイント1,721人1,907人186人9.8%
村田町101.1%98.7%2.4ポイント12,121人12,574人453人3.6%
白石市98.6%98.7%-0.1ポイント36,894人38,971人2,077人5.3%
蔵王町96.7%96.4%0.3ポイント12,463人12,838人375人2.9%
大河原町94.3%95.9%-1.6ポイント22,195人22,370人175人0.8%
柴田町92.1%91.8%0.3ポイント36,217人36,542人325人0.9%
川崎町89.8%89.0%0.8ポイント8,961人9,416人455人4.8%
丸森町86.5%87.3%-0.8ポイント13,402人14,653人1,251人8.5%

昼夜間人口比率が100%を超えるのは角田市、七ヶ宿町、村田町の3自治体。しかも前回調査(H17)に比べて角田市は1.7ポイント上昇して102.5%、村田町は2.4ポイント上昇して101.1%になっています。対して大河原町は1.6ポイントも低下して94.3%に下落しています。この数字だけから判断すると、中心性を高める角田市と村田町。中心性を喪失した大河原町になります。でも、実態は大きく異なります。

角田市、村田町の昼夜間人口比率が上昇した原因は常住人口が減少したため。大河原町の昼夜間人口比率が低下した原因は常住人口が増加したためと考えられます。常住人口が減少したために起こる昼夜間人口比率の上昇って、あまり喜べないと思うのです。

ここで、昼夜間比率ではなく昼間人口そのものの増減率を見てみます。経済活動が冷えている仙南圏では全ての自治体が昼間人口を減少させています。仙南圏の中心都市と目される白石市、角田市、大河原町、柴田町の昼間人口減少率を比較します。減少率が少ない順に大河原町0.8%減、柴田町0.9%減、白石市5.3%減、角田市6.3%減となっていて、大河原、柴田両町が何とか現状維持ぷらぷら。白石、角田両市が明らかに衰退。不思議なのは、新幹線の駅があり、高速道路のICがあり、国道4号が縦貫し、国道113号が横断し、国道457号が接続する白石市が、なにゆえ衰退状況に陥っているのかです。
[80986] 2012年 6月 22日(金)21:28:38千本桜 さん
島田は浜松の「となりまち」なんですか
市域同士が隣接しているのに、となりまち(お隣さん)と言うには違和感があるカップル20選。ランキングは私の感覚で決めただけですから異論もあろうかと思います。
1位・静岡と伊那
2位・静岡と飯田
3位・浜松と飯田
4位・高山と白山
5位・高山と大野
6位・高山と大町
7位・札幌と伊達
8位・新発田と喜多方
9位・高梁と庄原
10位・大野と白山
11位・大野と関
12位・富山と大町
13位・仙台と尾花沢
14位・宮古と花巻
15位・新潟と長岡
16位・田辺と新宮
17位・浜松と島田
18位・富山と高山
19位・鳥取と津山
20位・岩国と益田
ランキングの圏外ですが、前橋と桐生も「となりまち」らしくないカップルです。市原と君津も微妙な隣接市ですね。市原の隣は袖ヶ浦で、その先に木更津があり、そのまた先に君津があるから、市原と君津は「となりまち」ではないと思っている人も多いのではないでしょうか。
[80971] 2012年 6月 17日(日)01:42:41千本桜 さん
♪安芸灘の風
安芸灘とびしま海道のイメージソング♪「安芸灘の風」を聴きながら空想旅行をしています。還暦を過ぎたシンガーソングライター・レーモンド松屋が、エレキギターを弾きながら唄うロック調の歌謡曲である。歌詞には関前、観音崎、とまちせと、御手洗、大長港、下蒲刈、恋ヶ浜、十文字山の地名が織り込まれていますが、東北地方に住む私には馴染みの薄いものばかりです。以前から名称と場所を知っていたのは関前と下蒲刈だけ。御手洗と大長は何かで見覚えのある地名でしたが、場所を探すのに少し手間取りました。なお、安芸灘に浮ぶ島々の中に観音崎、とまちせと、恋ヶ浜、十文字山なる場所があるのは全く知りませんでした。どんな所だろう、ちょっと調べてみよう。という訳で、5万分の1地形図を引っぱり出して空想旅行に出発です。

1番の歌詞。歌い出しは「青くやわらかなこの海は島々つつむゆり籠」。とびしま海道のイメージソングにぴったりな良い歌詞だと思います。そして「関前の空~」、「観音崎からあなたを見送る~」と続きます。どうやら舞台は岡村島のようです。しかし、「とまちせとで その日が来るのを待ってた~」の歌詞に、はたと困りました。地形図に「とまちせと」の表記がない。「とまちせと」とは何ぞや。分からないのは後で調べるとして先に進むことにする。

2番の歌詞。舞台は岡村島から大崎下島に移りました。「御手洗の古い町並み歩いた~」、「大長港みかん船~」、「きっと来るあなたは来る安芸灘の風に乗って~」。どうやら、この歌は東から西へ向かって進んでいるようです。最後は本州島の川尻か仁方に辿り着くのでしょうか。

3番の歌詞。「下蒲刈のあかりの館訪ねた~」。あれれ・・・、豊島と上蒲刈島を飛び越えて一気に下蒲刈島まで行っちゃいました。飛び過ぎですよね。豊島と上蒲刈島を素通りしてはまずいと思ったか、レーモンド松屋氏はくるりと方向転換して東へ逆戻り。上蒲刈島へ戻って「恋ヶ浜の海まぶしく~」、豊島へ戻って「十文字山で遥かに見つめる~」、「きっと来るあなたは来る安芸灘の風に乗って~」と唄いあげます。

地理的に見れば♪「安芸灘の風」は順路が変だと思う。しかし、レーモンド松屋氏の優れた音楽性がそれを吹き飛ばしてしまう。それに、私の周りにいるカラオケ好きのオジさんたちは、関前がどこにあり下蒲刈がどこにあるかなど一向に気にしない。たぶん「とまちせと」が何であるかも気にしないだろう。「とまちせと」の正体を追って、マピオンを拡大してみました。すると、ありました。岡村島の西端に戸町鼻というのが・・・。この戸町鼻と中ノ島の間の水域が戸町瀬戸なのだろう。では、なぜレーモンド松屋氏は「戸町瀬戸」と書かずに、ひらがなで「とまちせと」と書くのだろう。ここから先は全くの推測ですが、戸町瀬戸を単なる地名に終わらせたくなかった。「とまちせと」と表すことで膨らみを持たせたかった。レーモンド松屋氏は「とまちせと」と唄う時、きっと頭の中では「ひとまちせと」と唄っているのではないだろうか。そうあって欲しいと願いながら♪「安芸灘の風」を唄ってみよう。「あれからずっと ひとまちせとで その日が来るのを待ってた あなたは来る きっと来る いくつもの橋を渡って~」。すばらしいイメージソングだと思います。被災した三陸の海辺にも、こんな力強く期待に満ちたイメージソングが作られ、観光キャンペーンが展開される日が来ることを願っています。
[80942] 2012年 6月 7日(木)20:07:53千本桜 さん
DID上位150都市、赫下バス停、和歌山市街図の「○○地区」
[80928] YTさん
その昔某所でこういう試算をしたことがありますけど、今ならもっと楽ですね。
http://mimizun.com/log/2ch/geo/1078037542/104-180
力作ですね。大変だったでしょう。私も40年ほど前、似たようなことをしました。当時、すでに世の中には電卓が普及していましたが、電卓を使う習慣がなかったので「そろばん」で計算しました。作業中何度も「俺はいつまでもこんな無益なことをやっていて良いのか」と思いましたが、いまとなっては「それで良かったのだ」と自分に言い聞かせています。DIDデータを加工し、独自のデータを作り出すのは楽しいですね。でも、私が本当に欲しいのは、市町村の境界線に拘束されずに集計された昼間人口集中地区昼間人口です。しかし、その基礎データがないですね。メッシュ統計に進めば良いのでしょうが、高額すぎて手がでません。

[80937] hmtさん
現地レポ はバス停ですが、片方は別の字と間違えられています。
面白い現地レポ、ありがとうございました。「はけ」に「赫」を用いるなんて大胆ですね。思わず顔がニヤケてしまいました。地元住民はバス会社に訂正を要求しないのでしょうか。そもそも「赫」という字は滅多に見かけないから、地元の人も何がなんだか分からないまま見ぬふりなんでしょうか。私も「赫」という字は、東千代之介夫人で女優の千之 赫子(ちのかくこ)さんの名前を介して知るのみです。千之 赫子さんは他界して久しいのですが、赫子(はけこ)なんてイヤよ、赫子(かくこ)と呼んでと苦笑いしていることでしょう。

[80940] レインメイカーさん
昭文社の県別マップル和歌山県版や関西版で、和歌山市の地図を見てみると、「○○地区」というのが表記されていました。
この件については全然詳しくありませんが、つい反応して昭文社の地図を見てしまいました。確認したのは、2008年発行「県別マップル和歌山県道路地図」の15,000分の1和歌山市街のページと、昭和61年発行「25,000分の1和歌山市広域図」の2種類です。レインメイカーさんが書いておられるとおり、どちらの地図にも「○○地区」の文字が表記されていました。ところが、双方ともに今福高松和歌浦田野の4地区名を表記していません。最初は表記漏れのミスかと思いましたが、どうやら、やむをえず意図的に表記しなかった可能性が高いようです。あの辺りは文字情報や線情報が込み入っている区域なので、編集者は地区名を挿入するスペースがないと判断したものと推察します。でも、25,000分の1には無理としても、15,000分の1には工夫をすれば「○○地区」の文字を表記できそうな気がしました。レインメイカーさんの質問に対する回答になっていなくてごめんなさい。
[80934] 2012年 6月 4日(月)02:59:26千本桜 さん
なぜか小都市のDIDに熱くなる
[80922] 白桃さん
古座中学校は隣の古座川町にあり、この辺りなかなかややこしいです。
しかも、古座町に国保古座川病院があったりするからややこしくて、やや♪夜霧のハウスマヌカン。

古座が主体とばかり思っていたのですが、「実権」は西向が握っていたのでしょうか。
wikipediaの古座駅の頁に次のような記述があります。
この駅は西向のうちの岩淵(後述)に立地している。西向は串本町と合併する前に存在していた古座町の中心部で、駅周辺には串本町役場古座分庁舎(旧古座町役場)をはじめとする各施設もある。なお、古座町の中心部が大字古座でないのは、「古座」という町名が、1956年3月にその前からあった古座町と西向町および田原村が合併し古座町が誕生した際、古座川などの影響で知名度の最も高かった古座から採ったに過ぎないからである。
上記から伝わってくるのは、新たに誕生した古座町の中心部は旧西向町であり、旧古座町ではないということです。でも、これを鵜呑みにして良いのかと少々疑問を感じます。古座町、西向町、田原村が合併して新たな古座町が誕生したのは、今から56年前の1956年。そして、第1回のDID調査が1960年です。その当時から新しい古座町の中心は旧西向町だったのだろうか?。旧古座町が中心だったとは考えられないだろうか?。そんな思いが行ったり来たりしています。旧西向町と旧古座町の現況比較を下に記します。
1・ネットに公表されている路線価の最高地点は、平成21、22、23年分いずれも旧西向町ではなく旧古座町に位置します。変化の少ない地域ですから、平成21年以前も今と変わらず最高額の路線は旧古座町にあったと推測します。
2・現況において古座町には銀行が2行あります。しかし旧西向町には立地せず、2行とも旧古座町に立地しています。もし、56年も前から旧西向町の都市勢力が旧古座町を上回っていたのなら、銀行は旧西向町に移転していたでしょう。それなのに、今も旧古座町に店舗を構えているのを見ると、旧古座町の底力を感じます。
3・旧西向町と旧古座町の人口については、[80922]で白桃さんが1955年の数値、[80925] でIssieさんが1920年と1940年の数値を書いておられます。現況の人口を知りたいのですが、資料がないので小学校児童数を基に現人口に思いを巡らすことにします。2011年度の小学校児童数は西向小75人、古座小57人、田原小23人で、古座川右岸(旧西向町)が75に対し、左岸(旧古座町+旧田原村)が80になります。さらに、左岸の旧古座町には古座川町高池の町並みが連担していますから、それを旧古座町グループに取込むと左岸の数値はもっと大きくなります。
そんなこんなを考えると、右岸の旧西向町を都市「古座」の中心とするのは少し変かなと思えてきます。たぶん、右岸と左岸の市街地は拮抗しているのでしょうが、もし、都市「古座」の中心を探し当て、そこに杭を打てと言われたら、私は左岸の旧古座町大字中湊の紀陽銀行古座支店前の十字路に打ち込みたい。

[80925] Issieさん
合併前の旧3町村のうちで一番西の西向に役場が置かれたのも駅のもたらす町勢の差が反映しているようにも思うのですが,実際はどうなのか。
私も実際はどうなのか分かりませんが、本当は駅も役場も左岸の旧古座町に置きたかった。でも、地形的に敷地確保が無理だった。そんなわけで、農地が広がる右岸の旧西向町に建設されることになった。地形図を見ていると、そんな感じが涌いてきます。古座町役場(現:串本町役場古座分庁舎)がいつ現在地に建てられたのか知りませんが、以前は古座橋のたもと付近にあったようです。昭和57年発行の5万分の1には、そう描かれています。

[80928] YT さん
『昭和35年国勢調査の人口集中地区の中には,5,000人に満たないものもあるが,これは,人口集中地区の設定に当たって,昭和35年国勢調査人口ではなく,昭和34年10月1日現在の調査区設定時の推定人口を用いたためである。』
例えば山梨県韮崎市のDID人口は昭和35年に4,070人、昭和40年に3,479人となっています。5,000人以上という規定を大きく下回っています。しかも、35年、40年の2回とも下回っているのは、やっぱり変ですね。昭和40年の調査で規定人口を大きく下回っているDIDとして、山梨県韮崎市3,479人、佐賀県厳木町3,565人、群馬県安中市4,401人、徳島県鴨島町4,490人、富山県福野町4,555人、北海道歌志内市4,593人などがありますが、これもやはり,『人口集中地区の設定に当たって,昭和40年国勢調査人口ではなく,昭和39年10月1日現在の調査区設定時の推定人口を用いたためである。』となるのでしょうか?。
[80895] 2012年 5月 25日(金)20:10:31千本桜 さん
Re:鶯沢町の1960年のDID
[80553] 白桃さん
ポンヌフの野洲酒場で飲んでいたら
その酒場は、ちょっと疲れた男たちが飲みにくる、こんな感じの店でしょうか。野洲酒場であれ、ポンヌフやタイガーゲートのような華やかにネオン輝く都会で飲めるのは羨ましいかぎりです。私なんぞ、友人たちに誘われて村田町まで飲みに行ったのですが、店の隣は草が繁る農業用水堀と田んぼでした。さびしかった-。

[80846] 白桃さん
鶯沢のDIDは意外でした。でも、ここには細倉鉱山があったのですね。
初めて鶯沢町の細倉鉱山へ行ったのは昭和42年か43年のことでした。鉱山事業所の周りにはDID人口5,000人ほどの町並みが展開し、映画館もあったように記憶しています。ここは江戸期からずっと鶯沢村(昭和26年に町制)の一角でしたから、この町並みを鶯沢と呼んでも間違いではないのでしょうが、一般には細倉と呼ばれています。この細倉の町並みは南郷という大字に属し、細倉という名の大字はありません。大字の南郷は幾つかの小字に分かれますが、細倉という名の小字もありません。また、町は地籍とは別に、行政区という地域区分を設けていますが、細倉という名の行政区はありません。したがって、細倉という地名は旧村名、大字名、小字名、行政区名のいずれにも該当しない俗称になりますが、地元の人はどのように地名を使い分けているのか気になります。
細倉ってどんな町?と聞かれると答に困る(記憶が薄れてしまった)のですが、当時、宮城県北でDIDを形成していた若柳、佐沼、涌谷などとは明らかに異なる雰囲気でした。平坦地の少ない地形に形成された町ですから、どこか雑然としていました。中心性、拠点性のない町ですから、どこか沈んでいるように感じました。当時、細倉はDIDを形成しない栗駒町岩ヶ崎の都市機能に依存していました。DIDを形成した町が、DIDを形成しない町の都市機能に依存するって何か変だなと思ったものですが、最近はどうでも良くなってきました。

炭鉱も含め鉱業で成り立っていた地といえば、岡山県の柵原と吹屋しか知りません。
私は柵原も吹屋も行ったことがありません。ただ、この前、テレビに吹屋が映っているのを、ちらっと見ました。鉱業で成り立っていた町は、普通なら閉山するとぼろぼろの廃虚になるじゃないですか。それなのに、吹屋には裕福そうで立派な町並みが残っていますね。不思議に思いました。
柵原の全盛期はどんな町だったのでしょうね。手もとには昭和62年発行の5万分の1地形図しかないので、それを基に柵原鉱山全盛期の昭和30年当時を想像するしかありません。全盛期の鉱山従業者数から推測すると、柵原には細倉と同規模の町並みが展開していたと思われます。しかし、平地が少ないですね。どんなふうに家屋が張り付いていたのでしょう。近世村(後に柵原町の大字)の柵原、吉ヶ原、藤原、久木4地区に跨がって、その平地を埋めるように家屋が立ち並んでいたのでしょうか。でも、4地区とも結構急斜面の山と吉井川で分断されていますね。町の「へそ」を形成しにくい地形のようですが、実際どこなんですか?柵原の中心って。どうも、柵原ではなさそうです。吉ヶ原、藤原、久木のいずれかだと思うのですが・・・。答は「へそ」のない町だったりして。
[80418] 2012年 3月 21日(水)21:28:19千本桜 さん
村が単独で町制移行する際に改称した自治体
[80336] YTさんの記述に
好地村内石鳥谷
というのが出てきます。YTさんが話題にしている事柄とは関係がないのですが、常々関心をいだいていることを「好地村内石鳥谷」に絡めて書きます。

石鳥谷は好地村の内に形成された町場(宿駅)の名称ですが、後に好地に代わって自治体名にのしあがります。昭和3年、好地村は単独で町制を敷き、石鳥谷町に改称しています。単独で町制施行するのですから誰にも遠慮は要らず、そのまま好地町を名乗っても構わないと思うのですが、わざわざ石鳥谷町に改称したのはなぜでしょう。

花巻市には、この類がもう一ケ所あります。十二鏑村と土沢の関係です。土沢は十二鏑村の内に形成された町場(宿駅)ですが、後に十二鏑に代わって自治体名にのしあがります。昭和15年、十二鏑村は単独で町制を施行して土沢町に改称。単独で町制施行するのですから、そのまま十二鏑町を名乗っても構わないと思うのですが、あえて土沢町に改称したのはなぜでしょう。思うに当時すでに、地籍を持つ公称名「十二鏑」より、地籍を持たない通称名「土沢」の方が通りが良かったからではないかと推測します。

このような事例を見るにつけ、公称村名よりも通称町場名を自治体名に採択した例は多々あるものと考えます。下に、通称の町場名に由来して改称したと思われる自治体町を掲出します。数が多いので条件を付けて絞り込みます。

条件1:村が単独で町制施行する際に改称した自治体。(村が単独で町に移行するのに、あえて改称したのは何故だろうという単純な疑問から。)

条件2:明治の大合併が済んでからの明治、および大正年間に町制へ移行し改称した自治体。(明治・大正時代に町に成れたくらいだから、そこには町場形態の都市的集落が存在した可能性が高いと思うから。)

条件3:地籍上の村名になったことのない地名を町名に採択して町制へ移行し改称した自治体。(大原、韮崎、水窪、茶屋町、辻、浜、本渡、米ノ津は藩政時代にも公称村名になったことがない(はず)。村名でなければ、町場名の可能性があるから。)

改称年旧村名新町名現行自治体名
明治32中魚落村大原町千葉県いすみ市
明治25河原部村韮崎町山梨県韮崎市
大正14奥山村水窪町静岡県浜松市
明治29江島村茶屋町岡山県倉敷市
明治40井川村辻町徳島県三好市
大正7八本木村浜町佐賀県鹿島市
明治31町山口村本渡町熊本県天草市
大正12中出水村米ノ津町鹿児島県出水市

大原、韮崎、水窪、茶屋町、辻町、浜町、本渡、米ノ津は、その起源が宿場町であれ港町であれ在郷町であれ、都市集落だったと思うのですよ。好きな言葉じゃないけれど、近隣の村落を支配する力のある町場です。地籍のない通称だったけれど、重要な地名だと思います。中魚落、河原部、奥山、江島、井川、八本木、町山口、中出水など、地籍上の公称村名に取って代わる力があったのですから。
[80412] 2012年 3月 20日(火)00:55:51千本桜 さん
Re:東北で「し」と「す」は区別しないか?
[80406] 般若堂そんぴんさん
東北地方在住,あるいは東北地方出身の方に伺いたいのですが,「し」と「す」は,皆様の「脳内」で識別されている(いた)でしょうか?

私の同級生は、みんな識別していたと思います。でも、中には訛りの強い人もいました。たとえば、新田町は「すんでんまぢ」になります。しかし、その人とて新田町にルビをふる場合は「しんでんまち」と書いたはずですから、「し」と「す」は識別できていたと思うのです。

「し」と「す」と言えば、隣家のおばちゃん(大正末年ごろの生まれ。故人)を思い出します。

エピソード1
そのおばちゃんは庭で採取した蝦夷菊の種を袋に入れ、「あか」とか「むらさき」と書いて花色別に区分けしていました。その中に、「すもふり」と書かれた袋を見て、笑ってしまいました。おばちゃんは、霜降り模様の花が咲く蝦夷菊の種袋に、「すもふり」と書いていたのでした。

エピソード2
そのおばちゃんは夕飯の支度中に「ある調味料」を切らしたらしく、「すを少し分けて欲しい」と小皿を持って来ました。まだ新妻だった家内は、どうしてコップや茶わんでなく小皿なんだろうと不思議に思いながら、台所から「す」を持ち出して小皿に注ごうとすると、「す」でなく、「すお」が欲しいの・・・。なるほど、それで小皿を持って来たのか。今では懐かしい想い出です。

宮城県には栗原市の清水目(すずのめ)、大清水(おおすず)など、清水を「すず」と呼ぶ地名がありますね。南三陸町の清水浜や長清水も正式には「しずはま」「ながしず」ですが、地元の人は「すずはま」「ながすず」と呼び習わしているようです。
[80403] 2012年 3月 14日(水)23:24:55千本桜 さん
Re:「歳の差」と「都市の差」
[80399] 白桃さん
Aパターン、Bパターン、Cパターンいずれにおいても登別の評価が高すぎるように感じます。私としては稚内、滝川、網走より登別の方が下位のイメージがあります。
[80331] 2012年 2月 25日(土)12:28:24千本桜 さん
謎解きはランチのまえに
[80330] 白桃さん
謎解きはブレックファーストのまえで
花巻の謎解きは御正解のようです。私も黒沢尻の人口を絡めて全く同じことを考えておりました。町分と里分を併せると黒沢尻村の人口は7,965人。あの時代、黒ちゃんが花ちゃん、水ちゃん、一ちゃんより人口が多かったとは考えにくいから、これはおかしいと・・・。それにしても激しく火花を散らす花巻、黒沢尻(北上)、水沢(奥州)、一関の都市間競争は江戸時代から続いていたのでしょう。花ちゃんは名前から受ける印象は優しそうですが、なんのなんの戦士のような町だと私は思っています。花巻と里川口は明治22年の町村制施行でも合併しませんでした。これも底辺にあるのは花巻と里川口の都市間競争意識でしょう。
[80301] 2012年 2月 17日(金)23:47:41千本桜 さん
丸亀
88さん
[79657]で仙台区の川内追廻を冠称する町々(川内追廻西町、川内追廻山下町など)が軍用地になり、町が消滅したことを書きました。88さんは既にご存知かもしれませんが、これと同じことが香川県丸亀でも起きていたようですね。角川地名大辞典には丸亀の一番丁, 二番丁, 三番丁, 四番丁, 五番丁は明治7年に軍用地となって町が消滅したと書いてあります。当然、丸亀町成立時(明治23年)には一番丁~五番丁は存在しなかったはずですが、 市区町村変遷情報 市制町村制施行時の情報 【香川県】では、丸亀町を構成する町のリストに一番町, 二番町, 三番町, 四番町, 五番町の名を載せています。実際のところ、県令などの布令は一番丁(町)~五番丁(町)の消滅をどのように扱っているのでしょう。また、角川地名辞典では「丁」を用い、市区町村変遷情報では「町」を用いているのも気にかかりますが、丸亀あたりの人は「丁」と「町」の違いを気にしないのでしょうか。
[80290] 2012年 2月 14日(火)06:41:40千本桜 さん
仙台区の町の形
郡区町村編成法で仙台区が生まれました。仙台区を構成する町々は本当に“自治体”として機能していたのだろうか。もしかして名目だけの“自治体”ではなかったのか?などと、考えが行ったり来たりして迷っています。この考えは仙台区を構成する町の形からきています。文章より図形の方が伝えやすいので図化してみました。仙台区の町の形

【仙台区の町の形・1  大町、肴町、立町、国分町、南町編】
藩政期の町人町の一部を図化しました。町人町には序列があって、その筆頭は大町です。大町の町域は東西に長く延びています。それを突き抜けて南北に走るのが奥州街道です。奥州街道沿いには国分町や南町が展開しますが、大町と奥州街道の交点は大町の町域に含まれます。道路の交点がどの町に含まれるかに着眼し、郡区町村編成法時代の仙台区の町を考えたいと思います。図に描いた大町、肴町、立町、国分町、南町はどれも江戸期からの町人町です。こういう町を市廛というのでしょう。自治権が与えられていたそうです。黄色で着色した肴町を見てください。東西に走る肴町のメイン道路に対し、南北に走る道路が3本交差しています。交点はどれも肴町の町域に含まれ、肴町はほかの町によって分断されることはありません。立町も国分町も同様です。図形からは自治権を持った町としてのまとまりが感じられます。これらの町は郡区町村編成法により仙台区を構成する町になりました。仙台区を構成する町はそれぞれが自治体ですと言われれば、そうですねと納得できる町の形をしています。しかし、下の図に掲げる南町通、柳町通、北目町通、北二番丁、北三番丁などはどうでしょう。それそれが独立した自治体だと言われても、即座には納得できない形をしています。

【仙台区の町の形・2  南町、柳町、北目町、南町通、柳町通、北目町通編】
図の左手に奥州街道が鈎型になって走っています。街道に沿って淡黄色で着色した南町、淡青色で着色した柳町、淡赤色で着色した北目町が連なっています。南町、柳町、北目町とも江戸期からの町人町でした。図の中を東西に3本の「通り」が走っています。東から南町に向かう「通り」が南町通。柳町に向かう「通り」が柳町通。北目町に向かう「通り」が北目町通です。いずれも「通り」の名称ですが、同時に「町」の名称でもあります。南町通の町域を濃黄色、柳町通の町域を濃青色、北目町通の町域を濃赤色で着色しました。3町とも形が変でしょう。例えば、南町通という「通り」は途中で東五番丁、東四番丁、東三番丁、東二番丁、東一番丁と交差しながら南町に向かいますが、交差部分は南町通という「町」ではなく、東五番丁や東一番丁という「町」になります。したがって、南町通という「町」は東西2つに分断されます。このように分断された南町通という「町」は、一体となって1つの“自治体”を運営できたのだろうか。はなはだ疑問です。柳町通という「町」、北目町通という「町」についても同じことがいえます。

【仙台区の町の形・3  北一番丁、北二番丁、北三番丁、北四番丁】
赤色で着色した北三番丁の町域に注目します。元来、北三番丁とは東端の宮町から西端の土橋通に至る「通り」の名称で、延長は約2,500mにおよびます。この「通り」に面した土地が北三番丁と呼ばれる「町」にあたりますが、形が変ですね。南北に延びる14本の「通り」によってバラバラに分断され、まとまりがありません。例えば、北三番丁という「通り」と堤通という「通り」の交点は堤通という「町」に含まれ、北三番丁という「町」には含まれません。同じように奥州街道との交点は二日町という「町」になり、木町通との交点は木町通という「町」になります。このように分断されてまとまりをなくした北三番丁という「町」は、一体となって一個の“自治体”を運営できたのだろうか。ここに描き出した変な町は全体の一部です。仙台には変だなと思える町がほかにも数多くあります。仙台と同じように城下町の歴史を持ち、郡区町村編成法で区制を敷いた名古屋区・金沢区・広島区・和歌山区・福岡区・熊本区・岡山区には、これに類似した変な町はございませんか?
[80283] 2012年 2月 12日(日)20:47:34千本桜 さん
門前
[80271] 88 さん
「輪島市門前町」の件
私には88さんの主張が基本的には理解できます。自治体+大字+地番、あるいは自治体+大字+小字+地番で住所は成り立ちますからね。普通なら市制町村制以降にできた門前町を住所に残さなくても良いわけです。住所に市町村合併の履歴を背負わせて、長い住所にするのはいかがなものかと思うからです。でも、門前は普通でない要素を含んでいるみたいです。
マピオンで門前の地図を一瞥して、うむむむ・・・と思いました。この複雑な大字界の陰に何か隠れているぞという感じ。地籍上の走出、鬼屋、門前、清水などに跨がって形成された町並みには、地籍名とは別に、生活空間としての町場名があるはず。その町場は「門前」と呼ばれていたのではないだろうかと推測します。たぶん、走出や清水という地籍の村の住民は、江戸期の頃より「門前」という町場の住民感覚で暮らしていたのではないか。消せないほどに「門前」という地名が染付いているのではないかと思うのです。走出、鬼屋、門前、清水などをひっくるめて「門前」と呼ぶのはデッチあげではなく、それらの地籍に跨がって形成された一塊の町場を呼びあらわす必然性から生まれたものではないかと私は推測します。近世村名「門前」と町場名「門前」が共存し、町場名「門前」には走出村や清水村の土地も含まれていたことが複雑さの原因かと考えました。間違っていたらごめんね。
[80282] 2012年 2月 12日(日)10:30:14千本桜 さん
いろいろ
[80222] 白桃さん
かつて造船業が盛んで1975年に人口ピークを迎えた瀬戸内海に面する市はどこでしょうか?
相生市のほかに旧因島市も造船業が盛んでしたね。因島市の場合は1970年に人口ピークを迎えたようですが、いずれにしても1970年代の初めごろが造船業都市の最盛期だったのでしょう。このように産業別に人口ピークを打ち出してもらうと勉強になります。続けて別種の産業で同じことを打ち出してもらえたらありがたいのですが、お願いできますか。たとえば繊維産業都市の人口ピークとか・・・。でも繊維産業は難しいかな?。絹織物とか、化学繊維とか、ニットとかに細分されて、それぞれのピークが異なるかもしれないし。遠洋漁業とか炭坑業とか、どんな産業でもいいです。白桃さんにお任せいたします。

[80237] 白桃さん
宮城県より2012年1月1日現在の推計人口が公表され
震災後は人口に触れることが怖くなってしまった私です。大河原町の人口が増えても、なんだか気持ちが重いのです。でも元来、人口統計が好きだから今朝は少し人口に触れてみます。平成22年の国勢調査結果を見ると、東北地方の県庁所在都市は仙台市を除いて全て人口が減少。郡山市や北上市のように元気だった都市も人口減少に突入して寂しい限りです。東北地方の広域市町村圏の中心都市に値する都市(ここでは、税務署、裁判所が所在する都市)の中で、人口が増えたのは仙台市、旧古川市(現・大崎市)と大河原町だけのようです。大河原町では町長も町の人口増加と中心地性の高まりを誇りにしているようです。私もそのことに同調なのですが、人知れず密かに怖れていることがあります。それは大河原駅の奇異に思えるほどの乗車客減少です。人口減少で乗車客も減っている白石駅よりも減少幅が大きいのです。10年前は明らかに乗車客が少なかった船岡駅と肩を並べるまでに落ち込んでいます。それまで大河原駅の勢圏内にあった村田蔵王から仙台行きの高速バスが出るようになり、大河原駅の中継機能が不要になったことが原因かと推測します。都市戦略上で見落とすことのできない重要なことだと思うのですが、のほほんスーパータウンでは、「都市戦略」などと口にすると笑われるのであります。下に2000年~2010年の乗車客数と10年間の減少数、減少率を掲げます。
駅名2000年2002年2004年2006年2008年2010年減少数減少率
白石3,590人3,324人3,317人3,104人3,030人2,897人693人19.3%
大河原4,052人3,856人3,786人3,574人3,435人3,218人834人20.6%
船岡3,234人3,224人3,193人3,170人3,128人3,125人109人3.0%
槻木3,478人3,310人3,224人3,148人3,039人2,826人652人18.7%


[80256] 白桃さん
私が見たYou Tubeのバック画像は仙南の古都?、白石ではなく、秋田県仙北市角館のように思われるのですが・・・。
♪「恋して仙南」がYou Tubeで聴けるとは知りませんでした。早速、You Tubeで聴いてみました。一番は丸まる船岡のことを歌い、大河原に関しては♪「香るハーブの大河原」だけで軽く流す。このアンバランスな作詞感覚に喝!ですね(笑)。私も瞬間的にバック画像は仙南の古都・白石かな?と思いましたが、結局、どこなのか特定できませんでした。
青森県人口第3位の市以外に思いつきません
正解です。弘前市です。弘前は私の好きな都市でして、弘前の街路形状をベースに、あれこれ手を加えては勝手に都市計画し、架空都市を描いて楽しんでいます。また、弘前はリトルさんの奥様の出身地でもありますね。

[80266] 白桃さん
今日で一つ歳をとってしまうのでしたね
還暦おめでとうございます。後は喜寿に向って邁進するのみ!。ガンバレ白桃さん!。
今はなき玉島市(1952.1.1)で、その次は、1952.4.1の大船渡、茂原、魚津、中津川、西脇、笠岡、柳川、阿久根です。以上の8市に加え、安城、氷見、益田が本年「還暦」を迎える市になります。
こうして同期生を並べると、阿久根だけが浮いて(実は沈んで)見えるのは私だけでしょうか。人口ではなく、都市機能集積の点から見て、1952年当時に少々背伸びして市制を敷いたように感じられます。
[80253] 2012年 2月 5日(日)19:29:16千本桜 さん
歌謡地理考
スーパータウンのスナックで還暦すぎのオジ様とオバ様が好んでデュエットするのが♪「恋して仙南」。地域限定のロングヒット曲です。歌い出しの♪「チュッチュチュッ チュ…」が少し嫌らしいけど、白石、角田、村田、遠刈田温泉など仙南各地の地名が盛り込まれていて楽しい。仙南というからには、代表都市・白石で始まり、中心都市・大河原で締めくくりたいのだが、この歌は船岡で始まり七ヶ宿で終わるのである。1番は船岡公園でデートした想い出を歌い、2番は「夢を飛ばそか宇宙のはてへ ロケット眺めて角田から」、「夏は阿武隈舟下り 商家名残りの斎理屋敷は丸森町よ」と続く。仙南地域のことを知らないと、「ロケット眺めて角田から」と言われても何のことやら意味不明でしょうね。ローカルソングの面白いところです。スーパータウンのママの作詞だから、けなすつもりはありませんが、1つだけ注文つけさせてもらえるなら、「丸森町よ」の「町」をどうにかして欲しい。流行歌に登場する地名は数々あれど、その地名に「市」や「町」をくっつけてしまうと、とたんに興醒め。事務的になって、心の機微を表せなくなるようだ。「そして神戸」は良いけれど、「そして神戸市」はなじめない。「東京だョおっ母さん」は良いけれど、「東京都だョおっ母さん」はなじめない。

なぜか、隠れた名曲が好き。さほどヒットしないで終わってしまった歌への愛惜か。いま、はまっているのが美樹克彦♪「回転禁止の青春さ」と佐々木新一♪「リンゴの花が咲いていた」。「回転禁止の青春さ」は、回転禁止と言われても、つい回転したくなるノリの良さ。体がひとりでに動き出すが、テンポもリズムもズレズレになっているのは明らか。歌い終わった後で恥ずかしくなる。昭和41年発売の「リンゴの花が咲いていた」は、これぞ青春叙情歌の名曲。すばらしい!。この歌には具体的な都市名は出てきませんが、ある都市をイメージさせる詞が出てきます。そこでクイズです。次の歌詞から連想する都市をお答え下さい。
お城が空に 浮いていたよ お岩木山は 月だったよ
(中略)
津軽は夢の 津軽は夢の 国だったよ
[79929] 2012年 1月 4日(水)08:07:30千本桜 さん
長久手町から長久手市へ
あけましておめでとうございます。

[79915] オーナー グリグリさん
大字や字の表記をなくした瞬間に、もはや大字であるか字であるかなどは、必要性も意味もなくなると考えるのが妥当なのでしょうか。

同じ小字起番地帯である東北地方の某町の事例からして、一般住民は、もともと大字と小字を区別することに必要性も意味も感じていないのが実状です。基本的に住所に無関心です。しかし、住所政策に携わる人は「必要性」はともかく、大字と小字の「意味」を忘れてはならないはずです。それなのに、「意味」を忘れた(あるいは、最初から意味を知らない)人たちが住所政策に携わっているから、こわいのです。
ついさっきグリグリさんの記事を拝読したばかりなので、長久手町に対する事前知識はあまり持ち合わせていませんが、即席で長久手町の住所変更の背景にあるものを推測してみました。

(ア) 大字長湫 ・・・「長湫」を表記しなくなります。
大字長湫を表記しなくなる理由を探ります。長久手町には、町村制以前の村を引き継いでだ大字長湫、大字岩作、大字前熊、大字熊張の4大字があります。このうち大字長湫の区域は、土地区画整理が進み、字名地番の変更が行われ、大字長湫を付さない字(例えば字荒田、字井堀、字杁ヶ池など)が多数出現しています。それまで長久手町大字長湫字荒田を名乗っていた土地が区画整理されて都市化すると、大字長湫を付さずに長久手町字荒田になるわけです。このような住所政策を施すと住民にどのような感情が芽生えるかが重要です。同じ字荒田の住民でも土地区画整理から外れた土地の住民は、従来通り長久手町大字長湫字荒田と書かなければなりません。なぜ我々だけが大字長湫を付して面倒な住所を書かなければならないのか、と疑問をいだくようになります。そして、大字長湫を付す土地は都市化から取り残された土地という疎外感をいだくようになります。東北地方の某町では、このことが一因となって、とんでもない住所変更が企てられましたが未遂に終わっています。いずれにしても、大字長湫を付す土地と付さない土地とが隣接する複雑さを解消するために、大字長湫の区域から「長湫」の名称を取り払うことにしたのだと推測します。

(イ) 大字岩作 ・・・「岩作」と字名を併記します。
大字岩作の区域に従前どおり「岩作」を付す理由を探ります。長湫地区と異なり、岩作地区は地域変化が少なく、すべての小字が昔どおり岩作という大字名を付してきましたから、あえて岩作を消す必要がなかったものと推測します。地域変化が少ないとはいうものの、岩作地区でも土地区画整理が行われています。しかし、対処のしかたが長湫地区とは異なっています。長湫地区では土地区画整理が行われると大字長湫を省いてしまいますが、岩作地区では土地区画整理後も大字岩作を省きません。この大字岩作字落合・大字岩作字長筬・大字岩作字西島)の一部は、岩作第一土地区画整理事業で新しい形状の土地になったのに、住所は大字岩作字落合・大字岩作字長筬・大字岩作字西島のままです。

(ウ) 大字前熊 ・・・「前熊」 と字名を併記します。
大字前熊は、さらに地域変化の少ない地区です。大字長湫地区とは異なり、大字名を付さない字は発生していません。地区住民は、前熊という大字名を自分たちのものとして自然に受け入れていることでしょう。住所から前熊という名称を外してくれという人はいないと思います。前熊という名称を省いたら、ここはどこなんだと、戸惑うだけです。

(エ) 大字熊張 ・・・「熊張」を表記しなくなります。
大字熊張を表記しなくなる理由を探ります。長久手町の4大字のうち、長湫、岩作、前熊は江戸期の村(もっと以前から村だったかも知れない)を引き継いだものですが、熊張は明治10年(1877)に大草村と北熊村が合併して成立した村のようです。どうも、今でも大草北熊が地区名として根強く生きているようで、そのぶん熊張の影が薄いのではないかと推測します。それは、この町議のこれこれからも読み取れます。この町議は岩作、前熊、大草、北熊を住所地名として残すように頑張ったようですが、受け入れてもらえなかったようです。同情します。この町議は「行き先を尋ねる場合、岩作、前熊、大草、北熊のどこと聞かれれば、おおよその見当がつきますが、字名だけでは数が多く見当がつきません。実生活では目次の無い本、ファイルの無いデータのようです。」と書いています。まったく同感です。
それにしても空しくなるのは、長久手町は市に移行するにあたり、住民アンケートを行っていることです。住居表示実施で新町名を決めるのならいざしらず、大字をどうするかと住民に問いかけて何になるんですか。こんなことは、行政担当者が過去、現在、未来、町域全体、他市町村の実態などを見据えて決めれば良いことです。そのためには、それなりの勉強しなければなりませんが、お給料を貰っているのですから当然のことです。岩作の住民に「岩作」という地名を残すか、熊張の住民に「熊張」という地名を残すかと個別にアンケートをとっても、町全体のバランスを考えた答など返ってきません。一般住民に、これを求めるのは酷です。

(オ) 大字の付かない地区 ・・・変更ありません。
大字の付かない地区とは、もともとは大字長湫に属していた土地で、土地区画整理によって大字長湫を付さなくなった土地です。念のために書きますが、住居表示実施で大字長湫が省かれたわけではありません。地番区域のままです。一つの考えとして、この区域に再び「長湫」という大字名を付してやれば、問題なく長久手町から長久手市に移行できた可能性もありますが、いったん省いたものは元に戻さないのが役所のやりかたなんでしょうね。

このような大字問題を考えると、胸が痛みます。国は自治体の自主性にゆだね、自治体は住民主体などと体裁のいいことをいう。これでは国全体として見た場合、ちぐはぐな住所が続出するだけです。何度も言いますが、大字の扱いをどのようにするかを住民に決めさせるのは酷です。
[79788] 2011年 12月 29日(木)23:35:42千本桜 さん
ここはどこ?解答
問題3(半島名を答えてください)

解答3


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