都道府県市区町村
落書き帳

トップ > 落書き帳 >

メンバー紹介

>
BANDALGOMさんの記事が5件見つかりました

… スポンサーリンク …


記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[75431]2010年7月2日
BANDALGOM
[75377]2010年6月20日
BANDALGOM
[75362]2010年6月16日
BANDALGOM
[75319]2010年6月7日
BANDALGOM
[75304]2010年6月6日
BANDALGOM

[75431] 2010年 7月 2日(金)14:49:04BANDALGOM さん
東南西北中
[75430]中島悟さん
熊本市の区割りは他の70万政令市に比べてかなり整っている感じがします。
やっぱり最低5区はないと見栄えがしませんね。
なかなか話題にならないこともあり、しばらく関連サイトを見ていませんでしたが、4月の第8回・第9回行政区画等審議会で「5区案」が承認され、市長に答申されていたのですね。

さらに5月31日には、5区案が正式決定したとのことですが、6区案では旧植木町が1区、旧富合・城南両町で1区となり、ともに浜松市天竜区より人口が少ない区になるわけで、5区案が妥当だろうと思います。

区名の話題が出ませんが、もうこれは北区西区中区東区南区で決まりでしょうか。
区割りの地図を見ていると、「東南西北中」でいけそうですね。
ただ、人気の「緑区」を入れるとすれば、A区でしょうか。

E区内に緑川が流れているので、E区を「緑川区」か「緑区」としていいかもしれませんが、植木のスイカのイメージもあり、A区を「緑区」とする方がしっくりくるように思います。
[75377] 2010年 6月 20日(日)17:35:42BANDALGOM さん
合併情報
[75375]グリグリさん

更新作業お疲れ様です。
早速ですが、[75340]アルバトロスさんからの情報「南足柄市が小田原市との先行合併を希望」が抜けております。

ソースはこちらです。

それと、松江市・東出雲町合併協議会の合併期日、「2010年8月1日」では、もう2カ月もない中で市町議会・県議会の議決、官報告示の手続きを経なければならず、いくら住民投票を経たとはいえ拙速すぎないかとの印象を持ちましたが(大船渡市・三陸町や奥出雲町、長浜市(今年の2次合併)などの実例はありますが・・・)、実は1年ずれています。

正しくは平成23年(2011年)8月1日です。

ということで、情報追加・修正お願いします。
[75362] 2010年 6月 16日(水)22:40:19BANDALGOM さん
韓国の市郡合併
[75356]mul-saさん
[75360]YASUさん

韓国では1995年と98年に市郡の大合併が行われましたが、その際に多くの市は、合併前の市の名称を引き継いでいます。
市と郡の名称が同じだったケースが少なくないですが、市と郡の名称が違っていても、市の名称を取ったところが多いです。

しかし、益山市のほかにも、郡の名称を取ったところが9市あります。

合併前の市合併後の市旧市部の中心駅(空欄は鉄道なし、または旧市部に駅なし)
京畿道●金市南楊州郡南楊州市中央線陶農駅
忠清南道温陽市牙山郡牙山市長項線温陽温泉駅
大川市保寧郡保寧市長項線大川駅
全羅北道井州市井邑郡井邑市湖南線井邑駅
全羅南道東光陽市光陽郡光陽市
慶尚北道店村市聞慶郡聞慶市慶北線店村駅
慶尚南道長承浦市巨済郡巨済市
三千浦市泗川郡泗川市
忠武市統営郡統営市
※●はさんずいに「美」

これを見ると、益山市と同じ全羅北道にある井邑市も、旧井州市にある駅が「井邑駅」に改名されていることが分かりますが、他の道にはこうした例は存在しません。
全羅北道の2市だけが、中心駅の駅名を改称したという点で興味深いです。

牙山市には現在、長項線の牙山駅がありますが、2007年に開業した、KTX天安牙山駅との乗り換え駅です。

光陽市には慶全線の光陽駅がありますが、これは合併前の光陽郡光陽邑にあり、中心部の旧東光陽市からは離れています。旧東光陽市は製鉄所とともに建設された計画都市です。
(「邑」は日本の町に相当するもので、村に相当する「面」もありますが、韓国では郡が自治体で、郡庁や郡議会、公選首長の「郡守」がいます。)

聞慶市は廃線になった聞慶線(炭鉱線)に聞慶駅がありましたが、これも合併前の聞慶郡聞慶邑にありました。

当時は群山-長項間の湾の部分が接続されていなかったので、再訪することとなるでしょう(笑)
長項線は牙山市の新昌駅まで電化され、ソウル駅から日立製の電車特急が乗り入れるようになったので、これと合わせるのも一興ですね。

市名ではなく郡名(広域地名?)を継承したあたり、合併にあたっての事情があるのでしょうか?
95年の大合併の時には、住民投票が行われており、その結果が市名にも反映されたものと記憶しています。
98年に合併した全羅南道麗水市・麗川市・麗川郡の場合は、95年の大合併時に住民投票で反対多数となり、何度目かの正直で合併に漕ぎ付けました。

また、同道木浦市と務安郡の合併は、何度も住民投票をやっても、反対多数で合併に至りませんでした。
[75319] 2010年 6月 7日(月)23:01:52BANDALGOM さん
東習志野
[75317]伊豆之国さん
習志野市/船橋市習志野・習志野台・西習志野
これが、只今落書き帳を賑わせている「自治体越え地名」の仲間に果たして入るのかどうか?ということ。
Issieさんが述べられている通り、「習志野」は現在の習志野市・船橋市・八千代市・千葉市花見川区にまたがる広域地名であり、現在の習志野市はその一部にある津田沼町が、幕張町の一部を編入して改称したにすぎないわけで、これを「自治体越え地名」に入れるのは微妙ではないかと・・・。

ただ、Issieさんの[804]にもあるように、習志野市に「東習志野」があり、「船橋市習志野」と隣接、さらに「習志野台」や「西習志野」へもつながっています。

従って、習志野市のうち「東習志野」は確実に「自治体越え地名」の仲間に入るわけですが、問題は旧津田沼町(+旧幕張町の一部)である習志野市ですね。
グリグリさんのご判断に委ねるしかないことになりますが・・・。
[75304] 2010年 6月 6日(日)16:38:49BANDALGOM さん
丸山
[75298]グリグリさん
船橋市丸山/鎌ケ谷市丸山は直接関係ないとされていますが、明確に関係ないと言える何かがあるのでしょうか。これだけ近接していると関係あると考える方が妥当のような気がします。
船橋市丸山は、ウィキペディアの記事によると、昭和12年まで法典村に属していたところで、15年に「丸山町」と命名された後、51年に住居表示が実施され、「丸山1~5丁目」に変わったとのことです。

私が生まれてから小学2年まで住んでいた所の目と鼻の先、車でしょっちゅう通ったり、父親と散歩に行ったりしたところですが、記事にある通り、確かに「丸い山のように見える台地」にあります。

一方、鎌ケ谷市丸山は、まだ私が鎌ケ谷市民だった昭和56年頃に住居表示が実施されたと聞いていましたが、中学1年の時、部活の練習試合に行った時に通りました。
ここもまた、鎌ヶ谷駅から「丸山」を経て、目的地の学校へ着く直前に坂を下っていった記憶があり、台地にあるといえますが、その時たまたま目に入った家の表札には、「鎌ケ谷町鎌ケ谷」と書いてあったのを覚えています(市制施行から15年たっていましたが・・・)。

つまり、鎌ケ谷市鎌ケ谷の一部だったところで住居表示が実施されたもので、その辺の歴史の違い、また近接してはいるものの、船橋市丸山との地形的なつながりも薄いという印象から、「直接関係ない」と書いた次第です。
ちなみに、両者の間にある「東道野辺」のうち、東武野田線の車窓から見えるところは、いわゆる谷津田地形です。

ただ、船橋市丸山が「江戸時代延宝年間に新しく開かれた新田集落であり、藤原と同様に行徳と深いつながりがある」という記述からすると、鎌ケ谷市丸山も同じく新田集落で、両者とも小字として存在していた可能性はあり、確かに「直接関係ない」とは言い切れないかもしれません。

検索してみたら、こんな記述が出てきました。
私は千葉県北西部に住んでおりますが、すぐそばに丸山という飛び地があります。丸山は船橋市ですが、周囲を鎌ヶ谷市に取り囲まれております。
(中略)17世紀に入り、丸山に入植する人が現れ開墾が始まりますが、先に発展した周囲の村々が次々と合併していく中、丸山のみ取り残される形となりました。
20世紀に入り、丸山は鎌ヶ谷市には編入されず、船橋市に編入されました。

これに対するレスとして、
境が決められた当時の両市町村の力関係で決まった例です(ここは調べました)。明治22年当時、鎌ヶ谷村と(現船橋市)法典村とでは、鎌ヶ谷村の方が強かったのでしょう。 稲作ができる馬込沢までを鎌ヶ谷村が主張しましたが、丸山地区は、行徳と深い関係があったらしく、推測ですが南側に残りたかったようで、こうなったようです。 
とのことですが、これが事実だとすると、鎌ケ谷市丸山(鎌ケ谷市鎌ケ谷の字丸山?)も行徳と関係がある新田集落だったとして、ここだけが鎌ケ谷に編入されたというのは、謎として残るところです。

生まれ故郷のことでもありますし、手がかりを求めて、近く行ってみようと思います。


… スポンサーリンク …


都道府県市区町村
落書き帳

パソコン表示スマホ表示