都道府県市区町村
落書き帳

トップ > 落書き帳 >

メンバー紹介

>
千本桜さんの記事が20件見つかりました

… スポンサーリンク …


記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[101489]2021年3月29日
千本桜
[101480]2021年3月22日
千本桜
[101479]2021年3月21日
千本桜
[101472]2021年3月16日
千本桜
[101463]2021年3月11日
千本桜
[101430]2021年2月28日
千本桜
[101428]2021年2月27日
千本桜
[101425]2021年2月25日
千本桜
[101411]2021年2月21日
千本桜
[101391]2021年2月9日
千本桜
[101350]2021年1月26日
千本桜
[101332]2021年1月22日
千本桜
[100873]2020年12月6日
千本桜
[100866]2020年12月2日
千本桜
[100855]2020年11月24日
千本桜
[100101]2020年8月14日
千本桜
[100066]2020年8月6日
千本桜
[100053]2020年8月1日
千本桜
[100032]2020年7月26日
千本桜
[100029]2020年7月25日
千本桜

[101489] 2021年 3月 29日(月)11:39:56千本桜 さん
大日本國東山道陸奥州驛路圖や仙台藩の商業統制
[101486] ekinenpyouさん

(表記ルール明細は)必要であれば調べてみますが、
国絵図の図式規定を知りたいと思っていますが、私は検索が下手でお目当のものに辿り着けません。国絵図読解事典なるものがあることには辿り着きましたが、本年2月に発行されたばかりで県の図書館にも置いていないようです。ekinenpyouさんに大きな負担がかからない範囲で調べることができましたら是非お願いします。

大日本國東山道陸奥州驛路圖という資料に金ヶ瀬宿※10丁24間とあり、(計測距離と)極めて近い値になっているようです。(この距離が当時の東西木戸間距離?)
こちらのブログに詳細解説がありますが、(増補行程記のように)タッチの異なる写し?と思われる2点が存在しいずれもネット閲覧できます。(金ヶ瀬宿が描かれている箇所を示しておきます) 筑波大学附属図書館の日本國東山道陸奥州驛路圖 3・青森県立図書館の大日本国東山道陸奥州駅路図(20コマ)
東山道陸奥州駅路図は3種とも初めて目にしました。吉田初三郎の鳥瞰図を思い起こさせる素晴らしい鳥瞰図だと思います。初めて見るものなので新たな疑問が湧いてきたりして、かなり面白いです。疑問の1つは、白石驛と金ヶ瀬驛の間にある「宮驛」を「大宮驛」と記していることです。別の資料では「刈田宮」と表記しているのを目にしたことがありますが「大宮」という表記は初めてです。本当に「大宮驛」と称していたかは疑問ですが、新鮮な驚きであるのは確かです。このような目する機会の少ない資料をリンクしてくださるekinenpyouさんと、その場を提供してくださっているグリグリさんにリスペクト申し上げます。

[72228]千本桜 さんを拝読すると(金ヶ瀬には)大河原のように市日記載が見あたらないことから
商業活動許可は出ていない(広義の)町場(に準ずる)領域だったということになるのでしょうか。
※例えば(金ヶ瀬より戸数の少ない)槻木は市日記載あり?
だいぶ以前の書き込みにも目を通して頂きありがとうございます。その記事は「宮城県史 第6章 農民支配と商業統制」を基にして書きました。仙台領南部で商業活動が許された町場は藩政中期において、岩沼・亘理・村田・角田・川崎・金津・金山・船岡・丸森・大河原・白石の11町だったようです。また、後に槻木も加わり、さらなる後に金ヶ瀬にも市が立ったと、何かの本に書いてあったように記憶しているのですが、曖昧な記憶で文献名も忘れてしまいました。金ヶ瀬は褌町で細長い町場を形成していましたが、在に当たる村落が少なくて中心性に欠けていました。
少し余談になりますが、地理用語・歴史用語・社会用語で「宿・驛・町・街・まち・マチ・市街」という言葉をどのように解釈し、どのように使い分けしたら良いのやら迷うことがありますね。金ヶ瀬を表す場合も、東山道陸奥州駅路図は接尾辞に驛を用いて金ヶ瀬驛とし、安永風土記は町を用いて金ヶ瀬町としています。
[101480] 2021年 3月 22日(月)00:59:21千本桜 さん
Re:白色の日記念・クイズ2題
[101468] 伊豆之国さん
【問A】:岐阜県白川町、佐賀県白石町(想定解数:5町、該当しない町:千葉県白子町)
一見したとき答えはアソコかな?と気がついたのですが、ヒントを見ているうちに訳が分からなくなりました。なぜ白石市、白馬村、旧白鳥町が該当して、白山市、白川村が該当しないのか皆目見当がつきません。でも、こんな夜遅くまで悩んでいてもしょうがないから誤答覚悟で答えます。答えは和歌山県白浜町。間違っていたらかなり恥ずかしいけれど‥‥。
[101479] 2021年 3月 21日(日)23:52:02千本桜 さん
正保・天保国絵図は宿駅と村をどのように表記したか
[101449] ekinenpyou さん
正保・天保国絵図などいろいろ調査していただきましてありがとうございます。多謝!
国絵図から読み取れる柴田郡内の宿駅は11宿ですが、もう1宿、船岡宿というのがあります。船岡は要害(城下町)として知られていますが、奥州街道から外れているため宿駅としての認知度は低いようです。しかし柴田町史 通史編1は次のように書いています。
宿駅という言葉は一般に町場とほとんど同義語として用いられる。舟岡は幹線街道である奥州街道からはそれるが、枝分かれした脇往還亘理道の宿駅という一面も有していた
そこで、船岡宿を含めた柴田郡内の12宿駅が正保・天保国絵図ではどのように表記されていたかを一覧表にしてみました。

宿駅名藩政村名正保国絵図に表記された名称天保国絵図に表記された名称M22町村制現行自治体
金ヶ瀬宿平村金ヶ瀬宿と平村がある平村があり平村之内金ヶ瀬宿もある金ヶ瀬村大河原町
大河原宿大河原村大河原宿があり大河原村がない大河原村があり大河原宿がない大河原町大河原町
船迫宿船迫村船迫宿があり船迫村がない船迫村があり船迫宿がない槻木村柴田町
槻木宿入間野村入間野宿と記され槻木宿がない入間野村があり入間野村之内槻木村もある槻木村柴田町
船岡宿船岡村船岡村があり船岡宿がない船岡村があり船岡宿がない船岡村柴田町
村田宿村田郷村田宿があり村田郷がない村田郷があり村田宿がない村田村村田町
菅生宿菅生村菅生村があり菅生宿がない菅生村宿とある富岡村村田町
碁石宿支倉村支倉村と支倉村之内碁石村がある支倉村があり支倉村之内碁石宿もある富岡村川崎町
小野宿小野村小野宿があり小野村がない小野村があり小野宿がない川崎村川崎町
川崎宿前川村前川村と前川ノ内川崎宿がある前川村があり前川村ノ内川崎宿もある川崎村川崎町
野上宿今宿村今宿と記され野上宿と今宿村がない今宿村があり今宿村之内野上宿もある川崎村川崎町
笹谷宿今宿村今宿ノ内笹谷宿があり今宿村がない今宿村があり今宿村之内笹谷宿もある川崎村川崎町
宿駅と村は別物だと思うのですが、国絵図は宿駅と村を同一視しているように感じました。図式規定が付されておらず作者の意図が分かりませんが、例えば正保国絵図には大河原宿があって大河原村はありません。対して天保国絵図には大河原村があって大河原宿がありません。大河原宿を記載しても大河原村を記載しなければ、宿場の有無は伝わっても村全体を表したことにはならないし、大河原村を記載しても大河原宿を記載しなければ、街道にとって重要施設であるはずの宿場の有無が伝わらないと考えます。なので宿駅名と村名の双方を表記すれば良いと思うのですが、各国藩によって村の面積が異なるから全藩統一した表現は難しいのでしょう。例えば駿河国の藤枝宿は八つの村に跨っていたそうです。ざっと見たところ藤枝宿を構成していた8村あわせても、平村や大河原村1村の面積と同じくらいに見えました。

次に少し話が変わりますが、(享保の新町成立以降)金ヶ瀬宿の所属地名変遷を以下のように推測しました。
年代地名
~明治初期柴田郡平村(刈田郡には跨らず)
明治初期~同郡同村字町※
M22町村制施行同郡金ヶ瀬村大字平字町
そして昭和31年、大河原町と合併して現在の柴田郡大河原町金ヶ瀬字町になりました。地名の変遷にはドラマを感じます。宮村の金ヶ瀬宿は洪水で壊滅し平村に移転してきました。当初は平村の一角に金ヶ瀬宿があるという感覚だったでしょう。しかし宿場に新町が増設されて平村の村落部と金ヶ瀬宿の町場人口が逆転。平より金ヶ瀬の方が多用される地名になったと推測されます。明治22年、平村・堤村・新寺村が合併。新村名は平村になるかと思いきやさにあらず。平村の町場名をもって金ヶ瀬村になり、平村は金ヶ瀬村の大字平になりました。平村の金ヶ瀬から金ヶ瀬村の平へ立場が逆転。平村は金ヶ瀬宿に庇を貸して母屋を取られたようなものです。現行大河原町誕生の際に、消滅する金ヶ瀬村の名を継承させるために大字平を金ヶ瀬に改めました。その煽りを食らって消滅に追い込まれた平が不憫です。

※現在の小字(公称)地名「字町」はM6地租改正の頃に成立?
(小字「字町」の成立過程については調べきれませんでした、江戸時代から既に存在?)
「明治6年(1873)柴田郡金ヶ瀬村大字平字町戸割図」とあり、この時点で既に成立していた模様
(ただし金ヶ瀬村は当時まだ無いので、正確には柴田郡平村?)
地租改正にあたっては字の範囲を確定し字限図も作られたでしょうから、明治6年には「町」という名の字があったと推測しますが、江戸時代となると?です。字町戸割図は町の民俗資料収蔵室にあるようなので問い合わせたところ、本年2月の福島県沖地震で被害を受けたようで、現在は入室できない状態です。

旧小野村の場合、釜房ダムの完成で地形がだいぶ変わったところもありますがこのあたり?
現在の小字地名「字町」は藩政時代集落名として使われたもの(いわゆる通称地名)に由来?
宮城県内には仙台市七北田字町、村田町大字村田字町、大河原町金ヶ瀬字町など、「町」という名の小字が随所にあり、川崎町大字小野字町もその中の一つです。この「町」という小字は、概ね藩政時代の宿場町の区域と重なります。
[101472] 2021年 3月 16日(火)19:43:47千本桜 さん
あれから10年、クイズここはどこでしょうの解答
[101464] 伊豆之国 さん
[101466] ekinenpyou さん
[101467] hmt さん

[101463] あれから10年、クイズここはどこでしょうにお付き合いくださいましてありがとうございました。みなさま、正解です。
答えは、A=宮城県、B=名取市、C=閖上地区、D=福島県、E=相馬市、F=松川浦、G=山元町、H=中浜小学校でした。

まず、宮城県名取市の閖上地区へ。名取市は震災で甚大な被害を被ったが、この10年間に人口を5,000人以上も増加させた稀有な市である。市内には隣県からも集客する巨大なショッピングモールがあり、福岡・那覇はもとより、ソウル・台北などの海外都市とも空路で結ばれている。しかし、海沿いの閖上地区は10年前に津波にのまれて壊滅した。閖上地区は一級河川名取川の河口に発達した港町で、人口集中地区を形成していたこともある大きな市街地だったが、今は更地状態の宅地が強風に煽られて土けむりを上げている。

次に、南下して福島県相馬市の松川浦に向かう。松川浦は風光明媚で松川浦県立自然公園に指定されている。松川浦を訪れるのは、震災の爪痕を観察するためだが、同時に美味しい昼飯を食うためでもある。穴子丼が食べたくて、お目当の食堂に到着したが、あいにく定休日。予定を変更し、落書き帳でおなじみの白桃さんを案内したことがある食堂へ。今は入院中で美味しいものも食べられないでいるだろうに、自分だけが美味しいものを食べて申し訳ないと思いつつ天丼を食す。

最後に、北上して宮城県山元町の中浜小学校へ向かう。山元町は昭和時代に山下村と坂元村が合併してできた町で、特産品は、いちご、りんご、ホッキ貝である。入り組んだリアス海岸が津波被害に遭うのは想像できるが、単調な海岸線のこの町が津波に襲われるとは思いもしなかった。山元町の人口は、この10年間に5,000人近く減少し、減少率は29.3%である。内陸部の集落は助かったが、海岸部の集落は全滅した。中浜集落もその1つである。集落の家屋は無くなっているが、ぽつんとひとつ、中浜小学校の校舎が残されている。山元町震災遺構中浜小学校だ。
[101463] 2021年 3月 11日(木)22:15:12千本桜 さん
あれから10年、クイズここはどこでしょう。
今日は東日本大震災から10年、各地で追悼式などが行われたようです。密になるのを避け、昨日のうちに被災地3ヶ所を巡ってきました。A〜Hの名称をお答えください。

まず、A県B市のC地区へ。B市は震災で甚大な被害を被ったが、この10年間に人口を5,000人以上も増加させた稀有な市である。市内には隣県からも集客する巨大なショッピングモールがあり、福岡・那覇はもとより、ソウル・台北などの海外都市とも空路で結ばれている。しかし、海沿いのC地区は10年前に津波にのまれて壊滅した。C地区は一級河川B川の河口に発達した港町で、人口集中地区を形成していたこともある大きな市街地だったが、今は更地状態の宅地が強風に煽られて土けむりを上げている。とりあえず、B川の河畔に建つ震災復興伝承館へ入館。小さな伝承館だが、震災前のC地区の街並みを再現したジオラマが置いてある。メインストリートには銀行があり、いろいろな店が並んでいたのが分かる。生活感が感じれれる手作りジオラマを見て退館すると、目の前には商店もなければ一般家屋もない乾燥したメインストリートが走っていた。そんなメインストリートにカメラを向ける私を、同行者は少し苛立ちながら見ている。今回の同行者は学力は優秀だが地理的なことには興味がないようだ。何しろ、相馬を「あいば」と読んだ人である。まだ16歳頃の若い時だったが「あいば」はないだろうと思った。すぐそこがC漁港だから見に行こうと言うと、「漁港なんて、どこも同じだべ」と言う。そんな言葉を無視して強引に車を漁港に横付けする。晴天の中、C漁港の風景は震災など無かったかのように明るい色をしていた。

次に、南下してD県E市のF浦に向かう。F浦は風光明媚でF浦県立自然公園に指定されている。F浦を訪れるのは、震災の爪痕を観察するためだが、同時に美味しい昼飯を食うためでもある。穴子丼が食べたくて、お目当の食堂に到着したが、あいにく定休日。予定を変更し、落書き帳でおなじみの白桃さんを案内したことがある食堂へ。今は入院中で美味しいものも食べられないでいるだろうに、自分だけが美味しいものを食べて申し訳ないと思いつつ天丼を食す。F浦に来るとドライブしたくなる道路がある。天橋立よりも長い砂州の上を走る道路である。右にF浦、左に太平洋を望みながら走るのは爽快である。もっと先に丹下左膳の碑があるから見に行こうと言うと、地理的なことに興味のない同行者は「丹下左膳の碑を見て何になる」とか「どこまで行っても同じ風景だべ」と、のたまう。確かに丹下左膳の碑を見たからといって、いまさら人生どうなるわけではないが、見ないで過ぎるのが勿体ないと私は思うのである。それじゃ鵜ノ尾埼灯台を見に行こうと、同行者を促して小高い丘の階段坂道を登る。たいした距離でもないのに息がきれる。しかし、青空を背景にした白い灯台と広い海を見て、ホッと安心の溜息をつく。まるで、10年前の津波など無かったような美しい風景だった。

最後に、北上してA県G町のH小学校へ向かう。G町は昭和時代に◯下村と坂◯村が合併してできた町で、特産品は、いちご、りんご、ホッキ貝である。入り組んだリアス海岸が津波被害に遭うのは想像できるが、単調な海岸線のこの町が津波に襲われるとは思いもしなかった。G町の人口は、この10年間に5,000人近く減少し、減少率は29.3%である。内陸部の集落は助かったが、海岸部の集落は全滅した。H集落もその1つである。集落の家屋は無くなっているが、ぽつんとひとつ、H小学校の校舎が残されている。G町震災遺構H小学校だ。入館料は400円。ガイドに誘導されながら内部を見学。津波に襲われた当時のままだから廃墟状態である。1階、2階と進み、いよいよ屋上の屋根裏倉庫に入る。震災当日、ここに避難した児童や住民たち90人の命を守った屋根裏倉庫である。床はコンクリートの打ちっ放しで床板などは無い。10年前のあの夜は寒かった。懐中電灯2つだけの闇の中、津波の恐怖と寒さの中にいた児童たちを思うと涙が出る。屋根裏倉庫を抜け出し、屋上から外の景色を眺める。家屋を無くした集落跡地には道路だけが延びているが、ここに人々の生活があったことを思うとやるせない。

被災地見学をする際は、ガイドさんに説明して頂くことをおすすめします。
[101430] 2021年 2月 28日(日)20:10:19千本桜 さん
武奥増補行程記
[101417] ekinenpyouさん
刈田郡→武奥増補行程記(千本桜 さんサイト内で、寛延4年(1751)の道中図「増補行程記」とあるものと同じ?)
上記ekinenpyouさんの書き込みに対し、[101428] で「同じものですね」と答えましたが、異なるものであることに気がつきました。[101428]の書き込みは「異なるものですね」に訂正しておきました。惑わせてしまい申し訳ありませんでした。作者は同じ清水秋全となっていますが絵や文字のタッチが違うところをみると、武奥増補行程記は誰かが模写したのでしょうか? 調べてみたのですが詳しいことは解りませんでした。
[101428] 2021年 2月 27日(土)19:30:10【2】千本桜 さん
Re:奥羽街道の金ヶ瀬宿は複数郡に跨っていた?
[101417] ekinenpyou さん
金ヶ瀬宿の「家向き俗説」を(個人的に裏付け調査もしながら)ようやく読破しました。この俗説は各所で引用されており、(観光などで)現地を訪れた方も(その説で)納得してしまっているようですね。
お付き合いいただいてありがとうございます。金ヶ瀬宿の「家向き俗説」は長文ですから、読破するのが大変だったでしょう。感謝申し上げます。町内外を問わず、この俗説に興味をもたれる人を大歓迎です。
街道歩きや宿場めぐりの愛好家が、たまにこの街にやってきます。角川地名大辞典や町史などで、あらかじめ勉強してくる人も多いようですが、辞典や市町村史に誤りがあっても、それを見破るのは難しいですね。また、古文書には嘘が含まれていることもあるようで、200年前のフェイク「椿井文書」のような例もありますから要注意です。

柴田郡誌(M36)より、所属する郡に関する記事を引用します。
金ヶ瀬の市街は藩政の頃は凡中央より二分して柴田刈田の両郡に分属し東方は柴田郡平村と称し西方は刈田郡金ヶ瀬驛と称したり
これは疑わしい記述です。金ヶ瀬市街(金ヶ瀬宿)は、柴田・刈田両郡に分属していたのではなく、片倉家・伊達家に分属していたのです。そして、平村の中に形成された市街が金ヶ瀬驛ですから、「東方は柴田郡平村と称し西方は刈田郡金ヶ瀬驛と称したり」という記述も、地理的にしっくりしない表現です。柴田郡誌(M36)は、刈田郡の白石城を居城とする片倉家の飛び地は、柴田郡にあっても、どこにあっても、刈田郡として扱われたかのような書き方をしていますが、そんな事実はないはずです。そこで、同じように片倉家の領地で飛び地の広淵村(旧桃生郡広淵村、現石巻市広淵)を調べて見ました。

角川地名大辞典から広淵村を引用すると
広淵村:江戸期から明治22年の村名。桃生郡深谷代官区26村の中心で代官所が置かれ、明治期は21年まで郡役所が置かれていた。寛永5年、片倉小十郎重長が広淵谷地・ぼためき谷地などを拝領、片倉谷地・白石谷地などと呼ばれた。
と書いてありますが、刈田郡として扱われていたとは書いてありません。

また、平凡社日本歴史地名大系から広淵村を引用すると
白石城城主片倉小十郎重長が当村谷地など18ヶ所を知行地として給与され、片倉重久ら家臣の二、三男30人余を移住、開墾させて新田に居住させた。新田町は片倉小十郎家中町とも称された。
と書いてありますが、刈田郡に属していたとは書いてありません。

以上のことを金ヶ瀬宿に当てはめると、片倉家の領地である刈田郡宮村の金ヶ瀬宿が洪水で壊滅し、伊達藩から柴田郡平村の一画を知行され、そこに金ヶ瀬宿を移転させた。しかし、移転したのは金ヶ瀬宿であり、刈田郡宮村が移転した訳ではない。従って、柴田郡平村に形成された金ヶ瀬宿を指して刈田郡金ヶ瀬驛と表記するのは間違いだと思います。

しかし、大河原町史には次のことが書いてあります。新町が増設された享保年間の文書に基づいているようです。要約すると
金ヶ瀬宿の本町は柴田郡平村の地には違いないが、片倉家の知行所であるから刈田支配が当然である。ところが新町は藩の直轄地であるから、年貢は藩の蔵に直接納入することになる。また、百姓からの諸願もこれまでどうり柴田代官所へ差し出すように、ただ町内に発生する諸事件の取締については、片倉家の支配を受けよという扱い方である。こうして新町は貢租関係諸願は柴田扱いにて藩庁へ、治安その他取り締まりは刈田扱いと二重構造になったのである。
以上のことから、金ヶ瀬宿を二分していたのは柴田郡と刈田郡ではなく、現代で言う税務署や裁判所の管轄境であることが分かります。ですから、片倉支配・大河原代官所・藩庁直轄扱い・白石代官所扱いと書けば良いのに、郡名を用いて刈田支配・柴田代官所・柴田扱い・刈田扱いと書いたことで、柴田・刈田両郡に二分されているような誤解が生じたのではないか。柴田郡誌(M36)の記述は、そうした誤解の上にたって書かれた可能性が高いと思います。

なお、柴田郡誌(M36)には「(明治)維新の際(刈田郡)金ヶ瀬駅を平村に合併し柴田郡に編入」という記述もありますが
この記述も柴田郡誌(M36)の誤解でしょう。もともと金ヶ瀬駅は柴田郡平村の一部でしたから、維新の際に編入された訳ではありません。維新の際に片倉支配が解かれたことを書きたかったのかもしれません。

郡境が存在したという記述自体も不適切(誤り?)だったのかもしれません。
金ヶ瀬宿を二分していたのは郡境ではなく、片倉家と伊達家の領域境ですから、不適切だと思います。

刈田郡の飛び地?が柴田郡の宿内に存在し、それが「金ヶ瀬駅」だったという可能性もゼロではありませんが・・・
たぶん、それはゼロだと思います。片倉家=刈田郡ではないのに、「片倉家の飛び地」を「刈田郡の飛び地」と言い表したことから生じた誤報でしょう。金ヶ瀬本町は片倉家の飛び地ですが、刈田郡の飛び地ではないと考えます。

柴田郡→日本分国図(仙台領)(正保国絵図摸写図?平村とは別々)・天保国絵図陸奥国仙台(こちらは平村之内)
村や宿(町場)を三つに分類してみます。町場を持たない村、村名と同名の町場を持つ村、村名と異名の町場を持つ村の三つです。町場を持たない村は「堤村」「新寺村」のように村名だけの表記で済みます。村名と同名の町場を持つ村については、町場名を採択して「大河原宿」「船迫宿」と表記し、村名の「大河原村」「船迫村」を省略しているようです。問題は村名と異名の町場を持つ村です。「平村」と「金ヶ瀬宿」、「前田村」と「中田宿」のように村名と宿名を併記しているものもあれば、入間野村の槻木宿を「入間野宿」、小堤村の亘理宿を「小堤宿」と表記したりしています。これは、単純に村名と町場名の混用とみるべきか、それとも、厳密な規定に基づいているのか私には解りません。参考までに、村の中の町場[47401]

刈田郡→武奥増補行程記(千本桜 さんサイト内で、寛延4年(1751)の道中図「増補行程記」とあるものと同じ?)
異なるものですね。武奥増補行程記は金ヶ瀬に刈田郡と註記していますが、柴田郡とするのが正しいと思います。百歩譲って、刈田郡宮村から移転した金ヶ瀬本町に対してのみ刈田郡を註記するなら、分からないわけではありません。しかし、絵図は新町を含めた金ヶ瀬全体を描いています。金ヶ瀬全体を刈田郡とするのは間違いだと思います。増補行程記の絵図はデフォルメが激しくて、山と川の位置関係が明らかに間違っている場所もあります。

現在の小学校近郊にある古い建物として光澤山 明増寺(浄土真宗本願寺派)というお寺があり嘉禄2(1226)年創建とのことで、位置が変わっていなければ(寛永の)金ヶ瀬宿移転前から存在していたことになります。
(寺院関係者の方は)この俗説についてどのような見解を持っているのでしょうか・・・
明増寺は昔、田んぼの中(現在の中学校のところ)にありましたが、明治23年に現在地(小学校のところ)へ移転しています。寺院・神社の関係者も俗説を史実と信じているのが現実です。

1字訂正 「平村」と「金ヶ瀬村」を「平村」と「金ヶ瀬宿」に訂正しました
[101425] 2021年 2月 25日(木)14:41:54千本桜 さん
白桃クイズに挑戦
[101422] オーナー グリグリさん
【市人口ミステリー:消えた63,738人の謎】by 白桃
思わず「くそ〜〜〜!」と叫びたくなるほど素晴らしい出題です。クイズ東大王やQさま!!に取り上げて欲しい。
白桃さん、その看護師は男か女か知りませんが、下の名前を「としみ」または「あきら」と言いませんでしたか。消えた63,738人のうち、何割かは天神や中洲で働いているのでしょうね。

[101420] 未開人さん
問題2に関しては視点が難しいかとは思います。(因みにこれを調べている途中に岐阜県庁の情報を見つけました)
問題2 日本の都道府県庁のうち、茨城県庁と石川県庁のみに共通する特徴を答えよ。
茨城県庁で瞬時にひらめいたのは、中心街から離れた郊外に位置しているということです。ということは「ある特定の区域から外れた場所にある県庁」で、その「特定の区域」とは、白桃さんの好物のアレですね。確かに特殊な視点かもしれませんが面白いと思います。

[101417] ekinenpyouさん
金ヶ瀬宿について書こうと思っていましたら、「くそ〜〜〜!」と叫びたくなるほど素晴らしい白桃さんのクイズをみて、そちらを先にさせていただきました。金ヶ瀬宿については、間違いのないように、じっくり考えておこたえします。
[101411] 2021年 2月 21日(日)20:07:09千本桜 さん
「本山町街」ってなに? 「日光市街」ってどこ?
[101408] 駿河の民 さん
私は本山町に訪れたことがありますが、嶺北の中心地となっており、大きな高校や病院があったことが記憶に残っています。

私は昔々、大豊町の国道32号を自転車で走ったことはありますが、本山町には行ったことがありません。そこで、ストリートビューで模擬ドライブしてみました。出発点は大豊町高須の国道32号と439号の交差点付近。道路案内板は、直進32号「高松・三好市」、左折439号「本山」と標示しています。左折して439号を本山へ向かいます。

やがて大豊町域を過ぎて本山町域に進入。439号は本山の市街地を迂回するバイパスですが、バイパスと旧道の分岐点に、右折439号「田井」、直進「本山町街」の道路案内板がありました。直進すると本山の市街地(町場・街並み)に到達するのは理解できるのですが、「本山町街」という標記に違和感を感じました。「本山市街」と表示するのが正しいと思うのですが、皆さんは「本山町街」の標記をどのように思われますか。「町街」って、なに?

高知県の案内板は、町村部に「市街」を用いないのかなと思い、いの町を調べてみました。すると、国道33号枝川ICの所に、直進「松山・佐川」、左折「四万十市」、右折「いの町市街」の案内板がありました。町であっても「市街」と標記してあります。しかし「いの町市街」の「町」は不要でしょう。「いの市街」で良いだろうに、と思いました。個人的感覚が許されるなら「伊野市街」にしたいところです。

次に富山県南砺市を観察します。南砺市には福光・井波・福岡・城端の市街地があります。国道304号を北進し、福光駅前の交差点に近づいてきました。案内板には、直進「金沢・砺波」、右折「福光駅」、左折「福光市街」と書いてありますが、「南砺市街」とは書いていません。次に、福野を目指して県道20号を走ります。福野の町場入口に近づくと、左折「高岡・砺波」、直進「福野市街」の案内板がありました。あぁ良かった。「南砺市街」なんて書いてあったら頭にくるところだった。ついでに井波も観察しましたが、やはり「井波市街」と書いてあります。市街地名を標示するときは、市町村名にとらわれなくても良いというのが、私の考えです。

ついでに、日光市の国道119号をJR日光駅に向かって西へ走ります。すると、121号との交差点を過ぎたところに、直進「日光の社寺11km・日光市街3km」の案内板が。日光駅は10km先なのに、「日光市街3km」は変ですね。もう、おわかりの方もいるでしょうが、「日光市街」とは今市の市街を指しているのです。すると、日光駅前から神橋にかけて広がる旧日光市の市街地は日光市街地ではないことになります。私の感覚では、旧今市市の市街地は「今市市街」と書き、旧日光市の市街地を「日光市街」と書いて欲しかったと思います。
[101391] 2021年 2月 9日(火)17:47:22千本桜 さん
伊予石城駅
[101384] ekinenpyou さん
武蔵大和駅のように旧国名が複数連続する鉄道駅をお答えください

旧国名の定義次第ですが、奈良時代に短期間だけ存在した石城国がOKなら、伊予石城駅も該当しますね。
[101350] 2021年 1月 26日(火)19:45:24千本桜 さん
びびらずに定説を覆す
[101339] オーナー グリグリさん
家向き俗説、拝読しました。徹底した検証が説得力があり、たいへん興味深く読ませていただきました。ありがとうございます。
お読みいただきまして、こちらこそありがとうございました。城下町や東海道・中山道の宿場町と違って、金ヶ瀬宿の場合は資料や痕跡があまり残っておらず、少し苦労しました。定説を覆すのですから、ぬかりがあってはならないと、20数年かけて調査しました。(笑
[101332] 2021年 1月 22日(金)22:29:30千本桜 さん
金ヶ瀬宿の「家向き俗説」
金ヶ瀬(かながせ)は奥州街道に発達した宿場町で、本町と新町から成る。本町は白石の片倉家、新町は仙台の伊達家の領地である。町の長さは、およそ1,100メートル。途切れのない一連の町並みだが、町の中央を境に家向きが一変する不思議な町だ。この町には、誰もが信じて疑わない俗説がある。本町と新町は互いに反目し、背中合わせに家を建てたと言うのだ。本町は片倉様の白石城へ、新町は伊達様の仙台城へ向かって玄関・縁側を配置したと言うのだから面白い。この俗説は、大河原町史や角川日本地名大辞典にも史実として記述され、今では動かぬ定説となっている。だが、その真相はいかに!
 定説を覆すのは難しい。下手をすると変人扱いされかねない。しかし、定説といえども間違いは間違い、嘘は嘘である。金ヶ瀬宿の「家向き俗説」に関する調査レポートを作成しましたが、図版を多用しているため落書き帳に書き込めませんので、ここに貼らせて頂きます。 金ヶ瀬宿の「家向き俗説」
 たとえ権威のある地誌でも、間違いはあるということです。

白桃さん、快復を祈ってますよ。
[100873] 2020年 12月 6日(日)07:52:58千本桜 さん
古川と北上
[100867] 白桃さん
神風※「そうですね。玄人好みの好取組です。地力では古川だと思うのですが、北上は付け人の江釣子の力も借りており、全く予想できません。」

付け人ですか〜 言い得て妙!
江釣子が北上に一途な付け人だとすると、古川の付け人たる三本木は時々隠れて仙台へ浮気する、そんな感じでしょうか。鹿島台などは古川と別部屋だと思っている節があるから、大崎部屋をまとめるのは大変でしょう。
古川と北上は優劣付け難い成長都市で、独自の都市圏を形成しながら市街地を拡大してきましたが、微妙な違いを感じます。古川が下位の力士と対戦して勝ち星を増やしてきたのに対し、北上は花巻や水沢といった上位力士と戦って現在の地位を勝ち取った。そこに北上のダイナミックさを感じます。いずれにしても2020年国勢調査の発表が待ち遠しいですね。
[100866] 2020年 12月 2日(水)06:42:29千本桜 さん
「平成の大合併」なかりせば。古川VS北上を希望
[100865] 白桃さん

「平成の大合併」なかりせば。
東北地方における2つの成長都市、旧古川市と旧北上市の推移を対比したいので、ご協力お願いします。
1・旧古川市VS旧北上市
2・「旧古川と旧三本木を併せた古川」VS「旧北上と旧江釣子を併せた北上」
3・現大崎市VS現北上市
以上、3種類を[100865]の書き込みと同じパターンでお願いします。
[100855] 2020年 11月 24日(火)06:22:17千本桜 さん
Re:消えゆく「商業高校」
[100854] 白桃さん
アレ、もう一つ何処だっけ???(笑)

ソレ、スーパータウン大河原のことでしょう。
県立高校が2校ある少し珍しい町ですが、令和5年度には大河原商業高校と柴田農林高校が統合するので1校になる予定です。
新高校名を募集しているとは聞いていませんが、募集するとなれば皆さん、「千本桜高等学校」で1票投じてくださいますようお願いします。
[100101] 2020年 8月 14日(金)17:04:43千本桜 さん
花巻は総合都市
[100078] 白桃さん
花巻を「温泉都市」というのもヘンですね。では、花巻を何の街と呼べば良いのでしょうか?

昭和時代に育まれたイメージですが、花巻はコンパクトな市街地(DID)に商業機能がぎゅっと詰まった濃密な商業都市のイメージがあります。中心街の上町・吹張町・鍛治町はアーケード街でデパートが2店あり、黒沢尻(現在の北上市)からも集客していました。さらに工業も盛んで交通の要衝、そして地域文化の発信基地でもありましたから、複合都市または多機能都市と呼ぶべきでしょうか。以上は私の主観ですが、客観的にはどのように評価されていたか。昭和60年発行の角川日本地名大辞典岩手県には「県央の中核総合都市」と書いてあります。なるほど「総合都市」か。大正・昭和の花巻を的確に言い表わしていると思います。

角川地名大辞典は、中・南部の内陸都市を次のように評価しています。南から順に、一関市は「県南の雄都」、水沢市は「県下第一の穀倉地帯」、北上市は「内陸部の工業都市」、花巻市は「県央の中核総合都市」です。水沢市だけ異なる目線で書かれていますが、他と合わせるなら「県南最大の商業都市」と書くのが良いのでは?

東北本線に沿って一列に並ぶ一関・水沢・北上・花巻の団子4兄弟は、私にとって昔も今もパワースポットです。この4都市を思うと力が湧いてくるのです。仙台や盛岡に呑み込まれまいとする自立心。そして一関は両磐の、水沢は胆江の、北上は和賀の、花巻は稗貫の中心都市としての強い自負心がある。地域に深く根を張った姿は地方小都市の鑑のような存在です。

性格も規模も似通った団子4兄弟。力関係が微妙に揺れながらも均衡を保ってきましたが、この均衡を破ったのが北上です。昭和の頃は一関・水沢・花巻の下位に置かれた北上が大躍進。今では中・南部の最大都市に成長し、その煽りで花巻の影が薄くなりました。昭和40年代と現在の都市の大きさを見比べてみましょう。自治体やDIDの大きさではありません。概ね市街地に相当する区域に集積した都市産業から弾き出した都市の大きさです。こういうのは細かい数値を出しても意味が無いので、大まかに出します。

昭和40年代の都市の大きさ/最大都市水沢を100とした場合、花巻95、一関90、北上60
現在の都市の大きさ/最大都市北上を100とした場合、水沢69、一関66、花巻65

一関・水沢・花巻は常に優劣つけがたい同規模都市ですが、北上が大変貌を遂げました。大正・昭和の頃は一関・水沢・花巻が親分で北上が子分。しかし今では北上が親分で一関・水沢・花巻が子分になってしまいました。都市に感情は無いけれど、そこに思いを寄せる人には感情があります。花巻に思いを寄せる人には無念の思いがあるのではないでしょうか。
[100066] 2020年 8月 6日(木)06:40:58千本桜 さん
Re:案外健闘している温泉地に関する問題
[100065] 白桃さん
D市は、案外盲点かもしれません。東海地方の市で、市域には4つの温泉街があります。その4つは、もともと別の町にありました。
確かに盲点だと思います。あの大県では最大の温泉場なのでしょうが、私の住んでる地方ではかなり知名度が低いです。ひらがなで書くと濁音が2つあるので語感がゴツいですね。
[100053] 2020年 8月 1日(土)22:10:05千本桜 さん
メッシュ統計で遊ぶ 〜金融・保険業の集積〜
地域メッシュ統計を用いて、宮城県南部の中心・拠点となる都市を探ってみました。
基礎となるデータは、平成28年経済センサスから抽出した金融業・保険業の従業者数です。金融業・保険業に的をしぼったのは、都市の中心性・拠点性は金融業・保険業の集積に端的に現れるのではないかと考えるからです。
対象地域は、仙台市以南の全市町です。自治体人口の多い順に並べると、名取市(79,141人)、岩沼市(44,378人)、柴田町(38,728人)、亘理町(32,884人)、白石市(32,863人)、角田市(28,154人)、大河原町(23,683人)、丸森町(12,481人)、山元町(11,757人)、蔵王町(11,449人)、村田町(10,601人)、川崎町(8,478人)、七ヶ宿町(1,254人)になります(令和2年7月1日推計人口)。この地域には335,851人が住んでいますが、風格のある中心都市がないのが特徴です。

集計は次の手順で行いました。
1・宮城県南部の地図に3次メッシュ(1kmメッシュ)を掛けます。
2・平成28年経済センサスを基に、個々の3次メッシュに金融業・保険業の従業者数を記入します。
3・辺が接していることを条件に、従業者数1人以上のメッシュを連結し、金融業・保険業集積地域を画定します。
4・金融業・保険業集積地域を都市とします。
5・各都市に従事する従業者数を算出します。
6・各都市に名称を付します。
6・各都市の中心地点にマークを付します。中心地点の特定は各種要素を基に判断しました。

上記集計の結果、宮城県南部で金融業・保険業の従業者数が最も多いのは大河原で、名取・岩沼・白石・角田と続くのが解りました。ただし、この大河原には柴田町船岡の市街地も含まれています。大河原市街の端と船岡市街の端は至近距離にあるため、同じメッシュに覆われます。しかし、人家の無い丘陵で隔てられた2つの市街地を1つにまとめて良いものか、引っ掛かります。そこで、参考までに大河原と船岡に分割してみました。その結果、大河原299人、船岡108人となりました。
また、辺は接していないが角だけ接したメッシュも取り込んで集計すると、船岡、名取、岩沼の数値が少し増えます。これを「緩めの集計」としてカッコ書きで記載しました。

都市名金融保険従業者数緩めの集計中心地点摘要
大河原407人(416人)ここ大河原町の中心市街地
※大河原299人(299人)ここ大河原町の中心市街地
※船岡108人(117人)ここ柴田町の中心市街地
名取400人(429人)ここ名取市の中心市街地
岩沼298人(302人)ここ岩沼市の中心市街地
白石243人(243人)ここ白石市の中心市街地
角田202人(202人)ここ角田市の中心市街地
亘理83人(83人)ここ亘理町の中心市街地
永野41人(41人)ここ蔵王町の中心市街地
村田26人(26人)ここ村田町の中心市街地
丸森23人(23人)ここ丸森町の中心市街地
川崎21人(21人)ここ川崎町の中心市街地
山下20人(20人)ここ山元町の中心市街地
槻木18人(18人)ここ柴田町の副次市街地

1kmメッシュの性格上、船岡市街を巻き込んでトップに立った大河原ですが、明治初期の警察署設置を振り返れば、これも納得できる結果なのです。明治初期、宮城県は仙台、古川、石巻、大河原に警察署を設置しました。その時の大河原署は、今回取り上げた宮城県南部の全域を管轄していました。
[100032] 2020年 7月 26日(日)20:12:24千本桜 さん
日本の大都市トップテン
[100031] mg さん
解説ありがとうございました。
中心地の推定方法には書き込みたいこともあるのですが急遽予定を変更し、mgさん作成の2015年連担DIDと私が作成した1970年連担DIDを見比べながら、45年の時の流れと都市の盛衰に思いを馳せたいと思います。題して、日本の大都市トップテン。
mgさんの(西神戸)と(川越)は外しました。なぜ外したかはお分かりですよね。お察しください(笑)。また、mgさんの「阪神」は「大阪」と表記させてください。その上で2015年と1970年を見比べると、順位の変動はあるものの、1位から10位までの顔ぶれは同じです。

都市名2015年連担DID人口1970年連担DID人口連担DID人口増加数連担DID人口増加率
東京29,185,222人15,787,678人13,397,544人84.86%
大阪10,566,568人8,904,319人1,662,249人18.67%
名古屋3,402,687人1,893,961人1,508,726人79.66%
福岡1,994,305人771,654人1,222,651人158.45%
札幌1,970,696人802,751人1,167,945人145.49%
京都1,811,936人1,194,984人616,952人51.63%
広島1,087,579人623,983人463,596人74.30%
仙台1,066,096人448,135人617,961人137.90%
北九州833,027人857,409人-24,382人-2.84%
熊本656,931人346,885人310,046人89.38%

東京の膨張が凄いですね。大阪との規模は開く一方です。広域中枢都市の福岡、札幌、仙台の増加率は驚異的ですが、広島が少し疲れたのかな? 人口減の北九州には何と声をかけたらいいのやら言葉が見つかりません。10位の熊本は地味ながら底力を発揮しています。我こそは熊本のライバルと思っているであろう那覇、静岡、新潟、鹿児島、金沢、浜松、岡山の皆さん、トップテン入を目指して頑張りましょう。
[100029] 2020年 7月 25日(土)21:54:18千本桜 さん
推定中心地の位置
[100023]ekinenpyou さん
教えて頂きまして、エクセルへの変換と左揃え・右揃えができました。ありがとうございました。エクセルは使い慣れていないので勉強のためと思い、ソートしたりセルの幅を広げてみたり、あれこれ試しているうちに、今度は文字が変な書体に変わってしまい、慌てています。元の書体に戻す方法が解らず悪戦苦闘中ですが、いろいろ操作していくうちに覚えるでしょう。
ところで、[100021]
「推定中心地」という項目がありますが、これは当該DIDを覆うメッシュの中で最も小売販売額の多い4次メッシュを指し、その4次メッシュの中央部に自動的?にポイントマークが付されているようにお見受けしましたが、このような受け止め方でよろしいですか。
と書きましたが、あれは完全に私の思い違いでした。四次メッシュのデータを持ち合わせていないので何とも言えないのですが、どうも四次メッシュの交点にポイントマークが付されているようです。白石、角田、大河原、柴田などもekinenpyouさんご指摘の成田2と同じく、交点にマークが付されているようです。やはり詳細はmgさんの解説待ちですね。mgさん、お忙しいでしょうが宜しくお願いいたします。


… スポンサーリンク …


都道府県市区町村
落書き帳

パソコン表示スマホ表示