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ニジェガロージェッツさんの記事が5件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[91555]2016年10月2日
ニジェガロージェッツ
[91551]2016年10月1日
ニジェガロージェッツ
[91536]2016年9月29日
ニジェガロージェッツ
[91508]2016年9月26日
ニジェガロージェッツ
[91495]2016年9月24日
ニジェガロージェッツ

[91555] 2016年 10月 2日(日)04:23:26ニジェガロージェッツ さん
Re: 「長田村」と灘区
[91549] ペーロケ さん
長田区についてのご感想,有難うございました。地元民として,率直に感謝申し上げます。

実際問題として今まで通りのケミカルシューズを作ってもコストでは勝負にならない訳で、変革が求められているのも現実
確かにおっしゃる通りで,長田区で作られた靴が全国的なブランドとなるような,付加価値の高い商品にしていかなければならないのでしょうが,一方で,コスト削減を一方的に下請けに押し付けるような,その場しのぎの要求がまかり通っているのも現実です。極端なものでは,「中国(それも奥地)では,この値で仕事をするんやから,お前らもその値段でやれ。でけへんのやったら,よそへ(仕事を)まわすだけや!」的な,無茶な工賃カットを強いるという話まで聞きます。
これでは,これからの世代が続きません。シューズ業界から離れて,他の職業に就いていくのは当たり前のことです。日々の生活から靴が無くならないから,製靴産業が皆無になることはないとはいえ,後継者が続かないのであれば,業界は先細りになっていくのは自明のことです。

表題の件,小生の書き込みでは鉤括弧付きで「長田村」としているのは,実際に実在した過去の地名,村落名の長田村と明確に区別するためのことは[91427]にてご説明した通りです。
知っている人にとって,この「長田村」は業界を一言で言い表せる便利なものですが,一方で自嘲的な側面を持った言葉でもありますので,ケミカルシューズ業界とは関わりのない人は,「長田のゴム屋」も含めて,侮蔑的に捉えられる可能性があるために,控えたほうが良いでしょう。
その点では,小生も落書き帳の書き込みに当たって,この表現を採ったことを反省しなければなりません。

はいはい,もういやいや! 長田のお話はおしまい!

私は東灘区も灘区も阪急神戸線から見下ろした風景をよく見ていたため、どうしても六甲、王子公園といった、東灘区と似たような灘区の風景が印象的です。阪急がJRと合流するあたり(ちょうど灘区から中央区の境界)より、山裾の住宅地から急にインナーシティーに入ったという印象になってしまうため、正直、灘区=インナーシティという印象はありませんでした。だから、私にとっては両区とも高級住宅街といった、似たようなイメージだった訳です。

引用部分が長くなってしまい,申し訳ございません。
「風景をよく見ていた」とお書きですが,本当によく見ていましたか?

ペーロケさんの灘区と東灘区についてのイメージが,阪急神戸線から見たものであるとのお話が出てきましたが,それでは貴[91473]で述べられた「酒造の街」とは,整合性が感じられません。
酒造が盛んな地域は,灘区においては西郷地区,東灘区においては御影から魚崎あたりの,いずれも阪神電鉄線より南側の海沿いの地域であり,山麓を走る阪急神戸線沿線には見られないものです。強いて言えば白鶴美術館という,酒造メーカー由来の文化施設が東灘区住吉山手に存在する程度です。
また,灘区では阪急六甲駅あたりより東は高級住宅街に該当するかもしれませんが,王子公園駅周辺は,水道筋商店街や灘中央市場など,明らかに下町の趣の強い地域です。良い意味で下町であることを前面に出した街のPRも見受けられます。
確かに,阪急電車下り線では,王子公園駅を過ぎたあたりから,急に車窓の景色が変わりますが,これは,それまで地上面を走っていた線路が高架線になるためで,しかも,標高は下がりつつも高架線に変わっていくものですから,そのインパクトが大きいと推測します。

小生の一連のペーロケさんの書き込みからは,率直に申し上げて,「あまりこの地域のことをよくご存知ではないのかな?」といった印象を受けます。灘は酒造地として有名であること,阪急神戸線は高級住宅地として知られていること,これらを一緒にして漠然とイメージしておられるようにも邪推したくなります。

実際,世間的には決して珍しいことではありません。ネットで拝読した伝聞になりますが,東灘区という住宅地に住んでみると,周囲は酒造の工場だらけで,早朝からトラックの出入りが激しく,匂いもするという苦情です。「東灘地域まちづくり文化のツール」より
これなどは,灘地域が酒造の街であることを知らないはずはないのだけれども,高級住宅地であるイメージが強く,深く考えたこともないために,発生したトラブルではないのかなと想像します。

子供の頃は西宮市民であったペーロケさんの東から見た灘区,小生のように西の長田区から見た灘区では,違ったものに見えるのかも知れません。
いずれにしましても,街並みから受ける印象は人それぞれですから,ここでこれ以上議論しても仕方のないことでしょう。小生とて,自分の意見を正しいものとして押し付けたり,流布するつもりは毛頭ございません。

実際,どういう所であるのかは,それぞれのご判断にお任せすることといたしまして,この地域に立ち寄ったことのない方で,街並みにご興味を持たれた方のために,YouTubeで阪急沿線の動画を探してみました。
ペーロケさんの視座に立って,東から西へ走る阪急電車の車窓の風景を集めました。

前面展望:阪急神戸線の車窓だけ 特急 梅田ー神戸三宮
山側車窓:阪急神戸線の車窓
海側車窓:阪急神戸線 海側車窓 特急 梅田ー新開地 9000系

上記各動画,場所と通過時間を参考までに記しておきます。
場所前面展望山側車窓海側車窓
芦屋市/東灘区界19:1818:4719:02
岡本駅(停車)20:2619:5020:15
御影駅(通過)22:5522:1722:35
東灘/灘区界23:2622:4823:04
六甲駅(通過)24:0223:2223:42
王子公園駅(通過)25:0824:2624:50
灘/中央区界25:3524:5225:14

2014年撮影のものですが,JR神戸線の前面展望:新快速姫路行 大阪→姫路では,
芦屋市/東灘区界(15:21),甲南山手駅(15:34),摂津本山駅(16:18),住吉駅(17:06),東灘/灘区界(17:53),六甲道駅(18:21),摩耶駅(未成),灘駅(19:32),灘/中央区界(19:38)
[91551] 2016年 10月 1日(土)14:22:57ニジェガロージェッツ さん
懐かしい!
[91548] 千本桜 さん
ここはどこでしょう
いやあ,懐かしい!
昭和59年に友人4人と日本海の孤島[57118]にわたる際に,出港地となったこの街で時間があったので,レンタサイクルで廻りました。

以下,回答に代えさせていただきます
A)музей Хаги
B)Гиити Танака
C)дом Кикуя
D)переулок Кикуя
E)Синсаку Такасуги
F)переулок Эдоя
G)Такаёси Кидо
H)средняя школа Хагиниси
I)высшая школа Хаги
J)район Хориути
K)дом Кутиба
[91536] 2016年 9月 29日(木)01:42:07【1】ニジェガロージェッツ さん
龍と竜
いつも神戸のことばかり書いてしまっているので,ちょっとした閑話を2つ

東京都江東区の豊洲市場についての報道,その移転と汚染問題,施工法の是非についてはともかくも,移転が問題となっている東京都中央区築地市場についての日本地理での位置づけはどうなのでしょう。
築地市場を経由して,全国的に食材を卸しているのであれば,全国に及ぼす問題となるのでしょうが,「都民の台所」であるというのであれば,東京のローカルニュースではないのかと,ついつい疑問を感じてしまいます。
こちら関西でも連日どのチャンネルを廻しても,この報道で持ち切りですが,小生などには「豊洲」と言えば, ♪あられはやっぱり,とよす♪ のCMで有名な「とよすあられ」がまず頭に浮かびます。「とよすあられ」は明治時代からの大阪の米菓メーカーで,その創業者が「豊洲さん」であったことに由来し,つまり,昭和12年に東京市深川区の埋め立て地に起立した町名「豊洲」とは無関係で,変な風評被害に遭わなければと心配です。
実際の風評被害といえば,江東区豊洲のマンションにも汚染の風評が立っているとか。困ったものです。

----------------
さて,表題のお話しに変えて,地名や駅名で用いられている,「龍」と「竜」の字体と,その変更について話題になっていましたが,その技術的なことにつきましては,皆様のご説明通りのことと確信いたしており,異議を挟むものではございません。
漢字や国語については専門でもなく,小生には苦手な分野になるのですが,「龍」の新字体は「竜」である,というのは理解できますが,その逆について,「竜」の旧字体は「龍」である,とは必ずしも言えないとの認識を持っています。
すなわち,両字は元々別の字として存在し,「龍」の字は,空を飛ぶ大蛇のような架空の動物であり,一方の「竜」の字は,ずんぐりとした胴体を持って空を飛ぶ動物のようにイメージします。更に言えば,「東洋的で縁起の良い龍」と,「西洋的で邪悪なドラゴンの竜」といった感想です。どちらも「リュウ」「たつ」と読むことから混同された結果,今では区別されなくなったものと思料していました。

地名をはじめ人名や企業名では,佳名が理想とされますから,旧字体に分類されてしまった「龍」が今でも好んで用いられているのは,こういったイメージがどこかに残っているのかとも想像します。
逆に,実在した恐竜を「恐龍」と書くのは,あまりお目に掛かれないのですが,「舊字體の時代」には,どう書いていたのでしょうか?

追記
[91529] 白桃 さん
後半部分は地理雑学に関係ないので、せめてものお詫びに地名をフンダンに入れときました。
真面目に地名を記事検索する際には邪魔ですから,面白いのですが程々にしていただければ幸いでございます。

訂正【1】
誤:♪とよすのあられ~ おせんべい → 正:♪あられはやっぱり,とよす♪
お恥ずかしい限りです。重大な過ちを犯してしましました。脳内で亀田製菓とごっちゃになっていたようです。
謹んで,お詫び申し上げます。また,間違いではないものの「東京府深川区」を「東京市深川区」に改めました。
[91508] 2016年 9月 26日(月)03:21:26【1】ニジェガロージェッツ さん
神戸市についての書き込みを続けます
I. 長田区について

[91496] ペーロケ さん
その頃はちょうど新長田駅前の再開発ビルが建設中で、周囲も焼野原から復興に向けて加速していた頃と記憶しています。すべて元通りにはならないけど、街が発展する、いい方向へ向けて進んでいる、と、当時の私の目にはそう感じていました。しかし、見た目には綺麗な建物が建ち、街が発展しているように見える一方で、ケミカルシューズ業界がそれほどまでに元気がない状態のままとはショックです。


当時,でるでるさん,両毛人さんと共に,新長田駅前から大丸新長田店(平成25年1月閉店,同年9月,東急プラザ新長田開店)に入り,新長田一番街から大正筋商店街へ向った記憶があります。いずれも,当時神戸市が進めていた新長田駅南地区震災復興再開発事業のエリア内です。皆さんと一緒に歩いた平成15年9月当時では,新長田一番街では再開発着手前(平成19年頃完成),大正筋では再開発ビルが完成間近(平成15年11月頃完成)で,まだ復興途上の夢のあった時代でした。
神戸市の計画では,新長田駅から大正筋の南端までの7~800メートルほどの空間に,10棟以上の再開発ビルをつなげ,地下,地上,2階の三層構造での商店街の建設で,その通りのものが完成しました。しかし,そもそも人口の減少している長田区において,商店街においても人通りはまばらで,地上1階のメインストリートでさえ,各商店の経営難からシャッター街になろうとしているさまで,特に2階部分には人通りはなく,当初より分譲は埋まらず,今では非常に厳しい状況になっています。市では対策として,売れなかった店舗を格安の家賃での賃貸に切り替えたため,不動産価格の暴落が起こり,既に分譲で購入した商店にとっては,本来ならば最終手段として店舗を売却することも出来たものが,それも無理となって困窮している状況と言われています。これを,学者は「復興災害」と呼んでいます。

なお,ペーロケさんに新長田でお会いしたあの日に,皆さんには「長田村」と揶揄される,長田区のディープな部分をご案内していません。
この新長田駅南再開発事業区域からは,ケミカルシューズ業界は完全にシャットアウトされました。事業区域内の若松町3,4丁目一帯は,昔からケミカルシューズの卸売問屋が集積していた地域で,「長田村」[91427]のコアとなる部分を形成していましたが,震災では一様に焼け野原となり,再開発を機に神戸市はこれを潰した格好です。これも長田のシューズ業界凋落の大きな原因となったと言われています。

II. 灘区について

東灘区と灘区の違いを一言で表す、となるとなかなか難しいです
灘区と東灘区の違いを一言で表すと,インナーシティ(灘区)と,そうでない街(東灘区)です。
灘区の区域は,昭和4年に神戸市に編入されたのですが,その翌年の昭和5年国勢調査では区人口85,909人だったのが,神戸市が人口100万人を突破した昭和14年(後述します)には16万人になっています。つまり,街並みのベースとしては,戦前期に市街地化が完了した地域であり,数次にわたる神戸大空襲による市街の破壊を経た直後の,昭和20年11月1日の人口調査でさえも70,636人の人口が記録され,昭和45年国勢調査の170,730人が最盛期人口となりました。
その後は震災に至るまで人口は減り続け,その推移は,程度の差こそあれ,インナーシティ問題がより深刻であった長田区のそれ(拙稿[7736])に似ています。

一方,東灘区においては,昭和50年代に人口増加の停滞を経験したものの,大幅な減少はありません。平成になってからは六甲アイランド完成による人口増加がありますが,それを差し引いても,震災による減少以外では微増傾向が続いています。

このように,人口推移を見れば,両区の性質が全く異なっていることが窺えます。これは数値化されたその街の履歴ですから,その違いは街並みに表れます。灘区が東灘区よりも古い市街地であることから,今でも庶民的な雰囲気の残る街並みが感じられます。
また,神戸市全体の発展から見た場合,灘区は「中央5区」,すなわち,戦前の神戸市域を形成した,現在の須磨区,長田区,兵庫区,中央区,灘区の一つであり,神戸市街と一体となっての発展した経緯から,昔の葺合区(現在の中央区東部)の延長にある街の印象が濃いと感じます。実際,震災前は葺合区脇浜海岸通に川崎製鉄阪神製造所と神戸製鋼所脇浜工場が,その東隣の灘区日出町に神戸製鋼所岩屋工場と続き,西郷の酒造地を挟んで,東には神戸製鋼所神戸製鉄所がある,鉄鋼の街の印象があります。

東灘区は戦前期には神戸市外で,酒造業も栄えた裕福な土地柄で,特に住吉村は関西財界のお歴々が居を構える「お金持ちの村」として有名でした。神戸市編入は昭和25年のことですが,街並みのベースには戦前の裕福な時代ものがあり,今でも高級住宅街として認識されています。

ですから,小生には,ペーロケさんのように灘区と東灘区を同じようなイメージにはどうしても持てないでいます。確かに,海岸沿いには工業地帯で,共に酒造地がある。住宅地には南から阪神,JR,阪急が並行して走り,阪急線の北側には灘区に神戸大学を筆頭に学生街が,東灘区に甲南大学を筆頭に,などと,表面的には似ているのかもしれません。

震災後は,灘区は復興の過程でインナーシティ問題を克服しつつあると推測され,人口は復興後も増え続けており,今では昭和57年頃の人口にまで戻っています。最盛期の17万人まではさすがに無理でしょうが,場合によっては14万人を超えるところまで回復すると思料します。
以下,両区の人口データを提示します。比較の参考までに長田区の人口も添えておきます。
---------------------------------------
調査日灘区人口東灘区人口うち六甲Is.備考長田区人口
1930.10.185,90960,102昭和5年国勢調査181,015(林田区)
1935.10.1128,18670,240昭和10年国勢調査216,213(林田区)
1940.10.1155,49887,191昭和15年国勢調査229,356(林田区)
1945.11.170,63655,349人口調査112,992
1950.10.1114,40183,937昭和25年国勢調査167,109
1955.10.1138,214108,464昭和30年国勢調査189,806
1960.10.1155,694134,342昭和35年国勢調査202,266
1965.10.1168,973155,898昭和40年国勢調査214,325
1970.10.1170,730171,109昭和45年国勢調査210,066
1975.10.1157,892183,836昭和50年国勢調査185,971
1980.10.1142,312183,284昭和55年国勢調査163,949
1985.10.1133,746184,738昭和60年国勢調査148,590
1990.10.1129,578190,3545,136平成2年国勢調査136,884
1995.1.1124,538191,716震災95.1.17直前の推計人口129,978
1995.10.197,470157,59914,200平成7年国勢調査96,807
2000.10.1120,505191,30414,833平成12年国勢調査105,467
2005.10.1128,050206,03717,711平成17年国勢調査103,791
2010.10.1133,451210,40818,837平成22年国勢調査101,624
2015.10.1136,130213,727平成27年国勢調査速報値97,952
2016.9.1136,627214,190推計人口97,271
【註】東灘区人口は,1945年までのものは武庫郡御影町,住吉村,魚崎町,本山村,本庄村の,1950年のものは東灘区と武庫郡本山村,本庄村のそれぞれ合計値。六甲アイランド人口は町丁別人口より算出できるものは提示した。埋め立て途上の1985年の人口は不明だが世帯数1の記述あり。
また,灘区と東灘区(および兵庫区)との境界は,昭和47年6月1日の「六甲山移管」により,山域で灘区が拡大する形で変更があった。
戦前の長田区人口は林田区のもので代用した。ただし林田区と長田区ではその区域が大幅に異なる[75507]
---------------------------------------

ところで,余談ですが,震災後に新都心「HAT神戸」として生まれ変わった,製鉄所の跡地である中央区脇浜海岸通から灘区日出町にかけて,脇浜海岸通は町名をそのままに1,2丁目に分割したものの,日出町は摩耶海岸通と改称したうえで1,2丁目に分割されています。
なんで町名変更したんでしょう?「日出町」のほうが画数も圧倒的に少なく,悪い名前でもなかったろうに。

追記1:
「神戸市が人口100万人を突破したのは昭和14年?」

国勢調査では,神戸市人口が100万人を超えたのは,昭和35年調査で初めて達成したことですが,神戸市では,それを昭和14年であると言っています。(近代神戸略年表)
これは,神戸市の推計人口によるもので,昭和14年10月1日のものを下表に提示しておきます。
市区昭和14年10月推計人口昭和15年10月国調人口面積km2
神戸市【8区】1,006,100967,23483.06
林田区242,200229,35610.60
灘区160,000155,49819.48
兵庫区152,100149,3634.00
葺合区129,400123,8467.56
須磨区109,600113,21224.74
神戸区92,70079,8507.68
湊東区67,80062,3822.04
湊区52,80053,7276.96

現在の「中央5区」に相当する,狭い旧市域のみでの100万人です。しかも面積の4割ほどは山域です。
昭和15年国調人口では,100万人を割りましたが,その後,昭和16年4月に明石郡垂水町(昭和15年国調人口23,140人,面積31.99km2)を須磨区に編入し,同年の10月推計の神戸市人口は1,003,200人(面積115.05km2)となり,再び100万人を突破しました。しかし,昭和17,18年の推計人口は公表されず,昭和19年2月22日人口調査では,918,032人に減少しています[75507]

次に再び人口100万人の回復が記録されたのは,昭和31年10月1日の推計人口になります。昭和30年国調人口と合わせて,次に提示しておきます。
市区昭和30年10月国調人口昭和31年10月推計人口面積km2
神戸市【8区】981,3181,003,807492.42
兵庫区213,427217,985223.31
長田区189,806192,5088.60
灘区138,214141,00518.43
東灘区108,464112,15028.21
垂水区95,22597,341170.80
生田区81,54083,1098.20
須磨区80,08382,67025.38
葺合区74,55977,0399.49
【註】神戸市および兵庫区の昭和30年国調人口,面積には,昭和30年10月15日編入の有馬郡長尾村(同人口2,013人,面積13.07km2)を含む。現市域と比べると,北区淡河町は美嚢郡淡河村,上淡河村で市外である。


追記2:
ペーロケさんへ

お忙しい中,拙稿へのレス恐縮です。拙[91491]では,ペーロケさんのご質問の真意がわからず,特に後半ではきつい表現になってしまいました。
小生へのレスなど全く急ぎませんから,どうぞ,お時間のある折に,お考えが纏まってから,ご寄稿いただければ幸いでございます。
拙稿[91386][91427]にしても,投稿まで2週間以上の時間をかけて書いています。

記事訂正【1】昭和30年,昭和31年の神戸市各区人口表,および昭和16年以降の説明文を追加記載
[91495] 2016年 9月 24日(土)00:14:02ニジェガロージェッツ さん
楽しみなミニオフ会
[91429] JOUTOU さん
JOUTOUさん,オフ会を長年もご無沙汰を重ねてしまい,申し訳ございません。お写真を拝見しましたが,変わらずお元気そうで何よりです。小生はここ数年でかなり老けたような気がします。

大都市中心のミニオフ会も開催されると思うので、何れ二ジェさんとも再会できればうれしいです。
これは楽しみです。
先々月に横浜市で開催された番外編と同じシリーズでのオフ会の開催案があるのですか。
街歩きは大好きですから,是非参加させていただきます。
ただし,神戸から泊り掛けで出られそうにない生活を送っておりますので,大阪か和歌山,京都か奈良あたりでの開催があれば,万難を排して駆けつけます。

[91492] 白桃 さん
落書き帳史上、最多記録は何年何月何日か、お判りになったら教えてください。
2007年4月1日の174件では。記事番号[57501][57675]まで。57604は缺番


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