[34552][34566] special-week さん
尾久関連について、お約束通り親父に確認してきました。
ど~も、記憶だけで書くと嘘を言ってしまう証拠みたくなってしまっていたようです(汗
最も肝心な点から延べますと、「尾久駅」の設置は、住民の要望によるものだそうです。
当時、旧線の電車専用線化に伴って、列車線を設置したとき、そこへ駅を作るように最も強く運動を展開したのが、「尾久」の住民だったのだそうです。
その結果、中里に在りながら「尾久」という駅名になったということです。
ただ、やはり尾久駅の利用者は、鉄道関係者、それも尾久機関区の関係者が大半を占めていた模様です。
尾久機関区の機関士は、八割方が高崎方面からの居住者で、その通勤には尾久駅を使っていたとのこと。
ただし、親父は通勤方向が逆なので、尾久駅は一度も使った事が無いと言っていました。
通常は田端駅、しかし、都合の良い上野から尾久への回送列車があると、それに便乗していたとのこと。
また、尾久駅ではたしかに「改札口」は荒川区側にしかありませんが、鉄道勤務者は改札なんか通らずに、ホームから直接線路へ降りて、機関区へ向かっていた模様です。
上中里から民家の間を抜けるよりも、「自分の敷地」である操車場内を横切ったほうが安心(?)だったという所でしょうかねぇ?
※ 鉄道職員は、多分に回送列車を利用したり、線路上を平気で渡ったりしてた訳ですね。
※ と、言うか、あたしもそういう光景を何度も見た覚えがありますね。
※ 現在でこそ地下道も必要かもしれませんが、鉄道職員には、無用だったということのようです。
※ このあたりは、安全に関する考え方の遍歴を追う必要があるのかもしれません。
ちなみに、駅名等の遍歴は、以下のようになる模様です。
・当所は「上野機関庫」が有った。
・当所より、「上野」は旅客、「田畑」は貨物という仕事分けになっていた。
・「上野機関庫」は、関東大震災で消失し、田端へ合併(?)された。
・しかし、操車場機能は旅客と貨物では全く異なるため、旅客専用の「貝塚操車場」が設置された。
・大正15年10月、「田端機関庫貝塚給水所」が創立された。
・昭和4年6月、尾久経由の列車船開業。「貝塚操車場」は「尾久駅」となる。
・昭和5年9月、「田端機関庫尾久分庫」となる。
・昭和14年10月、尾久機関区として独立。
で、旧上野機関庫所属の職員は、大半が尾久機関区所属になったのだそうです。
あと、操車場と駅の関係ですが、旧国鉄の用語では「客扱い、もしくは荷扱いをするか否か」の差なのだそうです。
(現在のJRの用語では、どうなっているかは、わかりません。)
「操車場」が「駅」になったというと一般には奇異な感じを受けますが、どうも国鉄時代には、尾久操車場は尾久駅の構内という扱いだった模様ですね。
(ここ、細かく聞くのを忘れました。再確認が必要ですね…)
また、「貝塚操車場」が客扱いをするようになったったとき、名称が「尾久駅」となったので、「田端機関庫貝塚給水所」は「田端機関庫尾久分庫」へと名称が変わった模様です。
(ちなみに、「尾久の住民が強く運動しなければ、駅が出来た場合には『貝塚駅』だった筈、と言ってました。)
あと、尾久機関区と田端機関区の仕事分けについても大幅に覚え違いしてました。
尾久は当所より高崎線・東北本線の旅客列車扱いが主務で、後に水戸機関区より常磐線の旅客列車扱いを引き継いだのだそうです。
田端はずっと、貨物列車扱い専門だったとのこと。
で、従って下山事件の該当列車は田端操車場から出発していますが、機関車は水戸機関区所属、当時は基本的に同機関区の機関士が常務する規約だったそうなので、「機関士も水戸機関区の筈」とのことでした。
あたしの親父は古参の鉄道マニアみたいなモノで好きが嵩じて機関士になったような人間です。
なので、この方面の話題へ水を向けると、実に様々な話が出てきてしまいます。
その方面に興味のある方には、おそらく興味深い話題が多いと思うのですが、あまりに濃すぎるのでこちら向きでは無さそうです…