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落書き帳から選び抜いた珠玉の記事集

どうして尾久駅はつくられたのか?

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記事数=20件/更新日:2005年6月28日/編集者:special-week

上野駅から東北本線に乗って一番最初に出会う駅、それが尾久駅である。上野のにぎわいをまったく断じているこの駅周辺のまちなみは、東京区部では異常なほど閑散としている。こんな閑静な地に駅はつくられたのだろうか?そしてこの尾久駅のある地名はokuなのかoguについての謎にも迫る。

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[5191]2002年11月21日
special-week
[8857]2003年2月7日
special-week
[8880]2003年2月7日
Issie
[9410]2003年2月18日
special-week
[9413]2003年2月18日
Issie
[9417]2003年2月18日
special-week
[9421]2003年2月18日
深海魚
[9423]2003年2月18日
special-week
[9425]2003年2月18日
でるでる
[10232]2003年3月2日
special-week
[26379]2004年3月19日
matsu
[26390]2004年3月20日
special-week
[26393]2004年3月20日
Issie
[26439]2004年3月22日
般若堂そんぴん
[30023]2004年7月3日
special-week
[34541]2004年10月27日
NTJ会長
[34552]2004年10月27日
special-week
[34686]2004年11月1日
NTJ会長
[34687]2004年11月1日
special-week
[42632]2005年6月28日
matsu

[5191] 2002年 11月 21日(木)22:22:37special-week[ヒロオ] さん
高崎線・宇都宮線を考える
 「尾久」という駅をご存知でしょうか?(利用したことがあるのは、蘭丸さんぐらいかもしれないなぁ)
 上野駅から高崎線・宇都宮線で最初に停車するのが「尾久駅」です。尾久というのは荒川区の地名ですが、(荒川区には西尾久、東尾久があり、尾久という地名はない)駅は北区に存在しております。
 それでこの駅、上野から一駅のくせして(笑)駅前がまったく栄えてない。「栄えてないといっても地方に比べれば栄えているんじゃない?」と言われそうですが、本当に栄えてない。駅前に降り立ってもらえば、「ここ本当に東京23区内?」という疑問が沸くと思います。
目の前に渋谷まで延びる明治通りがあるにもかかわらず、です。
 それにしても栄えてなさすぎなので、私はここで提案したいと思います(誰に?)
 高崎線・宇都宮線は池袋方面にも走っていますので、尾久駅を通過しないで上中里駅の横を素通りして池袋駅に向かいます。赤羽から一気に池袋に行くのは、役割的には埼京線となんら変わりません。なので、ぜひ上中里駅に高崎線・宇都宮線の駅を建ててほしいと思います。線路が隣ですから、プラットホームと連絡通路をつくるのもそれほど大変ではないと思います。そして、尾久駅を廃止する。上野駅から上中里駅を通過して、赤羽に向かうという経路です。こうすれば、京浜東北線の上中里駅とも乗換駅になりますので駅前の活性化が促進されるであろうかと思います。
 また、新幹線の需要が増えたことから東京駅の機能がパンクするということで、品川新駅が建設されたということですので、上野駅の機能がパンクしそうになったら上中里駅に新幹線新駅をつくればいいのではないかと思います。駅の横に新幹線が通っていますし、金も労力も最小で乗換駅が造れます。
[8857] 2003年 2月 7日(金)10:17:46special-week[ヒロオ] さん
尾久の謎に迫る
[8842]
雑魚様
 東北線(高崎・宇都宮線)はもともと上野~日暮里~尾久~赤羽とつづく路線だったんですよね。日暮里駅が廃止されたので、尾久駅の存在がとても微妙なものになってしまったのではないかと思います。日暮里と尾久を田端に集約するなんて考えはなかったんでしょうかね。京浜東北線にしても田端~上中里間は、尾久駅が東北線の駅としてあるせいか、距離がほかの駅間よりも長いです。京浜東北線の駅間は一駅約二分程度ですが、田端~上中里間は三分強ありますね。中間に駅を設置して、尾久と統合することも考えられると思うのですが、やはり2大操車場に挟まれている地勢上無理なのかもしれません。
 日暮里駅がなくなって交通の便が悪くなった尾久駅ですが、救済措置として日暮里駅がなくなった今でも日暮里までは130円の初乗り料金で乗車できます。隣駅の上野や赤羽は150円なのに日暮里だけ130円なんです。隣駅よりも安いなんて普通は考えられないんですけどねえ。事情を知らない人が見たら不思議な光景です。

 こういった料金体系の場所はほかにもあるんでしょうかね?
[8880] 2003年 2月 7日(金)21:43:50【1】Issie さん
田畑界隈
[8857]ヒロオ さん
日暮里と尾久を田端に集約するなんて考えはなかったんでしょうかね。

現実は逆に進行したものです。

最初,日本鉄道の手で上野から高崎への鉄道が敷設されたとき,その路線は日暮里から田端を経由して王子・赤羽へと向かっていました。武蔵野台地末端の崖線に沿って,“最短距離”をとるルートです。
やがて,現在の常磐線にあたる支線が敷設されますが,当初この支線は田端を起点としていました。
1900年に発表された「鉄道唱歌(第3集)奥州・磐城編」(大和田建樹・作詞)では

 汽車は烟(けむり)を噴(は)き立てて 今ぞ上野を出でてゆく
 ゆくへは何(いづ)く陸奥(みちのく)の 青森までも一飛(ひととび)に

と上野を出発した列車が王子・赤羽を過ぎて現在の東北線ルートをとって青森へ到達して函館・弘前を展望したのち,岩沼から常磐線で上野へ帰る,という設定でした。
そして,

 車輪のめぐり速(すみやか)に 千住大橋右に見て
 環(たまき)の橋の限りなく ふたたび戻る田端駅

と,田端へ戻ってきています。同時に「ふたたび」が示唆するのは,一度め,東北線ルートで上野を出発したときも田端駅を通過していることです。

とは言え,上野を出発した常磐線列車が直後に田端でスイッチバックするのはあまりに不便ですから,短絡線が設置されその分岐点に「日暮里」の駅が設置されました。日暮里-三河島間の曲線半径が国鉄には珍しいくらい小さいのは,このせいです。
けれども,これは基本的に旅客列車についてのことであり,貨物列車は田端経由でありました。そうして東海道・中央方面からの貨物列車も受け入れる田端(貨物)操車場が発展することになります。
一方で当時,旅客列車に対する操車場の機能を受け持っていたのは上野駅構内でした。

けれども増え続ける輸送需要に対して上野駅は拡張を続け,駅構内で操車作業をすることが困難になってきました。また,城北地区の市街化とともに赤羽方面からの輸送需要も増大し,上野-桜木町間で行われていた電車運転(京浜電車)を赤羽まで延長することも構想されました。
そこで田端経由のルートを電車専用化して赤羽までの電車線(京浜東北線)とし,東北・上信越方面への中長距離旅客列車については別線を新設して両者を分離することが計画されました。
こうして新設されたのが尾久経由の現在の東北(旅客)線です。尾久には,飽和状態にあった上野駅構内に替わって,この方面への旅客列車の車両整備を担当する旅客操車場が新設されました。
なぜ田端操車場に隣接して設けられなかったかというと,この段階ですでに田端操車場に接する区域が市街化されてしまっていたことにあるのだろうと考えています。
そこを避けて広大な敷地を必要とする操車場を既存の田端操車場に隣接して新設することは困難だった。そう考えています。

もっとも,なぜわざわざ「尾久駅」を設置したかは,私にはわかりません。
すでに市内・近郊輸送用の「電車」と中長距離「列車」との役割分担は東京近郊区間では既に確立していましたから,京浜電車運転開始後,品川を発車した東海道線の列車が横浜までノンストップであったのに倣えば,東北・上信越線の列車だって上野を出て日暮里を過ぎれば赤羽までノンストップでも問題はないわけです。
何で尾久に停まっているんでしょうね。

尾久と田端の操車場の間をJRが買い取り、ここをすべて操車場化する。

今さらこれは無理でしょう。
極めて細分化された土地を膨大な数の市民から買い取るには,相当のエネルギーとお金が必要でしょうね。
バブル時代の地上げ屋もできなったことをしようというのですから。

<追記>
あっ,うっかりしていたけど,タイトルの漢字,間違ってますね。
ま,面倒だから,このまんまでいいや。
[9410] 2003年 2月 18日(火)20:27:58special-week さん
なぜ尾久に駅ができたか?
[8880]
Issie様

何で尾久に停まっているんでしょうね。

 だいぶ前の書き込みになってしまいましたが、尾久駅が設置された理由を調べてまいりました。尾久駅周辺は昔、温泉が湧き出ており、保養地として栄えていたようです。そして今では子供の楽園と化してしまった荒川遊園も以前は大人が楽しむ場だったようです。
 そして極めつけは、王子電気軌道(現都電)の存在です。昭和初期まで、東京の主要交通は路面電車でした。それゆえに都電沿線の尾久は現在では想像もできないぐらい栄えていたようです。そのために駅ができたのではないかと推測されます。
 荒川遊園が子供の遊び場と化し、都電が昔のような役割を終えた今、尾久駅の存在も宙に浮いたものとなってしまいました。今では年1回開催される鉄道フェスティバル時ににぎわう程度です。それでも鉄道小僧にとっては夢のような駅であようですが・・・
[9413] 2003年 2月 18日(火)21:14:34Issie さん
尾久
[9410]special-week さん
そして極めつけは、王子電気軌道(現都電)の存在です。昭和初期まで、東京の主要交通は路面電車でした。それゆえに都電沿線の尾久は現在では想像もできないぐらい栄えていたようです。そのために駅ができたのではないかと推測されます。

これは,わからない。
王電の存在を重視するなら,それは接続駅である王子駅に京浜(東北)線電車だけではなく東北・高崎線の中・長距離列車も停めればいいのでは。王電との連絡を全く考慮しない現在位置に尾久駅を設置する理由になるとは思えません。

「栄える」という表現がどのような状況を意味するのかよくわからないのですが,荒川遊園がターゲットとしていたのは基本的には東京市の住民でしょう。尾久駅を通過する東北・高崎線の列車とは無縁の存在ではないかと思います。逆に荒川遊園が北関東からの行楽客をあてにしていたとも思われません。
いずれにせよ,尾久駅前から荒川遊園方面へ商店街が形成された形跡はありませんね。
(私の親戚は東尾久の商店街で洋品店を営んでいますが,それは尾久駅とは全く別の道筋で,むしろ,田端駅との関連が見出せます。)

少なくとも,尾久駅と荒川遊園と王子電軌とを結びつけることはできないのではないか,と思います。
[9417] 2003年 2月 18日(火)22:02:29special-week さん
なぜ尾久に駅ができたのか
[9410]
Issie様

少なくとも,尾久駅と荒川遊園と王子電軌とを結びつけることはできないのではないか,と思います。

 尾久は大正初期に発見された温泉のため、かなりの発展を遂げます。これに拍車をかけたのが、王電と荒川遊園でした。荒川遊園は、[9410]でも記述した通り、子供を対象にした遊園地ではなく、大人を対象にしたものでした。そのため、当時は尾久駅から荒川遊園の道沿い、王電沿いに料理屋、芸妓屋・待合・温泉旅館などが乱立したようです。今でもその名残は残っていますね。尾久駅前よりも都電沿いにまちが開けています。
 駅名も温泉の影響からか、尾久駅は住所が北区昭和町にもかかわらず、荒川区の町名である尾久を使用しているに至っています。
[9421] 2003年 2月 18日(火)22:25:10深海魚[雑魚] さん
奥深い尾久の謎
[9413] Issieさん
王電との連絡を全く考慮しない現在位置に尾久駅を設置する理由になるとは思えません。
尾久駅に隣接する長距離列車用の車両基地への用務に配慮したものか、あるいは
用地提供の見返り補償の類か、そういう推論の余地はないでしょうか?
[9423] 2003年 2月 18日(火)22:31:22special-week さん
用地補償の推論
[9421]
雑魚様

尾久駅に隣接する長距離列車用の車両基地への用務に配慮したものか、あるいは
用地提供の見返り補償の類か、そういう推論の余地はないでしょうか?

 現在の尾久駅の利用状況を見ると雑魚さんがおっしゃっていることもあながちはずれてはいないと思います。尾久駅利用圏域の住民は一度都電に乗って王子へ出てから京浜東北に乗り換えることもできますから。駅前が発展していないことを考慮すると本当に補償のたぐいではないかと思えます。
[9425] 2003年 2月 18日(火)22:52:32でるでる さん
尾久駅
私も東京方面に向かう時にはたいてい宇都宮線を利用しておりますので、その度に尾久駅を通っているわけなのですが、確かに乗降客も少ないように思えます。一度だけ尾久駅で降りたことがあるのですが、駅前には明治通りがあることから車の交通量も多い一方で、駅周辺の人通りはかなり寂しかった記憶があります。そのためか23区内の駅とは思えないほど静かな駅だなぁという印象がありますね。尾久駅の西側には操車場・客車区が拡がるばかりですし。

[8880]Issie さん
こうして新設されたのが尾久経由の現在の東北(旅客)線です。尾久には,飽和状態にあった上野駅構内に替わって,この方面への旅客列車の車両整備を担当する旅客操車場が新設されました。

[9421]雑魚さん
用地提供の見返り補償の類か、そういう推論の余地はないでしょうか?

広大な操車場や客車区の設置によって、それまで田端駅や王子駅を利用していた住民が不便になることを避けるために、また雑魚さんの仰られている様に、用地提供や市街地分断(当時は市街地化されてはいないかな?)の見返りの様な形で、当時の国鉄が配慮したのか、それとも地元住民からの要望があったかして、客車区の東側に新設された中長距離旅客列車用の別線に、尾久駅が開設されたのではないかなと勝手に思ったりもするのですが、さて実際のところどうなんでしょうね。
[10232] 2003年 3月 2日(日)20:22:01special-week さん
尾久駅、田端駅と商店街の関連性
[9413]
Issie様

いずれにせよ,尾久駅前から荒川遊園方面へ商店街が形成された形跡はありませんね。
私の親戚は東尾久の商店街で洋品店を営んでいますが,それは尾久駅とは全く別の道筋で,むしろ,田端駅との関連が見出せます

だいぶ昔の書き込みになりましたが、本日、現地を歩き回って商店街がどのように形成されているか?を眺めてきました。
 Issieさんが指摘する田端駅と尾久商店街の関連ですが、これは完全に正しいとは思えません。確かに尾久駅よりも距離的には田端駅の方が近いです。しかし田端駅からの場合、東北線の線路、明治通りと2つの障壁がありますからここへの関連は薄れているように思えます。
 しからば、都電熊野前駅からのつながりあ強いのかといえば、そうでもない。
 尾久商店街は、厳密に分類すると川の手商店街、熊野前商店街の3つに分けることができますが、明治通りから熊野前駅に向かっていくにつれて商店街の活気は薄れています。そのことから考えても熊野前駅からのつながりも薄いように思えます。
 となると尾久駅からのアプローチになるか?という問いになります。これを立証するのも難しい。尾久駅前からは、池袋から明治通り走って北千住方面へ向かうバス路線があります。このバス路線は、もちろん尾久駅前にもバス停が設置されていますから、このバス路線によるところが大きいのではないか?と考えられます。
[26379] 2004年 3月 19日(金)18:52:35matsu さん
尾久駅について
尾久駅についていろいろと書き込みがされていましたので、地元民として知っていることをいくつかお伝えしたいと思いました。
駅名ですが、読みは「おく」となっており、車内アナウンスでも、駅のひらがな及びローマ字表記でも、「おく」です。しかし、地元の人は「おぐ」といいます。現在町名は「西尾久」「東尾久」となっていますが、それぞれ、「にしおぐ」「ひがしおぐ」と呼んでいます。それ以前は、行政上の正式名かは定かではありませんが、「上尾久」(かみおぐ)「下尾久」(しもおぐ)と呼んでいたようです。更にそれ以前は、小学校で習った記憶では、「尾久村」(おぐむら)だと思います。そもそも「おぐ」と濁って呼んでいたようです。なぜ、駅名のみ「おく」となったのかは周りに訊いても「?」です。
そのせいか、最近では、新しく出来たマンション等に住んでいる人たちは「おく」と言っている人も増えているようです。(マンション名などの読み方が「おく」となっているせいもある?)
ちなみに尾久駅前の信号機に表記されている交差点名ですが、「oguekimae」(おぐえきまえ)となっています。
また、今はありませんが、駅前の小さな小さな「ロータリー?」の横に自動車教習所があったようです。現在小金井のほうに移転しているようですが、名前はそのままで「尾久(おぐ)自動車学校」です。どうでも良い話ですが、私の父が尾久駅前で、私の嫁が小金井でそれぞれ卒業しています。理由は共に、近いから。私のときは既に移転していましたので、違うところに行きました。なんだか不思議な感じです。
あと、尾久にある商店街と尾久駅・田端駅との関連を論じておられていたようですが、それぞれの商店街と各駅との関連は地元の人にはないですね。まるで別物の話をくっつけて無理やり関連付けているような印象です。その点を責めているとか、非難しているわけではなく、全然関係ないものと捉えていると思ってください。
「温泉が~」の話は初めて聞きました。話の出所はどこなんでしょうか?そんなのは見たこと
も聞いたこともないです。知っている人がいたら是非教えてください。一度その温泉に入ってみたいです。
以上 楽しく読ませていただいたお礼に。少しは楽しんでいただけましたでしょうか?
どうも、ありがとうございました。
[26390] 2004年 3月 20日(土)01:18:14special-week さん
尾久三業地
[26379]
matsu様

 おおおっっっっっっっと!!!いきなり同士を得た気分です(笑)
 さて、ご質問の件についてお答えいたしましょう。
「温泉が~」の話は初めて聞きました。話の出所はどこなんでしょうか?そんなのは見たこと
も聞いたこともないです。知っている人がいたら是非教えてください。一度その温泉に入ってみたいです。

 比較的地味な尾久(住んでいらっしゃる方、悪意はございませんのでお許しを)が世間から注目を浴びた事件があります。それは映画にもなった「阿倍定事件」です。これらの事件の概略を説明すると長くなってしまうので、ネットで検索していただくとして、この阿倍定事件が起きたのは尾久が花街として栄えていた昭和11年です。この頃の尾久一帯は尾久三業地と呼ばれ、料理屋・芸妓屋・待合などが多く立ち並んでいました。この花街として栄えるようになったきっかけをつくったのが、尾久の温泉です。現在の住所でいうと西尾久2丁目ということですが、この温泉が大正3年に沸いたことで続々と温泉旅館が開業して一大花街としてにぎわうようになりました。現在は子供や高齢者の憩いの場としてにぎわっているあらかわ遊園も当時は大浴場などを備えた今で言うところのスパーランドのようなものでした。

 そして尾久三業地がなくなって久しい現在も、その名残をたどることは可能です。日本庭園を有していた温泉旅館の小泉閣は、現在熊野前駅の近くでボーリング場になっています。そして料理屋も2軒ほど営業を続けているようですよ。尾久三業地の盛況時は芸妓衆が300人以上いたと言われています。(参考文献:『散歩の達人 2004年2月号』)←大書店ならバックナンバーを置いていると思います。興味がありましたら、お買い求めください。

 これらを考慮すると尾久駅が北区昭和町にありながら尾久駅としたのは、有名な三業地の名前を付けた方が対外的に分かりやすかったからではないかと思います。
[26393] 2004年 3月 20日(土)02:04:35【1】Issie さん
恋の山手線
[26379] matsu さん
駅名ですが、読みは「おく」となっており、車内アナウンスでも、駅のひらがな及びローマ字表記でも、「おく」です。しかし、地元の人は「おぐ」といいます。

ずいぶん以前にも話題にしたことがありますが,あたしの親戚に尾久の商店街で洋品店をやっているおばさん(親父のいとこ)がいました。すでに亡くなっていますが,我が一族では「“おぐ”のおばさん」と呼んでいました。
したがって,我が「石田・阿久澤一族」では,あそこの地名はあくまで「おぐ」です。

たぶん,あたしが生まれる前だと思いますが,浜口庫之助/小林旭の歌で「恋の山手線」という作品がありました。
(この場合,江戸・東京伝来の「やまのて線」ではなく,“戦後”を象徴する「やまて線」と読まなければなりません。そして,1960年代の子供として初めて接触した山手線電車が「黄色」かったあたしには,「やまのて線」よりも「やまて線」の方がはるかに親しい呼び方です。たとえ,「やまのて線」の方が“由緒正しい”呼び方であったとしても。
ついでに,京浜東北線は相当遅くまで「茶色」かったです。横浜・南武線や“千葉以遠”を別にすれば。)

「上のオフィスの可愛い娘…」で始まって,“内回り”で「オカチな恋だと言われても,ヤマテ花咲く日も近い…」とつづくこの歌,〆めは「青くホームに日が暮れる」で終わるわけですが,月がとっても青い(by 菅原都々子)ことはあっても,日暮れが青いことは普通ありませんね。
やっぱ,これは東北線の「尾久」駅にかけているのだと思いますが,であるならばこの駅は「おく」でなければなりません(青くなるのは,日が沈んだ後と,夜明け時です)。

ま,本末転倒ですが。
[26439] 2004年 3月 22日(月)00:11:39般若堂そんぴん さん
尾久(おぐ)
1975年の夏,ある百貨店系列運輸会社で御中元配送のアルバイトをしました.と言っても,当時は高校を中退して9~10ヶ月,運転免許も持たず,ただの助手でしたが.
荒川○丁目,町屋○丁目,東尾久○丁目,西尾久○丁目あたりが受け持ち範囲でした.お米屋さんが集配の拠点になっている例が多いな,と感じましたっけ.
「尾久」の読み方は「おぐ」でしたね.「ぐ」は鼻濁音です.そのおかげで,東北本線の尾久駅を見るまで,「おく」という発音は頭の中にありませんでした.
(昼休みに北区役所の食堂でオムライスを食べるのが楽しみでした……あ,何だか涙が……)

当時,仕事を終えて帰り着く時間には銭湯が閉まっており,冷房のない四畳半の部屋の流しで洗髪し,絞ったタオルで体を拭いておりました.何というか,妙な根性がありましたね(ただし,曲がっていますが).
[30023] 2004年 7月 3日(土)03:02:57special-week さん
駅物語「尾久駅」

 今月発売した『潮』7月号のなかで川本三郎氏が駅物語シリーズで「尾久駅」を取り上げました。書き出しが、「東京の人間でも存在を知らない人間が多いのではないか」と書いています。
 このなかで、どうして駅ができたのか?について多少ながら触れられています。

 以前に落書き帳では操車場ができたことによる不便さへの代償的な見方が有力でしたが、今回の川本氏の書き方だと、むしろ操車場があるのでついでに駅を設置したというような書き方をされています。
 ただ川本氏の文章はあくまでエッセイ的な扱いなので、どこまで調べて書いているのかは不明ですが…
[34541] 2004年 10月 27日(水)18:18:03NTJ会長 さん
アーカイブズ:どうして尾久駅はつくられたのか?
このアーカイブズ、「決定解答」が見つからないままになっているように見受けます。
で、あたしの「知っている解答」なぞ。

この駅は、実は通過する「東北本線」ではなく、「常磐線」と関わりの深い駅だったようです。
現在でこそ、「田端操車場」と「尾久操車場」となっていますが、かつては「田端機関区」と「尾久機関区」でしてた。蒸気機関車のねぐら(笑)ですね。
で、田端は東北本線、尾久は常磐線が担当でした。
この「尾久機関区」の従事者向けの駅が「尾久駅」だったというのが、正解らしいです。
つまり、地域住民の利便性には無関係で、国鉄の内部事情によるものだった、と。
同様の例は、総武快速線が新小岩へ停車する理由らしいです。

あと、尾久機関区の所属機関士には、相当なエリート意識があったようです。
さらに、田端機関区に対して、強い対抗意識をもっていた模様です。
そして、上野-仙台間の所要時間を競っていたとのこと。(数分差だった模様)

尾久駅前がかつて栄えていた最大の理由は、この「機関区」関係者の存在によるもだったのではないでしょうか。
(蒸気機関車勤務後は、風呂は必須の要素だったようですし。)

※以上、かつて尾久機関区勤務だった、親父の昔話からの情報でした。間違ってたら、ごめんなさい。
※親父の古いダブルの8ミリフィルムには、在りし日の尾久機関区の実務光景などが残っています。

PS.親父は「おぐきかんく」と発音してました~
[34552] 2004年 10月 27日(水)23:46:14special-week さん
尾久駅は常磐線?
[34541]
NTJ会長様

で、田端は東北本線、尾久は常磐線が担当でした。

 ちょっとお伺いしたいのですが、この尾久は常磐線が担当だったのはいつぐらいの話でしょうか?1949年に起きた下山事件で、下山総裁をはねたとされる常磐線の列車は、田端機関区の列車です。これ以前ならともかく、これ以後に田端は東北本線と言われると、ちょっと違和感があります。
 ちなみに、尾久駅の設置は昭和4年だそうですが、残念ながら戦災によって北区役所には瀧野川区時代の資料がないとのことでした。(どっか、北区の図書館を探したらありそうですけど)
 現在は尾久操車場に常磐線が眠っておりますが、だからといって尾久が常磐線との関わりが強かったとはちょっと考えにくいです。
[34686] 2004年 11月 1日(月)14:41:42NTJ会長 さん
報告・尾久の話
[34552][34566] special-week さん
尾久関連について、お約束通り親父に確認してきました。
ど~も、記憶だけで書くと嘘を言ってしまう証拠みたくなってしまっていたようです(汗

最も肝心な点から延べますと、「尾久駅」の設置は、住民の要望によるものだそうです。
当時、旧線の電車専用線化に伴って、列車線を設置したとき、そこへ駅を作るように最も強く運動を展開したのが、「尾久」の住民だったのだそうです。
その結果、中里に在りながら「尾久」という駅名になったということです。


ただ、やはり尾久駅の利用者は、鉄道関係者、それも尾久機関区の関係者が大半を占めていた模様です。
尾久機関区の機関士は、八割方が高崎方面からの居住者で、その通勤には尾久駅を使っていたとのこと。
ただし、親父は通勤方向が逆なので、尾久駅は一度も使った事が無いと言っていました。
通常は田端駅、しかし、都合の良い上野から尾久への回送列車があると、それに便乗していたとのこと。
また、尾久駅ではたしかに「改札口」は荒川区側にしかありませんが、鉄道勤務者は改札なんか通らずに、ホームから直接線路へ降りて、機関区へ向かっていた模様です。
上中里から民家の間を抜けるよりも、「自分の敷地」である操車場内を横切ったほうが安心(?)だったという所でしょうかねぇ?
※ 鉄道職員は、多分に回送列車を利用したり、線路上を平気で渡ったりしてた訳ですね。
※ と、言うか、あたしもそういう光景を何度も見た覚えがありますね。
※ 現在でこそ地下道も必要かもしれませんが、鉄道職員には、無用だったということのようです。
※ このあたりは、安全に関する考え方の遍歴を追う必要があるのかもしれません。


ちなみに、駅名等の遍歴は、以下のようになる模様です。
 ・当所は「上野機関庫」が有った。
 ・当所より、「上野」は旅客、「田畑」は貨物という仕事分けになっていた。
 ・「上野機関庫」は、関東大震災で消失し、田端へ合併(?)された。
 ・しかし、操車場機能は旅客と貨物では全く異なるため、旅客専用の「貝塚操車場」が設置された。
 ・大正15年10月、「田端機関庫貝塚給水所」が創立された。
 ・昭和4年6月、尾久経由の列車船開業。「貝塚操車場」は「尾久駅」となる。
 ・昭和5年9月、「田端機関庫尾久分庫」となる。
 ・昭和14年10月、尾久機関区として独立。
 で、旧上野機関庫所属の職員は、大半が尾久機関区所属になったのだそうです。

あと、操車場と駅の関係ですが、旧国鉄の用語では「客扱い、もしくは荷扱いをするか否か」の差なのだそうです。
(現在のJRの用語では、どうなっているかは、わかりません。)
「操車場」が「駅」になったというと一般には奇異な感じを受けますが、どうも国鉄時代には、尾久操車場は尾久駅の構内という扱いだった模様ですね。
(ここ、細かく聞くのを忘れました。再確認が必要ですね…)
また、「貝塚操車場」が客扱いをするようになったったとき、名称が「尾久駅」となったので、「田端機関庫貝塚給水所」は「田端機関庫尾久分庫」へと名称が変わった模様です。
(ちなみに、「尾久の住民が強く運動しなければ、駅が出来た場合には『貝塚駅』だった筈、と言ってました。)


あと、尾久機関区と田端機関区の仕事分けについても大幅に覚え違いしてました。
尾久は当所より高崎線・東北本線の旅客列車扱いが主務で、後に水戸機関区より常磐線の旅客列車扱いを引き継いだのだそうです。
田端はずっと、貨物列車扱い専門だったとのこと。
で、従って下山事件の該当列車は田端操車場から出発していますが、機関車は水戸機関区所属、当時は基本的に同機関区の機関士が常務する規約だったそうなので、「機関士も水戸機関区の筈」とのことでした。


あたしの親父は古参の鉄道マニアみたいなモノで好きが嵩じて機関士になったような人間です。
なので、この方面の話題へ水を向けると、実に様々な話が出てきてしまいます。
その方面に興味のある方には、おそらく興味深い話題が多いと思うのですが、あまりに濃すぎるのでこちら向きでは無さそうです…
[34687] 2004年 11月 1日(月)15:47:46special-week さん
尾久駅は住民誘致の駅?
[34686]NTJ会長様

 なかなか興味深い話をありがとうございます。
 もともと、尾久についての話題は私ぐらいしか書く人がいなかったので、寂しい思いをしておりました。その後、Issieさんやmastuさんなど、尾久に関わりのある人が出てきて、東京の小さな小さな話なのに、アーカイブにまでしてしまう編集権の濫用ともとれる行為をしております(笑)

 さて、今回のお話もかな~り興味を引いたのですが、
最も肝心な点から延べますと、「尾久駅」の設置は、住民の要望によるものだそうです。
当時、旧線の電車専用線化に伴って、列車線を設置したとき、そこへ駅を作るように最も強く運動を展開したのが、「尾久」の住民だったのだそうです。
その結果、中里に在りながら「尾久」という駅名になったということです。

 現在、尾久駅の住所は北区昭和町です。中里にはありません。また尾久車両センターも上中里になります。
 で、私は思うのですが、Issieさんはよく「昔、駅が忌避されたのは、鉄道がくると町が廃れるというのではなく、すでに町のなかに駅をつくる用地がなかったから」という説を主張しています。
 私もこの説を支持しているのですが、だとすると尾久駅が住民から誘致されたと考えるのは難しい。むしろ尾久に駅をつくろうとしたに対して、三業地でにぎわう尾久住民が、「こんなところに駅をつくるな。つくるなら湿原のところにつくれ」とかなんとか言って、現在の貝塚近辺に操車場や駅をつくらせたのではないかと私は考えます。
 尾久駅の開業よりも、王電の方がはるかに早く開業してます。王電の沿線と交通の便や三業地のにぎわいと相まってすでに尾久近辺はかなりの市街地の様相を呈していたはずです。
[42632] 2005年 6月 28日(火)16:59:19matsu さん
尾久について
久しぶりに拝見させていただき、新たに書き込みがされており、楽しく読ませていただきました。
さて、以前私が知らなかった尾久の温泉地ですが、父に聞いたところ確かにあったそうです。
場所は、現在の都電荒川線熊野前停留所すぐのところ、私が知っている範囲では、ずっとボーリング場であった場所ですが、そこがそうだったそうです。
少し前に、テレビ東京系のアド街ック天国で荒川遊園地を中心とした尾久を取り上げておりましたが、そこでもこのボーリング場が出てきていました。地元ゆえに色々取り上げていたもの一つ一つが身近でとてもうれしかったです。伊集院光氏が出演されていて地元と言っておられましたが、間違いないです。私は彼の2つ?(かな?)年上でしたが、小学生のときから何かと近所では知られた存在で、目立っていましたよ。(本名は伊集院ではありません。)
ちなみに、そのボーリング場も現在は取り壊されてしまい(今現在更地です)、跡地にはオリンピック?ができるそうです。敷地は都電通りに面していて、現在は都電も車道から分離され(一応は路面の体裁はとっていますが)ている為、車は片側一車線ですので、かなり渋滞しそうな気がします。
近くには、消防署(都電通り沿い)、東京女子医大第二病院(宮ノ前停留所より商店街をちょっと入ったところ)が有りますので、何かあったとき身動き取れないような気がします。
話はそれますが、この女子医大第二病院ですが、病院名(付属第二病院)を変更するそうで、昨年新名称を公募していましたが、新名称はまだ決まっていないようです。
阿部定事件があったのは、この病院のすぐ近くだそうです。近くには、未だ黒塗りの板塀の家が一件有り、そこだけ当時の面影が残っています。
尾久駅ですが、地元民の要望説、また駅の設置場所について色々な説があるようですが、地元民の要望説には私は否定的な見解を持っています。
地元からの要望であるのであれば、駅ができて駅前が少なくとも今よりもっと商業地化していてもおかしくないと思いますし、駅利用者がもっと多くてもよい気がしますが、いまだ都区内の駅とは思えないほど駅前には何もありません。最近は明治通り沿いという事で多少変わってきましたが、それは駅とは関係なく車対応の店舗が殆んどです。
駅自体が利用しにくいという点はあるかと思います。高崎線宇都宮線のみで、上野駅か赤羽駅に一本一駅でいけるといえば聞こえはいいですが、上野か赤羽に行く以外では、逆に乗換えが不便な上、電車の本数が少ない(最近は快速か何かがあり通過するのでさらに)ので、たいていの人は田端駅を利用していると思います。私自身も通勤通学では田端駅を利用していましたし、尾久駅の利用はあまり考えたことすらありません。駅までの距離は間違いなく尾久駅のほうが近いにもかかわらず。
そうそう、駅名も漢字では「尾久」で違和感はありませんが、駅は「おくえき」ですしね。
話は違いますが、都電の停留所は西尾久町内に4つありますが、停留所名で「西尾久」を冠する停留所はありません。「東尾久」は一つありますが。
とはいえ、今のまま変わらず寂れたままのほうが個人的にはよかったりして。周りは私の子供の頃に比べやはりだいぶ変わってきています。小さな工場(こうば)が多かったのですが、マンションがずいぶん増えましたし、駅前くらいそのままでもいい気がしているこのごろです。
とりとめも無く、つらつらと書いてしまいましたが、最後まで目を通していただいた方には御礼申し上げます。長い間お付き合いいただきありがとうございました。
では、またいずれ・・・

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