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創業期の鉄道

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記事数=12件/更新日:2012年10月14日

日本の鉄道創業 140周年を機会に、hmtマガジン 鉄道特集号 を作ることにしました。
最初の特集は 「創業期の鉄道」 と題して、1872年6月12日の品川−横浜間仮開業の記事から 同1872年10月14日【注1】に 明治天皇を迎えて行なわれた 新橋−横浜間開業式の記事へと 進めようと思いました。
【注1】日付について
「10月14日」は、ご存知「鉄道の日」ですが、政府が好んで使う「太陽暦換算」です。当時使用されていた暦(太陰太陽暦)では明治5年9月12日になります。品川仮開業日は明治5年5月7日です。

しかし、品川仮開業時【注2】の本格的記事は見当たらず、いきなり本開業の記事 [80065][49808]から始めます。
【注2】品川〜横浜(現・桜木町)間仮開業時
所要時間は35分というから、意外なスピードに驚きます。但し新橋まで開通して途中駅に停車するようになったら53分。[39140]

[80065]には、公文録付属の「新橋横浜間鉄道之図」(国の重要文化財指定)、本営業に先立つ工部省布達 「汽車運転之時限並賃金表」、それに明治天皇の御案内役を勤めた 山尾庸三の伝記も リンクしてありますから、ぜひ リンク文書も御覧ください。
山尾の伝記には、工事中の明治4年8月に、早くも木戸孝允・大隈重信の試乗があり、11月には鉄道反対論の大久保利通も試乗した結果、双手を挙げて鉄道賛成に転じたというエピソードも綴られています。

[49808]には、開業時の終点であった(初代)横浜駅(現・桜木町駅)が記されており、両ターミナルの位置から「市街地に入れない」鉄道の問題点に触れています。この問題については、特集:市街地乗り入れに成功した鉄道 を御覧ください。

明治5年の京浜間に続いて開業した鉄道は、明治7年の阪神間であり、この時の仮開業達も[80065]にリンクしました。
阪神間鉄道が大津まで延びた後は、とりあえずは水運が使える 琵琶湖を挟んで 長浜から大垣への 中山道鉄道 になりますが、この鉄道建設の起点が 日本海の港湾 金ヶ崎とされたのは 建設資材輸送があるためです。

そして中山道鉄道の東側も、半官半民の日本鉄道によって建設が開始されました。最初は資材輸送に隅田川の舟運も使われましたが、本格的には 品川−赤羽間の支線により 横浜港からの鉄道輸送を可能とする体制 を取りました。
これが、東京の市街地を避けた「山の手」を経由して作られた 「山手線」です。

[38482][38538]は、この頃の鉄道建設に関する記事であり、明治13年からの幌内鉄道にも言及されています。
前記山尾の伝記にも、この時代の鉄道建設の着手・開業日リストがあります。

明治18年(1885)には、山手線開業により 新宿駅・赤羽駅(品川駅と共に分岐駅第1号)などが開業しました。
そして、同じ年に 新設の大宮駅で分岐して 青森へ向う鉄道の一部(宇都宮まで)も開業しました。
120年周年の機会に書かれた落書き帳記事も収録しておきます。

時代が少し先に進みましたが、田端界隈を通る日本鉄道の経路、そして仮開業時からの 「鉄道駅第1号」 である品川駅が、品川宿から少し離れているのに 「品川」を名乗った事情 などについての記事も補足しておきます。

★推奨します★(元祖いいね)


[80065] 2012年 1月 10日(火)23:35:17【1】hmt さん
東京横浜間鉄道?
[79961] 芝浦の新駅の記事を読み返してみると、“大先輩の「東京横浜間鉄道」”と書いています。
これまで私の頭の中にあったのは、「駅間」を使った「新橋横浜間鉄道」という路線名です。
例えば国立公文書館デジタルアーカイブに 新橋横濱之間鉄道之圖 があります。

リンク先の6年前の記事[49808]により、“首都と開港場とを結ぶ「東京横浜間鉄道」”からのコピペと判明。
引用した明治天皇の勅語にも“東京横浜間ノ鉄道”とあります。
考えてみれば、この鉄道を「都市間鉄道」とするのは正しい認識であり、「東京横浜間鉄道」という表記は、単純な誤記であると片付けられないように感じられます。
そこで、路線名を少し詮索してみました。

改めて調べてみると、明治天皇の御案内役を勤めた 山尾庸三の伝記 に 鉄道開業当時の詳細な経過が記されていました。
これによると、引用した勅語は 横浜ではなく、新橋に戻った後に 東京で行なわれた開通式典で発せられたとあります。
ともかくも、勅語の中に「東京横浜間の鉄道」とあるのは確かなようです。

山尾は鉄道掛を所管する工部省の少輔(次官補?)ですが、この役所では何と呼んでいたのか?
明治5年9月3日工部省無号布達 の「汽車運転之時限並賃金表」には、横浜・神奈川・鶴見・川崎・品川・新橋と6駅が記されていますが、路線名を直接に見出すことができませんでした。
開業当時は、他の路線と区別する必要がないので、路線名なしで当然かもしれません。

しかし、時刻表の下には次のように「駅間」でなく「都市間」で区間を表記した文があります。
九月十日より旅客の列車此表に示す時刻の発着にて日々東京横浜各ステイション間を往復す
手回り荷物は東京横浜の間目方30斤迄は25銭…

明治7年 阪神間鉄道の仮開業 にも路線名の記載はありません。
要するに、正式の路線名が制定されていない明治初期には、「東京横浜間鉄道」「新橋横浜間鉄道」など、適宜に呼んで よかったように思われます。

なお、国有鉄道線路名称 が正式に定められたのは、ずっと後、鉄道国有化2年後の明治42年(1909)でした。

この時に定められたのは、本州 12線(東海道線・北陸線・…・総武線)、四国2線、九州5線、北海道4線で、「東海道線」の部の中に「東海道本線」など6線がありました。「東海道本線」に括弧書きで(新橋神戸間、神奈川横浜程ヶ谷間及び貨物支線)と記されています。

余談ですが、“神奈川横浜程ヶ谷間”とあるのは、神奈川程ヶ谷間直通線【注】が作られる前からあった、横浜駅【桜木町】でスイッチバックする路線[49808]、つまり「トライアングル[49640][49796]の2辺」のことです。
【注】
日清戦争の兵員輸送目的で建設。戦後東海道本線に転用され、17年間使用された。

話を芝浦の新駅[79961]に戻すと、この新駅ができる区間は、現在の線路名称規定でも、この「東海道本線(東京神戸間)」に引き継がれているはずです。
しかし、JR東日本のサイト において隣接駅「田町」を検索すると、“京浜東北線 山手線”と運転系統で表示され、線路名称の東海道本線は出てきません。

“普通の人”の感覚からすれば、ニュースのタイトルが“山手線に新駅”[79942]になるのは、当然のことなのでしょう。
“京浜東北線に新駅”でもよい筈ですが、こちらは少し遠い地域に及ぶ線です。
都心に近い「山手線」の方がより馴染みがある路線ということになります。

路線名の詮索はこれで終り、明治5年(1872)の鉄道開業時のことを少し補足しておきます。

品川横浜間は、旧暦5月7日に仮開業。法令全書
本営業が旧暦9月にずれ込んだ原因は、やはり高輪海岸に海中鉄路を建設しなければならなかったことが、大きかったと思われます。
陸軍[79961]だけでなく、品川湾に軍艦を停泊させる海軍も鉄道敷設に反対でした。
明治4年東京大絵図を見ると、品川ステーションの直前に、八ツ山下海軍用地がありました。
海軍用地が使えないために、ここまでが海上ルートになったのでした。

重陽の節句に予定していた開業式は、暴風雨で3日遅れの旧暦9月12日【太陽暦換算10月14日鉄道記念日】になりました。
引用文にあったように 開業式翌日“九月十日”に予定していた一般旅客相手の本営業開始も、当然3日遅れになりました。
[49808] 2006年 3月 12日(日)16:20:36hmt さん
トライアングルの頂点だった時代もある横浜駅三代記
失われた「トライアングル」が横浜にありました [49796]。この機会に横浜駅の歴史を振り返ってみます。

よく知られているように、日本の鉄道のはじまりは明治5年です。
初代の「横浜駅」(現・桜木町駅)は、品川-横浜間が仮開業した明治5年5月7日(1872/6/12)に誕生した“日本最初の鉄道駅”です。
4ヶ月後には新橋駅も完成し、重陽の節句を期して正式の開業式が行なわれる予定でしたが、暴風雨のために3日後の明治5年9月12日となりました。太陽暦換算[49122]で1872年10月14日(鉄道記念日→鉄道の日)。

満20歳になる直前の明治天皇は、1時間の乗車(仮開業時代にも乗車経験あり)の後、横浜駅で
東京横浜間ノ鉄道朕親シク開行ス 自今此便利ニヨリ貿易愈繁昌庶民益富盛ニ至ランコトヲ望ム
という勅語を発せられました。

これを事始めとして、鉄道建設は東海道を西へと進み、やがて京都・大阪に達した……わけではありません。

この鉄道は、あくまでも首都と開港場とを結ぶ「東京横浜間鉄道」であり、横浜駅は外国人居留地に突き当った町はずれの地に設けられました。そう言えば、新橋駅も明石町の外国人居留地[35134]に近い場所でした。
新橋駅・横浜駅共に、市街地を突っ切らなければ鉄道の延長ができない立地であり、文字通りのターミナルでした。
東京の市街高架線が通じたのは1910年。電車唱歌の時代[35062]よりも後です。横浜の根岸線に至っては1964年になってようやく実現しました。

では、西京と東京とを結ぶ鉄道は?
もちろん東西両京を結ぶ鉄道の必要性は認められていましたが、資金がなくては着工できないし、東海道経由と中山道経由との利害得失も考えなければなりません。

西南の役などを経て、鉄道の軍事的価値も認識され、地域開発や防備上の見地から中山道ルートの鉄道が選ばれて着工しました。しかし、やがて山岳地帯の工事困難や輸送力低下が明白になり、明治19年(1886)に至ってコロッと方針を変更します。
こうして、ようやく東海道鉄道を建設する体制になりました。

そうなると、行き止まりの横浜駅からどのようにして西へ進むのか?
止むを得ず、スイッチバックで東海道の程ヶ谷に向かったのですね。このようにして、横浜-国府津間は明治20年7月に開業。

他方、神戸-京都間から鉄道敷設が始まった西側では、中山道鉄道時代の明治17年には琵琶湖の汽船連絡を含めて大垣までが開通し、武豊から名古屋へと進んだ工事も、明治20年4月には木曽川橋梁で西からの鉄道と結ばれていました。

御殿場ルートの足柄越え、伊吹越えルートの変更、汽船に頼っていた湖東線部分の建設を含む残りの区間の工事を終えて、東京-神戸間が全通したのは明治22年7月でした。

横浜駅の話に戻ります。
Old Map Room で明治24年測量を選び「↓」により表示位置を切り替えてみてください。

神奈川方面(上方)から南下してきた鉄道線路が、下端に近い初代横浜駅でスイッチバックして、程ヶ谷方面(左方)へと伸びている様子が示されています。高島町から程ヶ谷(現・保土ヶ谷)へと向かう線路は、ほぼ現在の国道1号沿いです。

「↑」によって分岐点よりも北を見ると、横浜駅と神奈川駅(横浜駅の1ヶ月後に開業、地図の北端近くで緑色の東海道と青木橋で交差)との間の鉄道線路は、細長い埋立地を何個も連ねて、入り江を弧状に横断した築堤の上に敷設されたことがわかります。万里橋はこのような埋立地を結ぶ橋の一つでした。神奈川の港があった湾入は、「平沼」に変っています。この埋立を請け負ったのが高島嘉右衛門で、鉄道用地などの官有地を除いた部分の土地を取得しました。高島町の名は、もちろん彼に由来します。

この地図から3年後の明治27年に日清戦争が勃発すると、陸軍は青山練兵場[35062] (現・神宮外苑)の軍用停車場に集結させた兵士を鉄道で西に送ることになりました。ところが、新宿・品川・横浜とスイッチバックが続いて、すこぶる非能率です。そこで品川線の大崎から大井へと短絡させて品川スイッチバックを解消しました。大井には、後に新橋から鉄道工場が移転して現在に至っています。

本稿の主題である横浜にも、神奈川駅から程ヶ谷駅へと直線で結ぶ軍用列車直通線を建設しました。
日清戦争は翌1895年に終わりましたが、鉄道局はこれを横浜スイッチバック解消の好機ととらえ、直通線を複線化して東海道線に転用します(明治31年=1898)。このようにして、神奈川駅・横浜駅・程ヶ谷駅という「トライアングル」が出来上がりました。

しかし、本線から外れて、神奈川または程ヶ谷での乗換を強いられることになった横浜の商業会議所はもちろん猛反対です。
妥協の産物として、明治34年に直通本線上に平沼駅を開設することになったのですが、この駅も横浜からの交通の便が悪くて不評だったそうです。

Old Map Roomには、この時代の地図はありませんが、大正11年に切り替えてみると、平沼を埋め立てた土地にできた石油タンクやゴム会社の付近に「旧直通線」という表示が見えます。

スイッチバックは解消しなければならないが、横浜の立場を無視するわけにもゆかない。そこで、神奈川からの線路を程ヶ谷への直進でなく横浜の方へねじ曲げることになり、高島町に2代目横浜駅が誕生することになりました。東京駅が完成して、京浜間が高速電車の専用線(現・京浜東北線)で結ばれた[39140] 翌年、大正4年(1915)のことです。
この時に初代横浜駅は桜木町駅と改名され、高島町から延長された電車のターミナルとして再出発しました。
このようにして、「トライアングル」の時代は17年間で終り、不評の平沼駅は廃止されました。

Old Map Roomの大正11年の地図は、この2代目横浜駅時代です。埋立てが進み、貨物駅、造船所などが目立ちます。
大正11年という年代からわかるように、翌年には関東大震災に襲われ、1年先輩の東京駅と同じように赤煉瓦造りだった2代目横浜駅も、新築後わずか8年で大きな被害を蒙ります。

震災復興にあたっては、平沼中央駅計画案などもあったようですが、結局のところ、本線は直通するが桜木町への電車線は残し、両者の分岐点に3代目横浜駅を造ることになりました。
大正11年の地図で、ライジングサンとスタンダードの油槽所の間を「旧直通線」が通っていた場所で、昭和3年(1928)10月開業。

昭和23年と平成11年の地図にある通り、これが現在の横浜駅であり、横浜駅と近くなりすぎた神奈川駅は廃止されました。新しい地図でも万里橋とその付近の道路のカーブが、最初に鉄道を敷設した弧状の埋立地の痕跡を残していますが、古い地図と比較しなければ、なかなかこの事実に気付きません。

三代記と銘打ちながら、明治、大正の「トライアングル」の時代を中心としたので、現・横浜駅が生まれたところで終わります。
戦後を中心とした「ステーション物語」は、ありがたき さんの[27546]をご覧ください。
[38482] 2005年 3月 11日(金)04:37:09【2】KMKZ さん
品川線開業以前
[38371]音無鈴鹿 さん
[38338]KMKZさん
ところで品川線以前の開業路線で路線が分岐している例は無いのでしょうか?
品川駅と赤羽駅は日本最初の分岐駅ってことになるのかな?
どうやらそのようですね。

調査してみたのですが、120年前(1885年3月1日)の日本鉄道品川線開業直前の時点においては分岐の無い5本の開業区間があったに過ぎず、この時までは、路線分岐の例はなさそうです。

[1885(明治18)年2月時点における鉄道開業区間]
開業区間開業日事業者所在地当時の駅
新橋-横浜1872/6/12-1872/10/14官営東京,神奈川新橋,品川,大森,川崎,鶴見,神奈川,横浜
神戸-大津1874/5/11-1880/7/14官営兵庫,大阪,京都,滋賀神戸,三宮,西宮,大阪,吹田,茨木,高槻,山崎,向日町,京都,
稲荷,大谷,山科,大津
手宮-幌内1880/11/28-1882/11/23官営北海道手宮,開運町,朝里,銭函,軽川,琴似,札幌,
白石,野幌,江別,幌向,岩見沢,幌内太,幌内
金ヶ崎-大垣1882/3/10-1884/5/25官営福井,滋賀,岐阜金ヶ崎,柳ヶ瀬,長浜,関ヶ原,垂井,大垣
上野-前橋1883/7/26-1884/8/20日本鉄道東京,埼玉,群馬上野,王子,浦和,上尾,鴻巣,熊谷,深谷,本庄,新町,高崎,前橋
※運転系統が良くわからないので路線の連続性のみに着目して分類しています。

最初に鉄道路線が分岐したのは、日本鉄道品川線の開通が最初のようですが、この1885年には、さらに大宮駅の開業と東北線の大宮・宇都宮間、信越線の高崎・横川間の開業で日本鉄道の上野-前橋間の路線(現在の高崎線などに該当)を中心に新線が分岐し品川、赤羽、大宮、高崎の4駅が分岐駅となりました。
鉄道交通の要衝としての大宮、高崎の歴史は120年前に遡ることができるわけです。

なお1886(明治19)年の時刻表では上野-前橋間と上野-宇都宮間の列車の上野-浦和間の各駅の発車時刻、到着時刻は全て同じになっています。
大宮駅で列車の分割、併合を行っているらしく、客車列車(貨物も含めて?)の分割併合運転の最初の例なのでしょうか。
[38538] 2005年 3月 13日(日)06:52:08KMKZ さん
明治初期における鉄道建設
[38502]北の住人 さん
金ヶ崎-大垣がこんなに早く開通しているのは、敦賀が重要港だったからでしょうか。
物流は海運が主流であった明治初期においては、建設資材が陸揚げされる港付近の鉄道を最初に開通させ、次にその鉄道で港に陸揚げされた建設資材を輸送して更にその先へと鉄道の建設を進めていったようです。[38482]で挙げた明治初期の鉄道開業区間は皆、港に近い方から順次開通しています。
北海道の手宮-幌内間の路線の場合は、手宮(小樽港)-札幌間が札幌-幌内間よりも先に開通しています。

明治新政府は東京と西京(京都)を結ぶ鉄道幹線を当初は東海道ルートではなく中山道ルートで建設するつもりでした。
経路は東京-高崎-軽井沢-篠ノ井-松本-加納(岐阜)-大津-西京だったようです。
建設は東西から進めることとし、西側から建設する為の建設資材を運ぶ為に早い段階で建設されたのが金ヶ崎(後の敦賀港駅)付近の支線で、この支線で運ばれた資材で東へと幹線ルートとなる鉄道を建設して行きました。

幹線の東側は資金の関係で私鉄である日本鉄道の手でまず上野-高崎間が建設されることになりましたが、既に建物が密集していた東京市中心部に鉄道を建設して新橋-横浜間の官営鉄道につなぐのを断念した為、横浜港からの建設資材を鉄路で輸送できず、建設資材は船で隅田川を遡り埼玉県川口で陸揚げし建設を進めて行きました。
その後、当時は農村であった西郊に迂回ルートとしての品川-赤羽間の路線を開通させて横浜港からの輸送ルートを確保し、中山道幹線ルートである信越線や東北線用の建設資材の輸送が可能になりました。
[38130] 2005年 2月 28日(月)06:47:59【2】KMKZ さん
新宿駅開業120週年
普段は地下鉄ばかりでJRを利用していないのですが、26日(土曜日)に久しぶりにJR新宿駅を利用したら駅構内のあちらこちらに新宿駅開業120周年と書かれたポスターが貼ってありました。
日本で最初の私鉄である日本鉄道によって現在の山手線・埼京線の前身である品川・赤羽間の路線が開業したのが120年前の明治18(1885)年3月1日だったのですね。
この日には品川・赤羽間に目黒、渋谷、新宿、目白、板橋、赤羽の各駅と日本鉄道が明治16(1883)年から明治17(1884)年にかけて開通させた日本最初の私鉄路線である上野・前橋間の路線(現在の高崎線)に2つの新駅(桶川、吹上駅)が開業しています。
この1885年には更に3月17日に大宮駅が開業し、7月16日には大宮・宇都宮間の路線(現在の宇都宮(東北)線)が開通して蓮田、久喜、栗橋、古河、小山、石橋、宇都宮の各駅が開業しています。

JTB出版事業局から出版された「時刻表でたどる鉄道史」に明治19(1886)年7月のダイヤ改正時の日本鉄道の時刻表が載っています。
この時点での品川・赤羽の路線の停車駅は新橋-品川-目黒-渋谷-新宿-目白-板橋-赤羽で新橋-品川間は官営鉄道の路線を利用しています。
本数は1日にわずかに4往復で所要時間はちょうど1時間でした。
[38338] 2005年 3月 6日(日)09:03:25【2】KMKZ さん
今年で開業120周年の駅
[38325]あんどれ さん
おりしも今月に開業120周年記念イベントが行われていますが
あんどれ さんが紹介されたJRのHPを見ると目黒駅と目白駅は山手線・埼京(赤羽)線の前身である日本鉄道品川線の開業(1885年3月1日)から半月遅れた3月16日開業なのですね。駅舎の建設が遅れてしまったのかな?
[38130]で山手線120周年について書いたのですが、目黒駅と目白駅の開業日が3月1日であると書いてしまいました。また、大宮駅の開業日を[38130]では1885年3月17日と書きましたが、大宮駅も3月16日開業だったようです。

整理すると、120年前の1885(明治18)年に日本最初の私鉄である日本鉄道が開業させた駅は以下の通りです。

開業日区間開業駅備考
1885/3/1品川-赤羽渋谷,新宿,板橋,赤羽品川線品川-赤羽間開業
1885/3/1上野-前橋(赤羽),桶川,吹上
1885/3/16品川-赤羽目黒,目白
1885/3/16上野-前橋大宮
1885/7/16大宮-宇都宮蓮田,久喜,栗橋,古河,小山,石橋,宇都宮東北線大宮-宇都宮間開業、利根川橋梁開通は1886/6/17

#記述内容の誤りを修正

ところで品川線以前の開業路線で路線が分岐している例は無いのでしょうか?
品川駅と赤羽駅は日本最初の分岐駅ってことになるのかな?
[38378] 2005年 3月 7日(月)07:31:34KMKZ さん
内藤新宿駅の謎
[38354]hmt さん
上野からの日本鉄道が、赤羽から山の手経由の連絡線により官設鉄道の品川との間を結んだのが、今から120年前[38325][38338]。この鉄路が角筈村の東部「字渡辺土手際」を南北に貫き、「内藤新宿」停車場が作られました。2年後に「新宿」停車場に改称。
JTBから出版されている「時刻表でたどる鉄道史」に載っている品川線開業の翌年の1886(明治19)年7月1日ダイヤ改正時の時刻表のコピーには「内藤新宿」ではなく「新宿」と書いてあり、1885年の開業時は「内藤新宿」で1887年に「新宿」に改称されたとの説と矛盾してしまいます。
以下のような理由が考えられますね。
 a) 開業時から「新宿」だった
 b) 1886年7月以前に「新宿」に改称されてしまった
 c) 他の駅に比べて文字数の多い「内藤新宿」は「新宿」と省略されて記載された
[38388] 2005年 3月 7日(月)16:24:58【2】hmt さん
内藤新宿駅と「まあるい緑の山手線」
[38378] KMKZ さん
1886(明治19)年7月1日ダイヤ改正時の時刻表のコピーには「内藤新宿」ではなく「新宿」と書いてあり

駅名変遷事典(JTB1993年「旅」4月号別冊付録)の「改称・廃止した駅名一覧」にも、「内藤新宿」駅の記載がありませんでした。

[38354][36207]で そのように書いた根拠は、清水靖夫「地図が語る新宿駅周辺」(たしかJTBの本に収録されていたが書名を失念)に掲載されていた「5千分の1東京実測全図 2幀-2 明治21年発行」の説明文によるものです。
この地図では駅名が既に新宿(明治20年内藤新宿から改称)となっている。
【1】 日本図誌大系 関東I(朝倉書店1972)33頁にも次の記載がありました。
明治18年日本鉄道は…連絡線(現,山手線)を開通、同時に3月1日内藤新宿駅を開業、15日遅れて目白駅も開業、20年内藤新宿駅を新宿駅と改称

改めてWebを検索してみると、改名・非改名の両説あり、どちらかわかりません。
新宿駅 駅名改称歴 なし
1887年 日本鉄道品川線「内藤新宿」駅が「新宿」駅に改称。 開業(1885年)

この検索でたまたまヒットした「代々木」「千駄ヶ谷」等に関する過去ログ。[24670][24682][24685]

ついでに、
[38299]Issie さん
「まあるい緑の山手線」は,やっぱ,「やまて線」の方が,あたしにゃぁシックリ来ます。

最初に“刷り込まれた”影響が大きいですね。
hmtも、「この唄」に限定すれば「やまてせん」です。
“まあるい”運転系統(1周34.5km)、“緑の”電車、線路名称(現在は品川―田端間20.6km)。そのいずれについても、 「山手線 YAMATE LINE」 と書かれていた時代を含めて、ずっと「やまのてせん」派なのですが。

東京の言葉としては、当然に「やまのてせん」であり、戦前は特に迷うことはなかったと思います。
戰後、「進駐軍」がローマ字表記を求めた時に、 "Yamate Line" と書いてしまつたので問題が顕在化したようです。
「やまてせん」という呼び方は、鉄道内部の慣習読みに基くものかもしれません。
旧陸軍などは、このような内部用語の宝庫で、物干場が「ぶっかんじょう」だったという話は有名です。
脱線ですが「接続螺牝螺用螺桿」(せつぞくらひんらようらかん)という言葉があったそうです。正解は教えてもらっていないのですが、「スパナ」のことと推測されます。「螺桿=ねじまわし」の前に「ボルト・ナット用」が付いています。

それはさておき、電車の行先板に「山手線 YAMATE LINE」の文字が入れば、日本人にも「やまてせん」の呼び方が広まります。
その一方では、「あきはばら」の例[34120]のように、「やまてせん」と呼ぶ人を「この田舎者」と思う人もいます。
「秋葉ヶ原に停車場あり。これをアキハバラ駅と呼ぶ。鉄道省の役人には田舎漢多しと見えたり。」

このような混乱を解消するため、国鉄は1971年3月7日に読み方を「やまのてせん」に統一すると発表し、電車の行先表示は「山手線 YAMANOTE LINE」に改められたそうです。
日本鉄道の支線として出発した山手線の本籍が東北線から東海道線に移り、赤羽線が分離した1972年7月15日の前年のことです。

同じく『の』の字に関係することですが、関東大震災をはさんだ6年間(1919/3/1~1925/10/31)実施された中野~東京~品川~池袋~上野間の「『の』の字運転」とは無関係です。

現存の根岸線山手駅、神戸市営地下鉄山手線、過去帳に入った南海鉄道山手線、いずれも「やまて」ですね。
「やまのて」は、特に東京で好まれた言い方なのでしょうか。

蛇足ですが“緑の”山手線について一言。
103系登場(そう言えば、101系の頃は“黄色い”山手線だった)よりもずっと前、戦後間もない頃に、暗緑色のロクサン型山手線が走った時代があります。誤乗防止効果も小さかったのか、元の茶色に戻り、ドア上の「山手」「京浜・東北」(中黒があった)の表示で区別するようになりました。塗料の仕入れで色を間違えたという噂の真偽は不明。

【2】 ナットの「めねじ」を意味していた漢字は、発音「ひんら」の通り「牝螺」です。誤変換を修正。
ついでに
「山手線」の意味として、大崎から新宿・田端・東京経由で大崎への外回り、及びその逆の内回りで都内34.5kmを一周する環状の運転系統、その運転に使用されている緑色の電車列車、線路名称規定による東海道線の支線(品川~新宿~田端20.6km)の3つを挙げましたが、更に「運賃計算上の東京山手線内」というものがあり、中央線に属する四ツ谷などを含んでいます。以前は「東京電環」と呼んでいました。[28537]
[8880] 2003年 2月 7日(金)21:43:50【1】Issie さん
田畑界隈
[8857]ヒロオ さん
日暮里と尾久を田端に集約するなんて考えはなかったんでしょうかね。

現実は逆に進行したものです。

最初,日本鉄道の手で上野から高崎への鉄道が敷設されたとき,その路線は日暮里から田端を経由して王子・赤羽へと向かっていました。武蔵野台地末端の崖線に沿って,“最短距離”をとるルートです。
やがて,現在の常磐線にあたる支線が敷設されますが,当初この支線は田端を起点としていました。
1900年に発表された「鉄道唱歌(第3集)奥州・磐城編」(大和田建樹・作詞)では

 汽車は烟(けむり)を噴(は)き立てて 今ぞ上野を出でてゆく
 ゆくへは何(いづ)く陸奥(みちのく)の 青森までも一飛(ひととび)に

と上野を出発した列車が王子・赤羽を過ぎて現在の東北線ルートをとって青森へ到達して函館・弘前を展望したのち,岩沼から常磐線で上野へ帰る,という設定でした。
そして,

 車輪のめぐり速(すみやか)に 千住大橋右に見て
 環(たまき)の橋の限りなく ふたたび戻る田端駅

と,田端へ戻ってきています。同時に「ふたたび」が示唆するのは,一度め,東北線ルートで上野を出発したときも田端駅を通過していることです。

とは言え,上野を出発した常磐線列車が直後に田端でスイッチバックするのはあまりに不便ですから,短絡線が設置されその分岐点に「日暮里」の駅が設置されました。日暮里-三河島間の曲線半径が国鉄には珍しいくらい小さいのは,このせいです。
けれども,これは基本的に旅客列車についてのことであり,貨物列車は田端経由でありました。そうして東海道・中央方面からの貨物列車も受け入れる田端(貨物)操車場が発展することになります。
一方で当時,旅客列車に対する操車場の機能を受け持っていたのは上野駅構内でした。

けれども増え続ける輸送需要に対して上野駅は拡張を続け,駅構内で操車作業をすることが困難になってきました。また,城北地区の市街化とともに赤羽方面からの輸送需要も増大し,上野-桜木町間で行われていた電車運転(京浜電車)を赤羽まで延長することも構想されました。
そこで田端経由のルートを電車専用化して赤羽までの電車線(京浜東北線)とし,東北・上信越方面への中長距離旅客列車については別線を新設して両者を分離することが計画されました。
こうして新設されたのが尾久経由の現在の東北(旅客)線です。尾久には,飽和状態にあった上野駅構内に替わって,この方面への旅客列車の車両整備を担当する旅客操車場が新設されました。
なぜ田端操車場に隣接して設けられなかったかというと,この段階ですでに田端操車場に接する区域が市街化されてしまっていたことにあるのだろうと考えています。
そこを避けて広大な敷地を必要とする操車場を既存の田端操車場に隣接して新設することは困難だった。そう考えています。

もっとも,なぜわざわざ「尾久駅」を設置したかは,私にはわかりません。
すでに市内・近郊輸送用の「電車」と中長距離「列車」との役割分担は東京近郊区間では既に確立していましたから,京浜電車運転開始後,品川を発車した東海道線の列車が横浜までノンストップであったのに倣えば,東北・上信越線の列車だって上野を出て日暮里を過ぎれば赤羽までノンストップでも問題はないわけです。
何で尾久に停まっているんでしょうね。

尾久と田端の操車場の間をJRが買い取り、ここをすべて操車場化する。

今さらこれは無理でしょう。
極めて細分化された土地を膨大な数の市民から買い取るには,相当のエネルギーとお金が必要でしょうね。
バブル時代の地上げ屋もできなったことをしようというのですから。

<追記>
あっ,うっかりしていたけど,タイトルの漢字,間違ってますね。
ま,面倒だから,このまんまでいいや。
[1090] 2002年 3月 11日(月)21:13:41Issie さん
品川駅
品川駅が開業した明治5年(だいたい1872年)の段階では市制・町村制はおろか郡区町村編制法だって影も形もない頃ですから,「品川町」の範囲もヘッタクレもないのですね。
“芝高輪沖”の埋立地に駅が設置されたわけで「高輪駅」でもよかったはずですが,ここは「東海道で最初の宿場」に敬意を払ったのでしょう。
品川駅を出た東海道線は,そのあと大井町の台地を掘割で抜けて大森へ行ってしまいますから,品川宿に一番近いのはやはり高輪沖埋立地の駅なのです。この駅が「品川」とは,きわめてリーズナブルな話です。

その後,品川駅南方の路面電車の終点「高輪」から川崎方面へ東海道に沿って走る路面電車が建設されました。現在の京急の前身です。
この電車は品川宿のそばを通るので「北品川」「南品川」の停留場を設置しました。結果的に,始発駅から「品川」「北品川」「南品川」…という一見奇妙な配列になってしまったわけ(「南品川」は隣りの駅と統合して現在は「新馬場」)。

「目黒駅」が目黒区ではなく品川区にあるのも,もともと山手線に目黒駅などなかったところに後から駅を設置することになって,目黒町の中心に向かう道路との交点である大崎町(→品川区)内の掘割区間に駅を設置したからです。たとえ大崎町の域内にあったとしても,目黒町のために設置した駅だから「目黒」なのです。

前言の通り,「新宿駅」も「新宿」にはありません(現在は角筈から新宿3丁目に編入されていますが)。編入された1932年までは「東京市」内ではなかったのです。
淀橋区が四谷区や牛込区と統合されずに単独で存続していたならば,「新宿駅」もまた「四谷区新宿」ではなく「淀橋区」にある駅として,同じように話題になったことでしょう。

市町村合併が繰り返された今となっては,「品川駅」や「目黒駅」のような例は少数派になってしまいましたが,もともとはいくらでもありふれた現象でした。
“川向こう”の新潟駅だってそうでしょ? 梅田の大阪駅だってもともとの「大阪市」のはずれ(市外?)でしょ? 岐阜駅だってそうです。
そもそも鉄道の駅は従来の市街地から離れたところに設置されるのが普通でした。宿場の人々が鉄道を嫌ったから,という話(いわゆる「鉄道忌避伝説」)はたいていウソです。もっと直接的な理由は,従来の市街地は人家が密集していて地価が高かったので,後からやってきた鉄道が入り込めなかったのです。
となれば,駅が“隣り村”にあるというのは,ごく当然なことなのです。

今の行政区画の地図を見ていれば奇異に映ることでも,昔は至極当たり前のことだったのです。
[38442] 2005年 3月 9日(水)23:18:58hmt さん
本当は、「北品川」より北の港区高輪にあるのに、なぜ「品川」駅なのでしょうか? なのです
[38430]平成少年 さん
「北品川」駅が「品川」駅の南にあるのはなぜでしょうか?

「北品川」駅は、品川区の北品川一丁目にあり、それ自体は、少しもおかしな駅名ではありません。
地図を見ればわかるように、目黒川(昔は「品川」と呼ばれた)の両岸に、北品川と南品川とがあります。
江戸時代の宿場町は、この両方にまたがっていました。

だから、問題にすべきなのは「品川」駅の方であり、
「北品川」より北の港区高輪にあるのに、なぜ「品川」駅なのでしょうか?
となります。

品川駅は、明治5年(1872)に、日本最初の鉄道開通に際して設けられた駅です。
少し北に外れてはいるものの、東海道の第1宿として著名な「品川宿」の名を使ったものでしょう。
平成少年さんは、日本最初に開通した鉄道は、品川と どこの間だったかご存知ですか?

1925年、京浜電鉄が この付近の路上に 最初に作った駅名は 「高輪」駅でしたが、1933年の国鉄駅乗り入れで「品川」に合せたので、「品川」の南隣に「北品川」という名前の逆転が起こってしまいました。
[38446] 2005年 3月 10日(木)00:06:22ken さん
RE:「北品川」駅が「品川」駅の南にあるのはなぜでしょうか?
[38430]平成少年 さん
「北品川」駅が「品川」駅の南にあるのはなぜでしょうか?

山手線というか、明治初期に設置された駅名については、他の駅も同様ですが、そもそも鉄道自体が、当時は荒野に近い場所を選んで敷設されているわけで、駅が設置されても、近傍に著名な地名がない駅が多いわけですね。

品川駅については、[38442] hmt さん ご解答の通りですが、他にも、
品川区上大崎にある目黒駅も、目黒村の集落は、ちょっと随分先だけど、まあ、目黒村への最寄駅だから、「目黒」。
代々木駅も代々木村の中心は、代々木上原の方で、代々木駅のあたりは、本当は千駄ヶ谷村なんだけど、まあ、代々木村への当時の最寄駅だから、「代々木」。
板橋宿は、だいぶ遠くなんだけど、他に近くに著名な名前もないし、有名な板橋に、近い駅だから「板橋」。
駒込(村)は、本当はちょっと南の方(現・本駒込)なんだけど、まあ、最寄ってことで「駒込」。
大塚(村)は、本当はちょっと南の方なんだけど、まあ、最寄ってことで「大塚」。
に、しちゃえ!
等々、今にして考えると、随分、遠くの名前が付けられている駅が多いですね。

特に、品川-赤羽間は、武蔵野線みたいな発想の、迂回ルートとして敷設されましたから、そもそも、中心集落を意識せずに線を引かれてて、見渡す限りの田園の中に「敢えて名前を付けるなら、これしかないか」という状態で、設置・命名された駅が多いですからね。

で、その後、駅近辺が発展し、本家取りをされてしまったところは多いですね。
例えば
大塚の北に南大塚がある
というようなケースも多々ありますね。

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