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落書き帳から選び抜いた珠玉の記事集

国府に由来を持つ地名の謎

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記事数=8件/更新日:2002年12月24日/編集者:あっちゃん

律令制のもとで、各地に建設された国府や国分寺に由来を持つ地名が全国に多くあります。その一例を集めてみました。

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[873]2002年2月11日
深海魚
[879]2002年2月12日
miki
[881]2002年2月12日
深海魚
[882]2002年2月12日
Issie
[883]2002年2月12日
ケン
[884]2002年2月12日
ケン
[885]2002年2月13日
Issie
[887]2002年2月13日
miki

[873] 2002年 2月 11日(月)17:11:22深海魚[雑魚] さん
下関市の謎
日本で最初に市政施行された一例とされる山口県下関市。同期に
どんな市が有ったのか気になります。現在の同市は、広域合併が
相当進んだ結果だと思いますが、その中でちょっと気になるのが
「長府」地区。幡生以南の中心街とは一線を画した市街を擁して
居る点も勘案して、港町の下関とは一線を画した長門国府として
独自の発展を遂げたのかな、とか思いますが、どうでしょうか?

それと防府市って周防国府だったんですかね? 以前は三田尻と
名乗ってた様ですが。
[879] 2002年 2月 12日(火)09:47:28miki さん
873へのレス。
「防府」は静岡の「駿府」と違って後から地名になったものではないでしょうか?
「長府」とごろ合わせ的に...。
駅も最初は「三田尻」でしたし...。
[881] 2002年 2月 12日(火)13:59:01深海魚[雑魚] さん
>>870、873
何れにせよ、旧周防国府ではあったのでしょうか? 岐阜県国府や
甲府はどうでしょうね?

仮名表記の自治体名の代表格とも言えるいわき市ですが、合併前の
小名浜地区が「磐城市」を名乗って居た事を考慮した為のみならず
聖徳太子宜しく「以和貴=和を以って貴しとなす」の語呂合わせも
勘案された所産だと、北茨城市の知己から聞いた事が在ります。

それと取り扱う内容柄、余程難解でなければ、御国言葉も一興かと。
(俺がやっど、可也汚ぐなっちまあべがよ。)
[882] 2002年 2月 12日(火)21:56:56Issie さん
防府と長府
「防府」というのは,もちろん「周防府中」の略称です。
近世以来,この地にある集落は「三田尻」と呼ばれていますが,同時に「防府(周防府中)」という地名も行われたようです。
一般に1つの土地に対して2つ以上の地名が行われることは消して珍しいことではありません。
信濃善光寺の門前町は一般に「善光寺(宿)」と呼ばれていましたが,同時に「長野村」という名称もありました。現在の市名・県名はつまり「善光寺」ではない,こちらの名称によるものです。
あるいはまた,直江津の周辺はここに越後国府があったことから「越後府中」と呼ばれたことがあります。室町時代後期,越後守護代として守護大名の上杉氏以上に反映した長尾氏の中で,本家筋でこのあたり(頸城=下越地方)に勢力を持った系統は「府中長尾氏」と呼ばれていました(なお,「直江津」というのも古代以来の伝統を持つ,たいへんに古い地名です)。
長門の「下関」には,「赤間関」と「馬関」という2つの別称がありました。日清戦争後の講和条約である「下関条約」は,当時むしろ「馬関条約」の名で呼ばれたし,ここに設置された市ははじめ「赤間関市」という呼称でした。しかし,一般には「下関」という呼称が行われていたので,やがてこちらに統一されたという次第です。
「防府」の場合は,これが公式の行政地名として採用されたのは三田尻村が佐波村と合体して町制を施行した1901年のことです。ここで「防府町」というのは正式な自治体名となりました。その後,国鉄山陽線の駅も「防府」と改称されます。

「長府」は,やはり「長門府中」のこと。
ここには藩政時代,萩の毛利本家の分家を藩主とする「府中(長府)藩」が置かれました。長府(長門府中)は当然,下関(赤間関・馬関)とは独立した別個の市街を構成していました(下関は長府藩ではなく,萩の本藩の直轄だったのでは?)。今でこそ,長府は下関市の一部ですが,歴史的にはお互いに別々の都市だったのです。

このほかに「駿府=駿河府中」や「甲府=甲斐府中」というのが有名ですね。
ただし「甲府」の場合,律令時代の甲斐国府はここにはなく,笛吹川をはさんだ八代郡,現在の石和町から御坂町にかけての地域にありました。川の対岸の山梨郡域に現在の「甲府」という地名が生まれる直接の由来は律令時代ではなく,中世に甲斐一国を支配した武田氏の本拠が現在の甲府に置かれ,ここが甲斐国の主都とされたことによります。
この武田氏の本拠であった場所には「古府中」という地名がありますが,これが律令国制下で一時期ここに国府が置かれたことによるのか,武田氏がここに本拠に置いたことによるのか,それとも戦国末期に武田勝頼が現在の韮崎市に本拠を移した(「新府」とよばれる)ことへの対比なのかはわかりません。

「駿府(駿河府中)」の場合は,1869年の版籍奉還の際に「静岡」と改称されています。
これは徳川宗家第16代の徳川家達が明治政府から知藩事に任命されるに際して,「ふちゅう」では「不忠」につながるので改称したと説明されています。
しかし,これと同時に「常陸府中藩」が「石岡藩」に,「対馬(府中)藩」が「厳原藩」にと,全国の「府中藩」が一斉に改称されているので,これは「駿府藩」独自の問題ではないようです。
いずれにせよ,これによって全国の「府中」という地名が減ったことは確かです。

「防府」や「長府」「甲府」の例にならえば,当然「芸府」や「武府」という呼称があっても不思議ではありません(「備府」では備前か備中か備後か区別がつかないので,こういう呼称はありませんが)。
でも結局,実際には行われなかった。それだけのことです。
なお,国土地理院の地形図ではよその「府中」と区別するために,東京都の府中を含む図幅については「武蔵府中」という名称を使用しています。
[883] 2002年 2月 12日(火)22:08:14ケン さん
防府市
防府の地名の由来は周防国府が置かれたのだと思います。実際は防府駅をはさんで北側が防府で南側が三田尻だそうです。三田尻は中関とも呼ばれました。
[884] 2002年 2月 12日(火)22:14:02ケン さん
府中市
防府や長府のことで話題になっていますが、東京都と広島県にある府中市は武蔵国府と備後国府から来ています。
[885] 2002年 2月 13日(水)01:13:41Issie さん
国府
すでに述べられているように,「府中」というのは多くの場合,かつてそこに国府が置かれていたことにちなむ地名です。
東京都府中市は武蔵国府,広島県府中市は備後国府,広島県府中町は安芸国府。もちろん,山口県防府市は周防国府だし,下関市長府地区は長門国府。
ただし,甲斐府中≠甲斐国府 のような例もありますが。

そのまま「国府」という地名であることもあります。この場合「こくふ」と読むだけでなく,「こふ」や「こう」と読むこともあります。岐阜県吉城郡国府町(飛騨),鳥取県岩美郡国府町(因幡)のように,そのまま市町村名となっていることもありますが,千葉県市川市国府台(こうのだい:下総)や愛知県稲沢市国府宮(こうのみや:尾張)のように他の要素との複合地名になっていることもよくあります。ただし,神奈川県小田原市の「国府津(こうづ)」の場合は,ここに国府があったのではなくて,もう少し東の中郡大磯町国府地区に相模国府が置かれていました。名前からすると,国府の外港という位置付けだったのかな。
あるいは「国府」に近い言葉で「国衙(こくが)」という地名であることもあります:山梨県東八代郡御坂町国衙(甲斐国府)。
私の印象では,「国衙」が国府の庁舎などのような建物や施設を指す具体的なイメージがあるのに対して,「国府」にはもう少し抽象的な地方支配のための機構というようなニュアンスが感じられるのですが,どうでしょうか。

国府関連の地名には,有名な国分寺にかかわるものもありますね。
そのものずばりと「国分寺」という場合(武蔵,下野など)もあれば,「国分」という形であることもあります。「国分」の場合,大隈(鹿児島県国分市)の場合のように「こくぶ」と読むことが多いのですが,下総(千葉県市川市)のように「こくぶん」と読むこともままあります。

一方,神社関連では「総社/惣社」という地名があります。
これは律令制下で各国に赴任した国司には任国内の重要な神社を巡回してお参りをする任務があったのだけれども,その手間を省くためにそれらをまとめて国府の近くに“総合神社”を置いたことによります。「惣(総)社」という名前自体が,そういう意味ですね。
これは「そうじゃ」または「そうざ」と読みます。
岡山県の総社市は備中(あるいは吉備全体?)の,群馬県前橋市のJR上越線の駅名になっている「群馬総社」は上野のそれぞれの惣社にちなむものです。

国分寺・国分尼寺もたいていは国府の近くに置かれましたから,多くの国では「府中/国府」「国分(寺)」「惣社(総社)」という地名がお互いに隣接した地域に集中することが多い(ただし,いつでも3つ揃うとは限らない)のですが,国府が移転した場合には3つのうちのどれかが元の国府の位置に取り残されることがあります。
相模国分寺は大磯に移転する前に国府が置かれていたあたりの海老名市国分にありました。
信濃の場合には,はじめに国府のあった上田市に国分寺が,移転後の国府所在地である松本市に惣社があります。

美濃の場合,国府・国分寺は現在の不破郡垂井町付近に置かれました。国府単独というよりは,すぐ近くの近江との国境付近に設置された不破関との関連と思われます。
で,ここではやはり「関」(江戸時代の関所とは若干,機能や概念が違いますが)のイメージの方がはるかに強かったからか,国府・国分寺関連の地名は残らず,「関ヶ原」として大変に有名になるわけです。

なお戦前の天皇制の下では,天皇一家の家政にかかわる「宮中」に対して実際の国政全般に関わる「府中」という用語がありました。宮中を管掌するのが宮内省でありそのトップは宮内大臣(宮相)およびこれとは若干独立して天皇に直属する内大臣(内府),府中を管掌するのが政府=内閣でそのトップは言うまでもなく内閣総理大臣。そしてこの両者は建前上は厳格に区別されました。
また,「国府」という言葉は1930年代から70年代初めくらいまでは中華民国の国民政府(蒋介石政権)を指す用語でした。こちらは台湾の政権の座から国民党がすべり落ちて完全に死語になりましたが。
[887] 2002年 2月 13日(水)09:04:03miki さん
「国府町」
「国府町」はほかにも3ヶ所ありました。
1.神奈川県国府町
1954.12.1 大磯町と合併
2.徳島県国府町
1967.1.1 徳島市に編入
3.島根県国府町
1969.3.1 浜田市に編入

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