都道府県市区町村
都道府県や地図に関する地理の総合マガジン

事例集2:桜沢 下関 日野宿

トップ > hmtマガジン > 事例集2:桜沢 下関 日野宿
記事数=20件/登録日:2020年5月3日

市町村の呼び名変化に関係した事例集の第2回は誤記が関連した事例です。

★推奨します★(元祖いいね)

記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[56218]2007年1月13日
白桃
[56221]2007年1月13日
Issie
[56222]2007年1月13日
白桃
[56223]2007年1月13日
hmt
[56265]2007年1月17日
Issie
[56273]2007年1月18日
88
[56491]2007年1月28日
hmt
[123]2001年1月21日
Issie
[882]2002年2月12日
Issie
[27855]2004年5月3日
Issie
[74498]2010年3月31日
hmt
[74499]2010年3月31日
hmt
[74506]2010年4月1日
Issie
[74509]2010年4月1日
oki
[74715]2010年4月5日
hmt
[99415]2020年5月2日
hmt
[99416]2020年5月2日
MI
[78873]2011年8月6日
MI
[79018]2011年8月9日
hmt
[79070]2011年8月13日
hmt

[56218] 2007年 1月 13日(土)11:32:25白桃 さん
桜沢村が寄居町に編入された年月日?
今日は久しぶりに浦安市の「白桃都市人口研究所」で本来業務?に従事しています。

標題の件ですが、埼玉県大里郡にあった桜沢村が寄居町に編入された年月日について、地名好きさんのHPでも、当市区町村変遷情報でも1908.3.27になっておりますが、不思議なことに、1935年の国勢調査では桜澤村の人口が掲載されております。IssieさんのHPでは1943.9.8となっており、白桃の植物的勘(♪お酒はヌルメの燗がいい~)では、こちらの方が正しいのではないかと思うのですが・・・
88さん、確かな事を調べるツテはございますでしょうか?
[56221] 2007年 1月 13日(土)17:46:20【1】Issie さん
Re:桜沢村が寄居町に編入された年月日?
[56218] 白桃 さん
1908.3.27

地名情報資料室編「市町村名変遷辞典」東京堂出版 でも,角川の地名辞典でも,そのようになっていますね。確か,平凡社の辞典でも。

不思議なことに、1935年の国勢調査では桜澤村の人口が掲載されております

まさにその通りで,うちのHPの場合は,1920年の第1回国勢調査報告に「桜沢村」(←原則として現代表記に書き換える方針にしています)が掲載されていて不思議に思った,ということでした。
そこで,さいたま市 …ではなく 浦和市(当時) の埼玉県立図書館まで出向いて,寄居町史や埼玉県史あたりを見て,1943.9.8 という日付に至った次第です。

何分,「浦和市」であった時分のことで,細かいことは忘れてしまったのですが(寄居町史だったか,埼玉県史だったか,ということも含めて),桜沢村 の合併をめぐってはかなりの曲折があって,1908年の段階では結局合併が成就しなかった,というような記述があったように記憶しています。
ある程度手続きが進んでいて,直前になって御破算になった…,なんてことでもあったんでしょうかね。

追加。
「明治40年(1907年)測図,大正4年(1915年)鉄道補入,同6年(1917年)改版」の陸軍参謀本部5万分1地図「寄居」でも,桜沢村は“独立”しています。
[56222] 2007年 1月 13日(土)18:45:08白桃 さん
Issieさんに御礼
[56221]Issieさん
「桜沢村」の件、お忙しいところ、お知らせ頂きありがとうございました。
今、埼玉県各市町村の国勢調査人口の推移を整理しておりますが、市町村変遷が結構複雑で楽しいです。
[56223] 2007年 1月 13日(土)19:16:47hmt さん
誤記と知らずに信じてしまう怖さ
[56218]白桃 さん
埼玉県大里郡にあった桜沢村が寄居町に編入された年月日

既に[56221] Issie さんのレスがありますが、「白桃」さんの「植物的勘」が的中しているようです。

2年前に「埼玉県市町村合併史」(1960)から拾ったデータ[37533]によると、1943年9月8日に大里郡桜沢村が、秩父郡白鳥村の一部と共に寄居町に編入されたとなっています。
埼玉県が作成した本ですから、一応は信用してよいものと思います。

…と言いながら、この本にも“北本村存在説”が記されていた「前科」[52478]があるので、近くの図書館に行ったついでに、他の本にも当たってみました。

実は、 Issie さん言及の「寄居町史」をねらったのですが、所蔵していなかったので…

新編埼玉県史通史編6巻883
(昭和)18年1月までに(中略)大里郡で桜沢村と寄居町(中略)などの合併が決定した。
新編埼玉県史資料編20巻129 毎日新聞埼玉版昭和18年1月9日記事
…寄居町はまた桜沢村との合併を議している。
埼玉県誌(1912年)復刻版 下巻40~42頁には、町村制以後の廃置分合がすべて列挙されているようですが、明治41の件は記載なし。また、上巻81頁に大里郡3町38村を列挙した中に桜沢村あり。

埼玉県作成以外の本では、角川の「日本地名大辞典」(1980)が明治41年3月27日(11巻1427頁の沿革図)。

[56221]では“確か,平凡社の辞典でも”と記されていますが、平凡社の「埼玉県の地名」785頁では、
昭和17年、桜沢村の一部と…境界変更、…同18年桜沢村と秩父郡白鳥村のうち…が寄居町に編入
と「1943年説」になっています。

楠原氏は、「市町村名変遷辞典」の冒頭で、次のように記しています。
本書編纂のため参照した資料一覧は前付6ページに掲げたが、その中では角川版「日本地名大辞典」が近代100年の自治体名を通覧するのに最も好都合かもしれない。しかし同辞典も(中略)明らかな誤りも散見されている。
残念ながら、楠原氏の上記辞典も誤りを見逃したようで、寄居町への桜沢村編入は明治41年3月27日となっています。

更に、他の本も見ていたら、「1941年説」もありました。
日本地誌第6巻(二宮書店1963)415頁
(寄居町)…1941年(昭和16年)桜沢村を合併し、さらに1943年秩父郡白鳥村の一部を編入…
埼玉大百科事典(埼玉新聞社)5巻214頁にもほぼ同様の記載。しかも、同書巻末の「合併構造表」では、明治41年3月27日桜沢村編入となっているという不統一ぶりです。

角川本で「明治41年説」が現れた理由はつかめませんでしたが、これが楠原本などに使われて、更に広まってしまったのでしょうか。

[56222]
今、埼玉県各市町村の国勢調査人口の推移を整理しておりますが、市町村変遷が結構複雑で楽しいです。

2年前に「埼玉県市町村合併史」(1960)から拾ったデータは、むじながいりさんの パラパラ地図 に使っていただいています。ご参考まで。
[56265] 2007年 1月 17日(水)22:19:52【2】Issie さん
埼玉県榛沢郡桜沢村のこと
[56218] 白桃 さん
[56221]
[56223] hmt さん

うちの職場は今が“農閑期”で,今日は「バリウムを飲む」という“身体に悪い出張”があったことを口実に午後を休みにして,思い立って浦和の県立図書館まで件の「寄居町史」を読みに行ってきました。
や,それにしても,横浜から浦和まで,京浜東北線はずいぶんと乗りでがあるものです。

『寄居町史  通史編』(寄居町教育委員会町史編さん室,1986年)は言っています(←英文直訳?):

問題の1908(明治41)年の場合,
 ・町村会(寄居町および桜沢村)の議決 および 郡参事会(大里郡)の議決を経,
 ・1908年3月に 埼玉県知事 から 内務大臣 に「稟申書」が提出されたが,
 ・内務大臣は許可を与えず,
 ・大里郡長,埼玉県地方課・内務部が仲介に努めたが,
 ・結局,協議は不成立に終わり,町村合併は実現しなかった
というお話であったようです。

これに先立って,
1888(明治21)年に法律「町村制」が公布され,翌89年4月1日から順次施行されるわけですが(埼玉県は4月1日施行,でも東京府は5月1日),これを前に,いわゆる「明治の大合併」のための町村合併案が各府県で作成されました。
埼玉県では,まず1887(明治20)年6月に知事から各郡長に町村合併案を作成するよう指示が下ろされ,当時の寄居町や桜沢村の属する 榛沢郡 を管轄する 大里郡外三郡長・平井光長(“外三郡”とは,榛沢・男衾・幡羅郡) が合併案を提出しました。それによると
 寄居町・末野村・藤田村 →寄居町
 桜沢村 →桜沢村
と,桜沢村を単独で編成するものでした。当時(合併前)の 寄居町 が256戸,桜沢村 が314戸で,桜沢村単独で1村を編成するに足ると 平井郡長 が判断したものと思われます。なお,寄居町に 末野村(209戸)・藤田村(6戸) を合わせて想定された 新・寄居町 の戸数は471戸で,桜沢村単独よりは大きな町になります。
けれども,この案は郡長が“極秘裏”に作成したものであったようで,当然に大きな反発がありました(恐らくは,大里・榛沢・男衾・幡羅郡,あるいは埼玉県だけでなく,全国で)。そこで,町村制の公布後,埼玉県では1888(明治21)年7月の知事から各郡長への町村合併促進の指示の下,郡役所吏員と一部連合戸長ら実務担当者によって,改めて合併見込案が作成されました。これによると,桜沢村 は,寄居町・末野村・藤田村 とともに,新・寄居町へ統合すべきものとされています。
つまるところ,桜沢村については,当時から寄居町と合併すべきか否か,意見が分かれていたのでした。
結局,この段階では,寄居町への合併を打ち出した 合併見込案 に対して,桜沢村から寄居町との地域性の違い(寄居町は人口稠密で商工業中心,桜沢村は人口疎濶かつ彊域広濶で農業中心)と独立自治の資力を持つとの意見書を知事宛に提出し,これが郡長の認めるところとなって,桜沢村は独立を維持して,1889年4月1日の町村制施行を迎えました。

1908年の合併問題は,日露戦争後の社会の変化の中で町村財政の強化をめざす内務省の方針の下に進められた全国的な町村再編の一環をなすものであったようですが,寄居町・桜沢村の場合,「大字有財産の処理をめぐって合意が得られ」なかったことが,合併が成功しなかった原因であったようです。
つまりは,寄居町と桜沢村の財産力の差がネックになったらしい,ということ。
単純に比較すると,町村規模の違いから当然に寄居町の方が財産規模は大きいのですが,住民1戸あたりに換算すると意外にも桜沢村が豊かで,特に大字(村)有地については寄居町のうちの寄居と藤田がほとんどこれを持たず末野が56町歩を持つのに対して,桜沢村(大字を編成せず)が84町歩を持っていて,対等合併には寄居町の負担が大きいと判断されたようです。
言い換えると,寄居町が桜沢村と合併しても新・寄居町の基本財産が増えるわけでなく(←このあたりの理屈が今一つ理解できないのですが),これを問題とした内務大臣(←原敬でした)が合併の許可を与えず,つまり,当該町村も,郡も,県もクリアーしていたのに,最後の内務大臣レベルで挫折して,合併が成就しなかった,という話であったようです。

これら(町村制施行前の1888~89年,問題の1908~09年)のほかに,1925(大正14)年にも合併の動きがあったのですが,これも不調に終わったとのこと。
結局,合併が成就したのは,戦時体制下,地方自治権が大幅に奪われた下での1943(昭和18)年9月8日のことでありました。これは桜沢村だけではなく,西隣の秩父郡白鳥村のうちの東半分も合併するものでした。この際に,白鳥村は3分割され,東半が寄居町に,西北部が野上町(現長瀞町)に,西南部が美野町(現皆野町ほか)に編入・合併されています。
埼玉県では,これに前後して「戦時下」を口実に幾つもの“大型合併”が行われいますが,このうち 川口市(川口市,北足立郡鳩ヶ谷町),北足立郡志紀町(志木町,内間木村,宗岡村,水谷村),秩父郡美野町(皆野町,国神村,金沢村,日野沢村,三沢村,大田村),北埼玉郡騎西町(騎西町,田ヶ谷村,種足村,鴻茎村,高柳村),北葛飾郡栗橋町(栗橋町,静村,豊田村)のように,国の重しのなくなった戦後に元のように解体してしまったものが少なくありません。無理があったのでしょうね。もっとも,「昭和の大合併」で再び合併されたものも多いのですが。
寄居町の場合は,このような解体はなく,昭和の大合併でさらに4つの村を合併して今の姿になっています。そうして今や,大里郡で生き残っているのは 寄居町 だけなのですね。
[56273] 2007年 1月 18日(木)00:11:4888 さん
まとめレス
年初からの皆様からの書き込みに対し、まとめてレスします。

[55766] 矢作川太郎 さん
小倉町の表記見た上で、結論から言わせて頂くと、私の中で「幕末以降市町村名変遷系統図総覧」の位置付けは参考資料の一つでしか有りません。
ありがとうございました。「幕末以降総覧」(文献の正式名称は拙稿[55681]冒頭参照)が、詳細な城下町や藩政村を羅列しているので、つい「絶対視」していました。後述の各レスにも言えますが、一つの資料の鵜呑みはよろしくないですね。複数のものを見比べて、より正確なものを追う、という手法しかないのでしょうが。
しかし、市制町村制以前の資料というと、全国的に網羅した1冊の文献は私はこの「幕末以降総覧」以外に知りません。あとは、「角川日本地名大辞典」の各県分や、他の資料を個別に拾うしかないのでしょうねえ・・・。これはまた調査が大変そうです。

[55926] 紅葉橋律乃介 さん
市区町村変遷情報は年別に分けられていますが、こちらは「西暦(元号)」と併記されているので問題ないとして、たとえば北海道のように都道府県別に見た場合は、西暦のみの表示となっています。
ご承知のとおり、日本では告示等の行政文書はすべて元号表記(西暦は併記すらしない)ですので、私や紅葉橋律乃介 さんのように告示を追う人にとってはわかりにくいところがあります。一方、そうでない世間一般の人にとっては、西暦の方がピンと来るのでしょうか?
いずれにせよ、ごもっともなご意見だと思いますので、(以前からの私の懸案でもあるのですが)併記するようにしたいとら思います(というより、私はグリグリさんに改良を依頼するだけなのですが)。
というわけで、グリグリさん、これについては後日、別途変更仕様書を提案しますので(次期リニューアル時?)、よろしくお願いいたします。
#漢字表記の件については、稿を改めます。

[56162] hmt さん
硫黄島村について
# “島嶼町村制施行”と書いてありますが、この勅令はこの1940年に廃止されているので、“町村制施行”の誤記だと思います。
これは、「総覧」の表現が
昭和15年4月1日、島嶼町村制の適用により小笠原諸島に大村、扇村袋沢村、沖村、北村、硫黄島村の5村設置
となっていたため、このまま入力したものです。
ちなみに、
村制・・「幕末以降総覧」
島嶼町村制・・「総覧」
不明・・「辞典」「消えた辞典」(これらは「村制」とあるが「島嶼町村制」との区別なし)、「便覧」
でした。
「島嶼町村制」(元の「沖縄県及島嶼町村制」)は、昭和15年4月1日勅令第238号により廃止(公布の日より廃止)とのことなので、このS15.4.1施行の「硫黄島村」は、「島嶼町村制」ではなく「町村制」ということですね? なお、硫黄島村に限らず、他の4村も同様なので、あわせて修正しました。
また、歴史的背景等に話題を広げた中で市区町村変遷情報にも[56242]で触れて活用していただき、ありがとうございます。編集者冥利に尽きます。「大島村」の誤記も修正しました。

[56174] 右左府 さん
「安部郡」とありますが、「安倍郡」の誤りではないでしょうか。
修正しました。ご確認ください(センター試験が終わってからでいいですが・・・健闘を祈ります。ちなみに私は「共通一次」世代)。ありがとうございました。
もひとつ余談。私と右左府さんは、ニックネーム欄の配色がよく似ていますね。

[56218] 白桃 さん
桜沢村が寄居町に編入された年月日?
既に[56221] Issie さん、[56223] hmt さん、[56265] Issie さん で返答いただいていますが、参考までに私の手持ちの文献の表記は、次のとおりです。
1908(M41).3.27「総覧」「幕末以降総覧」「辞典」「消えた辞典」「便覧」
1943(S18).9.8なし
今回の例は、「そもそも桜沢村がいつまで存在したか」ですので、以前の「下阪本村 or 下坂本村」とは異なり、答は自明なはずなのですが・・・今回は他の資料によって明らかなようですので、1943(S18).9.8に修正しました。ありがとうございました。それにしても、数多くの文献の記載内容の疑義を証する資料(調査結果)がすっと出てくるとは・・・改めて落書き帳恐るべしです。
[56491] 2007年 1月 28日(日)14:22:08【3】hmt さん
長瀞・寄居付近
[56459]で戦時合併した埼玉県美野町の解体手続きに触れましたが、この美野町が成立した1943年9月8日は、先に話題になった 桜沢村の寄居町への編入 と同日です。
つまり、荒川が秩父山地から関東平野へと流れ出るあたりで、この日に3件の戦時合併があったのです。

秩父郡皆野町、三沢村、国神村、金沢村、日野沢村、大田村、それに 白鳥村下田野 が合体して美野町成立。
秩父郡樋口村と白鳥村の大字岩田・大字井戸・大字風布の一部分が 野上町 に編入
大里郡桜沢村と秩父郡白鳥村大字金尾・大字風布の大部分が 大里郡寄居町 に編入

上記のように3分割されて消滅した白鳥村。名前の由来は、国指定名称「長瀞」の「白鳥島」 ですね。
見事な結晶片岩の露頭で有名な長瀞の右岸、観光客の視線で言うと「対岸」の山塊が白鳥村で、荒川はその山麓を北に回って寄居に出ます。

この白鳥村は、東斜面が 寄居町に、尾根を隔てた長瀞側の西斜面が 野上町(現・長瀞町)に、そして釜伏山の南西が 上流側に隣接する皆野町を中心として新設された美野町へと3分割されたわけです。
もともと山で隔てられた地形ですから、これが自然の成り行きと言えるでしょう。白鳥村の金尾・風布からも分村編入の陳情書が出ていました。言い換えれば、明治22年の町村制に際して作られた白鳥村は、かなり不自然な存在だったということでしょう。

桜沢村の件は[56265] Issie さんにある通りで、4度目の合併話でようやく実現しました。

最初、明治の町村制施行にあたっては、郡長の寄居合併試案に対して、地形・民情の相違が認められて独立で村制(1889年、当時は榛沢郡)。

2度目、日露戦争後の1908年に提出された合併案が内務大臣の許可を得られず不成立に終わった原因が 「基本財産問題」 にあったことも既に紹介されています。

寄居町が桜沢村と合併しても新・寄居町の基本財産が増えるわけでなく(←このあたりの理屈が今一つ理解できないのですが),これを問題とした内務大臣(←原敬でした)が合併の許可を与えず
と、すっきりしないようなので、もう一度問題を整理してみます。

要するに内務省としては、桜沢村の大字有林を基本財産に吸収して、町村財政の強化を図る目論見であったのに対して、桜沢村としては、こちらが山林を出すなら、寄居町は土地に代る金銭を拠出してこそ対等合併だと主張。

間に立った郡や県が、桜沢村所有の山林の権利を地元に残す形で調整を図った結果が、1908年の合併申請だったが、これが内務省の意向に沿わなかったために不許可に終わったということでしょう。
…若シ大字有土地ヲ新寄居町有ト為サゝレハ合併不許可相成次第ニモ候ハゝ甚ダ遺憾千万ノ儀ニ候得共…
(明治41年9月大里郡長より埼玉県内務部長への申報)

3度目の合併話は大正末期、鉄道を巡る感情的なしこりが失敗の原因になったようです。
坂戸町から高崎への計画線を寄居までに縮めて工事中だった東上線は、1923年(大正12年)11月に小川町までが開通し、1924年末という竣工期限には間に合わなかったものの、1925年7月に秩父鉄道寄居駅に乗り入れを果たしました。
実はそれよりも前、東上線乗り入れ駅の誘致を巡って、寄居町と桜沢村との競り合いがあり、その時の行きがかり上、桜沢村民は寄居との合併に反対する空気が強く、寄居町も断念に至ったと新聞は伝えています(東京朝日埼玉版1925/9/13)。

そして4度目が昭和18年の戦時合併。この時は有無を言わせず合併になったのでしょう。
日付については、前記白鳥村の3分割と同日、1943年9月8日ということになりました。
戦後は、美野町のように解体することもなく無事でした。

【追記】
寄居町風布(ふっぷ)の「北限のみかん」というキャッチフレーズを耳にしたのは ずいぶん前のこと。
最近は事情が変わっているかと調べてみたら、筑波山西麓のみかん園 の方が少し北のようです。常陸太田市のジュース工場 にも実をつける木があるらしいが、これは「産地」とは言えないか。
更に、「国見の里 みかんの実る 北限地」 というのもありました。那須烏山市のみかん園
【更に追記】
[56514] 音無鈴鹿さん から「福島県のみかん」を紹介していただきました。写真を見ると、立派に実っていますね。
[123] 2001年 1月 21日(日)18:02:43Issie さん
合体改称市制
>グリグリさん
時間の制約もあるので(何しろお役所ですから一般利用は5時までです。職場から都心までは2時間近くかかるので時間があまりありません),調査に行く前に,以前に作成した「市一覧表」から「改称の行われた市」のリストを作って,それについてだけ確認する方法をとりました。常陸太田市の場合は「常陸太田町」からの市制としてあったので,絞込みには引っかからず,確認をしていないのです。
同じく,陸前高田市のように合併で新設された市についても今回は省略しました。この場合,“従前の自治体”が「廃止」されてその区域に改めて「新自治体」が設置された,と解釈すべきだと考えたからです。
ただし,「赤間関市→下関市」の改称についての確認をしている際に,偶然,広島県の「呉市」が「安芸郡呉町」からの市制施行で設置されたという内務省告示をみつけました。でも手許の資料では呉市は「和庄町」以下の合併による改称市制となっています。
戦前の「市制・町村制」下では「市」を設置する場合だけ内務省が告示するという制度だったようで,町村の廃置分合や市の改称(町村も)については内務省告示には掲載されていません。
多くの資料では呉市は和庄町以下の合併市制で発足したと記載されていますから,告示を信用するとすれば合併によって一旦「呉町」が設置された後,即日市制が施行されて「呉市」になったのかもしれません。
戦後の「地方自治法」の下では町村の廃置分合や自治体の解消についても告示される(総理庁→総理府→自治省)ことになっていますからこのあたりの確認はもう少しやりやすいとは思いますが,呉市のように合併の際に“新しい名称”で「町」が発足し,それが即日「市」に昇格した,という例があるかもしれません。
[882] 2002年 2月 12日(火)21:56:56Issie さん
防府と長府
「防府」というのは,もちろん「周防府中」の略称です。
近世以来,この地にある集落は「三田尻」と呼ばれていますが,同時に「防府(周防府中)」という地名も行われたようです。
一般に1つの土地に対して2つ以上の地名が行われることは消して珍しいことではありません。
信濃善光寺の門前町は一般に「善光寺(宿)」と呼ばれていましたが,同時に「長野村」という名称もありました。現在の市名・県名はつまり「善光寺」ではない,こちらの名称によるものです。
あるいはまた,直江津の周辺はここに越後国府があったことから「越後府中」と呼ばれたことがあります。室町時代後期,越後守護代として守護大名の上杉氏以上に反映した長尾氏の中で,本家筋でこのあたり(頸城=下越地方)に勢力を持った系統は「府中長尾氏」と呼ばれていました(なお,「直江津」というのも古代以来の伝統を持つ,たいへんに古い地名です)。
長門の「下関」には,「赤間関」と「馬関」という2つの別称がありました。日清戦争後の講和条約である「下関条約」は,当時むしろ「馬関条約」の名で呼ばれたし,ここに設置された市ははじめ「赤間関市」という呼称でした。しかし,一般には「下関」という呼称が行われていたので,やがてこちらに統一されたという次第です。
「防府」の場合は,これが公式の行政地名として採用されたのは三田尻村が佐波村と合体して町制を施行した1901年のことです。ここで「防府町」というのは正式な自治体名となりました。その後,国鉄山陽線の駅も「防府」と改称されます。

「長府」は,やはり「長門府中」のこと。
ここには藩政時代,萩の毛利本家の分家を藩主とする「府中(長府)藩」が置かれました。長府(長門府中)は当然,下関(赤間関・馬関)とは独立した別個の市街を構成していました(下関は長府藩ではなく,萩の本藩の直轄だったのでは?)。今でこそ,長府は下関市の一部ですが,歴史的にはお互いに別々の都市だったのです。

このほかに「駿府=駿河府中」や「甲府=甲斐府中」というのが有名ですね。
ただし「甲府」の場合,律令時代の甲斐国府はここにはなく,笛吹川をはさんだ八代郡,現在の石和町から御坂町にかけての地域にありました。川の対岸の山梨郡域に現在の「甲府」という地名が生まれる直接の由来は律令時代ではなく,中世に甲斐一国を支配した武田氏の本拠が現在の甲府に置かれ,ここが甲斐国の主都とされたことによります。
この武田氏の本拠であった場所には「古府中」という地名がありますが,これが律令国制下で一時期ここに国府が置かれたことによるのか,武田氏がここに本拠に置いたことによるのか,それとも戦国末期に武田勝頼が現在の韮崎市に本拠を移した(「新府」とよばれる)ことへの対比なのかはわかりません。

「駿府(駿河府中)」の場合は,1869年の版籍奉還の際に「静岡」と改称されています。
これは徳川宗家第16代の徳川家達が明治政府から知藩事に任命されるに際して,「ふちゅう」では「不忠」につながるので改称したと説明されています。
しかし,これと同時に「常陸府中藩」が「石岡藩」に,「対馬(府中)藩」が「厳原藩」にと,全国の「府中藩」が一斉に改称されているので,これは「駿府藩」独自の問題ではないようです。
いずれにせよ,これによって全国の「府中」という地名が減ったことは確かです。

「防府」や「長府」「甲府」の例にならえば,当然「芸府」や「武府」という呼称があっても不思議ではありません(「備府」では備前か備中か備後か区別がつかないので,こういう呼称はありませんが)。
でも結局,実際には行われなかった。それだけのことです。
なお,国土地理院の地形図ではよその「府中」と区別するために,東京都の府中を含む図幅については「武蔵府中」という名称を使用しています。
[27855] 2004年 5月 3日(月)01:53:28Issie さん
内務省告示
[27853] 地名好き さん
まず官報で再度、整合性のチェックをおこなっておきたいと考えており、

旧憲法および市制・町村制下では,「市」の異動(新設・合体)については内務省から告示がなされ,それが官報で公開されるという手順がとられていますが,町村の廃置分合については内務省が告示する事項ではなかったようで,官報や法令全書には掲載がないようです。町村の既存の「市」への編入も,告示はされていません。
既存の「市」の,他の既存の「市」への“編入”については,実例がないので不明です。
また,赤間関市 →下関市 の“改称”に関わる告示を見つけ出すこともできませんでした。

現行憲法・地方自治法体制になって,町村の廃置分合も内務省(→総理庁→総理府→自治省→総務省)が告示する事項となり,官報・法令全書であとをたどることが可能になります。

…というわけで,あたしが町村の異動に関して告示番号を確認してあるのは1965年10月1日以降の分だけなのでした。1954年3月末からしばらくなんて,とても確認する気になりません。だから,ここは「市」の分だけ。

政令指定都市の「区」の廃置分合は,現在も総務省の告示事項ではないので官報には掲載されません。

そういえば(既に日付が変わっているので),
本日が,その現行憲法・地方自治法体制に移行して,ちょうど57年目の当日なのでしたね。
それで「休み」なわけだ。
[74498] 2010年 3月 31日(水)17:59:14hmt さん
「下ノ関市」の謎 (1)1902年に赤間関市から改称した市の名前は?
&KOMA[74496] むっくん さん 郡区町村編制法時の各府県布達
開拓使 乙第4号布達 M12.7.23
この布達の存在は[62816]で触れていたのですが、資料を見つけることができずにおり、[74362]でも未確認と記していました。

今回リンクしていただいた文書には、函館市史に引用された通りの文言が記されているので、これが「乙第4号布達」の内容を掲載した資料であることに、間違いはないように思われます。
しかし、資料自体には“明治12年7月23日(開拓使)”と記されているだけで、布達番号は記されていません。

この資料は、「府県及北海道境域沿革一覧」(内閣統計局編、明治43年東京統計協会)という2冊本に集録された資料「第三編 府県及北海道境域沿革に関する詔勅並諸法規」の一部で、詔勅、布告及太政官達、…法律、…内務省告示と並んだ最後にある「其他」に分類されています。
開拓使や府県発のものを、統計局が官報から集録した資料と推察しますが、布達告示等の種別番号が記されていません。

それはさておき、リンク資料の前後のコマを眺めていたら、「下ノ関市」 を発見しました。
明治35年4月5日
山口県管下長門国豊浦郡赤間関市を下ノ関市と改称し同年6月1日より実施(同上)

新聞社の単純ミスと思われる愛知県田原市市[74433]と違い、これは見過ごすことができません。

(同上)と記された部分は(本局編纂の郡市町村廃置分合表に拠る)の意味なので、統計局の 郡市町村廃置分合一覧表 を見ました。
この資料は、明治31年末からの5年毎でまとめられており、4冊で20年分(1898年末-1918年末)があります。リンクした頁には、明治36年末までの5年間の郡市廃置分合が一覧表になっており、次の通り記されています。
広島県安芸郡呉町→呉市   明治35年10月1日実施
山口県赤間関市 →下ノ関市 明治35年6月1日実施

内閣統計局がまとめた 明治36年12月31日現在の 市町村別現住人口でも 下ノ関市44734人 となっています。

「明治35年4月5日」の改称告示?の出所が明確でないのですが、統計局の複数の資料で「下ノ関市」となっていることから、「下ノ関市」で告示されたことは間違いなさそうです。

ところが、下関市HP内を「下ノ関」で検索してもヒットする資料はありません。
水道事業の沿革、下関市立中央病院、こども市報(下関の歴史をのぞいてみよう)などを見ても、1902年「下関市」となっています。
下関市は、明治22年市制施行と同時に「赤間関市」として誕生し、明治35年に「下関市」と市名を改め、平成14年6月に市名誕生百周年を迎えた。
[74499] 2010年 3月 31日(水)18:32:19hmt さん
「下ノ関市」の謎 (2)1889年赤間関市→1902年下ノ関市→?下関市
明治23年4月1日に市制を施行した「赤間関市」。
その根拠とされる明治22年内務省告示第1号で使われた文言は、[62504] むっくん さん の記事にあるように、
明治二十一年法律第一号市制第百二十六条ニ拠リ市制施行地左ノ通指定ス
山口県管下  赤間関
でした。

「市制施行地」が「赤間関」と指定されたのであって、市名を「赤間関市」にせよとは言っていない。
だから、市名には最初から「下関」を使っても「馬関」[882]を使ってもよかった。しかし、ともかく「赤間関市」で発足。

これを改名した告示については、落書き帳の草創期から Issieさん が気にしていましたが[123]、結局は未発見のまま[27855]
赤間関市 →下関市 の“改称”に関わる告示を見つけ出すこともできませんでした。

[74498]で記したように、内閣統計局編「府県及北海道境域沿革一覧」の中に、改称告示らしい「明治35年4月5日」という日付がありました。
そこで、私もこの日付付近を閲覧してみましたが、改称の内務省告示 は、確かに不存在。

よく考えてみると、「市制施行地」の指定権を持つのは内務省だが、「市名」を決めるのは地方に任されており、例えば(市制121条により内務大臣の許可は必要だが)市条例で改名することができるのではないか…と思われます。
だとすると、出所が明らかでなかった赤間関市→下ノ関市 の改称告示は「市条例」だったのかもしれない。
そして、同じように下ノ関市→下関市も「市条例」レベルでOK。

実際問題として、「下ノ関市」が存在したのはごく短期間だったのでないかと推測します。
だから下関市民は明治35年6月から「下関市」になったと信じている。
この状況では、「ノ」が取れて「下関市」になった日付を明らかにすることは、新発見の有力な資料がない限り困難でしょう。

遠く離れた東京にいる内閣統計局は、「下関市」になったことを知らなかった可能性があります。
昔の人はおおらかですから、「ノ」の有無を気にして、注意する人もなく放置された可能性があります。
明治37年12月31日官報の記載「下ノ関市」をもって、少なくともこの時までは「下ノ関市」だったとする証拠にはならないと思います。

遅くとも 大正2年(1913)の日本帝国人口静態統計 では、内閣統計局も「下関市」であることに気がつき、表記を「下関市」に改めています。

同じ頃の 改正新旧対照市町村一覧(鐘美堂1913) でも同様に下関市になりました。
[74506] 2010年 4月 1日(木)00:24:53Issie さん
「下ノ関市」で全然OK(オッケー)!
[74498] hmt さん
それはさておき、リンク資料の前後のコマを眺めていたら、「下ノ関市」 を発見しました。

なるほど。そういうものがありましたか。
ここまで来れば,「ノ」の有無は全く問題にならないと思います。十分,「誤差の範囲」に収まるのではないかと。

[74499] hmt さん
昔の人はおおらかですから、「ノ」の有無を気にして、注意する人もなく放置された可能性があります。

もう少し前の時代の漢文訓読に基づく表記法であれば,この場合の「ノ」は行の隅に小さく書かれるべきものであって“正規の文字”であるかどうかは甚だ曖昧。漢文の感覚が残っていれば,むしろ「ノ」がない方が“より正式”なのかもしれませんが,それほど気にすることではなかったような気がします。“かな”の形だって,ようやく学校教育の現場で統一されたばかりの時代で,日本語の「正書法」はまだ確立していません。周りを見渡せば“表記の揺れ”など,いくらでもあったであろうし,それを“揺れ”とも思わない時代であったでしょうから。
「ケ」の大小でさえ「正しい」か「正しくない」かを問題にする“潔癖症”的な現代とは感覚が違うと思います。

※そんなわけで日付が変わり,迷惑なことに我が家の住所が3文字分長くなってしまいました。さっそく,本日付で行われる公立学校教員人事を伝える昨日付けの新聞の折込特集では,相模原市の小中学校が「一般市町村」から離れて横浜市や川崎市と同じ扱いになっていました(←政令指定都市になると威張っていながら,横須賀市にはある「市立高校」さえ自前で持たずに,高校教育は県に全面的におんぶ)。もう,人事権が県を離れたということなのでしょうね。
まだ,新しい郵便番号をおぼえていません。
[74509] 2010年 4月 1日(木)01:00:02oki さん
「下ノ関」に関する資料
[74498] hmt さん
[74499] hmt さん  「下ノ関市」の謎

実際問題として、「下ノ関市」が存在したのはごく短期間だったのでないかと推測します。
だから下関市民は明治35年6月から「下関市」になったと信じている。
この状況では、「ノ」が取れて「下関市」になった日付を明らかにすることは、新発見の有力な資料がない限り困難でしょう。

「下ノ関」の名称が記載された資料をご紹介します。税務署の名称と管轄地域に関する勅令、およびその関連資料計4件で、国立公文書館のデジタルアーカイブで見つけました。
資料名称は次の通り。

1-A:
1902(明治35)年1月16日付「明治三十五年勅令第二号」
同年2月1日付で、「長府」税務署が「下ノ関」税務署に名称変更
1-B:
1901(明治34)年12月28日付上記勅令「案」

2-A:
1902(明治35)年6月14日付「明治三十五年勅令第百六十二号」
同年7月1日付で、「下ノ関」税務署が「下関」税務署に名称変更。同時に、下関税務署の管轄区域を赤間関市から「下関」市に改称
2-B:
1902(明治35)年6月4日付上記勅令「案」

まず資料1-Aから、1902(明治35)年2月1日付で、「長府」税務署が「下ノ関」税務署に名称変更されていることが分ります。言うまでもありませんが、この時点で存在するのは「下ノ関」市でも「下関」市でもなく、赤間関市です。
次に、2-Aにより、同年7月1日付で、2月に改称されたばかりの「下ノ関」税務署が再度「下関」税務署に改称され、同時に下関税務署の管轄区域が赤間関市から「下関」市に変更されています。
2-Bの3コマには、これが同年6月1日付で施行された赤間関市から「下関」市への改称に伴うものであることが明記されています。

以上の資料から判断すると、赤間関市が「下ノ関」市を経て「下関」市と改称された可能性は薄いと思います。資料2-A・Bは、いずれも「下ノ関」税務署から「下関」税務署への改称に関するもので、「下ノ関」と「下関」との相違を充分に理解した上で作成されています。したがって、いったん「下ノ関」市に改称された上で「下関」市になったのだとすれば、資料2-Bにその旨が明記されてるはずです。それがない以上、1902(明治35)年6月1日に、直接「下関」市になった、と判断する方が妥当ではないでしょうか。
なお、資料2-Bには「赤間関市を下関市と改むる件」について「明治35年4月許可、同6月1日より施行」とあり、「府県及北海道境域沿革一覧」に記載された「明治35年4月5日」は、この「許可」の日付だろうと推測されます。

ただ、以上が正しいとしても、まだ疑問は残ります。資料2-Aで「長府」税務署から「下ノ関」税務署に改称されたのはなぜか、また、「府県及北海道境域沿革一覧」や内閣統計局による「明治36年12月31日現在の市町村別現住人口」で「下ノ関」市という市名が使用されている理由は何か、が分らないからです。
で、以下は推測です。
まず、「長府」税務署から「下ノ関」税務署への改称は、税務署が当時の長府村から赤間関市に移転したためだと考えられます。「赤間関」税務署にしなかったのは、その時点(遅くとも1-Bの発行時点である1901年年末段階)で、「下ノ関」市への改称が規定方針であったからでしょう。しかし、実際には「下ノ関」市ではなく「下関」市になった。そのため、改めて「下関」税務署に名称変更する必要が生じたのだと思います。
また、「府県及北海道境域沿革一覧」や「明治36年12月31日現在の市町村別現住人口」で「下ノ関」市が使われているのは、もともと「下ノ関」市に改称されるはずであったのが「下関」市になってしまったため、政府部内に混乱が生じ、一部資料に「下ノ関」市の表現が残ったためではないかと考えます。
以上、あくまで推測ですが、ご参考になれば。

上記を投稿しようとしたところで、、
[74506] 2010 年 4 月 1 日 (木) 00:24:53 Issie さん
「下ノ関市」で全然OK(オッケー)!
を目にしましたが、そのまま書き込みます。
大蔵省(税務署関係)は「下ノ関」と「下関」の相違に厳格に対応したのに対し、他のお役所は「ノ」の有無にこだわらなかったのかもしれません。
[74715] 2010年 4月 5日(月)13:33:25hmt さん
「下ノ関市」の謎 (3)「下之関」もあったが…
[74498][74499]hmt 「下ノ関市」の謎
[74509] oki さん  「下ノ関」に関する資料
2-Bの3コマには、これ【税務署の改称など】が同年6月1日付で施行された赤間関市から「下関」市への改称に伴うものであることが明記されています。

右ページの“山口県下赤間関市ヲ下関市ト改ムル件 明治35年4月許可 同6月1日施行”との記載ですね。
このペンで記された参照事項が示すことは、“内務大臣の許可を得て制定された市条例が6月1日に施行され、赤間関市から直接「下関市」になった”という事実と思われますが、ここでも「施行」の対象(市条例と推測)が示されていません。

[74506] Issie さんの、“「下ノ関市」で全然OK(オッケー)!”という意見もありますが、「しものせき」をどのように表記するかについて、当事者は 結構議論をしていたようです。
改称の前年、明治34年11月14日大阪朝日の記事。(明治ニュース事典 第6巻p.768)

赤間関市が名称を改めんとする事はしばしば報道を経たるが、「しものせき」と改称することは市会の是認する所なるも、なおこれを書する上に就いて、或いは「下の関」と仮名の「の」を挿入すべしと言い、或いは「の」の字は言辞の上の接続助辞に過ぎざれば、これを省略して 単に「下関」となすべしと言い、或いは漢字の「之」の字を挿入するを可なりと主張する論者ありて、容易に決定せざりしが、ようやく 11日の市会にて「之」字を挿入し 下之関とするの説多数を占め、ついにこれに可決したれば、直ちにその旨参事会に向かい答申の手続きに及びたり。

続報は記録されていませんが、条例案の段階で 下之関市→下ノ関市→下関市 と三転したのでしょう。

もう少し前の時代の漢文訓読に基づく表記法であれば,この場合の「ノ」は行の隅に小さく書かれるべきものであって“正規の文字”であるかどうかは甚だ曖昧。漢文の感覚が残っていれば,むしろ「ノ」がない方が“より正式”なのかもしれませんが…

西郷隆盛、坂本龍馬等と滞在中の 中岡慎太郎が 下関から郷里に出した手紙 には、「下之関」と「下ノ関」の両方が使われていました。

助辞を表記した用例は、幕末の私信を出すまでもなく、明治政府の公文書にもありました。
明治28年に結ばれた 日清講和条約公布の勅令 には、「下ノ関」と表記されていました。
朕明治28年4月17日下ノ関に於て朕が全権弁理大臣と清国全権大臣の記名調印したる講和条約及別約を批准しここに之を公布せしむ

助辞のことはさておき、世間で最も通用していたこの町の呼び名は、昔から「下関」だったようですが、政府は安徳天皇阿弥陀寺陵の付近の地名と思われる「赤間」を好んで使ってきたのですね。

遡れば明治5年の山口県赤間関支庁。明治8年の赤間宮、明治12年の赤間関区[7772]、明治22年の赤間関市[34434]
明治8年10月25日太政官達【上海定期航路の郵便汽舩下関へ寄港】では 「下関港」 で開港したが、赤間関市に伴い赤間関港に改称。

異例とも思われる明治35年の改称は、公式にも使われてきた 自分たちの町の名「下関」を 市名として取り戻したい とする地元の要望によるものでした。

「馬関」という呼び名もありましたが、これは「赤間関=赤馬関」の略称由来でしょう。
敢えて言えば、溝の口を「のくち」[74419]と呼ぶのと同類?

でも、馬関は 結構広く使われたようで、山陽鉄道 [61226]の駅名は「馬関」でした。
鉄道唱歌の 1900年には 工事中でしたが、翌年開通。市名を改めた 1902年 には 駅名も 港湾名も 「下関」になりました。
25 出船入船たえまなき 商業繁華の三田尻は 山陽線路の終わりにて 馬関に延ばす汽車の道
27 【門司の】向の岸は馬関にて 海上わずか二十町 瀬戸内海の咽首を しめてあつむる船の数

上下地名 の下関は、瀬戸内海の防長三関(上関・中関・下関)由来。
[16393] ペーロケさん と [18420] Issie さん が言及しています。

「Shimonoseki」は、「下関戦争」によって 国際的にも知られた地名でした。
文久3年(1863)に「攘夷」を決行した 長州藩による海峡封鎖→元治元年(1864)の四国艦隊砲撃事件。
この戦争は「馬関戦争」とも呼ばれますが、赤間関戦争は聞いたことがありません。
[99415] 2020年 5月 2日(土)12:22:38hmt さん
「下ノ関市」は存在しなかったらしい
[81567] hmt などへの自己レスです。
長門国 赤間関 23527人:1889年市制施行で赤間関区から赤間関市へ。1902年下関市に改称。下ノ関?

末尾のリンクにまとめられている 改称に関する過去記事の要点を記します。

[123] Issieさん 戦前の制度:町村の廃置分合や市の改称(町村も)について、内務省告示は不掲載。
[882] Issieさん はじめ「赤間関市」、一般には「下関」、やがて 下関に統一。
[27855] Issieさん 旧憲法および市制・町村制下 赤間関市 →下関市 の“改称”に関わる告示 見出だせず。

[74498] hmt 
「山口県管下長門国豊浦郡赤間関市を下ノ関市と改称し同年6月1日より実施(同上)」
出典:「府県及北海道境域沿革一覧」(内閣統計局編、明治43年東京統計協会)第三編
その原典とされた統計局の 郡市町村廃置分合一覧表でも赤間関市→下ノ関市 M35/6/1実施を確認。

この資料を信じると、「下ノ関市」を経た2段階改称説 が生まれます。2段階説は正しいのか?

[74499] hmt 下ノ関市への改称告示は市条例? 短期間で下関市になったと推測 統計局は知らなかった?
[74506] Issieさん 漢文の感覚では「ノ」がない方が正式なのかも。“潔癖症”的な現代とは感覚が違う。
[74509] oki さん 税務署以外の役所は「ノ」の有無にこだわらなかった?
【この記事も 改称を受け止める側の感覚に注目。その上で 2段階改称に否定的。】
[74715] hmt 新聞記事:下之関市を含めた三転、「下関」を 市名として取り戻したい地元の要望

最後に、最近の調査で知った レファレンス事例を紹介
これによると、下関市史 市制施行-終戦 P58 に記載があるとのこと。

「下ノ関市」への言及はなく、下関市の公式見解は、赤間関市→下関市 の直接改称と理解されます。
下関市史の該当箇所は閲覧していませんが、改称当事者の下関市の公式見解が明らかになったと思われます。

[74498]で引用した統計局資料の「下ノ関市」。
いかにも告示らしき口調の文ですが、原典を発見できず、何故誤った情報になったかは、謎のまま残ります。

[74498][74499]から 10年を経過しましたが、これで 2段階改称説の幕を引くことにします。
[99416] 2020年 5月 2日(土)14:08:07MI さん
Re: 「下ノ関市」は存在しなかったらしい
[99415] hmt さん

 この件については、山口県立山口図書館で『山口県報』を閲覧・撮影しております。
○告示
山口縣告示第百七號
明治三十三年法律第七十七號ニ依リ縣下赤間關市ヲ本年六月一日ヨリ下關市(シモノセキ)ト改稱ス
 明治三十五年四月十一日 山口縣知事 武田千代三郎

であって、下ノ関市は存在しなかったことが確かめられました。
[78873] 2011年 8月 6日(土)01:03:38MI さん
日野村は神奈川県令の誤りでした
[78846] オーナー グリグリ さん
 メンバー登録ありがとうございました。ご挨拶が遅れてしまいましたが、皆様どうぞよろしくお願いします。
 さて本日、二俣川の神奈川県立公文書館に行って参りましたので、ご報告いたします。日本海側に在住の私ですが、今週は休みを取って国会図書館に籠っていたのです。今日は最終日だったのですが、[78871] むっくん さんの書き込みを拝見しましたら、二俣川へは私が行くのが最適なように思えまして、電車とバスを乗り継いで行きましたよ。
 明治20年からの「神奈川県公報」は製本されて開架に並んでいるのですが、肝心の県令が欠落しているようです。係りの方に訊ねますと、そういうこともあるので他で所蔵したものも併せてマイクロフィルムにしてあり、そちらを閲覧しました。
 さあお待たせしました。問題の県令全文です。

○縣令第九號
各町村ノ内内務大臣ノ認可ヲ得明治二十二年三月三十一日ヲ以テ別冊ノ通リ分合改稱ス
  明治二十二年三月十一日       神奈川縣知事冲 守固
                        (別冊ハ附録)

○縣令第十號
明治二十一年法律第一號ニ依リ内務大臣ノ指揮ヲ得明治二十二年四月一日ヨリ横濱ヘ市制其他ノ町村ヘ町村制ヲ施行ス
  明治二十二年三月十一日       神奈川縣知事冲 守固

 そして別冊に「町村分合改稱」の一覧が掲載されているのですが、ここで大変なことを発見してしまいました。日野宿の部分は予め「日野村」と印刷されたうちの「村」を手書きで「宿」と直してあるのです。これは[78871] むっくん さんのいわれる
まず当時のいずれの県の公報においても誤記は少なくなく、その後幾度にわたって訂正として出されています。神奈川県においても同様だったと考えられます。
 の正しく実例と考えられましたので、マイクロリーダーに目を凝らしてついに見つけました。

「神奈川県公報」明治22年5月15日
正誤 公報第弐百貮拾八號縣令第九號別冊九頁中鶴川村ノ下「熊ヶ谷村」ハ「能ヶ谷村」同南村ノ下「高坂村」ハ「高ヶ坂村」十頁中「日野村」ハ「日野宿」二十頁伊勢原町ノ下「坂戸村」ハ「板戸村」ノ誤

 「日野村」と記された史料が散見される理由については、これで明確になったと思います。本当に単純な誤りであったのか、それとも何らかの理由があったのかは分かりませんが、とにかく県令9号で「日野宿」とされたことが確認されたわけです。

 「宿」や「駅」を町(または村)とみなすとかいうような説明は公報を見た限りでは見つけられませんでしたが、とりあえずここまでのご報告です。
[79018] 2011年 8月 9日(火)15:48:24【1】hmt さん
「市制町村制」と「自治体の呼び名」 (8)新「日野宿」は 旧「日野宿」の区域を存して之を変更せず
[79017] むっくん さん
[78871]拙稿ではおそらく自明のこととして省略しましたが、県令第9号(M22.3.11)が「日野宿」か「日野村」かの法的根拠である。
これ【田辺市】と同じことが今回の「日野宿」か「日野村」かの法的根拠についても言えますので、(3)ではなくて(2)の県令第9号(M22.3.11)が法的根拠となります。

一言補足させてください。
1947年の地方自治法施行の際には、第3条第1項で“地方公共団体の名称は、従来の名称による”と定められたので、「市制」による「田辺市」の名称は、そのまま地方自治法の自治体に移行しました。
しかし、1889年施行の町村制には、「町村名」を引き継ぐ規定がないようです。

その代り、「町村の区域」を引き継ぐ規定があります。
第3条 凡町村は従来の区域を存して之を変更せず
つまり、明治22年3月31日施行の県令第9号による廃置分合がなされた「郡区町村編制法による町村の区域」が、変更されずに、そのまま「町村制による町村の区域」に移行したわけです。

新「町村」が元になって 旧町村の「区域」を引き継ぐのか【明治の制度】、町村の「区域」が元になって 従来の町村の「名称」を引き継ぐのか【昭和の制度】、引継ぎを規定した条文が異なります。
明治22年は大規模な廃置分合を伴ったので「区域」に重点が置かれ、区域の変更がなかった昭和22年は「名称」の引き継ぎという条文になったのか。
明治の町村は旧制度からの「移行」であったのに、昭和の町村は「名称」を引き継いだだけの「新設」というほどの「実体の違い」を意味するものとも思われません。
同じことなのかもしれず、私にはよくわかりません。

いずれにせよ、廃置分合後の町村名は新制度の町村名として使われることになるので、[78871]で(3)として挙げられた府県内全市町村の役場位置の公示は、新制度による自治体名を確定する根拠としては不必要ということですね。
下記報告は、そのような状況の下、役場位置の公示時期が大幅にずれ込んでいることを示しているのかもしれません。

[79005] MI さん
「役場位置に関する県令」ですが、そこまで確認は致しませんでした。【少なくとも11号、12号ではない】
同様に、“神奈川県公報第268号(M22.7.19)にある「神奈川県各郡町村名大字役場位置表」”【新町村のリスト】も未確認です。

別件:hmtの盡信書不如無書 事例研究に対する MI さん のレス
神奈川県改定区画傍訓町村名鑑(凡例)
此書ハ明治二十二年四月市町村制ノ施行ニ際シ神奈川県改定ノ市町村名ヲ列載スルモノトス

なるほど。この凡例には気が付きませんでした。してみると、横浜市は別として、町村については 県令第9号に基づく変遷情報 と一致するだろうと思い比較してみたところ、大部分は一致しました。
南多摩郡日野宿(変遷情報)と日野村(名鑑)との不一致は[78806]で既報ですが、その他に南多摩郡桑田村と生田村、大住郡南秦野村と南秦野町など不一致を散見。

ついでに、この対比により 変遷情報の誤記 と思われる箇所を発見しました。
仙石原村仙石原村 とは、いずれも 国府津村 の誤記ではないでしょうか。>88さん

せっかくなので、便宜上末尾の数字を付けて区別し、日野の変遷を記しておきます。

明治22年3月31日に郡区町村編制法の下で、日野宿1と西長沼村, 平山村, 粟須村の一部が統合された 日野宿2 が誕生。
同年4月1日に施行された町村制により、日野宿2は、自動的に 同名の新自治体 日野宿3 になった。
その区域は、日野宿2の区域と変わらない。
【この間に日野村に変更された未確認情報[78806]もあるが、とりあえず無視】

明治26年4月1日  南多摩郡は東京府に移管され、東京府南多摩郡日野宿4となる。
明治26年6月19日 日野宿4が 日野町1 になる。
明治34年4月1日 桑田村との新設合併で 日野町2

昭和22年5月3日 地方自治法施行により、日野町2の区域に生まれた新制度の地方公共団体は、従来の名称を引き継いだ 日野町3 となる。
昭和33年2月1日 七生村との新設合併で 日野町4
昭和38年11月3日 日野市
[79070] 2011年 8月 13日(土)14:01:49hmt さん
「市制町村制」と「自治体の呼び名」 (9)町と村との実体的な違い
[79006] hmtの発言
「町村制」の中で「町」と「村」とが別の「制度」として存在した とまで言う価値があるのは、両者の間に 名前以外の実体的な違いがあってこそ ではないでしょうか。私には、その点が疑問に思われます。
町村制施行後の変更種別として、“町に変更”という表記を提案します。
町村制施行時に成立した○○町は 単に変更種別“町村制”と記せば十分であると思われます。
に対する 88さんのご意見[78998][79058][79059]を拝読しました。

[79058]では、
現在の地方自治法においても、町と村の間に相違はなく、単に名称の相違といっても過言ではありません。
としながらも、第8条第2項を挙げて、町となるためには、都道府県条例で定める要件を具えるべきことを指摘されました。
町となるべき普通地方公共団体は、当該都道府県の条例で定める町としての要件を具えていなければならない。

市となるべき要件(第1項)のように、直接法定された要件ではありません。
しかし、間接的ながらも 法律に根拠を持つ 「町と村との実体的な違い」が、これにより示されたものと理解します。

これは、昭和23年から施行された改正規定です。それ以前については、下記の回答をいただきました。

「町」と「村」の違いは、町村制時においても、現在の地方自治法第8条第2項と同様の規定があるはず、と考えているのですが、発見できていません。これは【内務大臣許可等の】手続きを要することから、何らかの目安となる基準があるであろうこと、また、地方自治法もこれを踏襲したであろうこと、からの私の想像(確信)です。(中略)引き続き探します。

じっくりお探しください。

[79059]
変更種別は、市区町村変遷情報のデータベース構造自体にも大きな影響を与えますので、外観上の表記だけで決定することはできません。グリグリさんとも協議の上、決定する必要があります。

「町制」・「村制」を簡単に変更できない事情があること、了解しました。

この特集記事はあなたのお気に召しましたか。よろしければ推奨してください。→ ★推奨します★(元祖いいね)
推奨するためには、メンバー登録が必要です。→ メンバー登録のご案内


都道府県市区町村
都道府県や地図に関する地理の総合マガジン

パソコン表示スマホ表示