[56218] 白桃 さん
[56221] あ
[56223] hmt さん
うちの職場は今が“農閑期”で,今日は「バリウムを飲む」という“身体に悪い出張”があったことを口実に午後を休みにして,思い立って浦和の県立図書館まで件の「寄居町史」を読みに行ってきました。
や,それにしても,横浜から浦和まで,京浜東北線はずいぶんと乗りでがあるものです。
『寄居町史 通史編』(寄居町教育委員会町史編さん室,1986年)は言っています(←英文直訳?):
問題の1908(明治41)年の場合,
・町村会(寄居町および桜沢村)の議決 および 郡参事会(大里郡)の議決を経,
・1908年3月に 埼玉県知事 から 内務大臣 に「稟申書」が提出されたが,
・内務大臣は許可を与えず,
・大里郡長,埼玉県地方課・内務部が仲介に努めたが,
・結局,協議は不成立に終わり,町村合併は実現しなかった
というお話であったようです。
これに先立って,
1888(明治21)年に法律「町村制」が公布され,翌89年4月1日から順次施行されるわけですが(埼玉県は4月1日施行,でも東京府は5月1日),これを前に,いわゆる「明治の大合併」のための町村合併案が各府県で作成されました。
埼玉県では,まず1887(明治20)年6月に知事から各郡長に町村合併案を作成するよう指示が下ろされ,当時の寄居町や桜沢村の属する 榛沢郡 を管轄する 大里郡外三郡長・平井光長(“外三郡”とは,榛沢・男衾・幡羅郡) が合併案を提出しました。それによると
寄居町・末野村・藤田村 →寄居町
桜沢村 →桜沢村
と,桜沢村を単独で編成するものでした。当時(合併前)の 寄居町 が256戸,桜沢村 が314戸で,桜沢村単独で1村を編成するに足ると 平井郡長 が判断したものと思われます。なお,寄居町に 末野村(209戸)・藤田村(6戸) を合わせて想定された 新・寄居町 の戸数は471戸で,桜沢村単独よりは大きな町になります。
けれども,この案は郡長が“極秘裏”に作成したものであったようで,当然に大きな反発がありました(恐らくは,大里・榛沢・男衾・幡羅郡,あるいは埼玉県だけでなく,全国で)。そこで,町村制の公布後,埼玉県では1888(明治21)年7月の知事から各郡長への町村合併促進の指示の下,郡役所吏員と一部連合戸長ら実務担当者によって,改めて合併見込案が作成されました。これによると,桜沢村 は,寄居町・末野村・藤田村 とともに,新・寄居町へ統合すべきものとされています。
つまるところ,桜沢村については,当時から寄居町と合併すべきか否か,意見が分かれていたのでした。
結局,この段階では,寄居町への合併を打ち出した 合併見込案 に対して,桜沢村から寄居町との地域性の違い(寄居町は人口稠密で商工業中心,桜沢村は人口疎濶かつ彊域広濶で農業中心)と独立自治の資力を持つとの意見書を知事宛に提出し,これが郡長の認めるところとなって,桜沢村は独立を維持して,1889年4月1日の町村制施行を迎えました。
1908年の合併問題は,日露戦争後の社会の変化の中で町村財政の強化をめざす内務省の方針の下に進められた全国的な町村再編の一環をなすものであったようですが,寄居町・桜沢村の場合,「大字有財産の処理をめぐって合意が得られ」なかったことが,合併が成功しなかった原因であったようです。
つまりは,寄居町と桜沢村の財産力の差がネックになったらしい,ということ。
単純に比較すると,町村規模の違いから当然に寄居町の方が財産規模は大きいのですが,住民1戸あたりに換算すると意外にも桜沢村が豊かで,特に大字(村)有地については寄居町のうちの寄居と藤田がほとんどこれを持たず末野が56町歩を持つのに対して,桜沢村(大字を編成せず)が84町歩を持っていて,対等合併には寄居町の負担が大きいと判断されたようです。
言い換えると,寄居町が桜沢村と合併しても新・寄居町の基本財産が増えるわけでなく(←このあたりの理屈が今一つ理解できないのですが),これを問題とした内務大臣(←原敬でした)が合併の許可を与えず,つまり,当該町村も,郡も,県もクリアーしていたのに,最後の内務大臣レベルで挫折して,合併が成就しなかった,という話であったようです。
これら(町村制施行前の1888~89年,問題の1908~09年)のほかに,1925(大正14)年にも合併の動きがあったのですが,これも不調に終わったとのこと。
結局,合併が成就したのは,戦時体制下,地方自治権が大幅に奪われた下での1943(昭和18)年9月8日のことでありました。これは桜沢村だけではなく,西隣の秩父郡白鳥村のうちの東半分も合併するものでした。この際に,白鳥村は3分割され,東半が寄居町に,西北部が野上町(現長瀞町)に,西南部が美野町(現皆野町ほか)に編入・合併されています。
埼玉県では,これに前後して「戦時下」を口実に幾つもの“大型合併”が行われいますが,このうち 川口市(川口市,北足立郡鳩ヶ谷町),北足立郡志紀町(志木町,内間木村,宗岡村,水谷村),秩父郡美野町(皆野町,国神村,金沢村,日野沢村,三沢村,大田村),北埼玉郡騎西町(騎西町,田ヶ谷村,種足村,鴻茎村,高柳村),北葛飾郡栗橋町(栗橋町,静村,豊田村)のように,国の重しのなくなった戦後に元のように解体してしまったものが少なくありません。無理があったのでしょうね。もっとも,「昭和の大合併」で再び合併されたものも多いのですが。
寄居町の場合は,このような解体はなく,昭和の大合併でさらに4つの村を合併して今の姿になっています。そうして今や,大里郡で生き残っているのは 寄居町 だけなのですね。