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旧制中学データベース(近畿編)

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記事数=9件/登録日:2004年4月21日/編集者:YSK

旧制中学系の高校のリスト近畿編です。

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[17010] 2003年 6月 19日(木)11:40:29【2】深海魚[雑魚] さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/25 滋賀県編
滋賀県も嚆矢の中学が県都外に設置された例の一つですが、その背景には、主要城下町としての彦根の地位の他、大津と京都との近接性も挙げられると考えます。京都では、1872年の学制発布以前に府立洛北高の前身が開校しており、当時の交通事情から、大津からの通学は無理としても、進学例は多かったと推定されます。ちなみに、滋賀県嚆矢の高女もやはり彦根所在との事で、彦根西高が後身と聞きます。

県都の拠点校である膳所高の場合、新制後の一時期を除き 「大津」 の名が出て来ないのは少々意外でした。現在 「膳所」 と言えば大津市内の一地区を意味する場合が多い様ですが、元々は藩名らしく、(キーワード検索で調べたところ、即座に 「下総綜合 ken究所」 を ヒットしたのは流石 !) 城下町膳所と港町大津との機能分化という歴史的背景が推定される次第。

湖北地区の中学所在地が、水運の要衝だった長浜ではなく虎姫というのも少し意外でしたね。長浜市内の伝統校としては、1911年に実科高女として開校した長浜北高が挙げられます。湖西地区の高島高は、旧制名から判る様に今津町所在。郡を代表する感覚で 「高島」 を名乗る訳ですね。湖西線に発展的解消を遂げた江若鉄道がここを終点とした必然性も頷けます。ところで、湖西線近江今津から小浜線上中まで、特急用の短絡線構想が一時期取り沙汰された様ですが、小浜線全線電化との整合性は、どの様に考えれば良いのでしょうね?

県立1799)彦根東彦根藩稽古館、彦根藩弘道館、第三大学区第11中学区彦根学校、県尋常中学、県第一尋常中学、
県第一中学、県立第一中学、県立彦根中学 / 彦根東高、彦根高校
1898)膳所県第二尋常中学、県第二中学、県立第二中学、県立膳所中学 / 膳所高校、大津高校、大津東高
1907)八日市県八日市中学 / 神崎高校、神愛高校八日市校舎
1920)高島県立今津中学
虎姫県立虎姫中学 / 虎姫高校、湖北高校虎姫校舎
不詳)水口水口中学
私立1873)比叡山天台宗教師養成学校、比叡山中学

次号予告) 奈良県編
[17012] 2003年 6月 19日(木)12:56:49【3】深海魚[雑魚] さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/26 奈良県編
ここも嚆矢の中学が県都以外の街に設置された例です。城下町としての大和郡山の位置づけのみならず、郡山高の沿革からも窺える奈良県自体の複雑な成立過程が作用している様ですね。「La Hejmpagho de ISSIE」 によれば、1871年の第一次府県統合で、旧大和国域は奈良県として纏まりつつも、76年の第二次で堺県、81年に大阪府に編入され、87年に 「独立」 を回復 (?) し、郡山中学も同年、晴れて奈良県嚆矢の存在と位置付けられる訳です。堺県改め大阪府に編入された根拠は、大和川水系を基準とした考え方ゆえでしょうか。

一方、こうした経緯がある事を考慮しても、県都の中学設置が大正年間の 1924年とは遅い感じですね。偏に、大和郡山との位置関係のゆえと考えますが、これに先立ち別物の中学が奈良に設置されたとも聞きます。奈良中学との継承関係を含め、詳細は皆目不明ですが。

郡山中学から枝分かれした五條高の前身は詳細不明。一面山間部の奈良県南部で唯一の県立高校とされる十津川高は、文武館時代を含めると意外や県内最古。元治年号の時代、勤皇運動に挺身していた地元郷士が、朝廷の勅許を以て、文武修行処を十津川村折立地区に設立したという、稀有な経緯があり、これを誇りとする地元の尽力で、1942年に県立中学に移管するまで約80年間、村立で維持されたそうです。かかる山間にこの様な伝統校があったとは、ちょっとした発見です。なお 「十津川」 と聞くと、やはり 「鉄」 の方々は 「警部」 と来ますよねぇ。(笑)

県立1864)十津川文武館
1876)郡山郡山予備校、堺県師範学校分局郡山学校、大阪府立堺師範学校分校郡山学校、
大阪府立郡山中学、県郡山尋常中学、県立郡山中学
1896)畝傍県尋常中学畝傍分校、県畝傍中学
1924)奈良県立奈良中学
不詳)五條(詳細不明)
私立1900)天理天理教校、天理中学

次号予告) 和歌山県編
[17020] 2003年 6月 19日(木)15:59:27【1】深海魚[雑魚] さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/27 和歌山県編
先の入試において、難関ゆえに受験生が敬遠し、定員割れを起こすという特異な現象を齎したとされる桐蔭、海草の両古豪ですが、和歌山から南海貴志川線で僅か二駅目り日前宮に位置する向陽高の前身が旧制史で隣接郡名を冠した事から、旧海草郡の地勢、特に現在の和歌山市街との関係がどうなっていたのか、気になるところです。もっとも、和歌山市街の中心駅は長らく南海電鉄の和歌山市駅だった様で、その辺りの事情は、1968年まで、現紀和駅を 「和歌山」、現和歌山駅を 「東和歌山」 と称した点、紀和から紀伊中ノ島経由で和歌山線への連絡線 (元々こちらが本線。) が 1974年まで存在した点、大阪府和泉地方において、大阪-和歌山の都市連絡を第一義とした阪和線の前身が旧市街を悉く避ける経路を採り、その沿線人口の少なさゆえに、1940-44年に南海山手線に移管した点などから窺えます。桐蔭高の校地は青陵、陵雲両高校と共有されている様な表記ですが、前者は定時制、後者は通信制ですね。

桐蔭の他、御坊市の日高高も所在地が一瞬どこかと感じる例ですが、湯浅町の耐久高に至っては、ある程度の事情通でないと先ず判らないでしょうね。湯浅と言えば、気勢線に先行して開業した並行経路を集約した関係から、長らく湯浅-藤並で国鉄に直通していた有田鉄道を思い出します。なお、日高高の最寄り駅は、紀州鉄道の学問。旧日高郡を代表する名門に敬意を表した命名感覚でしょうか。

田辺高が創立時に県立二中を名乗っている事から、桐蔭高が一中と位置付けられたものと思われますが、その旨の表記は今のところ見当たりません。

県立1852)耐久稽古場、耐久学舎、私立耐久中学、県立耐久中学
1879)桐蔭和歌山中学、※徳義中学
1896)田辺県立第二中学、県立田辺中学
1901)新宮第二中学新宮分校、県立新宮中学
1915)向陽県立海草中学
1922)伊都県立伊都中学
海南県立海南中学
日高県立日高中学

次号予告) 京都府編
[17022] 2003年 6月 19日(木)18:01:57【3】深海魚[雑魚] さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/28 京都府編
面識ある財界人によれば、京都の地は、古都ゆえに変革を希求する気風を感じるそうです。これを旧制中学史に準えると、洛北、鳥羽両校の新制移行時の経緯から必然の様な側面も窺えます。洛北高では、皇学所や漢学所、欧学舎を集約し、政府委譲の府学として門戸を一般庶民に開放する手法を以て、全国最古の中学を自負した訳ですが、官立三高 (香川の三本松高校ではありません/笑。) に、ノーベル賞を受賞した湯川、朝永両博士を含む全国最多の合格者を輩出し、名門 「京一中」 と仰がれつつも、学制改革の際は、府立第一高女系の鴨沂 (おうき) 高に移転同居早々に廃校となり、1950年に復活しています。

京都二中系の鳥羽高の場合は、新制移行後、洛南高と改称早々に朱雀高の定時制分校に移行し、1984年に鳥羽高として再編されるまで、この状況が続きます。(ちなみに朱雀高は市立高女系と記憶しますが、高校の検索サイトを使うと、別名称の高校の頁に繋がります。改称したのかな。) これらは、旧制からの継承性にこだわらず、学制改革を期に陣容を一新する意向が窺われ、高校三原則を重んじた地域的な意識風土の所産かも知れません。一方、甲子園関連では、鳥羽高が京都二中の継承校と明確に規定されているのは周知の通りです。なお、鳥羽高が一時期名乗った 「洛南」 の名称は、現在、進学校として知られる私立が名乗り、残る 「洛東」 「洛西」 「洛北」 は、何れも府立ですね。

京都市外の陣容で意外に感じるのは、東西の市街それぞれに府立中学が設置された舞鶴界隈を差し置いて、宮津に古参格である ナンバー・スクールの四中が設置された事です。宮津といえば天橋立を擁する観光地との印象が強いのですが、纏まった平坦地が広がる中、相応に街が分布する与謝郡、中郡界隈の中心都市として機能していたのでしょうか。ちなみに舞鶴における東西両市街は、1938年、個別に市制を施行していますが、(舞鶴市/西地域、東舞鶴市/東地域) 軍港拡充を求める海軍の意を呈する形で、1943年に両者を統合した舞鶴市が成立している訳ですね。このあたりの事情は、同年に行われた 「舞鶴中学/舞鶴一中」、「東舞鶴中学/舞鶴二中」 という改称に反映されています。

私立については、北大阪急行さんの情報を引用しました。平安高の嚆矢は 「金亀城」 を擁する滋賀県彦根の立地との事。

府立1870)洛北府中学、府第一中学、府立第一中学、府立京都第一中学
1900)鳥羽府立京都第二中学 / 洛南高校、朱雀高校鳥羽分校定時制
1901)福知山府立第三中学
1903)宮津府立第四中学、府立宮津中学
1908)山城府立第五中学、府立京都第三中学
1922)西舞鶴府立舞鶴中学、府立舞鶴第一中学
1940)東舞鶴府立東舞鶴中学、府立舞鶴第二中学
1926)園部府立園部中学
私立1876)平安金亀教校、第三仏教中学、私立平安中学、平安中学
1868)東山勧学院、東山中学
1905)立命館清和普通学校、清和中学、立命館中学
不詳)同志社(詳細不明)

次号予告) 大阪府編
[17038] 2003年 6月 19日(木)23:57:25深夜特急[北大阪急行] さん
旧制中学
[17005][17010][17012][17020][17022]雑魚さん
旧制中学 データ・ベース 興味深く拝見させていただいております。
以下は『高校野球甲子園出場校事典』(東京堂出版、1998)に載っていた学校です。可能な限り調べてみましたが、わからないものは本書から抜粋しました。(*印)

福井 私立 北陸 羽水教校(1880)-福井仏教中学(1900)-私立第二仏教中学(1902)-北陸中学(1910)
滋賀 私立 比叡山 * 1873、天台宗の教師養成学校として創立。-比叡山中学(1916)
奈良 私立 天理 天理教校(1900)-天理中学(1908)
和歌山 県立 伊都 県立伊都中学(1922)
京都 私立 東山 * 勧学院(1868)-東山中学(1909)
京都 私立 平安 金亀教校(1876、滋賀・彦根)-第三仏教中学(1902)-私立平安中学(1910)-平安中学(1919)
京都 私立 立命館 * 清和普通学校(1905)-清和中学校(1906)-立命館中学(1913)

新宮が県立二中の分校という事から、桐蔭高が一中、田辺高が二中と位置付けられたものと推定しますが、両校とも、その旨の表記は今のところ見当たりません。
1896年県立第二中学校として創立し、1901年田辺中学校に改称とあります。(*)
[17058] 2003年 6月 20日(金)10:41:10深海魚[雑魚] さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/29 大阪府編
大阪府立中学も、東京府立 (1943年から都立) と同様、ナンバー・スクールを出発点に構成されていますが、第七、第八で創立時期が逆転しており、第九に相当する四条畷中学の校名では番号名を名乗った時期が確認されず終い。そして豊中、住吉の場合、旧制時代に地名を冠した校名が見当たらず不明な点も残ります。ちなみに詳細は不明ですが、一中~六中に相当する各校では、「六稜会」 なる交流会が組織されていると聞きます。その一角を成すと思しき岸和田高の出身者が在京時代の同僚にいまして、南海本線の最寄り駅に肖って、酒の席では 「蛸地蔵君」 と呼ばれていました。(笑)

新大阪から十三、中津経由で梅田まで散歩した際、新北野界隈で思わず学校に向い柏手を打ってしまった北野高ですが、手塚治、藤田田、山田五郎の各氏を輩出するなど、人材面でも伊達に 「一番」 を名乗っちゃいない、といった雰囲気ですが、所在地から長らく、大阪城西側に位置する一女系の大手前高を一中と勘違いしていた雑魚でした。(汗) 名称からこれまた勘違いしていたのは、1969年に松原市に移転した 12中系の生野高ですね。

過去ログでも申し上げましたが、大阪府立の中学や高女では、1948年の学制改革の際に、独自の共学化策として、教師や生徒の折半交流を行いました。基本的に一中及び一女という具合に同じ地区で ペアを組んだ様で、確認された例としては、北野/大手前、三国丘/泉陽、八尾/山本、天王寺/夕陽丘、富田林/河南、豊中/(市立高女系)、鳳/泉大津、住吉/阿倍野 が挙げられます。当時の人選基準は不明ですが、「男女七歳にして ……」 の風潮から推定するに、相当画期的な事だったのでしょうね。

日本三大都市の一角にあって、私立の該当校は高槻しか見つかりませんでしたので、情報を募集したく存じます。ちなみに池田、天王寺、平野と三校舎を擁する国立大阪教育大の附属高は、いずれも戦後創立と見られます。

府立1873)北野欧学校、府第一番中学、府立北野中学
1895)茨木府立第四尋常中学、府茨木中学、府立茨木中学 / 茨木高校、三島野高校
三国丘府第二尋常中学、府堺中学、府立堺中学
八尾府第三尋常中学、府立八尾中学
1896)天王寺府第五尋常中学、府立天王寺中学
1897)岸和田府第六尋常中学、府立第六中学、府立岸和田中学
1900)富田林府第八中学、府富田林中学、府立富田林中学
1901)市岡府立第七中学、府立市岡中学
四条畷府立四条畷中学
1906)今宮府立第十中学、府立今宮中学
1918)高津府立第11中学、府立高津中学
1920)生野府立第12中学、府立生野中学
1921)豊中府立第13中学
1922)府立第14中学、府立鳳中学
住吉府立第15中学
1940)池田府立第16中学
1942)布施府立第17中学、府立布施中学
私立1940)高槻高槻中学

次号予告) 兵庫県編
[17063] 2003年 6月 20日(金)12:32:31深海魚[雑魚] さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/30 兵庫県編
港湾都市としての神戸の歴史にもかかわらず、県立の三大古参格が篠山、豊岡、姫路と県都界隈外に分散しているのが特徴的ですね。大阪への近接性から、神戸では中学設置の必要性に迫られる事が無かったのでしょうか。上記校が中学として位置付けられたのは、何れも 1878年の様です。この内、姫路西高は大阪府立よろしく、新制移行時に高女系の東高と折半交流を行っています。それにしても、今や播磨地方きっての主要都市である姫路を代表する名門校が、創立時の設立区分が複数の郡による共立とは、時代を感じます。

元々神戸の中学では一中が格上視されたと思われますが、現在、進学面では三中系の長田高が有名の様ですね。これは、通学区に須磨ニュータウンを擁する為と言われます。(西神ニュータウンが学区内か否かは不明。) ニュータウンの開発と市営地下鉄の開業時期との時系列関係は不明ですが、何にしても、こうした学区設定や ニュータウン建設の下では公立校の新旧両制下における陣容の差異は明らかですね。ちなみに、神戸三中といえば、故淀川長治さんを連想します。妹尾河童著 「少年H」 の舞台は神戸二中だったかな。神戸四中後身の星陵高、命名の由来は不明ですが、「♪星陵われらあり」 などと日比谷高を連想してしまいます。

県立1766)篠山鳳鳴藩校振徳堂、私立篠山中年学舎、公立篠山中学、私立鳳凰義塾、
私立尋常中学鳳凰義塾、私立鳳鳴中学 / 鳳鳴高校、篠山高校
1871)豊岡教員伝習所、小学模範校、公立豊岡中学、県立豊岡尋常中学、県立豊岡中学、豊岡東高校
1878)姫路西六郡組合立姫路中学、播磨 14郡組合立姫路中学、県尋常中学、
県姫路尋常中学、県姫路中学、県立姫路中学
1896)神戸県神戸尋常中学、神戸中学、県立神戸中学、県立第一神戸中学 / 第一神戸高校
1897)柏原県柏原尋常中学、県柏原中学、県立柏原中学
龍野県龍野尋常中学、県龍野中学、県立龍野中学 / 龍野南高
洲本県洲本尋常中学、県立洲本中学
1902)伊丹県立伊丹中学
小野県立小野中学
1908)兵庫県立第二中学
1921)長田県立第三神戸中学
1923)明石市立明石中学、県立明石中学
尼崎市立中学、県立尼崎中学
1924)加古川東県立加古川中学
1941)星陵県立神戸第四中学 / 垂水高校
不詳)赤穂赤穂中学
私立1917)甲陽学院甲陽中学、辰馬学院甲陽中学
1918)滝川私立兵庫中学、県瀧川中学
1927)灘中学
不詳)関西学院(詳細不明)

次号予告) 岡山県編
[17181] 2003年 6月 22日(日)20:20:28faith さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/26 奈良県編 について
[17012] 雑魚 さん
今週末に、「奈良県教育百年史」(奈良県教育委員会編 1974;以下「同資料」と呼びます)
その他の資料を図書館で閲覧してきました。
不明とされていた項目のいくつかにお答えできるようと思いますので、
書き込みます。
ここも嚆矢の中学が県都以外の街に設置された例です。城下町としての大和郡山の位置づけのみならず、郡山高の沿革からも窺える奈良県自体の複雑な成立過程が作用している様ですね。
一方、こうした経緯がある事を考慮しても、県都の中学設置が大正年間の 1924年とは遅い感じですね。偏に、大和郡山との位置関係のゆえと考えますが、これに先立ち別物の中学が奈良に設置されたとも聞きます。奈良中学との継承関係を含め、詳細は皆目不明ですが。

おっしゃっている「別物の中学」とは「芝村中学校」のことと思います。
結論からいうと、これは奈良高校とは関係がなく、むしろ、郡山高校の前身の一つとみるべきと思われます。郡山高校の起源は併合した学校を含めるとかなり複雑ですね。
(念のために、奈良高校の四〇年史も見てみましたが、芝村中学校その他の既存の学校を前身とするような記述はありませんでした。)

まず、同資料(奈良県教育百年史)には明治十二年 堺県管内公学校表というものがあります。
中学校令以前の学制時代ですが、奈良県関係の四校の、名称、学科、位置、設立年のみ抜粋します。
(同○年 となるのは明治○年のことです。)

名称学科位置設立年
奈良校小学師範学科和州添上郡奈良登大路町同七年
中学科  
小学科  
郡山校小学師範学科同添下郡北郡山村同九年
中学科  
小学科  
芝村校小学師範学科同式上郡芝村
中学科  
平谷校小学師範学科同吉野郡平谷村
中学科  

以下同資料の記述を時系列的に抜粋します。

(明治九年四月の奈良県廃止・堺県併合にともなって)
「奈良県師範学校も消滅し、奈良師範学校以下は堺師範学校を本校として、その分校となり、堺県師範学校分局奈良学校・同郡山学校・同芝村学校・同平谷学校と称するにいたった。」
「中学の設立
師範学校への学科併設ではあったが、中学教育がはじまった。明治九年以降、奈良・郡山・芝村・平谷の各師範学校に中学科の設置があった。その開設にあたって中学献金がそれぞれ管内の町村に賦課された。この献金はのちに大和中学献金といわれるものである。なお、さきに郡山学校の設置にさいしては、旧藩主柳沢氏がその邸宅とした旧城趾の一部を寄付したり、またこの中学誘致に尽力した。」
(明治一四年二月の大阪府併合にともなって)
「旧奈良県である大和国では、堺師範学校分校として奈良学校・郡山学校・芝村学校・平谷学校が大阪府に移管されたが、まず十四年七月に芝村学校が廃された。ついで十月には郡山学校も廃されたが、これは中学校への転換であり、その師範科生徒はその奈良学校に移った。これよりさき八月には、奈良学校および平谷学校は大阪府立奈良師範学校・平谷師範学校と改称されていた。」
「郷民はその中学校化を希望して、十五年一月には新たにに私立学校設置の請願をおこなった。そこで、六月に同校を廃し、七月これを吉野郡飯貝村本善寺に移し、大阪府立吉野師範学校とした。この十津川村平谷校の分離をもってする私立学校の設置、これが明治維新に発足していた文武館の独立である。こうして吉野師範学校が七月十一日に創立されその整備がはかられた。しかし、十九年五月には大阪府師範学校に併合された廃校となった。いっぽう、奈良師範学校は校舎が十三年十一月に興福寺旧勧禅院趾に新築されたので東室からここに移り、その中学科を分離して郡山中学校に移したが、付属小学校はもとより、師範予備科を設けるなど着々と充実されていった。」
「こののち、十九年三月には一府県一校とする「師範学校令」の制定によって、奈良師範学校は廃され、吉野師範学校と同じく大阪府尋常師範学校に併合された。」
「中学はかねて師範学校中学科として設置されていたが、十四年十月に郡山中学校が独立した。奈良学校中学科生徒も受け入れ、大阪府立中学校として発足したのである。この郡山中学校の設置については、大和国中学献金が充当されたし、旧藩主柳沢氏の物心両面にわたる尽力も大きかった。大和国における唯一の中学となったので、当初は大和中学の校名をつけようとしたが、開校にあたり、郡山中学校と改称されたものである。定員一〇〇名であった。」
「郡山中学校の発足をみて、かつて師範学校のあった芝村でも中学校設置の議がおこり、十五年これを大阪府に上申し、十六年六月八日に文部大臣より設立許可があった。定員一〇〇名であった。」
「明治十九年に一府県一師範の原則が施行されたため、まず奈良師範学校が十九年三月三十一日に廃止され、大阪師範学校に合併された。吉野師範学校も奈良師範学校と同時に廃止されるはずであったが(中略)存置された。しかし、これも師範学校令の公布に基づいて、十九年五月三十一日かぎりで、吉野師範学校は廃止され、大阪師範学校に合併された」
「当時、吉野師範学校は校舎が新築されたばかりで、これを使用することもなく廃校の運命にいたったことを遺憾として、地方有志のものが熱烈な運動をおこした結果、中等科を残すこととなった。それが二十六年まで吉野尋常中学校として続くことになる。」
「奈良県の中学校
明治十九年ごろ、本県はいまだ大阪府に属していたが、管内には芝村中学校・郡山中学校の二校があった。大阪府としては、旧大和国に二つの中学校を経営することは、財政的に困難であったので、芝村中学校を廃して郡山中学校に合併することとなった。十九年二月十五日かぎりで芝村中学校は廃校となり、府立郡山中学校一校が残ることとなった。」
「大阪府立郡山中学校は、十九年四月公布の中学校令に基づき、同年十月二十三日、郡山尋常中学校と改称された。」
「ところで、明治十九年十二月にいたって、吉野尋常中学校が創立された。この前身は、大阪府立吉野師範学校であって、中学転用のことはさきに述べたとおりであるが、吉野郡地方有志の熱烈な運動があり、五ヵ年継続、一ヵ年一,五〇〇円ずつ地方有志の者が募金することを条件に始められたものである。しかし、この募金だけでは経営できないので、大和国学資金のうちから補充している。尋常中学校は区町村費で設置することは許されないし、地方税支弁のものは、各府県一箇所とされているので、大阪府においては、大和国学資金をさいたものである。」
※「大和国学資金」と「大和中学献金」はのちの「奈良県教育百二十年史」では「大和中学献金」の表記に統一されており、同じものを指していると考えられます。
「明治二十年十一月、本県が大阪府から分離すると、両校はそれぞれ奈良県郡山尋常中学校・同吉野尋常中学校と改称された。このときは奈良県立とはいわないで、奈良県郡山尋常中学校と呼んでいる。経営が大阪府時代より引き続き大和中学資金によっているためでもあろう。県立といっても、後年のように、直接県費支弁ではなかったためである。」
「しかしながら、明治二十年以降、大和中学資金をもって、本県内に二つの中学校を経営することは困難になった。早くも二十年末には合併問題がおきている。ここでも不完全な二校の存立をはかるより、完全な一校の経営の方がより効果的であるといい、一校にまとめるという大勢は定まっていたが、どこに設置するかという問題が県会で論ぜられた。奈良説・郡山説・吉野説それに大和の中央という意味で田原本も候補地となった。」
「たまたま、二十四年度から吉野尋常中学校に対する補助金がむずかしくなったので、吉野と郡山を合併して、県下中央の地に移そうという議案を、その五月臨時県会に提出する動きがあった。これは地元郡山の人々を強く刺激した。郡山では町惣代議員と中小学校職員などおよそ七〇人が集まり、うち二十人の委員を選び、運動費は有志から募金することにして、「郡山中学非移転」の猛烈な運動を展開した。そのp主張とするところは、郡山中学は、旧藩主柳沢伯爵の金円および敷地の寄付によってできたものであり、県下にはその恩沢を受けた子弟も多い。いまそのことを忘れ、他に移転するとは不徳義もはなはだしいとい8うにあった。こういう未の非移転請願書を起草し、各郡に同意調印を求め、これを知事ならびに県会議員に陳情した。まだまだ旧大名の威力の残っていた時代のことでもあり、その発言も手伝って、ついに県会は郡山と決定した。」
「郡山・吉野両尋常中学校を廃し、改めて奈良県尋常中学校を設置することについて、明治二十六年一月、文部省の許可を得たが、さらにその位置を郡山とすることについて、つぎの伺いを提出した。(略)」
「これも文部大臣の認可が得られたので、奈良県知事はつぎの告示をもって郡山に中学校を創立した。
郡山尋常中學校、吉野尋常中學校ヲ来ル九月三十日限リ相廃シ、更ニ十月一日ヨリ、奈良懸尋常中學校ヲ添上郡郡山町大字南郡山ニノ丸ニ設置ス
明治二十六年三月六日 知事 (懸令第八號)」

長くなってしまったので、五条高校についてはまた後日。
[17208] 2003年 6月 23日(月)01:13:27faith さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/26 奈良県編について(その2)
[17012] 雑魚 さん
郡山中学から枝分かれした五條高の前身は詳細不明。
ということで五条高校および畝傍高校について

前掲「奈良県教育百年史」より
「明治二十七年~八年戦役ののち、わが国の経済界はいちじるしく躍進した。県内の経済力が進捗するにつれて、中等教育機関として、郡山一校では北にかたよるうらみがあり、その分校を中部に一校、南部に一校、増設を希望する声が強くなってきた。このような情勢のもとに、のちの県立畝傍中学校・同五条中学校がともに奈良県尋常中学校畝傍分校・同五条分校として、二十九年四月に創立された。
明治二十九年三月十三日、畝傍分校は高市郡八木町小房に設置された。八木町立晩成尋常高等小学校の一部を借用して教室にあて、四月十三日から授業を開始(入学生徒一五〇名)している。(中略)三〇年四月八日、仮校舎から八木町八木の新築校舎に移転、五月五日、新築落成式をあげている。(中略)
五条分校も畝傍分校と同じく、仮校舎を宇智郡五条町垣内に設置したのにはじまる。二十九年四月十日開校(入学生徒九四名)。(中略)学校敷地一町歩は宇智郡五条町五条・須恵ならびに宇智村岡の地籍にまたがり、地元の寄付による。(中略)三〇年四月八日、この新校舎に移っている。」
「これらは、明治三十二年四月、新しい中学校令に基づいて独立し、うちで三十四年六月、奈良県立郡山中学校・同畝傍中学校・同五条中学校と改称された。私立中学校としてもっとも古くからあった十津川中学文武館は、三十三年十月、改めて文部大臣から私立中学校として認可された。また四十一年には天理中学校が創立された。これは、財団法人天理教いちれつ会の経営にかかり、開設当時は天理教信者の子弟を主として収容したが、のちに一般の志願者も入れるようになる。こうして県立中学校三、私立中学校二という本県中学校の盛況がおとずれた。」
なお、五条師範学校については、奈良県の堺県併合によって廃止されているため、五条高校との関係は特にないと思われます。(そのため、特に複雑なことはないように思います。)
したがって、五条、畝傍両校については以下のようになると思われます。

1896) 五条 奈良県尋常中学校五条分校、奈良県立五条中学校、
1896) 畝傍 奈良県尋常中学校畝傍分校、奈良県立畝傍中学校

また、奈良高校の前身である奈良中学校の開校は大正13年、すなわち1923年が正しいと思います。
十津川高校については、「教育百年史」の記述では、1864(元治元年)から1882年の私立学校としての平谷学校からの独立までがどのように繋がっているのかが明らかではありませんでした。
天理高校については、天理教校時代のことは設立年も含めて確認できませんでした。

話は戻りますが、郡山高校について、奈良県立郡山中学校にいたるまでの系譜は以下のようになるのでは、と思います。
学校の改廃が複雑ですが、芝山学校と芝山中学校の継承関係はないと判断しました。

1. 奈良学校の系統
1874 寧楽書院(小学教員伝習所)
1875 奈良県師範学校奈良師範学校
1876 堺県師範学校分局奈良学校
1876 堺県師範学校分局奈良学校中学科
1881 大阪府立郡山中学校に合併

2. 郡山学校の系統
1875 奈良師範学校予備校
1876 堺県師範学校分局郡山学校
1876 堺県師範学校分局郡山学校中学科
1881 大阪府師範学校郡山学校
1881 大阪府立郡山中学校
1886 大阪府立郡山尋常中学校 (中学校令による)
1887 奈良県郡山尋常中学校 (奈良県独立による)
1893 奈良県尋常中学校 (郡山尋常中学校廃止)
1901 奈良県立郡山中学校

3. 芝村中学校の系統
1882 大阪府立芝村中学校
1886 大阪府立郡山中学校に合併

4. 吉野中学校の系統
1886 大阪府立吉野尋常中学校
1887 奈良県吉野尋常中学校 (奈良県独立による)
1893 奈良県尋常中学校 (吉野尋常中学校廃止)

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