[17012] 雑魚 さん
今週末に、「奈良県教育百年史」(奈良県教育委員会編 1974;以下「同資料」と呼びます)
その他の資料を図書館で閲覧してきました。
不明とされていた項目のいくつかにお答えできるようと思いますので、
書き込みます。
ここも嚆矢の中学が県都以外の街に設置された例です。城下町としての大和郡山の位置づけのみならず、郡山高の沿革からも窺える奈良県自体の複雑な成立過程が作用している様ですね。
一方、こうした経緯がある事を考慮しても、県都の中学設置が大正年間の 1924年とは遅い感じですね。偏に、大和郡山との位置関係のゆえと考えますが、これに先立ち別物の中学が奈良に設置されたとも聞きます。奈良中学との継承関係を含め、詳細は皆目不明ですが。
おっしゃっている「別物の中学」とは「芝村中学校」のことと思います。
結論からいうと、これは奈良高校とは関係がなく、むしろ、郡山高校の前身の一つとみるべきと思われます。郡山高校の起源は併合した学校を含めるとかなり複雑ですね。
(念のために、奈良高校の四〇年史も見てみましたが、芝村中学校その他の既存の学校を前身とするような記述はありませんでした。)
まず、同資料(奈良県教育百年史)には明治十二年 堺県管内公学校表というものがあります。
中学校令以前の学制時代ですが、奈良県関係の四校の、名称、学科、位置、設立年のみ抜粋します。
(同○年 となるのは明治○年のことです。)
名称 | 学科 | 位置 | 設立年 |
奈良校 | 小学師範学科 | 和州添上郡奈良登大路町 | 同七年 |
同 | 中学科 | | |
同 | 小学科 | | |
郡山校 | 小学師範学科 | 同添下郡北郡山村 | 同九年 |
同 | 中学科 | | |
同 | 小学科 | | |
芝村校 | 小学師範学科 | 同式上郡芝村 | 同 |
同 | 中学科 | | |
平谷校 | 小学師範学科 | 同吉野郡平谷村 | 同 |
同 | 中学科 | | |
以下同資料の記述を時系列的に抜粋します。
(明治九年四月の奈良県廃止・堺県併合にともなって)
「奈良県師範学校も消滅し、奈良師範学校以下は堺師範学校を本校として、その分校となり、堺県師範学校分局奈良学校・同郡山学校・同芝村学校・同平谷学校と称するにいたった。」
「中学の設立
師範学校への学科併設ではあったが、中学教育がはじまった。明治九年以降、奈良・郡山・芝村・平谷の各師範学校に中学科の設置があった。その開設にあたって中学献金がそれぞれ管内の町村に賦課された。この献金はのちに大和中学献金といわれるものである。なお、さきに郡山学校の設置にさいしては、旧藩主柳沢氏がその邸宅とした旧城趾の一部を寄付したり、またこの中学誘致に尽力した。」
(明治一四年二月の大阪府併合にともなって)
「旧奈良県である大和国では、堺師範学校分校として奈良学校・郡山学校・芝村学校・平谷学校が大阪府に移管されたが、まず十四年七月に芝村学校が廃された。ついで十月には郡山学校も廃されたが、これは中学校への転換であり、その師範科生徒はその奈良学校に移った。これよりさき八月には、奈良学校および平谷学校は大阪府立奈良師範学校・平谷師範学校と改称されていた。」
「郷民はその中学校化を希望して、十五年一月には新たにに私立学校設置の請願をおこなった。そこで、六月に同校を廃し、七月これを吉野郡飯貝村本善寺に移し、大阪府立吉野師範学校とした。この十津川村平谷校の分離をもってする私立学校の設置、これが明治維新に発足していた文武館の独立である。こうして吉野師範学校が七月十一日に創立されその整備がはかられた。しかし、十九年五月には大阪府師範学校に併合された廃校となった。いっぽう、奈良師範学校は校舎が十三年十一月に興福寺旧勧禅院趾に新築されたので東室からここに移り、その中学科を分離して郡山中学校に移したが、付属小学校はもとより、師範予備科を設けるなど着々と充実されていった。」
「こののち、十九年三月には一府県一校とする「師範学校令」の制定によって、奈良師範学校は廃され、吉野師範学校と同じく大阪府尋常師範学校に併合された。」
「中学はかねて師範学校中学科として設置されていたが、十四年十月に郡山中学校が独立した。奈良学校中学科生徒も受け入れ、大阪府立中学校として発足したのである。この郡山中学校の設置については、大和国中学献金が充当されたし、旧藩主柳沢氏の物心両面にわたる尽力も大きかった。大和国における唯一の中学となったので、当初は大和中学の校名をつけようとしたが、開校にあたり、郡山中学校と改称されたものである。定員一〇〇名であった。」
「郡山中学校の発足をみて、かつて師範学校のあった芝村でも中学校設置の議がおこり、十五年これを大阪府に上申し、十六年六月八日に文部大臣より設立許可があった。定員一〇〇名であった。」
「明治十九年に一府県一師範の原則が施行されたため、まず奈良師範学校が十九年三月三十一日に廃止され、大阪師範学校に合併された。吉野師範学校も奈良師範学校と同時に廃止されるはずであったが(中略)存置された。しかし、これも師範学校令の公布に基づいて、十九年五月三十一日かぎりで、吉野師範学校は廃止され、大阪師範学校に合併された」
「当時、吉野師範学校は校舎が新築されたばかりで、これを使用することもなく廃校の運命にいたったことを遺憾として、地方有志のものが熱烈な運動をおこした結果、中等科を残すこととなった。それが二十六年まで吉野尋常中学校として続くことになる。」
「奈良県の中学校
明治十九年ごろ、本県はいまだ大阪府に属していたが、管内には芝村中学校・郡山中学校の二校があった。大阪府としては、旧大和国に二つの中学校を経営することは、財政的に困難であったので、芝村中学校を廃して郡山中学校に合併することとなった。十九年二月十五日かぎりで芝村中学校は廃校となり、府立郡山中学校一校が残ることとなった。」
「大阪府立郡山中学校は、十九年四月公布の中学校令に基づき、同年十月二十三日、郡山尋常中学校と改称された。」
「ところで、明治十九年十二月にいたって、吉野尋常中学校が創立された。この前身は、大阪府立吉野師範学校であって、中学転用のことはさきに述べたとおりであるが、吉野郡地方有志の熱烈な運動があり、五ヵ年継続、一ヵ年一,五〇〇円ずつ地方有志の者が募金することを条件に始められたものである。しかし、この募金だけでは経営できないので、大和国学資金のうちから補充している。尋常中学校は区町村費で設置することは許されないし、地方税支弁のものは、各府県一箇所とされているので、大阪府においては、大和国学資金をさいたものである。」
※「大和国学資金」と「大和中学献金」はのちの「奈良県教育百二十年史」では「大和中学献金」の表記に統一されており、同じものを指していると考えられます。
「明治二十年十一月、本県が大阪府から分離すると、両校はそれぞれ奈良県郡山尋常中学校・同吉野尋常中学校と改称された。このときは奈良県立とはいわないで、奈良県郡山尋常中学校と呼んでいる。経営が大阪府時代より引き続き大和中学資金によっているためでもあろう。県立といっても、後年のように、直接県費支弁ではなかったためである。」
「しかしながら、明治二十年以降、大和中学資金をもって、本県内に二つの中学校を経営することは困難になった。早くも二十年末には合併問題がおきている。ここでも不完全な二校の存立をはかるより、完全な一校の経営の方がより効果的であるといい、一校にまとめるという大勢は定まっていたが、どこに設置するかという問題が県会で論ぜられた。奈良説・郡山説・吉野説それに大和の中央という意味で田原本も候補地となった。」
「たまたま、二十四年度から吉野尋常中学校に対する補助金がむずかしくなったので、吉野と郡山を合併して、県下中央の地に移そうという議案を、その五月臨時県会に提出する動きがあった。これは地元郡山の人々を強く刺激した。郡山では町惣代議員と中小学校職員などおよそ七〇人が集まり、うち二十人の委員を選び、運動費は有志から募金することにして、「郡山中学非移転」の猛烈な運動を展開した。そのp主張とするところは、郡山中学は、旧藩主柳沢伯爵の金円および敷地の寄付によってできたものであり、県下にはその恩沢を受けた子弟も多い。いまそのことを忘れ、他に移転するとは不徳義もはなはだしいとい8うにあった。こういう未の非移転請願書を起草し、各郡に同意調印を求め、これを知事ならびに県会議員に陳情した。まだまだ旧大名の威力の残っていた時代のことでもあり、その発言も手伝って、ついに県会は郡山と決定した。」
「郡山・吉野両尋常中学校を廃し、改めて奈良県尋常中学校を設置することについて、明治二十六年一月、文部省の許可を得たが、さらにその位置を郡山とすることについて、つぎの伺いを提出した。(略)」
「これも文部大臣の認可が得られたので、奈良県知事はつぎの告示をもって郡山に中学校を創立した。
郡山尋常中學校、吉野尋常中學校ヲ来ル九月三十日限リ相廃シ、更ニ十月一日ヨリ、奈良懸尋常中學校ヲ添上郡郡山町大字南郡山ニノ丸ニ設置ス
明治二十六年三月六日 知事 (懸令第八號)」
長くなってしまったので、五条高校についてはまた後日。