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落書き帳から選び抜いた珠玉の記事集

旧制中学データベース(東海北陸編)

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記事数=10件/更新日:2004年5月4日/編集者:YSK

旧制中学系の高校のリスト東海北陸編です。

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[16933] 2003年 6月 17日(火)10:11:13【1】深海魚[雑魚] さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/18 静岡県編
静岡県でも、「一県一中学令」 により、沼津、掛川、浜松に設置された中学が県都の学校に集約されたらしいのですが、その前史が確認できたのは、冀北学舎を嚆矢とする掛川中学だけでした。(掛川西高の欄で 「県立掛川中学」 が連続しているのは、廃校時期の前後に同じ校名を名乗っていた事情に因ります。) という訳で、沼津東高と浜松北高については少々不本意ながら、静岡中学から分離した時期を載せました。

ここでも、郡部の榛原高を含めて、新制直後に暫定的に 「一高」 を名乗った例が多いですね。当然、女学校系が二高として対応したものと考えられますが、県都を差し置いて県立中学が複数設置された浜松の場合は、「一中/一高」 「二中/二高」 となります。二中系の浜松西高は、県内では川根高と共に、広域募集の中高一貫校として話題を集めていますが、先日、一緒に飲んだ某著名進学校の関係者によれば、「大学進学に限って言えば、中高一貫校体制には絶っっっっ対に敵わない。」 そうです。(更に曰く、つくばエクスプレスの開業で、つくば市界隈が東京の通勤圏に入ると、茨城県南域の学校事情も相応に変化するのではないか、との事。) 今後は公立でもこうした体制が増えて行くのかな。

旧制校名の内、清水における 「庵原」、藤枝における 「志太」、は何れも広域を代表する意味合いが見て取れますね。磐田における 「見付」 は街の旧称でしょうか。(確か、東海道五十三次に登場しますね。) 磐田南高の場合、城址ではないけれど、遠江国分寺跡や府八幡宮に隣接する立地が、いかにも伝統校らしい雰囲気ですね。主に小学校として利用されたらしい見付学校との関連は無いのでしょうか。

中学としての県立移管が 1919年と比較的遅い下田北高の場合、旧制下では終始 「豆陽」 で通したのが特徴的ですが、改称例著しい韮山高の前身でも僅かな期間使われたこの名称、何か由緒があるのでしょうか。字面だけを見ると、沖縄の球陽高よろしく、旧国名と抽象名詞の合造例の様にも感じます。

静岡市と清水市の合併で、学区制度がどうなったかと思えば、今春から、前期日程は全県一区扱い、後期日程は隣接区が無条件で受験可能の様ですね。数年後には、静岡、浜松への集中度が強まるのでしょうか。

県立1873)韮山足柄県令韮山支庁仮研究所、韮山講習所対岳学校、韮山師範分校、韮山変則中学、韮山中学、
県立韮山中学、町村立中学伊豆学校、県立豆陽学校、町村立伊豆学校、私立伊豆学校、
県尋常中学韮山分校、県韮山中学、県立韮山尋常中学、県韮山中学、県立韮山中学
1877)掛川西冀北学舎、県立掛川中学、県立掛川中学 / 掛川一高
1878)静岡静岡師範学校内中学、静岡中学、県立静岡中学、静岡尋常中学、県立静岡中学
/ 静岡一高、城内高校
1879)下田北私立豆陽学校、県立豆陽学校、郡立中学豆陽学校、県立豆陽中学 / 下田一高
1894)浜松北県尋常中浜松分校、県浜松尋常中学、県浜松中学、県立浜松中学、県立浜松第一中学
/ 浜松一高
1900)榛原吉田村堰南学校、榛原郡立榛原中学 / 榛原一高
1901)沼津東県沼津中学 / 沼津一高
1922)磐田南県立見付中学 / 磐田一高
1923)清水東県立庵原中学、県立清水中学 / 清水一高
富士県立富士中学
1924)浜松西浜松第二中学 / 浜松二高
藤枝東志太中学/藤枝高校
市立1940)静岡市立静岡市立第一中学、※静岡市立第二中学 (夜間)

次号予告) 愛知県編
[16938] 2003年 6月 17日(火)14:31:56【2】深海魚[雑魚] さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/19 愛知県編
三大都市圏の一角を成す名古屋を擁する愛知県にあって、この陣容はちょっと少ないですね。昭和高あたりも該当した様に記憶しますが、とりあえず該当校の情報を募集します。

藩校系と見られる事の多い豊橋の時習館高は、藩校の向学精神に肖った地元有志が 「名を借りて」 創立した旨、公式頁に言及がある為、継承関係は無いものと判断しました。(なお、藩校としての時習館は、1752年に吉田藩主が創立したとの事。) こちらはれっきとした藩校系の明和高は、同じ藩立の洋学校の系譜が、一旦廃校を挟みつつも県立一中に継承された為か、県立移管も 1919年と遅く、ナンバー・スクールの枠には入りませんでした。しかし明治時代前半、教育制度の確立過程における試行錯誤の様子に鑑みれば、こうした私学が教育面で果たした役割は絶大だった事と考えます。ちなみに、一般に明和高と言うと、1948年に統合した 「県一」 こと県第一高女の系譜の方が有名でしょうか。(「明倫」 は、城下町ではよく耳にする名称ですね。)

旭丘高の場合、「鯱光」 なる美称がそれらしい感じですが、中央線大曽根駅に近い現校地は 1937年からの立地で、それまでは現在の明和高の校地にあったそうです。となると、存廃を巡って紛糾し、全国版の TV報道でも紹介された登録有形文化財である校舎は、その頃に建てられた、という事になりますか。

五中系は 1948-49年に 「熱田高」 と称していますが、53年に別途、同名校が新設されており、少々ややこしい感じです。

県立1783)明和尾張藩校明倫堂、私立明倫中学、県立明倫中学 / 明倫高校
1870)旭丘藩立洋学校、県洋学校、成美学校、官立愛知外国語学校、県中学、県尋常中学、
県第一尋常中学、県第一中学、県立第一中学、県第一中学/ 一高
1893)時習館私立補習学校時習館、町立豊橋尋常中学時習館、県第四中学、県豊橋中学
/ 豊橋高校、豊橋時習館高校
1896)岡崎県第二尋常中学、県第二中学、県立第二中学、県岡崎中学
1900)津島県立第三中学
1907)瑞陵県立第五中学、熱田中学、熱田高校
1919)一宮県立第六中学、県一宮中学
刈谷県立第八中学
半田県立第七中学、半田中学
1924)小牧県立小牧中学
1925)惟信県立惟信中学 / 惟信高校、松蔭高分校
1926)西尾県立西尾中学
1940)豊田西挙母中学 / 挙母高校
不詳)豊橋東豊橋第二中学
私立1888)東海浄土宗学愛知支校、東海中学

次号予告) 岐阜県編
[16941] 2003年 6月 17日(火)20:29:21深海魚[雑魚] さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/20 岐阜県編
現行の市勢を反映して、県立三校に市立一校 (岐阜市立高が県立岐阜北高に移行したのは 1956年。) と、典型的な県都集中型の布陣ですね。その最古参、岐阜高の嚆矢は、旧尾張藩奉行所跡に開校したのですが、岐阜にあって尾張藩とはこれいかに? 1880年来の華陽学校というのは、師範学校を統合して出来たものだそうで、現在校地が隣接する (共有?) 三中系の華陽高の命名との関連が気になります。1948年のみ 「岐阜一高」 を名乗りましたが、甲子園で有名な岐阜一高は全くの別物で、真正町所在の私立校です。

多治見や美濃加茂ではなく、恵那や御嵩という分布 (両者間の木曽川は、中流域ながら、地形はかなり険しそうですね。) に意外性を感じる東濃地区の更に奥、飛騨地方となると、「白線流し」 で有名な高山の斐太高くらいしか見つかりませんね。(「赤線地帯」 なら流した事があるという方、後で職員室に出頭する様に/笑) 「飛騨」 ではなく 「斐太」 とする辺りに、何やら由緒ありげな雰囲気を感じますね。

1873)岐阜仮中学、遷喬館、県第一中学、華陽高校、県尋常中学、県岐阜尋常中学、
県岐阜中学、県岐阜第一中学 / 岐阜一高
1886)斐太飛騨三郡経営高山中学、私立斐太学校、県斐太尋常中学、県斐太中学、県立斐太中学
1894)大垣北県尋常中学大垣分校、県大垣尋常中学、県立大垣中学 / 大垣高校
1896)東濃県尋常中学東濃分校、県東濃尋常中学、県東濃中学、県立東濃中学、県東濃中学
1920)本巣県立本巣中学
1922)恵那恵那中学
1928)加納県岐阜第二中学 / 岐阜二高
1941)岐阜北岐阜市立中学 / 岐阜市立高校
1943)華陽県岐阜第三中学 / 岐阜三高

次号予告) 三重県編
[16961] 2003年 6月 18日(水)15:53:38【1】深海魚[雑魚] さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/21 三重県編
西に進むにつれて、次第に情報が少なくなりがちですね。松阪高の創立年が不明とは情け無や。(汗)

嚆矢の津高における藩校有造館との関係について、単に校地を踏襲したに過ぎない (旧制時代は城址に位置した模様。) とする解釈もあるのですが、校風の発揚や入徳門にちなんだ 「赤門学校」 なるかつての美称から、継承校と判断しました。なお、津中学自体は 1880年の創立です。津の地勢に関して、以前にも言及した事ですが、安濃、岩田の二河川により、大まかに三分割された市街のうち、中央停車場である津駅が安濃川北側に設けられ、鉄道自体は通じているのに、市役所や合同庁舎、城址を擁する丸之内地区界隈では、近鉄のみ駅を擁する点が変則的に感じられます。

四日市高の場合、旧制時代に 「四日市」 を名乗っていないのが特徴的ですね。校地は 「富田中学」 の名にある様に、JR、近鉄、三岐鉄道の絡みが複雑な富田駅の近所に位置しています。北高がすぐ近所にあるのだから、街の中心部にあっても良さそうに感じますが、もしかして、四日市と称する街の成立は比較的最近の話なのでしょうか。ちなみに、進学実績から四日市高と合同選抜体制を組んでいたと思われる四日市南高は、近鉄八王子線西日野駅の近所。八王子線と言えば内部線共々、肝心の起点では同じ近鉄同士なのに名古屋、湯の山線と改札口で隔てられ、市内の短距離を軽便規格の電車が往来する現況ですが、バス化が取り沙汰されないところを見ると、渋滞回避など、鉄道ならではの必然性があるのでしょうか。(ちなみに湯の山線の特急は、土休日に線内のみ二往復とだいぶ寂しくなりましたね。) 合選体制については津高と津西高、宇治山田高と伊勢高でも行われたものと考えます。(現在は廃止された様ですが。)

町立から出世した桑名高の地元では、揖斐川河口に近い城址の名称が 「九華公園」 ですが、単なる語呂合わせなのか、転訛を経た新旧地名の関係にあるのかが気になりますね。城址と言えば神戸高。この神戸という地名は鈴鹿市の中心部一帯を指しますが、駅名にもないので 「神戸=鈴鹿市」 が地元外で判る御仁は、ある程度地理に通じていると言えるでしょう。紀勢線の旧駅名から辛うじて判るのが、熊野市の木本高。一方、「熊野高校」 の所在地は和歌山県上富田町。これはそもそも熊野という地名が、三重、和歌山の両県に跨って紀伊半島南部を意味する広域的な地名である事の所産でしょうか。それにしても、海岸線が リアス式から遠浅に移行する熊野市の場合、地形的制約 (紀勢線尾鷲-熊野市は戦後の開通。) による歴史的往来を考えた場合、なお三重県に属する必然性は強いのでしょうか。(JR管轄、および電化区間の境界による輸送体制の転換点は新宮ですが。)

1821)津藩校有造館、津中学、県第一中学、津中学
1899)宇治山田県立第四尋常中学、県立第四中学、県立宇治山田中学
上野県立第三尋常中学、県第三中学、県立上野中学 / 上野北高
四日市県第二中学、県立富田中学
1920)木本県立木本中学
神戸神戸中学
1923)桑名桑名町立桑名中学、県立桑名中学
不詳)松阪県立松阪中学 / 松阪南高

次号予告) 富山県編
[27872] 2004年 5月 3日(月)19:39:47fatalis さん
アーカイブスを見て…
落書き帳初登場です。
以前からこのサイトは楽しく拝見させていただいております。

さて、ふと落書き帳アーカイブスを眺めていたら、一部指摘したい点を発見いたしましたので、指摘させていただきます。

[16961] 旧制中学 データ・ベース 第二弾/21 三重県編

四日市高の場合、旧制時代に 「四日市」 を名乗っていないのが特徴的ですね。校地は 「富田中学」 の名にある様に、JR、近鉄、三岐鉄道の絡みが複雑な富田駅の近所に位置しています。北高がすぐ近所にあるのだから、街の中心部にあっても良さそうに感じますが、もしかして、四日市と称する街の成立は比較的最近の話なのでしょうか。

昭和10年~57年頃に、四日市工業高校が、現在の近鉄四日市駅のすぐ西(旧松坂屋四日市店・アムスクエア付近)にあったそうです。
(四日市工業高校のホームページの沿革に記されています。私も親に聞いたことがあります。)
おそらく四日市工業高校が先に中心地にあったのが、四日市高校が中心地にない理由だと思われます。

四日市と称する街の成立が何時ごろになるかの検討は今回は避けます。膨大になりますので(^^;

進学実績から四日市高と合同選抜体制を組んでいたと思われる四日市南高は

上記文中に「合選体制」とある制度は、正確には「総合選抜制」と呼称されていました。
もっとも、この呼び方で言われることはあまりなく、一般的には「群制度」と言われていたと記憶しています。

合選体制については津高と津西高、宇治山田高と伊勢高でも行われたものと考えます。(現在は廃止された様ですが。)

総合選抜制の区分は…

第1群 四日市高校、四日市南高校
第2群 津高校、津西高校
第3群 宇治山田高校、伊勢高校

となっていました。
(深海魚さん、正確な推測恐れ入ります。大正解です)

総合選抜制は平成6年度入学者選抜試験を最後に廃止され、現在は各校ごとに単独募集となっております。

以上、わざわざ過去のログから発見しての指摘、申し訳ございませんでした。
[16966] 2003年 6月 18日(水)18:03:50深海魚[雑魚] さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/22 富山県編
富山といえば先ずは、ノーベル賞を受賞した田中さんの母校、富山中部高が連想されます。創立時から県立だったにもかかわらず、「富山二中」 を名乗らなかったあたり、独自の命名感覚と言えるでしょう。校地のすぐ西側を、旧制名に冠した神通川が流れていますが、同時期に受賞した小柴教授の 「仕事場」 が上流の神岡ですから、半ば強引に巡り合わせめいたものを感じる雑魚でした。現在、富山県の学区制は、交通事情の許す範囲でほぼ自由選択が効く様ですが、高岡高と共に 「御三家」 と仰がれるらしい富山高と富山中部高の 「棲み分け」 が、今後どの様な地勢に基くか、興味を覚えるところです。

「礪波」 との使い分けが良く判らない砺波高の場合、新制移行直後に、商業科併置の総合制導入に伴う改編として、「砺波」 から 「出町」 に改称していますね。この地名、1952年の合併まで同地区を管轄した自治体名らしく (中心街と思しき砺波駅西側一帯に出町小、中学校が位置します。)一旦名乗った広域的地名に基く校名を、総合制導入に伴い比較的狭い地域の地名に改めるあたり 「東西南北」 を冠するのと同様、他校との対等性に配慮した感覚ではないか、とも思えます。(これは、横手高における 「美入野」、茨木高における 「三島野」 も同様かな。)

新湊高は旧制時代、終始 「射水」 を名乗っていますが、「新湊」 の名が、富山新港の建設に因るものとすれば、然もありなんですね。「射水」 と聞くと、新港開削に伴い万葉線との連絡性が断たれ後年廃止された富山地鉄射水線を思い出します。現役時代、地図を見る度、掘割を挟んで鉄道の終点駅が向かい合う格好に、随分と違和感を覚えたものでした。

1885)富山県中学、県尋常中学、県第一中学、県立富山中学
1898)高岡県高岡尋常中学、県第二中学、県立高岡中学
1899)魚津県立第三中学、県立魚津中学
1908)砺波県立礪波中学 /砺波高校、出町高校
1920)富山中部県立神通中学 / 神通高校
1927)新湊県立射水中学 / 射水高校、高岡東部高校
氷見県立氷見中学

次号予告) 石川県編
[16984] 2003年 6月 18日(水)22:38:58【4】深海魚[雑魚] さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/23 石川県編
まず金沢大附属。これは戦後の創立ですが、学制改革前年に旧制高等師範の附属として開校している為、新制移行時の過渡期な併設中学ではなく、旧制中学であると判断しました。

次に金沢泉丘高ですが、県立である石川尋常中学への改組が 1893年で、旧制官立高校の中でも比較的早期に設置された四高を擁するなど、文教政策上の先進性が見られる城下町にあって、嚆矢の県立中学設置が 1893年とは、遅れ気味に思えます。その分、前身の大谷中学が応分の ステイタスを擁したのかも知れませんが、内容は一切不明。

大谷中学の名を知ったのは http://www.sakane.net/sakura/ch_schoo.htm の泉丘高に関する小史欄からですが、(金沢の桜の名所を紹介した頁で、なかなか興味深い内容です。) ここでは金沢一、二、三中が金沢一高に集約と記されています。一方で私は、三中が三高改め金沢桜丘高に単純継承され、創立時に石川県全体での二中と位置付けられた金沢二中は、(こうした沿革は、仙台二高の旧制史に共通するものがありますね。) 校地が新制中学に充てられた為、一旦は単純消滅し、多子化に応じた高校増設の際、OBの強い意向で 1963年創立の金沢錦丘高に正式継承されたと認識しています。或いは、どちらとも取れる様な複雑な変遷でもあるのでしょうか。

飯田高は珠洲市の立地ですね。珠洲と言えば、穴水-輪島に続き、急行 「能登路」 「のと恋路」 も相次いで廃止され、旧七尾線の和倉温泉以南と明暗を分けたのと鉄道が想起されます。珠洲市にしても、JTBが定める 「市代表駅」 は、相変わらず能登飯田 バス・ターミナルなんですね。現在、金沢-珠洲は北陸鉄道の特急バスが一日四往復、多分能登有料道経由で、所要二時間半程度で結んでいますが、旧能登線が宇出津止まりだった頃は夜行便もあったとか。(驚)

国立1947)金沢大附属金沢高等師範学校附属中学 / 金沢大学高等師範学校附属高
県立1792)金沢泉丘藩学明倫堂、藩学壮猶館、私立大谷尋常中学、石川尋常中学、
県第一中学、県立金沢第一中学 / 金沢一高
1899)金沢錦丘県第二中学、県立第二中学、県立金沢第二中学
小松県第四中学、県立第四中学、県立小松中学
七尾県第三尋常中学、県立第三中学、県立七尾中学
1921)金沢桜丘県立金沢第三中学 / 金沢三高
1923)羽咋県立羽咋中学
輪島県立輪島中学
1929)飯田六箇村組合立飯田中学、県立飯田中学

次号予告) 福井県編
[17005] 2003年 6月 19日(木)09:19:27【1】深海魚[雑魚] さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/24 福井県編
藩学の系譜を持つ藤島、若狭両校の沿革が一際目立ちますね。藤島高の場合、1948年に 「福井一高」 を名乗った時点で既に高女を統合しており、それでは二高はどこかと言えば、農工系の学校を再編したと思しき変則的陣容でした。翌年、二高は高志高と改称し、1956年より普通科校に移行、80年より藤島高との合同選抜体制となり、県内きっての進学校の並立状態となった次第。その後、この合選枠は解消され、武生界隈からの福井市内受験も解禁されたそうで、県央部の拠点校の陣容が今後どの様に推移するか、関心を覚えるところです。それにしても、武生高の沿革が判りませんねぇ。

若狭地方を代表する意気込みが感じられる若狭高は、現在でも藩校時代の建造物が校門として残っており、長野県の上田高などに通じるものを感じますね。しかし、ここでも 「一県一中学令」 により、1886-94年に廃校の憂き目にあっています。余計な話ですが、「若狭」 と聞くと、「♪若さゆえ~」 という ビールのCMを連想する雑魚でした。江口寿史著 「日の丸劇場」 で茶化されましたから、確か 20年程前の ネタと記憶します。「駄目、今降りちゃ!」 (笑)

県立1774)若狭小浜藩校順造館、順造館中学、福井中学分校、県小浜尋常中学、県小浜中学 / 小浜高校
1855)藤島福井藩校明堂館、福井藩校明新館、福井明新中学、県福井中学、
県尋常中学、県立福井中学 / 福井一高
1901)大野県立福井中学大野分校、県立大野中学
1906)敦賀敦賀商業学校、敦賀中学
不詳)武生武生中学
私立1880)北陸羽水教校、福井仏教中学、私立第二仏教中学、北陸中学

次号予告) 滋賀県編
[17038] 2003年 6月 19日(木)23:57:25深夜特急[北大阪急行] さん
旧制中学
[17005][17010][17012][17020][17022]雑魚さん
旧制中学 データ・ベース 興味深く拝見させていただいております。
以下は『高校野球甲子園出場校事典』(東京堂出版、1998)に載っていた学校です。可能な限り調べてみましたが、わからないものは本書から抜粋しました。(*印)

福井 私立 北陸 羽水教校(1880)-福井仏教中学(1900)-私立第二仏教中学(1902)-北陸中学(1910)
滋賀 私立 比叡山 * 1873、天台宗の教師養成学校として創立。-比叡山中学(1916)
奈良 私立 天理 天理教校(1900)-天理中学(1908)
和歌山 県立 伊都 県立伊都中学(1922)
京都 私立 東山 * 勧学院(1868)-東山中学(1909)
京都 私立 平安 金亀教校(1876、滋賀・彦根)-第三仏教中学(1902)-私立平安中学(1910)-平安中学(1919)
京都 私立 立命館 * 清和普通学校(1905)-清和中学校(1906)-立命館中学(1913)

新宮が県立二中の分校という事から、桐蔭高が一中、田辺高が二中と位置付けられたものと推定しますが、両校とも、その旨の表記は今のところ見当たりません。
1896年県立第二中学校として創立し、1901年田辺中学校に改称とあります。(*)
[21266] 2003年 10月 20日(月)12:38:40【2】深海魚 さん
金沢泉丘高の謎
[21258] EMMさん
鳥越方面の バスの ルートが変わっていなければ、友人の利用していたのはおそらく上有松バス停だと思います。
単純に県道 (金沢・鶴来線) 経由の様ですね。泉丘高を含む犀川南西部一帯の文教地区は、北陸線に接続する西金沢で大きく西側に迂回する北陸鉄道から取り残された感じです。ところで、西泉の政府食料事務所には、北陸鉄道から分岐した引込線跡が [21170] で言及した晴海埠頭や福島県いわき市の小名浜港第三号埠頭 (一般人立入は制限されていますが、休日は釣り客が多数訪れる様です。) 宜しく残っている様で、機会があれば訪れたい処ですが、詳細を御存知でしょうか?

ところで、泉丘高の前史について、興味深い事が判りました。同校の公式な創立時期は、石川県尋常中学として設立された 1893年で、北陸を代表する街でありながら、富山高の1885年 (富山県中学) や福井・藤島高の 1874年 (福井明新中学/前身の福井藩校明道館は 1855年設置。) に比べ少し遅目ですね。これは、官立四高 (faithさんが [17293] で言及されたところでは県立専門学校の接収的移行を伴う様子ですね。) の設置に伴う多額の出費から、県独自の中学設置が覚束ず、1888年に、僧侶養成を目的とした中学設置の必要に迫られていた真宗大谷派加賀教校と共同で経営する共立尋常中学を設置しました。その後、学校設置に尽力した知事の後任の意向から、石川県は財政難を理由に中学運営から撤退。こうして同校は 1892年に純私立の 「大谷尋常中学」 と改組されます。翌年、同校が廃校の方針を表明し、「一県一中学令」 に基く設置義務との兼ね合いもあって、必ずしも議会は設置に肯定的ではなかったのですが、知事の執行権により、同校を丸ごと継承する形で、石川県尋常中学が誕生した次第。(これを調べられたのは、両毛人さんの先輩に当たると思しき方です。)

番号付きの官立高校が設置されるほどに文教性が重視されたであろう金沢の街で、中等教育課程の要諦たる公立中学の整備が遅れたのは意外ですね。上記共立尋常中学の設置以前は加賀教校が拠点的教育機関として機能していたのかな。街の要衝性に反してのこうした状況は、金沢と同様に枢要な城下町とされる仙台でも符号性を感じます。

仙台一高の嚆矢である宮城県尋常中学は、金沢泉丘高とほぼ同時期の 1892年創立。伊達藩校養賢堂や、廃藩置県後の継承先と見られる 「英語専門学校辛未館」 から同中学に移った教師が少なくない事から、これらが実質的な継承元であり仙台延いては宮城県を代表する教育機関として機能していたのではないかと推定されます。(太白さん、seahawkさんなど、何か御存知でしたら御教示頂ければ幸いです。) 明治政府の一律的文教政策でなく、こうした独自の陣容を擁した辺りに、旧体制時代における 「懐の深さ」 めいた名残りを何となく感じた深海魚でした。

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