[38440] 2005 年 3 月 9 日 (水) 23:06:04 両毛人 さん
また「宇品」をさすと思われる、「元宇品」と「向宇品」の関係はどのようなものなのでしょうか。正式名と通称名という関係なのか
[37858]でベセスダさんが、
[37875] でEMM さんが仁保島村のことを書かれていたのですが(
仁保島村のハワイ移民についての資料館があるそうです
)、宇品に関係するとおもい図書館で件の村の変遷をしらべたところ
明治22年(1889)4月1日 安芸郡仁保島村が単独村制
明治37年(1904)9月15日 字宇品を広島市に分離編入
大正6年(1917)8月31日 仁保村に名称変更
昭和4年(1929)4月1日 広島市に編入
とかかれておりました。
また図書館で大正6年(1917)発行の広島県の地図を調べたところ元の島であった宇品島と宇品港の間に郡境が記入されており、当時は宇品といえば「広島市字宇品」と「安芸郡仁保島村(仁保)字宇品」の二つの地域に分立されていたようです。
ただ明治27年(1894)年発行の2万5千分の1を確認したところ、宇品港完成当時の広島市と仁保島村の西側の境界線がかかれていなかったため、どうやら新しく宇品港(現広島港)の建設によって誕生した宇品の干拓地の境界が明確になっていなかったようです。
また、広島電鉄が宇品線を向宇品口(現在の元宇品口)まで開業したのが1915年4月のことですが、その当時はすでに官営の宇品線(*)が開業していたため、終点の宇品駅と同名回避のために別称を用いた可能性もあります。
そのため、もしかすると開業当時は「元宇品」という地名がなかったばかりか、2つの自治体(戦前の制度でいえば財産区)に「宇品」が存在し、そのような状態が25年存続したため、仁保島村字宇品と区別するために、広島市側の宇品をさす言葉として「向宇品」という地名が誕生したのだとおもいます。
その後広島電鉄の宇品線は、1951年4月に向宇品から宇品(現在の広島港)まで延伸したのですが、国鉄宇品線の方は軍港のための運輸機能も消滅し、またダイヤや経由地に問題もあり広島電鉄宇品線に押され日本一の赤字路線に転落し、旅客営業は1966年、貨物営業は1972年に廃止され、国鉄営業線として廃止(1986年までは専用側線として存続)されました。そのため「宇品」とつけても国鉄駅との同名回避する必要もなくなったようです。
現在では「向宇品」の地名は住居表示からは消滅していますが、仁保村が広島市に編入してからは、宇品地区の分断も消滅し一緒に向宇品になったとおもいます。
(*)日清戦争の人員・物資輸送のために1894年に当時広島駅まで開業していた山陽鉄道(現山陽本線)が陸軍省の委託により広島駅と宇品港(現広島港)とを連絡するために建設した路線。
戦時であったため8月4日着工20日完成という突貫工事であったそうです。日清戦争の主戦場は朝鮮半島であったため相当重宝されたようです。
また当時は戦争指揮のために広島城本丸に大本営(天皇に直属して陸海軍を統帥した最高機関)が設置され明治天皇が行幸し、また戦時予算を可決するため帝国議会も広島で開催され、現在でも国会が地方開催された唯一のケースです。