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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[93622]2017年8月31日
hmt

[93622] 2017年 8月 31日(木)18:02:25【1】hmt さん
昭和の大合併
[93619] Takashi さん
落書き帳メンバーの中で、昭和の大合併当時に生きていた少数派でもあり、少し発言しておきます。

出身地については、昭和30年の合併で 本籍地の表記が変更されました。
しかし、「実生活への影響は 殆んどなかった」と言って良いでしょう。
昭和合併当時の私【学生→新卒】の居住地については、合併と無関係でした。

数十年を経過。落書き帳のメンバーになってから、現在の居住地が 昭和合併を経験した村 であることを知りました。
そして 2006年、埼玉県入間郡富士見村誕生から50年ということで 地元の資料館で 展示会が開かれました。
それを機会に記した記事[55364]があります。先ず これを紹介します。

私自身は全くの別世界で暮らしていたのですが、昭和合併当時の実情が少しは推察できると思います。

「昭和合併」が実行された最初のきっかけは、1949年に占領軍から出された「シャウプ勧告」でした。
その基本理念は、国と地方公共団体の間の事務の再配分を実現した上で、地方公共団体の財政を強化することにありました。

国力の衰えた敗戦国・日本の自治体にとり、1947年度発足の義務教育延長(6+3制)は大きな負担でした。
市および人口5000人以上の市街的町村は、公安委員会や自治体警察も負担することになりました。
(警察制度については、1951年から1955年にかけての改正で現行制度に移行。)

時代は異なるが、豊玉小学校[59567]や 越県合併までした大泉村[62334]の時代から、学校経営の費用で地元は苦労していました。

とにかく、小さな町村では財政のやり繰りが大変です。
合理的な自治体運営を可能にする適正規模「人口8000人」の実現。これが昭和合併の大目標でした。

でも 実務となると、どのような組合せで合併するのか 議論百出。その一例を紹介してあります。
埼玉県入間郡の鶴瀬ブロックは 県の試案5村に始まり、福岡村を加えた6村となるも反りが合わず。鶴瀬は南畑の他に水谷も抱き込み、三芳とも交渉。しかし、土壇場に近く登場した 三芳・鶴瀬両村長の名による「誓約書」(の案?)も実らず、「町村合併促進法」最終期限 1956/9/30 の3村合併による 富士見村へ。


そして 別の記事[55377]では、町村合併促進法の枠から外れた後の 三芳村を記しています。

「新市町村建設促進法」に基づく県知事の合併勧告は返上。
上富地区は所沢市への編入を望んでおり、分村の結果として三芳村消滅か?という危機もありました。
しかし、1959年に至り 分村合併取消議案が可決され、三芳村の昭和合併騒動は ようやく白紙に戻りました。

1960年代になると独立の道を守った三芳村に追い風。工場や倉庫の進出で農村の風景が変りはじめました。
余談:今年2月の火災で話題になったアスクルの物流倉庫も三芳町所在。但しこの倉庫は、近年のものでした。

いずれにせよ、昭和合併が目標にした「人口8000人規模」は、合併することなく実現しました。
1977年には最寄りの東上線「みずほ台駅」【町内ではない】も開業し、団地もできています。

埼玉県入間郡三芳町は、財政力指数が1を超える豊かな自治体であり[80514]、昼間人口比率の低い富士見市からの人口流出先[90619]などの落書き帳記事もあります。

昭和合併により人口だけは増えて、1972年から「市」という看板を掲げている富士見市。
昭和合併を拒んだ結果、未だに「郡部」ですが、自治体としての実質は 隣接する「市」よりも上位にある三芳町。

落書き帳の記事を紹介し、昭和合併で異なる対応をした2つの村の現状を見比べてしまいました。


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