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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[93865]2017年9月24日
hmt

[93865] 2017年 9月 24日(日)19:00:14hmt さん
阿蘇いろいろ
[93824][93859][93863]に続き、熊本地震の報道でお馴染みになった南阿蘇村あたりのことを中心として、阿蘇の地理に関することを いろいろと記します。

1 立野火口瀬
[93822]で引用された毎日新聞記事には、熊本地震で崩落した国道325号阿蘇大橋の 架け替え工事で削られてしまった 柱状節理の所在地が「立野峡谷」と記されていました。このあたりについては「立野火口瀬」と表記された資料もあったが、火口瀬という言葉は初耳でした。そこで辞書で調べたら、火口やカルデラの縁の一部が切れて、火口湖内の水が流れ出した谷のことでした。

[92668]で言及した、十和田湖から奥入瀬川が流れ出る「子ノ口」。これも火口瀬の一例でした。
立野火口瀬については、博物館の解説もありました。
阿蘇谷からの黒川と南郷谷からの白川が合流する戸下(とした)から白川の流れに沿って西に延びています。

豊肥本線の立野駅は標高270m付近に描かれていますが、東の阿蘇谷方面に向かう線路は いきなりの急勾配なので、スイッチバックにより山登りするようになっています。南阿蘇鉄道【旧・高森線】の通る南郷谷も登り勾配ですが、こちらは徐々に高度を上げてゆきます。
地図の少し東側には、白川の鮎返しの滝、黒川の数鹿流(すがる)ヶ滝という名が見え、いずれの川も急流を流れ下っていることが知れます。

立野は現在では南阿蘇村の大字ですが、市区町村の変遷で見るように、明治合併の町村制で合志郡立野村から瀬田村になった後、新郡制施行準備で菊池郡に変更、昭和合併で阿蘇郡長陽村に編入、平成合併で南阿蘇村という前歴です。

2 黒川と白川
阿蘇山地域を大別すると、中心にある阿蘇五岳、その周囲のカルデラ、更に外側の外輪山になります。

最初に人が住みついて 拠点を作った主な場所は 水利の良いカルデラ内の山麓と火口原です。
その筆頭に挙げられるのが、古代からの有力氏族で 現在も阿蘇神社大宮司である阿蘇氏の本拠地と言えるでしょう。
その名も阿蘇市「宮地」付近。阿蘇谷東部のこの地は 現在の阿蘇市の中心地でもあり、黒川の流れの近くです。

黒川流域の阿蘇谷は 内牧など温泉地帯でもあるようです。
ここで思い出したのが 杖立オフ会の際には道路の関係で利用できなかった高速バスの行先「黒川温泉」[91229][91408]でした。でも 外輪山外側の黒川温泉は、阿蘇谷の黒川とは無関係でした。

白川の流れる南郷谷に移ります。阿蘇谷に比べて高低差のある南郷谷は 古代・中世の技術では開発が困難だったようで、中心地となる高森が台頭したのは近世以降のようです。南郷谷西側の開発は更に遅れて 阿蘇神社領の広い原野が残り、神事の狩場に用いられたようです。

3 南阿蘇村
平成合併の結果、南郷谷の西側に成立した南阿蘇村ですが、村の中央を北西に向って白川が流れており、ここで河川を隔てた「ひなた・ひかげ地名」のペアを見ることができます。

白川の北岸が合併前の長「陽」村、白川の南岸が合併前の久木野村【明治合併前に河「陰」村】であり、今年になってから村役場が河陰から河陽に移ったことは [93859]で記しました。
マピオンは、南阿蘇鉄道の長陽駅と河陰にあった南阿蘇村役場【旧位置】が出るようにセットしました。

そして、白川の北岸で長陽村下田よりも上流側にあるのが、平成合併に関係する第三の村・白水(はくすい)村で、南阿蘇鉄道には「南阿蘇水の生まれる里白水高原」という長い名の駅から始まる5駅があります。この辺が南郷谷のほぼ中部です。明治合併前の旧村名に由来する「両併(ふたあい)」という難読地名もあります。

南阿蘇鉄道を西に引き返すと、鮎返しの滝の先は外輪山を戸下トンネルで抜けて立野峡谷に出ます。長陽村に併合される前には別の郡だった前歴があることは、立野火口瀬の項で既に記しました。

4 白川県
阿蘇から離れますが、市制町村制よりずっと前の明治初年に 短期間存在した「白川県」に触れておきます。
阿蘇の南郷谷を流れ、黒川との合流後も「白川」として熊本に至る川の名が県名に使われた時代がありました。

法令全書 明治5年6月14日 太政官布告第178号
熊本県を白川県と改称し県庁を飽田郡二本樹村に被置候事

県庁が熊本から移転するので、県名も移転先の近くの川の名を使い「白川県」とする。
表面的にはこれだけですが、やはり移転先が気になります。

熊本県のサイト内では 二本木移転関係の適切な資料を発見することができなかったのですが、熊本市西区の広報紙2014/4により、白川の河口近くであることが判明しました。

マピオンを見ると熊本駅の近くで、現在の常識では「熊本ではない」という「県名を変えた理由」が とても理解できません。

ついでに 太政官布告の上部欄外を見ると、「【明治】9年第19号【太政官】布告を以て 県庁を飽田郡熊本に移し 熊本県と改称」とあります。
前記の西区広報紙によると、明治6年 八代県との統合【これにより、白川県は現在の熊本県域に近い管轄区域を持つことになった】により手狭になった上、水害にも悩まされ、明治8年には古城(ふるしろ)に移転し、翌明治9年に熊本県の名に戻したとのこと。
明治初期の慌ただしい制度変更の一幕でした。


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