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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[81075]2012年7月12日
YT

[81075] 2012年 7月 12日(木)18:09:14【2】YT さん
人口・町数など
[81073] 白桃さん
1.「市街名邑及び町村二百戸以上戸口表」に記載されている人口の出典元はどこなのか・・・「共武政表」に続く「徴発物件一覧表」なのでしょうか?

明治20年版の『徴発物件一覧表』には名邑毎の人口は掲載されてなく、戸長役場の管轄毎の人口が載っています。『共武政表』を含め、これらの人口の出典元は、内務省が把握しているはずの戸籍人口でしょうが、オリジナルの統計が残っていないために、『共武政表』の方に詳しい情報が残ったというのが実情でしょう。ただ残念なことに『明治八年版の共武政表』は明治5年~明治7年の本籍・現住人口が適当に採用されています。また『徴発物件一覧表』の方は明治16年度から始まりますが、

明治16年度版:明治16年1月1日調の国郡別人口を掲載
明治17年度版:明治17年1月1日調の国郡別人口を掲載
明治18年度版:明治18年1月1日調の国郡別人口を掲載
明治19年度版:明治19年1月1日調の国郡別人口を掲載
明治20年度版:明治19年12月31日調の、戸長役場所在地別人口を掲載

明治16年~明治19年に関しては、町村レベルでの人口は掲載されていません。また掲載されている人口は現住人口のようなのですが、内務省統計局の戸口表と数字がずれています。明治20年版の徴発物件一覧表は、戸長役場の管轄区毎の人口という点で、内務省の統計である『日本帝国民籍戸口表. 明治19年12月31日調』よりも情報が多いはずなのですが、数字がずれています。詳しい比較を行っていませんが、『地方行政区画便覧』と同じで、まとめた人間はそれほど人口の定点観測には注意を払っておらず、明治20年年末の数字が入手できたらそれで置き換えてしまっていたりしているのでしょう([69010]参照)。

2.「日本地誌提要」には町村数が載っていますが、市町村制度が発足する以前に、どこが町で、どこが村かという規準と町村の一覧表というのがあったのでしょうか。

町村数に関しては、過去にokiさんが[58109]でまとめられています。例えば陸中国磐井郡は、『天保郷帳』では86村、『日本地誌提要』では86村1町となっていますが、内務省地理局編纂物刊行会編『内務省地理局編纂善本叢書:明治前期地誌資料』収録の『明治前期全国村名小字調査書』 (1986-1987年)(むっくんさんの紹介[54378] )収録の「水沢県管下各区並村名調」では全て「村」と称し、西磐井郡(第八大区)、東磐井郡(第九大区)合わせて合計87村となっています。

大区小区村数
第八大区一小区7
第八大区二小区7
第八大区三小区5
第八大区四小区8
第八大区五小区5
第八大区六小区9
第八大区小計41
第九大区一小区8
第九大区二小区3
第九大区三小区11
第九大区四小区6
第九大区五小区2
第九大区六小区4
第九大区七小区5
第九大区六小区3
第九大区九小区4
第九大区小計46
第九大区合計87

このうち第八大区四小区八ヶ村の内訳は、鬼死骸村、一関村、二関村、三関村、下黒沢村、上黒沢村、山目村、赤荻村で、これらは明治7年5月中の状況を記しています。

一、本書は、明治七年五月二十七日、内務省地誌課が各府県に村名の調査を命じ、これを受けて各府県から提出された「各府県村名調査報告」と、明治十四年十一月二十六日、内務省地理局が各県へ宛てて町村の字小名を照合した「各町村字小名取調調」「各町村字名称調」等のうち現存するものを収録するものである。

一、明治七年の達によって提出された調査書は同年五月三十日までの期提出期限を定められたが、二十三県については五月中に提出され、あとはおおむね同年十二月迄に提出を終えている。但し、栃木、三重、宮城の各県は翌年一月、浜田県は翌年二月になって提出している。

ところで町村数を調べていくうち、確か『明治前期全国村名小字調査書』の解説の中で引用されていた亀掛川浩『明治地方自治制度の成立過程』(1955年)を読んだところ、以下の表を見つけました。

(一) 町村編制の変化 大村文書中にある「明治七年―十九年町村合併分離調」によれば、左表に示すごとく、明治八年頃から斬減してきた全国町村数は、十一年頃からほぼ安定していたのが、十九年にいたって多少の減少を示している。

表は左から年次、合併の旧町村数/新町村数/差引減町村数、分離の旧町村数/新町村数/差引増町村数、新設の増町村数、合併・分離・新設を合計した差引増減町村数、年末現在での町村数です。

年次旧町村数新町村数差引減町村数旧町村数新町村数差引増町村数増町村数差引増減年末現在数
明治7年20571134121-13378,280
明治8年3,3479822,3651735189-2,33875,942
明治9年4,2161,5342,6821335225-2,65573,287
明治10年1,9267261,2002257358-1,15772,130
明治11年754270484228765-41971,711
明治12年5272113167533025514-4771,664
明治13年13457774116712625171,715
明治14年27499175106333227146671,781
明治15年152638995337242716071,941
明治16年304882166720714020-5671,885
明治17年5325281542274371,888
明治18年24791156267145111071,888
明治19年1,0291588712469455-82171,067
合計13,1684,3758,7935241,7721,248199-7,346

計算上は、明治6年年末の時点で7万8413の町村が存在したことになります。

残念ながら、大森文書の肝心の原本には目を通せていない状況ですが、明治初期の町村数の変遷を知る上で参考になるでしょうか。

【追記】大森文書について、図書館の検索を中心に以前調べましたが、先ほど
改めてgoogleで検索したところ、

梅村 又次 『松方財政と殖産興業政策』 (1983年)

ところで,明治初期の町村分合に関する全国的統計としては「明治七年――十九年町村合併分離調」(大森文書)が著名だが,「大森文書」による1874(明治7)年の町村合併による町村数の減少134カ町村は井戸の調査による旧筑摩県の243カ町村よりもはるかに少ないことからみてこれは信頼しがたい31).

31) 井戸庄三「明治初期町村分合に関する二,三の問題―長野・山梨両県を中心として」,『人文地理』18巻4号,1966年,28ページ.

井戸庄三, 『明治地方自治制の成立過程と町村合併』(pdf), 人文地理, 21(5), pp. 29-53 (1969年)
その数値にやや疑問があるが,『大森文書』の「明治七年~十九年町村合併分離調」によれば,全国の町村数は明治7年に78,280町村であったのが,明治10年には72,130町村になり,6,150町村の減となっている。

ということで、上の数字は信頼が低いもののようです。


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