EMM さん
[70774]で「富来に関する考察。私も参加させて下さい」と書きましたが、考察したい事柄をもっと具体的に書くべきだったことに気が付きました。私は次のようなことを考えていたのでした。
富来地区、西海地区については大字名の前に地区名(昭和29年までの村名)を付して志賀町富来地頭町、志賀町西海風無のように表しますが、熊野地区、稗造地区、東増穂地区、西増穂地区、西浦地区については地区名を付さずに志賀町三明、志賀町酒見のように表します。自治体名+地区名+大字名の区域と自治体名+大字名の区域が混在して不揃いですね。これを、自治体名+大字名に統一できないかと考えた次第です。そうすると富来の名が消えることになりますが、富来の名を残したいと願う人たちから反対される可能性があります。そこで、富来の名を存続させながら全ての地区を自治体名+大字名の形式で統一できないものだろうか・・・。そんなことを模索したいと思ったわけです。
【事例からの発想】
明治22年、宮城県柴田郡では入間野村、四日市場村、船迫村など藩政10ヶ村が合併し、藩政入間野村の宿駅名「槻木」にちなんで槻木村(後に町に昇格)になりました。藩政村はそのまま槻木村の大字に継承され、槻木村大字入間野、槻木村大字四日市場、槻木村大字船迫などになりました。昭和31年、槻木町は船岡町と合併して柴田町になりました。槻木町の大字は柴田町に引き継がれ、柴田町大字四日市場、柴田町大字船迫などになりました。槻木の名は消える運命にあるのだろうか・・・。しかし、槻木町は中心部の大字入間野を大字槻木に改称して柴田町大字槻木とすることにしました。様々な受け取り方があるとは思いますが、槻木町はその名を大字入間野の区域に託して消えて行ったのだと思います。こうして入間野の名は消えましたが槻木の名は残りました。入間野を残すか槻木を残すか、苦しい選択を迫られたことでしょう。
同じく明治22年、平村、堤村、新寺村の藩政3ヶ村が合併。藩政平村の宿駅名「金ヶ瀬」にちなんで金ヶ瀬村になりました。藩政村は金ヶ瀬村の大字に継承され、金ヶ瀬村大字平、金ヶ瀬村大字堤、金ヶ瀬村大字新寺になりました。昭和31年、金ヶ瀬村は大河原町と合併。金ヶ瀬村の大字は大河原町に引継がれ、大河原町堤、大河原町新寺になりましたが、このままでは金ヶ瀬の名が消えてしまいます。しかし、金ヶ瀬村は中心部の大字平を金ヶ瀬に改称して大河原町金ヶ瀬とすることにしました。こうして平の名は消えましたが金ヶ瀬の名は残りました。
私はこの2例の大字名改称を肯定的に受け止めています。理由は、町村制で誕生した槻木村の名は藩政村入間野に形成された町場名「槻木」に由来し、昔から入間野=槻木、槻木は入間野の別称という雰囲気があったと考えられるからです。平と金ヶ瀬の関係も同様です。もう1つの理由は、周辺大字との統合や境界変更を伴わず、単に入間野を槻木に、平を金ヶ瀬に変えただけですから、同名小字が発生せず、地番組替えの必要もなかったことにあります。ですから、入間野を槻木に、平を金ヶ瀬に改めることに大きな抵抗感はなかったものと思われます。これを富来に当てはめることはできないだろうか。どれか1つの大字を富来という名に改称し、志賀町と合併して消滅する富来の名を残すという方法です。たぶん、志賀町富来七海を志賀町七海にできても、志賀町富来にはできないでしょう。では、志賀町富来地頭町はどうでしょう。志賀町地頭町にもできるし、志賀町富来にもできそうな予感がします。ただし、明治から今日までの合併を含む社会変化を思えば、地頭町を富来に改称するのは不可能になっているかもしれません。
【地形図からの推測】
ウォッちずは既に現在の地名に修正されているのであまり参考になりませ。そこで、たまたま手許にあった平成3年発行の5万分の1地形図「富来」を見てみました。牛下、生神、七海、領家町、高田、東小室の地名は記載されていますが、なぜか地頭町がありません。それに、自治体名の富来町はあるのですが、集落名の富来がありません。地形図の図名は、その図に出てくる代表的な集落・居住地名を採用するのですから、富来という名の集落があるはずです。富来はどこへ行ってしまったのでしょう。思いますに、以前は現在の地頭町にあたる区域に富来という集落名が記載されていたのではないか?。現在の地頭町こそ昔の富来ではないかと思えてくるのです。槻木が入間野村の町場名であったように、地頭町は富来村の町場名だったのではないかと・・・。
【百科事典からの推測】
1972年発行の百科事典の次のような記述があります。
南部の福浦港をはじめ、富来、赤崎、領家、七海などの港は漁業が盛んで、また富来は商業の地方的中心で
ということは、富来領家でも富来七海でもない富来富来があるのですね。それは現在の富来地頭町ではないだろうか。
【天保国絵図からの推測】
やはり富来村は存在したのですね。位置から推測すると現在の地頭町の区域だろうと思います。
私、今回の事例に付いて千本桜さんは2つの事を見逃している(あるいは見ないようにしている)のではないか、と思っています。
具体的には
「富来と言う地名自体の歴史を追う事」
「○○村内××村と言うのが富来の2例に特異な話か」
と言う事です。
的を絞ります。地頭町を富来と言う名に置き換えることはできないかと発想した場合、最も効果的なのは、藩政村名と町村制発足時の大字名およびその区域界を知ることだと思います。ですから、あまり古い時代に遡る地名由来は考えていないのです。また「○○村内××村と言うのが富来の2例に特異な話か」については、まったく特異な例ではなく、身近な宮城県にもたくさん転がっています。中には時代経過とともに本村と端郷の関係が逆転しているものもあります。現在は石巻市の一部になっていますが、江戸期の根岸村ノ内の渡波村は第1回人口集中地区調査で1万人を超す市街地に発展しているのに対し、本村の根岸は渡波市街地の在郷にあたる村落になりました。昔は根岸の中の渡波だったのに、今では渡波の中の根岸です。
[70779] で端郷の領家町村と高田村を引っ張り出したのは別の疑問あったからです。富来村が住所の上で地頭町村と領家町村に分離したのはいつか。小室村の中の高田村が小室と分かれて、地頭、領家と一緒になったのはいつか。これが判らなかったから釈然としなかっただけです。
[70786] むっくん さん
県令第23号(M22.3.8)によれば、牛下村、生神村、領家七海村、七海村、地頭町村、領家町村、高山村の7村が合併して富来村が発足しました。
ありがとうございました。明治22年の富来村発足直前には富来村がなかったのですね。すると、天保国絵図に描かれた富来村は、いつ、どこへ行ってしまったのでしょうか。ミステリーもまた楽しい。
[70834] EMM さん
うーん、結局富来の話に到達できなかった…書く内容はだいたい頭の中でまとまったんですが…
急を要するものでもないし、急がなくていいですよ。私も書き始まったら止められなくなって、こんな時間に・・・。