[70537]他 N-Hさん
[70544]他 みかちゅうさん
[70564]他 hmtさん
[70610] KKさん
[70592] futsunoおじさん
「保土ヶ谷」から盛り上がっている「ケ」の大小の件ですが、実際の駅名ではどうなっているのか、調べてみることにしました。
まずJRですが、
[70610]でKKさんの仰せの通り、JR東日本では全て大文字の「ケ」に統一。車内に掲げられている路線図でも、「市ケ谷」「茅ケ崎」のように全て「ケ」になっていました。他のJR各社のHPを見ても、どうやら「ケ」に統一されているようです。
次に私鉄ではどうなっているか、いくつか見てみると、
東武‥HPを見ると、
駅名検索では「鐘ヶ淵」「鎌ヶ谷」「鶴ヶ島」のように小文字の「ヶ」。
路線図(拡大するとわかります)を見てもやはり「ヶ」になっています。しかし、車内に出ている路線図では「鐘ケ淵」のように大文字になっており、統一が取れていません。
西武‥
駅一覧表を見ると、全て小文字の「ヶ」。
路線図でもやはり「ヶ」になっており、どうやら「ヶ」に統一されているようです。
小田急‥
路線図を見ると、こちらも「ヶ」が使われているようです。ただ、「各駅時刻表」の「
駅名指定」を見ると、「新百合ケ丘」のように大文字になっていましたのが気になりますが、ファイルを開くと「新百合ヶ丘」と「ヶ」になっているので、どうやらこちらも「ヶ」に統一されているのではないかと思われます。
京王‥こちらも
HPを見ると、路線図・駅名一覧共にやはり「ヶ」になっているようです。
名鉄‥「駅時刻表」や路線図では「ケ」になっているようですが、「停車駅案内」の図を見ると「
三好ヶ丘」「
巽ヶ丘」などは「ヶ」になっている一方、「か」と濁らない「
須ケ口」が「ケ」で表示されており、不統一が見えています。
近鉄‥
駅の情報から、ここもやはり「ヶ」に統一されているようです。
「三ヶ日」駅(
[70602][70605]hmtさん)がある天竜浜名湖鉄道を見ると、
HPを開くと全て「三ヶ日」に統一されています。このHPの中の「会社の歴史」にも、旧国鉄時代のことが書かれており、当時は「三ケ日」となっていたはずですが、ここでもやはり「三ヶ日」駅と表記されており、「三ケ日」から「三ヶ日」に改称された?ことについて一切書かれておらず、おそらく「なし崩し」的に「三ヶ日」になった?ように思えます。
時刻表ではどのように表記されているかを見ると、JTB版・JR版共に、JRの駅名は全て「ケ」に統一されています。JRのページの中に掲載されている旧国鉄転換の第三セクター路線でも同様に「ケ」になっており、「三ヶ日」駅も「三ケ日」と表記されています。一方、私鉄はどうなっているかを見ると、JTB版ではやはり全て「ケ」に統一。一方、JR版を見ると、東武や小田急などは「ケ」になっていますが、西武はなぜか小文字の「ヶ」。西武の公式表記に合わせたと思うのですが、それだと小田急が「ヶ」になっていないのがよくわかりません‥。結局、鉄道会社や時刻表さえ混乱しているということは、利用者から見ると「ケ」の大小など、ほとんど気にならない些細なこと(
[70610]KKさん)なのでしょう。
ところで「保土ケ谷」に戻りますが、「保土ケ谷」と言えば、東海道の最初の難所として知られた「
権太坂」。「箱根駅伝」では往路の2区・復路の9区、復路では最後の難所として、逆転劇など数々のドラマを生んでいる場所です。この「権太坂」の由来について、「江戸の坂 東京の坂」(横関英一氏著→
[69018])に興味深い記事がありましたので要約して紹介したいと思います。
その記事とは、「誉田坂と八幡」というタイトルで書かれているもので、かつて江戸・赤坂の紀州徳川家屋敷(現在の東宮御所・迎賓館の敷地一帯)の中にあった「誉田坂」にまつわる話です。江戸時代の初め頃、紀州徳川家の屋敷は南北二つの敷地に分かれており、この間に「誉田坂」という坂があって、この辺りは江戸の町が開ける以前から、千駄ヶ谷方面から赤坂・一ツ木方面に向かう街道筋になっていたそうです。しかし、明暦(1655-1658)の頃にこの二つに分かれていた紀州屋敷が合体され、この「誉田坂」は屋敷の敷地内に囲い込まれて消えてしまいます。これによって、今まであった街道は、紀州屋敷の北側を大きく迂回して外堀端に出て、そこから赤坂見附に下るようになります。これが現在の「
紀伊国坂」です。
この「誉田坂」の呼び名ですが、「誉田」という地名は千葉市など全国に数ヶ所あり、「ほんだ」と読むところが多いのですが、大阪府羽曳野市の「
誉田」は「こんだ」と読んでいます。この地には応神天皇を祭る「誉田八幡」があり、その北には応神天皇陵(と推定されている巨大古墳)があります。応神天皇は御名を「誉田別尊(ホム(ン)ダワケノミコト)」といい、各地の八幡様の祭神になっています。この河内の「誉田」について、「誉田天皇の陵があることに由来する地名で、「ホンダ」が本来の読み方で、後世「コンダ」と読むのは誤りであり、「ホ」と「コ」の横の音(母音)が相通ずるゆえになまったものか」と文献に書かれていることが紹介されています。これについて、
[70615]Issieさんのおっしゃるように
漢字受容から仮名の成立にかけての時代の日本語には h の音がなかったと考えられています(中略)日本語には h の音がなかったので,近似の音である k で受け入れた
ということで、おそらく「ホンダ」の発音が"Fonda"から"Honda"に変化してゆく過程で、Hの音に耳慣れなかった当時の人がこの発音を「コンダ」と聞き取ってこう表記したことから、これが後に"Konda"と発音されるようになったのではないでしょうか。
さて、赤坂のかつての「誉田坂」があった辺りには、昔、八幡様が祭られていたそうで、「誉田坂」の由来もこれから来ていると考えられます。ただ「誉田」をどう読んだのかは不明だそうです。この「誉田坂」の西、東宮御所と明治記念館の間の道には、「
安鎮坂」という坂がありますが、俗に「権田坂」とも呼ばれています。地図を見ると、この「権田坂」の西側に「
権田原」という交差点名もあります。「誉田坂」と「権田坂」はかつては一本の道であり、おそらく「こんだ」だの「ごんた」だのが混線してしまったもので、元は一つの坂ではなかったのかと横関氏は推測しています。この「権田坂」には、「信濃坂」という別名もあったそうです。「信濃町」の町名の由来になった永井信濃守の屋敷が側にあったのでこの名が付いたといいます。
「ゴンタ坂」「シナノ坂」というと、保土ケ谷の「権太坂」「品濃坂」の関係を思い起こします。現在は保土ケ谷から登ってゆく坂を「権太坂」と呼び、武蔵・相模国境の「峠」から最初に戸塚側に下ってゆく坂を「焼餅坂」、それに続いて下る坂を「品濃坂」と呼んでいるようですが、「江戸名所図会」では「品濃坂」について、「俗に権太坂という」とかかれており、また「峠」の近くにかつて八幡様があったといわれているそうで、「焼餅坂」はかつて「誉田(こんだ)坂」と呼ばれ、これが「権太坂」になまったのではないかと書かれています。ともかくこの「偶然の符合」、実に興味深く、意味深長な話です。
八幡様というと、鎌倉の鶴岡八幡宮。山形県鶴岡市は、かつてはこの八幡宮と同様に「つるがおか」と呼ばれていたのが、いつしか「が」抜きで読まれるようになったとか。
だいぶ遅いレスですが、
[70496]熊虎さん
水原
と来れば、「三原」。それに「鶴岡」、オールド野球ファンにはたまらない話‥
[70472]ペーロケさん
次に、「三ヶ日」からのつながりで。
青島
みかんのブランドに「青島みかん」があります。最初この名を聞いたとき、宮崎のみかんだと思ったのですが、静岡のみかんで、三ヶ日みかんの一品種だそうです。 「青島」とはこの品種を開発した人の名から来ているとかで、「青島」という苗字も静岡県中部の特有の苗字で、特に藤枝市に多く市内ベスト5に入ります。藤枝市に
青島という地名があり、ここがルーツとされています。