小坂鉱山を経営することになった元奇兵隊員・藤田伝三郎
[67425]のことを続けます。
政府高官とのコネを利用して金儲けをし、ねたみを買った御用商人の藤田は、長州閥追い落としの標的にされ、贋札使いの疑いで逮捕されるピンチを招きました。
しかし、彼は明治17年頃から、日本の産業の根幹に係る二大事業に専念して汚名をそそぐことになります。
その二大事業とは、小坂を始めとする鉱山事業と、児島湾干拓事業です。
脇道に入りますが、ここで藤田組による児島湾干拓事業について触れておきます。
児島湾の大規模な干拓事業は、17世紀末に池田光政の家臣・
津田永忠 によって実現し、幕末には興除新田
[62064] が造成されました。
明治になると、失業した士族が結社を作り、大規模な干拓を政府に働きかけました。明治14年に内務省のお雇い土木技師の
ローウェンホルスト・ムルデル が児島湾干拓の基本設計書を作成しましたが、資金難の政府は、干拓事業を実施することができませんでした。
事業主を求めた士族結社が行き着いた先が藤田組でした。藤田としても採算の見通しは持てなかったと思いますが、大きな決断して明治17年出願。小坂払い下げの年です。
明治22年の認可後も防災対策・漁業補償などのハードルを越す必要があり、着工できたのは明治32年(1899)でした。なお、ムルデルは利根運河通水直前の1890年に既に帰国しています。
藤田伝三郎も第2区の完成を見る直前の明治45年(1912)にこの世を去りました。
しかし、この地域に新設された岡山県児島郡
藤田村 [53951]には、広大な藤田農場が生まれました。
第1区から第5区(
計画図参照)までは藤田組単独事業で、1905年から1950年にかけて完成。戦後の農地改革と共に第6区、第7区は農林省の国営事業として引き継がれ、1963年(着工から65年目)に総計55km2(5500町歩)の干拓事業が完成しました。
児島湾の一部は堤防で海から仕切られ、淡水化した「児島湖」になりました
[37037]。
児島湾干拓事業の初期には、
本山彦一pdf が藤田組に在籍して尽力しています。後に毎日新聞を代表的な全国紙に育てた人物です。
児島湾干拓はこのくらいにして鉱山業に戻ります。
「小坂鉱山」を手に入れた藤田組ですが、やがて鉱石の「土鉱」の埋蔵量が涸渇して、銀の生産量は明治25年頃から下降線をたどります。追いかけて明治30年に「金本位制」が採用され、銀の価格は暴落します。藤田組は赤字に転落。
それを救ったのが、新たに豊富な資源「黒鉱」の精錬を可能にした技術開発でした。製品としては、銀から銅への転換ということになります。これについては次回(久原房之助)で改めて記します。
大正4年(1915年)には北鹿地区内で同じく「黒鉱」を産出する花岡鉱山(大館市)を買収。その翌年には岡山県の柵原鉱山を買収しています。後者は硫酸原料の硫化鉄鉱を産出し、片上鉄道
[57376]による鉱石輸送が行なわれていました。
昭和になり戦時色が強まると、非鉄金属は統制下に置かれ、遂に1943年藤田組の事業は国策会社の帝国鉱業開発に強制的に吸収されました。
戦後、復帰した藤田組は「同和鉱業」と社名変更し、「藤田」の名が消えました。“和衷協同"という言葉に由来。
戦後の発足ながら「藤田」を名乗る会社は「藤田観光」です。東京・目白の「椿山荘」は山縣有朋の私邸でしたが、名園を保存したいという意向を受けて藤田平太郎(伝三郎の息子)が購入したものです。
山縣有朋は明治陸軍の大ボスですが、市制・町村制制定の明治21年当時の内務大臣でもあり、落書き帳の記事にも登場します。藤田との昔の関係では奇兵隊の軍監でした。
藤田伝三郎は、明治期に数々の事業を手がけただけでなく、調停者としての能力もありました。関西財界の重鎮(大阪商法会議所会頭)になり、民間人として初の「男爵」の位を得ました。