[63001] 白桃 さん
共武政表(明治8年)を見ていると、遠江に…「浜名港」の名が見えます。しかも、6,438人と並みの人口ではありません。
新居の中に浜名村の名前が見えます。しかし、後の時代の人口統計から類推するに、どうもソコとは違うような気がします。
明治19年の「市街名邑…」による人口1733の浜名村(現在の新居町浜名)は、歌枕として名高い「浜名の橋」(862年架橋)があった場所です。11世紀の清少納言も、「橋コレクション」に集録しています。“橋は…浜名の橋…”(枕草子62段)。
明応地震以前の浜名湖図
文献pdf によると、当時は淡水湖(遠つ淡海)だった浜名湖の南端(鷲津の東くらいの位置)から流出する浜名川は、南流した後で西に向きを変えて浜名村を経て遠州灘に注いでいました。
中世の東海道が浜名川を越えた「浜名橋」付近には、「橋本宿」がありました。
明応7年(1498)の東海地震でその1里ほど東で海岸が切れ、流入した海水により図のアミカケ部分が水没。拡大した浜名湖のために陸路の通行が不可能になりました。切れてから500年以上たっても「今切」
[26278]という名はさておき、舞阪との間は渡船になり、東海道の宿場だった浜名村(橋本宿)は、新居宿にその地位を譲りました。
今切湊や新居関所が設けられて近世東海道の交通の要地となった新居宿は、元禄の暴風雨と宝永の地震に相次いで被災し、その都度位置を変えた結果、
現在地になりました。
その今切湊も、宝永4年(1707)の大地震や津波の影響で大型船の利用が困難になってゆき、安政地震を経て明治を迎えました。
こんなことを調べているうちに、平凡社の日本歴史地名大系22巻1255頁に、次の記載があるのを見つけました。
明治7年(1884)今切湊は浜名港と名称を変え、近代的な港になった。
まさしく共武政表(明治8年)の時代です。遠江国敷知郡「浜名港」と呼ばれたのは、今切湊・新居宿のようです。
問題とされた人口6438人もあったのか?
町村制施行により新居宿・浜名村・内山村が新居町になった明治22年末、
静岡県敷知郡新居町 の人口は5871人でした。新居宿だけなら4500人ほどで
[63019]、江戸時代(正徳2年=1712に4103人)の水準とあまり変りません。
町村制施行は、東海道鉄道の浜松以西が開通した明治21年の翌年ですが、馬郡(舞阪)-鷲津間に新居町駅(1915年開業)が設けられていないことが示すように、新居宿の拠点性は既に失われていたのでしょう。
共武政表はこれよりもずっと前、港湾整備によって今切湊が近代的な浜名港として再生した時代ですから、新居宿の市街はもっと賑わっており、6000人を越えていたとしても不自然ではなかろうと考えます。
結局のところ、「浜名港」は「浜名村」ではなかったが、同じ新居町だったことになります。
ここで、先に提示した三ヶ日説
[63017]につき補足しておきます。
三ヶ日は伊勢神宮領である「浜名神戸」の中心地です。
浜名神戸 の設置は天慶3年(940)と伝えられますが、それよりも前から「浜名県主」が支配する領域で、これも長~い歴史のある「浜名」です。
そして、明治22年の町村制で敷知郡「西浜名村」を名乗り、明治22年末人口が6695人と6000人台を数えます。
それは良いのですが、上記西浜名村の人口は、旧三ヶ日村プラス13ヶ村もの合計です。新居宿プラス2ヶ村で5871人だった新居町に比べて周辺の村で稼いで6000人を超えた感じです。どうも
明治8年の時点で 三ヶ日村>新居宿 というのは、にわかに信じがたい
という
[63019] 稲生さん の指摘が正鵠を射ているようです。
[63024] 千本桜 さん
宇布見から入野を経て菅原町の河岸に至る川沿いは明治の一時期、蒸気船によって東海道の大動脈の役割を果たしました。
と書いてあるHP(原資料)にぶつかりました。そうか、宇布見は船運で浜松と結ばれていたのか。その時代と共武政表(明治8年)の時代が合致していれば、宇布見=浜名港も有り得る話
浜松宿と浜名湖とを結ぶ堀留運河が完成して、浜松と浜名湖西岸の新所村(現・湖西市)との間に蒸気船が運航されたのは明治4年ですから、まさに時代は合致します。
しかし、宇布見(雄踏町は「おぶみ」でなく「ゆうとう」と音読み)が、「浜名」を名乗った事例を見出すことはできませんでした。