都道府県市区町村
白桃研究所長による人口テーマ専門誌

不思議のクニの名邑(マチはラビリンス)

トップ > 白桃市町村人口研究所 > 不思議のクニの名邑(マチはラビリンス)
記事数=41件/更新日:2014年10月29日

明治期の「日本地誌提要」、「共武政表」や「市街名邑及町村二百戸以上戸口表」に出てくる“名邑”や“輻輳地”を見ていると、人口に関する疑義が発生したり、ソコって今の何処に当たる?のように場所の特定が簡単に出来ないことがあります。
でも、このように何かスッキリしない、という話、とても好きなんですね。「邪馬台国探し」みたいで。
で、そういう「まち」の迷路、迷宮に入ったスキ者の記事を集めました。(解決できていないのもあります。)
一応、浜名港、石巻・湊、下之一色、花巻・川口、磐井、日和佐の順です。

★推奨します★(元祖いいね)

記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[63001]2008年1月1日
白桃
[63017]2008年1月2日
hmt
[63019]2008年1月2日
稲生
[63024]2008年1月3日
千本桜
[63273]2008年1月8日
hmt
[63280]2008年1月8日
千本桜
[63434]2008年1月16日
oki
[63503]2008年1月20日
千本桜
[68832]2009年3月15日
YT
[68834]2009年3月15日
白桃
[68874]2009年3月19日
千本桜
[68890]2009年3月20日
YT
[68897]2009年3月20日
白桃
[68954]2009年3月21日
千本桜
[68958]2009年3月21日
YT
[69022]2009年3月26日
千本桜
[67791]2008年12月31日
白桃
[67796]2008年12月31日
YT
[81182]2012年7月25日
hmt
[81186]2012年7月26日
白桃
[80322]2012年2月23日
hmt
[80323]2012年2月23日
白桃
[80327]2012年2月24日
hmt
[80328]2012年2月24日
YT
[80330]2012年2月25日
白桃
[80332]2012年2月25日
hmt
[80333]2012年2月25日
hmt
[80334]2012年2月25日
YT
[80336]2012年2月26日
YT
[80339]2012年2月26日
YT
[80346]2012年2月28日
右左府
[80347]2012年2月28日
YT
[81048]2012年7月8日
千本桜
[81073]2012年7月12日
白桃
[81088]2012年7月13日
千本桜
[81095]2012年7月14日
白桃
[81192]2012年7月28日
YT
[73411]2009年12月27日
hmt
[73445]2009年12月30日
oki
[82393]2012年12月29日
白桃
[82395]2012年12月30日
白桃

[63001] 2008年 1月 1日(火)02:04:28白桃 さん
浜名港
新年早々の質問で恐縮ですが、共武政表(明治8年)を見ていると、遠江に人口千人以上の都邑に「浜名港」の名が見えます。しかも、6,438人と並みの人口ではありません。現在の静岡県域においては、静岡、浜松駅、沼津駅、島田駅に次いでの第5位なんですから。
共武政表が地域人口統計書として決して完璧ではないことは理解しておりますが、全く信頼できないものではないと考えます。
「浜名港」とはいったい、今のどこなんでしょうか?新居の中に浜名村の名前が見えます。しかし、後の時代の人口統計から類推するに、どうもソコとは違うような気がします。また、新居と舞阪を併せた人口でもないように思えます。舞阪駅は1,822人と掲載されていますし・・・
このあたりにお詳しい方、お教え下さいますようお願い申し上げます。

ついで:真壁郡(常陸)の城廻村、田中村もどこだか特定できません。
[63017] 2008年 1月 2日(水)18:20:16hmt さん
三ケ日みかん
[63001] 白桃 さん
共武政表(明治8年)を見ていると、遠江に人口千人以上の都邑に「浜名港」の名が見えます。しかも、6,438人と並みの人口ではありません。

このあたりに詳しいわけではありませんが、「浜名港」とは、浜名湖の北西部に連なる猪鼻湖(いのはなこ)の奥、「三ヶ日」を中心とする港町ではないでしょうか。
2005年に浜松市に合併する前は、静岡県引佐郡三ケ日町でした。

履歴を記すと、明治22年(1889)の町村制により、三ヶ日村など13ヶ村から「西浜名村」が、都筑村など5ヶ村から「東浜名村」が成立。
明治29年の 静岡県下郡廃置法律 により、それまで浜松と同じ敷知(ふち)郡だった西浜名村・東浜名村は引佐(いなさ)郡になりました。
大正11年(1922)に 西浜名村が町制・改称。その後昭和30年(1955)に東浜名村と合併。「ケ」の字が大きく表示されてしまったのは、この昭和合併の際の告示ではないかと思われます。

…というわけで、明治8年には 三ヶ日は敷知郡だったので、共武政表 の敷知郡「浜名港」という記載と矛盾しません。

人口ですが、明治19年の市街名邑…戸口表の静岡県は12、28、53コマ なのですが、そのいずれにも三ヶ日村が見当たらないことが気になります。都筑村の1532人はあるのですが…

ずっと後になりますが、明治41年末の人口 は、引佐郡西浜名村8940、東浜名村4761と、かなり大きな数字になっています。比較までに、浜名郡浜松町30308、舞阪町3396、新居町7658。
[63019] 2008年 1月 2日(水)22:23:07【1】稲生 さん
新年のご挨拶&浜名港
落書き帳の皆様、明けましておめでとうございます。

昨年は、年頭のご挨拶をする機会を逃してしまい、気がつけば浜松市の政令指定都市施行の5日前の 3月27日[57442] が初登場となってしまいました。
それでも、地元・浜松市の話題、趣味の郵便局めぐりの話題と、それにより訪問した先の話題(相模国や尾張西部など)など、その時々に思うところを発言できたのかな?と思いました。

2007年の経県値は 19都府県での63点でして、生涯経県値としては、2006年より5点アップして128点となりました。郵便局めぐりは、千の大台を突破して、1079局もまわることができました。
今年も、私・稲生の活力源でもある郵便局めぐりをはじめとした趣味活動には、なるべく多く時間を割いて行きたいものと思っていますが、どうなることやら?(大晦日まで仕事でして、元旦の休みの次の休日は8日9日となっております。ガンバレ、ガンバレ)

話変わって、
[63001] 白桃 さん
[63017] hmt さん
明治8年の時点で 三ヶ日村>新居宿 というのは、にわかに信じがたいのですが、新居宿の明治22年時点の人口は4500人ほどでしたから、新居宿が×ならば、三ヶ日村=浜名港ということになるのでしょうね。

参考:現在の 浜名港
[63024] 2008年 1月 3日(木)03:57:09【2】千本桜 さん
浜名港
[63001]白桃さん
「浜名港」とはいったい、今のどこなんでしょうか?
浜松市雄踏町宇布見は考えられないでしょうか。明治時代の市街地を塗りつぶした簡略な地図を見たことがあります。それによると浜名湖周辺では宇布見村の市街地が一番大きかったような記憶があります。また、1954アメリカ製地図では、浜名湖に面した集落で市街地として描かれているのは新居と宇布見だけです。いま、昭和56年発行の国土地理院50,000分の1地形図を見ています。この地形図には宇布見の市街地(ハッチ表示された家屋密集地)が舞阪、新居、鷲津、三ヶ日、気賀よりも大きく描かれています。でも、周辺部への家屋分布の波及があまり見られず、鷲津、新居、舞阪に比べて発展が停滞しているような雰囲気が感じ取れます(念のために、現在のことではなく昭和56年の地形図を見ての印象です)。

こうして、市街地という観点から推察すると、浜名港とは宇布見のことではないだろうかとも思えるのですが、確信は全くありません。たぶん違っている可能性の方が大きいかもしれません。ですが、共武政表には浜名港の物産は「鰻○」とあります。○の部分が潰れていて読めないのですが、私としては鰻から連想するのは奥浜名ではなく、雄踏(宇布見)、舞阪、新居あたり。舞阪でもなく新居でもないとすると、浜名港は宇布見(雄踏)かな?と・・・。

でも、鰻だけで人口数千人の港町が成立するとは思えません。宇布見が人口6,438人の浜名港であるためには、他に何らかの都市機能を集積しなければ成り立たないことだと思います。そんなこんな考えているうちに、
宇布見から入野を経て菅原町の河岸に至る川沿いは明治の一時期、蒸気船によって東海道の大動脈の役割を果たしました。
と書いてあるHPにぶつかりました。そうか、宇布見は船運で浜松と結ばれていたのか。その時代と共武政表(明治8年)の時代が合致していれば、宇布見=浜名港も有り得る話になります。そして東海道本線の開通により宇布見の都市役割は短期間で終焉し人口減少に進んで行ったと勝手なストーリーまで考えましたが、想像、空想、妄想ですから当てにしないでください。夢は夜ひらくというか、妄想は夜さえるようですが、間違っていても「みんな夢の中」の♪高田恭子です。ところで、今夜は某温泉の高級ホテルに泊まって赤いチャンチャンコを着せられます。ついに来たか。

昭和56年発行の国土地理院25,000分の1地形図を昭和56年発行の国土地理院50,000分の1地形図に訂正しました。
[63273] 2008年 1月 8日(火)14:14:18hmt さん
「浜名港」再考・やはり現在の新居町か
[63001] 白桃 さん
共武政表(明治8年)を見ていると、遠江に…「浜名港」の名が見えます。しかも、6,438人と並みの人口ではありません。
新居の中に浜名村の名前が見えます。しかし、後の時代の人口統計から類推するに、どうもソコとは違うような気がします。

明治19年の「市街名邑…」による人口1733の浜名村(現在の新居町浜名)は、歌枕として名高い「浜名の橋」(862年架橋)があった場所です。11世紀の清少納言も、「橋コレクション」に集録しています。“橋は…浜名の橋…”(枕草子62段)。

明応地震以前の浜名湖図文献pdf によると、当時は淡水湖(遠つ淡海)だった浜名湖の南端(鷲津の東くらいの位置)から流出する浜名川は、南流した後で西に向きを変えて浜名村を経て遠州灘に注いでいました。

中世の東海道が浜名川を越えた「浜名橋」付近には、「橋本宿」がありました。
明応7年(1498)の東海地震でその1里ほど東で海岸が切れ、流入した海水により図のアミカケ部分が水没。拡大した浜名湖のために陸路の通行が不可能になりました。切れてから500年以上たっても「今切」[26278]という名はさておき、舞阪との間は渡船になり、東海道の宿場だった浜名村(橋本宿)は、新居宿にその地位を譲りました。

今切湊や新居関所が設けられて近世東海道の交通の要地となった新居宿は、元禄の暴風雨と宝永の地震に相次いで被災し、その都度位置を変えた結果、現在地になりました。
その今切湊も、宝永4年(1707)の大地震や津波の影響で大型船の利用が困難になってゆき、安政地震を経て明治を迎えました。

こんなことを調べているうちに、平凡社の日本歴史地名大系22巻1255頁に、次の記載があるのを見つけました。
明治7年(1884)今切湊は浜名港と名称を変え、近代的な港になった。

まさしく共武政表(明治8年)の時代です。遠江国敷知郡「浜名港」と呼ばれたのは、今切湊・新居宿のようです。
問題とされた人口6438人もあったのか?
町村制施行により新居宿・浜名村・内山村が新居町になった明治22年末、静岡県敷知郡新居町 の人口は5871人でした。新居宿だけなら4500人ほどで[63019]、江戸時代(正徳2年=1712に4103人)の水準とあまり変りません。
町村制施行は、東海道鉄道の浜松以西が開通した明治21年の翌年ですが、馬郡(舞阪)-鷲津間に新居町駅(1915年開業)が設けられていないことが示すように、新居宿の拠点性は既に失われていたのでしょう。
共武政表はこれよりもずっと前、港湾整備によって今切湊が近代的な浜名港として再生した時代ですから、新居宿の市街はもっと賑わっており、6000人を越えていたとしても不自然ではなかろうと考えます。

結局のところ、「浜名港」は「浜名村」ではなかったが、同じ新居町だったことになります。

ここで、先に提示した三ヶ日説[63017]につき補足しておきます。
三ヶ日は伊勢神宮領である「浜名神戸」の中心地です。浜名神戸 の設置は天慶3年(940)と伝えられますが、それよりも前から「浜名県主」が支配する領域で、これも長~い歴史のある「浜名」です。
そして、明治22年の町村制で敷知郡「西浜名村」を名乗り、明治22年末人口が6695人と6000人台を数えます。

それは良いのですが、上記西浜名村の人口は、旧三ヶ日村プラス13ヶ村もの合計です。新居宿プラス2ヶ村で5871人だった新居町に比べて周辺の村で稼いで6000人を超えた感じです。どうも
明治8年の時点で 三ヶ日村>新居宿 というのは、にわかに信じがたい
という [63019] 稲生さん の指摘が正鵠を射ているようです。

[63024] 千本桜 さん
宇布見から入野を経て菅原町の河岸に至る川沿いは明治の一時期、蒸気船によって東海道の大動脈の役割を果たしました。
と書いてあるHP(原資料)にぶつかりました。そうか、宇布見は船運で浜松と結ばれていたのか。その時代と共武政表(明治8年)の時代が合致していれば、宇布見=浜名港も有り得る話

浜松宿と浜名湖とを結ぶ堀留運河が完成して、浜松と浜名湖西岸の新所村(現・湖西市)との間に蒸気船が運航されたのは明治4年ですから、まさに時代は合致します。
しかし、宇布見(雄踏町は「おぶみ」でなく「ゆうとう」と音読み)が、「浜名」を名乗った事例を見出すことはできませんでした。
[63280] 2008年 1月 8日(火)23:35:42【2】千本桜 さん
浜名港はやはり現在の新居町かも知れない
[63273]hmtさん
遠江国敷知郡「浜名港」と呼ばれたのは、今切湊・新居宿のようです。
浜名港は新居ではないことを前提に宇布見と考えましたが、どうやら新居こそが浜名港のように思えてきました。古い地形図を探しているうちに浜名湖に面した主要市街地の発展過程が見てとれるHPを見つけました。明治8年当時の市街地が見れたら良いのですが、有りませんので明治23年の市街地を見てみます。これによると新居の市街が最も大きくて都市らしい形をしています。三ヶ日雄踏(宇布見)舞阪は新居に比べて小ぶりで、静岡、浜松駅、沼津駅、島田駅に次ぐ人口を有していたとは考えにくい形の町並みです。また、現在の鷲津駅付近に至っては人家の少ない寂しい所だったようです。新居の市街地は北部の新居宿と南部の浜名村の町並みが合体してできているように見えます。いつの頃から両者の町並みが連続状態になったか定かではありませんが、ひょっとして明治8年の浜名港6,438人は新居宿と浜名村の合算人口ではないかと思えてきました。と申しますのは、新居宿単独の人口なら「新居宿」と記せば良いわけで、それを敢えて「浜名港」と記すのは「新居宿」以外の区域をも含んでいたからではないかと思うのです。明治19年の人口は、4,082人の新居宿と1,733人の浜名村を併せて5,815人です。明治8年の6,438人に近い数字です。私は今、想像を楽しんでいる訳でして、間違っていたら笑って許して下さい。
東海道鉄道の浜松以西が開通した明治21年の翌年ですが、馬郡(舞阪)-鷲津間に新居町駅(1915年開業)が設けられていないことが示すように、新居宿の拠点性は既に失われていたのでしょう。
明治21年の鉄道開通時に浜松、舞阪、鷲津に駅が設置されて新居に設置されなかったのは地形要因によるものではないでしょうか。明治23年の地形図から判断すれば、どう見ても舞阪、鷲津より新居が上位都市です。鷲津には町並みすら存在しない状態でした。しかし新居には駅を設置する適地が無かった。それゆえに出遅れたのだと思います。新居町駅は大正4年に設置されましたが、それは浜名湖を埋め立ててこそ可能になったことで、明治21年の開通時には埋め立ててまで駅を設置することができなかったのでしょう。明治23年と大正6年の地形図を見比べて、そのようなことを考えました。これも想像ですから事実誤認があったら笑って許して下さい。こうして鉄道(東海道本線)と浜名湖沿岸市街地の係わりを眺めていると、損したのは新居で、得したのは鷲津のように思えてきました。鷲津は未訪地ですが、Yahoo!地図情報の航空写真で見る鷲津駅前は水田ばかりだった鉄道開通前に比べて随分都市化したものですね。

【訂正1】新居駅を新居町駅に訂正しました。
【訂正2】明治23年、大正6年、平成2年の三時代における浜名湖沿岸の市街地を見てとれるHPを貼りましたが、どうもリンク不可のHPのようです。「浜名湖展覧会パンフおねがい」と打ち込んで検索すると「浜名湖」というHPが出ますので、そこから入ってください。細江、三ヶ日、入出、鷲津、新居、舞阪、雄踏、村櫛、佐鳴湖の市街地の変化を見ることができます。
[63434] 2008年 1月 16日(水)04:03:27oki さん
その後の共武政表、および外海浦など
ご無沙汰しております。okiです。前回の書き込み(去年の6月ですね)以降、落書き帳を見られない状況になっていたのですが、年末になって何とか閲覧を再開しました。十番勝負の最中ということで、逆立ちしても1問も分からない身としてはただ傍観していたのですが、共武政表がらみの話題がちらほらしているので、話題に加わらせてください。

1.共武政表について
[63431] hmt さん 共武政表の戸数は連担接続せしもの
で引用された「陸軍省達第19号」には、「反別人口物産等之増減年末毎ニ詳細取調可差出」とあります。近代デジタルライブラリーに収載された共武政表は第1回のもので、それ以降、1882年(明治15)までに3回(合わせて4回)編纂されています。さらに、「徴発物件一覧表」と改称し、1884年(明治17)から1911年(明治44)まで発行されているようです。

2.外海浦、あるいは近世の漁村について
このうち、第4回共武政表(明治14年1月1日調)によると、外海浦の人口は次のようになっています。
外海浦内の小地名人口備   考
外海浦ノ内字深浦 940東外海浦
同浦ノ内字岩水浦 287(旧城辺町)
同浦ノ内字垣内浦 179
同浦ノ内字久良浦 1018計2424人
同浦ノ内字船越浦 1029西外海浦
同浦ノ内字久家浦 516(旧西海町)
同浦ノ内字樽見浦 254
同浦ノ内字福浦  633
同浦ノ内字外泊浦 190
同浦ノ内字中泊浦 396
同浦ノ内字内泊浦 943計3961人
          総計6385人

第1回共武政表(明治8年)で6,280人ですが、第4回でもそれに近い数字です。これらは、東は高知県境の愛南町(旧城辺町)脇本から西は船越半島西端の高茂(旧西海町)に至る非常に広い範囲の海岸部を含む地域で、[63423]千本桜さんの仰るとおり、直線距離でも東西18キロメートル以上あります。ただし、
行政的には大漁村かもしれませんが、集落的には小漁村だったのでしょう
とは必ずしも言えないと思います。人口1,000人前後の字が4つもありますが、1,000人の人口を数える集落を小漁村とは言わないでしょうからね。
むしろ興味深いのは、現在では過疎地の最たる地域とも言うべき四国西南部の海岸部に、明治初期には、これだけの人口を抱える漁村が成立していたと言うことです。これは、前に白桃さんが言及されていたように、伊予国宇和郡だけでなく瀬戸内沿岸に共通してみられる現象です。そして、その多くが、
[63420]白桃さん 後に都市に成長していく事例はごく少数
であるのも事実です。
この背景には、明治前期までの漁村が、単なる漁労集落ではなく、当時の物流の主要手段であった水運と密接に結びついた存在だったことがあると考えられます。江戸時代には、米はもちろんのこと塩、酒、藍、紅花等々のさまざまな商品が、水運を通じて全国から天下の台所である大阪に集められ、さらに大消費地である江戸に送られていました。海岸部に位置する漁村、特に流通の大動脈であった瀬戸内海周辺地域の漁村は、離島も含め、それらの海運に、船や水夫の提供という形で関わっていたと考えられます。また、漁村自体が交易の小センターで、自村の保有する廻船を通じ、後背地の農山村と全国の市場とを結ぶ役割を担っていたことも想定されます。要するに、漁村というのはその地域の交通と商業の拠点であり、農村に比べ、狭い地域に多数の人口を養うことが可能な存在だったということです。
近代になってこれらの漁村の多くが衰退したのは、物流の主体が鉄道に取って代わられたため、広い後背地を持つ有力な港町以外は、以前の拠点性を発揮し得ず、単なる漁労集落に戻ってしまったからではないか、というのが私の考えです。

3.浜名港
浜名港についてはすでに決着がついていますが、補足的に第4回共武政表による人口データをご呈示します。
地 名 人口備考
新居宿 3837
浜名村 1622
中之郷村1107
内山村  329計6895人
上記が、現在の新居町を構成する4大字の、明治14年時点での人口です。第1回が6,438人であることを考えると、浜名港とは、新居宿のほか、町屋が連担していた浜名村、中之郷村を指す(上記では6,566人)ものだと思われます。内山村は浜名・中之郷村と同様に明治合併時に合併していますが、純農村の趣が強く、浜名港には含まれていないのではないか、と考えます。

4.真壁郡城廻村、田中村
城廻村は、現在の下妻市下妻乙である、と断言できます。田中村は筑西市(旧下館市)甲の東南部から丙にかけての地域だと思われますがが、正確な範囲は不明です。
幕末以降総覧によると、城廻村は明治15年に、東・西・南当郷村とともに下妻町に合併されています。このとき、もしくはそれ以降に、大字名として旧村ではなく甲乙丙丁戊が設定されたと考えられます。ちなみに、城廻村以外は、下妻甲が旧下妻陣屋の所在地で合併時の下妻町、以下、丙が西当郷村、丁が南当郷村、戊が東当郷村と見られます。それ以外に本城町、本宿町などの住居表示されたらしい地名があり、そのかなりの部分が旧城廻村と推定されますが詳細は不明です。
田中村は、同じく明治15年に西郷谷村とともに旧下館城下に合併されており、同様に旧村名が消えて甲、乙、丙の大字が設定されています。下館城は現在の下館小学校周辺ですが、城下町はごく狭くて大字甲の北側に留まると見られ、甲の南東部および大字丙が田中村、甲の南西部と乙が西郷谷村だろうと思います。このように判断する根拠は、大字甲のほぼ中央に田中稲荷神社が存在すること、丙の南端に当たる下館駅周辺地域が、統計GISの大字区分地図で田中町になっていることですが、確証はありません。

以上、共武政表がらみの簡単なご報告です。
[63503] 2008年 1月 20日(日)10:48:49千本桜 さん
共武政表の気仙沼、石巻、涌谷、金ヶ瀬など
明治8年の共武政表によると陸前国で仙台に次ぐ人口は気仙沼村の11,377人。信じ難い数字です。たぶんこれには気仙沼村に隣接する鹿折、新月、松岩各村の人口が含まれているはずです。もしかすると階上村も含まれているかもしれません。根拠は明治15年頃の人口が気仙沼村4,523人、鹿折村2,239人、新月村2,721人、松岩村2,549人だからです。明治8年当時、気仙沼村と周辺村の町並みが連担状況にあったとは考えられず、なのにどうして周辺村を含めた人口になっているのか不思議です。

気仙沼村と相反する扱いになっているのが石巻村です。明治8年の共武政表には石巻村としての人口記載は無く、石巻村ノ内「港駅」5,121人となっています。でも、当時のことを思えば石巻はもっと大きな都市であったはずで、同表に記載された門脇村ノ内「港」2,605人と連担市街を形成し、さらに北上川対岸の湊村2,599人とも一体感のある都市を形成していたと思われます。これを併せると石巻の人口は実質10,000人以上になりますから、仙台に次ぐ陸前第二の都市だったことは間違いありません。

石巻と同じような扱いをされたのが涌谷村です。明治8年の共武政表には涌谷村1,510人、馬場谷地村4,994人と別々に記してあります。涌谷村は涌谷城があった村で、馬場谷地村は江合川を挟んで涌谷城の対岸に発達した宿駅および城下町です。思うに、江合川で間断されるとはいうものの両村の町場は一体化していたはずで、新居宿と浜名村(その他)が連担町屋を理由に人口が合算されるなら、馬場谷地、涌谷両村の人口も合算して6,0509人と扱われても良かったのではないかと思う次第です。この馬場谷地と涌谷の関係は面白いというか少々複雑で、明治22年に馬場谷地村は単独で町制施行し涌谷町を名乗りました。そして、旧来の涌谷村は上郡村、下郡村と合併して元涌谷村になりました。こうして見ると涌谷は大きな町でしたね。今では逆転してしまいましたが、私が初めて涌谷の中心街(旧馬場谷地村)を見た時は大河原よりしっかりした都市に思えたものです。それから、馬場谷地という地名ですが今ではほとんど通用しません。涌谷出身の人に「馬場谷地出身だね」といったら、「馬場谷地って何のことよ」というような顔をされたことがあります。

明治8年の共武政表に記載された中からマイナーな感じの邑を挙げれば、陸前国の南部では金ヶ瀬駅が筆頭ではないかと思われます。金ヶ瀬は平村の内に形成された宿駅ですから家屋は連担していますし、国土地理院の地形図で見ると結構大きな町場に見えるのですが都市と呼べるほどのものではありません。在が狭いから流入人口が少ないのです。地形図を眺めて同規模に見える東北地方の町場の中では、もっとも静寂さを保っていた町並みのはずです。でも、近頃は郊外型大規模店ができて静寂な町並みを車がどんどん走るようになりました。この、村名「平」と宿駅名「金ヶ瀬」のように村名と宿駅名が異なる場合、昔の人は村名よりも宿駅名を強く意識していたのではないかと思えてならないのです。
[68832] 2009年 3月 15日(日)14:45:55YT さん
湊村
[68830] [68825] 白桃さん

今週後半は忙しく、北陸地方以降はまだ再チェックが終わっていません。なお名邑・県庁・支庁の記載順は、旧国内の郡の順番に並べ直しています。

近江の西大路、陸前の原町に関しては、自分も明治8年の『共武政表』との比較から、独立した名邑だとは確認していました。単に『日本地誌提要』の活字の大きさのエラーで、本当は別個の項目なのだと。しかしながら石巻の人口をチェックしてみると、明治8年の『共武政表』の方では、石巻村内港駅5,121人、門脇村内港2,605人、港村2,599人を合計すると丁度10,325人となり、『日本地誌提要』の人口と一致してしまいます。それでいながら『日本地誌提要』では石巻の記述の真後ろに湊村の人口を載せていますが、これだと『日本地誌提要』の湊村と『共武政表』の港村は別なのか?

ということで、石巻・湊村の扱いに迷い、念のために西大路と原町に関しても、記述を追加しました。原町と湊村については、『日本地誌提要』では県庁・支庁としての仙台、石巻の項目に連なって載っています。

2.[68794]で仙台の人口が51,991人となっておりますが、51,998人の誤記ですね。

ありがとうございます。誤記です。

もともと『日本地誌提要』を探すきっかけになったのは、『統計集誌』という雑誌のバックナンバーに『日本地誌提要』を典拠とする明治6年1月1日調の人口1万人以上の都邑表を見つけたからで、そこに載っている人口をまとめたのが最初でした。そこから遡って『日本地誌提要』を見つけ、『統計集誌』の誤記を訂正したはずだったのですが・・・仙台に関しては原町の問題を含めて何度も目を通しているはずですがまだ漢数字には慣れていないようです。

3.[68793]の美濃「上有方」は「上有知」の誤記ですね。

誤記です。
[68834] 2009年 3月 15日(日)19:27:13白桃 さん
Re:湊村
[68832]YT さん
明治8年の『共武政表』の方では、石巻村内港駅5,121人、門脇村内港2,605人、湊村2,599人を合計すると丁度10,325人となり、『日本地誌提要』の人口と一致してしまいます。それでいながら『日本地誌提要』では石巻の記述の真後ろに湊村の人口を載せていますが、これだと『日本地誌提要』の湊村と『共武政表』の湊村は別なのか?
ウ~ン。頭が痛くなってきました。
また、話は少し古くなりますが、
[63503]千本桜さん
明治8年の共武政表には石巻村としての人口記載は無く、石巻村ノ内「港駅」5,121人となっています。でも、当時のことを思えば石巻はもっと大きな都市であったはずで、同表に記載された門脇村ノ内「港」2,605人と連担市街を形成し、さらに北上川対岸の湊村2,599人とも一体感のある都市を形成していたと思われます。
「日本地誌提要」の湊村と「共武政表」の湊村は同一のものかな・・・???
でも、それなら何故「日本地誌提要」の湊村の人口が2,221人になっているのか。(湊村は、明治22年に石巻町と稲井村に分割されていますが、これと関連するのか・・・)
また、石巻村の「港駅」以外の人口と門脇村の「港」以外の人口はどこに行ってしまったのか・・・???
[68874] 2009年 3月 19日(木)06:51:09千本桜 さん
湊村
[68834]白桃さん
「日本地誌提要」の湊村と「共武政表」の湊村は同一のものかな・・・???
同一の村ではないかと思います。

でも、それなら何故「日本地誌提要」の湊村の人口が2,221人になっているのか。(湊村は、明治22年に石巻町と稲井村に分割されていますが、これと関連するのか・・・)
関連の有無について確かなことは分りませんが、あれこれ推察してみます。
関連があるとする場合の根拠。明治22年に湊村(井内・磯田地区を除く)は石巻村、門脇村と合併して石巻町になり、石巻町大字湊となりました。同年、湊村の井内・磯田地区は大瓜村、真野村などと合併して稲井村になり、稲井村大字井内となりました。こうしてみると、井内は元々湊村に属していたように見受けられますが、大瓜村にも湊村井内に隣接して井内という字があり、さらに江戸時代には、湊村にも大瓜村にも属さない別個の井内村(湊村井内・磯田と大瓜村井内の区域か?)があったようなのです。推測するに、湊村の井内・磯田地区は時に、湊村本体とは別の地域として取扱われていた可能性が無きにしも非ずです。すると、「日本地誌提要」の湊村の人口2,221人は、井内・磯田地区を除いた人口ではないかという推測が生まれます。勿論あくまでも推測です。
次に、関連がないとする場合の根拠です。もともと「日本地誌提要」の人口は、町場・市街地の人口統計だとします。思うに、井内・磯田地区は明治の始めごろ、町場・市街地を形成していたとは思えない。ですから、はじめから人口集計の対象外区域であったとします。すると、湊村から井内・磯田地区を除外しても人口数値は変わらないことになります。

また、石巻村の「港駅」以外の人口と門脇村の「港」以外の人口はどこに行ってしまったのか・・・???
村落部の人口は最初から問題視されていなかったのではないかと考えます。あくまでも推測ですが・・・。

話は変わります。石巻も門脇も湊も人口が増えて市街化が進み、住居表示実施区域が増えて大字区域が狭まっています。大字石巻の居住区域はすべて住居表示が実施されて、住所の上からは大字石巻が消滅しています。大字湊の居住区域もほとんど住居表示され、牧山一帯の非居住地区この辺りに湊字滝尻などのように大字名+小字名の住所形式が残っているだけです。平成の大合併で石巻市は周辺町と合併し、新しい石巻市になりました。もし、この時、「石巻市」ではなく「東宮城市」という市名になったと仮定します。すると、石巻市湊字滝尻の住所はどのように変わっていたでしょう。下記の中からお好みのものをお選びください。
1・東宮城市石巻町湊字滝尻
2・東宮城市石巻湊字滝尻
3・東宮城市湊字滝尻
4・東宮城市石巻町字滝尻
5・東宮城市石巻字滝尻
6・東宮城市字滝尻
私は1、2、3のいずれかを選びます。特に3が好みです。でも、断じて4、5は選びません。それなのに・・・。
[68890] 2009年 3月 20日(金)02:15:48YT さん
明治22年以前の石巻の人口
[68874] [68834] 千本桜さん、白桃さん
折角なので石巻関連と思われる明治22年以前の人口統計をまとめてみました。

『日本地誌提要』
人口は明治8年1月1日調。
名邑市坊戸口人口備考
石巻122,23410,325宮城県支庁
湊村65092,221石巻より北上川を隔つ

『(第一回)共武政表』
出版されたのは明治8年だが、石巻の人口は明治6年1月1日調と思われ、石巻村ノ内港駅・門脇村ノ内港・湊村の戸数・人口の合計は『日本地誌提要』の石巻の戸数・人口と一致する。
地名戸数人口
石巻村ノ内港駅1,1715,121
門脇村ノ内港5572,605
湊村5062,599
虻田村3462,065

『第二回共武政表』
人口は明治12年1月1日調の本籍人口。

地名戸数人口
石巻村1,3756,834
門脇村6773,150
虻田村3972,227
湊村3702,700

『第三回共武政表』
人口は明治13年1月1日調の本籍人口。
地名戸数人口
石巻1,5176,575
門脇5532,483
5232,514
虻田3201,977

『第四回共武政表』
人口は明治14年1月1日調の本籍人口。
地名戸数人口
石巻1,4456,567
門脇5552,461
4902,283
虻田3291,977

『戸府名邑戸口表』
人口は明治17年1月1日調。収録されている都府名邑の人口の内、区の本籍人口は、『明治十七年一月一日調日本全国戸口表』と一致する。
都府名邑本籍戸本籍口現在戸現在口
石巻3,08213,9093,10013,981

『地方行政区画便覧』
行政区画は明治19年のもの。人口は明治17年1月1日調の本籍人口。
ただし郡区や戸長単位の本籍人口は『戸府名邑戸口表』や『明治十七年一月一日調日本全国戸口表』と微妙に一致しない。
戸長役場の所在地町村名戸数口数
石巻村石巻村・門脇村・虻田村・湊村3,41416,095

明治17年1月1日調の『戸府名邑戸口表』と『地方行政区画便覧』の間で石巻・門脇・虻田・湊の範囲が変わったようにも見える。

『市街各邑及町村二百戸以上戸口表』
人口は明治19年12月31日調
市街公称町村数本籍戸数本籍人員現住戸数現住人員
石巻43,41615,9322,99616,618
公称町村数4は石巻村・門脇村・虻田村・湊村のことと思われる。


『明治十九年十二月三十一日調日本全国民籍戸口表』「各地方一万人以上市街戸口」
市街名本籍人現住戸数現住人
石巻15,9322,99616,618

『明治二十年十二月三十一日調日本全国民籍戸口表』「各地方一万人以上市街戸口表」
市街名本籍人現住戸数現住人
石巻14,4232,82815,159

『明治二十一年十二月三十一日調日本全国民籍戸口表』「各地方現住一万人以上市街戸口表」
市街名本籍人現住戸数現住人
石巻14,4122,83115,201

『明治二十二年十二月三十一日調日本全国民籍戸口表』「各地方現住一万人以上市区町村戸口表」
市区町村名本籍人現住戸数現住人
石巻市16,5283,06916,974

近代デジタルライブラリーへのリンクのない資料は、

・内務省地理局編纂物刊行会編 『内務省地理局編纂善本叢書 : 明治前期地誌資料』 (ゆまに書房)
・一橋大学経済研究所附属日本経済統計情報センター編 『明治徴発物件表集成』 (クレス出版)
・速水融監修 『国勢調査以前日本人口統計集成』 (原書房)

に収録されています。
[68897] 2009年 3月 20日(金)10:31:39白桃 さん
こだわってます「湊村」
[68874]千本桜 さん
[68890]YT さん
石巻界隈、特に「湊村」に関する貴重なご意見やデータの提供ありがとうございます。

私がどうしても腑に落ちないことは、日本地誌提要の「湊村」(便宜上湊村Aとします)人口、2,221人と明治8年共武政表での「湊村」」(便宜上湊村Bとします)人口2,599人が合致しないことであります。
この点について、千本桜さんは
湊村の人口2,221人は、井内・磯田地区を除いた人口ではないかという推測が生まれます
と述べられておりますが、井内・磯田地区の人口が2,221人だったという説は成り立たないでしょうか。すなわち、湊村Aは明治22年に稲井村になる「湊村」、湊村Bは石巻町になる「湊村」、ということです。後に町制を敷く稲井村は、明治22年の人口が6,440人(内務省告示)ですが、これはかなりの人口規模です。もちろん8村プラス井内・磯田ですので、それぐらいは当然と言えば当然かもしれませんが、稲井村の中心は井内(「いうち」ではなく「いない」)ですよね。
この私の説は正直、自分でも相当無理がある(現地に行ったこともない私の机上の空論?)と思っていますが、日本地誌提要の書きぶりに一定のルールというか、癖があると感じて固執するのです。(これも先に言った私の発言と矛盾します^^)~~)
その一例ですが・・・
[68846]でYTさんは、石見邇摩郡銀山について
[註:統計上大森に含まれるか不明確]
とされておりますが、日本地誌提要の「大森1,475人、銀山659人」の合計は明治8年共武政表の「大森駅2,134人」に合致します。もちろんYTさんはお分かりになったうえで、慎重を期してコメントされているのでしょうが、銀山659人は大森1,475人に含まれていないことは、まず間違いないところでしょう。

ところで、日本地誌提要になぜ採用されなかったかわからない「名邑」がいくつかありますが、その最たる名邑だと私が思っているところについて、YTさんの連載が終わりましたらクイズ形式で言及したいと思います。
[68954] 2009年 3月 21日(土)16:16:34千本桜 さん
名邑・市坊
[68890]YTさん
YTさんの書込みを引用
名邑市坊戸口人口備考
石巻122,23410,325宮城県支庁
湊村65092,221石巻より北上川を隔つ
教えてください。名邑の人口とは何なのか分らなくなってきました。上記YTさんの書込みからは、湊村には6つの市坊があって、その人口が2,221人とも受取れるのですが、名邑の人口とは市坊だけの人口なのでしょうか?、それとも村落部を含んだ自治村全域のものなのでしょうか。
市坊とは日常的に使われない言葉ですが、私なりに次のように解釈していました。「市坊」とは、多くの人が集まる賑やかな町場で、村落とは異なる場所。つまり、市街地という言葉に置き換えることができる場所で、しかも、「お上」が認定?した町場を指すのかな?と思っていました。上手く伝えられなくて済みません。
そのような考えを基に、幾つかの名邑の市坊を想定してみました。間違っていたらごめんなさい。
名邑 旧国 郡 戸口 人口 市坊・備考
棚倉 磐城 白河郡 476 2,250 市坊4,伊野上・伊野下2村を総称す
角田 磐城 伊具郡 258 1,575 市坊3
桑折 岩代 伊達郡 536 2,333 市坊3
棚倉の市坊は新町古町鉄炮町下町の4町と想定しました。現在の住所は大字名「棚倉」を冠し、棚倉町棚倉字新町、棚倉町棚倉字古町、棚倉町棚倉字鉄炮町、棚倉町棚倉字下町となっています。
角田の市坊は本町仲町天神町の3町と想定しました。現在の住所は大字名「角田」を冠して角田市角田字町となっています。本町、仲町、天神町は正式住所ではありませんが、今でも通称名として頻用されています。
桑折の市坊は西町本町北町の3町と想定しました。現在の住所は大字なしの桑折町字西町、桑折町字本町、桑折町字北町となっています。
勘違いしているかもしれませんが、このようにして市坊を特定してみると、城下の武家屋敷は市坊に含まれないのかな?、武家屋敷の住人は名邑の人口に含まれないのかな?などの疑問が涌いてきました。いずれにしても市坊とは何なのか?。名邑の人口は市坊だけの人口か?。それとも武家町と町人町の双方を含んだ市街地全体の人口か?などなど、思うこと多々あります。ご存知でしたら教えてください。

[68897]白桃さん
井内・磯田地区の人口が2,221人だったという説は成り立たないでしょうか。
一瞬、ドキッとしました。でも、やはり無理だと思うのです。角川地名大辞典によれば石巻市大字井内(旧湊村の井内・磯田地区)の人口は886人です。この人口は、稲井町が石巻市に合併した昭和40年代のものか、辞典が編集された昭和50年代のものか定かではありません。しかし、これから推測すると明治6年頃の人口は200人か300人程度だったと考えられます。

明治22年の人口が6,440人(内務省告示)ですが、これはかなりの人口規模です。もちろん8村プラス井内・磯田ですので、それぐらいは当然と言えば当然かもしれませんが、稲井村の中心は井内(「いうち」ではなく「いない」)ですよね。
稲井村の中心(役場所在地)は井内ですが、井内は井内でも湊村から分かれた井内・磯田地区、つまり大字井内ではなく、大字大瓜の字井内です。昭和20年代に測量された5万分の1地形図を見てみます。この辺りを川が流れています。たぶん、真野川の旧流路だと思います。左岸(地図上では右側)には大字井内の集落、右岸には大字大瓜字井内の集落があります。どちらも町場と言うには寂しすぎる集落で、名邑に値しない村落です。YTさんは、明治6年1月1日調「名邑」の人口 (4)の中で、湊村の市坊が6と書いておられます。井内には市坊らしきものが見当たりませんから、市坊6、人口2,221の湊村は井内・磯田のことではなさそうです。

ところで、日本地誌提要になぜ採用されなかったかわからない「名邑」がいくつかありますが、その最たる名邑だと私が思っているところについて、YTさんの連載が終わりましたらクイズ形式で言及したいと思います。
たぶん、高度なひねりが入ったクイズになりそうですね。クイズには差障りがないと思いますので、深く考えずにパッと見て「何でここが名邑に採用されないの?」と感じたものをいくつか発表します。○河国の○原、同じく○宮(現在名は○○宮)、相○国の○塚、上○国の○原、下○国の○田、美○国の○治○、○野国の○川、越○国の○附など結構ありますね。
[68958] 2009年 3月 21日(土)18:55:25YT さん
市坊?
[68954] 千本桜さん

すみません。私も「市坊」という用語の本当の定義は分かりません。
自分もお上が町場として認定した町村だと思っていますし、「市坊を置かず」とは大区小区制が制定されていない地域で、小区に所属する町村の数が確定していなかったのだと理解しています。日本地誌提要独自の用語なのかも知れません。

『日本地誌提要』は、広島大学の学術情報リポジトリから全八巻がpdf形式でダウンロードできます。自分はこれに気付く前に該当箇所をコピーしていましたが。

まず日本地誌提要 第1冊 (pdf)に記載されている項目の説明は以下の通りです (8/94頁)。

一 戸数人口共に戸籍寮明治六年癸酉一月一日(紀元二千五百三十三年)の表簿に据り田圃租税は其前年の数に係る(郡数の条。村町を挙げ。村数は本文を合計し区分は之を略す。)
一 府県治所。及名邑は旧藩城邑。或は民物輻湊の地なれば。特に其市坊広狭戸口多算を挙ぐ。

石巻・湊町については日本地誌提要 第3冊 (pdf)に記載されています (120~121/191頁)。

牡鹿郡石巻村。(仙台。拾三里拾七町三拾八間。)市坊壱拾弐。東西弐拾壱町。南北弐拾弐町。戸数弐千弐百三拾四戸。人口壱万零三百弐拾五人。(湊村。北上川を隔つ。市坊六。東西壱町五拾六間。南北拾六町。戸数五百零九戸。人口弐千弐百弐拾壱人。)

城下の武家屋敷は市坊に含まれないのかな?、武家屋敷の住人は名邑の人口に含まれないのかな?

いくつかのケースでは明らかに武家屋敷部分をカウントしてない場合があります。例えば以前鹿児島が話題になりましたが、『日本地誌提要』の場合、鹿児島は市坊43、人口2万7240人という扱いになっていますが、この市坊43は以前むっくんさんが示された43町に相当し([67680])、武家の多い地域の人口が加算されていません。もっとも西南戦争前の鹿児島は色々な事情で空白域があったようですが。

[68897] 白桃さん

ところで、日本地誌提要になぜ採用されなかったかわからない「名邑」がいくつかありますが、その最たる名邑だと私が思っているところについて、YTさんの連載が終わりましたらクイズ形式で言及したいと思います。

日本地誌提要に採用されている名邑の人口はすべてまとめ終わっていますが、念のためもう一度五畿八道すべての人口をチェックし直してます。
[69022] 2009年 3月 26日(木)08:58:13千本桜 さん
湊村、大区小区、市坊
[68834]白桃さん
でも、それなら何故「日本地誌提要」の湊村の人口が2,221人になっているのか。(湊村は、明治22年に石巻町と稲井村に分割されていますが、これと関連するのか・・・)
[68874]千本桜
推測するに、湊村の井内・磯田地区は時に、湊村本体とは別の地域として取扱われていた可能性が無きにしも非ずです。すると、「日本地誌提要」の湊村の人口2,221人は、井内・磯田地区を除いた人口ではないかという推測が生まれます。勿論あくまでも推測です。
井内・磯田地区が湊村本体と切り離されて別の地域として扱われていた可能性があると推測したのは、古い地形図の読図を通してのことでした。町場を成す湊村本体と井内集落の間には、人家の無い非居住区間があって隔絶感がありましたからね。どうやら、その推測が当たっている可能性が濃厚になりました。大小区制の資料を見ているうちに、それを決定づけるような記述を目にしました。
明治5年の大小区制では、幾つかの藩政村を併せて1つの小区にしているのが一般的です。しかし、人口の多い村は単独で1つの小区になりました。石巻村、門脇村、湊村は人口の多い村なので、それぞれ単独で1つの小区です。牡鹿郡は第13大区で、その1小区は石巻村。2小区は門脇村。4小区は湊村です。ですから、1小区の欄には石巻村、2小区の欄には門脇村、4小区の欄には湊村と記載すれば済むことなのに、1小区「石巻村、石巻村の内 墨廼江、石巻村の内 袋谷地」、2小区「門脇村、門脇村の内 釜」、4小区「湊村、湊村の内 井内」と書いてあります。このことから、石巻村は石巻本体墨廼江袋谷地に、門脇村は門脇本体に、湊村は湊村本体井内に区分される慣習があったのではないかと推測できます。石巻村の本体は共武政表で言うところの石巻港駅、門脇村の本体は門脇港に当たると考えて良いのではないでしょうか。
井内が湊村と分れて稲井村になったのは明治22年のことですが、湊村はそれ以前から湊本体地区と井内地区(磯田を包含)に分けて扱う慣習もあったということになるでしょう。明治8年共武政表での人口2,599人は井内を含み、日本地誌提要の人口2,221人は井内を含まないものと考えてはいかがでしょう。たまには墨廼江も呑んで下さい。

[68958]YTさん
「市坊を置かず」とは大区小区制が制定されていない地域で、小区に所属する町村の数が確定していなかったのだと理解しています。
でも、東北地方で「市坊を置かず」と記載された名邑は、羽前の長瀞、羽後の大曲および百三段新屋の3名邑ですが、それらは大区小区に組みこまれていたのではないですか?。鹿児島とか仙台のような大城下町以外のありふれた小名邑においては、市坊と大小区制の関連は無いのではないかと感じています。明確な裏づけの無い、ただの勘ですが。長瀞、大曲、百三段新屋を結びつける共通点って何だろう。新たな謎ですね。
[67791] 2008年 12月 31日(水)14:24:18白桃 さん
Re:推計人口データを更新しました
[67790]グリグリさん
更新して頂いたということはですよ。ひょっとして、あと10時間後に迫ったアレに関係してくるのかな・・・。と、ヒトリで緊張しております。(^t^)~~

さて、データベース化の件ですが、
(3) 毎年10月1日のデータで整備する
が良いと思います。理由は、国勢調査との関係と10月1日というのが人口統計上において比較的安定している時期であることです。(でも、最近は半期で卒業していく学生が多くなったせいか、10月1日に「みかけ」上、かなりの減少を示し、11月1日にその分を取り戻す地方の中枢都市が増えていることも事実です)

話変わって、
昨日、本年の事業活動を停止したとされる「白桃都市人口研究所」ですが、どうやら奥さまの目を盗んでマダマダ作業を続行しているようです。
関係者によりますと、明治21年に内務省総務局から出された「市街名邑及町村二百戸以上戸口表」に、愛知県の西春日井郡下小田井(後の西枇杷島)と愛知郡下之一色が第1表、2表、3表のいずれにも掲載されていない、とのこと。いずれも明治19年当時、4000人を超えていたことが推測され、所長の白桃氏は苦闘しているようです。
[67796] 2008年 12月 31日(水)16:42:53【3】YT さん
国勢調査以前の都市人口
[67791] 白桃さん

残念ながら近代デジタルライブラリーには収録されていませんが、明治19年12月31日調の『市街各邑及町村二百戸以上戸口表』と似たような形式でまとめられている明治17年(1884年)1月1日調の『都府名邑戸口表』(全69頁)というものが、速水融監修『国勢調査以前日本人口統計集成』(原書房)に収録されています。本籍・現住人口双方のデータが収録されています。機会があればpdf化してどっかにアップロードしたいとも考えていますが。

また共武政表の方も、近代デジタルライブラリーに収録されていない第2回(明治11年版)、第3回(明治12年版)、第4回(明治13年版)が、それぞれ明治12年(1879年)1月1日調、明治13年(1880年)1月1日調、明治14年(1881年)1月1日調の本籍人口(但し連担地区としての人口)を掲載しております。こちらはクレス出版の『明治徴発物件表集成』第3~8巻に収録されています。

塚本明毅らがまとめた日本地誌提要(明治6年(1873年)1月1日調)の方は、広島大学図書館のサイトから8分冊すべてをpdfでダウンロードできます。

また近代デジタルライブラリーに収録されている明治41年12月31日調日本帝国人口静態統計の後ろの方に、警察署調査現住人口などの付録があり、ここに明治19年から明治31年,明治36年,明治41の『人口一万以上ノ市町村現住人口』が収録されています。自分は紙媒体の方で存在を先に知っていましたが、近代デジタルライブラリーの方の目次に表示されていないで見落とされ易い状況になっています。もっともここに収録されている「人口1万人以上」は本籍人口が1万人以上であり、実際には現住人口1万人以上でも収録されていないケースがあります。ここに収録されている人口は、明治19年12月31日調の『市街各邑及町村二百戸以上戸口表』とも矛盾しませんが、問題は『法令全書』収録の現住人口と異なる点です。おそらく後者は速報値なのでしょうが。私が知る限り国勢調査以前の統計で、すべての自治体で少なくとも確実に本籍人口、甲種現住人口がまとめられるのは、明治31年、明治36年、明治41年、大正2年、大正7年の5回分のみで、明治30年以前は『法令全書』と各年の『日本帝国民籍戸口表』収録の『各地方現住一万人以上市区及町村戸口表』の人口の違いが解決しない限りまとめられません。

明治21年以前の統計を見て困るのは、どこからどこまでが単一の都市とみなされるのかでしょう。宮崎県や長崎県などに、おかしな数万人規模の都市が記載されていたりしますが、これらはまとめた人の主観で決めたのでしょうかね?

※追記
以前も書きましたが、歴史地域統計データのサイトからダウンロードできる明治13年共武政表のデータには一部系統的な打ち込み間違いがあります。紙媒体でチェックした方がいいかも知れません。

※追記の追記
下小田井村と下之一色村は明治17年(1884年)1月1日調の『都府名邑戸口表』にも記載されていません。多分基準が変わったのでしょう。また歴史地域統計データの共武政表のデータは、愛知県に関しては正しいようです。

ついでに明治11年(明治12年1月1日調)、明治12年(明治13年1月1日調)の共武政表のデータは以下のとおりです。

地名明治12年1月1日調明治13年1月1日調
地名戸数人口戸数人口
下之一色村1,0794,5351,0624,381
下小田井村1,0864,2421,089553

戸口より人口が少ないというあからさまな誤記がありました。明治12年1月1日調の方は男2,125人+女2,117人。明治13年1月1日調の方は男276人+女277人となっております。どうも後者は2,076+2,077人の間違いで、たぶん正しい人口は4,153人だと思いますが、確証はありません。
漢数字がらみの転写間違いが原因だと思います。
[81182] 2012年 7月 25日(水)15:32:26hmt さん
明治13年共武政表を眺める (8)伊勢・尾張で他の都市の一部になった町場
「1880年の都市リスト」 に記録された 324の町場のうち、現在では他の都市の一部になっている地名を確認しています。
合計で13(京都2、大阪10、神戸1)あった京阪神[81154][81176]に続いて、今回は東海地方を見ます。

伊勢国一志郡 松崎浦。変遷情報により 明治22年松ヶ崎村、昭和29年松阪市に編入。
伊勢国度会郡の 宇治と山田
共武政表では2つの町場として扱われていますが、変遷情報を見ると、町村制施行により宇治山田町[79347]に統合される前は、宇治8町、山田22町もの町があったようです。宇治山田市(1906)を経て、現在は もちろん伊勢市(1955)。

尾張国では 名古屋と同じ 愛知郡 の熱田駅、下ノ一色村、鳴海村、それに西春日井郡の 下小田井村の4地名が 現在の名古屋市域に入っています。
熱田は 神宮の門前町でもあり、宿駅でもあります。
同じく東海道宿駅である 鳴海の物産として 絞り があるかと思いましたが、有松を含めて物産欄に記載なし。

変遷情報では 下之一色村は単独で町村制の村になり、下之一色町を経て 1937年に名古屋市(南区)に編入。同年の分区で中川区になっています。
下小田井村は、町村制で西枇杷島町になり、2005年に清洲町, 新川町と共に「清須市」新設。

西春日井郡下小田井と 愛知郡下之一色については、白桃都市人口研究所所長の白桃氏が苦闘しているとの記事[67791]がありましたが、問題は解決したのでしょうか?

知多郡には、1郡だけで7つもの地名が並んでいます。
この中で、醸造業が盛んな成岩(ならわ)村は、町村制発足後 間もなく成岩町となり、1937年に 北側の半田町、亀崎町(リストの乙川村・亀崎村)と合併して半田市になりました。なお、半田村は1880年の戸数が 1000に僅かに及ばず、リストから漏れています。

常滑は、知多半島東岸の半田・武豊に対する 西岸の町ですが、最近は 中部国際空港セントレアで 名古屋都市圏の玄関になりました。
常滑も難読ですが、「とこなめ」という読み仮名を必要としないくらい有名な陶器。
しかし共武政表でたくさん列挙されている物産の最後ですね。
常滑自身はそのままの名で「市」になっていますが、リスト中の大野村(町村制で大野町)が 1954年に常滑町他と合併で常滑市の一部になったので、ここに書き出しました。

結局、知多郡の中では成岩(半田市)・常滑・横須賀(東海市)・内海(南知多町)を現在の自治体の核と考え、乙川・亀崎・大野の3地名を他の市域に入った町場として扱いました。
尾張国全体では、熱田・下ノ一色・鳴海・下小田井を加えて7地名。
伊勢国は松崎・宇治(伊勢市の核は山田とする)の2地名が 他の市域に入りました。京阪神からの累計 22。
[81186] 2012年 7月 26日(木)01:05:05【1】白桃 さん
空き家は戸数に数えるの?
[81182]hmt さん
西春日井郡下小田井と 愛知郡下之一色については、白桃都市人口研究所所長の白桃氏が苦闘しているとの記事[67791]がありましたが、問題は解決したのでしょうか?
相当な人口を数えていたはずの下小田井と下之一色が「市街名邑及町村二百戸以上戸口表」に掲載されていないので、ずっと不審に思っていたのですが、今見ている「共武政表(明治12年)」には両邑とも登場しております。
ただ、下小田井(後の西枇杷島町→清須市)は、「戸数1,089、人口553人」となっており、思わず唸ってしまいました。
「共武政表」に関して言えば、貴重な人口統計資料であることには違いないのですが、正確性や統一性に欠けております。男と女を合計しても総計に合致しない邑もかなりあり、人口統計だけは几帳面な白桃は、この“アバウト感”に酔いしれております。
ま、正確性を期待すること自体、無理な話なのでしょうが・・・
[80322] 2012年 2月 23日(木)19:36:03hmt さん
市町村変遷データベース関連 (7)改称日付が問題となっている 「里川口町」の謎
[80274] むっくん さん
[80285] MIさん
[80320] むっくん さん
まずは岩手県統計書(明治22年)(編・出版:岩手県、M24.11.5)、岩手県史第8巻近代編(著・出版:岩手県、S38.12.10)に記載の県令第12・13・15号にて市制町村制施行時のM22.4.1は里川口町であることを確認しました。

問題の「改称日付探し」は、「里川口町」の存在が前提です。
花巻城の南側に存在した 城下町の一部と その隣接地とが 町村制施行を機に合併してできた町。
それが 最初は「里川口町」という名称であったこと。
それを むっくん さんが 「日付探しの第一歩」として確認したのは、全く正しいことです。

当然のように思われるこの前提に あえて触れた理由は、地名調査の資料として普通に使われている辞典類に、この前提に反する記載があるからです。
すなわち、「花巻川口町」は 明治22年の町村制当初からの名であり、「里川口町」については、“里川口町とも称した”という異称扱いになっています。

角川 日本地名大辞典 岩手県629頁 花巻川口町
明治22年から昭和4年の稗貫郡の自治体名。明治期には里川口町とも称した。里川口村(中略)が合併して成立。
同書911頁 地誌編花巻市 近代行政区画
明治22年 里川口、南万丁目の2か村と高木村中川原が合併して花巻川口町、…
平凡社 日本歴史地名大系 岩手県367頁 花巻市近現代
明治22年の町村制施行に伴って稗貫郡花巻町、花巻川口町、…の2町7村。

そこで[80320]を再確認してみると、原資料である町村制施行時の岩手県令への直接リンクはなく、二次資料である岩手県統計書(1891)と、県令について言及した岩手県史(1963)とを根拠としていることがわかりました。

原資料が掲載されていると思われるのは岩手県報ですが、ネットで閲覧できるのは 平成16年度以降
岩手県立図書館の所蔵も明治31年2月以降 ということで、明治30年の資料閲覧は容易でありません。
但し、岩手県永年保存文書目録 の 275/286(272頁)により、古い県報の存在は確認できるようです。

こんな具合に、原資料へのアクセスが困難ということになると、[80320]のように 二次資料に頼らざるを得ません。
ところが、岩手県の作った資料ならば 信用できるか というと、いい加減な資料もあるのですね。

[74516]でリンクされている岩手県HP市町村地域変遷(エクセルファイル) を開いて 花巻市を見てください。
明治30年と推測されている花巻川口町への改称が掲載されていないのはともかく、“大12.6.1 里川口町に、根子村が編入”とあります。この時点では、もちろん花巻川口町だったはずです。
表の作成者も、さすがに「里川口町」はおかしいと思い、“(花巻川口町)”と書き込んだのかもしれません。
次の行は、昭和4年4月10日の新設合併 ですが、こちらは 日付が脱落。

では、[80320]において「里川口町」が存在したと推測された もう一つの根拠である「各地方町村別現住人員表」(内務省告示)の町村名は信頼できるのか?
内務省は、地方行政の元締めですから信頼できる と言いたいところなのですが、岩手県の「異字体」として通用していた「巌手県」を使っているくらいですから、花巻川口町の「異称」として通用していた「里川口町」を書く可能性もあると思います。

明治31年内務省告示第92号 において、
明治30年中各府県に於て市町村分合改称せし分参考の為め掲ぐ
と記された 巌手県稗貫郡里川口町→花巻川口町(329コマ)は、
これまで通用してきた「異称」を捨て“花巻川口町に統一する”という告知にすぎないかもしれない。

原資料を確認できないまま、「里川口町の謎」に振り回されているうちに、私はこんな推測を抱くようになりました。

ところで、二次資料ではあるが、88さんが繰り返し“信憑性の高そうな郡市町村廃置分合一覧表”と呼んでいる統計局の廃置分合表。4年前に [63806] むっくん さん により紹介されています。

里川口町から花巻川口町への改称の有無に関し この資料が使えれば、これほどの謎にならなかったかもしれません。
この問題は、残念ながら人口統計が内務省から統計局へと移管される少し前の事例だったのでした。
[80323] 2012年 2月 23日(木)23:00:40白桃 さん
明治19年の稗貫郡「川口」は何処へいってしまったのか
「里川口町」について、その存在や「花巻川口町」への改称時期について議論されておりますが、私はこれとは別に疑問に思っていることがあります。
内務省総務局「市街名邑及町村二百戸以上戸口表」(明治21年)には、第一表(市街及び市街の体裁をナシタル名邑)に記載されている稗貫郡の「街」は、川口、里川口、花巻及び大迫で、今関係のない大迫を除く各人口(明治19年調)は
川口3,180人、里川口3,707人、花巻1,868人
となっております。
ところが、法令全書によりますと町村制施行直後の明治22年末の人口は、
里川口町4,619人、花巻町2,507人
となっているのです。
「川口3,180人」はどこへ行ってしまったのでしょうか。川口が、里川口と花巻に「分割編入」されたというのであれば、なんとなく辻褄はあうのですが、そういうことが書かれているものも見あたりません。
ややこしい・・・
[80327] 2012年 2月 24日(金)15:07:42hmt さん
市町村変遷データベース関連 (8)花巻の「川口」
[80323] 白桃 さん
明治19年の稗貫郡「川口」は何処へいってしまったのか

最初にご注意。
市街名邑及町村二百戸以上戸口表 第1表類別表 に記された「川口」は、あくまでも「市街名」であり、「公称町村数」という欄が別に作られているように、「町村名」ではありません。

[80326] YT さん
「郡名を誤植し、配置する場所も間違えた」という可能性が一番高いように思えてきました。

市街名=町村名 であったとすると、考えられるのは、北岩手郡川口村【現在は岩手町】です。
内務省告示の 明治22年末人口表 による現住人口は 2629人で花巻町 2507人より多いので、もしかしたら 当時は「市街」と認められる程度に繁栄していたのかもしれません。

川口3,180人、里川口3,707人、花巻1,868人

奥州街道沿いの「花巻三町」という言葉があり、南から川口町・一日市町・四日町を指すようです。
しかし、平凡社の歴史地名大系372頁「川口町」(現 上町など)の説明文
花巻三町の1町で、慶長18年 里川口村内に開かれたという。
などから、町場の名は「川口町」で、村の名は「里川口村」という使い分けであったと思われます。
明治19年の資料に記された「3市街」は、「花巻三町」に対応するものではないようです。

「花巻市博物館だより」に掲載された 1920年の俯瞰図 を見ても、花巻を「3市街」に分ける意味はないように思われます。
2市街に分ける意味もなかったので、1929年に合併したのでしょう。

俯瞰図の左下方に見える豊沢川は 右下方に流れ、北上川との合流点である地形上の「川口」に至ります。

仮に資料記載の「川口」と「里川口」とが、共に花巻地区に存在した市街であったとしても、川に近い南側であると思われます。
従って、町村制施行後には大部分が同じ町【里川口町? or 花巻川口町?】に属したことでしょう。
[80328] 2012年 2月 24日(金)19:27:20【1】YT さん
花巻
[80327] hmt さん
市街名=町村名 であったとすると、考えられるのは、北岩手郡川口村【現在は岩手町】です。

実のところ、その可能性を念頭に置いていたのですが、『市街名邑及町村二百戸以上戸口表』には北岩手郡川口村(本籍438戸2576人、現住418戸2506人)の記載があるので、一応は違うと思われます。

ちなみに明治17年よりも前のデータを見ると、『日本地誌提要』では明治6年1月1日調の花巻の人口は3市坊1027戸4426人とあり、明治八年『共武政表』では、川口町1027戸4426人、大迫村219戸1100人の記載があります。『日本地誌提要』の3市坊からなる「花巻」と『共武政表』の川口町の人口が一致することから、両者は同じ市街の異なる通称であることが判ります。この時の花巻を構成する三町とは、川口町、一日市町、四日町のことなのか、それとも里川口村+花巻村+αのことなのかは判りません。

明治11年、明治12年の第二回、第三回『共武政表』に何と記載されているのかは、今手元にコピーがないので詳しく書けませんが、明治13年の第四回『共武政表』(人口は明治14年1月1日調)では、
町村戸数人口
大迫3077837001483
石鳥谷117278271549
八幡51103126229
花巻3898067841590
里川口827174216303372
下根子1207871149

とあり、里川口と花巻の人口は4年後の明治17年1月1日調の『市街名邑及町村二百戸以上戸口表』に比べると共に300人程少なく、つまり明治十年代の里川口・花巻はかなりの人口増加をしていることが明らかです。よって人口の比較だけで明治6年の人口4426人の範囲(明治6年の3市坊)を判断するのは困難です。

参考までに『花巻市史 近世篇二』(1982年)を閲覧したところ、『邦内郷村志』という史料に寛政年中(1800年頃)の戸数が掲載されているそうです。リンク先の何巻に書かれているかまでの情報はありませんが、『花巻市史』での引用を引っ張ってくると

○川口村 又云里川口村
 民戸廿四軒 川口村不入市中戸数

○河口町 慶長頃北松斎初而云此坊中
     (中略)
 民戸六百四十八軒 二千六百八十五人(男千四百九十一人 女千百九十四人)
 組同心三十八戸 竈数七十一家 有定法故也

○花巻村
 村民戸七軒 此外入市中

○四日町 城下三町最初之市場也云。 昔名之四屋田屋五群居焉。北秀愛移之後立市町云々。
○一日市町 同処是従河口町後立云。
 民戸百三十九軒。組十九組 竈数十六 男百三十人 女二百十三人 一日市町
 民戸百七十九軒。組廿九 竈二十一 男三百八十九人 女三百十三人 四日町
   右民戸寛政初改

つまり江戸時代の時点では、花巻三町は四日町、河口町、一日市町から構成され、市中として扱われていない郷村としての花巻村、川口村(里川口村)が別にあったとになりますが、後者の戸数は併せて30戸ほどしかありません。あと「民戸」と断っているので、寺社や武家の戸数・人口が加算されていないのでしょう。『地方行政区画便覧』の段階では、おそらく河口町・川口村を併せて里川口村、四日町・一日市町・花巻村を併せて花巻村として扱ったようにみえます。明治一桁代の『日本地誌提要』や『共武政表』の段階では、まだ江戸時代の三町を引き摺り、町外の里川口村と花巻村の人口を除いているように見えます。

なお、『邦内郷村志』では、栃内村73軒、笹間村162軒、横志田村28軒、尻平川村5軒、轟木村105軒、太田村264軒、成田村73軒、十二丁目村73軒、外台村0軒、向下根村76軒、南万丁目村29軒、北万丁目村30軒、下根子村不明、上根子村146軒、西晴山村15軒、円満寺村49軒、膝立村22軒、湯口村115軒、鉛村15軒、下沢村24軒、豊沢川村17軒、鍋倉村71軒、下似内村18軒、上似内村46軒、東宮野目村33軒、庫裡村19軒、柏葉村30軒、田力村23軒、葛村107軒、小瀬川村44軒、椚木目村32軒、猿沢村37軒、金矢村15軒、台村25軒、湯本村65軒、大畑村37軒、二枚橋村3軒、北湯口村75軒、宮野目村49軒、糠塚村33軒、東十二丁目村170軒、高木村155軒、高松村128軒、矢沢村142軒、幸田村35軒となっています。

一軒平均10人程度なので、1800年頃の高木村は約1600人と意外と大きい村となっています。北万丁目村と南万丁目村は併せて600人程度ですが。
[80330] 2012年 2月 25日(土)10:20:50白桃 さん
謎解きはブレックファーストのまえで
[80324][80325][80326][80328]YT さん
[80327]hmt さん
花巻の「川口」に関する私の疑問に対するお二人の記事、有難うございました。昨日ほぼ一日かけて考えた末、私なりの結論を出しましたので御礼を兼ね、ご報告いたします。
結論から申しますと、「市街名邑及町村二百戸以上戸口表」(以下、戸口表とします)の書き方に問題があるのではないか、ということです。
戸口表の第一表(現住人口)に、次のようになっている箇所があります。
黒沢尻村町分4,427人、黒沢尻村里分3,538人
ところが、法令全書による明治22年末の黒沢尻町の人口は4,760人となっているのです。
黒沢尻町は黒沢尻町分と黒沢尻里分が一緒になって生まれた町ですので、人口から言ってこれでは全然辻褄が合いません。そこで思ったのが、黒沢尻村町分の4,427人は、黒沢尻村里分の人口も含んでいるのではないか、ということです。(なぜ、「町分」の方が「里分」より多いのか、という新たな疑問が生じますが)
「町分」と「里分」は「市街地」として並存していたかどうかは別として、「地域」としては並存していたのでしょう。しかし、戸口表に記載されている人口は、それぞれの地域人口ではないのだ!ということです。
花巻の場合は、黒沢尻より複雑というか、より曖昧なように思えます。
「川口」と「里川口」は地域としても並存していなかった、つまり、「里川口」の町部が「川口」で、この町部が花巻三町のひとつだろう、ということです。
こう考えると、人口推移的にはスッキリします。
「謎」が生じたのは戸口表の書き方のせいだ、というのが私の結論です。

蛇足:正直なところ、「川口」「里川口」「花巻」を花巻三町にあてはめたり、「川口」を石鳥谷大興寺に求めたり、いろいろ邪馬台国探しに奔走しました。~j~)~~
(「謎解きはディナーのあとで」の作者は「後輩」らしい。では、朝食をとりましょう。)
[80332] 2012年 2月 25日(土)13:46:30hmt さん
市町村変遷データベース関連 (9)花巻
個別の問題に深入りしてきましたが、行きがかりで、シリーズのタイトルはそのままで続けます。

[80330] 白桃 さん
そこで思ったのが、黒沢尻村町分の4,427人は、黒沢尻村里分の人口も含んでいるのではないか、ということです。

『市街名邑…』と同じ 明治19年の『地方行政区画便覧』第三表(戸長役場ごとの集計)を見ると、黒沢尻村町分戸長役場管内3村、すなわち黒沢尻村町分・同里分・北鬼柳村の口数が 4862人となっています。
『市街名邑…』に示された両市街地人口は、確かに重複しているようです。

花巻の場合にも、黒沢尻と同様に「市街」人口の重複記載があったという推論ですね。そして、
花巻の場合は(中略)、より曖昧なように思えます。
「川口」と「里川口」は地域としても並存していなかった、つまり、「里川口」の町部が「川口」で…

従って『地方行政区画便覧』第三表では、里川口村戸長役場場管内7村の中に「川口」という村は現れず、「里川口市街」の人口と重複する「川口市街」の人口は、当然に里川口村の人口の一部として集計され、7村合計口数 7472人となっている。
そういうことですね。


[80328] YTさん
『市街名邑及町村二百戸以上戸口表』には北岩手郡川口村の記載があるので、一応は違うと思われます。

あ、その通りでした。凡例 に記されているように、第一表が「市街」、第二表が「市街の体裁を為さざる名邑」(岩手県は掲載なし)、第三表が前2表記載に係る町村を除く「二百戸以上の町村」です。[62817]

第三表に北岩手郡「川口村」があるので、第一表で「市街」とされた「川口町」は、これと重複しない【人口も違う】ことになります。

参考までに『花巻市史 近世篇二』(1982年)を閲覧したところ

これまでに言及していなかったのですが、実は「里川口町」が 『花巻市史』【近代篇?】においてどのように記載されているか気になっています。

ズバリお尋ねします。
明治22年の町村制で発足した自治体は、『花巻市史』にも「里川口町」と記されていたのでしょうか?

『邦内郷村志』という史料に寛政年中(1800年頃)の戸数が掲載されているそうです。リンク先の何巻に書かれているかまでの情報はありませんが、『花巻市史』での引用を引っ張ってくると

盛岡藩内の地誌資料をご紹介いただき、ありがとうございます。
稗貫郡は『巻七』に掲載されています。河口村だけで5コマ(10頁)に及ぶ詳細なもので、
民戸六百四十八軒 二千六百八十五人(男千四百九十一人 女千百九十四人)
と記されている 7-19コマ【河口村から花巻村に移り変わる部分】 をリンクしておきます。
# 男女比だけ見ても、町場であることがわかります。7-17コマには、花巻城の記述があります。
花巻村最終コマ(7-22)に一日市と四日町の人口が記されています。
[80333] 2012年 2月 25日(土)14:44:08hmt さん
市町村変遷データベース関連 (10)まだ花巻
[80331] 千本桜 さん
花巻と里川口は明治22年の町村制施行でも合併しませんでした。これも底辺にあるのは花巻と里川口の都市間競争意識でしょう。

今回のスレッドに触発されて、花巻町人による この地方のインフラ整備をテーマとする 深澤論文 に目を通してみました。
これは地方行政の視点ではなく、昭和前期の花巻町・花巻川口町合併の年代も誤認しているのですが、今回の「花巻問題」について参考になる情報もありました(p.217~218)。
-----------------
花巻は、その時期【近代】の資料の保存が少ない地域である。その理由が役場移転に伴う行政資料の散逸、空襲による中心商店街焼失。
城下町は、開町の順に、城の北側は四日町、南側は川口町、北側で四日町よりも城寄りの町は一日市と名付けられた。
明治に入り、川口町と呼ばれていた地域は里川口村となり、四日町、一日市であった地域は花巻村とされた。
さらに明治22年の町村制では、近隣の村を併合して、花巻川口町と花巻町が誕生した。
-----------------

この論文も、[80322]で引用した辞典と同様に、「町村制当初からの花巻川口町」説を取っています。
そして、町村制で「2つの自治体」ができたことについて、次のように記されていました。

-----------------
当時の資料には、(花巻村は)「従来 里川口とともに花巻の総称あれども 延長なる坂路を以て両地を隔て 随て民情相協わず 人民亦分離して一町をなさんことを翼望し 資力に於て両町とも不足なきを以て各独立とす」とある。
現在でも古老に尋ねると、「昔はあっち町こっち町と呼んで、仲が悪かったもんだ」という答えが返ってくる。
-----------------

[80327]で俯瞰図を引用して書いた時は気がつきませんでしたが、坂道により「2つの市街」に分れており、ライバル意識があったのですね。
[80334] 2012年 2月 25日(土)16:50:27YT さん
花巻川口村、里川口村
[80332] htmさん

これまでに言及していなかったのですが、実は「里川口町」が 『花巻市史』【近代篇?】においてどのように記載されているか気になっています。

ズバリお尋ねします。
明治22年の町村制で発足した自治体は、『花巻市史』にも「里川口町」と記されていたのでしょうか?

『花巻市史』を調べる気になったのは、その点も兼ねてでしたが、残念ながら自分がアクセスできる図書館に所蔵されていたのは、熊谷章一著『花巻市史』(1962年~1982年)の内、古代中世篇、近世篇:2、民俗篇、神社篇だけで、近世篇:1と近代篇は所蔵していませんでした。

しかしながら同じ著者熊谷章一による『花巻の歴史』(1958年)と『花巻のあゆみ : 花巻開町三百七十年祭記念』(1962年)の方では、いずれも明治22年の町村制発足の段階で「花巻川口村」が成立したかのように書いており、『花巻の歴史 近代篇』を取り寄せても同じようなことしか書いていないのではないかと予想されます。

一方及川雅義著、及川惇編 の『花巻の歴史 上下巻』(1983年)では、巻末の年表に里川口村の記述がありましたが、大正12年の根子村編入の段階で「里川口村」と記載しており、逆に花巻川口村の存在を無視しています。

戦後刊行された『岩手県史』は既に調べた方がいらっしゃるようですし、調査漏れも限られてしまっているようです。
[80336] 2012年 2月 26日(日)02:13:57【3】YT さん
明治初期の稗貫郡内の市街・町村等の人口変遷、「花巻」も町部のみの可能性
第2回(明治11年、人口は明治12年1月1日調)と第3回(明治12年、人口は明治13年1月1日調)の『共武政表』における稗貫郡内の輻輳地の人口をチェックしました。

せっかくなので明治6年~明治22年の稗貫郡内の市街・町村等の人口変遷としてまとめておきます。

『日本地誌提要』 明治6年1月1日調本籍人口
名邑市坊戸数人口
花巻31,0274,426

『明治八年共武政表』 明治6年1月1日調本籍人口
輻輳地(千人以上)戸数人口
川口町1,0274,426
大迫村2191,100

『明治十一年共武政表』 明治12年1月1日調本籍人口
輻輳地(百人以上)戸数人口
下根子120618326292
里川口8313,4481,7731,675
花巻4011,709894815
八幡132707351356
好地161827425402
大迫3591,723922801

『明治十二年共武政表』 明治13年1月1日調本籍人口
輻輳地(百人以上)戸数人口
大迫駅3001,452766686
好地村内石鳥谷113575285290
八幡村47230117120
花巻駅3811,749901848
里川口村8233,4521,7931,659
下根子村321548173

『明治十三年共武政表』 明治14年1月1日調本籍人口
輻輳地(百人以上)戸数人口
大迫3071,483783700
石鳥谷117549278271
八幡51229103126
花巻3891,590806784
里川口8273,3721,7421,630
下根子1201497871

『都府名邑戸口表』 明治17年1月1日調本籍人口・現住人口 (現住人口は出入寄留者のみを考慮し、逃亡失踪者、陸海軍の兵営艦船に在る者、監獄に在る者、外国行きの者の加除は考慮せず)
都府名邑本籍戸数本籍人口現住戸数現住人口
花巻1,4236,1521,4156,048

『地方行政区画便覧』 明治17年1月1日調本籍人口
戸長役場ノ所在地村数戸数口数村名
大迫村41,3087,418大迫村・亀ヶ森村・内川目村・外川目村
関口村87894,460関口村・八重畑村・滝田村・猪鼻村・五大堂村・
東中島村・新堀村・戸塚村
高木村57664,063高木村・東十二丁目村・矢沢村・高松村・幸田村
好地村96163,712好地村・北寺林村・大瀬川村・八幡村・中寺林村・
大興寺村・富沢村・松林寺村・長谷堂村
湯本村115393,031湯本村・二枚橋村・台村・北湯口村・糖塚村・
大畑村・南寺林村・金矢村・小瀬川村・椚目村・
狼沢村
東宮野目村135963,254東宮野目村・下似内村・北飯豊村・葛村・江曽村・
西中島村・黒沼村・小森林村・田力村・庫理村・
柏葉村・上似内村・西宮野目村
里川口村71,6537,472里川口村・南万丁目村・花巻村・北万丁目村・下根子村・
西十二丁目村・外台村
円万寺村119516,386円万寺村・膝立村・鍋倉村・湯口村・西晴山村・
上根子村・中根子村・下シ沢村・鉛村・豊沢村・
太田村

『市街名邑及町村二百戸以上戸口表』 明治19年12月31日調本籍人口・現住人口 (現住人口は出入寄留者のみを考慮し、逃亡失踪者、陸海軍の兵営艦船に在る者、監獄に在る者、外国行きの者の加除は考慮せず)
市街・町村公称町村数本籍戸数本籍人員現住戸数現住人員
大迫11,8133502911,701
川口16343,0356543,180
花巻13881,8294021,868
里川口17663,5277963,707
亀ヶ森村2531,4612441,443
内川目村4182,7533962,723
外川目村2341,5302131,523
新堀村2241,9273241,902
東十二町目村2121,0672121,067
太田村3382,4853382,454

『法令全書』 明治22年12月31日調現住人口 (現住人口は出入寄留者のみを考慮し、逃亡失踪者、陸海軍の兵営艦船に在る者、監獄に在る者、外国行きの者の加除は考慮せず)
町村名現住人口市町村制施行時の合併
花巻町2,507花巻村・北万丁目村・高木村の一部
里川口町4,619里川口村・南万丁目村・高木村の一部
大迫町1,918大迫村
内川目村2,745内川目村
外川目村1,589外川目村
亀ヶ森村1,437亀ヶ森村
八重畑村2,437八重畑村・関口村・滝田村・猪鼻村・五大堂村・東中島村
新堀村2,223新堀村・戸塚村
矢沢村3,804矢沢村・高松村・幸田村・東十二丁目村・高木村の一部
好地村2,760好地村・北寺林村・大瀬川村・大興寺村・松林寺村・富沢村・長谷堂村
八幡村2,134八幡村・中寺林村・南寺林村・江曽村・西中島村・黒沼村・小森林村
湯本村2,965湯本村・北湯口村・大畑村・二枚橋村・台村・金矢村・小瀬川村・椚ノ目村・狼沢村・糖塚村
宮野目村2,759東宮野目村・西宮野目村・葛村・田力村・庫理村・柏葉村・上似内村・下似内村・北飯豊村
根子村1,539下根子村・西十二丁目村・外台村
湯口村4,453湯口村・円万寺村・鍋倉村・膝立村・西晴山村・上根子村・中根子村・鉛村・下シ沢村・豊沢村
太田村2,629太田村

こうやって並べてみると、藩政時代の花巻三町(河口町・四日町・一日市町)・里川口村・花巻村から、里川口村・花巻村への統合は、明治8年末~明治11年前半頃に行われたと推測されます。また[80328]で、
里川口と花巻の人口は4年後の明治17年1月1日調の『市街名邑及町村二百戸以上戸口表』に比べると共に300人程少なく、つまり明治十年代の里川口・花巻はかなりの人口増加をしていることが明らかです。
などと書いてしまいましたが、明治12年~明治14年の間は花巻周辺の人口はむしろ減っていたようで、明治10年代前半は人口減少、明治10年代後半は人口増加など、人口の流出・流入が劇的に起こっていたようです。戸数の方(もしかしてこの場合は家数?)は大きな変化はありません。

なお明治17年の『都府名邑戸口表』の花巻の本籍人口1423戸6152人は、明治19年調の『市街名邑及町村二百戸以上戸口表』 の里川口766戸3527人+花巻388戸1829人=1154戸5356人と比べても多すぎます。人口だけなら変動の範囲内ですが、戸数が200戸も違います。

以上により、明治11年~明治13年の『共武政表』と明治19年調の『市街名邑及町村二百戸以上戸口表』で「花巻」という名前の下に示される約400戸の輻輳地・市街は、実は町部分(藩政時代の四日町+一日市町)のみではないかと私は考えるに至りました。明治19年の川口634戸3035人+花巻388戸1829人=1022戸4864人は、『日本地誌提要』・『共武政表』の明治6年の花巻/川口町の本籍人口1027戸4426人と(特に戸数が)良く対応しています。このことは同時に[80330]の白桃さんの考えが正解に近いことも示唆しますね。
[80339] 2012年 2月 26日(日)16:48:48【1】YT さん
江戸時代の花巻の人口について
江戸時代の花巻の人口について[80328]で言及した『花巻市史 近世篇二』(1982年)からの引用を紹介します。

『邦内郷村志』によると、花巻三町の人口は、川口町2685人、四日町702人、一日市543人、合計3930人とあります。この他組同心38戸、竈数71家とありますが、これだけでは武家人口は推定できません。

さて、江戸時代の盛岡藩の藩内の人口構成は、『雑書』という盛岡藩藩内史料に詳しく掲載されているそうです。私はその原本を読んだことがありませんが、高橋梵仙の『日本人口史之研究』(1955年)の方に掲載されている数字を多少加工してwikipediaの江戸時代の日本の人口統計の方にまとめました。「多少加工」というのは高橋梵仙氏の表自体に明らかな項目ズレという誤植があったり、男女合計や小計に不一致があったりするからです。本当は原本や、原本から作成した活字本を閲覧出来れば良いのですが。

上記表では「四町」と町人人口を纏めてしまいましたが、雑書原本の天和三年(1683年)の御領分切支丹によると

盛岡御町
一、壱万弐千三百弐十四人 内 男六千七百四十七人 女五千五百十七人
郡山御町
一、弐千百六十七人 内 男 千百三十壱人 女千三十六人
花巻御町
一、四千六百五十四人 内 男 弐千五百十六人 女弐千百三十八人
三戸御町
一、千四百九十壱人 内 男 八百弐十九人 女六百六十二人

という具合に盛岡藩内の四町の人口が紹介されています。ここで『岩手県史』からの記述を引用すると

天和三年(1683年)には花巻の町人が四千六百五十四人とある。その外花巻侍を百五十戸とし、一戸六人とすると九百人、足軽六十戸として三百六十人、合わせて五千九百十四人、その他を加えると六千人前後あったことが推考されよう。

とのことで、花巻城下に暮らす武家、寺社方人口は1400人程度と推定されています。

一方花巻の人口変遷は、高橋梵仙氏からの引用に従うと(天保5年の数字は『岩手県史』から)

元号西暦町方人口元号西暦町方人口元号西暦町方人口元号西暦町方人口
天和3年1683年4,654元文3年1738年6,364宝暦12年1762年4,987天明4年1784年4,517
貞享元年1684年4,611元文4年1739年6,365宝暦13年1763年4,035天明5年1785年4,565
元禄3年1690年4,842元文5年1740年6,268明和元年1764年4,079天明6年1786年4,548
元禄4年1691年4,821寛保元年1741年6,193明和2年1765年4,091天明7年1787年4,585
元禄6年1693年5,025寛保2年1742年5,881明和4年1767年4,353天明8年1788年4,568
元禄7年1694年5,339寛保3年1743年4,757明和5年1768年4,216寛政元年1789年4,598
元禄8年1695年5,417延享2年1745年4,894明和6年1769年4,126寛政2年1790年4,586
元禄9年1696年4,960延享3年1746年4,890明和7年1770年4,119寛政3年1791年4,595
元禄12年1699年5,188延享4年1747年4,780明和8年1771年4,126寛政4年1792年5,406
元禄13年1700年5,187寛延2年1749年4,592安永元年1772年4,152寛政5年1793年5,422
元禄14年1701年5,278寛延3年1750年4,547安永2年1773年4,138寛政6年1794年5,383
正徳元年1711年5,199宝暦元年1751年4,438安永3年1774年4,637寛政7年1795年5,399
正徳2年1712年5,261宝暦2年1752年4,513安永4年1775年4,539寛政8年1796年5,376
正徳3年1713年5,399宝暦3年1753年4,544安永5年1776年4,541寛政10年1798年5,393
享保3年1718年4,974宝暦5年1755年4,563安永6年1777年4,548享和3年1803年5,431
享保5年1720年5,055宝暦6年1756年4,753安永7年1778年4,523天保5年1835年4,622
享保12年1727年4,866宝暦7年1757年4,453安永8年1779年4,552天保10年1839年5,415
享保18年1733年4,857宝暦8年1758年3,691安永9年1780年4,544天保11年1840年5,401
享保19年1734年4,928宝暦9年1759年3,751天明元年1781年4,550
元文元年1736年4,921宝暦10年1760年3,811天明2年1782年4,561
元文2年1737年4,327宝暦11年1761年3,863天明3年1783年4,569

上の数字は近代以前の日本の都市人口統計にも掲載しましたが、男女別人口と合計が合わないところなどは加工しています。『岩手県史』、『花巻市史』にしても『雑書』に当たって数字をまとめていない(高橋梵仙→岩手県史→花巻市史の順に引用している)し、高橋氏自身、数字は知り合いからの紹介として解説しているので、誤植や計算間違いの真相は判りません。

ただ、『雑書』によると寛政年中の花巻の人口は約5400人で、『邦内郷村志』の4000人とは1400人の差があります。『岩手県史』の解説にある武家、寺社方推定人口約1400人がいい感じに当てはまりますが、そもそも『雑書』では武家、寺社方人口を別にカウントしています。『花巻市史』の方では解説していませんが、『雑書』が現住人口ベースの統計であることが関わっているのかも知れませんし、『邦内郷村志』の方が家持ちの人口しかカウントしていないせいなのかも知れません。でも一番ありえそうなのが、町の範囲が異なるせいでしょう。その差は花巻村と川口村(民戸合計21戸)だけでは説明がつかず、南万丁目村、北万丁目村等、かなり広い範囲も花巻に加算されているのでしょう。

『雑書』の人口に計外推定人口1400人(若干多過ぎる気もしますが)を合算することで、花巻の人口を計算さますと、花巻の人口は17世紀末順調に増え、1695年頃の元禄年中に6800人(町方5417人)に達しましたが、その後は人口減少に転じます。1738年~1742年の間は人口が1000人程急増していますが、おそらく町の範囲に変更があっただけと思われます。宝暦の大飢饉後に急激に人口が減少し、宝暦8年(1758年)には約4200人(町方3811人)と人口が底となります。宝暦12年(1762年)の突発的なプラス1000人を無視すると、18世紀末には花巻の人口は約6000人(町方約4600人)で安定しますが、寛政4年(1794年)以降、再び人口がプラス1300人となり、三町の外側まで加えた人口となったのでしょう。以降天保5年(1834年)を除き、三町の外側まで加えた地域が花巻人口として登録されています。『日本地詩提要』や『共武政表』の人口4426人は、天保11年(1840年)の人口5401年からマイナス1000人となっていますが、こちらは三町内だけの人口なのでしょう。

なお注意なければならないのは『雑書』の人口は信頼に欠ける点が残っています。『盛岡市史』の編纂に関わっている森嘉兵衛が指摘したように、宝暦の大飢饉以降、どうも盛岡藩は飢饉による人口減少の責を幕府から問われることを恐れ、人口データを集計段階で捏造したのではないかという疑いを持たれています。歴史人口学者の速水融も「近世日本の人口構造と変動」で指摘しているように、宝暦2年(1752年)以降総人口が約35万人で固定されており、しかも安永6年(1777年)から寛政2年(1790年)の間は1年を除いて性比が112.9に固定されており、「ある意味では、性比まで考慮するかなり高度の人口への知識を持った者の仕業とい言わざるを得ない」というわけです。

実は人口の捏造は盛岡藩だけでなく、長州藩も行っています。延享3年(1750年)の人口を幕府に報告する際、藩主の了解のもと郡レベルで配分して6000人の人口水増しを行ったことが『公儀事諸控』に記述されているそうです。長州藩の場合は藩の控えの人口史料と幕府への報告人口とに差がある年が他にもありますが、盛岡藩ほど極端な異常は見られません。
[80346] 2012年 2月 28日(火)00:42:20右左府 さん
里川口・花巻川口
横から失礼します。

[80334] YT さん、[80332] htmさん ほか
明治22年の町村制で発足した自治体は、『花巻市史』にも「里川口町」と記されていたのでしょうか?

幸いなことに近所の図書館に『花巻市史 近代篇』が所蔵されており、早速確認してきました。


まず、「第一章 行政の変遷/第八節 町村制施行」にて以下のように記されています。(表中の漢数字は算用数字に改めた)

 明治二十二年(一九八九)の町村合併による市町村区域および資力に関する調書である「新町村区域資力調」(岩手県庁所蔵)から、旧町村名、新町村名、面積、人口、個数、合併を要する事由を次に列挙し参考に供したい。(現花巻市分のみを記する)

新町村名旧町村名面積人口戸数合併ヲ要スル事由
(略)
花巻町花巻4041,868401(別記1※)
北万丁目21430249
高木村ノ内53239360
6722,409486
 
里川口町里川口1013,679896(別記2※)
南万丁目211589112
高木村ノ内731
3214,2711,009
(以下略)

【当初は里川口町】説を一応は裏付けますが、あくまで他資料の引用です。(「新町村区域資力調」もやはり県作成の資料?)

同章ではこの後 「里川口町→花巻川口町改称」 については一切触れられず、大正12年の根子村合併・昭和4年の花巻町合併について触れた「第十節 その後の合併」にて
第十節 その後の合併
一、根子村合併
 大正十二年(一九二三)六月一日花巻川口町と根子村が合併し、人口約九千人の花巻川口町が誕生した。合併の事由、経緯の概要は次の通りである。
(略)
 根子村は、花巻川口町に隣接してその南の方にあつた村である。この合併によつて北上川西岸部の地区であつた根子村はなくなつたが、その地域の下根子、西十二丁目、外台は町の大字として残された。
と、突如「花巻川口町」が現れています。


章は変わって、 「第二章 明治期の諸相/第八節 町政の一面」。ここでは歴代町長の施政について記されており、
 第八節 町制の一面
 明治二十二年(1989)の町村制実施によつて、里川口村、南万丁目村、高木村の一部が合併、里川口町と改称された。
 里川口町の初代町長は柏葉富次郎、……(略)
 明治三十五年(一九〇二)病で退職した柏葉のあとに六月から二代目の町長として松川他次郎が就任した。……(略)
と、やはり【当初は里川口町】説に立った記述に始まります。

改称があったと思しき時期の町政に関する記述の中でそれに触れた箇所は見当たりませんが、その後の三代目町長時代に触れた段落にて
 里川口町(明治三十年十月三十日、花巻川口町と改称)の三代目の町長は菊池末治である。……(略)
とあり、[80320] むっくん さんがご覧になった資料と一致する 【明治30年10月30日改称】 がさらっと書かれていました。

本書中で 「里川口町→花巻川口町改称」 を明記した箇所は他に見当たらず、これが唯一の記述と思われます。町村制に触れた箇所でもなく括弧書きだけの記述ではありますが、それなりに意味はあるものではないでしょうか。


……と、以上は【当初は里川口町】説に沿った記述なのですが、一か所これに反する記述を見つけました。
巻末の 「史料/四、花巻市制申請書(付、町村沿革)」 に、昭和29年の花巻市新設の際県に提出された市制申請書とともに合併前の各町村の概要・沿革が書かれています。その中の 花巻町 の項に、
 (略)明治二年盛岡藩に属し、同三年盛岡県同五年岩手県管轄となり現在に至つた。当初は花巻村、里川口村、高木村、北万丁目村、南万丁目村、根子村は夫々一戸町役場の下にあつたが、明治二二年町村制実施に際し、花巻川口町(里川口村、南万丁目村と高木村の一部を合併)花巻町(花巻村、北万丁目村と高木村字小舟渡を合併)根子村となり更に大正一二年郡制廃止とともに同年六月根子村が花巻川口町に編入し、次いで昭和四年四月一〇日花巻川口町に花巻町が合併して町名も花巻町(大字花巻、北万丁目、高木、里川口、南万丁目、下根子、西十二丁目、外台)と改め現在に至つている。
と、【当初から花巻川口町】説が現れているのです。
なお、申請書は原文の引用と思われるのですが、その後に続くこの「町村沿革」が申請書の一部なのか著者が添えたものなのかは不明です。

市史ですらこうした扱いの “里川口・花巻川口問題”、なかなか一筋縄ではいきませんね。

***********************************

(※)引用した表中「合併ヲ要スル事由」を以下に記します。(ひらがなは原文ではカタカナ)

別記1:本村は花巻北万丁目及高木村の内北上川以西字小船渡の一部落を合併す其地勢南は里川口町東は高木村の内飛地字小船渡西は湯口村に境し従来里川口町と共に花巻の総称あれとも延長なる坂路を以両地を隔て随て民情相協はす人民亦分離して一町をなさんことを冀望し資力に於て両町とも不足なきを以て各独立とす

別記2:旧村里川口南万丁目の二村は連軒櫛比して一町をなせり而して高木村の内字中川原は里川口村に接続し瀬川其間を貫通し所謂花巻川岸なるもの此地ナリ故に従来船舶の出入貨物運漕里川口町に関係し交通上尤至便の地なるにより村民の意向と郡戸長聯合会の意見を聴き之を合併す
[80347] 2012年 2月 28日(火)05:25:11YT さん
岩手県下之町村
[80346] 右左府 さん

『花巻市史 近代篇』のご紹介有難うございます。

とりあえず、
[80336]で私が書いた、
以上により、明治11年~明治13年の『共武政表』と明治19年調の『市街名邑及町村二百戸以上戸口表』で「花巻」という名前の下に示される約400戸の輻輳地・市街は、実は町部分(藩政時代の四日町+一日市町)のみではないかと私は考えるに至りました。
は取り消しですね。花巻村と四日町、一日市町が分離していた時代、どうやら花巻村は幕末~明治維新でも十数戸レベルで、事実上無視できるサイズだったようです。

その代わり『都府名邑戸口表』記載の明治17年1月1日調人口は、花巻401戸1868人+北万丁目49戸302人+里川口896戸3679人+南万丁目112戸589人=1458戸6438人に大体対応することが示唆されます。ということは寛政3年(1791年)の町方4595人が三町に対応するとして、寛政4年(1792年)の町方5406人は、三町+里川口村+花巻村+南万丁目村+北万丁目村ぐらいに対応するのでしょう。

なお、近代デジタルライブラリーの『岩手県下之町村』(1925年)では、最初から花巻川口町扱いになっていました。

本村は元里川口と称せり、町村制実施の際南万丁目村並に高木村の内字(中川原の内瀬川筋嘉平治潤より北上川直径の零度以南限り)を併せ花巻川口町と称す。
[81048] 2012年 7月 8日(日)11:33:58千本桜 さん
岩手県の輻輳地「磐井」とは。宮城県の茶屋町ってどこでしょう。
共武政表の岩手県西磐井郡に「磐井」と言う名の輻輳地が記載されていますが、そのことでお尋ねします。磐井の人口は明治11年共武政表で4,561人、明治12年4,293人、明治13年4,310人となっています。人口規模からして磐井とは一関のことだと推測しますが、なにゆえ「一関」と表記しないで「磐井」と表記するのか、その理由が分かりません。一関城下は藩政期の一関、二関、三関の3村に跨がっていますが、3村は明治8年に合併して一関村を名乗っています。古来より城下町としての名称は一関、宿駅名も一関、村名も一関。ならば輻輳地の名称も一関で良いはずなのに、「一関」と表記できない何かがあるのでしょう。つらつら思うに、この「磐井」は一関以外のどこかを含んでいるのではないだろうか。そんな考えに至りました。一関宿の2キロほど北に山目宿があります。普通に考えれば山目は人口100人以上の輻輳地に該当するはずです。ところが共武政表には「山目」の記載がありません。そのことから、一関と山目を併せて1個の輻輳地とし、便宜上の名称を「磐井」としたのではないだろうかと考えるようになりました。明治11~13年当時、一関と山目の町並みは一体化していたのだろうか。いろいろ調べましたが定かなことは分かりませんでした。よって「磐井は一関と山目を併せた便宜上の名称」というのも、私個人の発想の域を脱していません。どなたか、共武政表に記載された「磐井」の正体をご存知の方はおられませんか。

共武政表の宮城県宮城郡に茶屋町という輻輳地が記載されています。初めて見る地名です。これは二軒茶屋のことなのでしょうか。それしか思い浮かびません。でもマピオンを見て、あれ!と思いました。本来の二軒茶屋はこのへんではなかったでしょうか。だって昔、新寺小路から延びてきた道路のこのへんに二軒茶屋南というバス停があったのですから。二軒茶屋は二軒茶屋南バス停より北にあったはずだと思うのですが、みんな遠い過去の思い出。
[81073] 2012年 7月 12日(木)07:50:57【1】白桃 さん
疑問・質問&御礼
ごく最近の記事を見ていて、改めて疑問が湧いてきたことがあります。
1.「市街名邑及び町村二百戸以上戸口表」に記載されている人口の出典元はどこなのか・・・「共武政表」に続く「徴発物件一覧表」なのでしょうか?

2.「日本地誌提要」には町村数が載っていますが、市町村制度が発足する以前に、どこが町で、どこが村かという規準と町村の一覧表というのがあったのでしょうか。
[81059]YTさんの記事関連)

3.山ノ目駅西側と(一関駅方面から来て)磐井川を渡った一帯の山目は同じ山目(旧村→旧町)なのでしょうか、多分そうなんでしょうけど、だとすると(旧)中里村が入りこんでいて不自然な気がします。
[81048]千本桜さんの記事関連)

以上、どなたか詳しい方がいらっしゃいましたら、お教えください。

[81036]グリグリさん
データベースを更新しました。青森県の推計人口が差し引き10人増えたということでよろしいですね。
さようでございます。ありがとうございました。そ、そろそろ「白桃マガジン」の次の特集を組まなければ・・・(汗)

[81072]hmt さん
最初に目に着いたのが、全国戸数一千以上地名表 なのですが、「1880年の全国都市リスト」ともいうべき この地名表 に入る前に、[62939]と同様に各国トップページへの リンクINDEXを作成しておきます。
こうしていただくと、データ入力の際に大変助かります。ありがとうございました。
「全国戸数一千以上地名表」ですが、讃岐には、志度、高松、宇多津、丸亀、多度津、琴平、観音寺と7つも出てきますが、もう一邑出てきてほしい、金毘羅代参三十石船、森の石松の心境です。(笑)
[81088] 2012年 7月 13日(金)20:05:41千本桜 さん
山目と中里の関係。輻輳地の鹿島台とはどこか。高須賀の輻輳地は荒浜
[81073] 白桃さん
山ノ目駅西側と(一関駅方面から来て)磐井川を渡った一帯の山目は同じ山目(旧村→旧町)なのでしょうか、多分そうなんでしょうけど、だとすると(旧)中里村が入りこんでいて不自然な気がします。
JR山ノ目駅がある場所は山目村ではなく中里村の領域です。また、また現在の新町蘭梅町山目町二丁目山目町三丁目なども元をたどれば中里村の領域でした。ですから、本来は山目村と中里村の間に不自然な領域の入込みはありませんでした。ではなぜ中里村にJR山ノ目駅や山目町があるのかというと、これには宿駅「山目」の存在が絡んでいます。山目宿は山目村と中里村に跨がる宿場で、山目町(現在の山目町一丁目、二丁目)と呼ばれる町場を形成していました。山目村に属す町場は現在の山目町一丁目、中里村に属す町場が現在の山目町二丁目です。中里村の内に山目町という町場があったわけですから、中里地区民はJR山ノ目駅や山目町二丁目の呼称も自然に受け入れていたと思います。

[81048]
明治11~13年当時、一関と山目の町並みは一体化していたのだろうか。
と書きましたが、角川地名大辞典を読んでみると、磐井川で分断されるものの、連続した町並みの様子が見えてきました。

明治11、12、13年の共武政表を見て思うのですが、宮城県の輻輳地のうち、下記の2箇所は場所を勘違いする人がいるかもしれませんね。
輻輳地明治11年の表記明治12年の表記明治13年の表記
鹿島台記載なし鹿島臺126人鹿島臺127人
高須賀高須賀村2,352人高須賀2,301人高須賀1,770人
共武政表は人口120人ほどの小さな輻輳地「鹿島台」を掲出しています。鹿島台とはどこを指すのでしょう。現代の我々が思い浮かべる鹿島台の町並みといえば、平渡地区(藩政村の平渡村)に展開するJR鹿島台駅前の町並みでしょう。でも、江戸~明治初期において平渡村内に鹿島台と呼ばれる集落があった話は聞いたことがありません。しかし、平渡地区に隣接した広長地区(藩政村の広長村)には元鹿島台(通称)という集落があり、2.5万分の1地形図にもその名が記載されています。また、宮城県各村字調書によると広長村に鹿島台(たぶん通称)があり、鹿島台には鹿島、琵琶原という二つの小字が記載されています。鹿島、琵琶原を頼りに場所を探すと、2.5万分の1地形図の元鹿島台と同じ場所に行き着きます。よって、共武政表の鹿島台とは元鹿島台の集落を指していると判断します。
また、共武政表は輻輳地「高須賀」を掲出しています。現代の我々が思い浮かべる高須賀はここ。でも、明治13年共武政表の輻輳地「高須賀」は、高須賀村の端郷で河口港の荒浜を指していると判断します。
[81095] 2012年 7月 14日(土)07:55:47白桃 さん
大内郡の町数は三
[81075]YT さん
人口・町数など
[81086]むっくん さん
町であるか村であるかの判断基準
[81073]で書き込みました私の疑問に対して有益な情報をご教示いただきありがとうございました。
お蔭さまで、ぼんやりながらも先が見えてきたような気がいたします。もっとも、「その先にあるもの自体がはっきりしたものではない」ことが分った、というのが本音です。
以下は、私の頭の中での復習です。
[81066]にてYTさんが記されていますとおり、「日本地誌提要第6冊」(明治8年)には讃岐国大内郡の町数は3とありますが、これは125%、引田、松原(後の白鳥本町)、三本松のことであり、同寒川郡の町数2とは、85%の確率で志度、津田を指している、と考えています。そして、それを明確にしたものを見たいのであるが見当たらない。あったとしても、明治初期においては何らかの統一規準による裏付けのあるものではない。
脱線しますが、大内、寒川両郡の場合は「町」と「村」の区別がわりと分かりやすいのです。しかしながら、両郡が大川郡として編成され、その郡役所が「辺境」の「後進の町」長尾に置かれた、これも良く分かりません。

[81088]千本桜 さん
JR山ノ目駅がある場所は山目村ではなく中里村の領域です。また、また現在の新町、蘭梅町、山目町二丁目、山目町三丁目なども元をたどれば中里村の領域でした。ですから、本来は山目村と中里村の間に不自然な領域の入込みはありませんでした。
有難うございます。これで、すっきりいたしました。
ところで、「磐井」の件ですが、
A.磐井=一関
B.磐井=一関+山目
のどちらかでしょうけど、明治8年の「共武政表」には
一関驛4,365人、山目驛1,251人
となっておりますが、「市街名邑及び町村二百戸以上戸口表」には
(第一表)磐井4,969人、(第三表)赤荻村1,807人
となっており、「山目」の名は出てきません。
以上のことから、私もBではないかと思うのですが、磐井県が出来たときに一関の町を一時的に「磐井」と呼んでいたのではないかという考えも捨てきれません。

[81076]hmt さん
「戸数一千以上地名表」ですが、讃岐だけ「戸数500以上」に緩めて拾い上げてみました。
8位以下は、大内郡三本松村~ (9位以下略)
格段のご配慮有難うございます。(笑)
三本松には「煎鰯 砂糖」と記されていました。
そういえば子供のころ、”だしじゃこ”をおやつ代わりに良く食べていました。でも、あれはお酒の肴にするほうが・・・
[81089]hmt さん
讃岐で7つあった「戸数一千以上」の地名は、相模では小田原、横須賀、藤沢駅、浦賀の4つしかありません。
”かがわ”より「な」のある”かながわ”の一部である相模国で、「鎌倉」の名が見当たらないのも不思議ですが、当時は総称としてではなく、区画された街の名称を用いられることが一般的だったのでしょう。
[81192] 2012年 7月 28日(土)05:09:06【1】YT さん
文部省年報、磐井
[81186] 白桃 さん

ただ、下小田井(後の西枇杷島町→清須市)は、「戸数1,089、人口553人」とな
っており、思わず唸ってしまいました。

以前私が[67796]に書いたのと同じ問題に直面しているようですね。

地名明治12年1月1日調明治13年1月1日調
地名戸数人口戸数人口
下之一色村1,0794,5351,0624,381
下小田井村1,0864,2421,089553

明治12年1月1日調の方は男2125人+女2117人、明治13年1月1日調の方は男276人
+女277人となっており、おそらく後者が2076+2077人の間違いで、たぶん正し
い人口は4153人だろうという予測はつきますが、確証はありません。しかもこの
時代は戸数と言った場合、後の世帯数に相当する戸数と家数の混同が起こってい
たりします。

ところで以前、[68674][68675]で、文部省調による明治12年と明治13年の「人口壱萬人以上ノ都邑」の人口を紹介しましたが、これの元データが『日本帝国文部省年報』の「人口壱万以上都邑学事統計表」であることが判りました。『日本帝国文部省年報』では、明治10年から明治18年まで、人口1万人以上の都邑の人口と、明治10年から明治16年までの各府県の主だった都邑の人口がまとめてあり、これについては量も多くないのでいずれまとめようと思います(というか、「人口壱万以上都邑」に登場する138都邑の9年間(明治10年~明治18年)の人口については既にまとめ済みです)。

ただこの表で使われている人口は、共武政表や日本民籍戸口表の人口とほとんど一致しません。文部省が独自に人口調査をしているとは思えないので、内務省や警察署の戸籍調査を使っていると推測されるのですが、これらが本籍人口なのか、現住人口なのか、あるいは年始/年末調のいずれかなのか、等々、色々データに問題があるので、公式の人口データとみなしていいのか微妙な状況です。せめて一言どこかに人口データの典拠や方法論についての言及があればいいのすが・・・

[81048] 千本桜さん
共武政表の岩手県西磐井郡に「磐井」と言う名の輻輳地が記載されていますが、

明治10年には磐井は人口1万3702人(明治11年1月1日調?)の大都市という扱いになっています。明治11年には人口1万1813人(明治12年1月1日調?)、明治12年には9403人(明治13年1月1日調?)、明治13年には7974人(明治14年1月1日調?)、明治14年には6791人(明治15年1月1日調?)に減っており、都市域の範囲がいい加減であることが伺えます。明治15年の磐井の人口は6822人と少し増え、明治16年には6859人となっています。残念ながら明治17年~明治18年は「人口壱萬人以上ノ都邑」しか掲載されていませんので対象外ですが、『文部省年報』の記述を信じるのなら少なくとも明治10年から16年頃までは、「一関」ではなく「磐井」の方が正式な呼称として採用されていたようにみえます。
[73411] 2009年 12月 27日(日)11:49:19hmt さん
なぜ「日和佐」という地名を使わないのか?
[73385] oki さん
日和佐も牟岐も良い町です。日和佐は薬王寺(地元民は「おやくっさん」と呼びます)の門前町兼漁師町で、活気のある町でした(過去形です。残念ながら)。
「ウエルかめ」…これで徳島の南方を多くの人が知って、訪れる人が増えればいいなとは思っています。

先月の旅[73150]で NHKが 「ドラマチック!四国」 を宣伝していることを知りました。
四国を舞台にした3つのドラマの一つ、連続テレビ小説「ウエルかめ」を見て不思議に思うのは、専ら「美波町」と呼んでおり、「日和佐」という地名の使用を避けているように思われることです。

2006年合併の新しい町名を全国に認識してもらうために「美波町」を使いたい。それはよいのです。
しかし、その美波町が 「日和佐」の名で知られていた町であることにつき、全く言及していないことに 違和感 があるのです。
これでは、これまで何十年もかけて全国に売り込んできた「日和佐」の知名度を全く生かしていません。

天然記念物「大浜海岸のウミガメおよびその産卵地」の 日和佐うみがめ博物館カレッタ をモデルとした「ウミガメ館」もドラマに登場しますが、「日和佐」の名はここでも使われていません。

HPによると博物館所在地は「海部郡美波町大浜海岸」。そして、HP右肩の役場所在地は「美波町奥河内字本村18-1」と記されています。オヤオヤ、いずれの住所も「日和佐」ではないのか?

更に調べると、博物館の正式な住所は「美波町日和佐字浦」であるらしく、ようやく「日和佐」が出てきました。
しかし、mapionを見ると日和佐浦は海岸に近い比較的狭い範囲であり、役場や日和佐駅の住所は奥河内であるようです。

[51277] 88さん によると、1956年9月30日に、赤河内村が赤河内町になり、これが(旧)日和佐町を編入し、更に赤河内町を(新)日和佐町に改称するという 3段階の変更 が行なわれて、2006年の 新設合併 まで存続した日和佐町になったとのこと。

余談ですが、上記の日付は昭和大合併の最終日で、全国では 335件の合併が行なわれました[55364]

役場や日和佐駅の所在する奥河内は、「おやくっさん」の門前町【四国第二十三番医王山薬王寺の住所は美波町奥河内寺前】で、漁師町である旧日和佐町と隣接するが 別の自治体 である 旧赤河内村だったのでしょうか。

実は、推測によって上記のように書いた後で、1889変遷情報 を調べました。
赤河内村は予想通り赤松村プラス3つの○河内村からの合成地名でしたが、奥河内村は これとは別の組で、いかにも海岸という地名の日和佐浦村・恵比須浜村と合併しており、旧日和佐村→1907年日和佐町になっていました。

67年後の昭和合併の際には、面積では山側の旧赤河内村が圧勝(9:1)しながらも、人口と知名度は海岸部の旧日和佐町が勝る状態でした。その結果、次のようになったのでしょう。
「名」を旧日和佐町が、「実」を旧赤河内村が取っています。

このような経過を見ると、薬王寺門前町である奥河内の人々も、明治合併以来の100年以上「日和佐」という地名を使い、慣れ親しんできたことがわかります。

平成合併の結果「美波町」になり、町内の住所の表示が町村制施行より前の村の名に戻った結果、大部分の地域の住所からは「日和佐」の文字が消えました。
現住所重視の姿勢([41773] miki さん)を貫くと、「日和佐」という地名は使われないという結果になるのでしょう。

しかし、明治合併以後だけでも 100年以上も使い、売り込んできた地名を捨て去るのは、もったいないことであると思います。
ほとんどの住所から消えた「日和佐」の名を惜しんで、一筆記した次第です。
幸い、訪れる人の多くが利用する鉄道や道路では、「日和佐」の名は健在であり、地名として消滅することはないでしょう。

年末でお忙しい okiさん の邪魔をするようで申し訳ありません。レスをくださるとしたら、時間ができてからで結構です。
[73445] 2009年 12月 30日(水)06:08:18oki さん
美波町「日和佐」奥河内
今年分の仕事は何とかやっつけました。帰省前なので、あれこれ手短にレスを。

[73411] hmtさん  なぜ「日和佐」という地名を使わないのか?

「日和佐」の地名があまり使われていない(ように見える)理由として、2つの要因があると思います。
一つは、一般に「日和佐」と認識されている場所に比べ、「日和佐」の住所を名乗る地域が非常に狭いこと。二つめは合併して美波町になった由岐町への配慮だろうと思います。
まず第一の要因について。[73385]で「日和佐は薬王寺の門前町兼漁師町」と書きましたが、これが日和佐に関する一般的な認識で、要するにJR日和佐駅の周辺、日和佐川の河口部に開けた小都邑です。
もともとは日和佐川左岸(北岸)に位置する「日和佐浦」が中心だったと思われますが、ここは面積狭小な漁師町のため、江戸時代から隣接する奥河内に市街地が広がり(奥河内字本村と呼ばれる地域です)、一体的な町場になっていたようです。薬王寺やその門前集落は川の右岸にありますが(奥河内字寺前)、こちらも左岸の集落と一体的な存在だったはずです。さらに明治以降は、薬王寺の南側に牟岐線の日和佐駅が開設され、その周辺にも市街地が広がりました(奥河内字弁財天)。これらの地域を含んだ町場が「日和佐」です。千本桜さん流に言えば、「日和佐へ行く」と言った場合に対象として意識される地理範囲、ということになります(旧赤河内村は「日和佐」ではない)。
「富来」と地頭町、領家町との関係と同じく、日和佐浦と奥河内を併せた一体的市街地が「日和佐」なのですが、富来との大きな違いは、面積で見て奥河内が圧倒的に大きく、駅、町役場、各級の学校など主要施設の大半が奥河内にあることで、日和佐浦に位置するのは大浜海岸とうみがめ博物館(カレッタ)くらいです。それでも、今回の合併前はずっと日和佐町(村)奥河内だったので問題はなかったのですが、合併後は美波町奥河内になってしまったため、駅も役場も日和佐を名乗る地域にはなく、「日和佐」という地名が使われていない、という印象を与える結果になっているのだと思います。
この事態を避けるためには、富来と同様に美波町「日和佐」奥河内のような冠称を着ければ良かったのかもしれませんが、片方が「日和佐」日和佐浦になってしまうので、そうもいかなかったのでしょう。奥河内だけに日和佐を冠称するのも妙な話ですしね。

明治合併以後だけでも 100年以上も使い、売り込んできた地名を捨て去るのは、もったいないことであると思います

私もそう思うのですが、以上の状況からいかんともしがたい、というのが実態だったと思います。ただ、「日和佐」の名は鉄道や道路に残っているだけでなく、人々の意識に深く染み込んでいるので、「美波」が取って代わるまでには1世代以上の時間が必要だと思います。少なくとも、私たちの世代の人間があの町を「美波」などと呼ぶことは、絶対にないでしょう。
なお、美波町のHPではウミガメ博物館の住所が「日和佐字浦370-4」となっていましたが、「日和佐字浦」という住所はなく、近世村の名称をそのまま残す「日和佐浦」です。なぜ町のHPが間違っているかは謎です。

もう一つ、由岐町への配慮という点は私の推測です。前にも書いたように、気恥ずかしいので「ウエルかめ」はあまり見ていないのですが、横目で眺めているところでは、主な舞台は日和佐と徳島市内で、美波町に合流した由岐町はまったく出てこないようです。この状況で、ドラマに関連して「日和佐」を強調した場合、旧由岐町民の日和佐側を見る目が非常に微妙になり、合併町内での旧町民同士の融和に大きな齟齬が生じる畏れがあります。
実際にそういう動きがあるかどうかは分りませんが、昭和合併時に、誰がどう考えても日和佐町による赤河内村の吸収合併であるにもかかわらず、町制施行した赤河内村が(旧)日和佐町を編入した上で(新)日和佐町に改称するという3段階の変更を行なって赤河内に花を持たせた(それ以外に理由はない)日和佐町ですから、今回も由岐側に気を遣ってわざと「日和佐」を目立たせず、「美波」を強調している、としても不思議ではないと思います。あくまで推測ですけどね。

[73413] hmt さん
注目すべきは、藩政村についての6回シリーズを上梓された okiさん が、[71198]以降は「近世村」を使うようになり、既に5つもの記事があることです。
「近世村」の用語は意識して使っています。理由はお察しの通り。私自身は、江戸時代を通じて全県が徳島藩領だった地域の出身ですので「藩政村」でも別に構わないのですが、違和感を感じるという方がいらっしゃる以上、特にこだわるほどのものでもありません。「近世村」なら、藩領、幕領、旗本領、寺社領、公家領、皇室領など、すべてが含まれますからね。
[82393] 2012年 12月 29日(土)19:04:46白桃 さん
瞬間の町「赤河内町」は果たして「町」と認めていいのか
もう十年以上前の私の書き込み[5356]
2つ以上の町が合併したにもかかわらず依然として町のままで今日に至っているところを列挙いたします。
の中に
日和佐町(日和佐、赤河内)
がありますが、この「赤河内町」というのが、[51277]88さんの記事にもあるように
1956年9月30日に
赤河内村を赤河内町とする
日和佐町を赤河内町に編入する
赤河内町を日和佐町とする
の瞬間の「町」なのですが、ここで問題にしたいのは、一日のうちに行われた「ドタバタ劇」とは言え、日和佐町を編入する前に町制施行した赤河内には単独で町になるだけの市街地が形成されていたのかどうか、ということです。北河内駅周辺に若干の連たんした集落形成が見られますが、どうなんでしょうね。
邪推かもしれませんが、形式的にしろ、日和佐という町が村に編入されるという事実がどうもみっともないので、無理やり(一瞬でもいいから)「町」に仕立てたのではないかと・・・

ま、年末のあわただしい時に考えることでもありませんけれど・・・
[82395] 2012年 12月 30日(日)00:30:34白桃 さん
順序が逆なら・・・
[82394]hmt さん
日和佐・赤河内の昭和合併
ありがとうございます。昨日までの落書き帳で“赤河内”の語が出てきたのは、4回しかありません。もちろん、[73445]okiさんの記事は読んでおりました。
言葉足らずであったとは思いますが、「赤河内に花をもたせる」だけなら、以下の通りで良かったのではないかというのが私の考えです。
日和佐町を赤河内村に編入する→赤河内村が町制施行→赤河内町が日和佐町に改称
(つまり、福島県で同じ時期に行われた伊達町/伏黒村パターン)

[82391]山野さん
宮城県富谷町の推計人口が5万人を突破したとの事
は、住民基本台帳による人口ですね。国調人口を基にした最新の推計人口(12/1現在)では49,214人となってます。もっとも、推計人口でも富谷の5万人突破は時間の問題でしょう。
それはさておき、元日に市制施行の大網白里の12/1現在推計人口が49,984人となり、5万人を割りこみました。水をさすのでニュースにはならないでしょうけど。

この特集記事はあなたのお気に召しましたか。よろしければ推奨してください。→ ★推奨します★(元祖いいね)
推奨するためには、メンバー登録が必要です。→ メンバー登録のご案内


都道府県市区町村
白桃研究所長による人口テーマ専門誌

パソコン表示スマホ表示