[74052]88さん
[73754][73755][73756] むっくん さん 市制町村制施行時(愛媛県) への対応は、準備中です。
もっとも、[74035] 拙稿の 「市町村の一部区域にかかる廃置分合の表記方法について」とあわせて対応予定です。
とのことですので、
[73754][73755][73756]拙稿(市制町村制施行時(愛媛県))の補足をしておきたいと思います。
[73753]拙稿では
「本体」「一部」「飛地」の判断基準の方法としては、新旧対照市町村一覧(編著:和泉橋警察署、出版:加藤孫次郎、M22.12.(香川・愛媛県の部分はM23.6.))(第1冊・第2冊)を使うのが良いのかもしれません。
と書きながら、
[73754][73755][73756]拙稿では愛媛県市町要覧を用いて本体か否かの判断をしています。
そこで
愛媛県市町要覧(PDF)に従うか、
新旧対照市町村一覧に従うかで表記に差異がある場所が一箇所ありますので以下に挙げておきます。
愛媛県市町要覧の記載に従えば、
203 町制 西宇和郡八幡浜町 西宇和郡 八幡浜浦(本体;字本浦)
193 新設/村制 西宇和郡神山村 西宇和郡 矢野町, 八代村, 五反田村, 国木村, 八幡浜浦の一部「(字栗野浦)」
205 新設/村制 西宇和郡矢野崎村 西宇和郡 大平村, 高野地村, 八幡浜浦の一部「(字向灘浦)」
となり、新旧対照市町村一覧(編著:和泉橋警察署、出版:加藤孫次郎、M22.12.(香川・愛媛県の部分はM23.6.))の記載に従えば、
203 町制 西宇和郡八幡浜町 西宇和郡 八幡浜浦「の一部(字本浦)」
193 新設/村制 西宇和郡神山村 西宇和郡 矢野町, 八代村, 五反田村, 国木村, 八幡浜浦の一部「(字栗野浦)」
205 新設/村制 西宇和郡矢野崎村 西宇和郡 大平村, 高野地村, 八幡浜浦の一部「(字向灘浦)」
となります。
#
[73756]では#203の表記を間違えていますので、ここで訂正しておきます。
さて二者で食い違いが生じました。
まず愛媛県市町要覧ですが、これはおそらく人口という視点で本体か否かを決めているものと考えられます。
明治22(1889)年末の「市町村現住人口」を記した
内務省告示第34号(M23.10.6)では、八幡浜町4226人、神山村3889人、矢野崎村3886人となっています。
そして面積はおそらく
(
字本浦の面積)<(
字栗野浦の面積)≒(
字向灘浦の面積)
となります。
八幡浜浦全体の1/3にも満たない区域(字本浦)だけで、他の村々と合併して成立した神山村(字栗野浦が所属)、矢野崎村(字向灘浦が所属)の人口を上回っているため、字本浦を八幡浜浦の中心としたものと考えられます。
次に新旧対照市町村一覧の記載というのは、おそらく人口という視点と面積という視点の二つの視点を加味して、本体か否かを決めているものと考えられます。
人口からすると字本浦が中心であることは疑いがないが、面積が明らかに他の2字より小さいことより、どこが本体かということを決められないとしているのでしょう。
新旧対照市町村一覧の記載からは、一応は、三分割もしくはそれに類するものと読み取れます。
この一事例からも本体か否かを決めるのかを決める基準が大切となりそうです。人口という視点のみなのか、面積という視点のみなのか、それとも二つの視点を加味してなのか・・・。
最後にもう一箇所訂正です。
[73754]拙稿で記載している#72は正しくは
72 新設/村制 温泉郡味生村 温泉郡 別府村, 北齋院村, 南齋院村, 山西村(本体;一部地区を除く), 「和気郡古三津村飛地」
です。
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[74052]88さん
[73960]YTさん
2 1908.04.01 新設/村制 下県郡厳原「村」 下県郡 「厳原」桟原町, 「厳原」宮谷町, 「厳原」天道茂町, 「厳原」中村町, 「厳原」今屋敷町, 「厳原」田淵町, 「厳原」大手橋町, 「厳原」日吉町, 「厳原」国分町, 「厳原」久田道町, 厳原村, 南室村, 小浦村, 曲村, 久田村
11 1919.04.01 町制 下県郡厳原町 下県郡 厳原村
は
2 1908.04.01 新設/村制 下県郡厳原「町」 下県郡 桟原町, 宮谷町, 天道茂町, 中村町, 今屋敷町, 田淵町, 大手橋町, 日吉町, 国分町, 久田道町, 厳原村, 南室村, 小浦村, 曲村, 久田村
ではないでしょうか。
まず、
[73960]YTさんが挙げられておられる
日本帝国人口静態統計大正2年(編著・出版:内閣統計局、T5.3.16)ではT2(1913).12.31厳原町、
日本帝国人口静態統計大正7年(編著・出版:国勢院、T9.12.28)ではT7(1918).12.31厳原町、となっています。
次に当時の他の資料を見てみました。
明治41(1908)年末の「市町村別現住人口」を示した
官報(M42.10.30)・・・M41(1908).12.31厳原町
長崎県統計書明治41年(編著・出版:長崎県、M44.3.31)・・・M41(1908).12.31厳原町
長崎県統計書明治44年(編著・出版:長崎県、T2.3.20)・・・M44(1911).12.31厳原町
長崎県統計書大正元年(編著・出版:長崎県、T3.3.31)・・・T元(1912).12.31厳原町
となっています。
これらと併せますと、日本帝国人口静態統計では正しく記載されていると考えた方がよさそうです。
ではいつ厳原町となったかですが、
郡市町村廃置分合一覧表(明治36年12月31日-明治41年12月31日)(著・出版:内閣統計局、M42.12.10)では厳原町はM41(1908).4.1に廃置分合で成立したとあります。
とりあえずは対馬に沖縄県及島嶼町村制が成立したM41(1908).4.1の時点で厳原町となったものとして良いのではないでしょうか。
また、
郡市町村廃置分合一覧表(明治36年12月31日-明治41年12月31日)(著・出版:内閣統計局、M42.12.10)では厳原町成立以前の厳原各町には「厳原」との総称なしで記載されています。
明治36(1903)年末の「市町村別現住人口」を表した
官報(M37.12.12)でも厳原各町には「厳原」との総称なしで記載されていること、
長崎県統計書明治35-36年(編著・出版:長崎県、M38.12.11)で対馬島庁の所在地が単に宮谷町となっていることからも、厳原町成立以前の厳原各町には「厳原」との総称がないものとしてよいものと考えられます。