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[116458] 2025年 12月 4日(木)12:11:58【1】訂正年月日
【1】2025年 12月 4日(木)12:12:58
YT さん
美濃・三河に分布する広見(弘見)について
[116424]文字 さん
[116451]Amanda さん

しかし、愛知・岐阜の広見に関しては大した一族も見つからず(『姓氏家系大辞典』曰く、『美濃に廣見莊ありて、武藏等に此の氏存す。』とのこと。情報はこの2行のみ)なかなか苗字由来とも考えにくいです。

地名に関しては、『角川日本地名大辞典』や『日本歴史地名体系』に情報が集約されています。

『角川日本地名大辞典』の方に岐阜県関市の広見の語源が掲載されていました。

長良川支流武儀川の下流域に位置する。地名の由来は展望のきく地の意か。地内には条里制の遺構がある。

ただこういう語源というのは検証しようがなく、古くは宮武外骨による吉田東伍の『大日本地名辞書』の批判が知られております。事典の方でも「~か。」と断定しておらず、話半ばにきいておいた方が良いでしょう。

なお武儀郡広見は、室町時代には「弘見」と記載されていたようです。そして「宇多弘見荘」(うたひろみのしょう)というのが平安末期には成立していました。以下、『日本歴史地名大系』の解説によると

皇室領庄園で「宇多院 弘見庄」と分けて記されることもあった。庄域は現在の武芸川町宇多院から関市広見に至る武儀川流域に比定される。建久二年(一一九一)一〇月日の長講堂領目録(島田文書)に「宇陀私(弘)見庄」とみえ、正月元旦に使用する御簾二間・御座二枚などが一年の課役とされている。なお京都長講堂領となって以後、当庄の年貢絹二〇疋は二月彼岸用途に充てられている(岐阜県史)。領家職は楊梅忠行から娘の按察局(近衛家実の妻)、さらに按察局の子鷹司兼平(鷹司家の祖)へと相伝され、以後、鷹司家に伝領され(正応六年四月日「鷹司兼平譲状案」鷹司家文書)、応永年間(一三九四―一四二八)まで同家領であった(同一四年三月日「長講堂領目録写」八代恒治氏旧蔵文書)。康正二年(一四五六)の「造内裏段銭并国役引付」によれば、宇多院段銭として一貫文を預所と思われる広橋家が納めている。当庄の地頭は鎌倉後期頃には二階堂氏であったと思われるが、観応二年(一三五一)には足利義詮が「美濃国武義庄内野所・安弘見・加藤郷」などの地頭職を勲功の賞として土岐頼忠に宛行っており(同年九月二〇日「足利義詮袖判下文」土岐文書)、「安弘見」は当庄の弘見をさしているとも考えられる。年月日未詳の六条殿修理料支配状写(八代恒治氏旧蔵文書)によると、長講堂修理の際、当庄は楊梅面の部材の一部を割当てられており、応永一八年五月三日の比丘尼明輪先達檀那売券(真長寺文書)には檀那在所の一つとして「弘見」があげられている。

また上の『日本歴史地名体系』の方では、「安弘見郷」(あひろみのごう)を武儀郡広見に比定していますが、『角川日本地名大辞典』の方では「安弘見郷」について以下の説明があり、恵那郡旧蛭川村内に「武義庄」の飛び地があったと比定しています。

南北朝期~戦国期に見える郷名。美濃国武儀郡武儀荘のうち。観応2年9月20日付の足利義詮袖判下文で「武義庄内野所・安弘見・加藤郷等」が土岐頼忠に勲功の賞として宛行われており,永徳3年7月25日付の土岐頼高宛足利義満袖判下文にも同地が見えている(土岐文書)。その後元亀3年11月9日山村三郎左衛門尉に武田信玄は「安弘見三百貫」の知行を宛行っている(山村文書)。中津川市の旧蛭川村に安弘見神社があり,同地の付近に推定される。

「広見」という地名は少し離れた可児郡(現可児市)にも広がっており、明治22年には同じ岐阜県内に2つの「広見村」が成立していた時期がありました。可児郡の広見もおそらく武儀郡の広見と同様、もとは「宇多弘見荘」由来と思われますが、そのことへの言及は『角川日本地名大辞典』にも『日本歴史地名体系』にもありません。

一方愛知県豊田市の広見も、かつては「弘見」と書かれていたようです。

南北朝期~戦国期に見える郷名。三河国加茂郡高橋荘のうち。貞和5年の年中祭礼記に弘見郷,弘見方あるいは単に弘見と記されている(猿投神社文書/豊田市史6)。次いで貞治3年3月3日の上葺勧進帳断簡によれば,猿投神社の上葺に際し弘見郷が1貫150文を負担している(同前)。戦国期に入り,大永4年正月11日の松平信長下地売券に「ひろミのみなくち」が記される(高月院文書/豊田市史6)。猿投神社八講牒の天正14年分の裏書に織田信雄の検地に関連して弘見は猿投神社領として認められた(猿投神社文書/同前)。正林寺伝記に天正年間広見城主中条将監秀正が,自分の名「正」をとり正林寺を開基。天正5年広見城落城の時自害とある。広見城址は丘陵の山腹にある。当地は瀬戸と猿投を結ぶ交通の要衝にある。

以上をまとめると、岐阜県関市(美濃国武儀郡)の広見は『角川日本地名大辞典』では語源が「展望のきく地」と考察されているが、根拠は多分語感以上のものはない。少なくとも平安末期には皇室領として美濃国武儀郡を中心とする地域に「宇多弘見荘」が成立した。室町時代以降には「安弘見郷」が存在したが、これは武儀郡内とする説と、恵那郡内にも飛び地があったとする説があるが、いずれも確固たる証拠があるわけではない。明治以降に成立した可児郡広見村などもおそらくは「宇多弘見荘」がらみの地名と思われるが、正確な関連は不明。隣の愛知県豊田市にも、南北朝期以降「弘見郷」が成立したが、先行する「宇多弘見荘」との関連は不明。ただしいずれも姓氏由来ではない。いずれも平安時代~室町時代には「広見」ではなく「弘見」と行政文書に書かれており、「広見」と書かれるのは江戸時代以降。

これは私見ですが、鎌倉武士の多くの氏は地名由来ですし(熊谷、比企、足立)、基本的には姓氏由来の地名よりも、地名由来の姓氏の方が多いのではないでしょうか?
[116295] 2025年 11月 21日(金)16:04:07YT さん
2025年9月30日付の竹島の住民登録人口
[116283]グリグリさん
参加資格:26歳以下の方限定(メンバー以外も参加可能)。自称26歳以下の方もOK、ただし26歳以下に責任を持ってください。^^;

落書き帳が誕生した時、YTはある年齢でした。
落書き帳が26周年を迎えた時、YTはある年齢の倍の年齢になりました。
さて、YTの現在の年齢は何歳でしょう・・・などという問題は出題しません!

実は子供が旅人算とか流水算とかを習う時期になったらこの手の問題を出してやろうかななどと考えていたのですが、タブレット学習のiPadが勝手に親の誕生日に年齢を通知するので、すべてがおじゃんになりました!

とまあ前置きはともかくとして、以前[113882]で大韓民国慶尚北道公表の竹島の住民登録人口をまとめましたが、日本側の国勢調査の日時に近い、2025年9月30日の住民登録人口が本日公表されていましたので、以下に竹島を構成する女島、男島の住民登録人口をまとめます。面積は『新版 日本の島事典』(2022年)によります。

島名日本の行政区分2025年9月30日
慶尚北道公表
住民登録人口
面積
(km2)
女島(東島)島根県隠岐郡隠岐の島町530.071430
男島(西島)島根県隠岐郡隠岐の島町10.093978
[115625] 2025年 10月 8日(水)18:46:28【2】訂正年月日
【1】2025年 10月 8日(水)20:39:38
【2】2025年 10月 8日(水)21:30:01
YT さん
国勢調査の対象漏れ?
[115590] しまなみ さん

実は私も楽しみにしています。生きてる間に日本総人口が素数人口になる瞬間でも見れればいいな?と。

この文章を読んでドキっとしました。今までの自分の人生で、自分が何回国勢調査で日本国の人口としてカウントされて来たか、私はこれまで意識したことはありませんでした。気付けば私が経験した国勢調査はもう既に二桁回数を超えているではないですか…

ちょっとショックです。

ところでここでちょっとした簡単な問題です。別に当たったからといっても何もご褒美はありません。

私は7月生まれですが、自分には5歳年上の8月生まれの兄がいます(要は2人とも10月1日より誕生日は前)。年齢が離れた兄弟であるためか、自分が言うのもなんですがかなり兄弟仲の良い方で、毎年暮やお盆、連休なんかの際に会い、家族同士で遊んだりしております。今年も宮城県の栗駒岳の麓(先日熊に襲われて1人死亡、1人行方不明のニュースがあったところのごく近所)で法事があった際、一緒に旅行をしております。

というわけで私よりもほぼ5歳年上の兄は、国勢調査の人口にカウントされた回数は私よりも1回多いはずなのですが、実際に兄が国勢調査の人口にカウントされた回数は、なぜか私よりも1回少ないのです。別に国勢調査の報告に不正を行ったことはありませんし、兄は今なお健在です。その理由はなんでしょうか?

なお、自分に関していえば、本来なら10月1日付の推計人口にカウントされるべきではない事態が過去に2度ありましたが、特に私(あるいは私の両親)の方から届けの変更をしてなかったため、全ての推計人口でカウントされてしまっています。


国勢調査といえば、ちょっと気になっていることがあります。現在の国勢調査では、令和7年国勢調査の概要によると

本邦内に常住している者は、外国人を含めてすべて調査の対象とするが、次の者は調査から除外する。

●外国政府の外交使節団・領事機関の構成員(随員を含む。)及びその家族
●外国軍隊の軍人・軍属及びその家族

とのことで、とくに米軍基地関連の人口が含まれていません。実は国連のDemographic Yearbookの方の年央推計人口においても、日本の推計人口に関しては、

Excluding diplomatic personnel outside the country and foreign military and civilian personnel and their dependants stationed in the area.

と記述されており、国連による日本の推計人口には外交員や軍人・軍属とその家族は含まれていません。ところが同じUN Demographic Yearbookのアメリカ合衆国の推計人口に関しては

Excluding U.S. Armed Forces overseas and civilian U.S. citizens whose usual place of residence is outside the United States. Postcensal estimates.

と書かれており、海外に駐在している米国軍属は、米国の推計人口に含まれておりません。

ということは、日本国内の米軍基地の米国籍軍人・軍人家族の常住人口は世界人口のどこにカウントされているのでしょうか?

ちなみにUN Demographic Yearbookの場合、日本以外で外国籍の軍人を含まないとの脚注があるのは、英領ジブラルタルのみです。また海外の外交官の人員を推計人口に含めないとの脚注があるのは、日本以外では2018年までのカンボジアのみです。フランスに関しては、逆に

Excluding diplomatic personnel outside the country and including members of alien armed forces not living in military camps and foreign diplomatic personnel not living in embassies or consulates.

と記述されているので、これらを総合すると、むしろ日本国内の常住する外国の外交員や外国軍人・軍属の人口をカウントしない日本だけが浮いた存在です。日本の国勢調査は世界の中では信用が高い方とはされていますが、この辺の誤差はちゃんと他の国の統計に吸収されているのでしょうか?

【文章修正】この文章を書いている最中に、近しい分野の顔をよく知っている研究者がノーベル賞を受賞しましたが、もっと身近な研究者の方は残念ながらノーベル賞の選より漏れてしまいました。
[115582] 2025年 9月 30日(火)04:04:36【3】訂正年月日
【1】2025年 9月 30日(火)10:57:31
【2】2025年 10月 1日(水)17:37:39
【3】2025年 10月 1日(水)17:41:36
YT さん
大分空港ホテル
[115579] 伊豆之国さん

どうやら現在「道の駅」がある辺りになるようで、

「道の駅 くにさき」が開業したのは2004年8月です。

(開く)国東半島で初、「道の駅」開業 県内で16カ所に /大分 (朝日新聞 2004年8月31日)

しかしながら、サイクリングターミナル駐車場には2003年の段階で既に店が開業しております。

(開く)特産物販売の2施設が開店 国東町 /大分 (朝日新聞 2003年11月4日)

一方、大分空港ホテルの方はその2ヶ月前には存在しています。

(開く)●講演とシンポジウム「国東半島・宇佐の文化を世界文化遺産に (朝日新聞2003年9月25日)

さらに国会図書館デジタルコレクション収録の「大分県農林水産研究センター水産試験場事業報告 平成19年度」の方によると、2007年7月23日 午後に大分空港ホテルで研究発表がなされており、少なくとも2007年7月までは大分空港ホテルは存在したことになります。よって大分空港ホテルと「道の駅くにさき」は別の場所と思われます。

さて、ネット上のあなたの街の情報屋さんによると、大分空港ホテルが存在したのは道の駅の北側となっています。ただしそこのGoogleMapのリンク先は、株式会社テオリックの工場となってしまっています。

【↑訂正:2011年7月28日のtwitter投稿として

観光ホテルを改装して工場に。超ミクロな部品の製作に長けている、テオリック。

なる文を発見しました。よって「あなたの街の情報屋さん」に残されていた位置情報は正しかったようです。テオリック自体、歴史の新しい会社のようで、2011年11月の「武蔵テクノロジーセンター休止、設備、人員を本社に集約」に先立ち、本社を大分空港ホテルの跡地に移したようです】

ただ、Google Earthなどと比較すると、そのさらに北側の現在更地となっているところに、大分空港ホテルがあったのではないでしょうか?

【↑訂正:ここは江藤酸素株式会社の敷地とされていますが、どうやら大分空港ホテルがあった場所は、ここのすぐ南側、道の駅のすぐ北側の、現在株式会社テオリックの本社がある場所のようです。】

なお「大分空港ホテル」で新聞のアーカイブを検索すると、なんか1989年11月7日に発生した日蓮正宗・寿福寺住職の誘拐事件で、身代金の受け渡しに指定されたホテルという、予想外の歴史が出て来ました。

(開く)住職誘拐、6億円要求 日蓮正宗総本山大石寺に脅迫電話 無事保護/大分・別府 (読売新聞 1989年11月9日)

そんな大分空港ホテルですが、親会社は複数のゴルフ場を経営する大洋株式会社だったようです。そう、これもバブル崩壊が関わっています。大洋株式会社は、後に「大洋緑化」と名前を変えていますが、あのジャンボ尾崎とも関連する訴訟に連帯保証人として名前が登場します。

(開く)ジャンボ尾崎氏に支払い命令 経営するゴルフ会社、借金8億円 (朝日新聞 2002年7月31日)

そして2004年2月10日に、大洋緑化は会社更生法申請を行います。

(開く) 大洋緑化が会社更生法申請 ゴルフ場営業は継続 (朝日新聞 2004年2月10日)

これに対し、アメリカの「ローンスター」という投資ファンドが大洋緑化を買収し、大洋緑化が所有していた14のゴルフ場の存続は決定しますが、同じ大洋グループに所属していた大分空港ホテルについての情報は出て来ません。

なお「ローンスター」の子会社として「ソラーレ ホテルズ アンド リゾーツ」というのがあるのですが、これは自分が昔よく使っていたビジネスホテルの「チサンホテル」が2002年に会社更生法申請した際に「ローンスター」が買収し、それを母体としてローンスターが子会社化したもののようです。ただ2008年5月14日に、ソラーレホテルズが大分県内に新たに2軒のホテルを開発し「大分県へ初進出」とプレスリリースを出しているので、じゃあ、2004年に買収された大洋緑化の大分空港ホテルはどうなったのでしょう?

(開く)ソラーレホテルズ、大分市・別府市などにロードサイド型ホテル「チサン イン」を建設 (日経新聞, 2008年5月14日)

とりあえず、2004年に大分空港ホテルの経営母体である「大洋緑化」が倒産しかけたところを「ローンスター」が買収し、少なくとも2007年までは大分空港ホテルは存続していたようです。ただし2008年に「ローンスター」側が大分県にチサン インの初進出などと言っているので、おそらく2008年頃までには大分空港ホテルは閉鎖されたのではないでしょうか?【追記:テオリックに関するtwitter投稿により、閉鎖時期は2007年7月~2011年7月の間ということになりました】閉鎖された時期がはっきりわからないのは、大分空港ホテルが最終的に外資系になってしまったので、外に向かって宣伝する必要もないと考えられたのではないでしょうか?

【追記】
新宮荘の方は1964年4月1日に石川県羽咋郡志雄町の町営の施設として営業を始めた公的な国民宿舎で、1994年1月25日廃業のようです。

1974年出版の石川県志雄町史の方では、「国民宿舎を作って観光客が増えました」的なことしか書かれておりませんが、廃業の経緯についてははっきりは分かりません・・・・が、ホテル旅館 : hotel ryokan management 37 (4) (2000年)の方で、国民宿舎が時代のニーズから取り残され、一部は廃業に至った的な内容の実例として間接的に「新宮荘」が挙げられています。こちらの雑誌は国会図書館に行かないと読めませんが、検索ワードからの文章を再構築すると以下のような文章になります。

能登とぎ荘は73年開業。地上2階地下1階建てで、大広間と客室28室を備える。富来湾が一望できる高台にあって、安価で手軽な宿泊施設として人気を呼び、当初は年間1万5000人の宿泊客があった。しかし、86年度1万585人、同87年度1万1101人、88年度1万1079人と宿泊者数は減り続け、98年度は約8000人まで落ち込んでいた。開業からこれまでの利用総数は約35万人。建設以来27年が過ぎ、建物の老朽化が進むと同間取りなどが、少人数を主とする現代の旅行ニーズに合わなくなってきたことから、能登には現在9ヵ所の国民宿舎があるが、いずれも経営は苦しい状態。なかにはリニューアルするところもあるが大半は経費を極力抑え、施設改修への設備投資を控えている。 94 年に志雄町の国民宿舎新宮荘が閉鎖している。とぎ荘の跡地利用については検討中だが、同町では新たな宿泊施設の建設を計画している。

こちらは老朽化と客足が遠のいたことによる廃業で、あくまでも公的な町営旅館ですし、スキャンダルはないと思います。新聞には全く引っかかりません。
[115576] 2025年 9月 29日(月)12:27:51【3】訂正年月日
【1】2025年 9月 29日(月)13:33:00
【2】2025年 9月 29日(月)13:46:09
【3】2025年 9月 29日(月)13:57:49
YT さん
下北半島開発資産隠し事件
[115539] 伊豆之国さん
[115540][115571]メークインさん
[115564] サヌカイト さん

2000年代(有効数字3桁)の情報って、意外とネットに残っていなかったりしますよね。
立地の影響もありますが、廃業時期すら正確にわからないとは驚きです。

この件なのですが、読売新聞ヨミダス、朝日新聞クロスサーチ、毎日新聞の毎索、日経テレコン21などの新聞記事検索サイトで調べてみると、割とわんさかと録でもない情報が大量に出てきました・・・。

まず1992年の段階で既に二度目の不渡りを出しています。社長、常務は親子ですが、名前は〇〇〇〇〇で伏せておきます。

(開く)1992年12月3日 「下北半島開発が経営危機 今年最高 負債額は20億円 民間調べ/青森」(朝日新聞)

そして1997年9月26日金曜日に営業停止しております。

(開く)1997年09月20日 東通村の「平成閣」に営業停止通告 青森地裁 /青森 (朝日新聞)

(開く)1997年10月02日 下北半島開発に地裁が破産宣告 負債総額23億円 /青森 (朝日新聞)

詳しい倒産の経緯については、国会図書館デジタルライブラリーのレジャー産業資料, 32(5), 90 (1999年)の方に載っていました。ただ、こちらは国会図書館に実際に行かないと閲覧できません。しかしながら、検索ワードを使うことで文章の中身を継いでいくことは可能で、一応以下のように内容を再構築してみました。引き続き社長の名前の方は○○○○○としておきます。

倒産企業レポート-破綻の要因は何か
情報部(株)帝国データバンク下北半島開発株
ノンバンク融資に踊らされた過剰設備投資がアダに

●下北半島で積極的な事業展開
青森県の北端、下北半島で温泉浴場、ホテル、レストラン、結婚式場などを経営していた下北半島開発(株)(本社青森県東通村、社長○○○○○氏、資本金六〇〇〇万円)が、九七年一〇月に青森地裁から破産宣告を受けた。負債額は約二三億円。同年四月に大阪市内の債権者から第三者破産を申し立てられ、裁判所が「同社は破産状態にある」と判断したものである。同社は八八年三月に設立、積極的な設備投資などで地元では注目されていたが、設立後わずか四年目の九二年一二月に二回目の不渡りを出し、約二〇億円の負債を抱えて事実上の倒産をした。その債権者の協力で営業は継続できたものの、再度の行詰まりとなったわけだ。同社は、約一億八〇〇〇万円を投じて温泉浴場「下北半島温泉」を八八年に完成させ、八九年には増築を施してホテルとレストラン部門を併設、これら施設は「平成閣」と名づられた。さらに翌九○年にも、青森県むつ市内に居酒屋「下北半島」を開業させている。

●ズサンな経理処理も資金繰りの悪化に
ところが、同社の経営は不振を続け、連続欠損計上から資金ショートをきたし、九二年一一月に連続不渡りを演じて、銀行取引き停止処分を受けた。過剰設備投資による金利負担上昇を要因とした倒産劇であったが、一度は債権者の支援で事業継続が可能になる。しかし、その後も同社の業況は回復せず、経営は厳しい状況が続いていた。九六年三月期の決算書によれば、創業以来の連続欠損による未処理損失は四億一二〇〇万円にまで膨らんでいたのである。また、同社の経理処理もかなりズサンであったとみられる。関係会社との資金操作、代表一族への貸付金も過大で、これが資金繰りの悪化要因となっていたと関係者は語る。こうして最初の倒産後も経営に回復がみられないなか、一部の債権者が危機感を募らせ、九七年二月七日に青森地裁は同社所有不動産に対して競売開始の決定を下した(二日後に差押え登記)。一方で同社は、決定が下される前の一一月一日に、競売にかけられる不動産に対して存続期間二〇年の賃借権設定仮登記を行なうと同時に、会社の解散を決議していた。このように双方の動きが活発化するなかで、計三億三〇〇〇万円の抵当・根抵当権を設定していた大口債権者が、四月に入って青森地裁に同社の破産を申し立てたのである。

●地元振興協力金が多額に落ちる地区
いくらバブル期とはいえ、設立間もない会社に、これだけの建設資金が投入されることは一般的には考えられない。それが可能になった理由は、下北半島という所在地にある。下北半島には、国家的プロジェクトである核燃料再処理工場や石油備蓄基地、工業団地造成などが同時進行しており、その投下資本は数千億円にものぼる。この巨大工事の見返りとして、地元振興への協力金的な資金が莫大に提供されているのである。こうした地域振興資金のバラマキにより、下北半島地区の将来の発展を予測したノンバンク関係者が、同社に目をつけたとしても不思議ではない。実際、同社の不動産登記をみると、地元金融機関は一億円の根抵当権にすぎないのに対し、リース会社は抵当権四億六〇〇〇万円、根抵当権四億五一二六万円の計九億円を超える設定が登記されていた。さらに他社の登記分も含めると、ノンバンク融資は地元資金の一〇倍にも達していた。いわば、下北半島にノンバンク資金が湯水のように注ぎ込まれていたのである。

●問題ノンバンクの処理が景気回復の鍵
同社の経営状態が芳しくなかったことは当然としても、今回の倒産劇で明らかになったのは、バブル期におけるノンバンクの融資実態である。地元金融機関が融資に二の足を踏む案件に対しても、ノンバンクは資金を投入、しかも業容拡大のために他社と競って融資先を確保してその結果、バブル崩壊後にノンバンク業界は極端な不振に陥っている。今年三月に入って、(株)アポロリースが特別清算を申請(負債四九〇〇〇〇億円)したが、いまだ処理のわっていない問題ノンバンクは多数残っているはずだ。こうした問題を一つひとつ処理してこそ、景気は回復していくのである。

しかしながらここで社長一族や従業員の間での資産隠しがバレて、2000年5月以降に元社長と息子、元従業員らが逮捕。

(開く)2000.5.2(火) 下北半島開発資産隠し疑惑 元社長ら4人を逮捕 売買なく土地移転登記=青森 (読売新聞)

翌日の記事には、「写真=送検される○○○容疑者(2日午後0時30分、むつ署で)」が掲載されています。5月23日には社長の元妻が逮捕されており、そしてホテル内の調度品を別の場所に隠していました。時期が不明ですが、むつ市内で飲食業を営んでいた実姉、「青森化学」社長(そのような化学メーカーの存在を確認できないので薬品の取次業かも)、家具販売店の社長(こちらは漁協関係での付き合いで、2007年にも別件で起訴されている)も逮捕されたようです。

(開く)2000.5.26(金) 下北半島開発・資産隠し事件 県警、むつ市内の倉庫を現場検証=青森 (読売新聞)

(開く)2000.6.3(土) 下北半島開発資産隠し事件 元社長ら5人逮捕 全容解明に向け節目=青森 (読売新聞)

(開く)2000.6.24(土) 下北半島開発資産隠し事件 元社長と息子起訴 3被告は不起訴処分に=青森 (読売新聞)

一連の事件は、朝日新聞では「下北半島開発詐欺事件」「下北半島詐欺破産」「下北半島開発事件」などと呼称が一定していませんが、読売新聞の方では「下北半島開発資産隠し事件」に落ち着き、2000年の青森県内10大ニュースの28の候補の1つに選ばれています。最後は破産管財人に土地や備品を渡すことで合意していますが、1997年9月26日の営業停止の直前にホテルの調度品を持ち出したりしており、1997年以降裁判が終わった2002年までの間、とてもホテル経営が再開できたとは思えないので、1997年9月26日の時点でホテル自体の経営は完全に終了していたと思われます。

(開く)2001.2.28(水) 下北半島開発資産隠し 代物弁済で和解=青森 (読売新聞)

最終的に元社長への青森地裁の判決は懲役4年半(2002年2月23日)。社長の長男、社長の元妻、社長の実姉、複数の元社員なども有罪判決を受けています。予約サイトの履歴は2003年頃まで確認はできるようですが、裁判手続きが終わった2002年以降にも営業が再開したとは思えません。

ただ話はこれでは終わらず、元社長は2002年に借金返済のため漁業協同組合の建物を担保に借金をし、これが2007年にトラブルとなります。元社長宅は海から離れていますが、田名部川のサケの放流事業などで漁協に副組合長として参加していたようです。

(開く)2007.2.4(日) 漁協で5000万円流用 組合長らを告訴へ/青森・むつ (読売新聞)

ただし「漁協には代物弁済の形で5000万円以上の価値がある土地を譲渡している」とのことで、こちらの事件は最終的に不起訴処分となっています。

2018年には元社長の家が全焼しています。

(開く)2018年11月19日 東通の住宅全焼 /青森 (朝日新聞)

火事のあった家屋の場所は特定しませんが、まあホテルのあった場所(大字田屋字上田屋)のごく近くの大字田屋字ハサバに元社長一族の家屋があったようです。ホテル回りは差し押さえられたでしょうが、近所に住んでいたようなので、道路の整備程度は一族がしていたのかも知れません。元社長は2024年3月に亡くなっています。

というわけで、ホテル営業は裁判所からの営業停止命令により1997年9月26日に終了していたと思われます。google検索で詳しい情報が引っ掛からないのは、むしろ後からデジタルタトゥーの削除を依頼した結果ではないかとも思えてきます。しかしながら新聞の情報では、「下北半島開発」に関して読売新聞で26件、朝日新聞で26件、日経新聞で1件(日経は1997年の倒産の記事のみ)、2007年発覚の漁協事件では読売新聞で7件、朝日新聞で4件、毎日新聞で3件と、ばっちり過去の歴史が残っています。

【追記:倒産した下北半島開発とは関係のない記事が混ざっていたので、件数を下方修正。なお毎日新聞は2002年以前は青森地方版がデータベース対象外のため、検索に引っかからなかったようです】


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