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[103852] 2022年 1月 17日(月)18:39:56【1】訂正年月日
【1】2022年 1月 17日(月)19:13:17
YT さん
明治22年(1889年)の現住人口の再計算、早くも頓挫
長文失礼します。ただ以下の情報は、何名かの方には非常に興味深い情報だと思いますので。

[103711]で明治22年の市区町村別人口を見直すと書きましたが、早々に『明治二十二年十二月三十一日調 日本帝国民籍戸口表』収録の「各地方現住一万人以上市区町戸口表」と「各地方郡市戸口表」、『明治四十一年十二月三十一日 日本帝国人口静態統計』収録の「人口一万人以上ノ市町村現住人口 (自明治十九年末至同四十一年末)記載の甲種現住人口の数字が非常にいい加減な計算の上になりたっていることがわかり、行き詰っています。

見直そうと思ったきっかけは、総務省統計図書館所蔵の戸籍表に町村別の外国行、陸海軍在営艦者、囚人及懲治人、失踪等の統計が存在することを見出したからです。これにより、[82295]でも触れていた

さらに「官報による現住人口」を『日本帝国民籍戸口表』記載の現住人口に計算し直すためには、各市町村別で、【外国行・在監行・軍務行・失踪などの出寄留の統計】が必要ですが、自分が知る限りそのような統計は公表されていないので、現状では「官報による現住人口」から人口を修正する術がありません。

という問題が解決し、[68620][68621]のリストを増やすことが可能になるわけです!

しかしながら、いざ計算してみると・・・

1.京都市や神戸市、姫路市、金沢市、その他多くの市、伊豆・小笠原に関してはデータを欠いています。なお『明治二十二年十二月三十一日調 日本帝国民籍戸口表』の「各地方現住一万人以上市区町戸口表」と「各地方郡市戸口表」とで、姫路市(27,055, 25,487)・金沢市(94,257, 95,812)の人口が異なる点が以前より気になってきましたが、両者の差は入寄留側の陸海軍在営艦者(兵庫県: 1,568; 石川県: 1,555)と一致することに改めて気付きました。しかしながら現住人口自体は、姫路市に関しては「各地方現住一万人以上市区町戸口表」の方が1568人多く、金沢市に関しては「各地方郡市戸口表」の方が1555人多い?この段階でなんかいい加減な処理をしている疑惑が出てきました。

2.明治22年に関しては入寄留側の陸海軍在営艦者の統計が記載されていません(明治23年に関しては駐屯地毎の陸海軍の統計が存在する)。ただ府県別データは『日本帝国民籍戸口表』「各地方人口出入表」に掲載されていますので、郡市別データと監獄の統計からの加除により、ある程度は推測できます。

3.町村の現住人口を計算するにあたり、他町村出入寄留の処理がいい加減!

とりあえず1万人以上の人口を有する東京府・京都府・大阪府・神奈川県の町村で検証しました。[入]無籍在監人、[入]有籍囚人及懲治人は『日本帝国民籍戸口表』「各地方在監有籍者及無籍者人口表」により、[入]陸海軍在営艦者は「各地方人口出入表」等からの推定値です。

その結果官報記載の現住人口は以下の計算式で計算していることがわかりました。

官報記載の現住人口=本籍人口-[出]外国行-[出]他府県出寄留-[出]他郡区出寄留-[出]他町村出寄留-[出]失踪+[入]他府県入寄留+[入]他郡区入寄留+[入]他町村入寄留+[入]無籍在監人

また明治23年以降の日本帝国民籍戸口表記載の現住人口は以下の計算式で計算していることがわかりました。

民籍戸口表記載の現住人口=本籍人口-[出]外国行-[出]他府県出寄留-[出]他郡区出寄留-[出]他町村出寄留-[出]囚人及懲治人-[出]囚人及懲治人-[出]失踪+[入]他府県入寄留+[入]他郡区入寄留+[入]他町村入寄留+[入]無籍在監人+[入]有籍囚人及懲治人+[入]陸海軍在営艦者

【外国行・失踪・無籍在監人】のデータは官報記載の現住人口に織り込み済みであることが判明し、あとは出ていく側の【有籍の囚人及懲治人と陸海軍在営艦者の人口】を減じ、これに各監獄の有籍囚人及懲治人と駐屯地等の陸海軍在営艦者を加えれば、現住人口が求まることになります。しかしながら実際に計算してみると、明治22年に関しては民籍戸口表記載の現】住人口の計算方法がいい加減で、とりあえず半数ぐらいは以下のように他町村出入寄留が計算から除外されているケースが混ざっていることがわかりました。

民籍戸口表記載の現住人口=本籍人口-[出]外国行-[出]他府県出寄留-[出]他郡区出寄留-[出]囚人及懲治人-[出]囚人及懲治人-[出]失踪+[入]他府県入寄留+[入]他郡区入寄留+[入]無籍在監人+[入]有籍囚人及懲治人+[入]陸海軍在営艦者

A. 他町村出入寄留の加除が行われているケース
町村千住町難波村曽根崎村浦賀町小田原町
本籍人口11,58423,74110,55713,01615,148
[出]外国行020210
[出]他府県出寄留1711,179170163876
[出]他郡区出寄留7381,292197640538
[出]他町村出寄留571563344181
[出]陸海軍在営艦者32086520
[出]囚人及懲治人96422127
[出]失踪1131,25914246170
[入]他府県入寄留1,9663,958872959196
[入]他郡区入寄留1,5091,579231542150
[入]他町村入寄留423117332137
[入]無籍在監人00000
[入]有籍囚人及懲治人000016
[入]陸海軍在営艦者0001560
官報記載の現住人口14,02225,70111,19113,54613,856
日本帝国民籍戸口表記載の現住人口14,01025,61711,16113,62513,845

B. 他町村出入寄留の加除が行われていないケース
町村品川町伏見町東平野町天王寺村
本籍人口12,58616,34910,18613,529
[出]外国行3180
[出]他府県出寄留32325312991
[出]他郡区出寄留297343228202
[出]他町村出寄留44393883
[出]陸海軍在営艦者46121213
[出]囚人及懲治人9142068
[出]失踪212202350989
[入]他府県入寄留4,0487571,6141,441
[入]他郡区入寄留1,3648851,0491,092
[入]他町村入寄留1024417557
[入]無籍在監人0000
[入]有籍囚人及懲治人0000
[入]陸海軍在営艦者033700
官報記載の現住人口17,22117,19712,28114,754
日本帝国民籍戸口表記載の現住人口17,10817,50312,10214,699

同じ府県でもこんな具合に異なる現住人口の計算方法が混在しています・・・

C. 他町村出入寄留の加除が行われているが、元となる本籍人口から異なるケース
町村横須賀町戸太村
本籍人口(日本帝国民籍戸口表)17,08610,323
本籍人口(戸籍表)9,8066,156
[出]外国行85
[出]他府県出寄留142102
[出]他郡区出寄留56232
[出]他町村出寄留43737
[出]陸海軍在営艦者774
[出]囚人及懲治人81
[出]失踪14089
[入]他府県入寄留7,1183,108
[入]他郡区入寄留5151,492
[入]他町村入寄留51537
[入]無籍在監人011
[入]有籍囚人及懲治人0752
[入]陸海軍在営艦者00
官報記載の現住人口17,17110,339
日本帝国民籍戸口表記載の現住人口24,36615,253

官報による現住人口は戸籍表の本籍人口からの計算と一致します。『日本帝国民籍戸口表』「各地方現住一万人以上市区町戸口表」記載の現住人口は、『日本帝国民籍戸口表』「各地方現住一万人以上市区町戸口表」記載の本籍人口から戸籍表の出入寄留の加除を行うことで一応同じ数字が求まりますが・・・翌年の現住人口と比較する限り、「各地方現住一万人以上市区町戸口表」の本籍人口・現住人口の方がおかしい。

なお横須賀監獄は横須賀町ではなくて豊島村に存在することを確認しています(明治22年と明治23年のデータで検証済み)。逆に横浜監獄は横浜市ではなくて戸太村にありました。明治23年には横須賀町に3,494人の海軍関係者がいますが、明治22年は陸海軍併せて神奈川県内156人、すべて三浦郡内で、浦賀町の156人で計算が合いますので、明治22年の横須賀町内の[入]陸海軍在営艦者は0人と推測しました。

D. なんか知らないが数字が一致しない・・・
町村神奈川町八王子町
本籍人口13,50313,998
[出]外国行51
[出]他府県出寄留403160
[出]他郡区出寄留1,02996
[出]他町村出寄留152606
[出]陸海軍在営艦者131
[出]囚人及懲治人104
[出]失踪20362
[入]他府県入寄留2,6223,121
[入]他郡区入寄留1,3314,283
[入]他町村入寄留2181,243
[入]無籍在監人02
[入]有籍囚人及懲治人038
[入]陸海軍在営艦者00
官報記載の現住人口15,88221,721
日本帝国民籍戸口表記載の現住人口15,38221,555

八王子町に関しては、官報掲載の現住人口が1人(計算値は21,722人)ずれており、また現住人口が計算値(21,755)と200人ずれていますが、これらは印刷ミスがそのまま残ってしまったのではないかと推測します。神奈川町に関しては官報記載の現住人口は無問題ですが、『日本帝国民籍戸口表』記載の現住人口と計算値(15,859)ではそれなりに大きなずれが生じており、その原因は不明です。監獄や駐屯地があれば、むしろ現住人口は官報掲載の現住人口よりも増えるはずなのに減ってますので、監獄や駐屯地の見落としではありません。

このほか・・・『明治四十一年十二月三十一日 日本帝国人口静態統計』「人口一万人以上ノ市町村現住人口 (自明治十九年末至同四十一年末)に示された北海道の人口の内、江差に関しては、他町村出入寄留の計算を除外したほか、江差分署の有籍囚人及懲治人7人を計算に入れていないが、福山では他町村出入寄留のみならず、ちゃんと福山分署の有籍囚人及懲治人6人を計算に入れている。函館区はちゃんと監獄、駐屯地の人口が加味されている。

というわけで、明治22年の統計は市制施行後の最初の人口統計として非常に重要なのですが、世間で知られている肝心の明治22年の現住人口の計算がいい加減という問題が様々見つかりました。数字自体はむしろ官報掲載の現住人口の方が計算方法が安定していてそれなりに信頼できます。すでに明治22年の現住人口は集計結果がいろいろ引用されており、今更現住人口の計算が結構間違っていたと指摘しても仕方ないし、正直計算し直す気力がなくなりつつあります。現状ではデータがよりしっかり残っていて、徴発物件一覧表に大字別人口まで残っている明治23年(1890年)ベースの方からまとめることになるかも知れません。

【】の部分の言い回しを微修正(有籍の囚人及懲治人の出入寄留は官報掲載の現住人口では無視)
[103711] 2022年 1月 10日(月)20:46:21YT さん
久々の投稿と今後の予定
何というか、色々なことが重なって、こちらのサイトから遠ざかってしまっているYTです。遠ざかってしまった原因としては

1.二人目の子供も生まれ、休日がすっかり子供のための時間になってしまったこと(これが一番大きい)
休日は朝から晩まで一緒に遊び、寝かせつけるとそのまま一緒に寝てしまう・・・ある意味休日を健康的に過ごすことになって、これはこれでいいのでしょうけど、調べものをする上では弊害となっています。

2.雑務の増加
自分は某大学で研究職を務めていますが、微妙に地位が中間管理職的なものとなり、雑務も増えてしまいました。拘束時間が増えることにより、勝手に専門外の調べものをする時間が減ってしまいました。

3.コロナの影響
某大学には豊富な古文書・図書があるのですが、コロナによって特に文系学部の図書室は事前予約を必要とするため、思い立った時に調べものというのができない状況となってしまいました。コロナが収束したと思いきや、この状況は3年目以降も続きそうです。

と、こういう状況が続いてしまっていますが、総務省統計図書館所蔵の戸籍表を元に、明治22年および明治23年の詳しい市区町村別本籍人口、現住人口(官報ベースと日本帝国民籍戸口表ベース)の再計算を今年中に行うことを目標に何とか頑張ります。
[99297] 2020年 3月 26日(木)02:16:20【6】YT さん
足柄郡
[99296] じゃごたろ さん

それは神奈川県の「足柄上郡」「足柄下郡」です。普通「上○○郡」「下○○郡」とか「北○○郡」「南○○郡」となるのが普通ですが、なぜここだけは「上足柄郡」「下足柄郡」とならずに、「足柄上郡」「足柄下郡」となったんでしょうかね?


明治維新の頃であれば、大和国には葛上(かつらぎのかみ→かつじょう)郡・葛下(かつらぎのしも→かつげ)郡、城上(しきのかみ→しきじょう)郡・城下(しきのしも→しきげ)郡、添上(そふのかみ→そえかみ)郡・添下(そふのしも→そえしも)郡、摂津国には島上郡(しまのかみ→しまかみ)、島下(しまのしも→しましも)郡、駿河国には長上(ながのかみ→ながかみ)郡・長下(ながのしも)郡(中世に消滅)があり、また古代には河内に堅上(かたかみ)郡・堅下(かたしも)郡(→大県郡)がありましたので、さほど珍しい名称ではないと思います(特に畿内と東海では一般的?)。ただ、足柄郡の例を除き、明治30年頃までに他はすべて合併等で消滅してしまったので、たまたま足柄上郡・足柄下郡の例が残ってしまったです。

一応『日本歴史地名体系』から解説を引用すると、奈良時代においては足上郡(あしのかみぐん)・足下郡(あしのしもぐん)が存在し、「足上郡」に関しては「続日本紀」霊亀元年(西暦715年)3月25日の条、「足下郡」に関しては正倉院文書の相模国封戸租交易帳(天平7年(西暦735年))にまで用例が遡るそうです。また倭名類聚抄では「足上」と書いて「足辛乃加美(あしがらのかみ)」と訓読させている例がみられることから、足柄上郡・足柄下郡の呼称も古代に遡り、郡名の起源は足下郡に属する郷の足柄「阿之加良(あしのがら)」に由来すると考えられます。「古事記」によると「足柄之坂本」でヤマトタケルが白い鹿に出会い、「常陸風土記」にも「足柄の岳坂」の記述があることから、「足柄」という地名は郡設置以前から存在し、「足柄郡」という呼称も地域名としては存在したが、郡としては最初から二分割されていたようです。

ただ様々な荘園の分割によりいつしか郡が意識されなくなり、平安後期の「更科日記」には「西富郡」という郡名が登場し、さらに後北条氏支配下の戦国時代の相模国は西郡(にしごおり=足柄上郡+足柄下郡に相当)・中郡・東郡・三浦郡・小坂郡(鎌倉郡)の五郡に再編され、「足柄(上・下)郡」は長らく記録から途絶えます。後に江戸時代の正保郷帳編纂の頃になって「足柄上郡」「足柄下郡」の古代に遡る(といっても完全には同じではない)地域区分が復活し、現在に至る、とのことだそうです。

【追記:江戸幕府による古代郡名の復活について】実のところ、郡というものは古代から脈々と伝わったわけではなく、荘園制度によって一度古代の郡域が乱され、そして幾つもの異なる郡へと再編されてしまっているケースが多いのです。江戸幕府は、郷帳・国絵図作成や朱印状の発給を通じて日本の国土を支配する過程で、国→郡→村という階層構造の把握と再編を行い、延喜式・倭名類聚抄に記された古代の郡名と郡域の復活を図りました。その修正の最大のものが寛文4年(1664年)の寛文印知で、正保郷帳記載の郡名や郡域がかなり訂正されています。しかしながら乱れた郡制を完全に正すことは不可能で、郡名を変えず領・庄名をもって郡名に変えざるを得なかったり、郡名を誤ったりと、色々なことが起こっています。例えば安芸国では寛文4年(1664年)古郡名復古の幕命により、安南郡を安芸郡、安北郡を高宮郡、佐東郡を沼田郡、佐西郡を佐伯郡と改めましたが、延喜式・倭名類聚抄や中世の郡域と異なり、豊田郡内の古沼田郡、高田郡内の古高宮郡とは全く違う地域となってしまい、民間ではなお従来の郡名も通用したという、古郡名復古の誤用が起こりました。

なお寛永17年~18年(1640年~1641年)の小田原領検地帳では「西郡」表記、正保年間(1645年~1648年)に作成された相模国の正保国絵図の写本とされる「慶安年間写 相模国国絵図」では「足柄上郡・足柄下郡」表記、万治元年~3年(1658年~1661年)の小田原領検地帳では「足柄上郡・足柄下郡」表記となっており、「足柄上郡・足柄下郡」の復古は正保の頃と思われます。ただし小田原藩領内の検地帳以外の行政文書では「小田原領西筋・中筋・東筋」という区分の方が一般的だったようです。
[99289] 2020年 3月 23日(月)13:29:08【1】YT さん
広島県 甲第137号布達はM.11.11.11.ではなくてM.11.11.1では?
[99259] むっくん さん
[99285] ekinenpyou さん

広島県 甲第137号布達 M11.11.11 M11.11.11

郡区町村編制法 - Wikipediaでの施行日がM11.11.1とあったため、以下の資料類を再確認した。

広島県史. 第1編(左隅)
公文録・明治十二年・第百七十一巻・府県判任官進退録第九(2コマ)

以上より、布達がM11.11.11に出されたという点に少々疑問が生じました。
(絶対にあり得ない話ではないと思いますが・・・)

戦後改訂された版の『広島県史』調べてみましたが、『広島県史 近代現代資料編I』(1974年)の393~394頁によると
八〇 郡区編制 明治一一・一一・一
               〔「広島県報」〕
 県甲第百三十七号
 今般第十七号公布ニ依り、従前之大小区ヲ廃シ別冊之通郡区編制所轄相定メ候条、此旨布達候事
  明治十一年十一月一日
    広島県令藤井勉三代理
           広島県少書記官 平山 靖彦

    郡区編制

|沼田郡 郡役所位置 沼田郡 南下安村
|高宮郡
  但元ト(二・七)大区ヲ所轄ス

 安芸郡 同     海田市
  但元ト三大区ヲ所轄ス

 佐伯郡 同     廿日市
  但元ト四大区並第一大区庚午新開ヲ所轄ス

 山県郡 同     加計村

 高田郡 同     吉田村

 賀茂郡 同     四日市

 豊田郡 同     忠海村

 御調郡 同     尾道

|深津郡 同     深津郡 福山
|沼隈郡

|安那郡
|品治郡 同     芦田郡 府中市村
|芦田郡

|甲奴郡
|世羅郡 同     世羅郡 甲山町
|三谿郡

|三次郡 同     三次郡 上里村
|恵蘇郡

|奴可郡 同     奴可郡 西城町
|三上郡

 神石郡 同     小畑村

 広島区 区役所位置 広島大手筋一丁目
  但元ト一大区(庚午新開ヲ除クノ外)ヲ所轄ス


また『広島県史年表(明治) 明治元年(1868)~明治45 年(1912)』(pdf)(24コマ目)

1878 明治11 戊寅

11- 1大区小区を廃し広島区と22 の郡を置き,15 の郡区役所を置く〔甲137〕。
11- 1広島県,新設の郡区庁の事務分課を庶務・勧業・租税・勧学・出納の5 掛と定める。177
11- 1町村戸長選挙規則制定〔甲138〕。
11- 1福山支庁廃止〔甲144〕。
11- 1区長・学区取締・医務取締・浦役人を廃止〔丙201〕。
11- 1広島左官町の瀬川浅吉,本覚寺の上隣りへ四階楼を新築し,飲食店を開店〔広島新聞10.5〕。

少なくとも『広島県史』(1972年~1984年版)の方では、明治11年11月11日絡みの法令や記述を確認できませんでした。『広島県史』の活字化の過程で元史料(「広島県報」)の記述を写し間違えた可能性は否定できませんが、[99285]でekinenpyouさんが見つけた戦前の『広島県史』の記述と、公文録の記録からすると、広島県 甲第137号布達が出されたのは明治11年11月1日の可能性の方が高いと思います。

【誤字訂正】
[99264] 2020年 3月 17日(火)16:48:20【6】YT さん
長野県のM12.1.4布達は乙第1号布達
[99259] むっくんさん
郡区町村編制法時の各府県布達の状況を詳しくまとめて頂き、ありがとうございます。
読んでいて所々「?」の箇所があったので、その辺についてこちらで調べさせて頂きました。

1.熊本県の郡区

熊本県 甲第5号布達? M12.1.20? M12.1.20?

熊本県 熊本区 甲第5号布達? M12.1.20?~M22.3.31


新熊本市史 史料編 第六巻 近代I』(1997年)の243~247頁収録の「39 〔郡区町村編成〕(抄) 明治12.1.20 布達便覧」により、甲第5号布達、M12.1.20共に間違いないと思います。以下、細かい町丁村名については(中略)と省略して引用しますと:

甲第五号
 今般太政官第十七号布告ニ拠り、従前ノ大小区画ヲ廃シ郡区トナシ、郡区ノ分割及郡区役所ノ位置別冊ノ通相定候条、此旨布達候事。
  明治十二年一月二十日    熊本県令 富岡敬明

熊本区
 役所ヲ飽田郡新町三丁目ニ置キ熊本区役所ト称ス。
  所轄町百十八 内丸印中二ヶ所当時陸軍省所轄、一ヶ所県庁敷地
 細工町一丁目 細工町二丁目 細工町三丁目
(中略)
 新屋敷町 白川町
飽田郡 詫摩郡
 役所ヲ飽田郡春日村ニ置キ飽田詫摩郡役所ト称ス。
  所轄町三 村百三十九(注:明治十二年一月二十五日甲第二十九号二つにより、「村百三十九」を「村百四十」と正誤。)
 上立田村 下立田村 弓削村
(中略)
以下詫摩郡
 本山村 平田村 高江村
(中略)
 鹿帰瀬村 戸島村
     <以下他郡は略>


『新熊本市史』は、現在熊本市の主な境域となっている熊本区・飽田郡・詫摩郡分しか掲載しておりませんが、明治12年1月20日甲第5号布達には郡区の設置と郡区役場の設置がすべて含まれていたことがわかるかと思います。

2.茨城県の郡区

茨城県 丙第123号布達? M11.12.2 茨城郡→東茨城郡、西茨城郡
葛飾郡(茨城県管下)→西葛飾郡
相馬郡(茨城県管下)→北相馬郡


なぜ「?」を残したのか分かりませんが、リンク先の通りM11.12.2の丙第123号布達で間違いないと思います。一応『茨城県史料 = 近代政治社会編 II』(1976年)の76~77頁から「一八 郡役所設置位置」の「丙第百弐拾三号」を引用しますと:

 丙第百弐拾三号
本年太政官第拾七号公布ニ依リ従前ノ大小区画ヲ廃シ郡治分画及郡役所位置左ノ通相定候条此旨布達候事
  明治十一年十二月二日     茨城県令 野村維章
  郡治分画
 常陸国東茨城郡  東茨城郡役所  東茨城郡水戸
 常陸国西茨城郡  西茨城郡役所  西茨城郡笠間町
 常陸国那珂郡   那珂郡役所   那珂郡菅谷村
 常陸国久慈郡   久慈郡役所   久慈郡太田村
 常陸国多賀郡   多賀郡役所   多賀郡高萩村
 常陸国真壁郡   真壁郡役所   真壁郡下館
 常陸国鹿島郡   鹿島郡役所   鹿島郡鉾田村
 常陸国行方郡   行方郡役所   行方郡麻生村
 常陸国新治郡   新治郡役所   新治郡土浦町
 常陸国筑波郡   筑波郡役所   筑波郡谷田部町
 常陸国信太郡   信太
             郡役所  信太郡江戸崎村
 常陸国河内郡   河内
 下総国西葛飾郡  西葛飾
             郡役所  猿島郡境町
 下総国猿島郡   猿島
 下総国結城郡   結城
 下総国岡田郡   岡田郡役所   豊田郡本宗道村
 下総国豊田郡   豊田
 下総国北相馬郡  北相馬郡役所  北相馬郡取手宿
     〔茨城県布達〕


3.新潟県の郡区

新潟県 甲第42号布達? M12.4.28? 蒲原郡→北蒲原郡、中蒲原郡、西蒲原郡、南蒲原郡
魚沼郡→北魚沼郡、南魚沼郡、中魚沼郡
頸城郡→東頸城郡、中頸城郡、西頸城郡

新潟県市町村合併誌 上巻』(1962年)の157頁収録の「甲第四十二號」により、甲第42号布達、M12.4.28共に間違いないと思います。以下、「甲第四十二號」と「甲第四十三號」を引用しますと:

 甲第四十二號
 昨十一年太政官第十七號公布ニ依リ従前ノ大小区ヲ廃シ郡区名称区域別冊之通相定候条此旨布達候事
 明治十二年四月廿八日
                新潟県令 永山盛輝


 甲第四十三號
 今般郡区制定候ニ付郡区役所位置左ノ通リ相定候左番地並開庁日限等追テ相達候迄ハ旧大小区ノ事務従前ノ通都テ旧正副区長ニ於テ取扱候条此旨布達候事
 明治十二年四月廿八日
                新潟県令 永山盛輝
    新潟区     新潟西堀通六番町
    北蒲原郡    新発田町
    中蒲原郡    新津町
    西蒲原郡    巻村
    南蒲原郡    三条町
    三島郡     与板町
    古志郡     長岡町
    北魚沼郡    小千谷町
    南魚沼郡    六日町村
    中魚沼郡    十日町村
    刈羽郡     柏崎町
    東頸城郡    安塚村
    中頸城郡    高田町
    西頸城郡    糸魚川町
    岩船郡     村上町
    雑太郡     
    加茂郡     相川町
    羽茂郡     


同日に甲第42号布達と甲第43号布達が出ており、郡区役所位置は分けて公布したようです。ただ最初に確認した『新潟県史 資料編15 近代三 政治編I』の方では「「県治報知」明治十二年」を典拠とする甲第43号しか収録されていなかったため、非常に混乱しました。困ったことに、『新潟県史 別冊1 年表・索引』の方では、以下のように謎のM12.4.9という数字が登場してしまいます。

1879  明治12.4.9  郡区改正によって、蒲原郡を4郡、魚沼・頸城郡を各3郡、岩船郡、刈羽郡、三島郡、佐渡3郡に分け、新潟に区制を敷く。これにより大区小区制廃止される((6)619)
1879  明治12.4.28  初代郡区長として16人が任命される((6)619)。


ここで「(6)619」というのは同じ新潟県史の通史編6巻の619頁を指しますが、通史編には叙述的な一般通史が記載されているだけで、詳しい日付や典拠までは示されていません。

さらに『新潟県のあゆみ : 概説』(1990年)の方の年表では:
1879  明治12.4.9  郡区改正、1区17郡となる。大区小区制廃止

新潟県百年史 下巻』(1969年)の方の年表では:
明治12(一八七九)  4-9  郡区改正、蒲原郡を四郡に、魚沼・頸城郡を各三郡に分け、新潟に区制を布く。これにより大区小区制廃止(新潟市史)。

ここでM12.4.9というのが古い方の『新潟市史 上下巻』(1934年;1973年に複製版)を典拠としていることが示されましたが(新しい方の『新潟市史』(1990年~)の方では新潟区の成立日を確認できなかった)、これ以上調べる気力が無くなったので放置します【追記2:調べました】。とりあえず『新潟県市町村合併誌』ではM12.4.9の出来事について何も触れていないので、何かしら間違った日付が残ってしまったと思われます。また元々新潟県の郡の区分の方は、あらかじめ事前に決められているものなので、その時の布告を誤って判断してしまった可能性もあります。

4.長野県の郡区


長野県 乙第4号布達? M12.1.4? 佐久郡→南佐久郡、北佐久郡
 高井郡→上高井郡、下高井郡
 水内郡→上水内郡、下水内郡
 筑摩郡→東筑摩郡、西筑摩郡
 安曇郡→南安曇郡、北安曇郡
 伊那郡→上伊那郡、下伊那郡


長野県史 近代史料編 第二巻(二)政治・行政 郡政』(1982年)の27~29頁収録の「一四 明治十二年一月 県令十六郡名称並郡役所位置・所属・町村等制定達」により、「乙第4号布達」ではなくて「乙第1号布達」が正しいと思われます。以下山林反別の情報を(中略)と省略して引用しますと:

乙第一号
 明治十一年第十七号公布ニ依リ、郡町村ヲ編制シ、郡ノ名称及郡役所ノ位置、所属町村別冊ノ通相定候条、此是布達候事
 但 郡役所仮位置ノ箇所ハ、位置未定ノ義ト可相心得事
  明治十二年一月四日     長野県令 楢崎寛直

 (別冊)
 「明治十二年乙第壱号布達
  編制郡町村
     長野県」
南佐久郡     郡役所位置 臼田村
(中略)
北佐久郡     郡役所位置 岩村田町
(中略)
小県郡     郡役所位置 上田町
(中略)
諏訪郡     郡役所位置 上諏訪村
(中略)
小県郡     郡役所位置 上田町
(中略)
上伊那郡     郡役所位置 伊那村
(中略)
下伊那郡     郡役所位置 飯田町
(中略)
西筑摩郡     郡役所位置 福島村
(中略)
東筑摩郡     郡役所位置 北深志町
(中略)
南安曇郡     郡役所位置 豊科村
(中略)
北安曇郡     郡役所位置 大町村
(中略)
更級郡     郡役所位置 塩崎村ノ内篠ノ井駅
(中略)
埴科郡     郡役所位置 屋代町
(中略)
上高井郡     郡役所位置 須坂町
(中略)
下高井郡     郡役所位置 中野町
(中略)
上水内郡     郡役所位置 長野町
(中略)
下水内郡     郡役所位置 飯山町
(中略)
     (『乙号布達綴 明治十二年』 長野市 長野県庁所蔵)


【追記】なお長野県の場合、郡の分割の方は既に明治11年12月10日付で長野県令楢崎寛直が内務卿伊藤博文に宛てた『内務省宛県令十六郡設置認可伺』(庶第486号)の方に詳しい予定が示され、明治11年12月21日付で内務卿伊藤博文が「書面伺之通聞届候事」として印を押したとしています(『長野県史 近代史料編 第二巻(二)政治・行政 郡政』に収録の史料で、典拠は(『公文編冊 官省指令 一 職務之部 知事官房外 明治十一年』長野市 長野県庁所蔵)としている)。つまりあらかじめ県の方で郡区の分割を決定して内務省に提出し、内務省から返事を貰い、改めて布達を出して郡区の分割を正式に公布するという手続きが存在したことになります。よって新潟県の場合は、郡の分割がこれらよりも前に実施されたと誤解するような文書の混入で、明治12年4月9日実施という誤った情報が一部で採択されたものと思われます。

【追記2】『新潟市史 上巻』の608頁に以下の文章があるのを確認しました。

 明治十二年四月九日、郡区改正あり、県下を新潟区・北・中・西・南蒲原郡・三島・古志郡・北・南・中魚沼郡・刈羽郡・東・中・西・頸城郡・岩船郡・佐渡三郡(雑太・加茂・羽茂)の一区十七郡に割ち新潟一円寄居・白山外新田を新潟区となし、新潟町会所を新潟区役所と改め、市中を二百四十一町一村と定めたり。


とあり、どこにも布達等の情報がありません。さらに612頁には

 明治十二年郡区改正に際し、西島屋野島を出来島新田に復帰せしめ、寄居白山外新田を合して、新潟区新潟町と称し、新潟町会所を新潟区役所と改め、四月三十日を以て、改正による処務を開始せり。


とあり、郡区が成立したとされるM12.4.9の日付も、布告のあったM.12.4.28の日付もなく、新潟区自体の都合による業務開始の日時が掲載されているだけです。よって、M12.4.9は根拠の乏しい数字ということで無視して良いでしょう。

【追記3~6】誤字修正、及び新潟県の甲第四十三號布告の文章修正


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