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落書き帳アーカイブズ 長野県内の特色ある地域についてのネタを集めました。小盆地ごとに特徴的な地域性を見せる信州の魅力をご堪能ください。

シリーズ・地域の地理雑学−長野県編−



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記事数=14件 更新日:04年07月25日
記事#記事日付
記事タイトル
発言者
[924]2002年2月18日
佐久市と佐久町 Issie
[932]2002年2月19日
木曽は実は美濃の国 Issie
[1495]2002年5月14日
飯田線 Issie
[2829]2002年8月29日
両小野の組合立 Issie
[2842]2002年8月30日
塩嶺峠 vs 善知鳥峠 Issie
[2897]2002年9月3日
我田引鉄:伊那 vs 木曽 Issie
[2901]2002年9月4日
中山道 Issie
[2905]2002年9月4日
続・中山道 Issie
[2908]2002年9月4日
佐久市 Issie
[3193]2002年9月19日
Re:松本の経済圏 Issie
[3195]2002年9月20日
さらしなの月 Issie
[20483]2003年10月1日
西じゃねえずら Issie
[22302]2003年11月27日
かみゆき Issie
[30866]2004年7月22日
信州クイズ 稲生



[924] 2002 年 2 月 18 日 (月) 22:05:08 Issie さん
 佐久市と佐久町
ARC シリーズ・地域の地理雑学−長野県編−

> 「千曲川」が漢字で書いた通りの意味との事ですが、どの辺りを指して
> 居るのでしょうか?

「くま(隅=曲流点)が千,つまりたくさんある川」という意味だ,と言われています。
しかし,本当かどうか。
昔から使われている地名の語源を探るのは容易なことではありません。
むしろ,「犀川」の方が全く意味不明。

「佐久市」の発足は1961年4月1日,「佐久町」の発足は1955年2月1日。
どちらも近隣町村の合体による新設自治体ですね。
お互いそれぞれ別個に,「佐久にある町」または「市」という意味で名づけたのだと思います。
佐久町の場合は旧南佐久郡栄村と海瀬(かいぜ)村の対等合併,佐久市の場合は旧北佐久郡浅間町(岩村田)・東村,南佐久郡野沢町・中込町の3町1村の対等合併。
特に佐久市の場合は,事実上,それぞれに勢力を持つ岩村田・野沢・中込の合併なので,どれか1つの町の名前を名乗るわけもいかず,こういう場合の常套手段はそれぞれの旧町村名の一部を組み合わせた“合成地名”とするか,それとも後腐れのない“全く新しい自治体名”にするか,ということになります。で,よく使われるのは所属の郡名を新自治体名とすること。この場合,それが「佐久町」であり,「佐久市」であったということでしょう。
町村の場合は同一郡内に,市の場合は全国で同名の自治体名は認めない,というのが自治省(当時)の指導ですが,この場合「佐久町」の後から「佐久市」が誕生しても“語尾”が違うので問題なし,ということなのでしょう。

「釧路市」と「釧路町」の場合は事情が違って,北海道で「町村」および「区」(後の「市」)を設置する(“内地”の市制・町村制とは若干違った制度下に置かれていた)にあたって,“釧路”という地域(釧路郡に属する)のうちで既に市街地となっていた区域を「釧路区」(1922年に「釧路市」),それに隣接する(だから市街地ではない)区域を「釧路村」(1980年に「釧路町」)としたことに由来します。
同じことは“札幌郡”のうちの「札幌区(→札幌市)」と「札幌村」の間にもありました。ただし,札幌村は1955年に札幌市に編入されましたが。
北海道にはこういう組み合わせがまだあったかもしれません。

[932] 2002 年 2 月 19 日 (火) 18:57:11 Issie さん
 木曽は実は美濃の国
ARC シリーズ・地域の地理雑学−長野県編−

「木曽」は古代には独立した“郡”ではありませんでした。
現在の木曽川上流から奈良井川上流にかけての地域が漠然と「きそ」(木曽,岐蘇,その他漢字表記はさまざま)と呼ばれていたようです。
何しろ「すべて山の中」(by 島崎藤村)の木曽谷のこと,開発のほとんど進んでいない中世以前,木曽は独立した郡を置くほどの所ではなかったのでしょう。今で言うところの高速自動車道に相当する古代の官道である東山道は当時,現在の中津川から峠を越えて伊那谷を経由して上田(移転後は松本)にあった信濃国府へ向かっていました。

実は,古代の信濃と美濃の国境は木曽川と奈良井川の分水界にあたる鳥居峠であったと考えられています。
つまり,現在の木曽郡のうち奈良井川上流の楢川村の区域だけが“信濃”で,木祖村以西の木曽川流域は“信濃”ではなく“美濃”の恵那郡のうちだったと考えられているのです。
中世にはこのあたりの帰属は不安定で,木曽全域が“信濃”に属することが確定したのは実は江戸時代の初めです。
同じ頃,古代には奥羽へ向かっていた東山道を“江戸行き”につけかえた中山道(中仙道)が木曽谷経由で整備され,さらに尾張藩領となって森林開発が進んだことで,ようやく木曽谷の発展が始まりました。
源平交替期に活躍した源(木曽)義仲は,木曽谷で成長したことから信州では地元の英雄・偉人の1人として(“あんな国歌”よりもはるかに広く,かつ親しく,心をこめて歌われる)県歌「信濃の国」でも歌われているのですが,その頃の木曽が信州であったかどうかは微妙なのですね。

そもそも「筑摩(つかま)郡」というのは梓川を境に松本平の南半分,つまり奈良井川流域をさす地名(梓川以北の高瀬川流域が安曇郡)ですから,この川の最上流部で鳥居峠の“信州側”にあたる現楢川村の区域が「筑摩郡」に含まれるのはごく自然なことです。
江戸時代になって木曽全域が信濃に属することが確定すると,そのまま「筑摩郡」に編入されました。で,明治になり郡が分割された際に,現在の楢川村以西の「木曽」と呼ばれた区域が「西筑摩(ちくま)郡」とされ,「木曽郡」に改称されて今に至るのです。

[1495] 2002 年 5 月 14 日 (火) 20:58:14 Issie さん
 飯田線
ARC シリーズ・地域の地理雑学−長野県編−

伊那谷は実は地図で見るよりも結構複雑な地形なのです。
天竜川沿いの低地は地図で見る伊那谷よりもずっと幅が狭いのですね。
そして川の両側に河岸段丘(飯田線が通っている右岸=西岸にはさらに断層による崖がある)があり,それを両側の山地から天竜川に合流する支流が深く掘り下げる。
特に,城下町である飯田は四方のうち北・東・南をこうした崖で区切られ,西はそのまま風越山につながる台地上にある,というわけで,飯田線はそれらの崖をうまくやり過ごす必要があるのですね。
だから盆地の中を通りつつも,飯田線は伊那谷区間でこそ,急勾配・急曲線の連続なのです。そのせいで,中央道・長野道の完成以来,県都である長野への交通では完全に高速バスに負けていて,JRもこの20年間後退しっぱなしです。
まして,対名古屋交通では,たとえ豊橋経由の特急が走ったとしてもJRには勝ち目はないでしょう。飯田南線の特急は飯田というよりは,それこそ3県の境界地域あるいは東北三河から豊橋への流れを期待したものだと思われます。

伊那谷の地形の複雑さは,そもそもこの地域が隆起帯に属するからです。
反対に,フォッサマグナの西縁に位置する松本盆地は沈降帯に属します(よく誤解されるのですが,「糸魚川・静岡構造線」と呼ばれる大断層が「フォッサマグナ」なわけではありません。フォッサマグナというのは,この大断層を西の縁とする「地溝帯」をさす用語です。松本盆地や,長野盆地(善光寺平),諏訪盆地や甲府盆地などをふくむ幅のある低地帯を指します。糸魚川・静岡構造線はこの西の縁。東の縁は不明瞭なのですが,おおよそ柏崎と銚子を結ぶ線がこれに相当すると言われています)。
つまり,松本平はどんどん沈みつづけていて,それを梓川と高瀬川が一生懸命に埋めている。だから,松本平は平坦なのですね。
飯田線も大糸(南)線も,どちらも地方私鉄として規格自体にさほど大きな違いはありません。幸いなことに大糸線の沿線が平坦だったのに,飯田線沿線の伊那谷は地形が複雑だったことが大きな不幸だったのです。

※これが,上越線のように通過交通に重点のあるある路線なら,沼田の市街地に乗り入れずに崖下を“かする”だけで済ましてしまったように飯田を通り抜ける選択もあったでしょうが,伊那谷を対象とするローカル私鉄である以上,飯田市街に乗り入れない選択はありえなかったでしょうね。

[2829] 2002 年 8 月 29 日 (木) 23:49:39 Issie さん
 両小野の組合立
ARC シリーズ・地域の地理雑学−長野県編−

長野県の塩尻市は松本平(松本盆地)の南端にある都市ですが,市域は分水嶺の善知鳥(うとう)峠を越えて天竜川支流の小野川最上流域まで広がっています。
旧東筑摩郡筑摩地(ちくまち)村の北小野地区。
隣接するのは上伊那郡辰野町の小野地区(旧上伊那郡小野村)。
つまり「小野」という地域が南北に分割され,それぞれ(東)筑摩郡と(上)伊那郡に属していると言うわけです。これは豊臣政権から徳川政権初期の郡境設定で分割された,とのこと。

で,この小野地区には塩尻市と辰野町の組合立で小学校と中学校があります。
「組合立両小野小学校」は辰野町側,「組合立両小野中学校」は塩尻市側,郡境をまたいで連続して一体化している集落(中央線の小野駅のあたり)の南北両側にあります。
小野地区は塩尻市の市街からも辰野町の市街からもはずれている上に,中信・松本平の塩尻市と南信・伊那谷北端の辰野町とが合併することはまず想定できそうもないので,この「組合立」が解消されることも当分ないでしょうね。

なお,辰野町にはもう1ヵ所,諏訪市との間にも分水嶺(有賀峠)を越えて広がる諏訪郡(現諏訪市)との間で分割された「上野」という集落があります(その昔,NHKの「新日本紀行」で紹介されたらしく,アーカイブスで再放送されていました)。
こちらは単独で学校を設置するほど大きくなく,(少なくとも今は)「組合」を組むことなく,それぞれ辰野町と諏訪市の小中学校へ通っているようです。

[2842] 2002 年 8 月 30 日 (金) 21:08:18 Issie さん
 塩嶺峠 vs 善知鳥峠
ARC 廃線跡を行く ARC シリーズ・地域の地理雑学−長野県編−

1983年に開いた塩嶺トンネルですが,その効果は絶大でした。
何しろ諏訪と松本がこれほどまでに近いとは思いませんでしたから。
というわけで,このトンネルの第一の目的は諏訪 対 松本,そして新宿 対 松本の時間短縮にあります。だから当然に昼間の直通列車(特急・急行)は塩嶺トンネル・みどり湖経由となりました。
けれども,夜行で残った「アルプス」の基本的な役割は(今は昔に比べてはるかに少なくなったけど)北アルプス方面への登山客を“適当な時刻”に松本あるいは大糸線沿線へ送り込むことにあります。だから別に松本まで急ぐ必要はないのですね。むしろ,適度に時間がかかったほうが望ましい(松本は夜行列車で行くには近すぎますから)。
もう1つ。トンネルが開いた頃はまだ新聞輸送は鉄道の荷物列車が主体でした。中央東線の「アルプス」をはじめ,全国の夜行列車のほとんどは旅客輸送以上に荷物輸送と郵便輸送のために運転されていました。国鉄が手小荷物輸送を廃止し,郵政省が鉄道での郵便輸送を廃止した途端に夜行列車が激減したのは,この理由によります。
で,当時の「夜行アルプス」はまだこの新聞輸送を担っていましたから,そのためにも辰野を経由する必要があったように思います。
今は…,過去からの「惰性」でしょうか…。

塩嶺トンネルの開通以来,辰野経由の路線は名目上「中央東線」(正式には「中央本線」)なので「JR東日本」の管轄なのですが,運転系統上,岡谷−辰野間は飯田線(JR東海)の一部になってしまっていますね。そして,辰野−小野−塩尻ルートは“通り抜け”を全く前提としない,まさしく辰野町川島地区と辰野・塩尻にまたがる両小野地区のため“だけ”の局地的輸送機関となってしまっていますね。
明治後半の技術も資本も資金もない時代に建設された善知鳥峠から塩尻駅へ降りる急勾配・急曲線の貧弱な旧ルートと,「昭和の鉄道技術」の粋を集めた塩嶺トンネルルートを比較してこちらがメインルートになるのは当然至極です。
そもそも伊那谷選出の代議士の政治介入によって中央線が辰野を経由することになったなどという「伝説」(「大八回し」と呼ぶ)が成立するほど,諏訪と塩尻の短絡線は待ち望まれていたのですから(当時の貧弱な技術で塩嶺峠(塩尻峠)にトンネルを開けるなどできるはずもありません。別に政治介入がなくても,当然に中央線は辰野を経由したことでしょう)。

塩嶺トンネルが開く前後をはさんで何度も中央東線を利用していましたが,まだ昼間も走っていた下り松本行きの急行「アルプス」が小野駅で突如一番はずれの3番線に入線し,長い運転停車(旅客の乗降扱いをしない)の間に1・2番線で上下の特急「あずさ」が交換(行き違い)をするなんて光景,今は昔ですね。

>特急 「しなの」 等のスルー運転対策で塩尻駅が大門貨物駅>から現在地に移ったのは
>塩嶺峠経由のバイパス線が開業したのと同時期でしたっけ?

全く同じ理由で千葉駅が1963年に移転していますね。それに先立って京成の千葉駅も移転しました。
これが千葉の市街地の変化に与えた影響は絶大ですが,千葉市の都心を追われて町外れの房総東線(現外房線)の本千葉駅の位置に「京成千葉駅」を移転させられた(玉突き的に房総東線の本千葉駅も移転)京成千葉線のその後の凋落ぶりには目を覆うものがあります。
(国鉄の民営化後,以前の「国鉄千葉駅前」駅が「京成千葉」と改称され,かつての「京成千葉」駅は現在「千葉中央」駅となっています。以前は大多喜や成東など千葉からの遠距離バスのターミナル機能も持っていましたが,この地位もJR千葉駅に奪われてしまいました。)

[2897] 2002 年 9 月 3 日 (火) 22:44:30 Issie さん
 我田引鉄:伊那 vs 木曽
ARC シリーズ・地域の地理雑学−長野県編−

[2895]
>>電化線であえて気動車を導入する事の経済的意味とは何だろう。

>保守作業の簡便化による経費削減の効果が、大きいのでしょうかね。

敗戦直後,多くの地方鉄道(私鉄)が電化されたのですが,その最大の理由は石炭事情の極端な悪化によるコストの増大にありました。
(旧)栗原電鉄の場合は施設の維持費とエネルギーの購入費とを天秤にかけて“ディーゼル化”を選んだわけですね。名鉄の三河線や岐阜地区の末端区間もディーゼル化されたけれども,そのうちのいくつかは結局廃止の道をたどりました。
これは,ある意味でギリギリのボーダーという所なのかもしれませんね。

さて,「鍋弦線」の話。
[2842] では中央線の辰野経由の是非,つまり「善知鳥峠か,塩尻峠か」という問題を話題にしたわけですが,「大八回し伝説」のもっと根本的意味は,“少しでも伊那谷に鉄道を引き込みたい”という願望にあります。それが,塩尻峠(塩嶺峠)で諏訪から直接に松本平南端の塩尻へ抜けるのではなく,辛うじて伊那谷最北端の辰野を通過させるのに成功した,というもの。

中央線,というよりも「中山道鉄道」の建設構想が持ち上がったとき,長野県南部ではその鉄道を“伊那谷経由”とするか“木曽谷経由”とするかが問題となりました。
古代の東山道は伊那谷経由。美濃東部の恵那郡から神坂(みさか)峠を越えて伊那谷に入り,善知鳥峠を越えて松本(後期信濃府中)を経て保福寺峠(四賀村・青木村境)を越えて上田(前期信濃府中,信濃国分寺)から碓氷峠へ,というルート。
近世の中山道は言うまでもなく,東濃の中津川から木曽谷に入り,塩尻→下諏訪→和田峠→碓氷峠,というルート。
信州南部から名古屋への鉄道を建設するにあたって伊那谷と木曽谷とどちらを経由すべきか。

結局は“木曽谷ルート”が選ばれたのですが,沿線の人口や経済面を考えれば「すべてが山の中」の木曽谷よりも伊那谷のほうがはるかに勝っているのは確実ですよね。
ただ,伊那谷ルートの最大の弱点は「どうやって伊那谷を抜け出るか」にあります。
木曽谷経由の鉄道(中央線)に対して,中央道は伊那谷経由ですね。先の経済面から考えれば当然の選択です(この高速道路が伊那谷の工業化に与えた影響は小さくありません)。
でもこれは,当時“最長の道路トンネル”を誇った恵那山トンネルのなせるわざです。伊那谷から美濃東部へ抜けるのはきわめて困難なのですね。国鉄が完成を期した飯田−中津川間の路線が建設中途で結局捨て去られたのが何よりの証拠です。

当時の鉄道建設技術では塩尻峠ではなく辰野を経由せざるを得ず,伊那谷ではなく木曽谷を経由せざるを得なかった。つまりは,現在の中央線のルートは現在の目で見れば違った推測が可能であっても,当時としては“当然の選択”であったと言えるかもしれません。

[2901] 2002 年 9 月 4 日 (水) 00:28:45 Issie さん
 中山道
ARC シリーズ・地域の地理雑学−長野県編−

>ところで実に基本的な質問で恐縮なのですが、中仙道の碓氷峠−下諏訪の詳細な
>経路とはどうなっているのでしょうか?

一応,京都が起点となっていますから下諏訪から行きますが…
 下諏訪−<和田峠>−長久保新町(長門町)−<笠取峠>−芦田(立科町)−
 −茂田井・望月(望月町)−塩名田(浅科村)−岩村田(佐久市)−
 −小田井(佐久市・御代田町)−追分・沓掛[現中軽井沢]・軽井沢(軽井沢町)
で碓氷峠,となります。

中世までの東山道(仙道)は関東平野へ出た後,両毛地区を通って宇都宮から奥州へ(江戸時代の例幣使街道は日光までですが,この後身です),近世の中山道(中仙道)は高崎線沿いに浦和から板橋を経て本郷から江戸日本橋へ,となるわけですね。

[2905] 2002 年 9 月 4 日 (水) 22:04:12 Issie さん
 続・中山道
ARC シリーズ・地域の地理雑学−長野県編−

[2902]
>千曲川の谷底平野を避け、あえて峠越えが連続するのは、当時にあっては特異な事と感じます。

古代の官道であれば“国府を結ぶ”というのが大きな使命の1つですから,信濃府中の松本や上田を経由する必要があったでしょう。
でも律令国郡制が崩壊した中世以降の東山道(→中山道)が畿内と北関東以北を結ぶことに特化したとすれば,相当な遠回りになる上田経由のルートよりは,多少峠があったとしても木曽谷の出口の塩尻や伊那谷の奥の諏訪から碓氷峠へ最短で抜ける近世中山道ルートの方が合理的であったように思います。
馬や人の足だけで,車を全く使用しない時代であれば,峠の上り下りはさほど苦にはならなかったのだと思います(もちろん,程度の問題ですが)。それよりも距離のロスの方がより多く問題にされたのではないでしょうか。

松本から長野へ抜ける善光寺(西)街道も峠越えの連続でした。
 松本 →<刈谷原峠>→ 会田(四賀村)→<立峠・花川原峠>→西条(本城村)
  → 坂北 → 麻績 →<猿ヶ馬場峠>→八幡・稲荷山(更埴市)→ 篠ノ井 → 長野(善光寺)
となります。
このとき,猿ヶ馬場峠から稲荷山へ降りていく途中が「姨捨の田毎の月」の景勝地。ただし,古代の歌枕に登場する「姨捨の月」は峠の手前,麻績側から冠着山(姨捨山)越しに眺めた月のことなのだそうです。

犀川の谷底を通る現在の国道19号は大正期以降に整備されたものです。20年前にくらべて比較にならないくらい整備されましたが,あいかわらずひどい道ですね。

[2908] 2002 年 9 月 4 日 (水) 22:57:28 Issie さん
 佐久市
ARC いざ対決!ライバル都市 ARC シリーズ・地域の地理雑学−長野県編−

[2902]
>岩村田、中込という二つの市街を持ち、中込学校を擁したなど、ある種先進性が窺える佐久市の成因は、中仙道が経由したからこその産物と見るべきでしょうか?。

岩村田は中山道の宿場町という岩村田藩の城下町という2つの機能を持つ都市として発展しました。「北佐久郡」の主邑としては北国街道沿いで同じく城下町である小諸がライバルとして存在したのですが,郡役所をはじめ,北佐久郡を管轄する官庁の多くは岩村田に置かれました。“南佐久郡の県立中学校”が野沢に置かれた(→野沢北高校)のに対し,“北佐久郡の県立中学校”が置かれたのも岩村田でした(→岩村田高校)。
明治初期の段階では,やはり中山道が通過する岩村田の方に一日の長があったのでしょう。
でも,信越線が北国街道に沿って小諸を通過するようになると,両者の勢力は逆転して行きます。

千曲川をはさんで相互に密接な関係のある野沢と中込は,岩村田と若干距離があるように(空間的な意味だけでなく)感じます。
こちらは南佐久郡に属していたわけですが,実は南佐久郡の行政上の中心地はそのどちらでもなく臼田にありました。南佐久郡ではこの3つの都市間の競争があったのですね。
いずれも南北を走る佐久甲州街道と峠を越えて上州へ抜ける街道との交点に発達した都市です。
千曲川左岸の臼田市街とは川をはさんで反対側の田口には幕末に大給(おぎゅう)松平氏が三河から本拠地を移して箱館(函館)五稜郭のミニチュアのような竜岡城を建設するのですが,1万6千石の極小藩であり,藩政時代最末期のことでもあり,城下町としての性格はほとんどないでしょう。
野沢・中込・臼田の3つの中で中込が頭を出したのは佐久鉄道(小海線)が千曲川右岸を通り中込に駅と機関区を設置したことにあると思われます。逆に“川向う”となってしまった臼田には打撃が大きかったでしょう。
そして同じく駅が設置された北佐久郡の岩村田と南佐久郡の中込とが競争するようになった…。
で,この岩村田・中込・野沢の3町が中心となって「佐久市」が誕生したわけですね。
合併後も岩村田と中込の間には微妙な関係があるのではないでしょうか。
市役所は両者のちょうど中間に置かれましたね(地区としては中込の方に属しますが)。

恐らくは地形の関係から新幹線は小諸を通らずに岩村田に「佐久平駅」を設置したわけですが,これでまた小諸 対 岩村田(ないしは佐久市)という競争が成立することになります。
はたして,佐久平駅は岩村田浮上のカギになれるでしょうか。

[3193] 2002 年 9 月 19 日 (木) 23:59:01 Issie さん
 Re:松本の経済圏
ARC 長野県の主要拠点都市はどっち? 長野市VS松本市 ARC シリーズ・地域の地理雑学−長野県編−

>東筑摩郡の町村(篠ノ井線で言えば冠着トンネル以南)は松本の都市圏に入るとされていますね。

一昔前の筑北盆地(本城村・坂北村・麻績[おみ]村・坂井村)は松本電鉄バスのエリアでした。現在では松電バスは撤退してしまいましたけど。
ただし麻績村は,更級郡の大岡村への入口という位置にあるので,ここには川中島バスが乗り入れていました。川中島バスは,長野市の都心部西半部以西の上水内地域と更埴地域,大町以北の北安曇地域と新潟県の妙高高原地区をエリアとしていました。
(ただし,大岡村へのアプローチは,同じ更級郡の中心であった篠ノ井から,または長野市内から信州新町を経て,というのがメインであるようです。これも元は“川バス”(川中島バス)が運行していました。現在は村営。)

つまり,麻績村と大岡村との間には局地的な流動はあるようです。過疎地域のことで,きわめてわずかですが。
けれども,筑北盆地と善光寺平との間の流動はかなり少ないと思われます。
松本−長野という都市間の輸送需要はあっても,聖高原−篠ノ井間のローカル輸送の需要はほとんどないと言っていいように思います。だから,篠ノ井線の普通列車は非常に少ない。松本から明科あるいは聖高原(麻績)までの区間列車が運転される(た)ことがあっても,冠着トンネルを抜ける普通列車は意外に少ないのですね。

[3195] 2002 年 9 月 20 日 (金) 00:25:50 Issie さん
 さらしなの月
ARC シリーズ・地域の地理雑学−長野県編−

ところで前にも書いたのですが,
現在,筑北盆地の4村は「東筑摩郡」に所属していて,だから県立高校の学区もバスのエリアも松本のそれに属しているのですが,その「筑摩郡」に属するようになったのは近世以降のことです。
古代には「更級郡」に属していたようです。
「さらしな(更級/更科)の月」とは,平安時代以来,和歌の世界で有名なフレーズなのですが,これは筑北盆地,もう少し特定すると麻績のあたりから冠着山(姨捨山)越しに眺めた月を指すといわれています。
この時代には冠着山の峠よりも,現在の本城村と四賀村の間の峠の方が「境界」として意識されていたのでしょうね。

筑北盆地が筑摩郡となった近世以降の更級郡は,善光寺平の中で犀川と千曲川とにはさまれた区域と,その西側の犀川丘陵の犀川以南の区域に縮小しました。
で,松尾芭蕉の時代には姨捨駅のあたりからの月の眺め,「姨捨の田毎の月」が有名になるのです。

ついでに,善光寺平の千曲川以南の区域が「埴科郡」。千曲川右岸の松代より上流,と言い換えた方がいいかもしれない。
更級郡の行政上の中心地は当初の稲荷山(現更埴市)から篠ノ井に,埴科郡の行政中心地は松代から屋代(現更埴市)に置かれ,篠ノ井はやがて犀川丘陵の村々を編入しながら「市」にまでなりました。この更級郡と埴科郡の地域をまとめて「更埴地域」と呼ぶのですが,これは本来は善光寺平の南半分,犀川以南の区域を指していたのです。
ところが1966年の大合併で,このうちの篠ノ井市・川中島町・松代町・更北村がすべて「長野市」の一部になってしまいました。
結果的に,現在「更埴地域」というと,更埴市に更級郡の上山田町と埴科郡の戸倉・坂城両町の区域,つまり善光寺平と上田盆地を結ぶ“回廊地域”をさすようになり,むしろ上田と同じブロックに組み込まれるようになっています。
そして,犀川丘陵の中に取り残された更級郡大岡村は,そのまま長野ブロックに残留という状態になっています。

[20483] 2003 年 10 月 1 日 (水) 00:25:12【2】 Issie さん
 西じゃねえずら
ARC シリーズ・地域の地理雑学−長野県編−

…と,松本では申します。

[20478] utt さん
長野市あたりは関東、松本あたりは名古屋の影響が強いかなと思っておりましたが、長野県全体で見たら、方言は意外と「西」寄りと判断されるのですか。

松本平は諏訪から甲州,静岡県東部に連なる「〜ずら圏」に属します。
方言上の「西」と「東」の境は北アルプスですね。
山本薩夫監督の映画「あゝ野麦峠」では,三国連太郎やモロボシ・ダンたち,諏訪の工場経営者側が「〜ずら」という諏訪方言をしゃべっていて,峠を越えてやってきた製糸工女たちの飛騨方言(こちらは「西」の方言)との違いがさりげなく現われています。
一昨日(おとつい)NHKで放送の始まった「夢見る葡萄」というドラマは甲府盆地が舞台で,ここでも「〜ずら」「〜じゃん」という甲州弁が飛び交っていますね。

東信・北信は「〜ずら圏」には属しません。善光寺平で少し昔まで聞かれた「〜へ行かず(〜へ行こう)」は松本平の「〜へ行くずら」に通ずるようですが,これは現在ではほとんど聞かれません。奥信濃の飯山地域は越後と,東信の佐久の言葉は上州とほとんど同じです。

というわけで,信州はそのほとんどが「東」の方言に属します。
その中で木曽と,飯田を中心とする下伊那が,明らかに外の地域とは違って「西」,特に名古屋の影響の濃い言葉が話されます。だから県内では,この地域の出身者の話す言葉だけは大分変わって聞こえます。

※でもね,松本駅の食堂や地元大学の学食では「みそカツ」が食べられます。この点,名古屋の影響が見られますね。松本駅の「そば」は,もちろん関東風です。

[22302] 2003 年 11 月 27 日 (木) 00:37:41【2】 Issie さん
 かみゆき
ARC シリーズ・地域の地理雑学−長野県編−

[22297] なおさん
[22300] じゃごたろ さん
諏訪は太平洋側というのは存じておりますが、なぜ、大きな山が無いのに
長野が雪で松本・諏訪が快晴となるのですか?

少し前にも話題にしたことがありますが,松本・長野の両市に居住した経験から…

簡単に言えば,日本海から押し寄せた雪雲が長野には(何とか)届くけど,松本までは届かないからです。

水系からいえば,長野県のうち南信の諏訪と伊那谷が天竜川水系,木曽谷が木曽川水系で太平洋側,残りの東北信(佐久平・上田平・善光寺平)と中信の大部分(松本平)が信濃川(千曲川)水系,神城盆地を中心とする白馬・小谷両村の区域が姫川水系で日本海側となって,“両斜面”を分ける大分水界は,草津白根〜浅間山〜碓氷峠〜甲武信ヶ岳〜八ヶ岳〜霧ヶ峰〜塩尻峠〜鳥居峠〜乗鞍岳… とつながっているのですが,気候上の境界はずっと北側にあって,長野県の大部分は「内陸気候」,もっと大きな眼で見れば「太平洋側気候」に属します。

「日本海側」の多雪地域は,以前にも触れた 高社(たかやしろ/こうしゃ)山〜飯縄(いいづな)山〜仁科三湖(とくに木崎湖)ラインでもって限られます。
もちろん,上信国境の志賀高原は雪が多く降りますが,善光寺平では高社山以北の飯山地域が多雪地帯で,中野以南は積雪がぐんと減少します。
長野市の場合は,北に隣接する牟礼村との境に当たる峠がその境界に相当し,南斜面の長野市側では徐々に積雪が減少します。だから,善光寺→長野駅→犀川→川中島→千曲川→更埴あらため千曲市の順に積雪がなくなってゆきます。
松本平では,最北の木崎湖を境に積雪が増え,大町市街はそれほど雪は多くありません。松本で雪の日,というのはとても少ないものです。

大雑把に言えば,長野市(犀川以北)で雪が降るのは「冬型」の気圧配置が特に強まって,日本海側に「山雪型」の雪が降るときです。
それに対して,松本や諏訪・伊那谷で雪が降るのは,台湾方面で発生した低気圧が発達しつつ日本の南岸に沿って通過したとき,つまり東海や関東といった太平洋側で雪や雨(東京では雨でも,信州は寒いから雪)の降るときで,これを信州では「かみゆき(上雪?)」と呼んでいます。

実は「東信」の上田・佐久地方は,冬の雪も少なく,夏の雨もさほど多くなく(地形上の太平洋斜面,つまり東海・関東地方で雨が降ってしまう),瀬戸内地域とならぶ(あるいは,それ以上に)降水量の少ない地域なのです。
少し以前まで茅野を中心とする諏訪南部は寒天の産地として知られていましたが,それも冬の乾燥が激しい,つまり雪がほとんど降らない気候によるものです。

そのかわり,これら「気候上の太平洋側」の地域では冬の冷え込みがたいへんに厳しく,一度積もった雪はなかなか融けません。ただ,陽射しはあるので朝はとても冷え込んでも,日中はそこそこ気温が上がります。
「気候上の日本海側」の長野以北で雪が降る日には,雲におおわれているので朝の冷え込みはそれほどでもなくても,日中は全く気温が上がらずに一日中氷点下,つまり真冬日となることがしばしばです。

そう考えると,松本と長野,どちらが寒いか,判断に苦しむところがあります。
いずれにせよ,こうした事情を踏まえて,気象庁の予報区分では現在,長野県を「北部」(飯山,長野,大町)・「中部」(上田・佐久,松本・諏訪,安曇)・「南部」(伊那,木曽,飯田)の3地域に区分して,それぞれに天気予報を出しています。

[30866] 2004 年 7 月 22 日 (木) 05:04:57【1】 稲生 さん
 信州クイズ
ARC 分水界、川の流れに関する雑学集 ARC シリーズ・地域の地理雑学−長野県編−

稲生です、おはようございます。

拙HPへの書き込みで知ったことですが、信濃の国には8つの水系があるそうですが、知ってましたか?

[26123]月の輪熊さん
Issieさん、じゃごたろさん、サンドルさん、ryoさんと私で「落書き帳『信濃の国』を歌う会」
上の『信濃の国』を歌う会の皆さん、答えられますでしょうか?

答えは、こちら ↓
http://www.pref.nagano.jp/doboku/kasen/keikaku/001.htm
1つ2つ難しいかと思います。自己採点してみてください。

なお、一般の方は、
「信濃の国は十州(じっしゅう)に境(さかい)連(つら)ぬる国にして・・・」
この十州を答えてみてください。(制限時間は30秒です。)

※一般部門追加



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