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落書き帳から選び抜いた珠玉の記事集

廃線跡を行く

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記事数=35件/更新日:2003年5月26日/編集者:special-week

時代の隆盛を極めた鉄道も今では自動車の後塵を拝することも珍しくなくなり、時代にそぐわなくなった鉄道路線は、躊躇されることなく廃止に追い込まれていくのが現状のようだ。しかし廃線になった鉄道にも往時を偲ぶ人々がたくさん存在する。かつてはにぎわいの中心になった駅など多数存在し、人と鉄道との物語は枚挙に暇がないほど日々描かれている。

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★推奨します★(元祖いいね) 深海魚 いっちゃん 雪の字 BANDALGOM 北神 リトル

記事番号記事日付記事タイトル・発言者
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ニジェガロージェッツ
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ニジェガロージェッツ
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ニジェガロージェッツ
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夜鳴き寿司屋
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深海魚
[15902]2003年5月25日
G

[889] 2002年 2月 13日(水)19:04:23Issie さん
新潟
現在,新潟市は信濃川をはさんだ左右両岸に市街地が広がっていますが,本来の「新潟」は信濃川左岸(白山神社側)“だけ”の地名です。新潟駅のある信濃川右岸の方は「沼垂(ぬったり)」と呼ばれ,新潟とは全く別個に独立した市街地を形成していました。

「沼垂」は古代に大和政権がこのあたりまでようやく勢力をのばした7世紀に設置された「停足柵(ぬたりのき)」までさかのぼる大変に古い地名です。
現在の沼垂市街がこの時代からずっと続いてきたわけではもちろんありませんが,信濃川と阿賀野川(江戸時代までは直接日本海に注ぐのではなく,ここで信濃川と合流していた)の河口に発達した河港として古くから栄えました。

対岸の「新潟」は沼垂に比べればずっと新しい港町で,江戸時代を通じて特に長岡藩の外港として発展しました。
しかし幕末に幕府の直轄領となりここに幕府の役所が置かれたことが,恐らくは新潟が沼垂を凌駕し,県庁が置かれることにつながったのでしょう。
なおこのとき長岡藩は代わりの領地として長岡西方の山間部を幕府から与えられたのですが,何より重要な財源であった新潟を失ったことは,その後に京都所司代を勤め,戊辰戦争の当事者にもなった長岡藩にとって大きな経済的痛手になりました。

さて,新潟。
明治になり,現在の信越線の前身である北越鉄道が長岡から信濃川右岸(東側)を通って県都への路線を延長したとき,とても信濃川をわたることができなかったので「新潟駅」を信濃川右岸の沼垂市街に設置しました。もちろん,これでは新潟市街から遠すぎるので,後に万代橋近くまで路線を延長して新たに「新潟駅」を開設して,それまでの新潟駅は地名のとおり「沼垂駅」に改称されました。また,この間に右岸の“中蒲原郡沼垂町”は左岸の“新潟市”(旧西蒲原郡)に編入されています。
左岸の新潟市街には柏崎からの越後鉄道(現JR越後線)が「白山」まで乗り入れていましたが,昭和に入ってからこの白山駅と新潟駅を統合し,さらに新発田までの新線を建設して秋田・青森方面への直通運転を可能にするための路線変更が計画され,戦後になって工事が始まりました。
ちょうど1964年の新潟地震の前後に一連の工事が完成し,新潟駅は万代橋近くの従来の新潟駅よりはやや新潟市街から遠い現在位置に移転し,沼垂経由の旧ルートは廃止されました(ただし沼垂までの区間は現在も貨物線として営業しています)。
またこれと前後して新発田までの「白新線」も開通し,青森への特急列車が新潟を通過することができるようになりました。つまり,「白新線」というのは“白山-新発田間の路線”という意味なのです。

そうこうするうちに,いつのまにか右岸の沼垂市街は左岸の新潟市街と一体化,というよりは“呑み込まれて”,現在の新潟市街となったのです。
[1150] 2002年 3月 23日(土)21:52:01Issie さん
三条やら萩やら
> 燕方面からだと、信濃川はどうしようもないとして、東三条ならば五十嵐川をまたがずにすみます。

そうなんですね。
だから弥彦線が信濃川を渡れず燕どまりだった1925年の段階では,信越線との連絡バスは当時「一ノ木戸」という駅名だった東三条ではなく,三条駅との間に運行されています。この当時は,三条駅の方がメインと考えられていたのでしょうね。
弥彦線が(今は廃止された)越後長沢まで開通し国鉄に買収された後の1940年の段階では既に東三条の方がメインになっています。
なお,廃止された越後長沢への路線は東三条よりも上流で五十嵐川を渡っていました。

萩の場合,こちらも鹿児島と同じく,当初は西から鉄道が入ってきたのですね。1925年の段階では山陽本線の厚狭から分岐する美祢線の終点が「萩」となっています。この美祢線がさらに東に延長されたときに東萩駅が設置され,やがて石見益田方面からのびてきた山陰本線とドッキングした次第。
1940年の段階ではどちらの駅も電報取扱・赤帽配置でほぼ同格です。京都・下関間に運転されていた1往復の夜行列車が停車するのは萩駅の方。運転上は,萩の方がやや上位だったのかもしれません。
これが1950年になると,電報取扱が東萩に集約されています(赤帽配置は両駅とも廃止)。どうやら戦後になって東萩の方に重心が移動し始めたようです。となれば,国鉄/JRは東萩の方により重きを置いて整備することになりますから,“現在では”当然,東萩の方が設備の上でも上位にあります。
市の商業中心地区ではなく,観光地としてなら価値のある武家屋敷地区には確かに東萩の方が圧倒的に近いですしね。

> 魚津はちょっと違うような・・。魚津は南とは駅間10kmくらいありますよ。途中に駅がつくられて5kmくらいに結果的になっただけで・・。

前後の駅間距離を確認してみました(駅名は1940年当時)。
富山(6.6km)東岩瀬(4.9km)水橋(5.5km)滑川(8.4km)魚津(6.4km)三日市(4.0km)生地(8.2km)入善(5.2km)泊
確かに滑川と魚津の間は長めですね。ここには旅客扱いをしない行き違いのためだけの信号場が掲載されていないのでわからないのですが,魚津については特別な事情があったかもしれません。これについては留保します。
[1653] 2002年 5月 28日(火)22:01:01ケン さん
部分廃止
部分廃止路線はずいぶんありました。
信越本線横川-軽井沢間
五日市線武蔵五日市-武蔵岩井間
長野原線(現・吾妻線)長野原-太子間
のと鉄道七尾線穴水-輪島間
弥彦線東三条-越後長沢間
京福電鉄越前本線勝山-京福大野間
名鉄美濃町線新関-美濃間
名鉄揖斐線黒野-本揖斐間
名鉄竹鼻線江吉良-大須間
東北本線利府-品井沼間
近鉄八王子線西日野-伊勢八王子間
紀州鉄道西御坊-日高川間
筑肥線博多-姪浜間・東唐津-山本間
熊本電鉄御代志-菊池間です。
[1931] 2002年 6月 21日(金)15:52:22深海魚[雑魚] さん
駅が無い市
本日発売の時刻表で、来月に新規開業する土佐くろしお鉄道の運転次第がリリース。
安芸市にも鉄道が復活し、高知県全九市の中、鉄道駅が無いのは三市となりました。
数年前に旧中村線が延伸される前は、半数以上の五市に鉄道駅が無かったのですが。

戦後、市政施行後に鉄道が廃止され、駅無しになった処と云うと、紋別、歌志内、
白根、珠洲、山田、大川、菊池、西都、大口、垂水、鹿屋・・・・・・他に在りますか?
逆に市政施行後に駅が新設された例と云うと、井原しか思い浮かばないのですが、
ここは「復活組」だしなあ。御存知の方、どうぞ御教示下さい。我が茨城県では、
数年以内につくば市が該当しますが、岩井市は孤高路線を行く?

(連続書込みで失礼しました)
[1935] 2002年 6月 21日(金)17:37:10ケン さん
自己修正
鉄道が廃止されたのは珠洲市ではなく輪島市です。
杵築市は市街地から離れたところにJRの駅があります。
[1938] 2002年 6月 21日(金)20:58:21miki さん
筑波鉄道
そうです。
筑波鉄道です。
土浦-岩瀬間を走っていた私鉄です。
前は「常総筑波鉄道」といっていました。
関東鉄道の元ですね。
それが「筑波鉄道」になって、'87.3.31に廃止。
[1960] 2002年 6月 23日(日)00:14:37たけもと さん
美祢線
[1906]
>美祢以南は貨物輸送で活況を呈して居た印象が在りますが、既に廃止ですか?

石灰石を大量輸送していたのは昭和58年までであとは殆どありません。
大嶺支線は先日廃止になりましたが、はっきり言って貨物輸送以外には鉄道として
存在価値もなく、なんでこんなに廃止を引き伸ばしていたのか、という印象です。

>これだけの距離で自社貨物専用道を造ってしまった宇部興産は凄いと思います。

鉄道にまかせておけばいいのに・・ってそう簡単にもいかないのでしょうね。

>ところで同線の起点駅は、広域性の強い町名「山陽」ではなく、郡名「厚狭」を
>名乗って居ますね。この辺りの事情とは?(同様に「長門市」を名乗る終着駅の
>沿革も気になります。)

逆に私は最近まで厚狭が山陽町(三葉虫みたいだ)だということを知りませんでした。
厚狭町かなにかだと・・。
山陽町の前身は厚狭町と埴生町でした。山陽本線には厚狭駅と埴生駅が両方とも存在します。
ですから、厚狭だけを山陽町と改称するわけにはいかなかったのでしょう。
そもそも山陽町という名称がとってつけたような感じだし・・。

長門市の前身は深川町と仙崎町。長門市駅はもともと正明市という名前で、これは
深川町の市場の名前。仙崎の駅名は支線に残りました。
厚狭と違い、正明市駅は自治体名でもない字名だったからなのか、改称されましたが、
これが深川という自治体名を名乗っていたらどうだったでしょうか。
長門深川とかいう名称で残ったかもしれません。

ちなみに長門市駅はかつては美祢線の終着駅ではありませんでした。
現在山陰本線の、長門市~東萩~宇田郷と長門市~阿川も美祢線でした。

山陰本線は、浜田方面から西へ、長門市から東へ(美祢線)、同じく西へ(美祢線)、
幡生から東へ(長州鉄道→小串線)、と別々に線路を延ばしていき、一本につながった
ときに山陰本線と改称されています。
[1961] 2002年 6月 23日(日)00:45:27たけもと さん
戦後になって駅無し
[1931]
>戦後、市政施行後に鉄道が廃止され、駅無しになった処と云うと、紋別、歌志内、
>白根、珠洲、山田、大川、菊池、西都、大口、垂水、鹿屋・・・・・・他に在りますか?
[1934]
>考えて見たら、栃尾、洲本、八女、豊後高田、杵築、山鹿、加世田も該当しますね。

北海道の三笠市も入れてやってください。
かつての炭鉱で大賑わいしたところです。
[2049] 2002年 7月 2日(火)09:31:59深海魚[雑魚] さん
閑散路線
先頃、超閑散区間だった南海電鉄の和歌山市内の末端区間が廃止されました。そこで、
平日の定期旅客便を対象に、上下10本ずつを一つの目安とした場合、それに満たない
区間がどれ程あるものか、少々気になり調べて見たらこんな感じ。上越線の中間部等、
特急が走る区間も含まれ、意外な感じ。決して廃止対象区間の詮索ではないのですが、
可部線で廃止が決定した他、ちほく高原鉄道や有田鉄道で鉄道存続の是非が問われて
居るそうですし、近鉄北勢線や京福永平寺線の廃止も決定する等、地方ローカル線の
置かれた環境は益々厳しい様です。

(JR北海道)
木古内-江差、 大沼-鹿部-森、 長万部-倶知安、 北海道医療大学-新十津川
沼ノ端-岩見沢、 鵡川-様似、 新夕張-夕張、 深川-増毛、 落合-新得、
東釧路-根室、 上川-白滝、 網走-東釧路、 音威子府-稚内

(JR東日本)
中小国-三厩、 能代-鯵ヶ沢、 鮫-久慈、 松尾八幡平-荒屋新町、 盛岡-宮古
茂市-岩泉、 今泉-坂町、 西若松-小出、 いわき-小野新町、 常陸大子-磐城石川
万座鹿沢口-大前、 水上-越後中里

(JR東海)
松阪-伊勢奥津

(JR西日本)
越前花堂-九頭竜湖、 上月-美作江見、 美作加茂-智頭、 中国勝山-新見
備中神代-塩町、 木次-備後落合、 府中-塩町、 三次-江津、 可部-三段峡
長門市-仙崎、 雀田-長門本山

(JR四国)
若井-近永

(JR九州)
桂川-原田、 人吉-吉松、 山川-枕崎

(その他)
池田-置戸、 千頭-井川、 猪谷-奥飛騨温泉口、 藤並-金屋口

尚、上記の内、以下の区間は一日五往復未満です。地元の悲願として、高規格で結ばれた
三江線の中間部も含まれてしまいました。他は、やはり山越え区間が目立ちますね。

浦臼-新十津川、 緑-川湯温泉、 上米内-川内、 茂市-岩泉、 会津川口-小出
接岨峡温泉-井川、 藤並-金屋口、 出雲横田-備後落合、 口羽-浜原
[2051] 2002年 7月 2日(火)18:10:48夜鳴き寿司屋 さん
有田鉄道廃止決定
 しばらく頭を怪我していて書き込み出来ず、しさしぶりに
書き込みします。和歌山県に残るミニ私鉄の有田鉄道の廃止が
決定したそうです。時代の流れとはいえ残念です。
このままでいくと地方の閑散路線の廃止が加速していくかも
しれませんですね。
[2528] 2002年 8月 12日(月)10:44:05オーナー グリグリ
寺井駅
雑魚さん [2523]
> 小松関連のおまけ話。かつては鶴来方面への電鉄線が分岐していた郊外の「寺井」駅ですが、
> 根上町にあって、隣接の町名を名乗るとは、寺井町とは相応に要衝なのかな。

根上町にJRの寺井駅があるのは昔北陸線を敷くときに寺井町が町内通過を反対したためで、地図を見ると分かるように北陸線は根上町、美川町と海寄りにやや遠回りになっています。しかし、なんで駅名は「寺井」になったのかはよく分かりません。県庁が一時置かれたのは確か美川町でしたし。雑魚さんの言われるように寺井は北陸道の宿駅だったからかもしれません。

鶴来方面への電鉄線とは、昭和55年に廃線となった北陸鉄道能美線のことで、「鶴来ー新寺井」間16.7kmの私鉄でした。新寺井駅は根上町の国鉄寺井駅に隣接していましたが、寺井町には別に本寺井駅がありました。詳しくは下記URLをどうぞ。
http://may.sakura.ne.jp/~xpress/Xpress/_contents/zunkel07.html
[2767] 2002年 8月 25日(日)02:48:11でるでる さん
京福電鉄
ひらがな自治体名について色々議論がありましたね。
それで自治体名ではないのですが、相次ぐ事故により現在運行休止中で、路線廃止の意向が表明されていた京福電鉄の福井県内路線が、第三セクター方式による新会社「えちぜん鉄道」として移管される見通しとなりました。

「越前」の読みは決して難読ではないと思うのですが、あえて「えちぜん」と”ひらがな表記” にしたのは、最近の”ひらがな表記”の自治体名の多用にみられる様なものと、同様の感覚なのでしょうか。
[2804] 2002年 8月 27日(火)14:17:10深海魚[雑魚] さん
福知山線
[2802]
武庫川の渓谷は 「北摂耶馬溪」 などと称されていたそうですね。新線切替えが確か
1986年秋の改正時ですから、国鉄分割民営化の半年前。切替え時期が翌年であれば、
観光鉄道として旧線が残ったのかも。現在は自己責任を前提に旧線跡を一般開放して
いるそうですね。

福知山線を利用したのは、上記の切替え直前に、米子直通の昼行急行で通過したのが
最後ですが、図らずも山陰線のブロック化を促進する事となった全線電化前、畿内と
鳥取以遠を結ぶ山陰線優等列車のバリエーションを思うと、隔世の観もひとしおです。
更に古くは、塚口から分岐し、阪神を大物付近で横切り、臨海部の工場地帯に達した
尼崎港支線も想起され、東西線開業に関連して、東海道線と福知山線の分岐点付近が
一大改装される少し前まで、廃線が東海道線を跨いでいた様に記憶します。

旅客需要が一段落する沿線の篠山市は、知り合いの自治体関係者によれば、人口要件が
五万人を下回った当時の新規市政施行第一号とか。旧自治体の 「丹南」 「山南」 など
「南」 がらみの名称が複数あるのは何か訳ありでしょうか。旧山南町の谷川で接続する
加古川線では電化構想もあると聞きますが、柏原停車との整合性か、特急の谷川停車は
少ないですね。
[2842] 2002年 8月 30日(金)21:08:18Issie さん
塩嶺峠 vs 善知鳥峠
1983年に開いた塩嶺トンネルですが,その効果は絶大でした。
何しろ諏訪と松本がこれほどまでに近いとは思いませんでしたから。
というわけで,このトンネルの第一の目的は諏訪 対 松本,そして新宿 対 松本の時間短縮にあります。だから当然に昼間の直通列車(特急・急行)は塩嶺トンネル・みどり湖経由となりました。
けれども,夜行で残った「アルプス」の基本的な役割は(今は昔に比べてはるかに少なくなったけど)北アルプス方面への登山客を“適当な時刻”に松本あるいは大糸線沿線へ送り込むことにあります。だから別に松本まで急ぐ必要はないのですね。むしろ,適度に時間がかかったほうが望ましい(松本は夜行列車で行くには近すぎますから)。
もう1つ。トンネルが開いた頃はまだ新聞輸送は鉄道の荷物列車が主体でした。中央東線の「アルプス」をはじめ,全国の夜行列車のほとんどは旅客輸送以上に荷物輸送と郵便輸送のために運転されていました。国鉄が手小荷物輸送を廃止し,郵政省が鉄道での郵便輸送を廃止した途端に夜行列車が激減したのは,この理由によります。
で,当時の「夜行アルプス」はまだこの新聞輸送を担っていましたから,そのためにも辰野を経由する必要があったように思います。
今は…,過去からの「惰性」でしょうか…。

塩嶺トンネルの開通以来,辰野経由の路線は名目上「中央東線」(正式には「中央本線」)なので「JR東日本」の管轄なのですが,運転系統上,岡谷-辰野間は飯田線(JR東海)の一部になってしまっていますね。そして,辰野-小野-塩尻ルートは“通り抜け”を全く前提としない,まさしく辰野町川島地区と辰野・塩尻にまたがる両小野地区のため“だけ”の局地的輸送機関となってしまっていますね。
明治後半の技術も資本も資金もない時代に建設された善知鳥峠から塩尻駅へ降りる急勾配・急曲線の貧弱な旧ルートと,「昭和の鉄道技術」の粋を集めた塩嶺トンネルルートを比較してこちらがメインルートになるのは当然至極です。
そもそも伊那谷選出の代議士の政治介入によって中央線が辰野を経由することになったなどという「伝説」(「大八回し」と呼ぶ)が成立するほど,諏訪と塩尻の短絡線は待ち望まれていたのですから(当時の貧弱な技術で塩嶺峠(塩尻峠)にトンネルを開けるなどできるはずもありません。別に政治介入がなくても,当然に中央線は辰野を経由したことでしょう)。

塩嶺トンネルが開く前後をはさんで何度も中央東線を利用していましたが,まだ昼間も走っていた下り松本行きの急行「アルプス」が小野駅で突如一番はずれの3番線に入線し,長い運転停車(旅客の乗降扱いをしない)の間に1・2番線で上下の特急「あずさ」が交換(行き違い)をするなんて光景,今は昔ですね。

>特急 「しなの」 等のスルー運転対策で塩尻駅が大門貨物駅>から現在地に移ったのは
>塩嶺峠経由のバイパス線が開業したのと同時期でしたっけ?

全く同じ理由で千葉駅が1963年に移転していますね。それに先立って京成の千葉駅も移転しました。
これが千葉の市街地の変化に与えた影響は絶大ですが,千葉市の都心を追われて町外れの房総東線(現外房線)の本千葉駅の位置に「京成千葉駅」を移転させられた(玉突き的に房総東線の本千葉駅も移転)京成千葉線のその後の凋落ぶりには目を覆うものがあります。
(国鉄の民営化後,以前の「国鉄千葉駅前」駅が「京成千葉」と改称され,かつての「京成千葉」駅は現在「千葉中央」駅となっています。以前は大多喜や成東など千葉からの遠距離バスのターミナル機能も持っていましたが,この地位もJR千葉駅に奪われてしまいました。)
[3180] 2002年 9月 19日(木)01:18:56ニジェガロージェッツ さん
樺太の鉄道
樺太について市町村と行政区画に関して、戦前の樺太と現在のサハリンを対比して見てみましたが、今度は鉄道について調べてみたく存じます。
現在の「サハリンの鉄道」については詳しいガイドブックや旅行記も出版され、また「鉄道ジャーナル」誌でもしばしば取り上げられています。
ここでは戦前の「樺太の鉄道」について落書きしてみます。

終戦当時、樺太には以下の鉄道がありました(軌間1067ミリのもの)。

【樺太鉄道局線】
1)樺太東線     大泊港―古屯   414.4キロ
    同、支線   落合―栄浜      10.3キロ
    同、貨物線  栄浜―栄浜海岸   1.8キロ
2)豊真線       小沼―手井      76.2キロ
    (昭和20年7月15日、豊原・奥鈴谷間16.2キロを廃止し、小沼・奥鈴谷間8.6キロに変更。
     このため、豊真線は当初の83.8キロより短縮された)
3)川上線       小沼―川上炭山  21.9キロ
4)樺太西線     本斗―久春内   170.1キロ
    同、貨物線  本斗―浜本斗    1.3キロ
    同、貨物線  真岡―浜真岡    1.8キロ

【地方鉄道線】
5)南樺鉄道株式会社線      新場―留多加    18.6キロ
6)南樺太炭鉱鉄道株式会社線 本斗―内幌炭山  16.4キロ
7)内淵人造石油株式会社線   大谷―内淵     12.5キロ

他に、軌間762ミリの産業軽便鉄道も各地に点在していましたが、ここでは略しています。
上記の1)から7)のキロ数を合計すると、総延長745.3キロとなります。

一方、ソ連崩壊時のサハリンの1067ミリ軌間の鉄道は

[Ⅰ]1)の樺太東線を北樺太ノグリキまで延長した「東部縦貫線」 ポルト(大泊港)―ノグリキ            653.1キロ
  スタロドゥープスコエ(栄浜)線   ドリンスク(落合)―スタロドゥープスコエ                      10.9キロ
  7)内淵人造石油線を延伸したブイコフ(西美保)線 ソコル(大谷)―ブイコフ                    23.2キロ
  3)川上線を継承したシネゴルスク(川上)線  ノヴォアレクサンドロフカ(小沼)―シネゴルスク          21.9キロ
  5)南樺鉄道を継承したアニワ(留多加)線  ダチノエ(新場)―アニワ                         19.0キロ
  ヴァフルーシェフ(泊岸)からヴァフルーシェフ炭鉱まで新設した                             12.0キロ
[Ⅱ]4)樺太西線と6)南樺太炭鉱線を統合した「西部縦貫線」 シャフタ(内幌炭山)―イリインスキー(久春内) 185.3キロ
[Ⅲ]2)豊真線を継承し、
     起点をユジノサハリンスク(豊原)に復した「南部横断線」 ユジノサハリンスク―ポリャーコヴォ(手井)  83.2キロ
[Ⅳ]西部縦貫線イリインスキー終点と東部縦貫線アルセンチエフカ(真縫)間に新設した「北部横断線」      29.1キロ

上記の[Ⅰ]から[Ⅳ]のキロ数を合計すると、総延長1037.7キロになります。
更に大戦末期、樺太東線の北の終点古屯より、東40キロにあった雁門まで建設中だった石灰石輸送用の軽便鉄道を戦後ソ連が1067ミリに改軌し、ポベージノ(古屯)―レスナヤ(雁門)間約40キロに加え、レスナヤで二手に分岐しペルヴォマイスコエ(雁門岩)まで10キロ、およびイズヴェストコヴイ(西山)まで12キロを延長しているのがサハリン州20万分の1地形図に記載されています。別に同地形図には西部縦貫線ゴルノザヴォーツク(内幌)付近で分岐し、海岸沿いに南下しシェブニノ(南名好)まで鉄道線がかかれています。ただ、このシェブニノにある駅名が西部縦貫線の起点と同じ駅名「シャフタ」と書かれているのが不思議です。路線図にはシャフタ―ゴルノザヴォーツク間は極めて近く1.79キロでシャフタは旧内幌炭山に間違いないのですが。因みにゴルノザヴォーツク―シェブニノ間は約16キロあります。
また軌間750ミリ軽便鉄道では、北樺太ノグリキ近郊のカタングリからサハリン最北の都市オハまで243キロがあり、軌間1520ミリのソ連標準の広軌鉄道がオハ―モスカリヴォ間30キロに敷設されています。

ざっとですが、「樺太の鉄道」と「サハリンの鉄道」についてまとめてみました。
また稿を改め、各線ごとに駅名などを落書きしていきたく存じます。

樺太の鉄道を知る日本人にとって、最大の見所は豊真線池ノ端駅と宝台駅の間にある「ループ線」で、戦後は「鉄のカーテン」の奥に隠された幻のループ線と言われた程でした。が、残念なことに旧豊真線である南部横断線が1993年ごろよりトンネルなどの修復のため営業を休止し、その後の財政難により廃線化してしまい現在ではレールも撤去されつつあると聞きます。無念です。
[3199] 2002年 9月 20日(金)01:02:19【1】ニジェガロージェッツ さん
樺太の鉄道  豊真線
[3180]で紹介した樺太の鉄道について各線ごとに詳しく見ていきたく存じます。

でるでるさん、雑魚さんから「ループ線」に関する書き込みがありましたので、まず「豊真線」について落書きしてみます。

豊真線はその名の通り、樺太の島都豊原と西海岸最大の要港真岡を結ぶ東西横断線として建設されました。大正10年9月17日に工事を起こし、昭和3年9月3日に樺太東線(当時は樺太庁鉄道東海岸線)豊原駅と樺太西線(同じく樺太庁鉄道西海岸線)手井駅間83.8キロの全線が開通しました。
当初は豊原を起点としていましたが、終戦間際の昭和20年7月15日、樺太東線小沼駅(豊原駅から北へ4つ目の駅、10.9キロ先に位置)起点に変更されました。その後、ソ連は廃線になっていた豊原―奥鈴谷間を復活させ、ユジノサハリンスク(豊原)起点に戻しています。

豊真線の停車場は次の通りです。

駅名(日本)累計キロ程(日本)  開業年月日     駅名(ソ連)   累計キロ程(ソ連)
豊 原    0.0   ----  明治40年8月1日    ユジノサハリンスク          0.000
西久保   5.2   ----  大正14年10月1日   ダーリネー               5.089
鈴 谷    9.9   ----  大正14年10月1日
小 沼   ----   0.0   明治44年7月20日   ノヴォアレクサンドロフカ       ----
奥鈴谷   16.2    8.6   昭和3年9月3日    ノヴォデレヴェンスカヤ       16.035
瀧ノ沢   29.6   22.0  昭和3年9月3日    ペレヴァル-サハリンスキー     29.400
中 野   42.5   34.9  昭和3年9月3日    オジダーエヴォ            42.245
清 水   47.8   40.2  昭和3年9月3日    チストヴォドノエ            47.500
逢 坂   52.6   45.0  大正15年11月15日  ピャチレーチエ             52.231
二 股   60.0   52.4  大正15年11月15日  チャプラノヴォ             59.552
宝 台   69.1   61.5  昭和8年1月15日    カムイシェヴォ-サハリンスコエ  68.554
池ノ端   78.3   70.7  昭和3年1月18日    ニコライチュク             77.675
手 井   83.8   76.2  大正9年10月11日   ポリャーコヴォ             83.181

さらに豊真線を走る列車は樺太西線を北真岡駅まで乗り入れていました。
真 岡   86.9   79.3  大正9年10月11日   ホルムスク
北真岡   89.8   82.2  大正10年11月11日   ホルムスク-セヴェルヌイ

累計キロ数が日本時代のものとソ連時代のものとで若干違いがあるようですが、基本的に同じ路線です。
それと、現在の豊真線こと南部横断線は残念なことに両端部を残し廃線の方向で撤去中と聞きます。
サハリンのHPでユジノサハリンスク駅の時刻表(2001年のもの)をみましたが、南部横断線関連ではノヴォデレヴェンスカヤ(奥鈴谷)行きの近郊列車が1日3便あるだけです。ホルムスク行きも1便ありますが、これは北部横断線経由のものです。ホルムスク市のHPも見てみましたが、全体でユジノサハリンスク行きが1便、チェーホフ(野田)行きが2便あるだけで、ニコライチュク(池ノ端)方面への列車は見当たりませんでした。「宝台ループ線」あたりまで観光用に残してあるだけかもしれません。

さて、その「宝台ループ線」についてですが、
[3181]
>豊真線池ノ端駅と宝台駅の間のループ線は、どれ程の規模だったのでしょうか、興味があります。
「鉄道ジャーナル」誌1990年12月号特集「サハリン鉄道紀行」には、ループ線の延長1643m・高低差約36m、とあります。
真岡側から行けば、池ノ端駅を過ぎて緩い上り勾配を進むと、やがて前方に50メートル以上ありそうな鉄橋が見えてきます。その鉄橋の下をくぐるとすぐに右にカーブを描くトンネルに入り、一旦トンネルを出、すぐにまた短いトンネルを抜けると、先ほど下から見上げた鉄橋に差し掛かります。鉄橋の上からは今通ったばかりの線路を眼下左手にみながらまたトンネルに入って行き、宝台駅へと向かいます。これが樺太の鉄道のハイライト「宝台ループ線」です。
ここは軍事上の要衝で、事実1945年8月21日、22日と日ソ両軍が激しい攻防戦を繰り広げた激戦地でした。前出の「鉄道ジャーナル」特集にはループ線入り口の谷あいに軍の建物があり、兵隊の姿が見える、と紹介しています。

[3183]
>現地を訪れた友人によると、撮影の為の停車などの演出があったそうですね。
私も1994年7月に現地に行ってきました。
「北緯50度線突破、サハリン鉄道周遊の旅」と銘うったJR北海道、宗谷北線運輸営業所(名寄)が企画したツアーでした。残念ながらその時は既に旧豊真線こと南部横断線は運行しておらず、ユジノサハリンスク―ホルムスク間はバス移動でしたが、サハリンのSL・D51を観光用に改装した「レトロ列車」をホルムスクからループ線鉄橋下まで走らせ撮影の為にしばらく停車しホルムスクに戻る、といった演出がありました。鉄橋の上に立てなかったのが残念です。物凄い絶景だそうです。

P.S. でるでるさん、稚内市のHP見ました。サハリンの情報が解りやすく纏められており面白かったです。
[3245] 2002年 9月 22日(日)02:44:23ニジェガロージェッツ さん
旧豊真線廃止
[3223]Issieさんのご指摘どおり、[3199]に書きました旧豊真線(サハリン南部横断線)の線路状況は最悪です。
ホルムスク市(旧真岡郡真岡町)は市街のすぐ背後に西樺太山脈が迫り、その標高は真岡町あたりでは高いところで500メートルを超えています。この急峻な山脈を超えるため、「宝台ループ線」が建設されました。ループ線自体の標高は150メートル程ですが、宝台駅(清水村の真岡町との境近くに位置)では250メートルぐらいまで上っています。そこからは清水村を流れる留多加川(リュートガ川)まで下降し、二股駅付近では標高110メートル程まで下がります。さらにもうひと山、清水村と豊原市の境を成す山脈があります。このあたりでは線路は豊原と真岡を結ぶ「豊真山道」に沿って走り、春日峠を経由しています。この春日峠に位置するのが瀧ノ沢駅ですが、この駅はサハリン鉄道の最高地点で、その標高は407メートルです。特にこの瀧ノ沢―奥鈴谷間は、起伏の多い山岳地帯に入り、急勾配に加え数多くの曲折を重ね、山と谷間を縫って連続的に8箇所のトンネルを貫くなど最悪です。
この線路状況の悪さに加え、この豊真線の山岳部一帯は豪雪地帯で、雪崩の多発地帯でもあります。当然、日本時代より事故は続発し、ソ連も頭を抱えていたようです。
また、ソ連国鉄での標準軌間は1520ミリあり、日本国鉄の軌間をそのまま使っているサハリン鉄道の1067ミリに比べ広く、
ロシア大陸を走って来た列車は、ワニノ港で鉄道連絡船に積まれ、ホルムスク港に上陸後、台車交換場で1067ミリ軌間の台車に交換されてサハリンの鉄道線を走るのですが、豊真線のトンネルは狭いためロシアの列車は通行が出来ません。そのため、ユジノサハリンスク(豊原)へは西部縦貫線(樺太西線)を一旦北上し、イリインスキー(久春内)から北部横断線を経由し、アルセンチエフカ(真縫)より東部縦貫線(樺太東線)を南下して行きます。
豊真線では1994年冬の大雪で一部のトンネルが落盤で不通になったのを機に、その復旧を兼ねて全てのトンネルの断面拡張工事を始めたそうですが、経済事情により予算がストップされ、現在では廃線へと線路が撤去されつつあるそうです。

一方、道路では現在ユジノサハリンスクからホルムスクへ向かう場合、かつての豊真山道は使われず(20万分の1サハリン州地形図ではまるで獣道のように描かれています)、豊原を出て西大橋で鈴谷川(ススヤ川)を渡るとT字路を左折(豊真山道方面は右折)して南西に向かい、ウスペンスコエ村(豊原市並川)を通り、ペトロパヴロフスコエ村(留多加町小里)からリュートガ川沿いに旧清水村を北上し、ピャチレーチエ村(清水村逢坂)で左折西進し、急峻なホルムスキー峠(熊笹峠)を越えホルムスク市街に入ります。1989年はじめてこの道路を通ったときは道も悪く、ホルムスクまで3時間もかかり春日峠経由の旧豊真山道を通っていると疑わなかった程でしたが、1994年に同じ道を通ったときにはピャチレーチエぐらいまでは舗装拡張工事も行われており、熊笹峠越えの難所以外は快適な道路状況になっていました。
サハリンのHP、[SAKH.COM] にあるバス時刻表をみるとユジノサハリンスク―ホルムスク間には1日に11~12往復のバス路線があります。こうなると、やはり豊真線の価値は低くなり、廃線もやむを得ないのでしょう。残念ですが・・・
[3366] 2002年 9月 27日(金)01:00:02ニジェガロージェッツ さん
樺太の鉄道  未成線
樺太の鉄道(1067ミリ軌間)について終戦時までに開業した区間について落書きさせて頂きましたが、樺太には実際に建設が行われていたものの工事途中で終戦を迎え開業に至らなかった路線(泊恵線)や、計画だけに終わった路線(真久線)がありました。

【樺太西線延長工事(泊恵線)】
樺太西線の久春内駅(久春内村、現イリインスキー町、イリインスク=サハリンスキー駅)以北の延伸は藻糸音(塔路町、現シャフチョルスク市の北郊)まで157.2キロにわたり計画され、そのうち久春内―恵須取(恵須取町、現ウグレゴルスク市)間144キロが昭和10年6月1日に起工し、その延長にある恵須取―藻糸音間13.2キロも昭和17年春から起工していました。しかし、建設は予算の都合により遅々として進まず、戦時に入り、上敷香駅(敷香町、現レオニードヴォ町)まで開通していた樺太東線の日ソ国境中央方面の古屯駅(敷香町、現ポベージノ村)への延伸工事が優先され(この区間のレールは北海道札沼線を一部休止し転用)、開通には至りませんでした。それでも終戦時には南から

久春内―珍内(珍内町、現クラスノゴルスク市)間 50.4キロ
珍内―中倉庫(珍内町、現アインスコエ村)間 18.2キロ
上恵須取(恵須取町、現クラスノポーリエ村)―恵須取(恵須取町、現ウグレゴルスク市)間 22キロ
恵須取―塔路(塔路町、現シャフチョルスク市)―藻糸音間 13.2キロ

での路盤工事がほぼ完成し、久春内―珍内、恵須取―藻糸音間の一部区間ではレールの敷設も進んでいたそうです。
この本線の他、恵須取駅(建設地は山市街の中島町)より大平炭鉱(恵須取町、現ウダルヌイ町)への支線を既存の炭鉱軽便鉄道(762ミリ軌間)を改軌して工事、また恵須取駅より浜市街の浜恵須取への支線、恵須取港への支線も工事あるいは計画されていたそうです。

戦後、ソ連はウグレゴルスク―シャフチョルスク、ウダルヌイ間の一部を750ミリ軌間の軽便鉄道に転用した以外はこれらの完成されていた路盤のほとんどを破壊、または他の用途(道路など)に転用したため幻の鉄道になってしまいました。

【真久線】
樺太東線真縫駅(白縫村、現アルセンチエフカ村。1993年発行サハリン州20万分の1地形図には「無人」と表記)と樺太西線久春内駅を連絡する路線として計画されたものの、起工されずに終戦となりました。
この区間は樺太島の最狭部(久春内地狭、幅29キロ)にあたり、急峻な西樺太山脈もこの付近はせいぜい200メートル級の山々がある程度で、谷あいをいけば分水嶺上の轟峠(現ポヤソク峠)で標高87メートルの鞍部に過ぎず、横断道路も開通していました。
戦後、ソ連はこの横断道路に沿って鉄道を建設し、1970年にイリインスク=サハリンスキー―アルセンチエフカ間29.1キロの北部横断線として開通させました。樺太南部の東西を連絡する鉄道としては、すでに旧豊真線([3199][3245]に既述、Issieさんからも[3223]に詳述)がありましたが、同線は急勾配、急カーブが連続し、さらにトンネル断面が狭軌断面のために大陸直通の広軌用貨車が通れず、大陸との物資輸送を円滑に行うためにどうしても必要となったものです。
旧豊真線が廃線となりつつある現在、ユジノサハリンスク(豊原)―ホルムスク=セーヴェルヌイ(北真岡)間を結ぶ旅客列車が1日2便この線を経由して運行しています。
なお、この線には途中に駅はなく、イリインスク=サハリンスキー駅起点から18.2キロの地点に待避点が設けられているのみです。
私も1994年7月にホルムスク=セーヴェルヌイ駅より特別編成の「ホテル列車」で、チェーホフ(野田)、トマリ(泊居)観光を終え、この線区を経由して北樺太のオノールに移動したのですが、きついカーブもなく線路条件は良好でした。旧樺太西線からこの北部横断線に入線するポイントは終点のイリインスク=サハリンスキー駅ではなく、その手前のイリインスク=ユージヌイ(旧上久春内)を過ぎたあたりにあり、そこで右に(東向きに)カーブを切り、しばらくして北部横断線に合流していました。

注)ここでのロシアにおける「市、町、村」の表現は[2593]にある表現に統一して書いています。念のため。

[3335]ゆうさん
いいたいことを全ていって下さいました。ありがとうございました。
[3272] 2002年 9月 23日(月)10:18:16夜鳴き寿司屋 さん
広浜鉄道
 広浜鉄道の名称は可部線が国有化されるまでの1936年まで
使用していたものでした。(開業当初は可部軌道という軽便鉄道)
営業区間は可部まででしたが、浜田までの鉄道建設(それ以前にも
動きがあったようですが)を目標にしていた訳ではなく国が
鉄道敷設法で定めていた、広島と浜田間の鉄道予定線と
重なっていたので、国家買収を意図したものといわれています。

 実際に戦争の激化するまでに可部~安芸飯室は開業して
浜田側も山陰本線下府~今福間の「今福線」の工事に着工して
いましたが、今福線の工事は中止されました。

 戦後になって1961年には広島側の三段峡が開業しましたが
三段峡以北は戦前の今福線とは別ルートにしたり、用地買収に
手間取っているうちに国鉄の収支が悪化し、新規路線の建設凍結
が打ち出され、三段峡以北の建設は中止されました。

 仮に広島・浜田間が全通出来ても全線3時間かかるため、現在同区間に
並行して走る高速バス(浜田自動車道)が2時間弱で走っているので、
スピード競争と価格で敗退していたはずです。

 可部線の可部~三段峡も2003年に廃止されますが、広島県による
第三セクターにした場合の試算でも今後40年間営業しても、毎年
累積債務を出し続けるとされているので、このまま廃止は間違いないと思います。

[3241]
>合成地名ですが、地元福山には「大津野村」という自治体が昭和中期までありました。
>これは明治期に「大門」「津之郷」「野々浜」の3つの村名の頭文字を合成したものでした。

>「津之郷」ではなく「津之下」です。

誤った情報の訂正を黒髪さんありがとうございます。余談ですが大津野村の役場ですが
「大門支所」として存続していましたが1999年に廃止されました。

[3257]>ヨーロッパ大陸各国や中国では1435ミリ軌間と聞きます。

日本も京王や近鉄や阪急と新幹線が1435ミリですね。しかし国鉄が1067ミリを
採用したので(イギリスの植民地鉄道サイズと言われていますが、ともかく
イギリスに1067ミリの鉄道システムを売りつけられたのは間違いないです)
日本の標準規格になっています。国内には1435ミリ、1372ミリ(京成など)、1067ミリ、
762ミリ(近鉄八王子・北勢線、近鉄には3種類の軌間があるそうです)の
4つが現存するそうです。かつては610ミリや914ミリなどもあったそうです。

 スペインは1668ミリという世界一広い軌間だそうですが、やはりニジェガロージェッツ さんが言われるように、戦時の直通が容易でないようにするためでしょうか?
単に、その国の実情に合せただけかもしれませんが。

オーナーグリグリ様
 自分色の設定ありがとうございました。
[3311] 2002年 9月 24日(火)11:36:30深海魚[雑魚] さん
三重県雑感
[3276]
現在、762mm軌間で旅客営業を行うのは、三重県内の近鉄の一部支線と黒部峡谷鉄道のみ。先頃
廃止が取り沙汰された近鉄北勢線は、やはり狭軌なるが故の速度制限など、輸送力が隘路になった
模様ですね。専門誌で報じられた処では、三岐鉄道が面倒を見る事で廃止は一先ず回避の様ですね。
それにしても、北勢線の阿下喜駅と三岐鉄道の伊勢八田駅は直線で1.5km程度しか離れておらず、
競合先と思えなくもない位置関係にある鉄道を引き受けるという事に、多少の意外性を感じます。
まあ弘南鉄道黒石線の例もありますが。起点の立地でいうと、桑名市中心部に通じる北勢線が一見
有利そうですが、実際は近鉄名古屋方面への乗換えがスムーズな三岐鉄道に軍配が上がりますね。
それにしても富田付近の配線は、三岐鉄道がJRへの貨物連絡線を擁する関係で、実に複雑怪奇。
津寄りの 「霞ヶ浦」 駅界隈は、埋立地ができる前は景勝地だったのですかね。

もう一方の狭軌旅客線である内部、八王子線ですが、四日市市内に総計 7kmのミニ路線との立地、
道路事情次第ではバス転換も容易ではないかと感じますが、今後の見通しはどうなのだろう。起点の
近鉄四日市駅では、高架の本線とは改札口で隔絶されており、何か亜流的な扱いの様に思われます。
同じ近鉄四日市から分岐する湯の山線では、いつの間にか、特急が土曜休日のみの二往復体制に
縮小されましたね。どうやら湯ノ山線内のみの短区間運転の様ですが、いつまで残るかな。

三重県の話題ついでに雑感を少々。まずは津の街について。同地市街は大まかに、安濃川と岩田川で
南北に三分割される感じですが、市の代表駅となる津駅が、両河川に挟まれた城址の丸之内地区とは
異なり安濃川北側に位置する辺りに少々違和感を覚えます。その意味では、並行JRには駅すら無い
近鉄の津新町駅の用途は大きいでしょうね。

津の他にも、桑名、鈴鹿、亀山、上野、松阪など、城址域が明確に特定できる街が多いのも、三重県の
特徴ですね。鈴鹿市の場合は 「神戸城」 と称しますが、自治体名としての 「鈴鹿」 は、合併等に伴う
後発的なものでしょうか。桑名城址に当たる九華 (これが転訛した結果が 「桑名」 かな?) 公園は、
Issieさんが評するところの 「大乱流地帯」 に面する訳で、水害対策とかどうなっていたのだろう。
なお、城址が位置する場所の地名は、桑名が 「吉之丸」、 亀山が 「本丸」、 津と上野が 「丸之内」、
松坂が 「殿町」 と色々ですね。

[3308]
下手すると十年近く前の話なので、覚えている方が居るかどうか。まあ私としては、「世間一般の
認識はこんなものですよ。」 という風に軽く聞き流して貰いたい趣旨で紹介した話なので念の為。
[4704] 2002年 11月 9日(土)05:48:24でるでる さん
名古屋鉄道
名古屋鉄道は、岐阜市内線(岐阜駅前~忠節)、揖斐線(忠節~黒野)、美濃町線(徹明町~関)の3路線を、利用者が減少傾向で不採算状態が続き(3路線の年間赤字が約17億円だとか)、今後も収支改善が見込まれなければ廃止(撤退)も視野に入れている旨を、沿線各自治体に伝えたそうです。

名古屋鉄道といえば、2001年(平成13)9月30日限りで、揖斐線(黒野~本揖斐)、谷汲線(黒野~谷汲)、竹鼻線(江良良~大須)、八百津線(明智~八百津)を廃止したばかりですが、これらの路線が比較的ローカル輸送が主体の盲腸線であったのに対して、今回提示された3路線は、軌道線(揖斐線は正式には鉄道線)であり多くの輸送量は無いのかも知れませんが、いずれも県都である岐阜市と周辺地域をむすぶ路線ですよね。

もし、これら3路線が廃止されてしまった場合、美濃町線側の関市や美濃市から岐阜市まで鉄道利用で行く為には、長良川鉄道で一旦美濃太田まで出て、JR高山本線に乗換えなければならないので、かなりの遠回りになってしまいますね。
一方揖斐線側では、樽見鉄道で大垣を経由して岐阜へ向かう経路は、さすがに不便でしょうし。

それとも関市方面からは、美濃町線と並行している国道156号を、揖斐線沿線ではほぼ並行している国道157号・303号を利用して岐阜市内とをむすぶバス路線が、既に充実されているのでしょうか。
また北方町と真正町付近では、穂積駅から東海道線の利用も考えられますね。
(このあたり、地元のりゅうじさんにご教示頂けますとありがたく思います。)

美濃町線といえば、新関~美濃間が1999年(平成11年)3月31日に、既に廃止されておりますね。それと同時に新関駅から長良川鉄道の関駅に美濃町線の乗り入れを行い、美濃町線の廃線区間にほぼ並行していた長良川鉄道に、沿線の代行輸送をさせると共に、長良川鉄道沿線から美濃町線への乗換えと、岐阜市中央部との連絡の改善を図ったそうです。

ちなみに、関駅の手前で県道251号(廃止前の美濃町線は新関から県道に沿って(一部併用軌道)美濃町方面へ)を渡る際、この踏切の前後が制限時速10kmという曲線半径が僅か25mの急カーブになってしまったとか。

でも、その美濃町線も廃止の検討対象になっているということは、関駅へ乗り入れ策が、必ずしも利用客の増加や、収支改善には到っていないということなのでしょうか。

揖斐線も、例えば樽見鉄道との交差点に乗換駅を設置すれば、新たな利用需要が掘り起こせるかな、とも思ったりもしたのですが、やはり大幅な利用者の増加につなげるのは難しいでしょうね。
そういえば、長良川に架かる忠節橋は、揖斐線と一般道路との併用軌道橋でしたね。

[4684]いなさん

揖斐線のことを書込みしていて発見。
JRだけでなく、名鉄内にも同じ表記の駅名がありました。瀬戸線の清水駅(しみず、名古屋市北区)と揖斐線の清水駅(きよみず、揖斐川町)です。それぞれ読み方は違いますけどね。

乗車券では瀬戸線の方を「(瀬)清水」、揖斐線の方は「(揖)清水」と区別していたそうです。
ただ揖斐線の清水(きよみず)駅は、昨年の揖斐線(黒野~本揖斐)と廃線と同時に廃止されてしまいましたけど・・・。

このように、JR線以外の同一鉄道会社線内で、同じ駅名がある例は他にもあるのでしょうか?

※めずらしく合併情報以外のネタで書込みしてみました・・・(笑)
[4708] 2002年 11月 9日(土)08:56:53りゅうじ さん
名鉄揖斐線
[4704]名古屋鉄道は揖斐線に関しては、地元の揖斐郡大野町には既に廃止の意向を伝えているともいわれています。昨年9月30日に谷汲線(黒野~谷汲)と揖斐線(黒野~本揖斐)が廃線になった際は、代替として、近鉄バスが黒野~谷汲間、黒野~本揖斐~近鉄揖斐駅間を輸送しております。しかし、以前の名鉄線に比べて運賃が高いということもあってか乗客は激減したと聞いています。今回の名鉄揖斐線が廃線になった場合、JR穂積駅から真正町の大型アウトレットモール間が無料バス、穂積町と巣南町間を穂積町のコミュニティバス(100円バス)、真正町北方町は名鉄系の岐阜バスが充実しており、代替輸送となることが考えられます。しかし、揖斐線の終着駅の黒野がある大野町(西濃地域)はバス路線も近鉄系、真正・北方町(岐阜地域)は岐阜バスの名鉄系であり、大野町~真正町間の連絡の問題が残ると思います。地元では第三セクター方式も考えられているそうです。美濃町線が廃止になった場合は・・・。うーん、代替路線は美濃町線に沿って(国道156号線)岐阜バスが走っていますが・・・。一時は中濃新線(各務原市~関市間)の鉄道計画がありましたが、現在の状況では夢物語に終わってしまいそうです。
[6895] 2002年 12月 23日(月)23:06:07いな さん
幸か不幸か、高架の効果
[6835] 雑魚 さん
>その関係か、知立東方の配線は結構複雑でしたね。三河知立から牛田方に抜ける旧線跡らしきは
>今でも残っているのでしょうか?
ぎゃ~、そこまでご存知とは・・・こわっ!

あの線が、三河線(単線)と名古屋本線(複線)の、当時のただひとつの接点だったんですね。
三河線から単線で分岐し、途中で複線になって、名古屋本線に接続していきますから
(いまは引き込み線はまったく使われていません <放置され使える状態ではない)
公道上の踏切は今でも、三河線(単線)・引き込み線(複線)・名古屋本線(複線)と、
3つが連続してあることから、狭い道なのですがよく渋滞してしまいます。

>>北の終着駅・西中金はあれでも人口36万人を擁する「中核市・豊田市」ですからねえ(笑)
>十年ほど前までは猿投町でしたよね。車窓風景は至って長閑そのものでした。
猿投以北(いまはレールバス化)は、ほんとうに矢作川沿いの田園地帯の風情ですね・・・
このあたり、おととしの東海豪雨の時には川の水かさが上がって、大変な状態になった場所で
ふだんの何10倍もの水量になったようでした。
(秋には「三河広瀬のやな鮎」であゆづくし料理をいただくようなところなのに・・・)

ところで・・・
三河線の今回廃線になる部分(三河楠~平坂間)に、数年前にできた道路を跨ぐ高架橋があります。
もともと1時間に上下各1本しか電車が来ないところに、高架化工事をしたこと自体がナンセンス
なのに、それが廃線になってしまう。「んな、あほな」とびっくりです。どうするんだろう・・・
あんな高架橋。転換バスの専用道だろうか? サイクリングロードだろうか? 遊歩道だろうか?
それにしても馬鹿な話であります。

ここの高架、工事するときは、よその高架工事と比べて楽だっただろうなあと思われます。
なにしろ電車の通る時間が、毎時間1回・決まった時間にくるだけだから、工事に専念できる。
まだやっている阪神電車・本線の高架化工事に比べたら、雲泥の差なんだろうなと・・・

もうひとつ・・・
名鉄名古屋本線・鳴海駅付近の高架化工事が進められております。
駅付近の土地区画整理事業と同時進行なのでしょうが、遅々としてはかどりません。
で、鉄道線の高架のほうは先行着工し、いつも渋滞する県道を跨ぐ部分の橋脚工事2km程度は
すでに数年前(2年はたった思われる)に全部できています。

これって、なんなんでしょうね。高架というのは交通の安全と渋滞解消が主目的だと思うのだが
駅付近ができないから、道路部分ができていても使えない。平面交差の鉄道が、一般の交通の
邪魔にならないように立体的に分離しようという観点からは、本末転倒だと思うのですが・・・
なんか、へんですよね~・・・名鉄の高架工事
[7485] 2003年 1月 8日(水)22:46:08Issie さん
仙台鉄道の将来性
[7447] YSK さん
仙台には南と北に魅力的な廃線跡があって,歩いてみたいという衝動にかられますね。

>もう少しこの鉄道の経営が持ちこたえていれば、やがて沿線に仙台都市圏の拡大が始まり、
>都市近郊路線として再生しえたかもしれない。

とは言え,やはり現実は厳しいかな,という気もします。
まず,ナロー(軽便鉄道)であることが,やはり大きなマイナスポイントです。
その分,“国内標準ゲージ”(国際的には狭軌)と言うべき国鉄と同一ゲージの鉄道よりも車両・施設ともに小作りにならざるを得ず,都市近郊路線として十分な輸送力を確保することができたかどうか。
そしてナローであるだけに,線路の規格が低いこと。最も肝心な北仙台から七北田までの山越えルート。現場を歩いたわけではありませんが,地図から想像するに急勾配・急曲線であったことだろうと思います。現在ではその丘陵全体が市街化されているわけですが,このままではこの区間が輸送上の最大のネックとなったであろうと想像します。
近郊路線として生まれ変わるには少なくとも改軌,できたら七北田以南の路線変更が必要だと思われます(70年代後半以降であったら,長野電鉄がそうしたように地下化が話題に上ったかもしれません)。それに必要なだけの余力を保ちながら,危機の60年代をやり過ごすことができたかどうか。

その点に関して,県庁前-燕間の営業路線を最終的には全廃した新潟交通鉄道・軌道線が示唆的であるかもしれません。
この路線は国鉄と同一ゲージを採用して貨物輸送では車両の直通も行われていたのですが,路線規格はやはり非常に低く,急勾配はないながら中之口川の堤防に沿った急曲線の連続でした(もっとも,そうならざるを得なかった最大の理由は,戦後の大規模な排水事業で乾田化するまでの蒲原平野が極めて低湿であったことにあるように思います。信濃川・阿賀野川最下流部の新潟周辺には“底なし沼”に近い水田もあったようですから,地方小私鉄としては堤防に沿った集落を結ぶルートをとることが“リーズナブル”ではあったのでしょう)。
結局はこの線路条件の悪さが最後まで大きな足かせになったであろうと想像します。
何しろ,70年代以降は水田地帯の真ん中を貫いて直線で幅広く整備された道路が作られるわけですから,ここを走るバスや自動車に太刀打ちすることはできないでしょう。

もう1つ,新潟交通にとっての弱点として,ターミナルの「県庁前」駅の位置の悪さが挙げられるように思います。
名前どおり,ここは県や国の施設が集まる官庁街を構成していて,国鉄の越後線でも新潟駅への乗り入れが実現した直後から,信越線や白新線から白山や関屋まで通勤列車の乗り入れが行われているのも,官庁街への輸送需要に対応しているものだと思われます。
けれでもここは,万代橋から続く柾谷通と古町通との交差点を中心とする商業中心からは離れている。もちろん,移転後の新・新潟駅(現在の駅)周辺に形成された業務中心地区からも。
実はこの鉄道には,県庁前から当時の新潟駅(現在位置よりも万代橋に近いところにあった)への軌道の延長計画がありました。実際に免許も取得していたのですが,戦時統合で「新潟交通」となったとき,統合相手のバス側の事情で(バスが十分機能しているから電車は不要)軌道線の延長は放棄してしまいました。
元は軌道区間の県庁前-東関屋間には幾つかの停留所が設けられていましたから,新潟駅への延長が実現していれば広島電鉄のように市内電車と郊外電車の2つの性格を兼ね備えた路線に成長していたかもしれません。けれども,このチャンスを逃してしまったわけです。
もっとも,この新潟の路面電車,実現したとして60年代後半の危機を生き残れたかどうかはわかりません。

さらに条件に恵まれなかったのは,1つめで述べたようにこの路線の沿線が水田地帯であったこと。結局,新潟市中心部への距離にかかわらず沿線の宅地化は今でもさほど進んでいません。80年代以降,ポツポツとニュータウンの造成が行われるけれども,今度は従来の集落を離れた田んぼの真ん中が宅地化されていくから,ここで生ずる輸送需要は直線の道路を走るバスに取られて,確保することができない。
JRの越後線はその点では幸運で,同じく戦時中の私鉄買収線で線路規格はやはり高くない(新潟交通ほどではないけれど)けれども,湿田を避けて砂丘に沿って建設された結果,その砂丘地帯が住宅地に変貌したことで内野までの区間では近郊通勤路線に生まれ変わることができたわけです。
新潟交通はそれなりに色々な対策を講じてきたわけですが,結局は鉄道線を維持することができませんでした。

仙台鉄道が生き残ったとしたら,70年代・80年代をどのように過ごしたのでしょうね。
[9253] 2003年 2月 15日(土)12:23:21special-week さん
群馬研究4
[9249][9250]
雑魚様、YSK様

これは、もともと「軽井沢」の北部が群馬県に入ったというのではなく、もともと群馬県域の場所が軽井沢の北という意味で「北軽井沢」という名前になったとみるのが自然に感じます。真意の程は定かではありませんが・・・。

 北軽井沢については、長野原町役場のホームページを見てもほとんど詳述されていないのですが、北軽井が群馬に属する経緯は、YSKさんの説明通りです。
 ちなみに北軽井沢という自治体はなく、北軽井沢は長野原町内の町名(字名?)になります。

[9241]
夜鳴き寿司屋様

廃止に至った理由も吾妻線により草津温泉の湯治客が奪われた事により収益が悪化した事もありますが、

 吾妻線は高崎から大前をつなぐ路線ですが、草津に行くには長野原草津口からバスになります。駅名に草津と付いていることから近いと思われる方が多いようですが、バスに揺られること40分強。東京から横浜もしくは幕張に行くような感覚です。駅名に草津とついているものの、とても最寄駅とは思えない状況です。(それでも最寄駅なんですけどね)吾妻線は平日、休日ともに一時間に一本程度しか運行されておらず、草軽電鉄が吾妻線に客を奪われたとは到底思えないんですよね。夜鳴き寿司屋さんが指摘する橋の流失が廃線のもっともたる理由でしょうか。まだ線路などが残っていたらJRが復活させてくれないかなあ?でも昭和37年に廃線じゃあ、線路は残っているはずありませんよね。
[12762] 2003年 4月 9日(水)20:57:06三丁目 さん
支庁再編、に鉄道を絡めて
拙稿[12025]で、北海道の支庁再編が検討されていることをご紹介しましたが、鉄道の話も絡めて。

留萌本線、日高本線、江差線、根室本線には、北海道庁の出先機関である、支庁所在地が関わっています。支庁所在地の留萌市、浦河町、江差町、根室市への交通路として、存続を余儀なくされていると見られなくもないのです。JR北海道としては、経営に重荷になる線は廃止したいのでしょうけれど。

これで、支庁が再編され、案どおりの8支庁に集約されれば、鉄道はどうなるのでしょうね。地元が廃止に反対するときに、北海道庁の後ろ盾がないと、その運動も弱いものになってしまうような気がします。それで、

[11375]まがみさん
旭川駅付近の高架工事に伴い(中略)改装列車の輸送などに必要なため旭川~北旭川運転所の間を電化工事中のようです。ただ、電化されても旅客列車としての電車は走らないのでしょうね。

この話に関連させていいのかわかりませんが、小耳にはさんだお話を少々。
数年前に,上川支庁庁舎が市中心部から永山に移転しましたが、支庁職員からは、永山まで電化延長して、札幌行の特急電車を永山始発にしろ、という運動が起こったそうです。JRは難色を示しつつ将来に含みを残したのに対して、一般市民からは、役人のエゴだ、と非難を浴びたようです。ちょうど、先述の廃線の可能性とは、逆の動きだな、と思ったものです。

以前[443]で、鉄道なし市をケンさんがまとめられていましたが、廃線によって鉄道なしになるケースは、寂しいものがありますね。私の手元にある1978年文部省検定済地図帳には、ほとんどが記載されているものですから、見てみました。逆に、予定線が載っているくらいですから、今議論されている高速道路の比じゃないですが、シミジミ思いました。鉄道が記載されていない地図帳で見ると、わかりにくいかもしれませんが、ご参考までに、道内の廃止された路線一覧をオマケということで。よくここまで廃止したなあ、というより、作っていたものだと感心してしまいました。

白糠線:根室本線白糠(釧路支庁白糠町)~北進(同町)(1983年10月)
相生線:石北本線美幌(網走支庁美幌町)~北見相生(同支庁津別町)(1985年3月)
万字線:室蘭本線志文(空知支庁岩見沢市)~万字炭山(同支庁栗沢町)(1985年3月)
渚滑線:名寄本線渚滑(網走支庁紋別市)~北見滝ノ上(同支庁滝上町)(1985年3月)
岩内線:函館本線小沢(後志支庁共和町)~岩内(同支庁岩内町)(1985年6月)
興浜北線:天北線浜頓別(宗谷支庁浜頓別町)~北見枝幸(同支庁枝幸町)(1985年7月)
興浜南線:名寄本線興部(網走支庁興部町)~雄武(同支庁雄武町)(1985年7月)
美幸線:宗谷本線美深(上川支庁美深町)~仁宇布(同町)(1985年9月)
富内線:日高本線鵡川(胆振支庁鵡川町)~日高町(日高支庁日高町)(1986年10月)
胆振線:室蘭本線伊達紋別(胆振支庁伊達市)~函館本線倶知安(後志支庁倶知安町)(1986年10月)
広尾線:根室本線帯広(十勝支庁帯広市)~広尾(同支庁広尾町)(1987年2月)
瀬棚線:函館本線国縫(渡島支庁長万部町)~瀬棚(檜山支庁瀬棚町)(1987年3月)
湧網線:名寄本線中湧別(網走支庁上湧別町)~石北本線網走(同支庁網走市)(1987年3月)
士幌線:根室本線帯広(十勝支庁帯広市)~十勝三股(同支庁上士幌町)(1987年3月)
羽幌線:留萌本線留萌(留萌支庁留萌市)~宗谷本線幌延(同支庁幌延町)(1987年3月)
幌内線:函館本線岩見沢(空知支庁岩見沢市)~幌内(同支庁三笠市)(1987年7月)
松前線:江差線木古内(渡島支庁木古内町)~松前(同支庁松前町)(1988年1月)
歌志内線:函館本線砂川(空知支庁砂川市)~歌志内(同支庁歌志内市)(1988年4月)
標津線:釧網本線標茶(釧路支庁標茶町)~根室標津(根室支庁標津町)(1989年4月)
     中標津(根室支庁中標津町)~根室本線厚床(同支庁根室市)
名寄本線:石北本線遠軽(網走支庁遠軽町)~宗谷本線名寄(上川支庁名寄市)(1989年4月)
      中湧別(網走支庁上湧別町)~湧別(同支庁湧別町)
天北線:宗谷本線音威子府(上川支庁音威子府村)~宗谷本線南稚内(宗谷支庁稚内市)(1989年4月)
池北線:根室本線池田(十勝支庁池田町)~石北本線北見(網走支庁北見市)(1989年6月~第三セクター化)
函館本線上砂川支線:砂川(空知支庁砂川市)~上砂川(同支庁上砂川町)(1994年5月)
深名線:函館本線深川(空知支庁深川市)~宗谷本線名寄(上川支庁名寄市)(1995年9月)

なお、士幌線は、全線廃止される前、1978年に糠平~十勝三股間が一部廃止になっています。
また、札沼線はかつては名前のとおり札幌から石狩沼田まででしたが、1972年6月に新十津川(空知支庁新十津川町)~石狩沼田(同支庁沼田町)の区間が廃止されています。

たぶん、漏れはないと思いますが、テツな方のご指導をあおげれば、と。ちなみに私は「乗り鉄」であることに、数年前気づきました。といっても、乗りつぶし派ではなく、目的地へ行くのに、極力、各駅停車を使う、というだけのことなのですが。おかげで、何度も往復した青森~大宮間での乗り継ぎ駅である、八戸、盛岡、一関、仙台、福島、黒磯の駅名は、時刻表を見ずともスラスラ出るようになりました。場合によっては、北上、郡山での乗り換えもありましたが。乗り継ぎ時間の短い間に駅前をウロウロするのが好きなのです。ただし、大垣夜行から小倉まで各駅停車でズ~ッと乗り継いだときには、乗り鉄を自認する私も、さすがに疲れました。とともに、懲りました。でも、その帰りも、もちろん各駅停車でしたが。
[12794] 2003年 4月 10日(木)02:55:47紅葉橋律乃介[紅葉橋瑤知朗] さん
Re.支庁再編、に鉄道を絡めて
[12762]三丁目さん

>幌内線:函館本線岩見沢(空知支庁岩見沢市)~幌内(同支庁三笠市)(1987年7月)

正しくは、函館本線岩見沢(空知支庁岩見沢市)~幾春別(同支庁三笠市)(1987年7月)
         三笠(空知支庁三笠市)~幌内(同支庁三笠市)(同上・1972年11月旅客営業廃止済み)
ですね。
これは本当の地元ですから間違いのない所。

特定地方交通線でなければ、
胆振線脇方支線:京極(京極町)~脇方(同)(1970年11月)
根北線:釧網本線斜里(斜里町)~越川(1970年12月)

貨物線になっていましたが、手宮線:函館本線南小樽(後志支庁小樽市)~手宮(同)(1985年11月・1962年5月客扱い廃止)
これは「北海道最初の鉄道」ですから、忘れてはならない?
[12899] 2003年 4月 11日(金)21:09:31でるでる さん
武州鉄道
[12858]KMKZ さん
武州鉄道
戦前に現在の埼玉高速鉄道に近いルートで蓮田から川口市石神まで走っていたローカル私鉄で赤羽を終点とする予定でしたが、荒川を越せないまま廃止になっています。

わぉ!!KMKZ さんにご紹介頂いたHPを拝見し、とても懐かしく思ってしまいました。
実は、その武州鉄道の廃線跡地に建っている大学が、私の母校なのであります。(大学名バレバレですね・・・(^^;)
もちろん私自身は、大学の敷地及び、正門につながる道路が、武州鉄道の廃線跡であることは知っていたのですが、他の学生でそのことを知っている人は、ほとんどいなかった気がします。

ご紹介頂いたHPにも掲載されているように、武州鉄道の廃線から65年の歳月が経った現在においても、遺構といいますか廃線跡が、意外なほどに結構残っているんですよね。岩槻駅から大学までのバスや、東武野田線の車内からも、武州鉄道の跡地のそれと判るものもあります。

東武野田線の岩槻~東岩槻間の中間地点に、一部高架区間があるのですが、これは野田線が開業したのが、武州鉄道よりも後だったために、武州鉄道の路線をオーバークロスする為に設置されたものなのです(HPでも紹介されておりますね)。つい数年前に岩槻~東岩槻間が複線化された際に、新しい鉄橋に付け替えられてしまいましたが、それまでは、その当時のガーター橋が残っていて、武州鉄道の線路の真上部分(橋桁の最も春日部寄り)のガーター橋の形状が異なって(他の橋桁よりも低い)おりました。ちなみに橋の下を通っていた廃線跡は、現在は細い道路となっております。

この武州鉄道は、蓮田よりも先、行田や羽生への延長構想もあったそうなのですが、もし全通し現在においても残っていたら、東武伊勢崎線のような、埼玉東部地区と東京とを結ぶ通勤路線となり、沿線の様子も現在とは異なっていたのでしょうね。その武州鉄道の廃線から半世紀以上経った今、その経路をなぞる様に、地下鉄南北線と埼玉高速鉄道が浦和美園まで開業し、今後岩槻・蓮田への延長の動きがありますが、開業したあかつきには、わが母校の前にも駅が出来るのかしらん。

ちなみに、岩槻~東川口間には国際興業バスが結んでおり、岩槻~大学間は1時間に3~5本、更に東川口までは1時間に2本ほど便があるのですが、利用者の大半が大学生でして一般の利用者は少なく、休日や休校期間ともなると、バスの便は1~2時間に1本と激減してしまうことから、岩槻と東川口間の輸送需要はさほどないように思えますが(その代わり車の通行量は多いです)、地下鉄を介し東京と結ばれることによって、新たな需要の喚起が期待出来るかも知れませんね。
[12919] 2003年 4月 11日(金)23:51:30ken さん
re:武州鉄道
[12899]でるでる さん
[12858]KMKZ さん

結構、廃線跡の本とか、持ってるのに、武州鉄道のこと、初めて知りました。
勉強になります。
改めて、祖父の形見の昭和12年の分県地図帳を見てみると、ありますね、確かに、蓮田~大門。
この地図帳は、幼稚園の頃からの愛読書。宝物です。

そういう目で見ると、東野鉄道、下野電鉄、茨城鉄道(後の茨城交通茨城線)、成田鉄道とか、九十九里鉄道とかも載ってるなあ。

成田鉄道
http://www2.famille.ne.jp/~masa-tee/narita/
↓この絵図なんかも泣かせますねえ。
http://www2.famille.ne.jp/~masa-tee/narita/nensen/ne.html

九十九里鉄道
http://www.geocities.jp/chibahistory/RailHistory/Haisen/kujukuri.html

鉄分、多過ぎですね。切りがないのでこの辺で。
[14871] 2003年 5月 7日(水)21:16:23ありがたき さん
野望は壮大なり、がしかし…
[14818]まがみさん

私も「石川総線」って呼びます(^^;
終点? 白山下でしょ… えっ、今は加賀一の宮まで?

金名線の廃止は、「老朽化した鉄橋が崩落する危険あるものの資金難から手を加えられなかった」でしたっけ。名前だけは「金沢~名古屋線」とするも、石川県を脱出する事さえ出来なかったわけで。そういえば、鶴来~加賀一の宮は元の金名線だったかな?

こころざし半ばに建設が終わった路線は他にも数多くありますが、名前が計画そのままで残る例は、有名どころで言えば名松線(名張~松阪線)とかですね
[14883] 2003年 5月 7日(水)22:36:38夜鳴き寿司屋 さん
北陸鉄道金名線
[14871] ありがたき さん

金名線の廃止は、「老朽化した鉄橋が崩落する危険あるものの資金難から手を加えられなかった」でしたっけ。

金名線が廃止されたのは1987年ですが、中島橋梁の路盤周辺が崩壊の危険から運休し、しかも当時すでに朝夕しか運行していなかったので、バス代行が続くうちに廃止されたそうです。その前の大日川橋梁は橋脚の劣化により倒壊の恐れがあったので修理したのですが、中島橋梁の場合は路盤周辺の風化作用なので修繕には莫大な費用がかかるので廃止の一番の理由とされたようです。

 修繕費用を出してまで維持する必要性が消滅していたようです。それでなくても当時の北陸鉄道は自社鉄道線を多く廃止していたので橋が崩落しなくても早晩廃止されていたかもしれません。
[14891] 2003年 5月 7日(水)23:09:16深海魚[雑魚] さん
只今、吟醸酒 600mL消費。
[14883] 夜鳴き寿司屋さん
中島橋梁の路盤周辺が崩壊の危険から運休し、
手持ちの市販写真集に、現役時代の白山下駅が載っているのですが、銀嶺を背景に雪に埋もれたその様子は、なかなか味わい深いですね。晩年は確か、日中バス代行扱いだったと記憶します。

実際に 「崩壊」 が発生して運休、廃止の道を辿った例と言うと、南部鉄道や草軽電鉄、鹿児島交通でしょうか。大地溝帯の不安定な姫川渓谷の地質ゆえに、何度か災害運休を余儀無くされた大糸線非電化区間が、その都度見事に復旧した事例とは対照的ですね。
[15097] 2003年 5月 12日(月)11:55:02まがみ さん
高架にしたのに廃線
[14989]KMKZ さん
鉄道と道路のどちらを上にするか、最初からちゃんした都市計画があれば本来、不要な工事の筈だと思うのですが
関連する話題ということで、名鉄三河線の高架区間の話を一つ。

名鉄三河線というのはディーゼルカーが走るローカル路線なのですが、西尾市内の三河楠~寺津の間に場違いのような立派な高架路線があります。これは、98年度に約20億円をかけて(国が10億5900万円、県が8億6600万円、名鉄が3000万円)、県道衣浦岡崎線との交差部分を高架にしたものなのですが、高架が完成したその年に、同区間の廃止が表明されました。なんとも皮肉…

わかりやすく年表にしました。
1995年県道との立体交差事業に着手
1998年11月高架路線完成
1998年11月名鉄、同区間を2001年9月末で廃止することを表明
2000年7月廃止を3年間先送り
2003年2月27日同区間の廃止を正式に決定
2004年3月31日この日限りで運行終了(予定)
この件、西尾市議会などではかなり議論されたみたいです。

▼地図
http://map.yahoo.co.jp/pl?la=1&sc=4&nl=34.50.39.132&el=137.1.13.052&CE.x=253&CE.y=235
[15713] 2003年 5月 22日(木)16:40:52深海魚[雑魚] さん
セメント専用鉄道
[15710] わたらせGさん
日本セメント東松山専用鉄道高本線
架線柱があるので、電化されていた様ですね。北海道上磯町にあった セメント工場の鉱山線も電化されていましたが、何か防災上の利用でもあるのかな。そう言えば、八高線高麗川と東武越生線西大家を結んでいた貨物線も セメント関連でした。これは非電化だった様に記憶します。事業所関連の貨物線が両端で旅客営業線に接続していたのは、結構稀有な例ではないかと思います。(壬生町内で東武宇都宮線から分岐していた石材関連の貨物線は、支線が国鉄日光線に連絡していた様な気もしますが、当時は貨物輸送で国鉄と私鉄が ダイヤ上の整合性を図り得る程に、鉄道貨車も重宝されていたのかも知れませんね。)
[15902] 2003年 5月 25日(日)20:23:28G[わたらせG] さん
廃線レス
[15713]雑魚さん
[15736]スナフキんさん
セメント専用鉄道に関する詳しいご解説をいただきありがとうございました。スナフキんさんの高坂駅付近のお話、昔を思い出しながら懐かしく回想させていただきました。私が住んでいたのは、高坂駅が橋上に変わった頃でして、西口が開設され、東武バス、学バス(東電大、大東大など)も西口発着になったのを覚えております。(それまでは、一面の桑畑だったんですよね)それから少し経って、区画整理が進み、西本宿の一部が元宿に町名変更になったようにも記憶しております。県立こども動物公園のコアラやエミュウ(追いかけられた/_;)今もいるんですかねぇ~?

鉄分のない私でが、過日の毎日新聞栃木版に「日光軌道線」の記事がありましたのでお礼方々m(_ _)m

#日光軌道線は、1908(明治41)年に当時の精銅所の資材を運搬するのを目的に「日光電気軌道」として運行をはじめた。旅客電車としての人気も上々だったが、徐々にモータリゼーションが全国的に広がり、バスやマイカーの普及によって電車利用が減少。このため、1968年2月に現在のJR日光駅から馬返(いろは坂入り口)間の運行を廃止し、60年の歴史に幕をとじた。昭和40年代まで日光市内を走っていた「ちんちん電車」の写真を紹介した「懐かしの日光軌道線」写真展が、日光郵便局ロビーで6月20日まで開かれているそうです。

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