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Issieさんの記事が30件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[78594]2011年6月19日
Issie
[78582]2011年6月18日
Issie
[78575]2011年6月17日
Issie
[78569]2011年6月16日
Issie
[78546]2011年6月12日
Issie
[78537]2011年6月11日
Issie
[78533]2011年6月11日
Issie
[78527]2011年6月10日
Issie
[78514]2011年6月8日
Issie
[78512]2011年6月8日
Issie
[78502]2011年6月7日
Issie
[78499]2011年6月6日
Issie
[78489]2011年6月5日
Issie
[78476]2011年6月4日
Issie
[78430]2011年5月24日
Issie
[78341]2011年5月17日
Issie
[78335]2011年5月16日
Issie
[78305]2011年5月15日
Issie
[78266]2011年5月14日
Issie
[78261]2011年5月14日
Issie
[78258]2011年5月13日
Issie
[78255]2011年5月13日
Issie
[78247]2011年5月13日
Issie
[78235]2011年5月12日
Issie
[78163]2011年5月7日
Issie
[78140]2011年5月4日
Issie
[78066]2011年5月1日
Issie
[77931]2011年4月25日
Issie
[77919]2011年4月23日
Issie
[77913]2011年4月23日
Issie

[78594] 2011年 6月 19日(日)21:08:54Issie さん
小田切さん
[78590] 伊豆之国 さん
「田切」の付く苗字に「小田切」さんがあります。

そう言えば,長野市に「小田切」という地名があるのを失念していました。
国道19号を犀川に沿って下り長野盆地に出る直前に「小田切ダム」というダムがあります。このダムのすぐ下流で「両郡橋」(←更級郡と上水内郡にまたがるので)を渡ると急に視界が開けて善光寺平に入ります。
「小田切ダム」の名前は,ダムサイトの北岸(左岸)が長野市編入前の上水内郡小田切村に属するからですが,谷底の国道沿いにはめぼしい集落がありません。別にダム湖に沈んでしまったからではなくて,元からない。旧小田切村の中心集落は山のずっと上,北側を流れる裾花川の谷との間の尾根の辺りにあります。
で,「小田切」というのですが,どうもここの地形は伊那谷の典型的な「田切」とはだいぶ違う地形です。何よりここには地すべりによる緩斜面が散在してそこに集落があるのですが,伊那谷のような広い平坦面は存在しない。“若い谷”が発達している,という点は共通するのですが,その谷が侵食するのはここでは平坦面ではなく山なのですね。
もしかしたら,「小田切」の“小”の字に秘密があるのかもしれません。

[78589] hmt さん
自然災害に直面し、逆巻く急流により侵蝕され、耕地が分断される姿を目撃した人々が、これに「田切り」という字を当て、

[78582] で私は「若い」という表現を使いましたが,この“若さ”は言うまでもなく“地形形成史”の中での若さであって,これに比べたら人類全体の歴史など“一瞬”にならないほど若いものです。
30年ほど前の台風の集中豪雨で釜無川上流の河床が侵食されて一夜にして グランドキャニオンのような景観 が生まれたことがありました。1984年の長野県西部地震では,王滝村で一瞬のうちに山が抜けて集落が分断される災害が起きました。2004年の中越地震でもよく見られた光景ですね。
とは言え,これで伊那谷の「田切」のような地形が生まれるわけではありません。どんなに集中豪雨が繰り返されても,せいぜい120年の私たちの一生の間に「田切」のような深い谷に成長するはずもありません。
本家アメリカ・コロラド高原のグランドキャニオンは壮大な「田切地形」と言えなくもないのですが,これは何億年もかけて作られたものです。
信州の「田切」はもちろんそれよりも遥かに“若い”ものですが,それでも人類がそこに来たときには既にあったものだと思います。恐らくは目の前で「田が切られる」光景を見てついた地名ではない。もし現実の災害を目の当たりにして生まれた地名であるならば,それはもっと別のところに分布したのではないか。
たぶん「田切」というのは,既にそのような形になっている地形を人々が利用し始めてから,「田が分断されているように見える」様を見て生まれた地名なのだろうと考えています。
[78582] 2011年 6月 18日(土)19:26:33Issie さん
田切り落つ異郷の涙 by 藤村
[78581] k-ace さん
私なんぞは「田切」って地形名だったのかレベルですが。由来をいわれてみれはなるほど。

必ずしも「用語」としてきちんとした定義はされていないだろうと思うのですが,イメージ的には河岸段丘や火山山麓の平坦面を新たに侵食した川が作る若くて細長い谷,という程度のものでしょうか。「田切」地名が特に伊那谷に集中し,さらに隣接する八ヶ岳,蓼科,浅間の各火山の山麓緩斜面にも多く見られるので,この辺りをフィールドとする地元信州の郷土地理家が「田切地形」という語を多用しています。
同じ信州でもこのような地形があまり見られない中信や北信では,あまり使われません。たとえば,犀川丘陵は河岸段丘自体は多く分布するのですが,平坦面が断片的に散在しているために「田切地形」はあまり見られないのですね。
同様の地形はほかの地方にも見られます。たとえば鹿児島県のシラス台地などもそうですが,ここでは別の名前で呼んでいるのではないでしょうか。南関東にも似た地形がありますが,ここでは「ヤツ(谷津)」とか「ヤト(谷戸)」と呼んでいますね。
目黒区の「田切(たぎれ)」は,やや孤立した例ではないかなあ。

#後、東京「12チャンネル」(アナログ)か「7チャンネル」(デジタル)かという話もあるようですが…。

私的には,あの放送局は東京タワーの下にあった頃から「東京12チャンネル」ですから,今さら「7チャンネル」には…。7月以降も,私は「12チャンネル」と呼んでいますよ,きっと。
[78575] 2011年 6月 17日(金)21:51:57【1】Issie さん
なにもたべないほうが ましでした
[78572] hmt さん
これは、絵本作者の偏見に基づく記述ではないかと想像します。

元々の原文で「あぶらむし」が何を指しているかわからないところで議論してもあまり意味のないことかもしれませんが,ゴキブリは世界の中では非常にポピュラーな食材であるそうですね。何を食べるか,ということは文化の根源にかかわることで,自分たちの感覚に反するからという理由でその地域の食文化を貶めることは極めて不遜な行為です。
私も信州に住んでいた頃,カイコのさなぎや,天竜川つながりで ざざ虫 なんかも度々食べました。残念なことに蜂の子を食べる機会には恵まれませんでしたが。まあ,それなりに美味しいものではありますが,独特の臭みがあって,その辺りで好みが分かれるかな。

もっとも,この絵本のこの表現,作者が本気でそのように思っているなら,それは「偏見」かもしれないけれど,そこまで目くじらを立てることか。子ども心には,「なにもたべないよりは ましでした」が2回続いた後,3度めに「なにもたべないほうが ましでした」と来るところが,とても面白かったのでした。
絵本や童話に限らず,同じ展開を3度繰り返して,3度めは違うところに“落とす”というのは,ドリフのコントもそうであったように,お話づくりの最も基本的なお約束の1つです。ここでも,まずはそのお約束に則っているのだろうと思います。
とは言え,この絵本には別のところで,お話後半で登場する「黄色い目の猫たち」が,ただ1匹特徴の違う「あおい目のこねこ」に対して極めて「差別的」な発言と行動をとる場面があります。あおい目のこねこは,それにメゲない,というのがこのお話の大事な部分の1つなのですが,その部分はやはり結構エゲツない。

そんなことより,「空から日本を見てみよう」。
今回は,「天竜川」という素材がもたらしたものか,いつになく「地形」が話題に上る場面が多く,興味深いものでした。河口西側の砂丘地形から始まって(本当は砂丘としては河口の東側の方が有名なのですが,今のこの御時勢,話題にするには微妙すぎますね),蛇行や中央構造線,河岸段丘から,「田切地形」などという“信州ローカル”な地形用語まで飛び出して来たのには驚きました。実際のところ,伊那谷の地形を語るのに「田切地形」は外せないのですが,それが所詮は関東ローカル局の「12チャンネル」の電波に乗るとはね…。
以前にも一度ここでボヤいたことがあるのですが,NHKが特にそうなんだけど(民放はそもそも,あまりこういう番組をつくらない),どうも日本のテレビはせっかく自然番組を作っても“生き物”の方に流れてしまって,「地理」に留まって“地形”や“気候”をじっくり視せてくれる番組が極めて少ない。
その点では,地形にこだわる「ブラタモリ」が出色なのですが,如何せん,視点がマニアックすぎるのと,何より対象が東京の中でさえ極めてローカルで…。日本地理学会から表彰されたとは言っても,やっぱりねえ。
だから,今回の「空から日本を見てみよう」は私的には“大当たり”でした。
ここの地形の説明には,それぞれ一言二言もの足りなさを感じないでもないけれど,これだけいろいろな地形の実例を視せてくれた辺り,地理教材として十分使えるものに思いました。
もっとも,この番組の特性で,すぐに 下山ダッシュ みたいな鉄道ネタに走っちゃうんですけどね。
そこし恨めし。
[78569] 2011年 6月 16日(木)21:27:32Issie さん
あおい目のこねこ
今日の東京12チャンネル「空から日本を見てみよう」は天竜川。
河口から源流までさかのぼる,と言っていましたから,諏訪湖よりも上の八ヶ岳か霧ヶ峰まで行くのかと思ったら,諏訪湖出口の釜口水門まで。ま,確かにここが“天竜川の始まり”ですから,これが最も正しい「源流」ですね。

[78568] 白桃 さん
ゴキブリのことを「アブラムシ」って言うことについて、それが地域性の問題なのか、世代間の違いなのか・・・。

ここのところで思い出したのが,子どもの頃に読んだ 「あおい目のこねこ」 という絵本。
もうストーリーは忘れていて,検索してみて,そう言えばそういう話だった,と思い出したのですが,1つとっても強烈に覚えていたこと。
旅に出た子猫(飢えた子猫は餌のネズミがたくさんいる「ねずみのくに」を探しに出たのですね)が途中,空腹のために虫を捕まえて食べる。それが小さいハエや蚊だったりして,腹の足しにもならないのだけど「たべないよりは ましでした」。ところが最後に捕まえて食べた「あぶらむし」。これはマズくて「たべないほうが ましでした」。
子ども心に,「食べない方がまし」なくらい不味い「あぶらむし」ってどんな虫なのか,と思っていました。だって,アリマキのことじゃないよね。
それが“ゴキブリの別名”だと知ったのは,だいぶ成長してから。

これは外国の絵本を翻訳したもので,ここで「あぶらむし」という語に翻訳した せた ていじ さんという人が,どこの出身でどういう「方言」話者なのかも興味深いのですが,「“あぶらむし”は,食べない方がましだった」というのは,原作からのものですね。この作品の原作者は エゴン・マチーセン という人で,名前の“響き”から推測すると北欧の人ではないかと思うのですが,だとすると,北欧では「あぶらむし」はハエよりも蚊よりも「食べない方がまし」な虫なのですね。
問題は,その「あぶらむし」が元々はどういう虫だったか,ということです。やっぱりゴキブリなのかしら。

ひるがえって,再び日本のゴキブリの話。
「ゴキブリ」と言ってもいくつか種類があるようで,どうも北日本と東日本,西日本ではメジャーな種が違うらしい。基本体型は同じようなものでも,色や大きさなどが違っていて,もしかしたら同じ「ゴキブリ」という語で,違う虫を連想しているかもしれません。
そして最近の気候変動の影響か,各地でメジャーな種の交代が進んでいる,なんて話を漏れ聞いたような記憶も…。

名古屋の「御器所(ごきそ)」という地名を初めて聞いてすぐに「ゴキブリ」を連想してしまった私ですが(どちらも「御器」という語に由来するのですよね),ゴキブリの話題も結構奥の深いものです。
[78546] 2011年 6月 12日(日)12:24:11Issie さん
黒部の太陽
[78541] スナフキん さん
「ひかり号」も九州から急きょ召し上げられた名前ですね。

そうですね。とってもローカルなジーゼル急行でした。まさか,「こだま」を飛び越えて「夢の超特急」になるとはね。
でも,その前は「のぞみ」と一緒に満州を走っていました。
“名前の使い回し”の歴史も結構奥が深いものです。
超特急に名前が“召し上げ”られた後継の列車名が「にちりん」(日輪)。日豊線,日向国,そして九州を連想させる名前で,私はこちらの方が好きです。最近,(文字通り)“影”が薄くなっている気がしないでもないけど。

山名などはピンポイントで使える範囲が限定的であるのに対し

“ピンポイント”であるが故に,そのピンからどちらの方向にも向かえる,という面もありますね。
信越線を走っていた「妙高」や「とがくし」は“ピン”の長野地区から,ある時は上野方面へ,ある時は新潟方面へ,と真逆に向かっていました。

子どもの頃,時刻表を眺めているのが好きで,特急や急行(準急はもう国鉄には走っていなかった。京成には走っていたけど)の名前を見て喜んでいたものです。その中には意味の分からないものもチラホラ。
「にちりん」も子どもには難しい名前でしたが,これは何だろうと本当に疑問に思ったのが,中央西線から大糸線に乗り入れていた急行「くろよん」。語彙のない子どものことだから,クレヨンの変種か,などと思いました。
由来はもちろん,1960年代の国家プロジェクト,黒部ダムと「黒部第四発電所」。ダムの完成後は,急行「くろよん」が関西方面から“くろよんダム”への観光客を送り込むことが期待されたのでした。
今でも立山・黒部アルペンルートは人気の観光地で,多くの観光客でにぎわっていますが,昔ほど突出したものではなくなったような印象が。「くろよん」という言葉もあまり耳にしなくなったような気がします。
今,列車名や夜行バスの名前として「くろよん」が選ばれることはあるのでしょうか。この名前も,高度経済成長時代を懐かしむアイテムになっているのかもしれない。

昔,満洲を走っていた「ひかり」や「のぞみ」,そして「あじあ」もそうですが,列車名というのも結構,「時代」を映す鏡なのかもしれません。今,やたらとカタカナが多いのも。
でも,「サンダーバード」という名前は二重,三重の“誤用”を犯しているように思うのですが。
[78537] 2011年 6月 11日(土)20:47:28Issie さん
話題の逗子市長
[78532] hmt さん
澤 光代さん
神奈川県 逗子市長で、任期は1992年(平成4年)11月11日から1994年(平成6年)11月30日まで。
女性であることは間違いないと思うのですが、参考頁 では、澤さん【右下?】を確認することができませんでした。

そうでしたね。
池子弾薬庫問題が原因の対立で市議会や市長のリコール投票が相次いだ 富野暉一郎市長 の次に市長に当選したのが女性の 澤さん だったので話題になったのを思い出しました。
で,少し間をおいて“若い市長”の 長島さん の登場。

逗子市の場合,米軍施設という争点になりやすい施設が存在することと,「住民性」というものか,この四半世紀ほど,何かと話題になることが多い印象があります。
…正しくは,そういう場面しか記憶していないだけですが。
 
[78533] 2011年 6月 11日(土)17:28:24Issie さん
しんかんせんでゴー! ゴ・ゴー!
今,NHKの教育テレビを“聴き”ながらここを見ています。
で,歌声が流れてきました。「おかあさんといっしょ」の今月の歌らしい。耳に入ったのは,こんなフレーズ。

 のぞみにさくら はやぶさ こまち…

「さくら」「はやぶさ」で即座に連想したのは寝台特急だったのですが,何かおかしい…。
これは新幹線の歌でした。
これからの子どもたちには「さくら」も「はやぶさ」も新幹線の列車なんですね。
「さくら」は南へ,「はやぶさ」は北へ。
頭を切り替えなければならないな。
[78527] 2011年 6月 10日(金)21:26:19Issie さん
単なる情報
[78516] 白桃 さん
首長の年齢や性別については、単なる「情報」であって、それらをどう組み立てたって「地理」はおろか、「地理雑学」にはならないと思います。

まあ,そうですね。単なる「情報」であることはその通りです。
そしてたとえば,人口統計の数字もそのままでは単なる「情報」ですね。
でも,その単なる「情報」が大切です。「正確な情報」抜きに,自分のごく狭い経験と思い込みとで何事かを語ったって,何のお話にもならないじゃないですか。

たとえば「地理コレクション」。これを「地理」だと思っていました?
単にあるテーマに該当する(という“事実に反するかもしれないただの思い込み”も含めて)地名を列挙しただけのこのデータベースだって,ただの「情報」以上の何物でもないですよ。「地理 geography」には遥かに及ばない。
これを「地理」たらしめているのは,その「情報」をもとにこの「落書き帳」で交わされる会話(“議論”未満であっても)の積み重ねです。
そして,その会話を実のあるものにするのは,個人の勝手な思い込みではなく,きちんとした根拠のある「情報」以外にないのです。
だから,“単なる情報”上等!
大事なことは,その“単なる情報”からどれだけの情報を読み解いて「地理」を語れるか,という“読解力(リテラシー)”です。

[78518] ニジェガロージェッツ さん
私も白桃様と同じ意見です。私の「地理雑学」の領域にも入りません

[78525] hmt さん
ところで、異論の出た女性村長や 若い首長。
地方自治法施行に先立って行なわれた 1947年の統一地方選挙とのからみもあり、地方自治を語る“材料”の1つであることは、間違いないと思い、[78453]で「4人の女性村長」を紹介しました。

私も hmt さんと同じ認識を持っています。
この「情報」が,この「落書き帳」の中でどれだけ活かされるかはわかりません。けれども,この「情報」が利用されて,どのように“化ける”かもわからない。今必要なことは,この先どのように利用されるかはわからないが,その必要性を感じるならば,できるだけその情報を集めることです。

[78498] グリグリ さん
それにしても、女性首長もそうですが、首長の就任日や生年月日など、まとまったデータが無いことを痛感しています。たかだか60年ちょっと前の戦後の情報です。歴史データとして、変遷情報などと同じく、整備されていて然るべき情報のひとつだと思います。

という認識があるのなら。
もしかしたら,誰かがこの情報を上手く読み解いてくれるかもしれない。

[78521] 88 さん
#「『女性』首長」として抽出して(強調して)まとめること自体が、現在の男女共同参画社会において適正かどうかは、再検討する必要があると思います。

この点についても,私は hmt さんと同意見です。
「男女共同参画社会」の“実現”に向けて,わが国の地方自治がこれまでどのような歴史を踏んできたのかを検討する上で,これは最も基礎的で不可欠な情報だと思います。むしろ,これは積極的に“強調”して集めるべき。それほど,わが国では“女性首長”がいまだに珍しい存在なのですから。
これは「若い首長」についても同じ。
“専門家”の世界には「政治地理学」という分野があります。昔は「地政学」と同じような意味でとらえられていたようですが,今はもっとユルく,さまざまな地域の政治現象を地理的な視点から読み解く,という程度の意味でとらえられているようです。あるいは逆に,「政治」という視点から,“その地域の特徴”つまり「地理」を読み解いてみよう,というもの。
それらを語る上では,たぶんこのようなデータは最も基本的な「情報」として求められるものだと思います。この「落書き帳」のメンバーの関心がそちらに向かうかどうかは,わかりませんが。

繰り返しですが,「情報」なくして「地理」も「地理雑学」もあり得ません。
大事なことは,私たちはその「情報」の中からどれだけの物事を読み解いて,「地理」を語ることができるだろうか,というところにあるのだろうと,私は思います。
[78514] 2011年 6月 8日(水)01:09:12Issie さん
ブラタモリ on 東京タワー
遅い時間ですが,NHKで「ブラタモリ」の再放送をやっていました。
芝・東京タワーの回。今回,単発の再放送のようです。
今となっては,地震でテッペンが曲がってしまう前の東京タワーですね。

ところでNHKのHP内にある「ブラタモリ」のページを見てみたら,

 「ブラタモリ」が日本地理学会賞を受賞!

というニュースが。
“プロのみなさん”も視ているんですね。
第3シリーズは…,どうかなあ。

ま,こういう「地理」もある,ということで。
[78512] 2011年 6月 8日(水)00:24:28Issie さん
「地理」とは何か
…という問いがあったら,それに対する答えは人それぞれなんじゃないでしょうかね。
たとえば統計データの数字だけ取り出して並べてみて,それで「地理」と言えるか。
市町村の変遷をひたすら列挙してみて,それで「地理」と言えるか。
地名がどのように表記されるのか,「ケ」の大小を検討することが「地理」と言えるのか。
自治体はどのような名前を名乗るべきなのか,カタカナ地名はありかなしかを論ずることが「地理」と言えるのか。
何かのテーマを設定してそれに該当すると思われる地名を(それが本当にそれに相当するか否かにかかわりなく)並べあげることが「地理」と言えるのか。
…などなど。

たぶん,これらは「地理」を語る際の材料ではあっても,それだけでは「地理」ではない。
それらを総合して“その地域がどのような場所であるのか”ということを語って初めて「地理」あるいは "geography" (ge=土地 の graphy=記録)となる。
だから,ここにあるのは「地理」ではなくて「地理雑学」。
で,それを語る“材料”は,いろいろな側面からさまざまな切り口のものがあった方がその組み立ても豊かになる。

まあ,いろんなものがあっていいんじゃないですか。
私はむしろ,「イベント」の時だけ賑わって,ほかは閑散としている最近の状況が心配でした。だから最近,話題の幅が広がって良い傾向ではないかと思っていますよ。
[78502] 2011年 6月 7日(火)01:25:23Issie さん
唯一人の公選北海道庁長官
[78500] にまん さん
次に知事。おそらく知事はこれで網羅できていると思います。

[78489] では適当なことを言っちゃいましたね。3人もいましたか。

北海道知事 田中敏文 たなかとしぶみ 35歳6ヶ月 1947(S22).5.? 3 1911(M44).11.9

田中さんが「北海道知事」になったのは現行憲法と地方自治法が施行された 1947年5月3日 であると思います。
でも,この人はその2週間前の 4月21日 からその職務に当たっています。恐らくは,旧憲法・道府県制下の「北海道庁長官」として。
地方自治法が貴族院で修正可決されて成立したのが 1947年3月28日,公布は 4月17日 ですから,田中さんが就任した4月21日時点では既に「北海道知事」となることはわかっているのですが,4月に投票が行われた選挙が始まったのはこの法律の施行はもちろん,恐らく成立よりも前でしょうから,この人は「最初の公選北海道庁長官」として選挙されたものと思われます。
これは「最初の東京都知事」である 安井誠一郎 さんが「東京都長官」として選挙されたのと同じです。で2人とも,「最後の公選長官」となった。
だから田中さんも,最初は「北海道庁長官」として就任して,5月3日に自動的に「北海道知事」に移行した,と考えていいのではないかと思うのですが,肝心の 北海道公式ページ には歴代長官・知事の一覧がないのですね(少なくとも,すぐ見つかる場所には)。北海道(庁)自身が,この辺りをどう処理しているか,知りたいところです。
[78499] 2011年 6月 6日(月)19:39:04【1】Issie さん
若い市長 in 逗子
[78485] グリグリ さん
40歳未満で就任した首長の一覧

元・神奈川県逗子市の市長の 長島一由 さんも,当選・就任当時は「全国最年少の市長」と言われていました。

 1967(昭和42)年1月18日生まれ
 市長在任:1998(平成10)年12月25日~2006(平成18)年12月24日

就任時点で満31歳ですね。在任は8年ですが,2期目途中の2003(平成5)年8月に米軍池子住宅問題で一度辞任をして9月の出直し選挙でみたび当選しています。だから,当選は3回だけど,期数はどう数えるのかな。
「住民の意思を直接問う」として首長が任期途中で一度辞任して直後の選挙にまた立候補する,というのが何だか最近流行していますが,長島さんはその手法が流行りはじめた最初の方の例ではなかったでしたかね。
結局,この人は8年目の任期満了したところで退任しました。立候補しなかったんだっけ? もう忘れちゃいました。
[78489] 2011年 6月 5日(日)22:08:13Issie さん
Re:40歳未満で就任した首長の一覧
私が知っている例に,福田(父)内閣から鈴木内閣にかけて官房長官や外務大臣などを歴任した 園田直 さんがいます。
1913(大正2)年生まれで復員後の1946(昭和21)年に故郷の 熊本県天草郡一町田村(現天草市の一部)で村長に就任した,という例。33歳(または32歳)で就任ということになるでしょうかね。もっとも,翌1947(昭和22)年の衆議院議員総選挙に立候補して当選していますから,在任は1年足らずですね。
それ以上に,現行憲法施行のために行われたのがこの総選挙ですから,園田さんが村長をやっていたのは旧憲法・町村制下での話ですね。したがって,現行地方自治法(あるいは公職選挙法)のように住民による直接投票ではなく,(村議会ではなく)村会で選挙された村長さんです。だから 伊藤兵庫県知事 ともども対象外かな。

というわけで園田さんは微妙ですが,この1947年に実施された第1回統一地方選挙では女性首長と同様に,若い首長も生まれているような気がします。でも確か,知事(および東京都長官,北海道庁長官)にはいませんね。市長も無理かなあ。町村長なら,いるかも。
と言っても,昭和の大合併以前の小規模町村の時代。調べるのは大変そうですね。
[78476] 2011年 6月 4日(土)19:48:13【3】Issie さん
2つの桐ヶ谷村
[78471] hmt さん
問題の「馬込領桐ヶ谷村」は 大田区でしょうが、地名がすっかり変っています。馬込や雪谷という地名から類推するのみ。

たとえば,1922(大正11)年部分修正の5万図を見ると該当すると思われる位置に「桐ヶ谷」の地名はありません。もう1つの「桐ヶ谷」(こちらは「品川領」)は,「大崎町」内の地名として記載されています。
そこで,[68352] でも話題に上がった『新編武蔵風土記稿』(江戸時代後期,化政年間に幕府機関によって編纂された準公式地理書)に当たってみました。関連部分をそのまま引用します。

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○桐ヶ谷村(馬込領・巻46)
桐ヶ谷村は当郡品川宿より西南の方一里半余にあり、家数十五軒、東より南へは市ノ倉村に界ひ、正南は堤方村に接し、西は池上村に隣り、北は馬込村に及ふ、東西十五町南北八町余、水田少なく陸田多し、土性は赤土野土錯(まじ)りに耕作に宜(よろしか)らす、元禄八年織田越前守検地す、御入国の後山本藤右衛門知行となり、それより今の又十郎に至るまで子孫世々襲領す
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現在の町名としては「桐ヶ谷」だけでなく,隣接する「市ノ倉」「堤方」も消滅していますが,「堤方」は呑川に架かる橋とバス停に名前が残ります。文章中の記述と“明治の大合併”で「池上村」に合併されたという事実から,池上本門寺の東側,大田区中央五~六丁目のあたりに相当するものと思われます。
地図をよく見ると,本門寺の東側のヤト(池上一丁目)に「桐里保育園」というのがあるのですが,もしかしたら「桐ヶ谷」と関係があるのかもしれません。

現在も斎場にその名を残す品川区の「桐ヶ谷」については,こう書かれています。

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○桐ヶ谷村(品川領・巻53)
桐ヶ谷村は郡の東境にあり、江戸日本橋より二里半の行程なり、家数六十軒、東は居木橋(いるぎばし)下大崎谷山の三村に隣り、南は谷山戸越の二村に接し、西は下目黒村に及び、北は上大崎村に交(まじわ)る、東西二十町南北八町余、南の方はすべて丘なり、北に及びては地低くして谷合多し、村の東の方に相州街道係れり、下大崎村より入て戸越村に達す、此間五町許(ばかり)、当村開墾の年代詳(つまびらか)ならず、御入国の後御料所にて元禄八年織田越前守検地す、又同じ頃村西の溜井を開墾して水田とせしもの五段、伊奈半左衛門検地して新田となる、今は一円に大貫治右衛門光豊が支配所なり
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というわけで,「桐ヶ谷村」の重複については特に記載がありません。位置が離れていることと,所属する領が違うことで別の村であることが明らかであるからなのかもしれません。

「新編武蔵風土記稿」の荏原郡部分には,桐ヶ谷村のほかに「小山村」と「久ヶ原村」が2つずつ記載されています。
「小山村」は 馬込領 と 世田ヶ谷領 の2つ。このうち,「世田ヶ谷領小山村」については“古くは「尾山村」とも書いた”という記述があり,これは現在の世田谷区尾山台付近のことと思われます。「馬込領小山」は商店街で有名な品川区の「武蔵小山」ですね。
こちらの重複についても特に記述はありませんが,考えてみれば表記は同じでも 世田ヶ谷領(世田谷区) の方は「おやま」,馬込領(品川区) の方は「こやま」と読みが違いますね。

一方,六郷領 と 馬込領 で重複する「久ヶ原村」については記述があります。

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○久ヶ原村(六郷領・巻44)
久ヶ原村は、郡の中ほどにあり、正保及元禄年中改定の国図共に村名の字を久原としるせり、今の字にかきかへしは何の頃よりにや定かならず、又同じ図をみるに、其頃すでに馬込領久河原、六郷領久河原と二村に分ちて記したれど、古(いにしえ)は一村たりしなど土人の伝へあり、もとより地形も接したれば、さもありしならん
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○久ヶ原村(馬込領・巻45)
久ヶ原村は、六郷領久ヶ原村に弁せし如く、その地あひ接したれば、昔は一村なりしやとおもはる、されど正保の頃改定の国図及び田園簿には、はや各村別ち記せり、土人の伝へには古は当村を今里村と号せしといへり、もし然(しか)らんには一旦故ありて六郷領の久ヶ原村とあはせて一村となせしならん、されど領名の異なるはもとより別村なれば、古は属する所の郷庄ともに同じからず、後の世はその郷庄の唱へも失ひしかど、領名をもてわかつにおよび猶(なお)その属する所を異にせるなるべし、土地の六郷領久ヶ原村につゞきたるは西の方にて、南の方は徳持村にとなり、東は池上村を限とし、北は道々橋村に接せり
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現在は大田区の「久が原」と表記する地名ですね。文章中の記述から,「久河原」という表記もあったことがわかります。
編者は,元々は「久原村」という1つの村であったものが江戸時代初めの正保年間以前に東西に分割され,西側が 六郷領,東側が 馬込領 に属したと推測するとともに,地元の人の言い伝えでは,馬込領に属する東側の部分がさらに古くは「今里村」と呼ばれていた,と記述しています。
明治の大合併前の村では「久ヶ原村」が1つしかありませんから,明治期には再び1つの村にまとめられたのでしょうかね。

参考までに,以下,「新編武蔵風土記稿」の荏原郡部分に記載されている村を列挙します。

【六郷領】
八幡塚村,雑色村,萩中村,羽田村,羽田猟師町,麹屋村,下袋村,東大森村・西大森村・北大森村,北蒲田村,新宿村,浜竹村,高畑村,古川村,道塚村,町屋村,御薗村,小林村,女塚村,新井宿村,不入斗村,堤方村,徳持村,蓮沼村,市ノ倉村,安方村,原村,古市場村,今泉村,矢口村,下丸子村,鵜ノ木村,嶺村,久ヶ原村

【馬込領】
久ヶ原村,道々橋村,雪ヶ谷村,池上村,馬込村,桐ヶ谷村,中延村,碑文谷村,小山村,谷山村,上目黒村,中目黒村,下目黒村

【世田ヶ谷領】
世田ヶ谷村,弦巻村,経堂在家村,用賀村,瀬田村,上野毛村,下野毛村,野良田村,等等力村,小山村,上沼部村,下沼部村,石川村,奥沢村,奥沢新田村,衾村,深沢村,野沢村,馬引沢村,池尻村,池沢村,三宿村,太子堂村,若林村,代田村,上北沢村,下北沢村,松原村,赤堤村

【品川領】
大井村,上蛇窪村,下蛇窪村,戸越村,桐ヶ谷村,居木橋村,上大崎村,下大崎村,二日五日村,品川宿(南品川宿,南品川宿猟師町,南品川宿新開場,北品川宿,品川宿歩行新宿)

【麻布領】
白金村,今里村,上高輪町在方分,下高輪村,三田村

以前,[68370] のあたりで「領」について触れたとき,多摩川以南の 橘樹郡 や 都筑郡(現川崎市および横浜市北部)では郡内各村の「領」への帰属が錯綜していて(「神奈川宿」は「神奈川領」には属しない,など),「領」の領域自体がモザイク状になっている,という旨の報告をしたことがあるのですが,荏原郡内ではそれぞれの領の領域が一円的にまとまっているようですね。
そうした中で,「久ヶ原村」が 六郷領 と 馬込領 とに分割されて所属していたわけです。

長文御免。
[78430] 2011年 5月 24日(火)23:58:54Issie さん
富士Q、抜け駆け
「富士山駅」が誕生するそうです。
富士急の発表(pdfファイル)によれば,現在の 富士吉田駅 を7月1日に「富士山駅」に改称して,今後,富士山観光の拠点として整備していくとのこと。
富士吉田市や地元商業関係者とも連携して,というわけで,「富士吉田」の駅名が消えることについては一応地元も納得しているのでしょうね。その上で「富士山」を積極的にアピールして行こうというのが,地元・富士急双方の今後の戦略であるようです。
少し前に話題になった“南=富士山が上になっている富士吉田の地図”にもつながる話でありましょう。

で,問題は静岡県側の反応。
「富士山」をとられて黙っているのかどうか。
もっとも,富士急グループにとっては山梨県側だけでなく,静岡県側も縄張りの中だから,企業としてはアピールできればどちらでもよいのかも。

ああ,でも「富士吉田」の駅名が消えるのは,それはそれでもったいない。
[78341] 2011年 5月 17日(火)19:50:53Issie さん
デカンショ節
[78340] k-ace さん
篠山市が丹波篠山市に?

最近はあまり歌われないのかもしれませんが,元々は篠山地方の踊り唄だった(らしい)「デカンショ節」にも「丹波篠山」と出てきて,言ってみれば一続きの名前のようなものでしたからね。で,後に「山家(やまが)の猿が…」と続いて,“山奥”の代名詞のようなものだった。実際には,さほど山奥ではないのですが。

さて,こうして兵庫県側で「丹波」ブランドを強調すると,“京都府領丹波”の方も黙っていないのでは。「丹波の本家」はこちら,なんて…。
ちなみに,国府があったのは桑田郡(推定:亀岡市),元々「丹波」という地名があったのは後に分離した丹後国の中郡で旧称が「丹波郡」(現在の京丹後市)。
やっぱり“本家”は京都側かなぁ。
[78335] 2011年 5月 16日(月)23:30:18【1】Issie さん
アイヌ神謡集 と おもろさうし
[78333] デスクトップ鉄 さん
47都道府県の顔

たとえば北海道は,地域史のどこに重点を置くかで人選が変わってくるかもしれませんね。
開拓史に重点を置くなら,やはり クラーク博士 を推したくなります。外国人ですけどね。
私としては,アイヌの口承文学に初めて(?)文字を与えた『アイヌ神謡集』の編者である 知里幸恵 を推したいと思います。

沖縄県は 屋良先生(←政治家への敬称ではなく“本来の意味”で) でもいいのだけど,文学者とするなら「沖縄学の父」と呼ばれる 伊波普猷 は,どうでしょう。あるいは,若干政治がかるのですが「沖縄自由民権運動の父」とされる 謝花昇 という人もいます。

信州と言えば藤村,で間違いないのですが,田中康夫元知事じゃないが,馬篭を岐阜県に取られたのはやはり痛い。そこで“次点”として,文部省唱歌「故郷」の作詞者である 高野辰之(豊田村…じゃなくて,現・中野市出身) は,いかが? そう言えば,中野市なら 中山晋平 という選択肢もありました。
東アジア共通の愛唱歌「北国の春」の作詞者 いではく(南牧村出身) なんて人もいますが,この方は存命でしたね。
※ちなみに,「井出姓」は,自民党三木派の番頭であった 一太郎氏 を代表に,佐久地方南部を代表する姓の1つです。

※追加
そうそう,長野県と言えば,県歌「信濃の国」の作曲者 北村季晴 もいいかもしれない。ただし,この人は県外出身で,たまたま師範学校の教員として赴任していた時に,この曲を作ったのでした。
[78305] 2011年 5月 15日(日)12:24:14【1】Issie さん
現代仮名づかいでは「安曇野」は「あずみの」でなければならないのだが
[78296] futsunoおじ さん
そういえば近頃は「越後平野」の言い方が増えてきた印象があるので調べてみました。

私自身は,「新潟平野」で教わった記憶があります。

つまり国土地理院では、1960年,1977年,1989年,1990年(及び現在)は「越後平野」であることから、一貫して「越後平野」を使用している可能性があります。

そこは,お役所。文部省と建設省という縦割りの世界ですから。以前にも触れたように,公文書の表記法(特に横書き文書での読点の扱い)で自治省が文部省とは違った指針を出して今に至るのと同様。もしかして,これは旧内務省と文部省間のライバル意識の表れ?

越後平野と新潟平野の呼称によると、「越後平野→新潟平野」に変わった時期は昭和34~35年(1959-1960年)頃。「新潟平野→越後平野」になった時期は平成1年(1989年)前後という推測が成り立ちます。

具体的な事例を基にした考察でなく私の「印象」に過ぎませんが,上の「推測」に同意します。1960年代以降に「地名の標準化」が進んだ後,1980年代後半以降にその「揺り戻し」が来ているという印象。
上の推測で「1959(昭和34)年」という年が興味深いですね。その前年の1958年は,戦後の初等・中等教育における重大な転換点であるからです。この1958年,小中高校の教育内容を示した「学習指導要領」の全面改定が行われたのですが,この際にそれまで学習指導要領のタイトルについていた「(試案)」という語が削除されました。
それまでは,「試案」の字が象徴するように学習指導要領は授業計画をするにあたっての“参考資料”であって,具体的に何をどのように教えるかは学校現場の創意工夫に期待する,というのが“建前”でした。敗戦後の教育改革で導入(強制?)された“アメリカ式教育”の発想ですね。
それがこの改定で「試案」という字が取れるとともに,現場に対する強制力を持つものであるという捉え方を文部省は前面に打ち出し,以後,文部行政はその立場を強めていきます。「55年体制」が確立した1950年代後半は,戦後教育行政にとって大きな転換点でした。
「揺り戻し」の時期も興味深い。これは,いわゆる「ゆとり教育」の導入時期とほぼ重なるからです。その前提にあるのは「戦後政治の総決算」を唱えた政権が推進した「臨教審路線」。2度目の「戦後教育の転換点」です。

もう1つ興味深いのは,学校教育とは全く別のステージで進められたものですが,国語政策の動きとも符合するところがある点です。
「地名の標準化」の進んだ1950~60年代は,強制力の強い「当用漢字」と「現代仮名づかい」の定着が進められた時代ですね。当初は印刷物に多く入り混じっていた旧字体の活字も,やがて姿を消しました。
「揺り戻し」の時期は,より強制力の弱い「常用漢字」への切り替えが行われた時期ですね。これも一面では“自由化”の流れに沿うものだけど,見方を変えると「戦後政策の転換」。

学校教科書からもう少し視野を広くすると,並行して次のようなことも起きているように思います。
つまり,「地名の標準化」の時代,一般地名の表記も当然のように「新字体・新かな」に変わり,それが定着していきました。地元関係者は頑なに旧字体あるいは旧仮名遣いに基づく表記を続けていた例もあるけれど,国レベルの公文書や一般マスコミでは「新字・新かな」で表記するのが普通。
ところが1980年代頃から,あえて旧字体や旧仮名に基づくふりがな表記をする例が目立つようになってきた印象があります。四条畷→四條畷 とか,安曇野(あずみの→あづみの)とか…。
背景には「地方からの情報発信」とか「地域のアイデンティティ」の主張などもあるのでしょうが,大きな目で見ると上のような流れと一致するように見えます。

ま,あれこれ言っても地名とは,何が「正しい」かではなく,結局はみんなが使っていれば「そうなっちゃう」ものなんだ,というのが私の基本的なスタンスです。
[78266] 2011年 5月 14日(土)08:06:13【1】Issie さん
Re:神奈川県の顔
[78263] N-H さん
ペリーとか。

いいですね。
肖像画は,教科書なんかに載っている写真じゃなくて,“鬼のような風貌”の当時の浮世絵。

“文化人しばり”,結構難しいですね。
横浜市だったら,森 林太郎 さんってのもあるんですが,これはこの人自身が「石州津和野人」であることにアイデンティティを持っていますから。
歴史上の人物では 坂田金時 という人も思い浮かびました。もちろん成人後の姿ではなく,童形でね。もっとも,「金太郎の故地」は足柄峠の両側に伝えられていて,金時神社は静岡県側にあるのですが。

ところで,伊能忠敬。
忠敬ネタではなく地震関係のニュースとして画面に映っていましたが,佐原市…ぢゃなくて,香取市の小野川沿いの状況もかなりひどいですね。
[78261] 2011年 5月 14日(土)01:25:38【1】Issie さん
県の顔
[78254] グリグリ さん
歴史上の人物でなければ、私は文化人を選びたい。

ああ,これは私も同感。政治家や経済人なんかは生臭いですからねぇ。
「神様」尾崎行雄も,むしろ政治家としてはあまり成功していない(特に国政の場で)から,それで“毒気”が抜けているようにも感じます。
そう言えば,尾崎は歴代東京市長の中で最も在任期間の長い市長でした。ワシントンでは桜を贈った「東京市長」として知られているでしょうし。だから,東京都に持ってかれちゃうかも。
そうすると,ついでに歴史上の人物の頼朝を除いたら,神奈川県は誰になるんだろう。

蛇足
「これで決まり」で,まあ誰も異存はなかろう高知県の坂本竜馬。
私は,ちょっと保留にしたいんですね。
世の中には竜馬にあやかりたがっている人が一杯いるんだけど,私たちが知っている(と思い込んでいる)竜馬というのは,多分に“創作されたもの”なのじゃないか,という疑念が離れません。若くして亡くなってしまったし,ナマの“坂本直柔さん”から離れて,かなり理想化されているのではないか,と。
ま,現実の姿から離れて“創られた虚像”が尊敬や崇拝の対象になっている歴史上の人物は多数いますから,それはそれで構わないんですけどね。
[78258] 2011年 5月 13日(金)23:32:44Issie さん
越後平野または新潟平野
[78256] なると金時 さん
手元の二宮書店の高等地図帳(H20)では「越後平野」なので

あまり確認しないで書いてしまいましたねえ。
私の手許にある 二宮書店『基本高等地図』(1999年度用)でも「越後平野」となっています。今年度(2011年度用)のものは職場においてあるので,今は確認できません。
以前に紹介したことのある帝国書院の復刻版(中学校用)地図帳『地図で見る昭和の動き』(2004年)では,1934年,1950年,1973年の各年版のうち前2者が「越後平野」,最後の1973年版が「新潟平野」となっています。これに関連して付録の「解説書」には,越後/新潟平野ではありませんが以下のような記述があります(引用長め)。

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山地や平野の図上での呼称の変化がめだつ。たとえば岩手県の北上川以東の山並みは昭和9年・25年版には「北上山脈」だったが昭和48年版では「北上山地」,現在はさらに「北上高地」と変化しているし,出羽丘陵も昭和48年版から出羽山地と「改称」され,阿武隈平野は同年版から福島盆地と郡山盆地に分けて表示するようになった。地名の「標準化」の流れを受けたものだろう。(p.89)

平野関係の呼称にも現行とだいぶ異なるものがある。昭和9年・25年版に共通しているが,たとえば長野県内。現行版では長野盆地,松本盆地,佐久盆地,伊那盆地などを使うのだが,旧版ではそれぞれ善光寺平,松本平,佐久平,伊那谷となっている。地元の住民はその呼び名の方が今もなじみ深く,マスコミでもそちらを使うことが多いようだ。(中略)そんな地元感覚とは別に,国土地理院や文部省が昭和30年前後に相次いで「全国に通りがよい統一表記」という方向でガイドラインを決めたので,それに従う地図が増えた。(p.92)

※筆者はいずれも 地図エッセイスト 今尾恵介
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確認はしていないのですが,むしろ最近は「越後平野」の方が“復活”してきているのかもしれません。
いずれにしろ,たびたび触れているように,小中高校で使用する地図帳は教科書検定を通過した“教科書”ですから,少なからず文部(科学)省の“指導”を受けていそうなことは想像できます。それがどの程度のものか,部外者には(執筆者にさえ)不透明なもののようですが。
もっとも最近は検定手順の「簡略化」もあって,以前よりはウルサくないらしい,という声も仄かに聞こえてきます。ただしテーマによって,たとえば“わが国の国境線”の扱いについては今の方が厳しく神経質であるように思いますけどね。
[78255] 2011年 5月 13日(金)22:41:43【2】Issie さん
半島
[78248] 星野彼方 さん
「弓ヶ浜半島」は半島なのか?

みんなが「半島」と呼んでいるなら,「半島」なんじゃないですかね。
地形としては,弓ヶ浜は“半島”全体で「砂州」の,しかも“典型例”の一つです。

そもそも「半島」という言葉(←あえて「用語」という言葉は使わない)が意味するものは極めて曖昧です。
手許に『オックスフォード地理学辞典』田辺 裕 監訳,2003年,朝倉書店 がありますが,これの「半島」の項には,

------------------------------------------------------------------------
海に向かって突き出ており,まわりをほとんど海に囲まれている,大地の一部.
------------------------------------------------------------------------

と書いてあるだけです。これは英語の辞典を翻訳したものですから,これも原文の peninsula の項を翻訳したものなのでしょう。日本語の「半島」という言葉自体,少なくとも今私たちが使っているような意味では英語の peninsula の訳語として使われているだけで,上の定義文以上の意味はないのだろうと思います。
だからたとえば,東京大学出版会の『日本の地形』シリーズ(2001年~2006年)でも「半島」という言葉については特に定義せず,“すでにある呼称”として用いられています。
ちなみに弓ヶ浜の“半島”について,第6巻『近畿・中国・四国』(2004年)で「弓ヶ浜半島」という呼称を用いながら,砂州地形について述べる部分では「弓ヶ浜砂州」と呼んでいます(p.194~198)。

以前にも話題になったことだと思いますが,“法人名”として定められている自治体の呼称や法令・例規に根拠を持つ行政上の地名とは違って,この種類の呼称には学術上の議論の場においても“唯一絶対”のものとして公式に定められたものはないのではないかと思います。
学校教育の場では,たとえば「越後平野 → 新潟平野」のように“一斉に”用語が変わったものがあって,そこに(かつての)文部省の“指導”が匂ってくることもないわけではないのですが,私自身はまだこの指導文書を確認したことがありません。仮にあるとしても,それは“教科書検定”のある中等教育段階までであって,専門家の世界,あるいは民間の経済活動に影響を及ぼすものではないでしょう。
むしろ一般社会に影響力を持つのはマスコミが採用している(かもしれない)“申し合わせ事項”のようなものかもしれませんが,そこで個々の地形について取り決めがあるかどうか。

結局はお説のとおり,“言っちゃった者勝ち”だと思いますよ。
あとは周りのみんなが追随してくるかどうか。みんなが受け入れてくれれば定着するし,無視されれば廃れていくだけ…,なのでしょう。
[78247] 2011年 5月 13日(金)20:10:10Issie さん
Re:弓ヶ浜
[78243] しんちゃん さん
駅名が「弓ヶ浜」に決まってから、半島名の「夜見ヶ浜」が「弓ヶ浜」になったことは事実ですから。

それが「事実」かどうか,疑問を提示したくて毛利元就なんぞを引っ張り出してみたんですけどね。
境線の「弓ヶ浜駅」の開業は1917(大正6)年のことであるようですが,本当にそれ以前に「弓ヶ浜」という呼称は全く行われていなかったのでしょうか。
その「なにかの本」の当該記事を提示していただければと思います。
ちなみに,(本当に呼ばれていたのなら)呼ばれていたことの証明は簡単ですが,呼ばれていなかったことの証明は,「そう呼ばれるようになった経緯」が明示された証拠がない限り,とても難しいと思います。
もともと“対象外”であるようですが,たとえ対象範囲内に入っていたとしても,それがなければ採用は無理ではないかと。
[78235] 2011年 5月 12日(木)20:32:13Issie さん
よみ/ゆみ
[78231] しんちゃん さん
ですから、(弓ヶ浜)は駅名由来の地名と言えます。

たぶん,言えません。
広く知られた話であればいいのですが,「なにかの本」では論拠が薄弱であるように思います。
ちなみに,別の「なにかの本」には戦国時代末期の毛利元就の感状に「弓浜」で合戦があったと記されている,とあります。ネットで「弓浜合戦」で検索をかけてみると,結構ヒットします。
そのうちの少なくない分は Wikipedia のコピーですからこれを省いても,複数のサイトで永禄6年(1563年)に「弓浜合戦」があったということが記載されています。大元のソースは同じかもしれませんが,たぶん複数の違ったルートをたどってきた情報に思われますから,一応 Wikipedia の情報も信用してよいだろうと思います(…それくらいしないと,Wikipedia は信用できない)。
千葉県市原市の「姉崎/姉ヶ崎」の例をだすまでもなく,「ヶ」の有無は表記上においても実際の呼称においても十分に“揺れ”の範囲内に収まります。すくなくとも,戦国時代末期には「弓(ヶ)浜」という呼称は行われてたとみて良いでしょう。
さらに「夜見」と「弓」,つまり「よ」と「ゆ」の揺れについても,よくある振幅の範囲内です。方言によっては音として「ゆ」と「よ」の区別がなく,実際にカナで表記する際にも両者を混同して区別できない(「ゆ」と「よ」が任意に入れ替わる)地方もあるのですが,音として区別のある地方でも両者はしばしば入れ替わります。
おそらくは「よみがはま」と「ゆみがはま」の両方が同時に行われていて,ある場合には「夜見ヶ浜」の方が,別の場合には「弓ヶ浜」のほうが“正式”とされているのだろうと思います。

この辺り,「弓ヶ浜駅」の名前の由来について「なにかの本」が明確に論証してくれなければ,お説は成り立たなかろうと思います。
[78163] 2011年 5月 7日(土)10:54:26【1】Issie さん
「安曇野」は木曽
[77913] の続きでNHKの朝のドラマの話。
主人公は師範学校を受験するとかで,結果は来週早々に判明する模様。私の遥かな先輩ということになるようです。“史実”では長野にあった男子の師範学校に対して女子の師範学校は松本にありました。現在の信大病院の隣り,附属松本小・中学校の敷地。師範学校の官立移管,国立大学への統合など紆余曲折を経て,教育学部は最終的に1960年代半ばに長野に統合されます(逆に入学1年目の「教養課程」は他学部とともに松本に統合されて,教養部廃止後の現在にまで至ります)。きっと,主人公は松本へ通学するんでしょうね。国有化されたばかりの大糸(南)線を使って。
※高等女学校卒業の彼女が入学するのは,後期課程2年分の「本科二部」という課程のはずですが,全寮制だったかな? 答えは,来週…。

今日の放送回では,主人公の友人が電話をかける場面がありました。昔懐かしい(“チャーザァ村”では1970年代半ばまでそうだった)電話機についているハンドルをまわして交換手を呼び出す方式の電話。「穂高の○○番」と電話番号を告げていました。
…そう,ここで“実在の地名”が登場しました。時代考証上,やはり実在しない「安曇野」は使えなかったのでしょうね。今週前半に彼女たちが初詣をした神社は穂高神社だと思われます。

オープニングのタイトルロールを見ていると,「塩尻市奈良井地区」というのが出てきます。どうも,「安曇野の町」として出てくる木造家屋の街並みが奈良井宿であるようですね。「安曇野」は木曽にあるわけだ。
オリンピックの頃以降でしょうか,最近の長野や松本の市内には私が住んでいたころには見たことがなかったような「古い街並み」が“新設”されています。小布施町も古い街並みの保存に熱心ですが,豊科にしろ,穂高にしろ,“川向う”で本来は(東)筑摩郡の明科にしろ,安曇野市には古い街並みはあまりありませんからね。
(旧制)松本高校はそのまま使える施設が残っているけど,あの「高等女学校」の建物はどこだろう。
[78140] 2011年 5月 4日(水)19:14:24【1】Issie さん
富士山が上
あの地震がきっかけで「上」からのお達しがあったのか,職場でも災害時の職員の緊急呼集体制づくりをするとかで,“公共交通機関が利用できない場合”の通勤手段と所要時間を申告するように言われました。何か泥縄的ですね。さすがに「本社」はそのあたりはきちんと体制づくりができているのですが(…でないと,困るよね),「出先」はその辺,結構曖昧で。
そうは言われても,そのような場合を考えたことがなく(以前に報告した通り,当日は“最寄りの私鉄駅”まで同僚の車に乗せてもらい,そこから歩いて帰ったわけですが),手段も所要時間も全く分からず,「(その場合には)来られません」と答えたのですが,それではあまりにツレない返事なので,3連休の中日を利用して試しに職場まで自転車で行ってみました。「本社」とは違って“暦通り”に“お客様”が来て“サービス”を提供しなければならない職場。どうせ今年は連休の並びが悪くて遠出ができないし,一度はやってみようと思っていたことでもあるから,まあいいかな,と。

基本的な予定ルートは極めて単純。
(原)町田に出て,そこから恩田川の谷に下り,あとはひたすら恩田川・鶴見川沿いに下って,綱島の新幹線のガード少しを過ぎたところで右折してヤトを上り,最後は台地の尾根道をちょっと進んでゴール。おおよそ30km弱。7里ほどということは,歩いたら昔の人なら一日行程にやや足りない,という程度でしょうか。…とても,歩く気にはならない。
で,実際に自転車で走ってみたところ,往路は“できるだけ早く着く”ことを目的にあまり休憩を入れずに走って所要2時間15分。最後のヤトの登り坂がキツかった。
復路は,そもそも川を遡るわけで基本上り坂であること,それに往路で十分疲れているので(“休憩”がてら,職場で1時間ほど仕事をしましたが…。1時間では出勤扱いにはなりませんね),あまり無理をせずゆっくり走り,途中,鴨居駅北側の工業地帯に出現した ららぽーと で食事をしながら1時間ほど休んだので,この休憩分(1時間)も含めて3時間50分。
往路では新横浜以東の台地とヤトの登り下りを避けて綱島まで大きく迂回したのですが,復路はとりあえず新横浜までショートカットしようと,尾根道を探しつつ菊名東方(鶴見区馬場)へ。けれども,やはりここで一度ヤトに下りなければならなかった。さらに菊名側の下り坂が急かつ高低差が大きくて…。往路に使うのは無理ですね。
復路の最大の難所は,恩田川の谷(町田市高ヶ坂)から台地の上の原町田への登り坂。そもそも横浜線はこの高低差を克服するために中山駅から延々と坂を登っているのです(最終的には相模原台地上の古淵駅西方まで,さらに隆起扇状地である相模原台地自体がゆるやかに傾斜しているので橋本駅西方,県立橋本高校裏の路線最高点までずっと上り勾配)。道路の場合はこれを一気に駆け上がるのだけど,どうせ自転車に乗ったままでは登れないので,自転車を押してできるだけ短い距離で登れる道を探して…。そんなこんなで,所要3時間50分。
やっぱり現実的でないことが,確認できました。
…疲れた。

[78139] k-ace さん
独特なんです。富士吉田の地図の見方、「南」が上になっているわけですが、市民にとっては、「富士山」が上にあってその下に街が広がっているというイメージです。

昔の江戸の地図も西,つまり富士山が上になっているものが多かったので,本当は「独特」というわけでもないし,「北が上でなければならない」というのは単なる“思い込み”に過ぎないのだけど,富士吉田の場合,富士山を正面に見てその手前に町が広がっている様子を考えれば,南が上である方が合理的ですね。
[78066] 2011年 5月 1日(日)12:24:01Issie さん
百々目鬼(どどめき または どうめき)
[78063] k-ace さん
他のラッピング電車も含め、西脇市出身の画家、横尾忠則氏のデザインなのですが、「目玉電車」だけは見るたびに“?”でした。

「怖い目玉電車」なんて,一瞬 水木しげる系(“鬼太郎のおやじ”ではなく,百々目鬼)を連想したんですが,“写実的な目”というのが水木さんと横尾さんの活動エリアの違いなんでしょうね。でも,やっぱり怖い。

それよりも私,迂闊なことに加古川線が電化されていたことを知りませんでした。
…ここも関電が計画停電をしたら停まっちゃうのかなあ。相模線みたいに。
[77931] 2011年 4月 25日(月)23:47:03Issie さん
赤い花なら曼珠沙華
季節外れで失礼。

[77928] 地球人 さん
むしろ、お瀧さんの方が良いかもですね。

私はお父さんより前に娘の おイネさん を考えました。
女性だと じゃがたらお春 なんて人もいますが,たぶん画像がありませんね。

神奈川県で考え付くのは

歴史上の人物なら,これはやっぱり 源頼朝 でしょう。元々は京都の人ですが。
ちなみに,誰もが知っているこの人の肖像画,実は他人らしいという説が最近では専らですよね。
[77919] 2011年 4月 23日(土)20:57:32【1】Issie さん
長崎の顔
[77917] 地球人 さん
2千円札長崎県版には、果たして誰が良いのかなと

真っ先に浮かんだのは フィリップ・フランツ・フォン・ジーボルト。「山岳オランダ出身」(←幕府役人の尋問に,とっさにこう答えたらしい)の,いわゆる シーボルト さん。
国際人としては平戸出身の 田川福松 という人もいますが(中国名:鄭成功),これはマニアック過ぎますね。
日本人で順当なところというと,「長崎の鐘」の 永井隆博士 ですかねぇ。

※追加
ちなみに神奈川県なら,「相模原市生まれ」(←大笑)の憲政の神様,尾崎行雄 と行きたいところですが,“神様”は第1回衆議院議員選挙以来,三重県から選出されていますから,あちらに持っていかれそうですね。でも,三重県には神様中の神様である「天照大神」がいますから,憲政の神様は譲ってくれないかな。
[77913] 2011年 4月 23日(土)09:10:06【2】Issie さん
安曇野
もう,ダークダックスもキャンディーズも見られなくなってしまったのですね。いつか来ることとは言え,やはり「まだ早い」という気が…(もっとも,ダークダックスはみなさん,“アラエイティー”なのですが)。ドリフが5人揃わなくなったときと同じ,寂寥感です。

さて,NHKの朝のドラマ。地震の影響で1週間遅れて始まった新作の舞台は大竹しのぶ以来,36年ぶりの松本平。
私は土曜日しか視られないのだけど,(放送用の人工的な)安曇野言葉が聞けるかな,と期待しているのですが,今のところ控え目なようで。主人公一家が“移住者”で,家族内では東京言葉をしゃべっているせいでしょうかね。この後,「松本のそば屋」に舞台が移ったら,松本弁が炸裂するのでしょうか。
※ちなみに,かなり以前に触れたことがあるように,“谷”ごとに言葉の違う信州に“統一された”「信州弁」はありません。何しろ,信州人の集まりの場で「伊那弁講座」が開かれるほどですから。その伊那谷でも,上伊那と下伊那(飯伊)では言葉が全く違います(…というより,基本的に東日本系の信州諸方言(“糸静線”沿いに特徴的な「~ずら」という語法がありますが)のうちで,下伊那と木曽だけは名古屋圏の影響を濃厚に受けています)。

ところで,主人公は今,「安曇野の女学校」に通っています。
…「安曇野」なんですね。
“史実”としては,豊科に高等女学校がありました。現在の 長野県豊科高等学校。
ドラマの中ではフィクションとして,あえて実在のものとは違う「安曇野」を称しているということで別に不自然ではないのですが,そう言えば具体的な地名として,たとえば「豊科」という地名が出てきていない気がします。「穂高」(山の名前ではなく,松本平の中の町の名前として)は登場しているでしょうか。
番組冒頭のタイトルロールではロケ地として「長野県安曇野市」が出てきます。もしかしたら,「豊科」が登場しないのは,合併で発足した「安曇野市」への配慮なのかしら。
もっとも,ここでも紹介されたように,「豊科」も明治初期の合併の際に創作された“合成による新地名”なのですが。

ただ,ここで見られるような「安曇野」の用法,つまり“面”ではなく“点”の地名として「安曇野」を用いるようになったのは,やはり「安曇野市」の発足ならではのことではないかと思います。
いや,“面”の地名としての「安曇野」も,その呼称自体はずいぶん古くからあったのかもしれないけれども,一般に広く用いられるようになったのは,それこそ大竹しのぶの「水色の時」以降なのではないか,という気がします。
それより10年ほど早い「愛と死をみつめて」で,「儚い命」のミコがマコと2人での旅行を夢見たのは「安曇野」ではなく「信濃路」ですね(…もっとも,想定された行き先は松本平ではなく,塩田平だったかもしれません。善光寺(長野)なんて辛気臭いところは想定外だったかも)。

※追加
そうそう,“ゴーサン・トオ”(1978年10月の国鉄ダイヤ改正)直前に,まだ新宿駅から発車していた「8時ちょうどのあずさ2号」で“私”が旅立ったのも,「春まだ浅い信濃路」でしたね。方向は間違いなく「安曇野」なのですが。


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