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Issieさんの記事が30件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[76854]2010年11月23日
Issie
[76831]2010年11月21日
Issie
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Issie
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[76605]2010年11月2日
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[76353]2010年10月20日
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[76344]2010年10月19日
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[76337]2010年10月17日
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[76325]2010年10月12日
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[76309]2010年10月9日
Issie
[76305]2010年10月7日
Issie
[76298]2010年10月4日
Issie
[76272]2010年9月30日
Issie
[76264]2010年9月28日
Issie
[76256]2010年9月27日
Issie
[76254]2010年9月27日
Issie
[76242]2010年9月25日
Issie
[76240]2010年9月25日
Issie
[76215]2010年9月21日
Issie
[76213]2010年9月20日
Issie
[76190]2010年9月14日
Issie
[76118]2010年8月29日
Issie
[76115]2010年8月29日
Issie
[76102]2010年8月27日
Issie
[76099]2010年8月26日
Issie

[76854] 2010年 11月 23日(火)11:20:31【1】Issie さん
東海東山地方
[76852] 伊豆之国 さん
岐阜県(美濃・飛騨)は東山道、三重県の紀伊の部分は南海道なのですが‥。逆に山梨県(甲斐)はなぜ東海道なのか、今思うと不思議なのですが‥。きっと昔は富士川の水運で駿河と深くつながっていたのでしょうか?)。

たとえば飛騨の北端の白川郷や神岡鉱山(カドミウムは日本海側へ流れて行ってしまった)で考えると,何でここが「東海」なのか不思議に思ってしまうのですが,やはり岐阜・名古屋間地域の濃密な関係から,こちらに引っ張られるのでしょうね。
鉄道網も,結局は美濃(関ヶ原)~上野(碓氷峠)間で中山道(旧東山道)とは別のルートになってしまいましたから,近代以降「東山地方」としての括りは成立しにくくなったのでしょう。東海道本線も東海道新幹線も高速道路(名神高速)も関ヶ原を通過する今,国道1号線だけが鈴鹿峠を越えることの方が不思議なのかもしれません。
私たちは,東海道と東山道(中山道)を比べて前者がメインで後者が迂回路,のような感覚を持っているのですが,古代では東山道の方がメインで,東海道はワンランク下のローカル線という位置づけだったようです。陸奥があるのは“東山道の果て”ですね。東海道が浮上するのは,海沿いルートの上に位置する鎌倉が東国の中心として勃興し,次いで小田原,江戸が関東の中心として繁栄してからのことだと思います。

さて,ここ に掲載されている「全国七道駅路図」を見ると,甲斐国府(現在の石和町,…ぢゃなくて,笛吹市)が思っているよりも東海道本道に近いことわかります。
古代の東山道は伊那谷廻りで善知鳥(うとう)峠を越えて信濃国府のある松本平へ入っていたようですが,このルートだと伊那谷から諏訪盆地を抜けて富士見高原を越え…,と意外に面倒だし遠い。となれば,甲斐国は東海道に所属する方が自然かな。
※この地図をよく見ると,甲斐国府へのアプローチは富士川沿いではなくて,富士山の東側から甲斐に入っていますね。足柄経由であった東海道の御殿場付近から籠坂峠と御坂峠を越えて甲府盆地へ入るルート。ほぼ同じルートを現在も富士急バスが走っています(富士吉田で分断されていますが)。

なお,この地図は平安時代のものであるようで(延喜式によるのでしょうか),相模国余綾郡(よろぎ。現在の大磯町付近)以東が内陸経由になっていて,武蔵国府(現府中市)へは東海道からアプローチするようになっています(だから武蔵国は東海道に所属)。けれども既にご案内のように,東海道は当初,湘南海岸沿いに横須賀の走水に向かい,浦賀水道を渡って 安房→上総→下総→常陸 の順に進み,武蔵国府へは上州の高崎付近から後の鎌倉街道と同じようなルートで北からアプローチしていたのですよね。だから,武蔵国は初めのうちは東山道。
[76831] 2010年 11月 21日(日)02:01:27Issie さん
粟島とは?
[76821] YT さん
沖縄島 / 計羅摩島 / 戸無島 / 久米島 / 粟島 / 伊恵島 / 伊是那島 / 恵平屋島
喜界島 / 大島 / 徳之島 / 永良部島 / 与論島
宮古島 / 八重山島
(スペースの都合で島名だけ抽出して改行を省略しました。)

私が興味深く感じたのは,薩摩藩が直接支配下に置いた奄美と首里王府支配下の沖縄および先島をまとめて一括りにしていることでした。もちろん以前に話題になったように,奄美(大島郡)が「大隅国」に編入されたのは明治になってからですから,「琉球(国)」の中に括らざるを得ないのでしょうが。

一部の島の名前の表記が現在と違いますが,

 計羅摩島=慶良間諸島,戸無島=渡名喜島,伊恵島=伊江島,伊是那島=伊是名島,恵平屋島=伊平屋島

ということでしょうかね。「粟島」は 粟国島?
「イヘヤ島」の表記,「エ」と「イ」が混同されていますね。それ以前に「ゑ(恵)」と「え」の区別がありません。もっとも,ウチナーグチの「標準語」であろうところの首里・那覇方言では本来,wi(ヰ)と i (イ),wee(ヱー)と ee(エー)はそれぞれ区別されるようです。ただし,よく知られているようにヤマト(本土)の言葉の“短いエ”はウチナーグチでは“短いイ”に合流して,だから「恵平屋/伊平屋」という表記の混同が起きるのですね。
首里・那覇方言には,さらに ア行・ヤ行・ワ行 について音節のはじめで“喉をつめる/つめない”というヤマトの言葉にはない区別があって,これはカナで表記することが(そのままでは)できません。ウチナーグチではなく,実際に通用している「ウチナーヤマトグチ」で区別されているかどうか,ヤマト人の私には聞き分けられませんが。

それはともかく,

[76816] YT さん
郷帳の方では完全に日本に組み込まれており、琉球が日本に組み込まれた時期について考えさせられます。

ここは少し慎重にとらえた方がいいように思います。
少なくとも,“ヨーロッパ標準”で彼らが勝手に構築した(でも近代以降の世界では誰もが従わなければならない)「国際法」に基づく“近代国家”の概念としての「領域(領土)」という感覚で「組み込まれた」と捉えるのであれば。
[76830] 2010年 11月 21日(日)01:20:06【1】Issie さん
水高もあるでよ…
[76829] おがちゃん さん
旧制高校とオフ会の関係
は完全に無くなってしまいましたね。こじつけるのも難しそうですし・・・。

大丈夫。
「ナンバースクール」(一高~八高)というシバりをはずせば,茨城県には「(旧制)水戸高等学校」がありました。そこの代打ということで。

ちなみに,「九高」所在地となるはずだったのが 松本 か 新潟。お互いの熾烈な誘致合戦が加熱しすぎて絞り切れず,結局,両校同時開校。どちらかを「九高」とすることもできず,ナンバースクールの時代は終わってしまいました。
松本の不倶戴天のライバルは長野だけではなかったのですね。
その悔しさをまぎらすためか,旧制松本高等学校の校章には放射状の線が「9本」あしらわれています。

というわけで,「九高」所在地の 松本 or 新潟 はいかが?
[76727] 2010年 11月 10日(水)00:57:43【2】Issie さん
弟の橘姫
[76725] hmt さん
妹背

親族呼称というのは,どの言語でも体系立っているように見えて結構複雑ですね。日本語の場合もそうで,本来列島内でできあがった“ピュアなやまとことば”の体系らしきものの上に,全く違った体系を持った中国語由来の漢字語が入って来て,それらが混じりあった上で改めて親族呼称の体系が再構築(中には見当違いの思い込みによる類推も含む)されたもので,やっぱり複雑です。

男から見て女のきょうだいを意味する「妹」の訓は、「いも」が本来の形で

辞書を見ると、「妹(いも)」←→「兄(せ)」とあります。

ここも年長/年少を区別する現代語の あに/おとうと,あね/いもうと とは違って,「せ」(男きょうだい)も「いも」(女きょうだい)も長幼の区別はなかったようです。必要に応じて elder/younger で区別しなくてはならない英語の brother, sisiter と似ているかもしれません。そして,これは hmt さんのご説明にある通り,異性のきょうだいに対する呼び方。「いも」は男から女のきょうだい(現代語の姉または妹),「せ」というのは,女から男のきょうだい(現代語の兄または弟)を呼ぶときの名前です。
同性のきょうだいの間では,年長者(elder)つまり 妹から見た姉,弟から見た兄 は「え」,年少者(younger)つまり 姉から見た妹,兄から見た弟 を「おと」と呼びます。
「え」という呼称は,たとえば 中大兄皇子 の「大兄:おほえ」という呼び名に見ることができます。あるいは干支(えと)の「え」(きのえ:甲,ひのえ:丙,つちのえ:戊,かのえ:庚,みづのえ:壬)。
「おと」には男女の区別なく「弟」という字が充てられました。だから,女性なのに「弟橘媛(おとたちばなひめ)」という名前が成立するのです。「おと」には「乙」という字も当てられました。「乙姫(おとひめ)」とは本来,年長の「大姫(おほひめ)」に対する“年少の娘”という意味です。そして,干支の「と」もこれに由来。
現代語の「いもうと」が「いもひと(妹人)」の転訛であるように,「おとうと」は「おとひと(弟人)」の転訛であると考えることができそうですが,この「いも」と「おと」は元は別の系列の呼称だったのですね。

さらに,「あに」「あね」は別の系列から,この体系に加わったようです。そしてこれらが混じりあい,再構築されて現代語の あに(兄)/おとうと(弟)・あね(姉)/いもうと(妹) という体系ができあがりました。その間に中国語由来の「きょうだい(兄弟)」という語が,“男用”の漢字しか使っていないのに,(日本語では)“男だけ”でなく,“女どうし”あるいは“男女混合”の場合にも使われるようになりました。その場合,「兄弟」という表記が何となくしっくりこないので,「きょうだい」と かな書き するしかない…。

そして古代に立ち戻って,お互いの間を“契(ちぎ)り合った”男女間で互いに「いも(妻)」,「せ(夫)」と呼ぶのは,このきょうだい間の呼称から派生したものなのでしょうね。で,現代の地名に現れる「妹背(いもせ)」というのは,語源である「きょうだい」ではなくて,もっぱら「夫婦」という派生的意味で使われているものだと思います。

「妹尾」の場合は「せのお」

ここで「妹」を「せ」と読ませるのも,このあたりの“複雑な事情”に由来するものなのかもしれませんね。
[76721] 2010年 11月 9日(火)19:39:10【1】Issie さん
讃美歌430番
[76711] おがちゃん さん
「兄弟姉妹」コレクション

大龍エクスプレス さんからのお知らせ([76720])にある「妹背橋」ほかの「妹背」地名ですが,具体的に「いもうとせ」と読む証拠があるのでしょうか。
というのも,普通この字は「いもせ」と読むからです。
プロテスタント系の教会で結婚式をやると必ず歌われる 讃美歌430番 がこの言葉で始まります。
「妹背(いもせ)をちぎる家のうち…」

「いもせ(妹背)」というのは万葉時代の古い言葉で「夫婦」(いも=妻,せ=夫 だから正しくは「婦夫」)という意味。古事記の“黄泉の国”のくだりでも,お互いの絶縁と対立が明らかになったイザナキ(夫)とイザナミ(妻)が,それでも互いに「愛(うつく)しき我(あ)が汝背(なせ)の命(みこと)」(イザナミがイザナキを),「愛しき我が汝妹(なにも)の命」(イザナキがイザナミを)と呼び合っています(読みと表記は岩波文庫版『古事記』倉野憲司校注による)。
これを「いもせ」と読むから,「妹背牛」を「もせうし」と読めるのですね。

だから,普通は「いもせ橋」だったり,「いもせ山」だったり,「いもせ滝」などと読むのではないかと思うのですが。
[76618] 2010年 11月 3日(水)10:26:13Issie さん
「せ」の方が“訛って”いた
今日は「憲法公布記念日」です。昔は天皇誕生日でありましたが。

[76614] 白桃 さん
夕刊紙

そのうちの1つはグループ内の朝刊紙も含めてもともと「勇まし」くて,最近はその勇ましさが結構人気あるみたいですからね。しかも,ウチだけでなく,まわりみんなが勇ましいので困ったものです。太平洋の向こうの“ねずみの親玉”も…。今日の午後には大勢が判明するようですが。

[76610] oki さん
少なくとも徳島では、「くゎ」の発音は残っていません。

チャーザァ村でも「くゎ」を発音し,しかも「か」と区別していたのは ばあちゃん だけでした。伯父・伯母の世代(大正生まれ)では,もう怪しかったと思います。
方言関係の本で,越後方言には「“開合”の区別」がある,とよく書いてあります。/アウ/由来の/オー/(開)と,/オウ/由来の/オー/(合)とを区別するもので,16世紀後半のキリシタン文献のローマ字表記でも区別して表記されている,というもの。越後方言では,前者について口を開いた“広いオー”で発音して,普通の「オー」で発音する後者と区別する,ということになっています。実際,ウチのいとこは,この“広いオー”で「なごーか(長岡)」などと発音しています(チャーザァ村は,今や「長岡市」です)。
でも,いとこや,その子どもたちはもっぱら“広いオー”ばかり使っていて,逆に“狭いオー”は使っていないように感じます。つまり,共通語の“標準的発音”と違う母音を使っているだけで,“開合の区別”はもはや行われていない,…らしい。で,さらにその“広いオー”も,“標準的なオー”に吸収されつつある。

「しぇんしぇい(先生)」

/se/ という音節については,たとえばキリシタン文書などの時代には「シェ」と発音するのが“標準的”で,「セ」と発音するのは“関東訛り”とされていたようですね。日本の中心が西の方にあった時代ですから。
いつでも「シェ」と発音している,あるいは「シェ」と「セ」が(時と気分によって)入り混じって区別が行われていない,というのなら“違う文字”で書き分ける必要はなく,「せ」と書いて俺ん所ではそう発音するんだ,と強弁してしまえばそれで済みますね。
でも,単語によってきちんと「シェ」と「セ」を使い分けているのなら,それを書き分けなければなりません。昔,ウチのばあちゃんが「クヮ」と「カ」を使い分けていたように。

ところで,

[76579] oki さん
東京都江戸川区堀江町/千葉県浦安市堀江(1~5丁目)

これは私も紹介しようと思って,思いとどまったことがあります。
江戸川区側が全部「南葛西」になってしまった,と思ったからです。改めて地図を見ると,旧江戸川の堤外に「堀江町」が残っていたのですね。
[76605] 2010年 11月 2日(火)23:07:58【1】Issie さん
まっと くゎし くえ
「清」
気になって確認してみたら,「シン」は清朝よりも早く“唐音”で入って来ているのですね。
「唐」の時代ではなく,「宋」の時代以降の発音ですが。これも仏教,というより禅宗臭い。

さらに正式には「くゎんせい」

もう四半世紀前に亡くなってしまいましたが,うちのチャーザァ村のばあちゃんは,一緒にお茶を飲んでいると,よく「まっと くゎし くえ(もっと菓子食え)」と言っていました。語頭の イ と エ の区別がなかったり,ユ と ヨ の区別のない中越方言ですが,「クヮ (kwa)」という音が残っていたのです。
私は子供過ぎて気が付かなかったのですが,三木武夫首相も「国会」を「こっくゎい」と発音するので有名だったとか。この人は徳島の方ですが,ちょっと前までは「くゎ」という音がまだ聞けたのですね。
でも今はどのくらい残っているんでしょうね。

そのような発音が行われていないとすると,これは表記上の問題ということになります。すでに現代仮名遣いでは認められていない表記ですね。でも,固有名詞だから許されるのかな。
現代仮名遣いのルールに従えば“普通名詞”では許されない「あづま」「あづみの」も固有名詞だから許されるわけで。

※…でも,本当は「個々人の(名前の)表記」について許されているのであって(「現代仮名遣い」前書き3),公的機関による公式名称,つまり地方自治体による公式地名には許されないと思うのですよ。だって「法令,公用文書」(同前書き1)に正しく準ずるものなんだから。本当は「あづみの」を「正しい」とするなど,“お役所”としては許されないはず…,なんじゃないかなぁ。
でもまぁ,現行の「現代仮名遣い」はあくまでも「よりどころ」(同前書き2)だから…。
[76598] 2010年 11月 2日(火)21:31:37【2】Issie さん
冬の元気なご挨拶
[76597] ぺとぺと さん
「せいしん」が一般的な呼び名なのだと認識を改めていたからです。

「清」を「シン」と読むのは伝統的な日本語の“音”にはないイレギュラーな読み方ですから,奈良時代以来の“漢音読みを公式の読みとする”という原則からすれば「せいせい」であるべきなのでしょうけどね。でも,この「原則」には数えきれないほどの例外があって,そもそも「平城京:へいじょうきょう」というのが漢音ではありません。ただし,「平城時代」(奈良時代)に「へいじょうきょう」ないしは「へいじやうきやう」と読んだかどうかは,わからないのですが。
「シン」という読み方は,やはりお隣にあった「清国」「清朝」でなじんだおかげなのでしょう。学校で教わる戦争の名前から,油屋さんやラーメン屋さんの名前でも親しんでいますから。それでわざわざ「せいしん」を選んだのか,いつの間にかそうなっちゃったのか,どちらなんでしょう。

洛西(「らくせい」と「らくさい」)

清朝がらみで,私は永らく「西大后」を「さいたいごう」と読むのか「せいたいごう」と読むのか悩んでいました。
「西:セイ(漢音)/サイ(呉音)」では,「関西大学」と「関西学院」のペアーが有名です。どちらが「かんさい」で,どちらが「かんせい」か,“東夷”(あずまえびす)には区別できません。
[76361] 2010年 10月 22日(金)00:00:29【3】Issie さん
がんばれ,がんばれ,スワローズ!
今日は,土曜日の部活の振り替えで午後お休み。そこで横浜駅ビルでお昼を食べた後,京急の「空港急行」(←正式名称忘れた)に乗って羽田に行ってみました。ところが,肝心の京急蒲田の前後で寝てしまって…。せっかく快特をやりすごして急行に乗り,蒲田の折り返しを体験しようと思ったのに。気を取り直して,本日開業の新駅で下車。本日オープンの施設へ。
電車から降りてエスカレーターに乗り,施設の3階(出発フロアー)に行くまでは人少なめ,と思ったのですが,3階にあがったらやっぱり人がたくさんいました。平日とは言え,初日だからでしょうかね。
4階のレストラン・売店フロアーは「江戸風」の街並み。日本料理のメニューに併記されている説明的な英語が面白いですね。ここは人でいっぱい。でも,高い。超円高の昨今,安いドルを持って日本に来たあちらの方,手が出せるのかしら。
…なんて思いつつ歩いていたら,カメラを従えた着物・おしろい姿の若い女性が…。でも,どうもよく見ると舞妓さんみたいなんですよね。江戸だったら,「おいらん」か,せめて「ゲイシャ」の方が,欧米人のステレオタイプなエキゾチシズムにアピールすると思うんですけどね。今日はまだ,欧米方面からの便は乗り入れていませんが。

というわけで,12チャンネルの番組も東京モノレール([76357] k-ace さん)。

[76357] k-ace さん
多くの鉄道ファンも同じように感じているはず

私は別に感じないんですけどねぇ。
「つばめ」が東海道の看板列車から九州南端の特急列車になって久しい今さら,「さくら」の“格”を語られてもねえ。「みずほ」だって,それなりに重みのある名前だと思いますよ。「はやぶさ」が“北”にとられてしまったこともあるのでしょうが。
「さくら < みずほ」を問題にするなら,何で「つばめ < さくら」状態に文句を言わないのか。ただの「特別急行」に過ぎない「桜」(←どんどん“現代表記”に改めましょう。同じ漢字です)に比べて,「燕」は「超特急」ですよ。どっちの方が“格”が上だか。
地元の異論は尊重しても,「おたく連中」の訳知り顔な“雑音”は放っといていいよ…なんて,私はこの「異論」の方に反発を覚えます。
[76355] 2010年 10月 21日(木)00:52:32【1】Issie さん
エロイムエッサイム まわれ地獄の魔法瓶
[76354] 伊豆之国 さん
Day Dream Believer

何か言い訳めくのですが,私はリアルタイムでは知らないのですよ。後から聴いて知ったのです。
ちょうど我が家にテレビがなかった(であろう)頃に放送された「宇宙少年ソラン」や「レインボー戦隊ロビン」を再放送で知っているように。先ごろNHKで話題になった「悪魔くん」も…。
それにしても,"Day Dream Believer" はどうも何年か周期で町に聞こえてくるようですね。最近もCMで流れていたような。

ご当地グルメ

私はSAを全く考慮しないで,「ローメン」の伊那市を連想しました。食べたことはありません。ザザ虫なら食べましたが。ソースカツ丼は,駒ケ根市ならぬ望月町(現佐久市)で食べました。蛇足ながら,みそカツは「県副都」の学食の定番メニューでした。一応,名古屋圏でもあるのですね。某大学の“第n公用語”は名古屋弁でした(当時)。

島崎藤村の故郷・中津川市

これ,違和感ありますね,思い切り。
そもそも第1回目の越県合併(1958年)で旧神坂村が中津川市に編入されたとき,馬籠地区が長野県に残って山口村に編入されたのは,藤村の故郷(馬籠)を岐阜県に渡したくない,という声が強かったから,なんて言われています。藤村は「信州人」。時代が新しすぎて「信濃の国」の5番で歌ってもらえませんでしたが(←当たり前!)。
その山口村が,今回まるごと中津川市に編入されてしまったので,いかんともし難いのですよね。でも,同じ文学者でも一応はあった(?)当時の知事は,まだこだわっていましたっけ。
[76353] 2010年 10月 20日(水)19:38:32【1】Issie さん
[76349] 白桃 さん
F市

市長選や合併話には関心がないので私にはヒントにならないのですが,後の説明文を読むと,きっと「ねずみの町」だと思いますよ。
位置関係上,「隣市」というのは1つしかありませんね。遥かな昔から合併話はあったはずで,それでも独立を保ってきて,あんな姿になっちゃったんですけどね。
「隣市」も文豪や文化人に人気で,一瞬「G市」かと思ったんですが,市長さんはもっと月給をもらってそうです。

ところで,ねずみの町。大阪の類似施設にも行ったことがありますが,私はどちらも好きになれません。アトラクションに余計な情報が大杉。何で物語の中に入らなければならないのか。もっとのどかに遊んでいたいのに。
これは,ねずみの町と引き換えに,なじみの遊園地が閉園されたことへの恨みでもあります。
[76344] 2010年 10月 19日(火)01:57:20【2】Issie さん
181
何でも,京葉線にはまだ201系が残っているようですね。「水色の電車」として。
やはり,あのニュースは「中央線から一時代を築いた赤い電車が引退する」というものなのでしょう。…でも,101系でも103系でもない,“次の世代”の電車だから。

[76343] 星野彼方 さん
11月6日にはNHKで盛大に取り上げていただけると信じています。なんてったってこっちは全国で最後ですから。

これは「おたく度」が高すぎて,無理なんじゃないでしょうか。
「はまかぜ」がなくなってしまうならともかく,新型車両(※)になってそのまま走っているのだから,“カタギの方々”には区別がつかないのでは…。

実は私も正直,ディーゼルカーの181系には思い入れがありません。これが電車の181系なら,思いっきり思い入れがあるのですが。ディーゼル特急なら,やっぱり80系(キハ81形か82形)。所詮,181系は80系の亜流,なんて思っちゃったりしてますから。

同じころ,電車化された「はつかり」が1日だけ復活した,なんてニュースもありました。これが81系ディーゼルカーならね…。
やっぱり,新青森行きの(超)特急は「はつかり」の方がよかったな,なんて思うのでした。

※後で調べてみたら,「はまかぜ」に投入されるのは本当に新しい形式なのですね。でも,やっぱり普通の人には大した違いではないと思います。山陰線からディーゼル特急が姿を消す,という話なら普通の人にもアピールすると思いますが。
[76337] 2010年 10月 17日(日)20:14:48【2】Issie さん
「赤い国電」ラストラン?
鉄ネタ。

数日前に朝日新聞(東京本社版)に掲載されて,むしろ「まだ走っていたのか」という感想の方が強かったのですが,中央線を走っていた「赤い電車」(201系)がいよいよ引退するという話。今日がその日だったのですね。豊田から松本まで臨時列車として走るのだけど,実はこれは回送兼用。そのまま長野工場(←今は何と呼ぶのか?)まで走って解体されるのだとか。
で,それをNHKの7時のニュースで伝えていました。
なぜか泣いている若者は置いておいて,毎日通勤で乗っていたという年配の方は感慨深げでしたね。また「時代」が1つ回った…,というわけ。

でもねえ,大阪に行ったら201系どころか,環状線を103系が走ってますよね。たかだか30年前に登場したばかりの新参者の201系よりも年季の入った正真正銘の「赤い国電」。オリジナルからだいぶ姿が変わっていて,関東人としては非常に違和感があるのですが。
6時45分の関東ローカルニュースならともかく,7時の全国ニュースでとは,今に始まったことではないけれど,相変わらず東京の価値観による東京中心の情報発信です。
まあ,「モハ90系」として登場した後の101系が“赤く”塗装されて最初に中央線に投入されてから50年余り。その中央線から引退,というのはそれなりにニュースバリューのあることではあるのでしょうが。
[76325] 2010年 10月 12日(火)21:37:11【1】Issie さん
経済とは反対に,サッカーの実力では日本の方が「新興国」のような気がするのですが(歴史はともかく),「頂上」なんでしょうかねぇ。まあ,工業力では今やあちらも「互角」ですから,こちら側のサッカーもそうなのかしら。

[76324] 伊豆之国 さん
Day Dream Believer

「湖」のまわりで行われる大イベント。前回は甲子園の某球団に関連する年(実は今年)。次回はこのタイトルに関連する年ですね。
[76309] 2010年 10月 9日(土)23:20:39【4】Issie さん
厩戸皇子 ナザレのヨシュア(イエス)
[76308] hmt さん
「ルカによる福音書」

聖書はユダヤ教とキリスト教,さらにイスラム教でも教義の根本とされる経典ですが,同時に“歴史書”としての性格も持ちます(特に旧約は)。もちろん,わが国の「正史」である日本書紀の記述をそのまま“歴史的事実”として読むことができないのと同じく,あるいはそれ以上に“事実”との照合が必要なのですが。

わが国の国勢調査のマスコットは センサスくん。今年で20歳の成人だとか。この名前は国勢調査の英語名 census (センサス)に由来するわけですが,その語源はラテン語の「ケンスス」(綴り同じ)です。わが国の世界史界では「戸口調査」と訳されることの多いこの名詞,さらにさかのぼると censeo という動詞に至り,手許の "Pocket Oxford Latin Dictionary" には count という英語の訳語が真っ先に載っています。要するに「数えた」のですね。このケンススの実施を担当したローマの行政官が cencor(ケンソル)。現代英語では同じ綴りで「検閲官」という意味になっています。

では,ケンソルが何を“数えた”かと言うと,ローマの市民権保持者の数を数えて,元老院議員や騎士の名簿を改訂していたのだとか。市民の身分や地位の付与・剥奪にかかわる権限を持っていたことから,共和制ローマにおいてはコンスル(執政官)経験者が任命されるものであったそうです。で,その選出が5年ごと。

イエスが生まれたとされる頃のパレスチナは紀元前1世紀末にローマの支配下に入り,ローマの宗主権の下,ヘロデ王が統治をしていました。カエサル暗殺後の権力闘争に勝ち残ったオクタヴィアヌスが「アウグストゥス」(←八月 August の語源)として初代ローマ皇帝となって(ただし彼を「皇帝」と呼ぶのは後の時代からの解釈であり,彼の称号である Principatus(プリンキパトゥス)は「ローマ市民の首位者」というほどの意味です。後から「元首」という意味が肥大化したのですね )下した勅令により,ヘロデ統治下のパレスチナでも戸口調査が行われたのですね。
このページ (pdfファイル)の p.23 によれば,この時の戸口調査は「土地税と人頭税からなる統一的な財政組織」を設定するためのものだったようです。どちらかというと徴税目的であったらしい。ローマ市民権を持たない植民地人は徴兵の対象ではなかったかもしれません。
ただ,戸口調査に当たって「本籍地」に戻らなければならないというのは,ローマによる征服以前から,エジプトやシリア(パレスチナを含む)で(当時から数えて)2000年,あるいはそれ以上前から行われていたものだそうです(弓削達『世界の歴史5 ローマ帝国とキリスト教』河出書房新社,p.16)。

ところで,キリスト教的には イエス・キリスト の「誕生日」(←これ,本当は正しくありません。詳しくは後述)は西暦紀元1年の12月25日(パレスチナをはじめとする西アジアの習慣では暦の1日は前日の日没後から始まる。だから,キリストの降誕ミサ=クリスマスは12月24日の日没後から始まる)ですが,現在では一般にイエスの生年は 紀元前4年 とされています(念のために,「紀元0年」はありません。紀元1年の前年は紀元前1年です)。根拠の1つは「ルカ伝」にある戸口調査が紀元前4年に行われたとされていることにあるのですが,実はこれには歴史的な裏付けはないようです。ただ,その他の情報も突き合わせると,どうも「紀元前4年」でああるらしい,ということ。ヘロデ王の没年とイエスの生年が同じ年で,その没年が紀元前4年であるとされていることも,根拠とされています。
しかし,「紀元前7年」説もあります。要するに,たかだか植民地人の「大工の息子」の正確な「戸籍」が残されるはずもないので,“歴史的事実”がわかるはずもないのでしょう。
ちなみに 12月25日 という日付にも根拠はありません。キリスト教以前の冬至の祭りとの関連が多く指摘されています。そして,1月1日は12月25日の1週間後(8日め)。これはユダヤ教の決まりで生まれたばかりの男の子が割礼を行う「8日め」に相当します(イエス自身,そしてそれ以上にイエスの両親(ヨセフ,マリア)は「ユダヤ教徒」として行動しています。イエスはやがて「異端」に走るのですが)。
1年が「January 1st」から始まるのは,December 25 がクリスマスとして確定したからですね。8世紀のこととされています。もともと,ローマの暦では December が「10番目の月」という意味であるように2ヵ月遅く March 1st を年初としていたのは,よく知られていますよね。
そして,キリスト教では「クリスマス」は「キリストの降誕を祝う日」であって,「誕生日」と認定しているわけではない,というのが“公式見解”なのだとか。別にこの日に誕生したわけでなくてもよくて,とにかく(いつだか別に詮索はしないけれども)この世界に降誕したことを祝うのが12月25日,ということみたいです。
[76305] 2010年 10月 7日(木)23:57:59【1】Issie さん
長作町飛地
[76301] 伊豆之国 さん
千葉市花見川区長作町の飛地

1970年代までにあらかた整理されたと思っていたのですが,まだ残っていたのでしょうかね。

Mapionでは「千葉長作局」の文字が邪魔でわかりにくい箇所があるのですが、YAHOO地図でははっきり飛地と判断できます。

国土地理院の 数値地図2500(空間データ基盤) ではこの「飛地」は無視されています。どうも,この数値地図の行政区分に関するデータの詳細さは市町村によってバラつきがあるようで,やたら細かい「飛地」を拾っているところがある一方で,結構大雑把に処理しているように思われるところもあります。

見たところ,問題の飛地は畑なんでしょうかね。市境となっている道路は元々千葉市に(次いで習志野市に)編入される前の幕張町(村)内の大字実籾と長作の境,さらにさかのぼって明治の大合併以前の実籾村と長作村の境で,おそらくかなり以前からあった道なのではないかと思うのですが,道を越えた村の領域の出入りというものもあったのでしょうか。まさか,道幅半分だけ実籾村,などという芸の細かいことは明治時代に行われたとは思わないのですけど。

小学校に上がったばかりの1970年ごろ,初めて習志野市の市街図(昭文社の都市地図シリーズ)を買ってもらったのですが,当時の地図には習志野市の屋敷町と花咲 対 千葉市幕張町の市境のあたりで相互に飛地が幾らか残されていました。旧幕張町が千葉市と習志野市に分割されたときに,元は1つの大字(明治の大合併以前の1つの村)であった 馬加 を無理やりに分割したからですね。以前に紹介したことのある,農地の所有関係で 千葉・習志野 のいずれの市に帰属するかを決定する,という“但し書き”の主たる対象はこの区域だったと思います。
元は1つだった村(大字)を2つに分ける,というのは難しいのですよね。座間市の 座間・座間入谷,鎌倉市の 腰越・津 のように相互の領域が極端に錯綜しているのには,このようなパターンが多いようです。
話題の 実籾村(幕張町大字実籾) 対 長作村(同大字長作) の場合は,元々別の村でしたから,もう少しスッキリしていると思うのですが。

さて,改めて地図を見ながら現地の様子を想像してみるに,私が自転車で走り回っていた35年前とずいぶん変わってしまっているようですね。当たり前のことではありますが。
一方で,私の住んでいた埋立地の辺りはあまり大きく変わっていないようです(我が家の前の海が陸地になった,という大変化がありますが,それは私が住んでいた時にすでに始まっていたことでした)。
…先頃話題になった 阿武松部屋 なんてものもありませんでしたが,それは蛇足。

今度,久しぶりに見に行って見ましょうか。
[76298] 2010年 10月 4日(月)01:18:54【1】Issie さん
緊急地震速報
最近,福島,新潟と,関東の周辺で(関東自体ではない)やや大きめの地震が続いています。
某ポータルサイトのコメント欄なんかでは,最近の「異常気象」とあわせて(ついでに政治状況も)何か天変地異の前触れではないか,なんて不安が語られたりしていますが,そこはどうだかわからない。ただ,たかだか120年しか生きられない私たちと,誕生以来46億年の地球とでは時間のスケールが違うのではないか,と…。

さて,9月29日17時頃の福島県の地震では,私の携帯電話も「緊急地震速報」を受信しました。何か電話が鳴ってるな,と思ったら…。久しぶりのことなので,呼び出し音を忘れていました。
「久しぶり」…ってのは,前に2度ほど受信していて,これが確か3度目だから。
初めて受信したときは直後に本当に地震が来て,携帯電話の有用性を初めて実感した,なんてことをここにも書かせていただきました。2度目は悪評高い“打ち間違い”。地震は来ませんでした。

今回の速報でも,受信後しばらくたっても職場(横浜市)では揺れが来ず,気象庁のページを見たら最大震度は「4」。これは,今回も打ち間違いか,と思っていたら,後から現地調査をしてみたら,実は震源の近くでは「震度5弱相当」の揺れだったらしい,というニュースが流れてきました。「天栄村」の震度は「3」と発表されているのですが,これは村役場のある辺りでの揺れ。震源に近い 湯本地区 が地震計の空白地域であるために,それが記録に現れなかった。で,公式発表で最も揺れたのが,郡山市や須賀川市などの(市役所ではなく)合併された旧町村役場付近で記録した「4」,ということになるらしい。

ところでこの地震,最初に「福島」と聞いたとき,私は震源を福島県沖と考えたのですが(緊急地震速報が出されるくらいだから,プレート境界型の大地震と思いました),震源は内陸部でした。その日のお昼にも前触れの地震があって,翌日(30日)も余震があったらしい。…と思ったら,30日の夜には,今度は「福島県沖」で地震が発生しているのですね。しかし,29日の地震は“直下型”。本当に揺れのひどかった場所には間に合ったのでしょうか(理論上,直下型地震の震央付近では間に合わないような気もするのですが,これはやむを得ない限界だと思います)。

昨日(10月3日)は新潟県上越地方で地震がありました。今回は,こちら(相模原市)には緊急地震速報は届きませんでしたが,最大震度が「5弱」と気象庁の発表にも記録されてNHKの番組が中断しました。今回は“地震計の網”に引っかかったのですね。5弱を記録したのは,上越市牧区柳島と清里区荒牧でした。元の牧村と清里村の役場の位置です。
ところがNHKが映像を映していたのは 直江津港 と思しき風景でした。そして,「各地の震度」画面の地図で「5弱」の赤丸が打ってあったのは,たぶん 春日山 の市役所のあたり。
確かに,最大震度を記録したのが上越市であるのは確かで,それを市役所の位置で代表させるのも「あり」だと思うし,短時間で旧牧村や清里村まで入るのは無理だから,直江津や高田の風景を使うのも「あり」だと思うのですが,でも何となく釈然としない気持ちがあるのも事実です。何か,どこかに齟齬があるような。
ちなみに,気象庁発表の上越市中心部(高田大手町)の震度は「4」でした。
[76272] 2010年 9月 30日(木)01:15:01Issie さん
いはくにまりふ
[76265] 白桃 さん
岩国(対:麻里布)

[76270] にまん さん
稼ぎ(人口)はあっても所詮は息子

私も にまん さんに同意見です。

1897年に山陽本線(山陽鉄道)が開業した時,海岸沿いを走る鉄道を河口の上流にある岩国市街まで引き込むことができなかったので,やむなく 麻里布 に駅を設置したのですが,駅名は「岩国」としました。現に駅が所在する場所の名前でなく,近隣の大邑の名前を称してその玄関口となるのは,“川向う”の厚木駅,新潟駅,そして三田駅と,きわめてありふれた話です。

ところが岩国の場合は,大正・昭和期に山を越えて徳山への短絡線が建設されることとなり,第一弾として岩国市街の最寄までの路線が1929年に開業しました。こちらが本線になることが予想されていたから,市街地最寄りの新線の方に「岩国」の名を譲り,従来の岩国駅はその所在地から「麻里布駅」に改称しました。短絡線は1934年に徳山まで全通し,こちらが 山陽本線,従来の海岸経由が 柳井線 と改称されました。

それなのに,山陽線の特急・急行列車は山越えを嫌ってせっかくの短絡線(山陽本線)を通過せず,従来のまま海岸(柳井線)経由で運転され,「岩国駅」には停車せず(通らないのだから),「麻里布駅」にばかり停車していました。
列車運行上は,完全に 麻里布 にお株を奪われていたのですね。
結局,1942年に 麻里布駅 が再び「岩国駅」を名乗ることとなり,短絡線上のそれまでの 岩国駅 は「西岩国駅」と改称しました。さらに,1944年には「山陽本線」自体が元通りに海岸(柳井)経由となり,短絡線は「岩徳線」と改称されました。

「麻里布駅」が「岩国駅」に戻れた背景の1つに,1940年に 麻里布町 と 岩国町 が合併して「岩国市」が発足したこともあるようです。
この合併で「麻里布市」が選ばれることは,…まず選択肢にはなかったでしょう。要は人口(稼ぎ)だけで物事が決まるのではなく,言ってみれば“格”の面で明らかな開きがあっただろうと思います。「麻里布駅」を,わざわざ「岩国駅」に戻したくなるほどの…。
[76264] 2010年 9月 28日(火)22:35:16【1】Issie さん
館山
[76262] 白桃 さん
しかし、安房のもとは阿波だったとは・・・アワワ・・・

馬琴さんもそう言っているし,古代にこの地を支配した「阿波国造」の由来もそのようになっている,とても古い時代からの言い伝えなのですが,それが歴史上の「事実」かどうかは必ずしも定かではありません。
もちろん,過去に hmt さんが何度も紹介されているように,たとえば紀州と房総の間に密接なつながりがあったであろうことは多く指摘されていることですから,さらに足を延ばして四国の阿波とのつながりがあっても不思議ではないのですが。

[76253]
「市制施行前に館山北条町を名乗っており、しかも当時は旧北条町の人口が多かったのに、どうして館山市と言う名前になったの?」

館山駅も当初は「安房北条駅」という名前でした。北条にありますからね。1946年に「館山駅」と改称されたようです。「館山北条町」が「館山市」になるのが1939年だから,戦争をはさんで7年(正確には6年半)のタイムラグがありますね。

なぜに「北条」ではなく「館山」が選ばれたか,という問いに対する館山市の公式の答えがあればいいのですが,私はそれを知らないので勝手な憶測をすると,たぶん,「北条」よりも「館山」の方が知られた地名だったのではないか,と考えます。

まず,館山は戦国時代の里見氏の城下町でした。「里見」などというローカルな戦国大名,普通はみんな知らないはずですが,それを馬琴さんが空前のベストセラーで世間にあまねく知らしめてくれました。ただし,「南総里見八犬伝」はあくまでもフィクションであって,史実とはだいぶかけ離れているようです。でも,史実をフィクションが凌駕することはよくある話で,少なくとも「八犬伝ゆかりの地」として「館山」はそれなりに知られていたのではないか,と思います。あくまで,南房総ローカルな中心地である「北条」よりも。
ちなみに,戦国末期に房総の覇者であった里見氏は豊臣・徳川の両者から支配圏を狭められて安房一国に押し込められ,江戸時代最初の年号(慶長)が変わらないうちに改易されてしまったので,館山が近世城下町であった期間は最初期のごく短い間だけでした。田沼時代の天明年間に「館山藩」が復活しますが,それは1万石ほどの極小藩(里見氏の時代は安房一国で12万石)。これが廃藩置県まで続くけど,“城下町館山”とは言い難いものがあります。

もう1つ。「館山」は海軍航空隊の基地として知られていました。時代が時代ですから,こちらの要素の方が大きかったかもしれません。
航空隊が設けられたのが1930年。その後も館山には海軍の施設の集積が進んでいきました。北条ではなく,もっぱら館山に。
そんなわけで,むしろこちらとの関連で「館山」の地名が広く知られていたものと思います。

「館山市」の誕生は,実は中国で苦戦していた陸軍に比べて,まだ海軍は無傷で元気だった1939年。「名」という点では,館山の方が北条よりもずっと上を行っていたのではないか,と推測しています。
[76256] 2010年 9月 27日(月)22:27:58【1】Issie さん
太田裕美 または 大瀧詠一
[76255] ニジェガロージェッツ さん
この鉄道,以前[76254]Issieさんが行かれた頃とは違うルートで走っており,近年はうちの街を通っています。

そうでしたか。確かに私が乗った時には首都の終着駅と同じ名前の町を通過しました。
世界地図上ではやたらと目立つけど,実際に越えてみるとそれほどでもない山脈(話題の町から湖の近くの町までの区間で越える山の方がはるかに険しい)のあたりから西でルートがいくつかあるみたいですね。

実は私はこの鉄道を利用した時,どこを通過するのかよくわからないままに乗車していました。
事典などではよく,この鉄道の西側の起点を山脈東麓の町としていて,それならば今は「別の国」になっているところを通過するのかな,と期待していたのですが(この掲示板的には「連邦構成共和国の“経県値”」が1ポイント増える?),残念なことに地理の教科書に昔はよく出てきた石油の町を通って,結局は同じ共和国内を通過しただけに終わりました。
もっとも,こちら側を通過しても車内で寝ているか,せいぜい駅のホームに降り立って,ヒマワリの種か,ギョーザみたいな肉饅頭などを買うぐらいで,“▲”としても怪しいものではあったでしょうが。
[76254] 2010年 9月 27日(月)21:00:40Issie さん
近江俊郎 または 三波春夫
[76251] 淡水魚 さん
逃亡先

前にも話題にしたことがあるかも知れませんが,私も行ったことがあります。国の名前が今のようになる前に。8月の初めでしたが,気温は30度くらいありました。全然涼しくない。首都に行って初めて気温9度という寒さを経験しました。天気の回復した翌日は首都も暑かったですが。私が首都に滞在したちょうど1年後(同じ日付)に,世界史的な大事件が発生しました。

川の下をくぐるトンネル

調べてみるまで,トンネルがあるなんて知りませんでした。有名な独裁者が掘らせたんですね。私がこの河を渡った時には単線の鉄橋を両方向で共用していたように記憶しています。この町を出たばかりの列車が鉄橋の手前で停まってしまい,しばらく待たされたんじゃなかったかしら。これは大きなボトルネックだな,と思っていたのですが。

緯度のためか夏時間のためなのか

この国はもともと年中“夏時間”で,まわりの国より時計の針が1時間進んでいます。その上,夏には“本当の夏時間”を実施しているので,都合,夏時間を実施していない国と同じ経度帯で2時間の時差が生じます。さらに緯度が高いので…,というわけですね。
この町から新潟または成田空港への飛行機の出発時刻と到着時刻を見ると,ビックリしますね。
[76242] 2010年 9月 25日(土)10:38:15Issie さん
津久井郡
[76240] を書いていて改めて思っこと。

ご案内の通り,4月の相模原市政令指定都市移行・区制実施で旧津久井郡4町の区域は旧市域北部の橋本・大沢地区といっしょに「緑区」となりました。住居表示から旧町名が省かれ,行政上は緑区の下位区分として 城山・津久井・相模湖・藤野 という単位は残るものの,日常生活の上で意識される場面は減るでしょう。特に新住民にとっては。
緑区役所の所在地は橋本。明治以来,津久井郡役所→地方事務所→…→県政総合センター所在地として郡の中心であった 中野 は,旧津久井町の中心としては機能し続けるでしょうが,郡全体の中心としての地位を取り戻すことはないでしょう。
市郡の境界がなくなった今,旧城山町は橋本との一体化を一層深めていくものと思われます。もっとも,相模川を越えた上に地形上開発の余地がほとんどない「湘南」地区は微妙ですが。旧相模湖・藤野2町の区域は元々八王子方面,さらに中央線・中央道を介して東京方面への指向が強いし,相模原市編入で旧市域へのつながりが従来より少しは強まったとしても,中野は素通りしてしまうだろうと思います。

こうして考えると,「旧津久井町」という単位は今後も残るでしょうが,旧4町全体の総称としての「津久井(郡)」という地理的な単位は急速に薄れて消えていく,今がちょうどその始まりの時点なのではないかと,ふと思い立ったのでした。
[76240] 2010年 9月 25日(土)01:24:06【3】Issie さん
立川駅前
[76238] k-ace さん
立川駅前

駅前の景観という点では,やはりモノレールという巨大な構造物の有無が大きな決め手になるのかもしれませんね。
北口側はモノレールの開業以前と以後で,目の前をふさぐモノレールそのもの(と,旧立川基地跡地南東隅の再開発地区)を除けば実はそれほど大きな景観の変化はないのですが,南口側は激変しました。元は「裏口」然として,ロクな大きさの広場もなかったこちら側に,バスターミナルを備えた駅前広場が整備され,広場をめぐって大きなビルが林立するようになったのですから。

※本来,立川の古くからの中心は駅の南側にあるのですが,駅の出口は永らく北口側がメインでした。何より,旧陸軍施設,次いで米軍基地を抱えた“基地の町”として,戦前・戦後を通じた「昭和」の時代,立川の実際の中心は駅の北側だったのでしょう。

実は,南口の駅前広場はモノレールの開業時点ではまだ整備が完了していませんでした。JRの南口とモノレールの立川南駅との間の区画の用地買収が完了しておらず,まだ立ち退きが済まずに営業を続けている店舗がある区画のそばをすり抜けるように両駅間のペデストリアンデッキを先に作ってしまうなんて,けっこう乱暴なやり方をしたりもしていました。今ではきれいに撤去されて,そこに建物が建っていたことが想像しにくくなってしまいましたが。

立川駅前だけみるととても17~18万人都市とは思えません。30~50万人都市に見えます。

唯一の例外を除いて“昭和の大合併”以来全く合併の行われていない…どころか,昭和の大合併でもあまり合併の進んでいない北多摩地域のことですから,個々の市の規模は小さいですよね。立川駅前の景観も,やはり“立川市単独”のものではないでしょう。日野市の北部(浅川以北)や武蔵村山市,何より青梅線を介した昭島・福生・羽村市,さらに青梅市やあきる野市まで“引力”は及んでいるでしょうか。それらを後背地とした上での“あの景観”なのだろうと思います。

対する八王子の場合,同じ市内の由木(堀之内・南大沢)地区は,編入当時はともかく現在では多摩市(多摩センター,聖蹟桜ヶ丘)の勢力圏に組み込まれているように感じます。さらに,かつては都県境を越えて力を及ぼしていた相模原市北部(橋本地区)や津久井南部(城山・津久井)も八王子から離れて,橋本が独自の商業中心として成長してきました。今,八王子駅前の引力が働いているのは八王子市の,それも分水嶺を越えた(どちらも多摩川水系なのだけど)由木地区を除いた区域のみ,という印象があります。かつてのような「多摩地方の中心」(もっと以前は「神奈川県北部の中心」)ではなく,八王子市のローカルな中心,という感覚。
昔は勢力圏内にあった立川,橋本,町田(原町田)などが次々と“独立”していった今,南口再開発でどれだけ盛り返すことができるか…。

ところで,モノレール。
客観的なデータに基づくものではなくて,あくまでも私の感覚による独断によるものなのですが,立川駅の北側はいいとして,南側の日野市南部(浅川以南)や多摩市の住民を立川に呼び込むことに成功しているかというと,どうなんだろう? という疑問があります。
元多摩市民であった感覚でいうと,山を1つと川を2つも越えたところにある立川,モノレールが結んでくれても,やはり「遠い」という感覚は消えません。それにあのモノレール,遅い(ように感じる)し…。

おまけ。

経県値の「宿泊」の定義

睡眠をとろうがとるまいが,そこに“滞在”して一夜を過ごせば,私は「宿泊」と数えます。ただし,交通機関で移動しつつ一夜を過ごしたら,それは「宿泊」とは数えない。
こんな感じです。
[76215] 2010年 9月 21日(火)00:03:12【3】Issie さん
しか
[76214] いっちゃん さん
う~ん、わたしゃ高架駅だと思うのですが・・・。

そういえば,牛のお寺ではなく,鹿のお寺かも知れませんね。
だったら,高架だ(あたしゃ,地平駅時代しか知らないけど)。
「北端」でもあるし。

※なぜか,タイトルが「鹿」という漢字を受け付けない。
[76213] 2010年 9月 20日(月)23:05:32Issie さん
[76212] ペーロケ さん
JRは高架駅となっており

間違っていなければ,ホームは地平にあって駅舎がそれをまたいでいる「橋上駅」ではないかしら。
[76190] 2010年 9月 14日(火)22:28:20Issie さん
山静神
[76189] inakanomozart さん
山静大会

「山静神」というのも,あるにはあります。「さんせいしん」と読むらしい。

神奈川県の松沢知事が積極的で,他の2県の知事との間で「山静神サミット」という会合を2006年からやっています。始めた頃は盛んに宣伝していたのが最近はあまり聞かなくなったなと思ったけれども,ひっそりとやっているみたいですね(去年の記事)。今年もやるんでしょうか。
もっと地道な実務レベルでは,3県の防災担当部局で「災害対策山静神連絡会議」なんてのが組織されて継続的な取り組みが行われているようです。
でも,お役所の中だけ,…でしょうかね。

「山静神」でググってみると,どうも神奈川県のページ(と,松沢さんのページ)ばかりが良くヒットします。この間に山梨県の知事も静岡県の知事も替わっているし,一番積極的そうな神奈川県の松沢さんも替わってしまったら「山静神」という呼称も自然に廃れていくのかな,なんて予感もします。

松沢さん,「知事多選禁止条例」なんてものを作ったから,私はてっきり“三選禁止”と思って来年の知事選挙に立候補しないんだろうと思い込んでいましたが(現在2期目),よく見たら「三選まではOK」という条例でした。なら,来年も立候補するのかな。
※そもそも,当選回数で立候補の権利を制限するのは憲法上疑義がある,なんて意見がついて,地方自治法の改正を待って施行,ということになっていたはずだけど,その後どうなったんだっけ?
[76118] 2010年 8月 29日(日)23:10:15【2】Issie さん
小説・琉球処分
本当は別の本を探すつもりで講談社文庫の棚を見ていたら,たまたま新刊本で表題の本が目に留まったので買って読みました。

 大城立裕 『小説 琉球処分』

講談社文庫としては新刊なのですが,もともとは1959~60年に「琉球新報」に連載された古い作品なのですね。まだ米軍統治下にあった時代の。で,1968年に講談社で単行本化される際に末尾を書き足したとのこと。それがこの時期に文庫化されたというのも,だいぶ意味深なものであるようです。文庫本解説を 佐藤優 さんが書いていることも含めて。

お話は,廃藩置県後の明治5(1872)年5月,「鹿児島県」から派遣された役人が首里近郊の村を視察しているところから始まります。

[76048] hmt さん
翌明治5年正月に 鹿児島県が琉球に派遣した 伊地知貞馨らが 明治維新の変革を説明した

この 伊地知 がこのお話の最初の登場人物の1人です。そして,

伊江王子朝直を正使とする一行は、明治5年9月14日に参朝して上表文を奉呈。これを嘉納した明治天皇から賜った 詔勅 には、「琉球藩王と為し華族に列す」という文字がありました。

ここから,琉球王府の王族・士族たちと日本政府から派遣されてくる役人(伊地知貞馨→松田道之→鍋島直彬)との“堂々巡り”(いくら繰り返しても前に進まない)の攻防の果てに1879(明治12)年の(第2次)琉球処分に至る過程が描かれています。あとがきによれば,新聞連載当時は首里城明け渡し前夜までで連載打ち切りとなり,単行本化の際に前藩王・尚泰が東京に向かうまでの(またも繰り返される全く同じ構図の)攻防から日清戦争直前までの部分が書き足されているとのこと。

当事者たる琉球の王府は、明治4年7月の廃藩置県で鹿児島藩から(理論的には)開放された(かもしれない)ことを知らず、また 11月の第一次府県統合布告により、(新)鹿児島県の管轄下になったことが明文で規定されたことも知らずに 過ごしていたと思われます。

全くこうした状態から,

国王尚泰は、「薩摩の附庸」であった地位から、「琉球藩王」として「藩屏」つまり直轄の地位になった。
従来から将軍の代替わりの時に江戸に赴いてきた慶賀使節のつもりで上京したのに、少し様子が違う。
でも、元々「ノーと言える琉球」ではないし、格が上がったと受け止めて、単純に喜んだのかもしれません。

「格が上がった」というよりも「薩摩の重し」が取れたと思って,やはり単純に喜んでいたものが,だんだん様子が違うことに気がついて戸惑いを深め,日本政府からつきつけられる要求に何も決められずに最後は警察力を伴った松田「琉球処分官」に押し切られる琉球藩高官の姿は,読んでいて実にじれったく思いました。
最初に紹介したとおり,この作品の作者は沖縄の人であり,最初に発表されたのは米軍統治下の沖縄の新聞でした。沖縄の人の側から見た琉球処分と言えるかもしれません。恐らくは,松田道之が帰任後にこの間の公文書等をまとめた「琉球処分」に多くをよっているのでしょうが。
沖縄県にようやく町村制が施行されるのが1908(明治41)年。ここまで引っ張ることに立ち至った背景がわかる気がします。

ところで,

[76048] hmt さん
結局は 外務省の漸進案 が採用され、琉球に居た伊地知を通じて、琉球王府に対して、新政府への使節派遣を 求めました(6月24日)。

とあります。このお話の中で日本側の在現地機関は 鹿児島県(旧鹿児島藩)在番奉行所 → 外務省琉球出張所 → 内務省琉球出張所 → 沖縄仮県庁 と名前を変えてゆきます。1872年に使節派遣を求める達し文を発したのは 鹿児島県参事 の大山綱良,東京で使節の応対をしたのは 外務卿 の副島種臣,そして藩王冊封後の「琉球藩」を当初管轄したのは「外務省」だったのですね。
1872年段階では「内務省」はまだありませんでした。地方行政を含めた民政一般は 大蔵省 の管轄で大蔵卿は大久保利通。ただし,大久保たちは岩倉使節団の一員として外遊中だったので,留守政府で実際に大蔵省を切り盛りしていたのは大蔵大輔の井上馨だったと思われます。この政府が1871年11月の(第1次)府県統合を進めたのですね(作業が10月末に始まってますから,路線自体は大久保大蔵卿が敷いたのかもしれませんが)。
外務省管轄だから「外国」だとは単純には言えませんが,大蔵省管轄の大隅(または鹿児島県)以北と違う扱いであったことは確かでしょう。ちなみに,北海道および(当時は日本領で“も”あった)樺太を管轄する「開拓使」は他の“省”と同格という位置づけでした。
副島外務卿と交渉をして琉球藩の「国体」についてそれなりの“言質”を得て喜んでいた琉球側は,「明治6年の政変」で副島が失脚(辞職)したことで最初の不安を抱きます。そして,大久保が内務省を創設すると琉球藩も外務省から移管されて,以後,大久保内務卿と最後には「処分官」となる松田が一方の主役となることになります。最後にコマを進めたのは大久保暗殺後に内務卿となった伊藤博文でした。

もう1つところで,このお話に登場する琉球側の人物のほとんどは,「王子」「按司」「親方(うぇーかた)」「親雲上(ぺーちん)」,「里之子(さとぬし)」,「筑登之(ちくどん)」という“位階”を持っています。極めて困窮して行商人や薩摩系寄留商人の雇用人となっている若者も含めてほとんど全員。つまり,農民などの庶民はほぼ全く登場しない。要するに,一連の過程で日本政府の方針に強く抵抗したのは,琉球人口のうちのごく一部である士族階級の者(さむれー)だけだった,という描き方をしているのですね。実際,そうだったのかもしれません。
このあたり,士族階級をどのように評価するかというのも結構重要な問題かもしれません。

琉球(沖縄)の日本への「併合」の歩みについて,これもたまたまか,意識してか,NHK教育テレビの「歴史は眠らない」シリーズ(火曜夜10:25~10:50)が7月のテーマとして取り上げていました(小森陽一「沖縄・日本400年」)。放送はもう終わってしまいましたが,テキストは今でも本屋さんで売っています。ざっと通し読みするのにちょうど良い本だと思います。
(6月のテーマ:ひろさちや「智慧の結晶 お経巡礼」と一緒の冊子。こちらも面白い。)
[76115] 2010年 8月 29日(日)21:26:22【1】Issie さん
Re:県庁所在地経県値のギャップ対策
乗ってみましょうか。

都道府県県庁所在地ギャップ対策
北海道札幌市0
青森県青森市0
岩手県盛岡市0
宮城県仙台市0
秋田県秋田市0
福島県福島市3猪苗代町
茨城県水戸市2鹿嶋市
栃木県宇都宮市2日光市,那須塩原市
群馬県前橋市2渋川市
埼玉県さいたま市0
千葉県千葉市2習志野市,市川市
東京都新宿区2多摩市
神奈川県横浜市1相模原市
新潟県新潟市0
富山県富山市0
石川県金沢市0
福井県福井市0
山梨県甲府市1鳴沢村
長野県長野市0
岐阜県岐阜市1高山市,白川村
静岡県静岡市0
愛知県名古屋市0
三重県津市0
滋賀県大津市0
京都府京都市0
大阪府大阪市0
兵庫県神戸市0
奈良県奈良市0
和歌山県和歌山市1田辺市
鳥取県鳥取市0
島根県松江市0
岡山県岡山市0
広島県広島市0
山口県山口市0
徳島県徳島市0
香川県高松市0
愛媛県松山市0
高知県高知市0
福岡県福岡市0
佐賀県佐賀市2有田町
長崎県長崎市0
熊本県熊本市0
大分県大分市0
宮崎県宮崎市0
鹿児島県鹿児島市0
沖縄県那覇市0

私,ネットで予約をするようになるまでは駅の旅行センターで宿を確保することが多かったので,県庁所在地に泊まることが多かったのですね。だから,両者であまり差がない結果になるかと思ったのですが,思い起こしてみると意外に差がつきました。
生後数ヵ月も「居住」としてカウントするなら(合併後の)長岡市も ◎ で新潟県が1ランクアップするのですけどね。でも私は「地震」は経験していないはずです。

[76108] ぺとぺと さん
落書き帳メンバーの中でも珍しいと思われる熊野市

熊野市は私も ○ です。上の田辺市(当時は本宮町)の ● もその時のもの。この時は,鳥羽市と熊野市と五條市が ○,伊勢市と志摩市と田辺市(本宮町)と十津川村ほかが ●。学生の時の“巡検”によるもの。その前の年には 土庄町:○ という実績があります。

※伊香保はいつの間にか渋川市でしたね。まるっきり失念。
[76102] 2010年 8月 27日(金)01:51:15Issie さん
サイバラ曰く「ツッツー」
[76101] suzutai さん
○姫川

私も去年この辺りに行ってきました。

中央構造線

この区間では「糸魚川・静岡構造線」(糸静線)ですね。
中央構造線は,諏訪湖から伊那谷の1本東の谷を通って伊勢湾を渡り,雲出川-紀ノ川から淡路島の南岸をかすめ,四国の吉野川をさかのぼって九州まで続いています。
厳密には 姫川の谷=糸静線 ではなくて,すこし東または西にずれています。さらに,松本盆地の西縁(北アルプス側)ではなくて,東縁(パッとしない犀川丘陵側)を通って諏訪湖から,静岡方面へのびています。

プリンスショッピングセンターへ行きましたが、こちらも凄い人。滋賀県にもアウトレットができましたが

最近できた滋賀県のアウトレットモールはたぶん関係ないと思いますが,もともと軽井沢を開発した「プリンス関係」の創業者は滋賀県ととっても関係が深いですよね。
[76099] 2010年 8月 26日(木)11:44:39Issie さん
準急
[76098] N-H さん
これ、千葉駅の配線が今の構造になる前の話ですよね?

そうですね。ところが,千葉駅が現在地に移転したのは1963年。当時,房総を走っていたのは「急行」ではなく「準急」でした。国鉄が準急を廃止して全部「急行」に格上げした時には千葉でのスイッチバックはなくなっていたけど,大網でのスイッチバックがあったので一周運転には問題がなかった,という次第。
実は私が“房総東線”改め“外房線”に初めて乗ったのは電化・改称直後の1972年夏で,土気‐大網間の旧線跡と“千葉駅にそっくり”な新・大網駅がとても印象的でした。
もちろん,私も旧・千葉駅の時代なんて知りません。

東京地下線内でのATSだかなんだかの装置の関係

「国鉄で初めての地下鉄」にはいろいろ制約があったようで,最初に房総特急用として設計された183系が,当時の特急電車では当たり前のスタイルであったボンネットを持たない理由の1つが地下乗入れにあったとか。その後の国鉄特急電車では“ボンネットなし”が標準になりましたけどね。

習志野高校が夏を全国制覇

私,優勝パレードを見に行きました。朝日新聞の紙旗を持って。
でも,今考えると少し複雑です。
あのイベントは,本質的には「運動部の全国大会」に過ぎない。それが「紙旗」が象徴するような新聞の販促活動と一体化していることが問題なのですが。とりあえず,彼らは「学校の代表」ではあっても,「郷土」を代表させる必要はないと思って,だから“少し距離を置いて見よう”と思っているのでした。


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