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hmtさんの記事が5件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[90538]2016年5月25日
hmt
[90536]2016年5月24日
hmt
[90534]2016年5月22日
hmt
[90517]2016年5月18日
hmt
[90506]2016年5月12日
hmt

[90538] 2016年 5月 25日(水)13:08:57hmt さん
美鈴湖
[90537] 伊豆之国 さん
スケート場の中に長野県にある「美鈴湖」というのが載っていたのを覚えているのですが

かつての美鈴湖には 30cmもの厚さの氷が張り、昭和50年代までは滑走できたようです。人工のリンクでは浅間温泉国際スケートセンターがあり、日本で一番良く滑る高速リンクとして定評があったようです。
しかし 湖畔の国民宿舎「レイクサイド美鈴」は経営不振のため閉鎖。浅間温泉国際スケートセンターも 2011年に42年の歴史を閉じたとのことです。

スケートセンター跡地には、2015年6月に美鈴湖自転車競技場が完成しています。朝日デジタル
松本市のセールスポイント。日本一標高(1000m)の高い自転車競技場。気圧が低く、小さい空気抵抗で好記録が期待できる。

江戸時代から存在した農業用溜池で 「芦の田池」と呼ばれていた。デイラボッチ(巨人)の足跡という伝説がある。地図
昭和になって大改修。1953年に美鈴湖と改称。
ダム湖コレクション 未収録。信濃川水系【女鳥羽川>奈良井川>犀川>千曲川】です。

地図を見ると新婚旅行先の浅間温泉・里山辺の近くでしたが、記憶は全くありません。
松本市内には「美須々」という地名もあり、意味と結びつきにくい「みすず」の 多様な表記の存在を思わせます。
[90536] 2016年 5月 24日(火)15:17:48【1】hmt さん
水篶刈る 信濃の真弓 吾が引かば…
[90510] 伊豆之国 さん
上田土産「みすヾ飴」の名として使われた「みすず」について少し調べてみました。

先ずはタイトルに記した万葉集の歌ですが、みすヾ飴本舗 飯島商店の 説明ページでは、「み薦刈る…」となっています。
賀茂真淵が「水薦苅(みこもかる)」は「水篶苅(みすずかる)」の誤りとしている【コトバンク参照】ことでもあり、この記事のタイトルでは「みすず」の表記を「水篶」としました。

飯島商店の説明によると、信濃国の枕詞に使われて親しまれてきた「みすヾ」は 、ササの一種の スズタケ(篠竹)であり、ブナ林の下に群生する植物となっています。【別名】スズ。ミスズダケ。

私が「みすず」という言葉に出会ったのは 60年前で、『アフリカの内幕』[70231]を出版した みすず書房であったと記憶します。

長野県上伊那郡美篶村(みすずむら)という自治体があったことを知ったのは 最近のことです。
調べてみると、明治8年 当時の筑摩県に 伊那郡美篶村として誕生しており、翌年には長野県。
郡区町村編制法>町村制の施行により上記の自治体になり、昭和合併で伊那市美篶になるまで存続しました。伊那市中心部と高遠との間です。

明治生まれの村名「みすず」について 洞泉寺 のお話も紹介しておきます。
遠方の人に住所を伝えるときに苦労する「美篶」という字の由来。 高遠藩の学者に頼んだところ、万葉集から拾って 水篶を美篶と表記したとのこと。
「水篶」という表記から、「みすず」は水と関係のある湿地の植物であるように思われてきました。

「みすず」の利用法について、これがスズタケならば、その同類であるネマガリタケのように筍を 食用とするのかと思っていました。
しかし、調べてみると「水篶刈る」という作業の目的は全く違うもののようです。

意外なことに 植物由来の「みすず」は、古代製鉄の原料として利用された褐鉄鉱であり、その植物もササではなく、ヨシなど水辺の植物のようです。

未読ですが、真弓常忠:古代の鉄と神々という本があるようで、その本を引用したページを元に 記してみます。

それによると 「み」は美称。「すず」はヨシなど 水辺の植物の根に付着した褐鉄鉱の塊で、砂鉄たたら製鉄 よりも低い温度で精錬する 原始的な製鉄技術に利用された。

褐鉄鉱の正体は、水中の鉄イオンを集めて酸化エネルギーを得る 鉄バクテリアの代謝生成物で、中空の鉄鉱塊を振ると、その中に残された小さな塊が音を出す。これが本来の「すず(鈴)」でした。
根元に「すず」が付着した植物を刈り取るから「みすず刈る」信濃…ということのようです。
スズタケ説が出たのは「みすず」という言葉から でしょうが、水辺で褐鉄鉱を作る植物としてはヨシの他にマコモ等の可能性もあり、「水薦(みこも)」が誤りとは言い切れないような気もします。

信濃以外にも同様の植物由来褐鉄鉱があります。有名なのは 豊橋市高師が原台地の 高師小僧 で、愛知県指定天然記念物になっています。

信濃からは更に離れますが、この古代製鉄技術に関する資料・ 古代褐鉄鉱精錬の可能性もリンクしておきます。
一口に枕詞と片付けてしまえばそれまでですが、「みすず刈る」という言葉には、意外な背景があるようなので、書き留めた次第です。

上田の「みすヾ飴」本舗に戻り、飯島商店の歴史の概略。
明治初期までは北国街道沿いの米屋。屋号は「油屋」。明治21年鉄道開通。駅に近い現在地に移転。
明治33年に東京深川近郊の洪水。大量の冠水米が発生した農家を救済するために澱粉に精製して水飴を製造することを考えました。その水飴を森永太一郎が創業したばかりのミルクキャラメルに販売。
米屋から飴屋になった飯島は、明治の末になると水飴に信州特産の果汁と寒天とを加え、「みすヾ飴」を作り出すことにより、原料メーカーから脱却しました。

誤記訂正のついでに:
松本市の「美鈴湖」、「美須々」など「みすず」の異なる表記について[90538]で言及。
[90534] 2016年 5月 22日(日)17:44:43hmt さん
高麗郡 1300年
[90530] k-aceさん
埼玉県日高市で高麗郡建郡1300年記念祭が行われている

1300年前、716年というと奈良時代初期の遠い昔のことなのですが、そこに至った経過を調べてみると、現代世界に影を落すトラブルの前例となるような歴史が見えてくるような気がしたので、少し記してみます。

先ず、「こま」という地名について。
市区町村変遷情報・埼玉県を見ると、1896/4/1「入間郡, 高麗郡, 比企郡の一部 の区域をもって入間郡を設置」とあり、更に1955/2/11には入間郡 高麗村, 高麗川村の合体により日高町が発足しています。これが1991年には日高市になり、現在に至っています。
東京都狛江市、山梨県南巨摩郡など「こま」という地名は他にもあります。甲斐国は昔の4郡のうち西部が巨麻郡でした。
その他、河内国大県郡や若江郡にも巨麻郷があり、山城国相楽郡に大狛郷、下狛郷があります。

「高麗」は朝鮮半島の国名ですが、4~7世紀・三国時代の「こま」と 10~14世紀の王氏「こうらい」とは読み方で区別されます。高句麗と書けば前者のことであり、以下慣習に従って 高句麗(こうくり)の表記を用いますが、高麗の自称は 6世紀には 中国からも正式名と認められていたようです。
高麗神社(後出)本殿の扁額には小さく「句」の字が彫り込まれており、高句麗を示しているそうです。

高句麗は半島南部の百済・新羅と共に朝鮮の三国時代を作りました。
最盛期だった5世紀における高句麗の版図は 半島の主要部から満州南部に及ぶ大国でした。

その満州南部(現在の中国・吉林省)に広開土王碑という巨大な石碑があり、現物は 2004年にユネスコ世界文化遺産に登録されています。
文字の記録がなかった時代の日本を伝える記録として比較的信頼できるのは中国の歴史書ですが、卑弥呼が登場する『魏志』倭人伝の3世紀と 倭の五王が登場する『宋書』倭国伝の5世紀の間が欠けています。
「倭」が何回も出てくるこの石碑は、4世紀の倭国の動きを伝える重要な同時代遺物として重視され、研究が進められているようです。拓本1拓本2拓本3

391年に即位した高句麗広開土王は 中国北朝と戦って遼東に勢力を伸ばし、南は百済の首都漢城近くに迫り、百済王を臣従させるなどの事蹟を挙げました。同じ391年には倭国による朝鮮進出が始まり、新羅や百済を服属させるなどしたが、404年高句麗領に攻め込んだ倭軍を高句麗軍が撃退した等のことも記されているようです。

中国南朝の『宋書』等にも5世紀以後に「任那」が登場し、倭国が半島南部に持った拠点もこの頃からと思われます。戦前の日本が 大陸進出の歴史的根拠にしようと意図した 神功皇后の三韓征伐伝説 との結びつきはともかくとして、朝鮮と日本との間には 長期間にわたり、戦争・外交・文物伝来・移民など、種々のの関係があったようです。

高句麗と日本が敵対関係にあった5世紀までは戦争捕虜、友好的になった6世紀以降は文化的交流、高句麗滅亡後は難民・亡命者といったところでしょうか。百済・新羅とはそれぞれ違いますが、これも文化交流・難民などその時々での動きがあったわけで、仏教や書物・文字だけでなく、農業や職人の技や医薬など、生活に欠かすことのできない多くの文化が朝鮮から伝えられたと思います。
一例として、高麗駅前に立っている将軍標の写真を示しておきます。

『続日本紀』には、今年から 1300年前の 霊亀2年(716年)に 武蔵国に高麗郡が置かれ、東国7ヶ国に住む高麗人1799人が当地に移住した と記されています。この時代になると、日本も歴史時代に入っており、「変遷情報」が残されているわけです。

入間郡を分断する形で設置された高麗郡について播磨坂さんが投げかけてた疑問に始まるスレッドについては、hmtマガジンを御覧ください。
その入間郡と高麗郡とは、郡制施行に先立つ明治29年に統合されました。

この時のリーダー・高麗王若光を祭神とする高麗神社は、出世明神として知られているようです。
若光の名は、その50年前の 666年に来日した高句麗国の使節の名「玄武若光」としても記録されています。高句麗滅亡で帰国できなくなった難民集団なのか? はじめ相模国に渡来して大陸の先進文化を広めたという技術集団なのか? 両者は同一なのかもしれず、よくわかりません。参考

高句麗は5世紀の最盛期を過ぎると百済・新羅に南部の領土を奪われ始め、中国北朝を牽制するための外交政策も必要になってきました。しかし、南朝の陳は北朝の隋に滅ぼされ、高句麗は 北方の強国である突厥(トルコ)と結びながら、隋の攻撃を防ぐ立場になりました。

隋は高句麗遠征に失敗して滅びたものの、今度は後継の唐が新羅と組んで百済を滅ぼし(660)、白村江の戦い(663)では百済の残存勢力を援助した倭国軍も撃破。
この敗戦により 唐からの侵攻を受ける可能性のある 危ない状態に陥った倭国。首都の内陸移転(近江京)を含む防衛体制の整備をなんとか完成。壬申の乱(672)を経て倭国から日本国への転換を進めることになりました。

唐は引き続き 高句麗に出兵し、668年には遂に高句麗滅亡。
戦後処理の間には新羅と対峙する場面もあったが和睦が成立。新羅による半島統一が実現しました。
新羅と言えば、新座市や志木市になっている旧・新座郡の前身である 新羅(しらぎ)郡は、高麗郡設置から48年後の 758年(天平宝字2年)に設置された武蔵国で最後の郡でした。

高麗郡1300年を機会に、高句麗国の歴史を振り返ってみました。
現在ここには世界中でも異彩を放つ政治体制の国があります。穏やかなプロセスで「普通の国」になってくれることを希望するのですが、下手をすると世界秩序に混乱をもたらすことになります。
戦争はもちろんですが、経済崩壊による難民発生も困ります。
中国や韓国が恐れるのも、ヨーロッパを目指すシリア難民の群れが極東で再現することでしょう。
渡航手段の乏しい時代でも、高句麗や百済の滅亡後には多数の難民が海を渡ってきました。
高麗郡の事例は昔話で済まないように思われ、こんな記事を書いてしまったのでした。
[90517] 2016年 5月 18日(水)13:09:49hmt さん
大きな人口異動を伴う境界変更 (4)東葛市の75日
東葛市という名をご存知でしょうか? 
昭和合併時代の1954年、千葉県東葛飾郡柏町など4町村の合体により登場した市ですが、由来である東葛飾郡には 既に市川・船橋・松戸・野田の4市が誕生しており、5番目なのに今更…という市名です。
そして、この名で存続した日数は僅かに75日で、市区町村雑学 短命の市 の第3位に挙げられています。

やはり曰く付きの履歴がありました。
そこには シリーズのタイトルである 大きな人口異動を伴う境界変更 が関係していました。
変遷情報を見ると 短期間に4回も登場しています。下表は変遷情報の表記をやや改めており、1950年国勢調査に基づく東葛市→柏市の人口と その増減【注】とを付け加えてあります。

日付変更種別自治体名変更対象/変更内容東葛市の人口異動
1954/9/1新設/市制東葛市←東葛飾郡 田中村, 柏町, 土村, 小金町41504
1954/10/15境界変更松戸市←東葛市の一部-7139
1954/11/1編入東葛市←東葛飾郡富勢村の一部+4108
1954/11/15改称柏市←東葛市38473

東葛市~柏市誕生ものがたり~にも 4町村合併に反対運動があった旧・小金町の帰属についての記載があります。副知事から提示された無投票分離で決着。
柏との合併を議決した議会と異なり、住民の意向は明らかに松戸志向で、投票するまでもなかったようです。
松戸市に境界変更した地域の人口【注】は 7193人で、旧・小金町【1950年国勢調査7326人】の大半でした。
【注】人口データ出典
[81919]にリンクされている昭和55年調査報告書の「PDF2」をクリックすると 55ah02b.pdf が出ます。その末尾近く31/32コマの注16) 最終行には「29.10.15 東葛市の一部(7139)が松戸市に編入」と記されています。
総務省告示に基づく変遷情報詳細と併せ、境界変更の地名と人口異動とを知ることができます。

この7139人は [90105]西武町の記事で シリーズタイトルの「極端な事例」と紹介した5155人を更に上回っており、1950年国勢調査以降に行なわれた「市町村の境界変更」の中で 史上最大の人口異動であると考えられます。
「政令指定都市の行政区改変」に関しては10万人規模の人口異動もありますが、これは考慮対象外です。念のため。

富勢村編入に伴う4108人も かなりの規模の人口異動でした。昭和合併に際して 富勢村の意見は 我孫子町と柏町とに分かれており、結局分村編入することになりました。こちらは「廃置分合」として扱われるので、「境界変更」の通常の用法からは外れます。

それはさておき、シリーズタイトルの主役である 松戸市への境界変更に話を戻します。
Web内には、公的なデータだけでなく、60年以上前から語り伝えられた話も伝えられていました。
境界変更の実態を探求する目的を持つ私達にとっても 興味ある歴史が伝えられていると思われるので、幻の東葛市をリンクしておきます。
松戸市立図書館には 詳しく書いた書物があると紹介されています。

小金町を挟んだ松戸と柏との三角関係は、地元では有名な話かと思いましたが、60年を経た現在では 人々の記憶から失われつつあるようです。千葉県議会議員をされている方【当時は幼稚園】のブログによると、家でも学校でも聞くことなく育ったようでした。
[90506] 2016年 5月 12日(木)13:19:10hmt さん
Re:県の石
[90505] MasAka さん
千葉石はあくまでも千葉石であって、当該記事でみのるさんが紹介したトベルモリー石とは全く別の鉱物です。

フォローしていただき有難うございます。
[86292]に記されていたトベルモリー石の産地(南房総市平久里)は千葉石の発見地(南房総市荒川)の近くのようですが、別の鉱物であることを理解しました。シンポジウムの『千葉石の地質環境』には 次の記載がありました。
千葉石は,現在のところ,最初に発見された南房総市荒川地域の限られた露頭でしか見いだされていないが

ついでに
『日本の新鉱物と千葉石』に記されていた都道府県名の付けられた鉱物の補足

「石川石」Ishikawaite の産出地は 福島県石川郡石川町の石川山産であり、都道府県名由来というわけではないようです。参考

「愛媛閃石」 Ehimeite という鉱物名も一度は承認されたが、命名規約の変更で短寿命で終わったとのことです。出典
和名としては「愛媛閃石」も通用しているのかもしれませんが、学名ということになると、国際ルールとの関係もあり、門外漢が軽々しく発言することができないような気がします。


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