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eiji_tさんの記事が5件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[45248]2005年9月30日
eiji_t
[45237]2005年9月29日
eiji_t
[45218]2005年9月29日
eiji_t
[45200]2005年9月28日
eiji_t
[45179]2005年9月27日
eiji_t

[45248] 2005年 9月 30日(金)07:24:14eiji_t さん
十番勝負 他
[45238]グリグリさん
了解しました。
[42272][44320]グリグリさん
の記事や、
[45056]愛比売命 さん が指摘された
[31483]グリグリさん
の記事を先に読んでいたら、別掲示板の提案をしなかったと思います。
ただ私の提案に、沢山の方のご意見が聞けて参考になりました。ありがとうございました。
十番勝負に挑む方、がんばってください。

[45239]グリグリさん
実は心配していたのですよ。
[45022]グリグリさん
オフ会ツァーの後遺症でちょっと疲れています。
の後、短い記事一つ書いて、その後沈黙を守っていたので、病気になられたのかと…
忙しかったのですね。安心しました。
[45033]eiji_t
の※印以下の訂正の要求の記事、削除出来ないでしょうか?
30時間以内に訂正されていれば自分で削除するつもりでした。
[45237] 2005年 9月 29日(木)22:09:31eiji_t さん
江戸時代の地図と茨城
江戸時代に何故か茨城ゆかりの地理学者や地図製作者や探検家が輩出しました。
今月17,18日水戸で開かれた日本地理学会に因み、県内の博物館や資料館が連携して茨城出身の地理学者たちが紹介されています。
大洗の幕末と明治の博物館など。
 
高萩出身の長久保赤水は、「伊能図」より約50年早く縮尺と経緯線を導入した最初の地図、いわゆる「赤水図」を作りました。ただ赤水は伊能忠敬と違い測量は殆どせず、情報を収集して赤水図を作り上げました。赤水図は江戸時代に多くの人々に利用されました。
土浦の沼尻墨僊は日本で始めて折り畳み式の地球儀を作りました。
その他「間宮海峡」の間宮林蔵(伊奈町)、鷹見泉石(古河)など。

[45234][45236] hmt さん
が詳しく説明してくれた伊能忠敬も13歳の頃から、土浦の寺や医家で算術や医術を学び、後の地図製作の基礎を培った言われています。

水戸学を基礎に、蘭学を取り入れて先進的面を見せた水戸藩士も、幕末には「桜田門外の変」の水戸浪士や「天狗党」など破壊的役割を果たしただけでした。
[45218] 2005年 9月 29日(木)07:47:49【1】eiji_t さん
かな表記 公式では「おう」地元では「おお」
茨城県日立市に残る町名「会瀬」、明治22年の町村制施行まで村、その後高鈴村、助川町、日立市の大字。
『常陸風土記』に拠りますと、奈良時代まではこの辺りは広く「遇鹿郷あいがのさと」と呼んでいた。
その後海岸辺りだけ遇鹿の遺称「相賀あいが」の地名が残ります。
徳川光圀が元禄11年に「相賀」を「会瀬」と名付けたそうです。
前にも書きましたが、茨城県には黄門様が名付けた、あるいは黄門様由来とされる地名が沢山残っています。真偽は「?」。

識者は「会瀬」は「逢瀬」に通じ、「おうせ」が正しい、と言います。
地名辞典、地図、郵便番号簿などでは「おうせ」、日立市の見解も「おうせ」。
でも地元では「おおせ」に馴染がある。
公的機関では、会瀬に在る保育園の正式名称は「日立市立おおせ保育園」。
茨城大学工学部の留学生の為の寮の名は「おおせ国際寮」。
仮名で「おおせ」の名称を付ける店舗の数3。「おうせ」は無し。
地元の祭りの名称は「おおせ夏祭り」「おおせ秋祭り」

おおせ保育園中退、会瀬小学校卒業の私も「おおせ」派。
牛山牛太郎さん編集の「海岸」コレクションでも「会瀬海岸」の読みは「おおせ」、
出典は何処でしょうか?

全国でも「会瀬」の地名は他に無し。「会」を使った地名の読みも「かい」「え」「あい」の3種類だけ。
例外は兵庫県美方郡村岡町川会(かわい)。これは「かわ・あい」の音便で「あい」に入るでしょう。

※追記
「会」を使った地名を調べていたら「会社町」という地名を発見。
福岡県田川市大字奈良 会社町
参考HP:・・デジカメ持ちある記・・>地名!?>会社
由来は不明とのこと。炭鉱と関係あるらしいのですが、どなたかご存知の方は?

※2字追加
[45200] 2005年 9月 28日(水)18:30:47eiji_t さん
地名の読みが昔に戻った小さな例
現在の茨城県日立市中成沢町2丁目の小字に「上の内うえのうち」という地名がありました。
戦前にそこに日立製作所の社宅が出来ると、社宅の新住民たちは「かみのうち」と呼ぶようになりました。旧住民たちは始めは「うえのうち」と訂正していましたが、いつしか「かみのうち」が定着するようになりました。
住居表示変更で「上の内」の地名も無くなり、社宅も取り壊され「上の内」の名はバス停の名だけになりました。しかしバス停には「かみのうち」とルビが振ってあって、バスの車内放送のアナウンスも「かみのうち」でした。
そこで地元の有志が立ち上がってバス会社に掛合い、ついに読みを訂正させる事に成功しました。バス会社にしても、バス停の文字を塗り直す、車内放送の録音テープを一部変更するだけで費用も大してかからずに済んだ事が受け入れた理由でしょう。
日立市も『市報』に経緯を含めバス停呼称変更の予告記事を掲載しました。異例とも言うべきでしょう。平成2年の事です。

現在同地区には「上の内」という名を使った建物がアパートと会社の寮の二つ。どちらも読みは「かみのうち」らしいです。誤った読み方が一度定着すると訂正は難しいということでしょうか。
でもバス停だけでも昔の読みに戻させた有志たちの努力は無駄ではなかったと思います。
[45179] 2005年 9月 27日(火)08:38:07eiji_t さん
お遍路+シメジ
[45157]88 さん
結願おめでとうございます。

私は20年前の夏、お遍路まがいの四国放浪をしました。白衣、納め札、納経などをせず(何故か恥ずかしかったのです)船で入った高松から順路で1ヶ月余り、途中をはしょり(24^26,38^40,山の札所など)寄り道をしながら、約1ヶ月殆ど野宿でした。まがいものでも「お接待」を受け、四国の方々の暖かさを感じました。いつか本物のお遍路をしようと思いつつ、20年が過ぎてしまいました。

[45176]EMM さん
長野県でも「イッポンシメジ」でしたか。
私が長野で聞いた時は、イッポンシメジは毒だという人と食べられるという人がいて混乱した記憶があります。県内でも地域差があるのでしょうか。
「クサウラベニタケ」(ウラベニホテイシメジとは生える林が違う)
最近の本(2003年刊)によると、最近のキノコ図鑑にはイッポンシメジを載せないそうです。専門家でも見分けがつき難いからだそうです。
もしかしたら「生える林」によって、同じ茸でも毒性が出たり出なかったり?
キノコだったら、その可能性も…


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