都道府県市区町村
落書き帳

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[35703]2004年12月12日
hmt
[35708]2004年12月12日
Issie
[35710]2004年12月13日
Issie
[35716]2004年12月13日
紅葉橋律乃介
[35737]2004年12月13日
Issie
[36083]2004年12月26日
hmt

[35703] 2004年 12月 12日(日)22:33:51【1】hmt さん
戦前は広かった 日本地理の範囲
[35679]ひでひで さん
日本統治時代の台湾以外の地域の行政区分は、どういった物だったのでしょうか?

既に[35686]Issieさん から詳細な回答があり、[35692]中島悟さんからも補足がありましたが、「戦前は広かった 日本地理の範囲」という観点から、少し書いてみます。

大正12年(1923)に刊行された 小川琢治編「市町村大字読方名彙」という本があります。この本には、第1回国勢調査の行なわれた大正9年当時の地名を保存するという目的がありました。
この本は、「市部町名彙」と「町村大字名彙」との2部に分れていますが、後者の目次を見ると、次の順で並んでいます。

1.東京府、2.京都府、3.大阪府、4.神奈川県、5.兵庫県、6.青森県、7.巖手県、8.秋田県、9.宮城県、10.山形県、11.福島県、12.茨城県、13.栃木県、14.群馬県、15.千葉県、16.埼玉県、17.山梨県、18.静岡県、19.愛知県、20.新潟県、21.長野県、22.富山県、23.岐阜県、24.石川県、25.福井県、26.滋賀県、27.三重県、28.奈良県、29.和歌山県、30.岡山県、31.廣島県、32.鳥取県、33.島根県、34.山口県、35.香川県、36.徳島県、37.愛媛県、38.高知県、39.大分県、40.福岡県、41.佐賀県、42.長崎県、43.熊本県、44.宮崎県、45.鹿児島県、46.沖縄県、47.北海道、48.樺太、49.臺灣、50.朝鮮、51.関東州、52.南満洲警務区域、53.南洋庁

都道府県の配列順は過去にも話題になり、アーカイブズもありますが、今回のものは3府に次いで神奈川県と兵庫県が別格です。[34038]によると、第1回国勢調査報告書から既に現在のコードと同じ順が使われているそうですが、この本では異なっています。
滋賀県、三重県という順番から、三重県は近畿地方として扱われていることがわかります。
廣島県は当然として、巖手県という書き方があったのでしょうか?(岩手県と表記された個所もあります。)

それはさておき、48~53が現在の日本地理の範囲に含まれていない「外地」です。

48.樺太庁に属する支庁は、大泊支庁(4郡)・豊原支庁(3郡)・真岡支庁(3郡)・泊居(とまりおる)支庁(4郡)・敷香支庁(3郡)で、豊原郡豊原町(1920年当時は市制未施行)のような町村がありました。

49.台湾は、[35679]に挙げられた5州・2庁でしたが、1920年当時は高雄州に属していた澎湖郡(当時の日本最西端)が その後「澎湖庁」になって、[35686]のように3庁になったようです。1920年当時の市は、台北・台中・台南の3市だけですが、1938年の地図を見ると、基隆・新竹・彰化・嘉義・高雄・屏東の6市が増えています。
郡を見ると、台中州に新高郡があります。“ニイタカヤマ” 3950m は、当時の日本最高峰でした。(ここで突然「新高ドロップス」や「エベレスト鉛筆」を思い出す。)
郡の中には、町村に相当する「街」と「庄」がありましたが、“街庄を置かざる蛮地”(例えば台北州羅東郡濁水)も存在しました。これが[35686]で「区」とされているものでしょう。

50.朝鮮の「道、府・郡、面」(「邑」は未編成)については、[35686]で13道、14府の名も含めて紹介されています。なお、1920年当時は、開城・咸興以外の12府でした。1938年の地図では、光州・全州・大田・羅津を加えて18府になっていました。そう言えば、1920年の「光州」には、府も郡も付いていません。これは?。

51.関東州
最初に断っておきますが、関東地方とは無関係です(笑)。
清国が天然の良港・旅順に軍港を建設していた遼東半島は、日清戦争で日本に占領され、下関条約で その南部が日本に割譲されることになりました。しかし、南下政策のロシアはドイツ・フランスを誘って三国干渉。この外圧で遼東半島は清国に返還され、ロシアの租借地になりました。
日露戦争の後で,日本がロシアより租借権を護り受けたこの地の行政府の名称は、時代により変化していますが、1920年当時は「関東庁」でした。地域名としてはずっと「関東州」が使われていました。
旅順民政署(旅順市ほか6村)、大連民政署(大連市ほか)、金州民政署

52.南満洲警務区域、
日露戦争後にロシアから獲得した利権(東清鉄道・撫順炭鉱など)により設立された南満洲鉄道の付属地。
営口警務署、遼陽警務署(鞍山市)、奉天警務署(奉天市・撫順市・本渓湖市)、鐵嶺警務署(鐵嶺市)、長春警務署(長春市)、安東警務署(安東市)

53.南洋庁
ミクロネシア(西太平洋、赤道北側の島々)で、現在はパラオ共和国・ミクロネシア連邦・マーシャル諸島共和国および「北マリアナ」になっています。「北」が付いているのは、最大のグアム島だけは米国領のためです。

ミクロネシアのカロリン群島にはスペインが進出していましたが、キューバをめぐって争った米西戦争に敗れて、フィリピンとグアムを米国に取られ、太平洋から撤退することになりました。スペインから権益を買い取ったのがドイツで、内乱に乗じて米英に攻撃されたサモアをあきらめて、ミクロネシア東部に確保していたマーシャル群島と共にミクロネシアの経営に専念することになりました。
ところが第1次大戦でドイツは敗戦。ベルサイユ会議の結果、連合国の一員として参戦した日本が、国際連盟の委任統治領として、ミクロネシアの支配権を握りました。
これが日本の南洋群島で、623島、2149km2というから、小さな島でも合計すれば東京都の面積に匹敵します。

1922年には南洋庁がパラオ諸島のコロール島に開設されて 海軍の軍政を引き継ぎ、マリアナ群島にはサイパン支庁、西カロリン群島にはパラオ支庁(パラオ諸島)とヤップ支庁(ヤップ諸島)、東カロリン群島にはトラック支庁(トラック諸島)とポナペ支庁(ポナペ島)、マーシャル群島(レーリック群島、ラタク群島)にはヤルート支庁と、合計6支庁が置かれました。
1933年に日本が国際連盟を脱退すると、委任統治の権原は失われた筈ですが、一度手に入れた領土を手放すわけはなく、敗戦まで統治を続けました。1934年の地図を見ると、「我が南洋諸島」と書いてあります。なるほど、「我が」という字に、「国際連盟には返さないぞ」という意思が込められていたのでした。1938年版では「我が南洋群島」と微妙に変っています。

日本の敗戦後は、米軍の占領を経て1947年から国際連合の太平洋信託統治領として米国が支配しました。
この間、1954年のビキニ水爆実験は忘れることのできない事件です。「市町村大字読方名彙」を見ると、ヤルウト支庁のレーリック(ラリック)群島の中に「ビキニ諸島」の名がありました。

信託統治終了後、ミクロネシアの島々が選んだ道は分れました。
米国内の内政自治領を選んだのは Commonwealth of the Northern Mariana Islandsです。これを北マリアナ連邦というのは誤訳だそうです。
赤道に近い島々は統一国家の樹立を目指したのですが、1978年にパラオが離脱。残りで形成したミクロネシア連邦から、マーシャル諸島が脱退して、結局3ヶ国になりました。

ミクロネシア連邦国旗の4つの星は、米国旗と同様に、連邦を構成するヤップ・チューク(トラック)・ポンペイ(ポナペ)・コスラエの4州を表わし、また南十字星をかたどっているとされます。参考までに、日本統治時代のポナペ支庁は、ポナペ・コスラエに加えて後に水爆実験場になったエニュエトック島などマーシャル群島の一部を含んでいました。

1979年に自治政府が発足したミクロネシア連邦の初代大統領はトシオ・ナカヤマ氏、1994年独立当時のパラオ(現地の言葉ではベラウ)共和国第4代大統領はクニオ・ナカムラ氏と、日系人が活躍しています。

おまけ
小川琢治編「市町村大字読方名彙」は 1923年の刊行ですが、1981年に東洋書林から復刻版が出ていますから、備えている図書館も多いことと思います。

京都大学地理学教室の小川琢治先生は、冶金学の小川芳樹、東洋史の貝塚茂樹、物理学の湯川秀樹、中国文学の小川環樹という学者兄弟の父親です。

トラック諸島には、四季諸島(夏島・春島・秋島・冬島)や七曜諸島(日曜島・月曜島・…・土曜島)という地名コレクション向きの島々がありました。
[35708] 2004年 12月 12日(日)23:57:00【1】Issie さん
巖手県
[35703] hmt さん
巖手県という書き方があったのでしょうか?

「巖」と「岩」とは“交換可能”な文字のペアーであったようで,特に明治期には県・郡ともに「巖手」という表記がよく見られます。

地理ではなくて,文学関係の話題ですが,宮沢賢治をテーマにした図説の類に掲載されているこの人の自筆葉書の写真で,あて先に「巖手県」と表記しているものがあったりもします。

「岩手」の表記の方が一般化するのは,比較的に後のことであるようです。
[35710] 2004年 12月 13日(月)00:15:35Issie さん
続・巖手県
[35708]
特に明治期には県・郡ともに「巖手」という表記がよく見られます。

それどころか,つい最近まで“正文”で「巖手郡」と表記されている法律がありました。

衆議院小選挙区制の導入で1994年に大幅改正された「公職選挙法」(昭和25年法律第100号;1950年4月15日公布)。
末尾に「別表」として選挙区割り表が掲載されているわけですが,小選挙区制導入によってこの表が全面的に書き換えられるまで,そこにはこの法律の公布された1950年当時の区画と表記がそのまま生きていました。
で,衆議院議員の選挙区(いわゆる中選挙区制)についての「別表第1」で,岩手県の第1区にしっかりと「巖手郡」という表記が行われています(「小六法・昭和58年版」による)。
でも,県の方は「岩手県」なのですね。

この中選挙区制時代の「別表第1」に並んでいる「市」と「郡」,なかなかに味わい深いものがあります。
古い六法全書をお持ちでしたら,眺めてみては如何でしょう。
[35716] 2004年 12月 13日(月)01:55:20紅葉橋律乃介[紅葉橋瑤知朗] さん
困った細かいなぞ
[35710] 2004年12月13日(月)00:15:35 Issieさん
「公職選挙法」(昭和25年法律第100号;1950年4月15日公布)…「別表第1」で,岩手県の第1区にしっかりと「巖手郡」という表記が行われています

 するってぇと、昭和25年当時の“正式”表記は「巌手」だったんでしょうか?

 「いつの間にか文字が変わった」とでも考えればよいのかなあ(“バリエーション”の一種とすれば簡単なんですが)…。
[35737] 2004年 12月 13日(月)20:54:17【2】Issie さん
磯野カツオ の漢字書き取り
このネタに関連して思い出したのですが,
「サザエさん」のテレビ放送が始まった頃,カツオが漢字書き取りの宿題を提出したら“旧字体”で書いてあって,つまり波平にやってもらったことがバレて,カツオはバケツを持って廊下に立たされる…,なんてのがあったような,なかったような。
1970年ごろの波平世代であればあり得ることですね。今では成立しないギャグですが。
(もっとも新聞連載開始当時であれば,カツオ自身が旧字体で漢字教育を受け始めたところで新字体に切り替わり,大混乱をきたしていたことでしょう。)

[35716] 紅葉橋瑤知朗 さん
(“バリエーション”の一種とすれば簡単なんですが)…。

私は,この認識が最も妥当であろうと考えています。

公職選挙法・(旧)別表第1 には,ほかにも「留萠市・留萠支庁」,「一ノ関市」なんて表記があります。
さらに,「本土復帰」に備えた一連の法改正によって1971年に付け加わった 沖縄県 は,「沖繩県」と表記されています。

「公職選挙法」の公布された1950(昭和25)年前後は日本語表記上きわめて微妙な時期で,旧表記から現代表記に切り替わる最中でした。

よく知られているように,1946年11月3日に公布された「日本国憲法」は,その中身とは別に,“口語体”で作文され“漢字ひらがな混じり”で表記された初めての法律文という点で,日本語の歴史上でも画期的なものです(現代ギリシア語の“カサレヴサ(文語文)”と“ディモティキ(口語文)”の違い,さらに「ラテン語」と「イタリア語」…と言ったら大げさかな)。
…が,この憲法は“旧仮名づかい(歴史的仮名遣い)”で表記されています。
「現代かなづかい」が内閣告示として公布されたのが,現行憲法公布の約2週間後の1946年11月16日であるからです。

日本国憲法をうけて,それを具体化するために立法された諸法律,たとえば「皇室典範」(昭和22年法律第3号;1947年1月16日公布),「地方自治法」(昭和22年法律第67号;1947年4月17日公布),「教育基本法」(昭和22年法律第25号;1947年3月31日公布),あるいは「民法」で根本改正が行われた第4編[親族]・第5編[相続]では“現代かなづかい”による表記が行われています。
ただし,たとえば 教育基本法第1条 に「個人の価値をたつとび」とあるように,“つまる音”の「っ」は“大きい”ままです。

現行の漢字の字体は1949年4月28日に内閣告示として公布された「当用漢字字体表」に始まります。したがって,これ以前に公布された 日本国憲法 や 教育基本法 その他の法律は公布当時,当然に“旧字体”で表記されています。
“新字体”制定後,政府・民間ともに字体の切り替えには多くの混乱があったことと思われますが,少なくとも現在時点では,たとえば六法全書に掲載されている法律文は“旧かな・漢字カタカナ混じり・文語文”の「大日本帝国憲法」でさえ,体系的に“新字体”に書き換えられています。

「公職選挙法」が制定・公布され,「別表第1」が編まれたのが,そのような切り替えの最中の1950年なのです。

そのような中で,わざわざ「巖手郡」と表記して,その後も1994年の「別表」の全面差し替えまで“新字体”への書き換えが行われなかったというわけですね。
(もちろん,「巖」と「岩」がこの場合に全く自由に相互の交換が可能であったとしても,漢字としてはお互いに「別の文字」であって,「岩」が「巖」の“新字体”であるわけではない,と理解するのが適当でしょうが。)

※付け加えておくと,仮名づかい,特に“送りがな”のルールの微細な変更に関連して,それに対応した法律文の「改正」が,結構頻繁に行われています。
[36083] 2004年 12月 26日(日)19:18:37hmt さん
埼玉県の生まれた頃(3)―神明宮の社殿に千木が10個あったから十千木?
関東地方の県の改廃関する太政官布告 の途中ですが、少しわき道にそれます。

縦書きの太政官布告を横書きに改めているのですから、新字体で引用してもかまわないのですが、昔の気分を出すために 舊字體に變換してみました。但し「改称」は「改稱」に変換されなかったので、別に修正。

[36081]で引用した明治6年の太政官日誌は 明朝体で印刷され 「廢」は旧字体でしたが、[36047]で引用した明治4年のものは 楷書体で、「廃」は新字体(当時は俗字)でした。標準活字も普及せず、もちろんコンピュータ検索上の問題[36063][36066]もなかった時代ですから、字体統一の必要性は小さかったのでしょう。

「埼玉縣」の「埼」という字も異字体で、旁の上の部分が「立」になっていました。これも当時使われた俗字でしょう。
また、「群馬県」の「群」という字は、音符の「君」が「羊」の左に置かれた常用漢字の字体(もともと俗字)でなく、「君」が「羊」の上に置かれた本来の漢字で記されていました。

とは言うものの、字体の違いをまったく気にしていなかったわけでもないようです。
明治6年の布告文は、「杤木縣」と書いてありました。
「とちぎ」の由来は「遠つ木」(遠い木の国=毛の国、近い木の国=紀の国)とか「十千木」(栃木市の市章参照)とか諸説あるようですが、「杤木」の「杤」は後者の説に基く国字でしょう。
落葉喬木の「とち」は「橡」で、「橡木県」という書き方も行なわれました[32037]
「栃」は 「万」の部分が「萬」になっている漢字(橡と同じ木?)の俗字かもしれません。

平凡社の「栃木県の地名」p.653には、次のような趣旨の記載がありました。
近世史料では「杤木」と書かれているが、明治に入って栃木県が成立してからは「橡木」と「杤木」が併用。
「栃木県」の「万」の部分が 「萬」になっている文書も残されており、県印の字体もこれに近い。
明治5年に「栃木」に統一する旨の達を出す伺が出ているが、残された史料には「杤木」が多用されている。
このため明治12年に再度統一を図った県令通達が出された。

異なる漢字で最近話題になった県名は「巖手県」です[35703][35708][35710]
新旧字体「巌」「巖」を 落書き帳の画面で区別できるほど目が良くはないのですが、コンピュータの過去記憶のまま無意識に旧字体を使ってしまったhmtなのでした。
そのような次第で「巌手」で記事検索すると、[35716]紅葉橋瑤知朗さんの記事等は出るのに、上記の3件はヒットしません。

残念ながら自分の目で見た記憶はないのですが、“「東京府廳」の看板は、「京」の真中が「口」でなく「日」になっている字を使っており、並んでいた「東京市役所」看板と対照的だった”という話を聞いた記憶があります。


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