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がんす横丁ままさんの記事が20件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[40798]2005年5月6日
がんす横丁まま
[40641]2005年5月5日
がんす横丁まま
[40618]2005年5月4日
がんす横丁まま
[40613]2005年5月4日
がんす横丁まま
[40596]2005年5月4日
がんす横丁まま
[40506]2005年5月2日
がんす横丁まま
[40496]2005年5月2日
がんす横丁まま
[40430]2005年4月30日
がんす横丁まま
[40386]2005年4月29日
がんす横丁まま
[40310]2005年4月27日
がんす横丁まま
[40276]2005年4月25日
がんす横丁まま
[40214]2005年4月23日
がんす横丁まま
[40209]2005年4月23日
がんす横丁まま
[40183]2005年4月22日
がんす横丁まま
[40147]2005年4月21日
がんす横丁まま
[40141]2005年4月21日
がんす横丁まま
[40120]2005年4月20日
がんす横丁まま
[40119]2005年4月20日
がんす横丁まま
[40092]2005年4月19日
がんす横丁まま
[40065]2005年4月19日
がんす横丁まま

[40798] 2005年 5月 6日(金)17:16:01がんす横丁まま さん
「希少」の基準は?
[40673]EMMさん,[40762]EMMさん、[40758]愛比売命さん、
 どうせ、十番勝負じゃの、と決戦に心奪われておられるのでしょうから、この勝負が終わらないうちはしばらく、このサイトは覗かないことにしていたのですが、仕事の合間につい、見てしまって、書き込みをまたしてしまいました。上記の皆様へのお返事もかねて、感想を一言。
「希少地名・山」にこだわってしまったのは、山に登っているものなら、当たり前の地名と思っているのに、「希少」なんていわれると、「えっ」と思ってしまいます。山名の「希少」は、圧倒的に多い山」「岳」「丸」「森」「峰」「峠」がつくのは当然ひとくくりにされるのは、よくわかります。
ついでに本コレクションの「希少山名」を眺めてみましたら、
峠=21、塚=26、頭=18、尾=13、辻=12、岩=11、城=10、仙=10、倉=9、
台=10、鼻=10、根=8、塔=7、平=7、烏帽子=6、松・杉=6、背=4
と続きます。これだけ、「山・岳」につづく共通項があることは、山名として、「普遍的」といえませんか?こだわりの「越」=3でした。何をもって「希少」とするのか、感性の違いといわれればそれまでですが、共通項が複数あるものは、「希少地名」とは、おこがましくないですか。「山・岳」より少ないからという理由では、記念切手の印刷ミスを喜んでいるようで味気ないですね。
 十番勝負が済んでからで結構です。ご意見をお聞かせくださいませ。
 このコレクションに照らして、広島県の「希少地名」を2万5千分の1地図で確認したら、「岩」「峠」「塔」「頭」などが、ぞろぞろと出てくるので、いやになりました。広島県内だけで、すでに「希少」ではありません。
[40741]般若堂そんぴんさん
 懐かしい「てんつ」何年ぶりかで聞きました。よく「あいず、てんつこぎだがら」(あの人は、嘘つきだから)と用心したものです。山形県の「希少地名」に、「東大巓」があり、母校の高校の校歌を思い出しました。確か、浜田広介作詞でした。
[40641] 2005年 5月 5日(木)00:06:56がんす横丁まま さん
生兵法、大怪我のもと・・ですね。
[40626]
EMMさん
「鳥越」が希少地名の理由が判りました。「山」なのに、「〇〇山」「〇〇岳」などと「山・岳」がついてなければ「希少」地名なのですね。全国にごまんと同名の地名があっても。「鳥越」は、野鳥ウオッチングも趣味のうちなので、野鳥の「渡り」の通り道に大抵ついている地名なので、気になりました。全国に普通にある地名・山名なのに、なぜ「希少」なのか、不思議でした。昔の人は野鳥の渡りをよく知っていて、峠の通り道にかすみ網を張って待ち構えて、一網打尽にした時代もあったとか。鳥越の地名は、意外と低い峠についていますね。渡り鳥の通り道だからなのでしょうか。ついでにお尋ねしますと、「川」なのに「〇〇川」の「川」や「谷」や「渓谷」や「渓」などがついてなかったら、「希少」になるんですか?たまたま付け忘れただけでも?生兵法は大怪我のもと・・といいますから、やめとこ。解説、ご丁寧にありがとうございました。

[40631] 烏川碧碧さん 横川銀座は保留・・金座街は[33523]のと同じ?
いま、横川界隈の青年商工会は、大変元気がよく、駅前が大改変したこともあって賑やかです。ネオンやアーチだけで「銀座」というのはよくないのでしょうね。今度、ここの会長さんにお尋ねしてみます。「横川銀座」のネオンはあがっていますけど。
金座街は、戦後の呼び名ですが、広島の人には定着しています。福屋デパートの西南側から南側にかけてですが。[33523]さんご指摘の通りです。本通りに続く商店街で、賑やかですよ。
[40618] 2005年 5月 4日(水)17:44:01がんす横丁まま さん
地名コレクション、希少山名について
[40601]
EMMさん、希少山地コレクション、山頂名・尾根名で
全国の「鳥越山」に当たってみました。確かにEMMさんの資料とするものには明記されていませんが、「ふるさとの山」として次の山が記録されていました。国土地理院の地図には記録されていないが、という断り書きが多かったですね。こんなに愛されているのに、国土地理院は、なぜ記録しないのでしょうね。もっとしょうもない山は、書かれていますのに。

北海道増毛 「鳥越山」標高669m
岩手県二戸市 「鳥越山」富田喜平司記録、標高未確認。 ふるさとの山として絶賛。
新潟県岩船郡山北町 「鳥越山」標高 40m 海岸の突端の山。
滋賀・岐阜県境 金糞岳の東南「鳥越山」標高 1074m  国土地理院地図にない山だが良い山だと紹介されている。
新潟県長岡市三島 「鳥越山」お城のある山として有名。
長野県上田市  「陣場鳥越山」標高 924m
山口県下関市 「鳥越山」標高 126m 山口県540山のデータより。
香川県観音寺 「鳥越山」登山記録あり。標高未確認。
未確認ですが、岡山県北部、白山市三坂町、千葉県にもあるようですが、地元の地図で確認ののち報告します。
広島市安佐南区長束の鳥越山稜は、1万分の一地図で確認してみます。(まだ未発売?)

広島県の瓢箪池は、瀬野川ゴルフ場に池として取り込まれていました。
瓢箪は無残に二つにちぎられて。手持ちの5万分の1地図、1930年、1939年版までは、はっきり記録されていますが。戦後発売の地図で、どの版で消えたのか、確かめてみます。

花笠かせ鳥さん
米沢市上杉神社祭礼の川中島の戦いも無事済まれましたようで・・今ごろは、オーナーさんと小野川温泉でお湯に浸っておられるのでしょうか。般若堂そんぴんさんもごいっしょなんですか?
[40613] 2005年 5月 4日(水)12:05:42がんす横丁まま さん
ちょっと、はまりすぎました・・・
EMMさんはじめ、般若堂そんぴんさん
 こんにちは。きょうも、F.F(フラワー・フェステイバルのこと)も見にいかないで、このサイトを開いてしまいました。本来、山登りは、遠望の山探しをして、見慣れない山を見つけて帰り、地図を広げて、定規を当て、山名を確認する・・のが楽しみでした。見えないはずの山が見えたり、これまで見えるといわれながら、機会に恵まれなかったりして、初めて見えたときの感激を楽しんだり、だから地図は、箪笥一つ分専用棚になっています。こまめにメモるのも趣味のうちです。
 仕事が忙しくなって、山行きもままならなくなっている現在、このサイトで火がついて、「こんなことしてるヒマないんでしょ」とどこかから聞こえてくる声を無視して、久しぶりに地図にひたりました。大抵の地名は、大事典も出ていることですし、確かめれば済むことですが、ここのサイトのような、面白いタイトルのまとまりで読める資料は、まだ見たことがありません。夫は、日本山岳大事典が出てる、というのですが、まだ未確認です。
 日本アルプスをはじめ、佛教用語の山名は、薬師岳、常念岳、観音岳、蓮華岳、地蔵岳、鳳凰岳と北ア、中央ア、南アを見渡しただけでも浮かんできます。広島の宮島山頂は、弥山(みせん)といいますし、これも須弥山(しゅみせん)からきているのでしょう。山岳信仰の時代、神道から佛教伝来と大きく関わっているのでしょうね。ずっと気にしてきた課題でした。
 このサイトは、地名なら何でもご存知の方がたですので、お聞きすれば、右から左へ即座に判る便利なところ、だと思ってお尋ねした次第です。自分で調べれば一番いいのですよね、判らないことは。つい、トシのせいで、簡単に判ることかと思ってしまいました。ヒマを見て、確かめてみます。
 大学時代、山岳部でホームグランドの吾妻山、飯豊山を闊歩した日々、40年前の話です。
一切経・吾妻小冨士は、福島県
でしたね。吾妻山塊をひとくくりにしてしまいました。一切経では、ブロッケン現象を体験しました。ああ、懐かしい。山頂で財布の中身をみて、裏磐梯に下りるか、白布高湯に下りるか決めたりしたのも思い出です。
EMMさんの解説、
ありがとうございました。これからは、衝動にかられることなく、よく確かめてからにいたします。
「鳥越」は、すぐ近くの己斐峠から、火山・武田山稜線にある稜線で、峠もあるのですが、二万五千分の一地図に出ていたか、再確認します。瓢箪池は、古い五万分の一地図(呉娑々宇山)にありましたが、開発されて潰された可能性もあります。最新五万分の一地図で確かめます。載っていましたら、お知らせします。
[40596] 2005年 5月 4日(水)00:59:41がんす横丁まま さん
GW、アーカイブスを総チエック
憲法記念日にフラワーフェステバル、快晴!という広島です。海に山にお出かけの方も多い中、引きこもって、当サイトアーカイブスを総チエック、わが広島が、どの程度認知していただいてるか、確かめてみました。
EMMさん編集のもの。つけ加えていただきたい山名・池
広島県   天狗石山(1192m)山県郡北広島町
      瓢箪池 安芸郡府中町
      希少地名(山) 呉娑々宇山(ごさそうざん)682m 広島市安芸区 
              一兵山家山(いちべえさんかやま)952m 山県郡北広島町
              大潰山(おおつえやま)998m 山県郡北広島町
希少地名に「鳥越」が入っていますが、広島県には多い地名です。
烏川碧碧さん編集のもの。
広島県   銀座 横川銀座 広島市西区 JR横川駅界隈の商店街 以前は銀宿(銀座と新宿)ともいった。
      金座街 広島市中区八丁堀商店街 胡神社を祀る街の真中。本通り商店街に続く。流川銀座は、夜の飲み屋街。
EMMさんにお願い
広島県には、山名には佛教用語がついた山が数多く見受けられます。全国ではどうなのでしょうか。
お調べいただけたらありがたく存じます。それとも、もう、調べはついてるのでしょうか?
例 毘沙門岳・極楽寺山・羅漢山・恐羅漢山(広島県最高峰)1346m 阿弥陀山・権現山・〇〇坊山
〇〇寺山・文殊山・行者山・虚空蔵山・蓮華山・蓮華寺山・明神山・〇〇明神山などなど。山形県米沢市吾妻山に、「一切経山」がありました。
その他、多いと思われる山名は、「冠」(広島には少なくとも6つある)「烏帽子山」「夫婦山」「鬼が城山」「竜頭山」などなど。
[40506] 2005年 5月 2日(月)12:41:24がんす横丁まま さん
消されていく市町村名・・・
 平成の大合併の号令のもとに、住んでいる市町村名が変遷してしまうことは、時代の波で仕方のないこと、なのかも知れませんが、合併されることで、今までより、より幸せが待っているなら喜ばしい?ことといわなければならないのでしょう。名前がどう変わろうと、そこに住んでいる人たちは、逃げも隠れもできない現実があります。車社会になって、公共交通機関が「赤字路線」の名のもとに切り捨てられ、減らされてしまい、車を運転しない者は、その地にでかけたくても行けなくなりました。
 私の大好きな芸北町(新北広島町)もその一つです。それでも、2年前までは、広島から朝晩2便の直行バスがあったのですが、今は夕方1便しかなくなりました。早朝便で出かければ、県境の山々を歩いて、夕方のバスに乗れば日帰りできたのですが、今はそれも不可能になりました。安芸の國の北であることから四村合併して「芸北町」と名づけられましたが、その名もまた消えてしまいました。
 地図から市町村名前が消されていく・・ことには、意味は違いますが深い感慨があります。
 それは、国土地理院の前身であった、陸軍省陸地測量部が地図を作って発行していた時代の太平洋戦争末期に、国防の理由から、要塞地帯は山の標高はもとより、海岸線、街が、ぼかされたり、すべて白く消されたりしました。戦後になって初めて標高が公表された山が少なくありません。当然、測量は終わっていたのにです。
 「山があるのに、標高が不明・・」これが地図に興味をもったきっかけになったとは、皮肉です。どれだけの山や海岸線が、地図から消されたのか、これを調べるのが私の最大の興味なのです。もう、判ってる!とおっしゃる方は、ぜひ、教えてください。「白くなった地図」は、かなり集めていますが。広島は、地図から消されたばかりでなく、街も原爆で壊滅されたのですが。あ、暗くならなくていいんですよ。史実を申し上げただけなのですから。
[40496] 2005年 5月 2日(月)01:30:49がんす横丁まま さん
懐かしの伝国の杜
[40490]般若堂そんぴんさん、[40435]花笠カセ鳥さん
 米沢市の春祭りだより、懐かしく読みました。花笠カセ鳥さんは、川中島合戦へご出陣とか、松川の河川敷から、歓声とともに、玉こんにゃくの煮るたまり醤油の匂いが漂ってくるようです。
 そんぴんさんご紹介の「伝国の杜」も拝見しました。上杉博物館も立派になったのですね。
 ところで、5月1日付の朝日新聞に、<合併しても「村」残る>の見出しで、市町村合併後も住居表示に「村」を残す自治体が出始めているとか、例として、和歌山県田辺市竜神村と大分県日田市中津江村のことが紹介されていました。
 財政難で合併は避けられないが、「村がついてこそ初めて、ふるさとという気がする」思いからだそうです。「『村』には、のどかで自然も豊かというイメージがあり、温泉もある私たちの土地に合う」と竜神温泉組合長さんのことばです。住居表示で、旧町名を惜しげもなく捨ててしまう自治体住人がいる一方で、住処をこよなく大切に思う人たちの暖かさに触れた思いがしました。「村」を住居表示として大字に使っても法的には問題ないと、総務省の見解だそうです。「村」復活の機運が高まりそうですね。市の中に「村」を残した例は、他にもあるのでしょうね。残念ながら広島県からは、「村」が消えてしまいましたけど。
[40430] 2005年 4月 30日(土)22:37:36がんす横丁まま さん
優ちゃんさんへ
 こんにちは。優ちゃんさんは、このサイトとてもお気に入りのご様子ですね。わたしことおばさん(おばあさんじゃない、まだ孫はいませんからね!)も、10日ほど前に見つけたサイトですが、この10日ほど偵察した結果、ここに集っているオジサンたち(時おり、おねえさんぽい人もいるみたいじゃけど)は、フツーじゃない人たちだとわかりました。
 山登りに例えるなら、ヒマラヤの最高峰に登ろうと目指している人たちですね。だから、まだ、1000米級の山登りしかしたことのない人には、ちょっと、歯が立ちませんね。ヒマラヤへ連れてって、とわめいても、足手まといになるばかり・・ヒマラヤへ連れてってもらうためには、このオジサンたちを、ギャフンといわせるような、スゴーイネタを探していらっしゃい。
 おばさんも、前に、富士見町なんて、全国にどれぐらいあるのでしょうね、なんて独り言を書き込んだら、「67あります」って、すぐお返事くださった、プロがおられました。広島弁でこういう人を「ガキじゃ」といいます。こんな「ガキ」が集まってるサイトなわけね。だから、優ちゃんさんも、「ガキじゃ」といわれるほどの「おたく」を作って、ここのオジサンたちをギャフンといわせるといいよ。おばさんにもヒミツヘイキがあってね、もともと、地図(地理じゃない)大好きおばさんなんで、いまサクセンを練ってるとこ。これだけは、まだ、だれも手をつけたことない「テーマ」じゃと
思うとるんじゃけどね。だから、優ちゃんさんも、負けずに、地理オタクオジサンをへこますほどの問題出してごらんよ。ちょっとやそっとの問題じゃここのオジサンたちへこたれんよ。若いんだもの、未来は明るいよ。
[40386] 2005年 4月 29日(金)13:45:25がんす横丁まま さん
競馬場跡地は広島にもあります
[40373]グリグリさんの%%競馬場跡地、ループ橋なども対象に%%
 広島市にも戦前、大洲競馬場がありました。現在のJR貨物操作場跡地で、広島カープ市民球場を、今の市民球場から、移転させるじゃ、させんじゃともめている辺りです。太平洋戦争が烈しくなって、
競馬場は廃止になり、以後は国鉄東広島駅ができたところです。いまはもちろん駅はありませんが。
 ループ橋は、平清盛が開削したといわれている音戸の瀬戸にかかる音戸大橋が有名ですね。ほかには、島根県と換地して有名になった、島根県三井野原おろちループ、があります。
[40310] 2005年 4月 27日(水)02:34:06がんす横丁まま さん
広島はいま、ハナミズキ、ツツジ、フジ、が真っ盛りですよ。
 「おばんですー」の懐かしさと、米沢の春だよりに、思わず広島だよりも・・という気になりました。広島の春は、順番に咲いていく花が決まっているのですが、今年は桜の開花が遅かったせいで、東北並に一気に開花した感じです。街路樹にアメリカハナミズキが多い広島ですが、いまが真っ盛り、桜とはまた違った趣の美しさです。やがて間もなくヤマボウシも咲くでしょう。ツツジも色とりどり、道行く人の目を楽しませてくれます。お城のまわりの藤棚のフジも満開です。信号を待つ足元には、タンポポがいい顔で咲いています。負けじとハルジョンまで背伸びをしています。花ばかりでなく、街路樹の新緑もまた美しく、クスノキの新芽の美しいこと、思わず見とれてしまいます。クチナシの花が咲き始めると夏がやってきます。60年前の焼け野原からは想像もつかない広島のみどりたちの春の息吹です。日本の春は、いいですねえ、どこもかしこも。
[40276] 2005年 4月 25日(月)21:27:55がんす横丁まま さん
東京から浅間山が・・
40220 KMKZさん
東京葛飾区から浅間山が
とても面白い本があります。日本登山界の先駆者木暮理太郎氏が「東京より見ゆる山のこと」1913年
(大正2年)にすでに浅間山が見えることを指摘しておられます。手っ取り早く確かめられるのは、
「アサヒグラフ」1979年2-2号特集「パノラマ式東京から見える山々」です。東京からの遠望の山々が網羅されていて壮観です。なお「アサヒグラフ」1961年1月1日号には、「富士山のすべて」が載っていて、「富士山からどこまで見えるか、<半径230キロ>の視界」もなかなか面白いですよ。
インターネットもなかったアナログの時代から、「オタク」はおられたのですね。感心します。広島県の遠望の山々についてなら、私どもも一家言ありますが。

愛比売命さん
広島弁の「みやすい」(簡単だの意)について、以前独り言?おっしゃってましたけど、気にしていました。仕事がやっと一段落したひと時、私見を述べてみます。
広島育ちの夫や、娘、亡き母たちは、「みやすい」より「もやすい」を連発しています。「今日の試験もやすかったねえ」(今日の試験簡単だったねえ)「こんなみやすいこと、できんの」(こんな簡単なことできないの)なんていいますよね。「みやすい、もやすい」の「やすい」は、「易い」でしょうけど、接頭部の「み」「も」はなにもの?かと、この曲者に頭をひねっています。接頭語なら、他にも「み〇〇」「も〇〇」とあってもよさそうなものなのに、いまのところ「みやすい」「もやすい」しか見当たりません。「み」の意味がある、「みやま」「みゆき」などは、美称でしょうしね。もうしばらく、頭をひねりましょう。他府県の方言で「み〇〇」「も〇〇」という言い方で「簡単だ」などという意味をもっている用法がありましたら、教えてください。
[40214] 2005年 4月 23日(土)21:49:31がんす横丁まま さん
米沢旧市内
40208 般若堂そんぴんさん

 花笠カセ鳥さんのご質問にお答えいただきありがとうございます。米沢市は、私が離れてから住居表示が変わり、伴って町名が大々的に変わってしまい、懐かしい城下町らしい町名が姿を消してしまいました。越後番匠町、粡町、表町、清水町、立町、などが消え、中央O丁目など、城下町の情緒が半減した気分でした。広島も、毛利輝元築城以来、城下町でしたが、原爆で跡形もなくなり、いま、平和公園になっているところには、五つの町、天神町、元柳町、中島町、細工町、鳥屋町、があって西の繁華街でした。戦後復興にあたって、ほとんどの町名がなくなりました。惜しいと思います。台屋町などという豪華な(ダイヤ)町名もあったんですよ。市町村合併でも、古くからの地名が消えてしまいますが、
そのせいで、私は、元の村名を見つけるのに苦労し、お墓まいりするのに手間取りました。このサイトを早く知っていたら、すぐ教えていただけたのでしょうに。広島県の戦前の地図を手に入れて、片っ端から探して探し当てたのです。亡くなった友人が、ふるさとの山名をいつも口にしていたことを思い出して村名を割り出し、小字を見つけて、役場に尋ねて確認できました。家族が全滅することの無残を思い知らされた次第です。
 米沢市の旧市内は、徳町が北のはずれ、長町が東北のはずれ、成島町が西北のはずれ、塩井村、六郷村、館山、は市内でなかったと思います。春日町、御廟、花沢など懐かしいですね。いまや、吾妻山のてっぺんまで米沢市ですよね。
[40209] 2005年 4月 23日(土)18:10:54がんす横丁まま さん
「冨士」コレクションに敬意を表します
こんにちは。4日にして私色を頂戴しました。よろしくお願いいたします。
サイトを開けたら、地名好きさんの全国地名一覧を拝見し、「冨士」サイトで、全国の冨士を知りました。日本国民は、ほんとに冨士が好きですね。実は、私が現在名乗る本籍も、広島市富士見町です。当然、安芸の小冨士が見えるところだからです。我が家は、戦前から、ここに住んでいましたが、原爆で壊滅、家族は疎開して助かったのですが、建物疎開で家を探していた友人に、ここを貸したため、被爆して家族4人全滅しました。戦後、遺骨を拾って供養塔に納骨し、60年ぶりに、お墓を探しあてて、墓参しました。
 そこで、冨士がこれだけあるのですから、富士見町も多いのでしょうね。一つだけ、自慢ができるのは、安芸の小冨士(似の島)が県内のどこから見えるのが、最も遠距離か、踏査しました。山登りを趣味としているので、遠望の山を確かめる趣味があります。富士山の最北とか、最西とか、最南とか、よく話題になります、あのテです。伯耆大山も広島から見えるんですよ。ひとりよがりの趣味ですけどね。
[40183] 2005年 4月 22日(金)22:46:28がんす横丁まま さん
韓国のRぬきは国策?
40182 Issieさん

「李」が韓国では「イ」となるのは、「R」が抜けるから云々・・
 とのことですが、何年か前、ハングルを学んでいた折、R抜けは、北朝鮮との関係で国策の発音だと伺いました。戦前は、「李」は「リ」だったそうですけど。
[40147] 2005年 4月 21日(木)14:29:12がんす横丁まま さん
おさわがせしてます
気楽なことばあそびが、つい、本気になりそう・・

40143 らるふさん

広島弁の手が届く意の「たう」が、峠の「たお」「だお」と関係がおありかとのご質問、広島弁「たう」を調べたとき、この「峠」の「たお、だお」も気になって確かめたことがあります。
岩波「広辞苑」には、峠(旧たうげ)は、国字であり、「たむけ」(手向)からの転、とあり、通行者が道祖神に手向けをすることから、とのこと。山の坂路を登りつめた所。とあります。
また、「だお」「たお」は、古語辞典では、「撓わ」は、しない曲がっている部分のこと、1、山の尾根の線のくぼんで低くなったところ、とあり、撓をりとも。「垂仁記」の用例が出ています。「たをり」の用例では、「万葉集」巻19「あしひきの山のたをりにたつ雲を・・」が出ています。どちらも山の峯の低くくぼんだところ、と解説されています。
ということで、峠を「たわ」「たを」というのは、古語から、「峠」の文字ができた後も発音は古語のまま残った、と見るのはいかがでしょう。
それが、広島弁の手が届くという意味の「たう」と関係があるか、どうかなのですが、私も初め、「撓む」からの意味からか、と思っていましたが、どうしても「手が届く」意味がつながらないのです。そしたら、「手抱く」の「手」と関係ある古語を見つけ、taudaku→todokuに変化する過程にきがつきました。「たうだく」→「とうだく」→「とどく」になることはそんなに無理ではなさそうなのですが。
勝手に納得していました。峠の「たお」とは、別物と考えるのですが。「手がたう」なんて人騒がせな広島弁です。

40144 ひげねこさん

現代中国語での国名表示は全く知りません。美国、法国、徳国、なんていい呼び名ですこと!日本も現代中国の呼び名に見習った方がよさそうですね。訪美、訪法、訪徳、どこに行ったかピンときませんけど、まだ。いつから、このような呼び名になったか、ぜひ知りたいものです。
[40141] 2005年 4月 21日(木)12:37:15がんす横丁まま さん
うれしい悲鳴です
40137 太白さん
 思いつくままで、これだけ!とは、末恐ろしい学者でいらっしゃいますね。あとで判ったことですが、パソコンには、漢字国名も入力されていることを知りました。省略なしで。亜米利加、英吉利、伊太利亜、阿蘭陀、仏蘭西、独逸、白耳義、濠太剌利、墺太利、などなど。またこの漢字国名は、中国で使っていたものを、戦前日本が取り入れたものだそうです。戦前の三省堂「最新世界地図」は、カナ国名と漢字国名が併記してあります。(1940年版)ありがとうございました。

40138 JOUTOUさん 
 米沢の思い出ありがとうございます。故郷米沢には、もう両親はみまかりましたが、実家は弟が跡を継いでいますし、妹家族も住んでいます。心やさしい友人も大勢いらっしゃいますが、すっかりごぶさたして申し訳なく思っています。毎年ふるさとの館山りんごをどっさり送ってくれます。吾妻連峰にはまだ残雪があるのだろうなあ、などと思い出しています。さくらも、りんごの花もまだでしょうね。いつも上杉神社春の祭礼ごろ(4月29日)に咲くのですから。
ところで、米沢駅と聞いて思い出すのは、「おぢるひとが、しんでからおのりください」(下りる人が済んでからお乗りください)は有名でした。今ごろはいわないのでしょうね、そんぴんさん。

40139 美濃織部さん

 広島3年目にして、「たいぎい」と「たわん」が気になるとは、恐れ入りやの鬼子母神です。
「たいぎい」は、「大儀」が語源で、古語辞典の受け売りによれば、1、ほねがおれる、やっかいだ。2、費用が多くかかる。3、労をねぎらう、ご苦労さんの、三つの意味があって、広島弁では1と2の意味をよく使います。3は、よく時代劇で「大儀であった」などと殿様がいってますよね。
「たわん」の「たう」は、「とどく」の語源になるほどの古いことば。「たうだく」(手抱く)から。
ここからは、推論ですが、「たうだく」の語幹「たう」が残って「とどく」意味に使われたのでは?と思われます。不思議な広島弁ですよね。
[40120] 2005年 4月 20日(水)18:16:39がんす横丁まま さん
広島弁「たちまち」について
40114 愛比売命さんご指摘の広島弁「たちまち」について私の見解です。
「たちまち、間におうとるけん」(今のところ、間に合ってるから)
「たちまちは、いらんけん、買わんかった」(今すぐには要らないから、買わなかった)
などと使う「たちまち」ですが、ご指摘の通り、共通語で「たちまち」は、「たちまち売り切れてしまった」のように、「またたくまに」の意味や「空が曇ると、たちまち大雨が・・」のように「急に、にわかに」の意味があるようです。しかし、古語辞典を引くともうひとつ「現に、ただ今」という意味があり、「今昔物語」の例が挙げられています。広島弁の「たちまち」は、こちらの「現に、ただ今」の意味で使われてきたものが残って使われているのではないでしょうか。広島弁は、不思議と古語が多く残されている方言だと思っています。古語辞典は、旺文社、角川書店、その他です。
他府県でも、広島弁の「たちまち」の意味で使われているところが、あるのでしょうか。もう一つ、共通語と真反対の意味で使われている広島弁に「満てる」があります。これも「満つ」ですから、いっぱいになる意味ですのに、広島弁の「みてる」は「空っぽになる」ことです。これも、古語に「満杯になる」意味の他に「ある一定の期間が終わる、期限がくる」意味がありますので、これも古語の名残でしょうか。広島弁は案外「そんぴんたかり」なのかも知れませんね。
[40119] 2005年 4月 20日(水)17:33:45がんす横丁まま さん
読んでいただけて感激です
般若堂そんぴんさん、愛比売命さん
こんにちは。いま帰宅してメールを開けて、このサイトに直行しました。そんぴんさん、私も旧市内の米沢市出身です。「ことば」をいじくるのが好きで×十年、ずーっと米沢弁と広島弁の違いを楽しんでエッセイを書いたりしてきました。愛比売命さん、というわけで、東北出身の広島人です。26歳で広島にきて、広島在住の方が長くなりました。米沢弁をバイリンガルとして、「おくにことば研究会」では、トーホク弁代表とされ、ひとくくりにすると、目をむかれそうですが、広島ではズーズー弁は同じに聞こえるようです。米沢弁で山形の昔話を語って広島の人を煙にまいています。広島弁も明治生まれの夫の母に伝授されたものを武器に広島の昔話も語る、両刀使いです。夫も子どもも広島生まれの広島育ちで、時折あやしげな私の広島弁は修正を余儀なくされ、ますます磨きがかかります。
さて、数日前から、「來秋」じゃ「来広」じゃとかしましい論争?が面白く展開されていますが、児童文学月刊書評誌「子どもの本棚」5月号を読んでいたら、巻頭言の中に「五度訪越した」という言葉に出会いました。「來広」「來秋」「來盤」が気になっていた折も折り、外国を訪れることは「訪中」「訪米」「訪英」ということ、これも「來広」と同じ次元で考えられることですね。ただし、海外の場合は、すべて国名を日本語で漢字化しないと使えない。さあ、各国名を漢字に直したらどうなるのでしょうか。お暇な方、各国名漢字一覧をよろしくお願いいたします。
ところで、「訪越」はベトナムを訪れたことですが、ベトナムは昔「越南」と呼ばれていたからです。歴史も紐解かないと、理由もわからない、奥深さがありますねえ。
[40092] 2005年 4月 19日(火)23:54:58がんす横丁まま さん
広島弁には安芸弁と備後弁があります
国道が通ってるじゃの、通ってないじゃのの会話は無視してマイペースで書き込ませていただきます。
さきほど、プロフィールの紹介を拝見しましたら、主力メンバーに結構広島人がおられるようで意を強くしました。また、般若堂そんぴんさんは山形県も米沢市!近郊と伺い、わがふるさとの方!と世間の狭さに驚きました。
「広島弁」と、ひとくくりで言ってしまいましたが、私は安芸弁を中心に話題を進めることにします。安芸弁と備後弁は、同じ広島弁でも随分違います。夫の母は、広島市八丁堀生まれの八丁堀育ち(広島の街のど真ん中)であることを誇りとしていました。だから、近郊界隈のことばで広島弁といえば「がんす」があげられますが、「街じゃつかわなんだ」と「がんす」を「いなかことば」と区別していました。が、そのうち、だれもが使うようになり、広島弁代表筆頭にまでなったものです。「がんす」は、
「あるんでがんひょうかのう」(あるのでしょうかね)「そがいなことがんせんでしょう」(そんなことないでしょう)などと使い、「ある」の丁寧な言い回しです。主にお年寄り(男女)が使い、若者は使いません。男の人は、中年ごろから使うようです。私はまだ使えませんが、いつか使おうと思っています。他に「広島じゃけん」の「じゃけん」「じゃけえ」」(だから、の意味)がありますが、この
「じゃけん」も、県北にいくと「だけえ」となり、安芸蒲刈島では「じゃきに」と言ったりします。語尾に気をつけていると、話し手のふるさとが感じとられて面白いですよ。ではまた。
[40065] 2005年 4月 19日(火)10:00:15がんす横丁まま さん
向宇品再々燃
もう一つ、どなたも指摘しておられなかったので、付け足します。
広島の宇品港(広島港)のある街側と向宇品島(元宇品)を結んでいる橋は、「あかつき橋」(通称めがね橋)といいます。築港した千田貞暁の偉業を称えて、「暁」の文字をとって「あかつき橋」になったといわれています。戦時中、ここ宇品に駐屯した陸軍運輸部隊を通称「あかつき部隊」といいました。原爆が投下された折、このあかつき部隊は、罹災者救出に不眠不休の働きをしてくれました。
「あかつき橋」の辺りが、宇品港の船溜まりですが、ここが唱歌「みなと」のモデルといわれています。しかし、作曲者吉田信太は、この曲で有名になり、明治35年広島高等師範学校開校とともに招聘されました。作詞者旗野十一郎は、東京音楽学校の国語の教師で、吉田とは師弟関係にあります。「みなと」作曲のいきさつは、安田寛著「日韓唱歌の源流」1999年刊p.156「港」血族の始祖 に詳しく載っています。作曲の授業中に小山作之助先生が褒めた歌だったんだって。では、どうして「詩碑」が建つに至ったかといいますと、吉田信太に招聘されたW氏が、吉田信太のあとを受け継ぎ、広島市民に広く西洋音楽を広める貢献をして、戦後1965年ごろ、広島のNHKテレビに出演した折に、「みなと」は宇品港がモデルだ、と発言したのが広まるきっかけになったようです。広島市民は、「みなと」の歌のイメージとよく似た宇品港ですから、歌のふるさとであってもいい、と思っています。


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