東京で最初の地下鉄として東京地下鉄道が浅草-上野間を開業したのは1927年末のことでした。この路線は1934年までに日本橋・銀座を経て新橋まで延長されました。
地上の市電で戦後に廃止されるまで“栄えある1系統”を掲げていたのは上野-日本橋-新橋-品川系統であり,この地下鉄路線も当初は品川へ向かう路線として計画されていました。
ただ,新橋開業の段階では,後から新橋-渋谷間を開業した東京高速鉄道との乗り入れを考慮したのか,新橋駅を品川方向ではなく西へ振った赤坂方向に変更していますね。この時点までに品川延長をやめたのでしょうか。
東京で地下鉄建設計画が具体化するのは1923年の関東大震災をはさんだ1920年代のことです。
1920年に実施された第1回国勢調査によれば,このときの東京市15区および隣接5郡の人口は以下のとおりです。
東京市 | 2,173,201 | 現:千代田・中央・港・新宿(東半)・文京・台東・墨田(南半)・江東(西半) |
荏原郡 | 253,871 | 現:品川・目黒・大田・世田谷(東半) |
豊多摩郡 | 278,403 | 現:渋谷・新宿(西半)・中野・杉並 |
北豊島郡 | 379,426 | 現:豊島・北・荒川・板橋・練馬 |
南足立郡 | 60,780 | 現:足立 |
南葛飾郡 | 204,538 | 現:墨田(北半)・江東(東半)・葛飾・江戸川 |
これに「北多摩郡砧村 3,680」「北多摩郡千歳村 4,287」(ともに現世田谷区西半)を加えると,ほぼ現在の23区の範囲となります。
関東大震災後の復興過程と京浜地区の重化学工業進出をはじめとする産業構造の転換によって東京への人口流入と市街地の膨張が急速に進行して,東京市は1932年に隣接5郡を編入して35区となるわけですが,それでもおそらくは敗戦前はもちろん,戦後しばらくまでの間,まさか半世紀後に新たに編入した5郡の区域が住宅で埋め尽くされることなど,想像だにできなかったことだろうと思います。
そのような中で計画され開業した銀座線です。
この当時の地下鉄計画は当然のことながら「東京市域=15区」の範囲+α(山手線の駅まで)ですね。
地上では東京市15区の外縁を境に内側・市内交通としての「市電」と周辺の都市間輸送に主眼を置く「私鉄」との役割分担が厳格に存在していました。地下鉄の基本的構想はこの市電エリアを対象にしていて,周辺私鉄との乗り入れとなどいう発想は全くなかったと思われます。
また,それをしようにも特に京浜・京王・京成は,昭和初期までは路面電車に毛の生えたような路線でしたから,現実には不可能であったでしょう。
玉電・王電・城東電車に至っては路面電車そのものでしたからね。
東京地下鉄道があつらえた電車は,長さ16mの全鋼製電車。1920年代後半としては標準的な長さです。路面電車起源の京王線では1960年代まで長さ14mの小型車が主力であったし,ほかの私鉄でも1970年代末くらいまでは16~18m級の電車が混在していましたから,銀座線のこの規格は必ずしも小さかったわけではないのですね。
それよりも,機関車と貨車は黒,客車は茶色というのが常識であった当時,地下での視認性を考慮して黄色く塗った電車は,耐火性を考慮した全鋼製の車体とともに,非常に画期的なものでした。保安面でも,機械式(打子式)ではあるけれどもATS(自動列車停止装置)を備えるなど,「当時としては」きわめて先進的な規格だったのですね。
かえって昭和初期にはきわめて進んだ技術を採用したがゆえに,1980年代まで大幅な更新をする必要もなくそれが使えてしまった。で,その間に東京では劇的な膨張が進んで,国鉄や周辺私鉄もそれに対応するために大規模な改良を行い,結果として取り残されてしまった,ということが言えるかもしれません。
そういえば,日比谷線を走っているのはいまだに18m級の電車ですね。これも,乗り入れ開始当時は東武側でも東急側でも標準の規格だったわけですが,その後それぞれ20m車両が標準となり,車両が大型化できず長編成化もできなくて列車あたりの輸送量の小さい日比谷線乗り入れ列車は双方にとって少々厄介な存在になっているようです。伊勢崎線も東横線も日比谷線とは別ルートの乗り入れ先を確保するに至ったというのも,そのような事情が関係するのでしょうかね。