上毛かるたの特徴の1つとして、歴史上の人物を扱った札が多いということがあると思います。近世から近代に至るまで、実にさまざまな本県ゆかりの人物が詠まれ、地域の偉人について理解を深めることができます。
ろ 老農船津傳次平
船津傳次平(ふなつでんじべい)
明治初年日本三農の1人とまでたたえられた傳次平は天保4年勢多郡富士見村に生まれ、青年時代から農事にはげみ、また赤城山に植林した。 その知識と努力が認められ、内務省御用掛・勧農事務取扱・農商務省農事試験場技師となり、農事改良や駒場農学校設立に尽くした。
ほ 誇る文豪田山花袋
田山花袋(たやまかたい)
群馬県が生んだ明治大正時代の大文学者の1人、自然主義作家の第1人者。 館林に生まれ若い頃上京して辛苦をなめつつ独学力行し、従軍記者や雑誌編集者となり、自然主義文学を唱えて文学界に貢献した。 漢詩・随筆・短歌もよくした。
へ 平和の使徒(つかい)新島襄
新島襄(にいじまじょう)
明治の宗教家・教育者としての新島襄を持つことは群馬県の誇りである。 安中藩の江戸屋敷に生まれアメリカで苦学し、帰国後明治8年京都に同志社を設立し、キリスト教主義の教育に従事した。 来たり学ぶ青年多く、精神界と教育界へ残した足跡は偉大である。
ぬ 沼田城下の塩原太助
塩原太助(しおばらたすけ)
沼田市は利根郡の中心都市で、この市に程近い新治村に、講談や芝居で有名な塩原太助は生まれた。 単身江戸に出て神田佐久間町の薪炭商山口屋の下男となり、勤勉で主人に愛され、その援助で店を構え、勤勉節約で大きな財産を作った。 公共のためにもよく尽くし、榛名神社に今も献燈が残っている。
わ 和算の大家関孝和
関孝和(せきこうわ/たかかず)※上毛かるたの読み札は「こうわ」と読ませています。
日本文化史上に輝く和算の大家に、関流の祖関孝和がある。 群馬県藤岡にゆかりの人で、江戸で研究を続け世界的学者となった。 その後和算はますます発展して大家を出したが、群馬県には斉藤宣義や荻原禎助のような偉才を出した。
れ 歴史に名高い新田義貞
新田義貞(にったよしさだ)
後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒した時、上野では新田義貞が一族と共にこれに加わり、鎌倉に討ち入った事は歴史上に有名である。 その後も義貞は南朝のために尽くしたが、越前藤島城攻撃中に戦死した。
こ 心の燈台内村鑑三
内村鑑三(うちむらかんぞう)
宗教家評論家として世界的偉人、高崎藩の江戸屋敷に生まれ、札幌農学校からアメリカの大学に学び、帰国後迫害と貧窮の中に著述に専念し聖書の研究と発行、日露戦争には非戦論を唱えた熱烈なキリスト教者であった。 「如何にして基督教者となりしか」は世界的名著である。
て 天下の義人茂左衛門
杉木茂左衛門(すぎきもざえもん)
利根郡月夜野町にある千日堂は、茂左衛門を祀ったもので、今もなお参詣人が絶えない。 寛文4年領主真田伊賀守の悪政に泣く、77ヶ村の民衆を救おうと、茂左衛門は一身を犠牲にし、辛苦の末将軍に直訴した。 領主は領地を取り上げられて処分され、茂左衛門も妻子と共に刑に処せられた。
かの新島襄も、実は群馬県出身者だったりするわけです・・・。
参照ホームページ
http://www.dorobune.com/tatebayashi/jyomokaruta.htm