[33236]両毛人さん が引用した墨田区ホームページ
西暦835年のこと。当時の政府の公文書に「住田河」…「すだ」と呼ばれていたと考えられています。
伊勢物語では、「すみだ川」
このほかの記録には、「隅田」をはじめ「墨多」「住田」「澄田」など、いくつかの字を当てています
[1089]Issieさん
「隅田」か「墨田」か,どうせ当て字ですから本来はどちらでもいいのです。
隅田川が初めて「住田の渡」として史料に登場した承和2年(835)は、伊勢物語のモデル在原業平(825-880)と同じ時代です。771年頃にルート変更
[18420][22929]された東海道の渡し場ですが、当時は利根川の下流なので、今とは比べ物にならない大河だったのでしょう。
伊勢物語第九(最後の3行)に、“武蔵の国と下つ総の国とのふたつがなかに、いと大きなる河あり、その河の名をば すみだ川 となんいひける”とあるように「両国」の「境川」でした。
渡し守に都鳥という名を教えられて、“名にしおはば いざ言問はん都鳥…”と詠んだという物語にちなんで名付けられた「言問橋」「業平橋」は準地名に、白くて嘴と脚が赤い ユリカモメは、東京都の鳥
http://prf.uub.jp/symbol.html になっています。
余談ですが、元祖隅田川は紀伊・大和国境の大和川上流部だそうで、そのため、中世には歌枕論争があったあったそうです。
すみだ郷土文化資料館だより
下総国葛飾郡隅田村(現在の向島付近)の村名と隅田川の名とどちらが古くからあったかは、不明なようです。
昔(と言っても時代はぐっと下がりますが)の地図ではどのようになっているかを調べてみました。
江戸切絵図は、住宅地図のような性格のせいか、水面の注記は少ないようです。「溜池」や「不忍池」はありますが、隅田川の注記が見当たりません。ア! タイトルに「隅田川向嶋絵図」とありました。
江戸絵図の流れを汲む明治4年東京大絵図(西が上)にも川の名はありません。大きな川は一つしかないから、大川でも隅田川でもかまわないのでしょう。
郡区町村編成法により15区ができた明治11年に(内務省)地理局地誌課が作成した「実測東京全図」(北が上になりました)では、橋場渡[白鬚橋付近]から下流に「墨田川」と縦書きで注記されています。墨田区よりもずっと前に、内務省が「墨田」を使っていた実例ですね。
参謀本部五千分一(明治16年測量)では、厩橋付近に「隅田川」、新大橋付近に「大川」、石川嶋で2つに分れる手前に「大川口」とあります。千住大橋から両国橋までが「隅田川」、その下流は「大川」という説を聞いたことがありますが、それを裏付けています。「大川口」の位置からすると、石川島・佃島は、もう“東京湾の島”なのでしょう。
参謀本部、陸地測量部、地理調査所、国土地理院という地形図の元締めは、以後「隅田川」を使い続けてゆきます。
河川管理を担当する内務省の方では、1896年に制定した河川法で、荒川水系であるところから「荒川」と認定し、以後69年間、河川法の上では隅田川の名は存在しないことになりました。
もっとも御府内備考に、浅草川について“荒川の一名なり。浅草の東辺を流るるゆへ呼名とす。又大川とも、宮戸川とも、墨田川とも称す。”とあるのをみると、河川法よりもずっと前、江戸時代から正式には荒川だったのかもしれません。
ともかく、地形図と同様に、東京市民も含めて一般の人々は、河川管理の都合がどうであれ、隅田川の名を使い続けてきました。
そして1965年には、やっと建設省も岩渕水門から下流を「隅田川」としました。
時代は戻って、明治45年9月20日13版「最新番地入東京市全図」。民間の手になるこの地図は、まだ江戸時代からの伝統である「西が上」
[33148]太白さん を引き継いでいます。
上流から下流に、右横書きの川の名を追ってゆきます。
まず、東京市外だった千住の「大橋」の上流に「荒川」。
これも市外の隅田川停車場付近から市内の竹屋ノ渡シ [言問橋付近] にかけて「隅田川」。
その先、吾妻橋まで「浅草川」。
吾妻橋と厩橋の間が「宮戸川」。
両国橋から 鉄橋に架け替え工事中の新大橋
[33199] にかけて「両国川」。
新大橋から下流、中洲ノ渡シ [清洲橋付近、清洲は清澄と中洲との合成] と永代橋を経て相生橋までが「大川」。
明治20年代に隅田川の浚渫土で造成された月島と京橋区本土との間の水路には、川の名がありません。海?まさか。 ここにある3つの渡船の中でも最新のカチドキノ渡シは、旅順陥落を記念した名前でした。
#「明治45年9月20日」は、本当は大正元年です。明治天皇崩御は7月30日。
# 印刷の変更手配が間に合わず、昭和64年の特許公報が しばらくの間発行されていたことを思い出しました。
陸地測量部・国土地理院の地形図に戻ります。
明治43年の大洪水を契機に開削された荒川放水路(工事中)が姿を見せた1:50000集成図(大正10年頃)では、「大川」の名が消えました。川口では、月島と本土間の水路と、相生橋の先の両方に「隅田川」と記されています。
1:50000集成図(昭和30年頃)になると、豊洲・晴海などの埋立地が生まれており、両者を結ぶ春海橋付近にも「隅田川」の字があります。晴海運河も隅田川?と思ったら、1:50000集成図(昭和56年頃)では消えています。
このようにして現在の隅田川の終点は、江東区との境界を離れて、浜離宮・竹芝付近になっているものと思われます。その先にあるレインボーブリッジや東京港トンネルは、もう東京湾。