[40181] 烏川碧碧 さん
#そういえば、モンゴル語と日本語は似ている、というような話も聞きますが、モンゴル語でも語頭の「R」を嫌ったのでしょうか?
語頭の「R」を嫌うというのは,日本語に限らず朝鮮/韓国語,ツングース語(満洲語など),モンゴル語,トルコ語といった“アジア北方”の言語に共通する特徴です。
「李」さんが韓国では「イ」さんになるのも,その例の1つですね。もっとも,北朝鮮では「リ」さんと呼ぶことになっていますが。
ともかく,それぞれの言語はその後の隣接言語との接触を通じて,それぞれの言語なりに「R」との折り合いをつけました。
だから,日本語にも「ら行」があるし,現代韓国語では“彼の国”を「ノシヤ」ではなく「ロシヤ」と呼んでいます。
9世紀のルス族の進出によるノブゴロド国・キエフ公国の建国がロシア国家の起源である――と高校の世界史の時間に習った覚えがあります。
「ルス族」というのはスウェーデンからやってきた「ヴァリャーグ」と呼ばれるバイキングの一派であると言われています。
実はフィンランド語で「ルス」と言うと,それは東隣のロシア人ではなく,西隣のスウェーデン人を指すようです。
ともかく,黒海北方の草原から森林に移り変わるあたりにスラブ人の東方集団が定着しました。彼らを「東スラブ人」と呼びます。
その東スラブ人を支配下において統合を果たしたのが「ルス族」でした。
それは9世紀,キエフに本拠を置いた オレグ によって統合されます。「ルス」は,後の東スラブ語(ロシア語)で「ルーシ」と呼ばれ,これを「キエフ・ルーシ」と呼びます。
キエフ・ルーシは10~11世紀にキリスト教(ギリシア正教)を受け入れ最盛期を迎えましたが,以後衰退し,各地域を支配する「クニャーシ」(“公”と訳される。ドイツ語の「ケーニヒ(王)」がスラブ語化した呼称)の領域に分裂しました。
13世紀のモンゴルの進出によって,「ルーシ」の東部はその支配下に入りました。
一方で,キエフ・ルーシの西部は,この時期に急成長したリトアニアや,ポーランドの支配下に入ります。
極めて乱暴な分け方をすれば,このときにモンゴルの支配下に入った地域が後の「ロシア」,リトアニアの支配下に入った地域が後の「ベラルーシ(白ロシア)」,ポーランドの支配下に入ったのが後のウクライナ(の,特に西部)にほぼ相当します。
現在のウクライナ東部からロシア南部のボルガ下流域・カスピ海北岸にわたるキプチャク草原に本拠をおいたモンゴル勢力(ジョチ・ウルス,キプチャク汗国)の間接支配下で,他のライバルを蹴落として台頭したのが モスクワ でした。
14~15世紀以降,衰退するモンゴルに反比例するように成長したモスクワは北東ルーシにおける覇権を獲得し,15世後半のイワン3世はモンゴルに替わって「ツァーリ」を称するようになりました。
「ツァーリ」とはローマの「カエサル」に由来し,ローマ皇帝の称号の1つでした[ただし,「アウグストゥス」よりもワンランク下]。バルカンに定着したスラブ人たちは,東ローマ=ビザンツ皇帝を「ツァーリ」と呼びました。また,6世紀に黒海北方から西方に移動し,強大な国家を形成した“ブルガール人”の指導者も「ツァーリ」と呼びました。やがて,ブルガール人はキリスト教を受け入れて周囲のスラブ人に同化し,彼らが支配した地域は「ブルガリア」と呼ばれるに至りました。
13世紀に北東ルーシがモンゴルの支配下に入ったとき,ここのスラブ人たちは彼らの上位支配者であるモンゴル人の統率者,すなわち「ハーン(可汗)」を「ツァーリ」と呼びました。
モスクワのイワン3世は,このモンゴル人ハーンの支配を排除したことによって「ツァーリ」の称号を手にしました。
さらに,オスマン勢力によってコンスタンチノープルが陥落してビザンツ帝国(東ローマ帝国)が滅亡すると,ビザンツ皇室との縁戚関係を根拠に「(東)ローマ皇帝」の地位も継承すると主張しました。
イワン3世に連なるモスクワの支配者は,ほかのルーシ諸公国の支配者同様,キエフ・ルーシのオレグ公,さらにその伝説上の祖先であるヴァリャーグ(バイキング)指導者リューリクの子孫であること,つまり「リューリク朝」の血統に連なることを支配の正統性としていました。
しかし,モスクワのリューリク朝は16世紀末に断絶して,ルーシは混乱状態に陥りました。
ムソルグスキーのオペラで知られる ボリス・ゴドゥノフ は,この混乱期にツァーリになった人物です。
この時期に,ルーシに干渉しまくったのがポーランドでした。後にロシアとポーランドの力関係は完全に逆転しますが,16世紀初めにはポーランドが東ヨーロッパで「最強の勢力」でした。
その混乱の中で1613年にミハイル・ロマノフがツァーリに即位して ロマノフ朝 が始まります。
(16世紀から17世紀の変わり目に成立し近代の入口まで続いたという点で,ロシアのロマノフ朝,中国の清朝,インドのムガル朝,フランスのブルボン朝,イギリスのスチュアート朝,そして日本の徳川幕府などは,世界史的に“同世代”の政権として注目すべき存在です。)
そして,17世紀前半に絶対権力を確立し同時に西欧化政策を進めた ピョートル1世(大帝) のとき,それまでのアジア的色彩とは違う西ヨーロッパの理屈に従って「イムペラートル(皇帝)」を名乗り,国号を正式に「ロシア」としました。
江戸時代前半に長崎のオランダ商館長が幕府に毎年提出していたレポート(和蘭風説書)ではこの国を「むすこーびや」,つまり「モスクワ」と呼んでいます。
「おろしや」という呼称が日本で広まるのは,どうやら早くても江戸時代後半以降のことなのですね。