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ロシアの国号について

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記事数=13件/更新日:2005年4月24日/編集者:YSK

ロシア語における男性形、女性形の話から、ロシアの国号についての話へと発展していきました。ロシアに造詣の深い常連の皆さんの、幅広い見識に裏打ちされたお話を、お楽しみください。

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[7279]2003年1月3日
深海魚
[7283]2003年1月3日
ニジェガロージェッツ
[7288]2003年1月3日
Issie
[7315]2003年1月4日
ニジェガロージェッツ
[7323]2003年1月4日
Issie
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ニジェガロージェッツ
[7390]2003年1月6日
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ニジェガロージェッツ
[7490]2003年1月9日
Issie
[15545]2003年5月20日
ニジェガロージェッツ
[15604]2003年5月20日
Issie
[40152]2005年4月21日
Issie
[40182]2005年4月22日
Issie

[7279] 2003年 1月 3日(金)00:52:28深海魚[雑魚] さん
おろしあ国
[7277] ニジェガロージェッツさん
>形容詞男性形(~スキー、等)をとり、
すると、チャイコフスキーやケレンスキーなどの名前は、男性たる必然性が伴うのでしょうか。そう言や
「日本人/ヤポンスキー」 でしたよね。

>「線」を表す単語は「リーニヤ」で女性名詞。
「○ーニヤ」 がロシア語で時々聞く女性名として、「ワーニャおじさん」 (Дядя Ваня) 辺りはどう解釈する
べきでしょうか。以上、ロシア語を全く解さない雑魚の素朴な疑問でした。
[7283] 2003年 1月 3日(金)01:59:19【1】ニジェガロージェッツ さん
Re:おろしあ国
[7279]雑魚さん
ロシア語の名詞の性別のお話。
一般的に語尾が「а ア、я ヤ」の名詞は女性名詞、「о オ、е イェ」は中性名詞、「ы ウィ、и イ」で終わるのは複数形、子音で終わる名詞は男性名詞です。が、例外も多々あります。
代表的なものが「папа(パーパ)パパ」「дядя(ジャージャ)おじさん」「мужчина(ムシチーナ)男」さらに男性の名前の愛称形の殆どは「イヴァン」が「ワーニャ」、「アレクサンドル」が「サーシャ」、「ミハイル」が「ミーシャ」といった具合になり、それらは格変化まで女性名詞と同一の変化となりますが紛れも無く男性名詞です。勿論それらに係る形容詞は男性形をとります。
ロシア人の姓の語尾ですが、雑魚さんが例に挙げられた「チャイコフスキー」のような形容詞男性形語尾を持つのは勿論男性で、女性(例えば氏の奥さんや娘さん)なら「チャイコフスカヤ」、御一家の場合は複数形で「チャイコフスキエ」となります。また、名詞語尾をとる姓では「プーチン」男性、「プーチナ」女性、「プーチヌィ」複数(プーチン家)となります。

形容詞と「~人」との関係で、「Япония(イェポーニヤ)日本」の形容詞男性形は японский(イェポンスキー)ですが、ロシア語では英語のように国名の形容詞形が「~人」を表すのではなく、独特の名詞が存在します。
日本人は男性が японец(イェポーニェツ)、女性が японка(イェポンカ)、複数形が японцы(イェポンツィ)。
また、ロシア人は男性が русский(ルースキー)、女性が русская(ルースカヤ)、複数形が русские(ルースキィエ)となり、国名としての「Россия(ラシーヤ)ロシア」の形容詞 русский(ルースキー)と同一の形をとりますが、その場合は民族としての「ロシア人」を意味し、ロシア連邦を構成する多民族すべてを含めての「ロシア人」は男性が россиянин(ラシヤーニン)といった別の名詞が存在します。

それと、日本でのロシアの古称「おろしあ」ですが、ロシア語の ро(ロ)はもの凄い巻き舌で発音され、日本人の耳にはどうしても「ロ」というより「オロ」という風に聞こえることから付いた名称だそうです。実際、大声で「ロシーヤ」と叫ぶより「オ」を付けて「ォロシーヤ」と叫んだ方が遥かに巻き舌の発音になる筈です。
以上、ロシア語の雑学から。ご参考までに。
[7288] 2003年 1月 3日(金)09:28:47Issie さん
Re^2:おろしあ国
北東アジアの言葉,モンゴル語やツングース語(満洲語が代表),朝鮮/韓国語にはオリジナルな単語に l や r で始まるものがない(あっても極めて少ない)という特徴があります。
韓国で「李」さんが「イ」さんとなり,「柳」さんが「ユ」さんなのは,中国語(漢字)の発音が韓国語風になってしまった結果ですね。でも韓国の人が r で始まる単語を発音できないわけではありません。近代になってからの外来語では rosiya(ロシヤ)のように r を発音しています。ただし,朝鮮/韓国語には“音声としての r と l ”の区別はありますが,それは位置による違い(母音の前[音節の始め]では r ,母音の後[音節の末尾]では l ,l で終わる音節に続くときも l )です。だから文字(ハングル)では2つの子音を書き分けることはしないわけで,結局は“音韻としての r と l の区別”はないということになります。
(なお北朝鮮では漢字語については r を表記して発音することになっています。だから北朝鮮の人の場合は「李」さんは「リ」さん,「柳」さんは「リュ」さんとなります。)
で,こういう特徴は日本語も共有します。辞書を見ればすぐわかるように「ら」行で始まる単語は極端に少ないし,あってもそれは漢字の熟語(つまり古代の中国語からの外来語,またはその模倣)か近代語からの外来語ですね(日本語には r と l の区別が全くありません)。

前段が長いですね。

[7283]ニジェガロージェッツ さん
>それと、日本でのロシアの古称「おろしあ」ですが、ロシア語の ро(ロ)はもの凄い巻き舌
>で発音され、日本人の耳にはどうしても「ロ」というより「オロ」という風に聞こえること
>から付いた名称だそうです。

前のようなわけで,日本語では「ら」行で始まる単語の発音は不安定です。…といっても,日本人がロシアとの接触を始める江戸時代半ば,すでに日本人は数百年にわたって膨大な漢字語で「ら」行で始まる単語を学習していますから,発音できない(しづらい)のではなくて,やはり「耳にそう聞こえた」から「おろしあ/おろしゃ」となったのだというのは説得力があります。
でも,もしかしたら別のルートもあるかもしれません。

というのは,あの国を「おろしあ」と呼ぶのは日本だけでなく,モンゴル語,満洲語,中国語,朝鮮/韓国語,つまり北東アジアの主要言語に共通していることなのです。
モンゴル語や満洲語では「オロス」,それを中国語では「俄羅斯」と音訳しました。だから現代中国語では「俄国」がロシアを意味します。で,この表記法は朝鮮半島にも持ち込まれたので,朝鮮/韓国語でも漢字でこの国を表すときには「俄国」(アーグク)となります(「露」あるいは「魯」というのは日本独自の表記です。中国や朝鮮半島では,おそらく通用しないと思われます)。
たぶん,この中で真っ先にロシア人と接触したのはモンゴル人ですから,おそらくはモンゴル語の「オロス」がモンゴル支配の「元」朝以降,中国語を経由して朝鮮半島にも広まったものと思われます。その先の日本列島はどうなんでしょうね。

反対に,ヨーロッパ諸言語の中でロシア語だけが中国を Китай (Kitai;キタイ)と呼ぶのも,モンゴル語の「キタイ」(現代モンゴル語=外モンゴルのハルハ語では Хятад [ヒャタッド])によるものだと言われています。
モンゴルに先立って中国の北部を支配していたのは契丹の「遼」でしたが,この「契丹」という中国語は彼ら契丹人の自称である「キタン/キタイ」を音訳したものです。もちろん,漢民族にとって契丹は異民族ですが,もっと北のモンゴルから見れば「中国」を支配しているのは契丹,つまり「キタイ」です。やがてモンゴルは,遼を滅ぼして代わりに中国北部を支配していた女真(ジェシェン,満洲[マンジュ]族の前身)の「金」を滅ぼして,まずは中国の北半分を支配することになりますが,「中国=キタイ」という呼び方はこうして定着します。
ロシアは,そのモンゴルの直接支配下にありましたから,おそらくはこのルートで「キタイ」という呼称がロシア語にも定着したものと思われます。

では,ほかのヨーロッパ語に「キタイ」は入らなかったかというと,そうではなくて,たとえばマルコ・ポーロはそのモンゴル(元)で活動してきたわけですから,彼は中国を「カタイ」と呼んでいます。英語の Cathay はこの系統の呼称です。
けれども結局,ロシア語以外では「秦」に由来するといわれる「シナ」系の呼称の方が,圧倒的に優勢なのですね。

もう1つ。
ロシア人はヨーロッパ人の中ではイギリス人と並ぶ“紅茶好き民族”です。
もちろん,お茶を飲む習慣がロシアに伝わるのはモンゴル支配よりもずっと後のことでしょうが,そのお茶は中国から中央アジア経由でロシアへ運ばれるのが主なルートでした。ロシア語で“お茶”を意味する чай (chai ;チャイ)は,おそらくトルコ語からの輸入だと思われますが,モンゴル支配の後半以降,中央アジアの共通語になったのはトルコ語(の一種)だったからです。
ロシアと東アジアとの関係というのは,ほかのヨーロッパ諸国から比べると,やはり特殊なものがあるのですね。
[7315] 2003年 1月 4日(土)01:32:11ニジェガロージェッツ さん
オロス・俄羅斯・おろしあ、そして「むすこうびや国」
[7288]Issie さん
詳細なレスありがとうございます。
北東アジア諸語における r と l の発音の子細。大変勉強になります。
私自身、ロシア語の発音練習ではrの音は問題ないのですが、lの発音には散々苦しめられました。
ですが、舌の位置から日本語の「ら・り・る・れ・ろ」は「ra・li・ru・re・ro」とローマ字化した方が実際の発音には近いとすら感じますが如何でしょうか?

近代以降のロシアのど真ん中、ヴォルガ河中流にあるタタールスタン共和国の原住民であるトルコ系のタタール人の言語では「ロシア」のことを「ウルス」と言ったような記憶があるのですが(うる覚えで失礼)、ここでもIssieさんの説の「オロス」「俄羅斯」と共通するものがありそうですね。
日本で「おろしあ」と呼ぶ以前に、あの国のことを「むすこうびや国」と呼んだことがあります。
日本にロシアのことが公式に初めて知られるのは1739年にスパンベルグ、ワリトン一行のロシア船3隻がカムチャツカより安房国長狭郡天津村、陸奥国田代浜に来航した時でしたが、その時の覚書に「むすこうびや国」との表記があったそうです。恐らくその語源は「モスクワ大公国(1276~1613)」だと思うのですが、天津村・田代浜事件の時とは時代的なズレがあり、私には謎です。

それとロシア語で中国のことを Китай(キタイ)と呼ぶことについて詳細に解説くださって、興味深く拝読させて頂きました。
直接関係はありませんが、モスクワの地下鉄についてのレスもあって、そこで思い出したことが地下鉄6号線と7号線がモスクワ都心で交差する乗換駅「Китай-город(キタイ・ゴーラト)」。
モスクワについての薀蓄を書いていた雑誌か旅行誌か何かにこの地名「キタイ・ゴーラト」を「キタイ=中国」と絡ませて、まるで嘗てそこにチャイナタウンが存在したかのような記述を見たことがあるのですが、実際には「中国」とは何の関係もなく、その語源は古代ロシア語の「 кита(キータ)=城壁」で、つまり「(モスクワ黎明期に存在した)城壁あたりの市街」といった意味ですね。
[7323] 2003年 1月 4日(土)11:19:36Issie さん
むすこうびや
[7315]ニジェガロージェッツ さん
>日本で「おろしあ」と呼ぶ以前に、あの国のことを「むすこうびや国」と呼んだことがあります。

その通りで,これは「モスクワ大公国」に由来する呼称です。オランダ経由で日本に入ってきたものですね。
江戸時代を通じて幕府は長崎・出島のオランダ商館長(バタビア=ジャカルタに本部を置く「オランダ東インド会社」の“日本支店長”)に毎年,世界情勢に関する詳細なレポートを提出することを義務付けていました。「和蘭(オランダ)風説書」などと呼ばれるものです。この中で,ロシアは「むすこうびや」つまりモスクワ大公国と呼ばれているのです。
(最近は少しずつ日本人の認識が改まってきているのですが,「鎖国」というのは日本が外国から目を背けていたという意味ではありません。幕府が外交と貿易を強力に管理し,情報を独占したいた状態を指します。「オランダ風説書」にはヨーロッパ各国をはじめアメリカやインドなど世界中の植民地の事細かいできごとが詳細に報告されています。ただ1つの例外は,ナポレオン戦争でオランダが一時消滅し,バタビアの東インド会社本部も接収されてしまっていたことを長崎商館長が隠し通したことです。いずれにせよ,幕府は世界中の情報を十分に把握していました。ただ,その情報を有効に活用し対処できるかどうかは,別の問題です。)

考えてみれば,ロシアが「ロシア Россия 」を対外的な正式名称にしたのはいつのことなのでしょう。もしかしたら,ツァーリが対外的に「インペラートル(皇帝)」の名乗りはじめるピョートル大帝の時代,つまり17世紀おわりから18世紀初め,日本の元禄から正保にかけての時代ではないか,と思っています。
当時のオランダをはじめとするヨーロッパ諸国は以前からの呼称である「モスクワ(大公国)」を相変わらず使用していたのではないか,と考えています。

ちなみに,ロシアのロマノフ朝の成立は1613年。中国の「清」朝が北京に移転し「明」に変わって中国を支配し始めるのが1644年(明からの独立は1616年)。徳川家康が征夷大将軍に任ぜられて江戸幕府を開いたのが1603年。
みんな「同世代」の政権なのですね。
[7380] 2003年 1月 6日(月)00:13:00ニジェガロージェッツ さん
国号としての「ロシア」
[7323]Issie さん
「むすこうびや」への詳細レス、いつもながらありがとうございます。

>考えてみれば,ロシアが「ロシア Россия 」を対外的な正式名称にしたのはいつのこと
>なのでしょう。もしかしたら,ツァーリが対外的に「インペラートル(皇帝)」の名乗り
>はじめるピョートル大帝の時代,つまり17世紀おわりから18世紀初め,日本の元禄から
>正保にかけての時代ではないか,と思っています。

気になって、手持ちの資料から調べてみました。
少し古い書籍(1989年出版)ですが、平凡社の「ロシア・ソ連を知る事典」によれば、「ロシア」という国号が国家の名称として公式に用いられるのは18世紀初めからで、「ロシア帝国」は正式には1721年にピョートル1世(大帝)がインペラートル(皇帝)の称号をとったのに始まるようで、Issieさんのおっしゃる説と同じです。
この事典では、15世紀半ばから17世紀末までを「モスクワ・ロシア」としており、その国号を「モスクワ大公国」であったと見ています。
一方、ロシアの歴史教科書「ロシア史1」(1995年出版)にはモスクワ公国の諸公国征服・併合の様子が詳しく述べられた後、1478年のノヴゴロド併合の結果、北西ロシア地方で最後までモスクワに屈しなかったトヴェーリ公国を包囲する形となり、包囲戦を経て1485年にトヴェーリ公国を軍門に下し、同年、モスクワ公イワン3世が公式称号として「全ルーシの大公」を取得しました。諸史料によれば、この時初めて「ロシア」という名称が現れたと述べております。
この教科書ではそれ以降、ロシア帝国の成立までの記述は「ロシア Россия」「ロシア国家 Российское государство」と記されていますが、この歴史記述はあくまで国内的なものでしょう。
因みにこの1485年当時の「ロシア国家」の版図はベラルーシやうウクライナは勿論含まれず、カザン等ヴォルガ河中下流域もトルコ系のカザン汗国(1552年征服)、アストラハン汗国(1556年征服)の版図で論外、狭義のロシアの内でもプスコフ(1510年併合)、リャザン公国(1521年併合)が未平定で、対外的にはやはり「モスクワ大公国」だったのでしょうか。
[7390] 2003年 1月 6日(月)02:07:19【1】Issie さん
ルーシとロシア
[7380] ニジェガロージェッツ さん
いくつかの論点があるように思います。

1つ。
近代以前のヨーロッパに対外的にも国内的にも「正式国号」なる概念があったのだろうか。
アメリカ独立戦争とフランス革命を経て「国民国家」という概念ができあがり,具体的な国家体制として「立憲主義体制」が整備される。その憲法に記された名称が,その国の“正式名称”として理解され,その理解の上に国家間の交流(外交)が行われる。…という経験の積み重ねの上に,現代的な意味での「正式国号」という概念ができあがったのではないか,そう考えます。

2つ。
「ロシア帝国」の成立というのは要するに,多くの地域国家に分裂していた「ロシア」と呼ばれる地域を「モスクワ大公」が統一した,ということですよね。イワン3世のリューリック家が断絶してロマノフ家に替わる(これが1613年)ということはあっても,国家としては「モスクワ大公国」からの連続性が断絶しているわけではないのです。少なくとも外から見れば「モスクワ」がずっと続いている。漠然とした地域呼称としての「ロシア」と,具体的な国家の呼称である「モスクワ」とは違うように認識されていたかもしれない。

3つ。
>モスクワ公イワン3世が公式称号として「全ルーシの大公」を取得しました。
>諸史料によれば、この時初めて「ロシア」という名称が現れたと述べております。

ここが微妙なのですが,確かにイワン3世が「全ルーシの大公」を名乗ったからといって,その「ルーシ Русь 」と「ロシア Россия 」とを同一視できるのか。
ロシア人の先祖である東スラブ人固有の呼称は「ルーシ」ですね。ロシア人を意味する русский (ルースキィ)の元になったのは「ロシア」ではなく「ルーシ」です。
(「ルーシ」という呼称そのものには,9世紀末にキエフ・ルーシを開いたリューリック家がそう言われているように,スウェーデン起源という説が広く知られています。異論もないわけではないのですが,実際,フィンランド語で「ルス」と言うと,それは「ロシア」ではなく「スウェーデン」を指すのだそうです。)
もちろん,西ヨーロッパ諸語の Russia という呼称の源も「ルーシ」なわけですが,そもそも“ラテン語の国名語尾”である -ia をつけているあたり,Россия という呼称には極めて人工的な匂いがします。もしかしたら,西ヨーロッパからの逆輸入ではないか。

「全ルーシの大公」を称したイワン3世は,その少し前にオスマン朝に滅ぼされたビザンツ皇帝=東ローマ皇帝の後継者(婚姻関係で最後の皇帝につながっていたので)として「ツァーリ」を称し,皇帝の象徴の「双頭の鷲」の紋章まで受け継いでしまうのですが(一方の西ローマ皇帝の後継者たる「神聖ローマ皇帝」のハプスブルク家の紋章も「双頭の鷲」),それを西ヨーロッパ式の「インペラートル」に変えたのがピョートル大帝なのですね(国内では最後のニコライ2世まで「ツァーリ」と呼ばれ続けますが)。そして,彼の下でロシアは西ヨーロッパのシステムに基づく国家体制の確立をめざすことになります。ロシア版「脱亜入欧」「文明開化」。
やはり,「ロシア」が意識的に使われる始めるのはこの頃ではないかな,と思う次第でした。
[7487] 2003年 1月 8日(水)23:28:26ニジェガロージェッツ さん
Re:ルーシとロシア
[7390]Issie さん
ルーシとロシアに関する論点をまとめて、詳しくご教授下さりありがとうございます。

拙稿[7380]にある
>1485年にトヴェーリ公国を軍門に下し、
>同年、モスクワ公イワン3世が公式称号として「全ルーシの大公」を取得しました。
>諸史料によれば、この時初めて「ロシア」という名称が現れた
この部分、ロシアの歴史教科書からの引用ですが、この文は更に
「国家の紋章となったのは神聖ローマ帝国(ドイツ)から転用した双頭の鷲である」とあり、
この「双頭の鷲」は後にロシア帝国の紋章となったもので、モスクワ大公国とロシア帝国の連続性を物語るものです。
確かに、このイワン3世は9世紀末にキエフ・ルーシを開いたリュ―リック家の流れをくむ血統ですが、そのことから「ロシア」の古称を単純に「ルーシ」とは出来ないようですね。
「古ルーシ」と呼ばれるキエフ・ルーシの版図はキエフからドニェプル川流域を中心として、南は黒海北西岸から北はラドガ湖あたりまでで、現在のウクライナ(東部およびクリミア半島を除く)、ベラルーシとロシアの北西地方に当たる部分で、15~16世紀のモスクワ大公国の版図とは大きく西にずれています。
キエフ・ルーシは12世紀には各地の諸侯がそれぞれに公国をうちたてて、北からノヴゴロド、ヴラジーミル=スズダリ、ムロム=リャザン、スモレンスク、ポロツク、チェルニゴフ、トゥロフ=ピンスク、ガリチ=ヴォルィン、ペレヤスラフ、キエフの各公国に分裂し、この分裂状態の最中にモンゴル軍バツー汗の侵攻を受け、最終的にはノヴゴロド以外はキプチャク汗国の支配下に置かれる訳です。
キプチャク汗国にくみ込まれた各公国は「上納金」を納めながらも一定の自治を認められ、この中でモンゴルの力を借りてルーシ地域の中心としてのし上がったのが、嘗てヴラジーミル公国に属していた新興のモスクワでした。
ということで、「ロシア」がそのモスクワ公国の流れをくむのであれば、キエフをルーツとする「ルーシ」とは明らかに違うものですね。このイワン3世の時代にはウクライナ、ベラルーシは大リトアニア公国(後にポーランドと統合)の版図でしたが、ロシア帝国の時代にはポーランド分割(1772,1793,1795の三度)を経てロシアに統合されたため、「ルーシ」=「ロシア」と思われたのでしょうか。
ソ連邦解体により、ルーシの中心地域を占めるウクライナ、ベラルーシが独立し、ロシアと別個の国家となった現在ではもはや「ルーシ」は「ロシア」ではないのでしょう。
[7490] 2003年 1月 9日(木)00:30:21Issie さん
Re^2:ルーシとロシア
[7487] ニジェガロージェッツ さん
>ソ連邦解体により、ルーシの中心地域を占めるウクライナ、ベラルーシが独立し、
>ロシアと別個の国家となった現在ではもはや「ルーシ」は「ロシア」ではないのでしょう。

ロシアの人がこのあたりをどのように思っているのかわからないのですが,
私は現在の地図であえてロシアとウクライナを分けて「ルーシ」と「ロシア」を別のものとする必要はないのではないかと思います。
キエフが衰退した後,(途中をすっ飛ばせば)ウラジーミルに東スラブの中心が移り,やがてモスクワが成長する。その間にモンゴルの侵略と支配を受け,一方キエフのあたりはリトアニア・ポーランドの支配下に入る。こうして,いわゆる「大ロシア」とウクライナ,ベラルーシ(白ロシア)が分化していくわけだけど,元々は全体で1つのまとまりを意識していたのではないか。それぞれの地域を支配した諸侯たちは,その支配の正統性をキエフからの連続性に求めていたのではないか。
ウクライナの側からすれば,ロシアからの自立という譲れない立場がありますからキエフの独自性というものを主張し,ロシアとの差異を強調するでしょうが,ロシアの側から見ればどうなのでしょう。キリスト教(ロシア正教<ギリシア正教)信仰の点からも,ロシアの国家形成という点からも,自分たちのルーツをキエフ・ルーシに求める気持ちはあるのではないかと思っているのですが。
[15545] 2003年 5月 20日(火)00:30:58ニジェガロージェッツ さん
RUSSIA それとも ROSSIJA ?
[15467]KN さん
掲示板一のロシアの名人ではないでしょうか。
いえ、滅相もございません。小生などはタダのもの好きですよ。

何故アノ発音でルシアではなくロシアとなったのでしょうか?
英語で「RUSSIA」のことでしょうか?
これについては、小生英語をアルファーベットすら覚えておらず、知識0ですからお答えしようがございません。どなた様かご存知の先生方が居られましたら、是非、お教え願いたいところです。
また、ロシア語では「РОССИЯ」、つまり英字に転字すれば「ROSSIYA」または「ROSSIJA」ですね。
むこうの郵便切手には「RUSSIJA」と書かれています。これなどは、日本の郵便切手に「JAPAN」ではなく「NIPPON」と書いているのと同じですね。

またロシアの古称を「ルーシ」(ロシア語で「Русь」、英字に転字して「Rus’」)ですね。ここでは「Ru」です。
このあたりの事情についてはIssie先生が詳しくご説明されていますよ。
両毛人さんご編集のアーカイブ「ロシアの国号について」
http://uub.jp/arc/arc82.html
をご参考になさって下さい。
[15604] 2003年 5月 20日(火)20:51:23Issie さん
おろしゃ
[15467] KN さん
[15545] ニジェガロージェッツ さん

考えてみれば,なぜ「ロシア」なの?ってのは結構謎かもしれませんね。

英語(アングル語,イングランド語)では Russia,「ラッシャ」ですね。聞きようによっては「ロシア」に聞こえないこともない。文字をそのまま読めば「ルシア」ですが。
参考までに,近代の日本語に影響を与えそうな英語以外の言語での呼称を確認すると,
 ドイツ語: Russland (ルスラント) --- ss は“エスツェット”
 オランダ語: Rusland (ルスラント)
 フランス語: Russie (リュスィ)

外にスペイン語やポルトガル語が日本語に影響を与えそうですが,この両国が圧倒的な影響力を持った16世紀末から17世紀初めにはロマノフ朝はまだ成立せず,広域地名としての「ロシア」が日本語に入ってくることはなかったでしょう。ロマノフ朝成立当時のオランダ文書でも「むすこうびあ=モスクワ大公国」と呼んでいるわけですから。
やっぱり,モンゴル経由の「おろす」「おろしゃ」という呼称が日本語に既に入っていたせいがあるのではないでしょうか。
そもそも,江戸幕府がロシアと接触したのは,アメリカよりもずっと古いのですよね(イギリスとは,家康の時代の三浦按針[ウイリアム・アダムズ]を通じた接触があったけれども,家光以降は断絶していますから)。
[40152] 2005年 4月 21日(木)20:38:48Issie さん
俄羅斯
[40150] 烏川碧碧 さん
あと、ロシアを「俄羅斯」とするのは、むかし日本で「おろしや」と呼んでいたことにも通ずるのでしょうか?

むしろ,日本語の「おろしや」がどういうルートで入ってきたのかに関心があるのですが,中国語の場合にはもっと直接にモンゴル語の「オロス Орос」に由来するものだと思います。
「ロシア」という名前の国ないしは民族が現れるのは意外に新しくて,モンゴル支配を経た14~15世紀以降のことです。
中国人は,恐らくモンゴル人を仲介にして「ロシア」という勢力に接触したはずです。

ずっと以前にも話題になったのですが,
反対にロシア語で中国を「キタイ Китай」というのは,「モンゴル」と呼ばれた遊牧集団が13世紀に急成長する直前,中国北部を支配していた「キタイ」すなわち 契丹(遼)を指して呼んでいた名前がロシア語に入ったものと考えられています。
モンゴル支配下の中国(つまり,元)に入ったマルコ・ポーロも「キタイ」という呼称を「カタイ」という形でヨーロッパに持ち帰っています。
(いや,マルコ・ポーロを持ち出さずとも,その頃に草原の遊牧民からシルク・ロードのオアシス農民に姿を変えつつあったトルコ人の言葉=トルコ語経由でヨーロッパに入ったとも言われていますが。)
「キャセイ Cathay」とは,この「カタイ」に由来する呼称です。

幕末以降の日本では当初,「魯」の方がロシアを表わす文字として優勢であったようですが,やがて「露」で表記することが一般的になります。もしかしたら「明治三十七・三十八年戦役」を「日露戦争」と呼ぶことが一般化したことと関連するのでしょうかね。
いずれにせよ,朝鮮王朝(大韓帝国)でも「俄」の字を使用していたようなので,日本以外では通用しない表記であるようです。

[40148] hmt さん
1802年にベトナムを統一した阮朝(グエン朝)は、紀元前に前漢に対抗した南越国の栄光にあやかり国名を「南越」にしようとしたが、中国の清王朝の猛反対にあって、「越南」という国名になったとか。

このあたり,満洲(女真)族王朝である清朝が,意識の上で漢族以上に「中国化」していたことを表わしているのかもしれませんね。
[40182] 2005年 4月 22日(金)21:46:58Issie さん
ラシースカヤ・イムペーリア (ロシア帝国)
[40181] 烏川碧碧 さん
#そういえば、モンゴル語と日本語は似ている、というような話も聞きますが、モンゴル語でも語頭の「R」を嫌ったのでしょうか?

語頭の「R」を嫌うというのは,日本語に限らず朝鮮/韓国語,ツングース語(満洲語など),モンゴル語,トルコ語といった“アジア北方”の言語に共通する特徴です。
「李」さんが韓国では「イ」さんになるのも,その例の1つですね。もっとも,北朝鮮では「リ」さんと呼ぶことになっていますが。
ともかく,それぞれの言語はその後の隣接言語との接触を通じて,それぞれの言語なりに「R」との折り合いをつけました。
だから,日本語にも「ら行」があるし,現代韓国語では“彼の国”を「ノシヤ」ではなく「ロシヤ」と呼んでいます。

9世紀のルス族の進出によるノブゴロド国・キエフ公国の建国がロシア国家の起源である――と高校の世界史の時間に習った覚えがあります。

「ルス族」というのはスウェーデンからやってきた「ヴァリャーグ」と呼ばれるバイキングの一派であると言われています。
実はフィンランド語で「ルス」と言うと,それは東隣のロシア人ではなく,西隣のスウェーデン人を指すようです。
ともかく,黒海北方の草原から森林に移り変わるあたりにスラブ人の東方集団が定着しました。彼らを「東スラブ人」と呼びます。
その東スラブ人を支配下において統合を果たしたのが「ルス族」でした。
それは9世紀,キエフに本拠を置いた オレグ によって統合されます。「ルス」は,後の東スラブ語(ロシア語)で「ルーシ」と呼ばれ,これを「キエフ・ルーシ」と呼びます。

キエフ・ルーシは10~11世紀にキリスト教(ギリシア正教)を受け入れ最盛期を迎えましたが,以後衰退し,各地域を支配する「クニャーシ」(“公”と訳される。ドイツ語の「ケーニヒ(王)」がスラブ語化した呼称)の領域に分裂しました。
13世紀のモンゴルの進出によって,「ルーシ」の東部はその支配下に入りました。
一方で,キエフ・ルーシの西部は,この時期に急成長したリトアニアや,ポーランドの支配下に入ります。
極めて乱暴な分け方をすれば,このときにモンゴルの支配下に入った地域が後の「ロシア」,リトアニアの支配下に入った地域が後の「ベラルーシ(白ロシア)」,ポーランドの支配下に入ったのが後のウクライナ(の,特に西部)にほぼ相当します。

現在のウクライナ東部からロシア南部のボルガ下流域・カスピ海北岸にわたるキプチャク草原に本拠をおいたモンゴル勢力(ジョチ・ウルス,キプチャク汗国)の間接支配下で,他のライバルを蹴落として台頭したのが モスクワ でした。
14~15世紀以降,衰退するモンゴルに反比例するように成長したモスクワは北東ルーシにおける覇権を獲得し,15世後半のイワン3世はモンゴルに替わって「ツァーリ」を称するようになりました。

「ツァーリ」とはローマの「カエサル」に由来し,ローマ皇帝の称号の1つでした[ただし,「アウグストゥス」よりもワンランク下]。バルカンに定着したスラブ人たちは,東ローマ=ビザンツ皇帝を「ツァーリ」と呼びました。また,6世紀に黒海北方から西方に移動し,強大な国家を形成した“ブルガール人”の指導者も「ツァーリ」と呼びました。やがて,ブルガール人はキリスト教を受け入れて周囲のスラブ人に同化し,彼らが支配した地域は「ブルガリア」と呼ばれるに至りました。
13世紀に北東ルーシがモンゴルの支配下に入ったとき,ここのスラブ人たちは彼らの上位支配者であるモンゴル人の統率者,すなわち「ハーン(可汗)」を「ツァーリ」と呼びました。

モスクワのイワン3世は,このモンゴル人ハーンの支配を排除したことによって「ツァーリ」の称号を手にしました。
さらに,オスマン勢力によってコンスタンチノープルが陥落してビザンツ帝国(東ローマ帝国)が滅亡すると,ビザンツ皇室との縁戚関係を根拠に「(東)ローマ皇帝」の地位も継承すると主張しました。

イワン3世に連なるモスクワの支配者は,ほかのルーシ諸公国の支配者同様,キエフ・ルーシのオレグ公,さらにその伝説上の祖先であるヴァリャーグ(バイキング)指導者リューリクの子孫であること,つまり「リューリク朝」の血統に連なることを支配の正統性としていました。
しかし,モスクワのリューリク朝は16世紀末に断絶して,ルーシは混乱状態に陥りました。
ムソルグスキーのオペラで知られる ボリス・ゴドゥノフ は,この混乱期にツァーリになった人物です。
この時期に,ルーシに干渉しまくったのがポーランドでした。後にロシアとポーランドの力関係は完全に逆転しますが,16世紀初めにはポーランドが東ヨーロッパで「最強の勢力」でした。
その混乱の中で1613年にミハイル・ロマノフがツァーリに即位して ロマノフ朝 が始まります。
(16世紀から17世紀の変わり目に成立し近代の入口まで続いたという点で,ロシアのロマノフ朝,中国の清朝,インドのムガル朝,フランスのブルボン朝,イギリスのスチュアート朝,そして日本の徳川幕府などは,世界史的に“同世代”の政権として注目すべき存在です。)

そして,17世紀前半に絶対権力を確立し同時に西欧化政策を進めた ピョートル1世(大帝) のとき,それまでのアジア的色彩とは違う西ヨーロッパの理屈に従って「イムペラートル(皇帝)」を名乗り,国号を正式に「ロシア」としました。

江戸時代前半に長崎のオランダ商館長が幕府に毎年提出していたレポート(和蘭風説書)ではこの国を「むすこーびや」,つまり「モスクワ」と呼んでいます。
「おろしや」という呼称が日本で広まるのは,どうやら早くても江戸時代後半以降のことなのですね。

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