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YTさんの記事が5件見つかりました

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[77758] 2011年 3月 12日(土)00:20:40YT さん
大学構内
私も帰宅難民状態で、23区内の某大学の建物内にて待機中です。
地震の最中には一歩間違えれば大火災が起こりかねない高層階の実験室におり、地震の時はとにかく生きた心地がしませんでした。

近い親戚の安否は確認できておりますが、母方の実家のある宮城県の親戚の無事の確認が取れず、不安な状況です。

ネットやラジオは情報収集のために非常に役立っておりますが、携帯電話が全く使えない状況になるとは思い至りませんでした。
[77105] 2010年 12月 26日(日)01:53:12YT さん
『文禄二年十一月蒲生領人別調』に関する高橋梵仙氏の意見
[77104] hmt さん
「独案内」とは、「ひとりあんない」と読み、独習書という意味です。
中身を見ると英語読本ですね。

Entschuldigen Sie bitte!

住所や肩書にばかりに気を取られ、全く中身を読んでいませんでした。英語は得意だし、ドイツ語はそこそこ読めると自負していただけに恥ずかしい限りです。ついでに改めて調べたところ、『統計入門』の原書は、クレマン・ジョセフ・ガルニエ Clement Joseph Garnier (1813-1881)というフランスの経済学者でして、『統計入門』の翻訳は高橋二郎氏が専ら行ったのかも知れません。あるいは英訳版からの翻訳とか。

何れにせよ[77102]で蒲生俊氏について
ドイツ語の教育を受け、当時おそらく教育関係でドイツ語を教えており、
と推定したことについては、「当時おそらく教育関係で英語を教えており」に訂正します。

蒲生俊氏の記事に対する高橋梵仙(『日本人口史之研究』)のコメントを見つけたので紹介します。

 蒲生氏郷(文禄四年(一五九五)二月七日歿、年四十)が戦功の故を以て、天正十八年(一五九〇)八月羽柴秀吉より陸奥国会津六郡の地に、越後(小川の庄)、山道の地を合せて十二郡を賜わり、陸奥・出羽の守護職を給わることになった。翌十九年(一五九一)夏には秀吉に叛した陸奥国福岡城主九戸政実(天正十九年(一五九一)九月歿)を追討、其で去年・今年の勲功を賞し、秀吉は彼に奥・羽七郡(陸奥国田村・四本松・伊達・信夫・刈田、出羽国長井等)の地を加増し、蒲生領は十九郡百廿万八千五百石になった。氏郷は文禄二年(一五九三)二月廿七日「領内人員取調」をしたことが伝えられ、後裔「蒲生俊」によって整理せられたものがある。しかし乍ら、この調査は一見甚だ珍しく思われるものではあるが、身分階層別人口については、果して斯く厳密に分別せられていたものか何うか、大いに疑団の深いものがある。然れどもここには疑を存して全文を掲げ、仍て後考に俟つことにする。

なお高橋梵仙の引用では『統計集誌 第十八号 昭和十六年二月 七三―五五頁』とありますが、『統計集誌 第十八号明治十六年二月 七三―七五頁』の間違いです。

蒲生氏郷は、一応「陸奥・出羽の守護職」を務めていたことから、もしかしたら伊達正宗領内の人別の情報を集められる立場にいたかも知れません。正直自分は学問としての歴史とは無縁の人間ですので、当時の東北の政治情勢についていかなる文献の裏打ちがあるのかまでは詳しく知りません。
[77102] 2010年 12月 25日(土)17:36:20【4】YT さん
屋代郷、蒲生俊
[77097] 般若堂そんぴん さん
「屋代郷」は現在の東置賜郡高畠町の一部ですね.上杉領になったり天領になったり,しばしば所属が変わったところです.慶応2年以前の変遷は引用された表には反映されていないように見えますね.

屋代郷は寛文4年(1664年)に米沢藩領を離れても、しばらくの間米沢藩の「預り地」となります。だから形式上は寛文4年(1664年)~慶応元年(1865年)の間は幕府の天領であったり、他藩領であったりします。屋代郷は嘉永元年(1848年)に米沢藩の預り地として三度目の復帰を果たし、米沢藩の実質的な所領として機能していましたが、米沢藩の正式な所領として復帰するのは慶応2年(1866年)に幕府が編入を認めてからです。

今『旧高旧領取調帳』を読み返しましたが、高畠村を中心とした屋代郷の旧領が「米沢藩領分」扱いになっていました。維新後の米沢藩の内高28万4748石(『統計集誌』)と置賜郡の内高(33万6645石5斗7升2合9勺4才, 『旧高旧領取調帳』)の差約5万2000石は、屋代郷分によるもののようです。

というか、屋代郷が置賜郡内の地名であることに気付きませんでした。よって[77092]
維新後は再び置賜郡オンリーの、表高14万7248石、内高28万4748石、現高6万3269石、総人口12万9753人に減らされます。
は「維新後は再び屋代郷を除いた、表高14万7248石、内高28万4748石、現高6万3269石、総人口12万9753人に減らされます。」に訂正します。

[77095]で紹介した記事の筆者、蒲生俊について少し調べたので紹介します。

蒲生俊は蒲生氏郷のことを「我十一世ノ祖」と紹介しておりますが、少なくとも蒲生氏郷には直系の子孫はいないと思われます。しかしながら兄弟や娘の子孫ならまだいることでしょう。1883年に『統計集誌』へ論文を投稿できる立場からすると、おそらく士族かそれに準じる家柄の人と思われます。そこでNACSIS Webcatや「GeNii 学術コンテンツ・ポータルで蒲生俊を検索したところ、同時期に様々なドイツ語の教科書の翻訳をしている蒲生俊という人物がいることを見つけました。

出版人:東京府士族 蒲生俊 東京四谷区四谷愛住町八十九番地
高橋二郎訳、蒲生俊校『統計入門』(1883年)

著述人:東京府士族 蒲生俊 東京四谷区四谷仲町三丁目七番地
蒲生俊著『世界未来記』(1885年)

訳者:蒲生俊 東京麹町区三番町十九番地
蒲生俊訳『スウィントン氏 第弐リーダー 独案内』(1888年)
蒲生俊訳『ロングマンス 第壱リードル 独案内』(1888年)
蒲生俊訳『ロングマンス 第弐リードル 独案内』(1888年)
蒲生俊訳『ロングマンス 第参リードル 独案内』(1888年)
蒲生俊訳『ロングマンス 第四読本 直訳』(1888年)

明治時代の東京四谷区四谷仲町三丁目七番地の住所から江戸時代の地図を検索したところ、該当箇所は将軍を護衛する鉄砲隊である「御持組」の屋敷群に相当したところから、当初蒲生俊の家柄は、御家人と推定しました・・・が、『統計入門』に記載の住所である東京四谷区四谷愛住町八十九番地からは、「浅羽」という旗本屋敷がヒットし、結局のところ蒲生俊は頻繁に住所を変えていて、先祖伝来の住居がどこなのかは分かりませんでした。ただ、『統計入門』という本の訳に関わっていることからも(訳者は高橋二郎で、出版人が蒲生俊となっているが、NACSIS webcatの情報によると蒲生俊は校正人になっている)、『統計集誌』に先祖伝来の文書を発表する繋がりは見て取れます。

『統計入門』の翻訳はメインを務めてはいないようですが、その後の各種ドイツ語教科書は蒲生俊がほぼ全てを訳しているようです。また『世界未来記』は、未来世界を予測した本のようです。

まあ蒲生俊が決して怪しげな人物ではなく、先祖代々おそらく将軍家に仕えていた御家人クラスの家出身の東京府士族で、ドイツ語の教育を受け、当時おそらく教育関係でドイツ語を教えており、先祖伝来(と信じているところ)の文書を『統計集誌』に発表したということはいえるでしょう。ただ、それでも文書の中身の怪しげな点が残ります。

記事では戦国~江戸時代初期には長井郡と呼ばれるのが一般的であった置賜郡のことを「置賜」と表記しています。また、刈田、伊達、信夫、安積、安達、岩瀬、会津、耶麻、河沼、大沼、田村、置賜の各郡と越後小河ノ庄(以上合計55万1535人)、表から欠落しているという石川郡が蒲生氏郷の所領であったのはいいとして、糠部、江刺、胆沢、磐井、閉伊、九戸、鹿角の各郡(合計24万2764人)が本当に蒲生氏郷領であったのでしょうか?なお55万人を92万石で割ると、1人0.60石となり、若干速水説に近づいた値となります。これらの地域が蒲生氏郷が主導となって検地を実施させた地域であり、報告に上がった数字をまとめただけというのなら、数字的にはありえそうなものには近づきます。ただ、なんとなくこの文書には、これら全ての地域が蒲生氏郷領であったというプロパガンダ的なものを感じます。

今手元にないので確認できませんが、高橋梵仙の『日本人口史之研究』(1941年)か関山直太郎の『近世日本人口の研究』(1948年)の何れかの本で、蒲生領の人別調についてコメントがあったような気がします。確か身分名表記について疑念があるようなことを書いていたように記憶しています。

【18:54頃、色々文章を追加しました。】
[77095] 2010年 12月 23日(木)21:22:15【1】YT さん
文禄2年旧暦11月27日(1594年1月18日)の蒲生氏郷領の人口
[76316][76317][76318]でまとめた明治初年の府藩県別族籍別人口は、『統計集誌』という雑誌から持ってきたものです。この雑誌のバックナンバーを読んだところ、非常に興味深い統計を見つけました。それは1883年の16号の73-75頁に掲載された『文禄二年十一月蒲生領人別調』です。文禄2年は大体西暦1593年に当たりますが、文禄2年旧暦11月27日はグレゴリオ暦で1594年1月18日に相当します。投稿者の名前は「蒲生俊」とあります。表は以下の通りです。

郡名士(男)農(男)工(男)商(男)浪人(男)身上不慥(男)穢多(男)合計(男)士(女)農(女)工(女)商(女)浪人(女)身上不慥(女)穢多(女)合計(女)合計(男女)
刈田2208,3241312577189,4071878,0351511016258,97318,380
伊達1,60824,7583030491,1002727,8361,42124,939282959502527,65855,494
信夫72815,52911235101,21117,72469215,6581622921,03117,62835,352
安積507,355797621457,734427,236562320877,56315,297
安達1,92520,455303621818222,9721,90819,53833337113921,95644,928
岩瀬2808,2192352142659,2852558,10813232328,91918,204
会津33,12824,256882,0275831359,87033,07224,542511,96826305459,968119,838
耶麻1,97215,7181719150018,2271,72515,235122042917,42135,648
河沼2188,89852521159,2632018,924823299,18518,448
大沼3857,68271232088,2972927,2545181927,76116,058
田村1,29218,350920930119,9811,12818,4411123222319,82839,809
糠部19,11811,680616722871832,27716,00814,80872669562732,18964,466
江刺5159,027219785187810,2644928,95715824376910,05220,316
胆沢57210,905201621162112,29148210,95419168269212,31724,608
磐井1,78225,82037219181,93229,8081,71825,2783222561,62528,88458,692
閉伊1,42020,67020176752522,8181,20820,5851914361822,57345,391
九戸58010,40511200954811,75340110,37715197229711,28923,042
置賜20,52813,548799783061835,78119,52914,48968962770035,75571,536
鹿角1802,6901792102823,2711672,46012862532,9786,249
越後小河ノ庄2,58225,928921,928426182531,2152,31826,471971,89755122831,32862,543
総計89,083290,2175778,10228711,668140400,07483,246292,2895347,8376210,124133394,225794,299

本表の解説は以下の通りです。漢字はフォントの都合もあり、大部分新字体に替えています。
本表中糠部郡トアルハ今ノ三戸郡ナリ又越後小河ノ庄ハ何レノ郡中ニアルヲ知ルヲ得ズ又石川郡ハ遺書ナキヲ以テ之ヲ欠ク
     備考
右調ハ今ヲ距ルコト殆ンド三百余年前即チ文禄二年十一月二十七日我十一世ノ祖氏郷カ其封土(百二十七万八千五百石)ニ施行シタルモノニシテ今日ヨリ見ルトキハ甚ダ疑フヘキモノ多シ然リト雖今存スル所ノ遺書ニ拠リ其ノ施行シタル目的ノ原理ヲ抜粋シテ此調ノ確実ナルヲ証ス
此人員調ノ起原ハ文禄元年征韓ノトキ氏郷其将タランコトヲ羽柴氏ニ請ヒシニ許サズ故ニ自ヲ奮テ征ント欲シ兵ヲ徴集スルニ方リテ遍ク我領内ノ民ヲ調査セシトキ左ノ条目ヲ布キタリ
     領内人員取調ノ条々
一文禄二年十一月二十七日領内ニ罷在実住人之事
一領内之住人者十一月二十六日限遠旅差止候事
一万一此条々相反候者ハ可処厳罰之候事
 文禄二年三月十一日
右調査ニ費シタル米金ハ左ノ如シ
 紙筆炭         千二百五十八判
 炭薪          八十二判
 品物買揚        百○二判
 賞典          五百○六判
 小買物         十八判
 賞米          百八十五石
 救助扶持米       二千三百六十二石八斗三合
  但シ救助扶持米ハ遠旅ヲ差止メタルカ為メ生活シ能ハザルモノハ文禄二年九月二日ヨリ翌年六月マデ与ヘタルモノナリ
実ニ今日ヨリ之ヲ見ル片ハ斯クカ夥多ノ米金ヲ費ヤシ漸ク盛ンニ軍備ヲナシタルノ事石田氏ノ耳孕ニ達シ遂ニ羽柴氏ニ讒スルニ至ル嗚呼憂国愛君ノ真情ヨリ発シタルヲ知ラズ雌雄ヲ干戈ニ訴フル能ハズシテ之ヲ毒殺スルニ至リ終ニ其大志ヲシテ達セシムコト能ハズ空シク一朝ノ露ト化セシメシハ予ガ今日ニ至ルマデ慨歎スル所ナリ諸君幸ニ予心ヲ諒シテ電覧ノ労ヲ惜ム勿レ
 但表中士ノ男百二十人、農ノ男七千人、身分不慥ノ男二十五人ハ僧。士ノ女十九人、農ノ女十八人、身分不慥ノ女二十人は尼。又士ノ男四万六千二百二十八人ハ家主(原字ノ儘又其内八千三百五十九人ハ諸士ノ卒ナリ)。一万七千百五十九人ハ十五歳以上ニシテ兵役ニ服スルニ足ルモノ。百九十一人ハ十五才異常ニシテ兵役ニ服ス能ハザルモノ(原書ハ御用相勤兼候者トアリ)。五百二十六人ハ七十歳以上ノモノニシテ隠居料ヲ受クルモノ、農工商等ハ遺書ナキニヨリ知ルヲ得ズ

子孫の嘆きが正統なものかどうかはさて置いて、蒲生氏郷の所領では127万8500石の所領に対して79万4299人が暮らしていたことになり、1石0.62人に相当します。92万石として計算すると1石0.86人となり、1600年頃としては1石で養える人口がかなり多めとなります。[72094]でまとめた、1600年の人口を1200万人とする鬼頭・速水説に従うと、陸奥73万4400人、出羽33万8500人なので、蒲生領79万4299人は推定値よりも明らかに多いことになります。もっとも鬼頭・速水説は、1750年の幕府掌握人口×1.2÷3で計算されたもので、1600年の人口を1750年の人口の半分とする1500万人説を用いると、陸奥110万1700人、出羽50万7800人となります。それでも蒲生領は東北の総人口の半分近くということになり、やはりこの数字が正しいかどうか疑問が残ります。「士農工商」という身分区分も安土桃山時代にどの程度採用されていたかどうか怪しいです。何よりも原史料が現在どこの所蔵となっているのかが分かりません。蒲生氏郷11世子孫の蒲生俊がいかなる人物かにも興味がありますが、現時点ではよくわかりません。

まあとりあえず、この情報が正しいとするなら、江戸時代を通じて東北地方の人口は3倍どころか、2倍増もぎりぎりだったということが言えます。

【旧暦→新暦の年月日修正】
[77092] 2010年 12月 23日(木)18:24:49YT さん
米沢藩の人口
[77088] oki さん

「天保郷帳」にしろ「旧高旧領取調帳」にしろ、名称や石高が実態とずれている場合は少なくありません。特に天保郷帳は諸藩が幕府に提出した資料がもとになっており、外様大藩の場合は幕府向けと藩内用との二重帳簿を作成している事例がよくあります。

『天保郷帳』記載の内高21万6161石2斗2升0合2勺4才(天保5年(1834年)現在)から『旧高旧領取調帳』記載の内高33万6645石5斗7升2合9勺4才(一応、明治元年(1868年)現在)へ、わずか34年間の間に内高が12万石、56%増加したということ自体、幕府へ報告した内高と、藩内で把握していた内高の間にかなりの差があることを示しているといえるでしょう。

ただ、米沢藩に関しては人口についても異常な点があります。米沢図書館所蔵の『秘庫文書 八』に、米沢藩時代の人別の集計が元禄5年(1692年)~慶応3年(1867年)までの176年間分が途切れることなく伝わっています。これだけ長期間の間の人口変遷が残っているのは、他には例がありません。高知土佐藩の場合、天和元年(1681年)から寛政10年(1798年)までの118年分が『土佐史料』の「楠目氏覚書」に記載されていましが、原史料は二次大戦の空襲で焼失してしまっています。南部盛岡藩もかなりの記録が残っていますが、途中から数字に手心が加わり、飢饉による人口減少を隠蔽したと考えられています(詳しい解説は速水融「近世日本の人口構造と変動」日本学士院紀要, 2007年, 62巻(3号), 285-309頁参照)。

『秘庫文書』記載の米沢藩の人口変遷については、吉田義信『置賜郡民衆生活史』(1973年)から引用しますと、以下の通りです。

元号西暦総人口元号西暦総人口元号西暦総人口元号西暦総人口
元禄5年1692年133,259元文元年1736年114,307安永9年1780年103,628文政7年1824年110,183
元禄6年1693年132,199元文2年1737年113,983天明元年1781年103,789文政8年1825年110,341
元禄7年1694年131,966元文3年1738年113,314天明2年1782年103,569文政9年1826年110,859
元禄8年1695年132,187元文4年1739年112,315天明3年1783年103,991文政10年1827年111,710
元禄9年1696年131,973元文5年1740年112,378天明4年1784年103,281文政11年1828年112,854
元禄10年1697年130,568寛保元年1741年111,578天明5年1785年100,946文政12年1829年113,619
元禄11年1698年130,102寛保2年1742年111,458天明6年1786年100,381天保元年1830年113,860
元禄12年1699年129,734寛保3年1743年111,283天明7年1787年99,985天保2年1831年113,651
元禄13年1700年128,696延享元年1744年111,118天明8年1788年99,508天保3年1832年114,373
元禄14年1701年128,407延享2年1745年110,178寛政元年1789年99,123天保4年1833年114,999
元禄15年1702年128,031延享3年1746年110,064寛政2年1790年99,296天保5年1834年115,300
元禄16年1703年127,062延享4年1747年110,232寛政3年1791年99,119天保6年1835年114,109
宝永元年1704年126,513寛延元年1748年109,882寛政4年1792年99,085天保7年1836年115,085
宝永2年1705年125,954寛延2年1749年108,885寛政5年1793年99,785天保8年1837年114,983
宝永3年1706年124,893寛延3年1750年108,859寛政6年1794年101,124天保9年1838年113,404
宝永4年1707年124,540宝暦元年1751年108,623寛政7年1795年102,236天保10年1839年113,113
宝永5年1708年123,852宝暦2年1752年108,858寛政8年1796年101,507天保11年1840年112,968
宝永6年1709年123,403宝暦3年1753年109,068寛政9年1797年103,721天保12年1841年113,973
宝永7年1710年122,245宝暦4年1754年107,996寛政10年1798年104,395天保13年1842年114,974
正徳元年1711年122,385宝暦5年1755年107,317寛政11年1799年105,047天保14年1843年115,010
正徳2年1712年122,110宝暦6年1756年106,390寛政12年1800年106,213弘化元年1844年115,695
正徳3年1713年120,705宝暦7年1757年102,628享和元年1801年107,110弘化2年1845年116,598
正徳4年1714年120,711宝暦8年1758年100,900享和2年1802年106,965弘化3年1846年117,689
正徳5年1715年121,194宝暦9年1759年100,007享和3年1803年106,121弘化4年1847年118,799
享保元年1716年120,606宝暦10年1760年99,369文化元年1804年105,888嘉永元年1848年119,995
享保2年1717年120,650宝暦11年1761年99,552文化2年1805年106,760嘉永2年1849年119,804
享保3年1718年120,609宝暦12年1762年100,024文化3年1806年107,547嘉永3年1850年120,638
享保4年1719年120,099宝暦13年1763年100,560文化4年1807年107,192嘉永4年1851年121,856
享保5年1720年118,615明和元年1764年101,489文化5年1808年107,052嘉永5年1852年122,361
享保6年1721年118,537明和2年1765年101,845文化6年1809年107,453嘉永6年1853年123,355
享保7年1722年118,209明和3年1766年102,434文化7年1810年108,313安政元年1854年124,128
享保8年1723年117,881明和4年1767年102,485文化8年1811年108,949安政2年1855年124,709
享保9年1724年117,134明和5年1768年102,020文化9年1812年108,998安政3年1856年125,130
享保10年1725年116,702明和6年1769年102,434文化10年1813年108,985安政4年1857年125,685
享保11年1726年115,660明和7年1770年102,905文化11年1814年109,126安政5年1858年126,207
享保12年1727年115,096明和8年1771年103,818文化12年1815年109,773安政6年1859年127,080
享保13年1728年115,015安永元年1772年104,042文化13年1816年100,511万延元年1860年127,860
享保14年1729年114,207安永2年1773年103,961文化14年1817年110,947文久元年1861年128,313
享保15年1730年114,429安永3年1774年103,901文政元年1818年111,107文久2年1862年129,003
享保16年1731年114,051安永4年1775年104,154文政2年1819年110,998文久3年1863年127,773
享保17年1732年113,711安永5年1776年104,498文政3年1820年109,602元治元年1864年127,588
享保18年1733年113,975安永6年1777年103,625文政4年1821年109,603慶応元年1865年128,103
享保19年1734年113,772安永7年1778年103,702文政5年1822年109,557慶応2年1866年143,126
享保20年1735年113,762安永8年1779年103,605文政6年1823年109,726慶応3年1867年144,153

慶応2年でいきなり人口1万5000人分人口が増えていますが、これは屋代郷3万石が加増されたからで、維新後は再び置賜郡オンリーの、表高14万7248石、内高28万4748石、現高6万3269石、総人口12万9753人に減らされます。

ここで特徴的なのは、石高と人口の比です。28万~30万石もの内高がありながら、13万人の人口しか養えていないのです。速水融氏は1人1石という定説を覆し、1石0.28~0.55人に修正しておりますが、これも江戸時代初期の小倉藩の話で、明治維新当時の人口/内高比は平均1石0.96人です。東京府、大坂府のような都市、その他小藩でみられる異常に高い人口/内高比を除けば、広島藩の1石1.89人が目に着きますが、おそらく広島藩では実際の石高と内高の解離が激しかったのでしょう。

これに対し米沢藩は1人0.45石であり、一部の小藩を除けばほぼ全国最低レベルです。この原因として考えられるのが、異常な武家人口です。幾つか米沢藩の身分別人口をピックアップすると:

元号西暦総人口諸奉公人又者共ニ御城下町人弐百弐拾六ヶ村出家修験座頭武家の割合(%)
元禄5年1692年133,25931,17312,12988,52585037520723.39
元禄14年1701年128,40729,96011,48185,47093537818323.33
安永5年1776年121,73024,06116,09980,4886353499819.77
天保11年1840年112,96825,6086,66779,8464993014722.67
弘化3年1846年117,68926,9646,77383,0835083154622.91
文久2年1862年129,00332,0366,94389,1285173235624.83

直江兼続は家臣を帰農させることなくすべて奉公人として雇い続けたというのが美談とされていますが、米沢藩の歴史をひも解くと、むしろこのことが江戸時代を通じて米沢藩の人口停滞の原因となる重荷になったように思えます。

もちろん宝暦・天明・天保の大飢饉の際、他の東北諸藩に比べて人口減少率が低いというのは、米沢藩の藩政として大麦を推奨したとか、米の備蓄などを行った結果でしょうし、米沢藩の人口が少ないというのは、米沢藩が貧しいということを即意味するのではなく、家族制度の変化(家を継ぐ長男のみが結婚、晩婚化など)が原因の一つでしょう。米沢藩に見られる比較的緩やかな人口/石高比は、ある程度ゆとりある生活のために家族制度が変化し、家族計画による人口抑制策が働いたことによるものでしょう。


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