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白桃研究所長による人口テーマ専門誌

「わたし」そして「青春」の城下町

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記事数=52件/更新日:2020年9月30日

小柳ルミ子の「♪わたしの城下町」は、作曲した平尾昌晃によると高島城・上諏訪をイメージして作ったようですが、私はどうも納得がいきません。ミルクボーイではありませんが、「それは絶対違う」。作詞の安井かずみも亡くなられているので何とも言えませんが、上諏訪なら、♪格子戸をくぐりぬけ~そんなややこしいことをせずとも、諏訪湖に出れば夕焼けの空を見上げられる。第一、♪家並みがとぎれたら、とあるが、下諏訪方面に向かうとDIDが連担しているので家並みが途切れることはない。この歌からイメージするのは、少し山間部に入った小さな城下町。「それは、やっぱり郡上八幡やないか」、と言っても白桃、上諏訪には宿泊したことがあるが、郡上八幡には行ったこともかすったことも無い。あの世に旅立つ前に是非行きたい。
いっぽう、梶光夫の「♪青春の城下町」は城山、武家屋敷 天守閣と城下町三点セットが出てくるから、もっと大きな城下町、例えば、仙台、金沢・・・少し大きすぎる???
とにかく、白桃の「わたしの青春の城下町」は岡山である。
と、相変わらずワケの分らない戯言を書き綴っておりますが、都市の多くは城下町。本当はやや小さめの城下町を特集したかったのですが、なかなかそうもいかず、このような特集名になってしまいました。皆さんのココロの中にある「アナタの青春の城下町」を思い浮かべながら、この記事集をお読みいただければ、アツイ涙が零れ落ちる・・・と言うこともないでしょう。


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[166] 2001年 2月 20日(火)23:26:04Issie さん
Re:市制順序その他について
>前田宏治さん

>ところで、各都道府県ごとの市制施行順を見ると20世紀になってから
>市が登場した県というのがあります。(しばしば問題になる北海道と沖縄
>はとりあえず除外)地域的に九州東岸と関東になぜか固まっているように
>見受けられますが、やはり人口の集積が進まなかったからでしょうか。

面白そうなので,これに関する表を次のページに掲載してみました。
http://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/cities/c-oldest.htm

20世紀になって初めて「市」が設置されたのは(北海道と沖縄県を除くと)大分県(1911年),千葉県(1921年),埼玉県(1922年),宮崎県(1924年)ということになります。
近世から近代初期にかけて日本の都市のほとんどは城下町でした。1889年に最初に市制を施行した都市の多くも城下町ですね。上の4つの県の領域はいずれも小藩に分割されていた地域で,それに比例して城下町も小規模なものでした。
この4県だけでなく,市の設置の遅れた県のほとんどは,小藩が分立してて大きな城下町が発展しなかった地域です。

徳川氏の領域の根幹たる関東地方の場合は言うまでもなく,江戸のまわりを徳川氏に最も忠実な(であろう)譜代の小藩でかためていたわけで,1889年のうちに市制施行したのは東京市と水戸市(水戸家35万石),そして生糸の輸出港として急速に発展した横浜市だけです。
埼玉県で最初の「市」は川越市。これも,県内では一番大きな城下町だからですね。中仙道の宿場町としてもあまりサエない存在の浦和が行政機能を集積させて市になる前に,熊谷にも先を越されています(熊谷も県庁所在地だったことがあるのですが)。
千葉県も似たような話。こちらの場合は,最大の城下町であった佐倉の集積度が川越よりもさらに劣っていたのでしょうね。

大分市(旧称:府内)の場合,戦国時代には大友氏の本拠地として,また南蛮貿易港として発展していたのですが,徳川政権下,豊後は徹底して分割支配されているのですね。府内は,わずか2万石クラスの城下町に転落します。それが,府内あらため大分市への人口集積を遅らせたのかもしれません。
宮崎市の場合はさらに,もともと宮崎神宮があるという以外には特徴のない小集落にすぎず,宮崎神宮自体も明治政府の保護下で整備され発展したものです。その小集落が,薩摩藩そして鹿児島県の管轄下にあった日向南部(都城が中心)も加えて日向1国全体を管轄する県が設置されてはじめて県庁所在地となり急速に人口を集積させ都市に発展していったのです。つまり,「市」となるのにふさわしいだけの人口を集めるのにそれだけの時間がかかったということでしょう。
[1705] 2002年 6月 1日(土)18:38:15Issie さん
徳山藩
> 徳山も毛利氏の城下町だったそうですね。

江戸時代,徳山には萩の毛利本家の分家の1つが配置されていました。
同じく長門府中(長府:下関市)にも分家が配置され,さらにその分家が清末(下関市)に配置されていました。
これらは萩の本家の支配下でありながら,幕府から「独立の大名」扱いをされていたものです。名字は違うけど岩国の吉川家も萩・本家の分家扱いでした。実際,一族ですからね。
でも,小早川秀秋は関ヶ原の戦後,毛利氏とは完全に独立した大名として筑前名島(後の福岡藩の前身となります)に萩とほとんどかわらない30万石余りをもらっているんですよね。関ヶ原の「功績」があるし,もともと秀吉に押し込まれた,毛利氏とは血縁のない人物だからかな。ま,すぐに亡くなって,藩はつぶされちゃうんですけどね。

明治維新の後,全国のほかの大名家の「支藩」と同様,徳山藩も長門府中藩も清末藩も完全に独立した藩とされ,明治2(1869)年の版籍奉還のときにそれぞれの当主が山口の本家と同様に「知藩事」に任命されました。
このとき,ついでに長門府中藩は「豊浦藩」と改称されました。そこらじゅうに「府中藩」があったからです。同様に,駿河府中藩は「静岡藩」,常陸府中藩は「石岡藩」と改称されています。丹後田辺藩が「舞鶴藩」となったのも,紀州の「田辺藩」との同名回避です。
だから,「舞鶴」という地名には全然由緒がないんですね。
[2758] 2002年 8月 24日(土)20:50:56Issie さん
続・長野 vs 松本
>門前町にして商業都市の長野と城下町の松本のかような関係を、或る種の機能分化と

…という機能分化が成立していればよかったのですが,長野も松本も全機能を集中した「県都」を志向しているのです。現実に県都である長野はもちろん,松本も1876(明治9)年までは「筑摩(ちくま)県」の県庁所在地でしたから。

藩政時代の松本は城下町として行政機能はもちろん,藩の経済的中心でもあったわけで,それは近代以降,現在でも中信地方(筑摩・安曇)での圧倒的地位は揺るぎないものがあります。
一方の長野が中心的地位を高めるのは1871(明治4)年の廃藩置県直前に県庁が中野から移転してきてからのことです。
北信地方(更級・埴科・高井・水内),つまり善光寺平(長野盆地)には3つの城下町(松代・須坂・飯山)と1つの幕府直轄領代官所所在地(中野)があって(最初に「中野県」だったのは,幕府解体後にこの代官所を県庁にしたからです),それぞれが一応の中心機能を持っていました。それらの中で長野(善光寺宿)は門前町 兼 北国街道の宿場町として,善光寺平北西隅の地域的な商業中心に過ぎませんでした。
県庁が移転してきて,北信と東信(小県・佐久)を領域とする「長野県」が編成されて長野は急速に中心都市として発展していきます。それに反比例して衰退したのが北信最大の城下町だった松代(松本よりもずっと小さい)でした。
その意味では,中世の小笠原氏支配以来,中信地方の“主都”だった松本よりも長野の方が中心都市としての歴史は浅いのです。

松本から見れば,1876年にかなり強引に(松本市民にとって)「筑摩県」が廃止され,その信濃区域が「長野県」に統合され(飛騨区域は岐阜県へ),県庁を奪われてしまったことが長野への複雑な感情の発端になっていると思われます。
(もっとも,現実には野麦峠でしかつながっていない中信(木曽も含む)・南信(諏訪・伊那)と飛騨とで1県を編成するというのに無理があります。だからと言って統合後の信濃全域の県庁所在地が北に偏りすぎる長野というのには問題がないわけではないのですが。どう見ても,松本が“真ん中”ですよね。)

この対立感情は相当根深いもののようです。
ところが,現行の衆議院小選挙区では長野市郊外の上水内郡は長野市と同じ「1区」ではなくて,松本市を中心とする「2区」に含まれるのですね。有権者の数では松本市の比重が高くなりますから,当然「2区」の当選者は松本に地盤のある候補者です(今,大臣をやってたりして)。長野市に通勤する上水内郡の有権者はどう思っていることやら。

>信州大教育学部も、松本深志高と同様に開智学校が前身であると仄聞したのですが、

教育学部の直系の前身は1875(明治8)年開設の「長野県師範学校」です。さらにその前身の「長野県師範講習所」が開設されたのは1873(明治6)年のことですから,いずれにせよ松本が「長野県」ではなかった頃のことなのですね。
松本の方では,長野県と同じ1873年に「筑摩県師範講習所」,74年に「筑摩県師範学校」が開設されています(どちらも長野より一歩早い)。結局,これも筑摩県と運命をともにして,長野の方に統合されてしまいました。だから,今に至るまで教育学部は長野にあるのです。

で,前の書き込みは私の記憶違いだったのですが,松本には1902(明治35)年に「女子師範学校」が設置されました。以後,男子は長野,女子は松本,ということになったのですね。
「青年師範学校」は,やはり長野。現在の県(立)長野吉田高校の敷地がこれにあたります。
[2948] 2002年 9月 8日(日)00:12:00深海魚[雑魚] さん
城下町
今夕の報道によると、宇都宮の御本丸公園で城郭復元構想が立ち上がったそうで、
とりあえず地元児童による花の移植作業が行われたとか。宇都宮というとやはり、
繁華街の一隅にある二荒山神社を中心とした門前町的な発展を連想するのですが、
城下町だったんですね。道路地図を見ると、宇都宮は特に道路の放射状的展開が
顕著に見て取れますが、どういう経緯でこの様な形になったのやら。

関東地方で城下町というと、皇居は別格として、水戸、高崎、小田原のあたりが
代表格でしょうか。個人的に馴染みの深い水戸城址の場合は、文教地区化されて
城郭や史跡の類は無いものの、空堀が残る旧県庁舎を基部とした馬の背状台地が、
JR水郡線や旧国道6号線に供された掘割で、本丸、二の丸、三の丸と区切られ
(行政上は一括して 「三の丸」 地区に所属) いかにも、という感じの風情です。

水戸もそうですが、城址が関連する文教地区というと、旧制中学系の高校のほか、
国立大学の教育学部附属小中学校の立地が多い様ですね。という事は師範学校が
校地を意図的に城址に求める傾向が強かったのかな。

高崎の場合は、碓井川と烏川の合流点に面した市街平坦地という対照的な立地で、
同じ群馬県でも、むしろ利根川の河岸段丘上に街を擁する沼田の方が感覚的には
近いかも。ところで高崎から二駅目の上信電鉄に 「根小屋」 駅がありますが、
この地名の意味する処は何だろう。城がある高台の下を指す場合が多いと聞いた
事がありますが、城址がある高松町とは無関係の様ですし。城郭がある例ですと、
小田原や千葉県大多喜がまず連想されますね。

全国的に見ると、姫路城や松本城あたりが、文化財としても代表格でしょうね。
昨年秋にNHK 「プロジェクトX」 で姫路城の一大改修作業を特集しましたが、
ここまでして保全を図ったとは驚きでした。その直後のニュースで、NYでの
衝撃的な中継映像は更に驚きでしたが。

以前言及した 「雪の峠」 という漫画は、秋田に国替えとなった佐竹家が、その
築城場所を巡って、関ヶ原合戦時の去就以来のわだかまりに起因する内部対立を
招来した様子が描かれています。当代主君は、若手近衆が提唱した窪田案、即ち
現在の千秋公園への立地を支持。これに対して古老格は、若手近衆台頭に対する
妬みもあって、清和源氏ゆかりの金沢柵 (横手市郊外) を主張します。

前者が、天下泰平を前提に、交易の窓口となる土崎湊と少し距離を置いて機能の
分化を図る発想に基づくのに対して、後者は、米どころである仙南、仙北地方を
掌握する軍事的発想でした。ちなみに秋田県で嚆矢の農学校は、こうした地勢下、
大曲に置かれました。秋田市内の農業高校が 「金足」 という非広域的な地名を
校名に冠しているのは、その辺の事情も作用している様です。

上記の意見対立において、先代は第三の案として横手城を提唱。これを古老格に
対する牽制と読んだ重臣の一人は、金沢柵案を撤回して横手城案に迎合しますが、
結局、江戸幕府に築城許可を上申する際に、若手近衆の機転で、窪田案の導出に
成功し、現在の秋田市の成因を見る訳です。 (窪田は後に久保田と転訛。)

なお、この時の江戸への陸路として、笹谷と院内の二つの峠が話題に出ましたが、
当時の街道は、現在の山形道から国道13号線に続く経路だった模様ですね。さて
もし上記の駆け引きの結果、横手築城に決定していたら、今日の秋田県の地勢も
大きく変わっていた事でしょう。少なくとも、北上線は田沢湖線を遥かにしのぐ
幹線として整備され、その分岐点となる北上市の位置づけも違っていただろうな。
雄物川河口の立地から、秋田市は当然、港湾都市として発展しただろうけれども、
横手とは鉄道体系上、直接接点を持たない本荘市や由利郡、そして隔地性の高い
秋北地方がどうなっていたか、無意味な反実仮想ですが、色々考えてしまいます。

ただし、かつて横手から分岐していた羽後交通は、分水嶺を越えて子吉川流域に
辛うじて達していた様にも記憶します。
[3807] 2002年 10月 12日(土)00:56:31ken さん
地名の命名
古くからある地名でも、県庁所在地クラスの城下町の名は、自然発生的な地名よりも、戦国大名が、命名したものが結構ありますよね。

津軽為信が、高岡の地を弘前と名づけた。
南部信直が、不来方の地を盛岡と名づけた。
伊達政宗が、新しい城の地を千代という地だったのを仙台とした。
蒲生氏郷が、黒川を若松、杉目を福島と縁起の良い名に改めた。
徳川家康が、引間(曳馬)を浜松と名づけた。
福井も北ノ庄の北は「敗北」に通じて不吉だというので、結城松平忠昌が縁起の良い字をあて福井とした。
織田信長が、中国の岐山にちなんで、岐阜と名づけた。
毛利元就が、新しい城を築いた地が、太田川の一番大きなデルタだったので広島とした。
加藤泰明が、松山と名づけた。
伊達秀宗が、板島の地を、宇和郡の中心として栄えるよう、宇和と板島の島を取って宇和島と名づけた。
徳島も蜂須賀家政が付けた名ですね。
福岡に至っては有名ですが、黒田長政が、祖先の由来の地、備前長船の福岡の名を移転させた。
等々。
松江も戦国大名ではないけれど、ご指摘のように中国浙江省の西湖に臨む松江府にちなんだ名ですね。

結構、政治一新の効果を狙って、前後脈略なく、改名した地名も多いのですが、時代が経つと当然の名になっていきますね。

その由来が、一見わからなくなるような、元からそこにあるような地名が「馴染んだ」良い地名だと思うんです。
平成の新地名も、将来、こんな騒動があったことを忘れてしまえるような地名がつけば、そのとき成功、と言えるのではないでしょうか。
[4082] 2002年 10月 22日(火)21:45:56Issie さん
岐阜
[4061]
>岐阜) --県庁×/市役所△/旧中系高校×/------/国立大附属小中学校×

都市としての連続性という観点から,私は「城下町」を近世のものに限定したいと思うのですが,その点で岐阜はどうでしょう。

確かに「岐阜」は美濃を制圧した織田信長がその拠点として建設した城下町なわけですが,関ヶ原の後,西軍に立った城主の織田秀信が改易されて以降,岐阜城は廃城となっています。これをもって,“城下町”としての岐阜の歴史は途切れた,と考えるべきだと思います。
同じ織田信長が建設した近江(滋賀県)の安土は「城下町」としては扱われませんよね。本能寺で織田政権が瓦解して安土は“城”としての地位を失ってしまったわけですが,その点,関ヶ原後の岐阜も同様だと思います。
廃城となった岐阜に代わって濃尾平野北部の中心都市としての地位を取り戻すのが中山道沿いの宿場町でもある「加納」です(戦国時代,守護大名の土岐氏の居城があったのが加納でした)。以来,幕末に至るまで譜代中堅大名の城下町として,加納が美濃の主要都市の1つとしての地位を保ちました。

岐阜が美濃地域の中心として“復活”するのは1871年の廃藩置県後,同年11月の全国的な府県統合で「岐阜県」が発足し,暫定的に笠松に置かれていた県庁が隣接地区の今泉村に移転してきた1873年のことです。
この段階で「岐阜」と「加納」とはお互いに独立した都市でした。
東海道本線が開通したとき,「岐阜駅」が当時の「上加納村」に設置され,岐阜と加納の間の地区(つまり,上加納村)の市街化が始まり,1903年に上加納村は岐阜市に編入されました(上加納村のうち岐阜駅前地区は1889年の市制施行の際に岐阜市の一部となっています)。
加納城下町の本体を占める「加納町」が岐阜市に編入されたのは1940年のことです。

もし岐阜を城下町として扱うなら,ぜひ「千葉」も城下町にカウントしてほしいなぁ。
鎌倉時代以来,下総を支配した千葉氏の“城下町”(もちろん,戦国以降の「城下町」とは性格が違うのは確かですが)。戦国時代,関東の騒乱で衰退した千葉氏と一緒に衰退した千葉だけど,その点,幕末ギリギリに城下町として復活した「山口」(大内氏と一緒に衰退した)と五十歩百歩では。
千葉にもしっかり城郭の跡は残っています(現在,亥鼻(いのはな)公園にある近世天守閣風の郷土資料館はもちろん偽者ですが)。というより,千葉・亥鼻城はきれいに保存された中世城郭の1つとされています。
現在の千葉大医学部(旧制千葉医科大学)と亥鼻公園の部分が中世千葉亥鼻城の中核部分ですね。そして,公園内の県立中央図書館および文化会館の区画が旧制千葉師範学校,つまり千葉大教育学部の敷地です。もちろん,附属小中学校もここにありました。
1960年代半ばに教育学部と附属学校が西千葉のキャンパスに統合されて現在に至ります。

[4062]
>とりあえず学校側が主張する継承を公式な沿革と
>するべきでしょう。

もちろん,それでいいんですけどね,
ノーベル賞をとったからといって,県立横須賀高校が全校集会を開いた,というのには私は何か違和感を感じました。60年前の旧制中学の卒業生と今の高校生と,どれほど関係があるんだろう。
…ま,「伝統校」に縁のない者の僻み,といえば僻みなんですけどね(でも,雑魚さんの一覧の中に私の母校も一応ありました。有名な卒業生って,俳優の高橋英樹しか知らないんですけどね)。
[4515] 2002年 11月 4日(月)14:12:33白桃 さん
Re:福島県
[4510] akiraさん
答えになっていないのは承知で、私の推論を述べます。
 ほとんどの県庁所在地は幕藩体制時代の城下町で、福島もそうです。が、福島は幕末頃から
養蚕をはじめとする商品作物の集散地として城下町というよりは商業の町として展開してきた
フシがあります。そしてなにより、戊辰戦争では、幕府方につくことが多かった東北諸藩の中
では珍しく中立的立場を保ったようです。ですから、明治9年(1876年)若松、二本松、
平の3県が合併して福島県が成立したときに、妥協の産物として県庁所在地になったのでは
ないでしょうか。(参考:県庁所在地名と県名が一致していない県は、新政府にはむかった
ところがホトンド・・…誰かが言っていました。)
 では、なぜ、郡山ではなく、福島であったのかというと、人口規模でなかったのかと推測
します。
明治31年(1898)
 若松町 29200
 福島町 20624
 郡山町 不詳(2万いなかったことだけは間違いなし)
明治36年(1903)
 若松市 32534
 福島町 27233
 郡山町 不詳
明治41年(1908)
 若松市 39265
 福島市 33493
 郡山町 不詳
大正02年(1913)
 若松市 41828
 福島市 33981
 郡山町 21786
と、大正になってからはじめて、郡山は2万人を超えるようになりました。(何かの本で、「須賀川
は鉄道を通さなかったばかりに、郡山と差がついてしまった。」と書かれておりましたので、明治
の初年当時、郡山は須賀川並みの小さな町だったのでしょう。安積疎水開削も明治12年ですし。)

 地方公共団体のコードのことはよくわかりません。

 どなたか、明治時代に鹿児島県には鹿児島市以外に、町が1つ(加治木)しかなかったのか教えて
ください。(西南戦争の影響かな。)

(そろそろ、下総生協が来るので、 実は小学生さん に習って偽装外出をする白桃でした。)
[4530] 2002年 11月 4日(月)21:18:04Issie さん
府内,千葉,直江津
[4522]
>福島のように小藩から県庁所在地になったのは大分市(府内藩)があります。ちなみに大分県で最大の藩は中津藩でした。

実は近世(江戸時代)以降と中世(室町・戦国時代)以前とは日本社会全般にわたって大きな断絶があるのですが,たとえば戦国末期,大友氏の支配が崩壊するまで豊後府内(大分)は豊後で最大の都市でした。
(もう少しきちんと言うと,“中世後期”の室町・戦国時代が日本史上の大断絶点と考えられています。それ以前(鎌倉時代以前)とそれ以降(織豊政権期以降)とでは文化・社会全般にわたって根本的な違いがあると理解されています。)
徳川政権になって,豊後は徹底的に分割されて府内の地位は大きく低下したわけですが,明治になって県庁が置かれたあたり,豊後地方の主邑となるべきそれなりの条件があったのでしょうね。(そういえば,中津は豊前ではないか。「大分県」とくくることに,どれだけの意味があるのか。)

中世の関東で鎌倉に次ぐ都市として繁栄したのは下総・千葉氏の本拠地であった千葉だと言われています。
千葉亥鼻城(現千葉大医学部)下,現在の国道16号(本町通)にそったあたりが千葉の城下町(戦国時代以降の城下町とは性格が違いますが)と考えられています。
応仁の乱に先駆けて関東で起こった動乱の中で千葉氏とともに千葉の町も没落し,すでに没落した鎌倉とともに関東の主邑の地位は(後)北条氏の本拠地の小田原に移り,さらに豊臣秀吉の小田原征伐,徳川家康の関東入府によって,江戸が関東の主邑となります。

越後高田は室町以来越後の支配者であった上杉氏(実は謙信以降は家来の長尾氏)を出羽米沢に追い出した後,若干の曲折の末に松平忠輝が春日山から城を移して成立した城下町ですね。たかだか400年足らずの歴史しかない町です。
それに引き換え,直江津はこの港(津)に隣接して設置された越後国府と歴史をともにする大変に由緒のある町。こないだ出来たばっかりの高田なんぞ足元にも及ばない。
そのような歴史を持った高田と直江津が合体して“新しい自治体”を形成したわけです。
何で「直江津」を差し置いて,はるかに歴史の浅い「高田」がデカい顔をできましょう。

「高田市」と「直江津市」が合体した背景には,お互い厳しいライバル関係にあった両市の競争を止揚・統合(ジンテーゼ)して「上越」地方全体の発展を目指すという意識があったはずです(少なくとも「建前」の上では)。だから,「高田市」でも「直江津市」でもない「上越市」なのです。
そこのあたりの気持ちは是非にも汲み取らなければならないと思います。単純に「高田市」がいい,なぞとは言えない(部外者の余計なお世話かもしれないけれども)。

「さいたま市」の都心部(予定地)。そこは,たまたま旧与野市域に属するけれども,これから建設しなければならないのは「浦和」でも「大宮」でも「与野」でもない新生「さいたま市」のはず。まして,浦和と(特に)大宮が余りに見苦しい地域エゴむき出しの争いを演じて合併が御破算になりかけた後だからこそ,「与野」の名を捨ててまで「中央区」としたのでしょう。
私としては「与野」の名は惜しんで余りあるものだけど,そこらへんの気持ちは最大限に斟酌しなければならないと思います。
[5052] 2002年 11月 19日(火)04:39:20でるでる さん
行田市
[5046]ken さん
>行田っていうのは、どこから持ってきた名前なんですかね?

忍(おし)町の城下町で、足袋(たび)の生産で有名になった行田地区が市名の由来の様ですよ。
江戸時代の中期頃に、忍藩主の松平氏が、藩士の婦女に内職として足袋の生産を奨励したのが始まりなのだそうで、その後次第に行田地区の主産業として盛んになり、「足袋の行田か、行田の足袋か」と言われた「行田足袋」の生産地として知られたそうです。
第二次大戦後は、足袋の需要の低下から、靴下やサンダルの製造への転身が多くなってしまいましたが、現在でも足袋生産の全国シェアは約60%を誇っているそうです。

忍町が市制施行する際に、おそらく「忍」や「埼玉(さいたま・さきたま)」の名称も候補に挙がったのではないかと思います。しかしながら、忍町が市制施行(1949年5月3日)した当時は、まだ南隣に「埼玉(さきたま)村」が存在(埼玉村は1954年7月1日に行田市に編入)していたことと、行田足袋で全国的に名の知れた「行田」の名称を採用して「忍市」や「埼玉市」ではなく「行田市」としたものと推測するのですが、いかがでしょうか。

その行田市ですが、現在は羽生市や南河原村と3市村での合併構想が徐々に具体化されてきており、早ければ来春にも法定協議会が設置される可能性があります。
あくまで私の個人的な推測ですが、もし行田市が合併した場合には、新市名を「埼玉市」とするのかも知れませんね。
[5499] 2002年 11月 27日(水)21:16:36般若堂そんぴん さん
米沢市・川西町『江戸期の重税』が遺恨
11月25日の朝日新聞朝刊に載った「平成の大合併」特集記事に数々の問題が取り上げられており,興味深く読んだ中に米沢市と川西町の話がありました.
「山形 米沢市・川西町『江戸期の重税』が遺恨」
「江戸時代の記憶が合併にブレーキをかけたのが,山形県米沢市から持ちかけられた川西町.町民は賛成署名を寄せたが,町議会は協議会設置を拒否した.背景には,代々の米沢藩主に,周辺の農民たちが重税を課せられたという思いがあった,とも言われる」
はじめに川西町議会が協議会設置を否決したというニュースが流れたときにはこのような「遺恨」についての報道は全くありませんでしたし,合併を呼び掛けたのは市の公の部分ではなく,おそらく商工会議所か青年会議所であったと思います.最古参の市でありながら人口が10万に満たないということは米沢市民の多くにとって引け目のように感じられているようですから,合併を歓迎しないということは恐らくないでしょう.しかし,何がなんでも合併しなければならない,何がなんでも合併したい,という空気があるわけでもありません.高畠町とは国道13号線に沿って市街地が連続していると言えますが,川西町との間には水田耕作地帯が広がっており,合併できればうれしいができなくても差し支えない,というのが米沢市側から見た感想です.
江戸時代,米沢藩による重税は厳しく,天領になったり上杉藩領になったりを繰り返した屋代郷(現在の高畠町)では上杉藩,そして米沢に対する反感が強いということは昔から言われていましたし,現在の川西町にあたる地区では,飢饉の時もただ一人の餓死者もださなかった「名君・上杉治憲(鷹山)」の時代,禁を犯して木を切った子どもが死罪になったなどのことがあったそうです.
高校時代,クラスには川西町や高畠町の出身者がおり,特に何かを意識する出もなく普通につきあっていましたので,中年あるいはもっと若い世代に反米沢感情が強いとも思われませんでした.しかしながら,伏流水のごとく反米沢意識が存在したのですね.
米沢の観光キャッチフレーズは「上杉の城下町」です.「歴史の街」と言ってみたところで,伊達政宗は「独眼龍政宗」放映時に騒いだ程度で,あとは上杉藩と直江山城守兼次,時折前田慶次利貞が語られるのみ.米沢に来たこともない上杉謙信公を藩祖,上杉の血を引くものの,よそから来て「どうしようもない」米沢に改革をもたらそうとした鷹山公を聖君と崇め,小学校や中学校の講堂には両者の肖像がかけてある,そんな米沢の根拠のないプライドに,両町はどうしようもない距離感を感じているのかも知れません.
国道13号線沿い,米沢市から高畠町に入ってしばらく行ったところに米織観光センターがあります.そこに「おいたま市をつくろう」と書かれた幟がたっていました(いまでもあるかどうか? 「置賜市」ではなく「おいたま市」なのは,「置賜」という文字が地理好きの皆様方ならともかく,他地方の一般の方々には難読であろうということ,さらにはその文字が「郡部」を直截に連想させることが大きな理由だと思われます).ところがかつて高橋幸翁米沢市長は「合併するならば大米沢市になるのでなければならない」と発言しています.
「おいたま市」(出羽国成立以前からある「うきたむ」がもとになった,由緒ある地名です)と「大米沢市」の間にある距離はかなり大きいと言わざるを得ません.
[6657] 2002年 12月 19日(木)00:21:22Issie さん
城下町の町と丁
[6633] 蘭丸 さん
[6644] YSK さん
>かつては「町」は町人町、「丁」は武家屋敷地という区別があったようです。また、「町」
>は「まち」、「丁」は「ちょう」と読み分けていたようです。

確かにそういう区別をする城下町も多いのですが,そのような区別をしない城下町も多数ありますね。
“最大の城下町”である江戸(東京)には,そのような区別はありません。
…というより,武家屋敷地には「町」や「丁」という区画自体がありません。「神田駿河台」や「番町」などのような地区名や「三番町通」「神保小路」などの街路名はあるのですが,江戸の行政区画としての「町」はそもそも町人町の自治単位として編成されたものですから,本来武家屋敷地は対象外なのでしょう。
“自治単位”としての「町」は多くの場合「○○町」という形で「~ちょう」と読むのが多いようですが,「麹町一丁目~十三丁目」のように「~まち」と読む町,「本郷一丁目~六丁目」のように「町」をつけない町も少なからず存在します。

そしてたとえば「麹町」の場合は「十三丁目」,「本郷」の場合は「六丁目」まであるわけですが,それぞれの「丁目」は自治単位としてはいずれも単独の「町」であって,「麹町」あるいは「本郷」が全体で“1つの自治単位”をつくっているわけではありません(町が成立する過程では,麹町なり本郷なりが分割あるいは分離を繰り返していったのでしょうが)。
1878年の郡区町村編制法によって(東京では)「区」が編制されたとき,「本郷一丁目」から「本郷六丁目」までの“6つの町”に始まる多数の町が統合されて「本郷区」が発足しています。「麹町区」の場合も,「麹町一丁目」から「麹町十丁目」までの“10の町”などと,旧武家屋敷地に編制された「永田町」その他の町が統合されて発足したわけです。
(なお,麹町十一丁目~十三丁目は外堀と四谷見附をはさんだ西側にありました。そこで,こちらは「四谷区」の一部となり,現在は新宿区四谷1丁目の一部になっています。)

江戸では「町奉行」は「まちぶぎょう」,「町役人」(町人側)は「ちょうやくにん」と読む習慣であるようです。もちろん,町奉行が管轄するのは町人町の区域ですね。
[7060] 2002年 12月 27日(金)20:27:46白桃 さん
65日連続書き込み(雑魚さん記録更新中)
 今日は仕事納めで、机のまわりを片付けるはずだったのですが、「雑魚さんて、毎日見てるような気がするナ・・・」と思いつき調査いたしました。10月24日以来、今日でナ、ナント!65日連続書き込み。頭が下がる思いです。
 そこで、超亀レスになりますが、

[1770]修学旅行
 白桃は中学のとき、京阪神に行きましたが使ったお小遣いは64円でした。(特に買いたいものがなかったので・・・)

[2948]城下町
 昔、梶光夫の曲に「青春の城下町」というのがありました。今が青春、今も青春、いろいろな方がおられると思いますが、「あなたにとって、青春の城下町は?」というアンケートをとれば、仙台、金沢、松本あたりが一番になるのかなぁ・・・、白桃はむろん岡山ですが、「青春の門前町は」…思いつかないです。初詣も行かないばちあたり者です。

[4641]TDR?
 おそらく、TDLの間違いでしょうか。

 さあ、今日は飲まないで帰ろうと、心に決めたはずなのに、もうビール一缶入っております。
 (日本酒を飲まないということでしょうか。)白桃、もう少し意思が強かったら、日本の歴史が
 変わっていたかも(まあ、それは無いな
[8177] 2003年 1月 25日(土)12:02:08【2】Issie さん
松代
[8155] ヒロオ さん,[8157] YSK さん
何かご指名のようですが…

まず一般論として,自治体の合併や分割には当該地域の中での結びつきや地域構造といった“客観的”な条件だけではなくて,その地域内から都道府県単位,国レベルまで,それぞれの段階の住民や政治家の思惑や期待,そしてそれを実現できるだけの政治力といった条件がそろわなければ実現できません。机上でパズルの組み換えをやっているだけでは,“知的ゲーム”としては面白いけれども,現実には何の意味もないのです。

ところで「松代」ですが,現実の政治の場でどのような動きがあったのかは私にはわかりません。ただ,おそらくは1965年の「市町村の合併の特例に関する法律」(昭和40年法律第6号)の制定が直接のきっかけになっているだろうとは思います。
福島県石城(いわき)地域の大合併(1966年10月1日),岡山県児島市・玉島市と倉敷市(1967年2月1日),西大寺市と岡山市(1969年2月18日),広島県松永市と福山市(1966年5月1日),鹿児島県谷山市と鹿児島市(1967年4月29日)など,同時期に行われた市どうしの合併と同じ流れに属するのでしょう。新潟県上越市(1971年4月29日)の成立と,北海道亀田市の函館市への編入(1973年12月1日)も含まれるのでしょうね。大分県鶴崎市と大分市の合併(1963年3月10日)の場合は,前身の法律である「市の合併の特例に関する法律」(昭和37年法律第118号)によるものと思われます。

藩政時代から明治期まで,松代は確かに善光寺平の中での主邑的な位置にありました。けれども,これはひとえに松代藩10万石の城下町であったことによるものでしょう。
松代は,善光寺平の支配権をめぐって武田氏と上杉氏が川中島で対峙した中で,武田側の戦略的要地として浮上してきました。千曲川に面して築城され,それがその後もこの地域の支配拠点として江戸時代に至り,1622(元和8)年に真田信之が上田から移転してきて真田家の支配の下,明治維新を迎えるわけです。
そもそも松代城が千曲川に面して築城されたのは敵に対する防御という面だけではなくて,千曲川舟運もあてにしたものでしたから,こちらが物資輸送の主役であった時期には松代のロケーションはさほど悪いものでありませんでした。
ただ,陸上交通の面で見ると,屋代から松代を経て須坂,中野と続く谷街道が通っているわけですが,屋代から雨宮の渡しを渡って善光寺宿(長野)から高田方面へ抜ける北国街道に比べて支線的存在であることは否めません。それはそのまま,現在の信越線と長野電鉄河東(かとう)線の違いに現れています。
松代城下町は背後の山地から千曲川へ流れ出す中規模河川の扇状地上に位置するのですが,この河川の奥行きは深いものではなく,したがって松代市街は後背地というものをほとんど持ちません。先述の通り,谷街道で屋代や須坂と結ばれてはいますが,千曲川は善光寺平では盆地の南東側の縁に偏って流れ(これは犀川が作る大きな扇状地に押し出されてしまったのでしょう),そのせいで松代は千曲川にせまる山によって屋代とも須坂方面とも分断されて孤立したような位置にあるのですね。
だから,千曲川舟運が廃れてしまえば松代単独での発展は難しいロケーションにあるのです。
松代藩が廃止され,県庁が長野に置かれてしまえば,松代の地位が下落するのは止むを得ないことでしょう。
「埴科郡の中心」という地位も,そもそも郡内の北東端に孤立して位置するわけですから,北国街道に沿い,のちに信越線の駅も設置された屋代にその地位を奪われたのも蓋然的です。

この点,石高に関しては松代よりも小さな松本や上田,飯田などが地域の中心として圧倒的な位置にあるのと大きな違いがあります。
真田信之が上田から松代への転封を命ぜられたとき,名目上は9万5千石から13万5千石へという「加増転封」でありながら,父祖以来勢力を扶植してきた小県(ちいさがた)郡を奪われて,犀川扇状地を流れる荒れ川をかかえた善光寺平への移転を命ぜられたことに家中では大きな不満があったとも言われます(関ヶ原に向かう途中で足止めを食らわされ大恥をかかされた将軍秀忠の真田家への意趣返し,なんてことを言う人もいますね)。

かくて,松代は善光寺平の中のほかの地域がそれぞれに発展をしているのに対して,どうもそのような流れから取り残された存在として,松代小盆地内の商業小中心の地位に甘んじているように思います。そして,広域的には善光寺平の中心である長野の影響圏下にある。合併当時,松代とほかの地域を結ぶ最も太いパイプは,川中島平を横断して長野と結ぶバス路線でした(これは今でも同じ)。
このような状況の中で,善光寺平西半部を“1つの自治体”に統合する「大長野市構想」に,松代町も参加することを選択したのだと思います。
[19835] 2003年 9月 12日(金)18:50:31Issie さん
外房市大多喜
「内房/外房」という呼称(「ないぼう/がいぼう」期も含めて)がいつから行われ始めたのかはよくわからないのですが(さほど古くはなかろうと思います。少なくと明治以前にさかのぼることはないように感じます),これは基本的に海岸部についての呼称であって,内陸部についてはあまり用いられてこなかったような気がします。
だから,たとえば大多喜が「外房」で,久留里が「内房」というと,ちょっと違和感を感じないでもありません。

[19822] 月の輪熊 さん
大多喜署から勝浦署が分離し、のちに大多喜署が廃止されて勝浦署管轄になった

いつの間にか,そうなっていたのですね。
とはいえ,勝浦が“夷隅地域唯一の市”であったとしても,夷隅地域を代表するかというと多分に怪しいよな,とは思います。
むしろ市になって以降,勝浦の市勢は後退気味のような感じを受けるのですが,勝浦は“夷隅地域の中心”としてではなく,漁業を背景に“自力”で市になった,というイメージがあります。
位置的にも,夷隅地域の中ではかなり偏った位置にありますよね。
市域こそ隣接各村を編入して夷隅川上流域に及んでいるけれども,勝浦市街そのものは山を背に勝浦湾に臨んだ海岸部にあって,夷隅地域(郡内)の他町村との間に“壁”がある感は否めません。
夷隅地域(外房市予定地域)全体の広がりから考えれば,大原が市役所予定地というのは妥当なもの,と感じます。

それにしても,こうして「大多喜」が自治体名から姿を消すのですね。
房総半島の“くびれ”以南の「3大城下町」のうち,黒田家3万石の城下町であった「久留里」が「君津市」となって久しく(1970年の合併当時は「君津町」。それ以前,1954年の松丘村との合併以降は「上総町」),今また,家康の関東入部に伴って入封した本多平八郎忠勝に始まり,元禄末以降は大河内松平家2万石の城下町であった「大多喜」も姿を消すわけですか…。
千葉県北端の城下町「関宿」も自治体としては姿を消したばかりで,一面さびしくはありますね。

ちなみに,南房総のもう1つの城下町は館山。
戦国以来の里見氏の城下町(久留里と大多喜というのは,関東に移転したばかりの家康にとっては「仮想敵」である里見氏に対する前線基地なのですね。北総の方では,同じく仮想敵である水戸の佐竹氏に対するシフトで配下の有力武将が配置されています)であったけれども,大坂の陣を前に徳川にとっては念願かなって里見氏を伯耆倉吉に追い払い(ほどなく改易),しばらく城下町の地位を失いますが天明年間に稲葉家1万石の城下町として復活。ただし「お城」は復活せず,陣屋が置かれたようです。
(数週間前の「子連れ狼」で拝一刀父子が「館山藩」に来ているのですが,これは復活した稲葉家館山藩なんでしょうかね。)
ただし,鉄道駅や市役所その他,現在の館山市の中心市街地は“本来の「館山」”ではなくて,隣の「北条」にあります(鉄道駅は当初,「安房北条」という名前でした)。
実は館山藩がなかった間,寛永年間から文政年間までは途中一時期の中断をはさんでこちらに大名が配置されていた(前期:屋代家1万石,後期:水野家1.2~1.5万石)わけで,つまり,以来館山と北条はライバル関係にあるのですね。

私,館山はじっくりと歩いたことがないのですが,久留里も大多喜もゆっくり歩くと大変に趣のある町です(もっとも市街地として残っているのは,街道に沿ったかつての町人町の区域だけですが)。
[19918] 2003年 9月 15日(月)22:11:02【1】YSK[両毛人] さん
仙台の通り名について
私のホームページ内の掲示板「地域の旅人」にて、仙台城下町の通り名(町名)についての話題になったのですが、その中で、仙台城下町で「○○通」という場合、それは「○○に通ずる通り」という意味というお話をさせていただきました。

「南町通」であれば、「南町に通ずる通り(及びその通りに面した町名)」、「堤通」であれば、「堤町に通ずる通り(及びその通りに面した町名)」、といった感じですね。

ですから、現在での、ある道を指して「○○通」と呼ぶ感覚とは少し違うんですね。仙台の繁華街「一番町通」などは、「一番町に通ずる通り」という意味になってしまう。国道4号線となっている、幹線道路の「東二番丁通」も同じでして、本来「東二番丁」で意味が通じるのに、「通」をつけてしまうと、「東二番丁に通ずる道」というニュアンスになります。

まあ、これらの道の呼び方は現代の感覚でつけられているので、しょうがないことなのだとは思います。

しかし、これはどうかな・・・と思う事例もあります。

仙台市では「歴史的町名等活用推進事業」なる事業をすすめていまして、住居表示などによって見かけ上はなくなった、古い通り名(町名)の再活用を推し進めているようでして、辻標の整備などが市街地で着々と進められているようです。

話を聞くとよいことのように思うのですが、その辻標、『<東一番丁>通り』とか『<肴町>通り』とかいう表記になっているんですよ。上に説明しましたとおり、この名前の後半の「通り」部分は本来の旧町名にはなかったわけで、「通り」という地名のもともとのニュアンスを無視した命名法になってます。果たして、「通り」という接尾語をつける意味があるのだろうか、と思ってしまいます。

そのくせ、上述した「堤通」など、もともと「通」がつく場合は、『<堤通>通り』といった表記にはせず、『堤通』のままにするようです。

なお、現在、「青葉通」や「広瀬通」、「晩翠通」、「駅前通」、「愛宕上杉通」などの愛称が市内の幹線道路についていますが、こちらは1981~1982年に、市民公募により命名されたものだそうです。

詳しくは、仙台市「歴史的町名等活用推進事業」のページをご覧下さい。
http://www.city.sendai.jp/shimin/kusei/rekishi/index.html

拙ホームページ内掲示板「地域の旅人」にも、お話の内容が出てますので、関心がおありの方は、チェックしてみてくださいね(こうして、掲示板の宣伝をちゃっかりしているのでした・・・汗)
http://8324.teacup.com/ryomobito/bbs
[20736] 2003年 10月 7日(火)21:44:29【4】Issie さん
上加納村岐阜駅前
[20726] 深海魚 さん
長らく 「ペギー松山 / モモレンジャー」 と混同していました。(笑)

「ゴレンジャー」は見てないけれど,ペギー葉山といえば,そりゃあなた,「緑のおばさん/ウルトラの母」ですよ。

[20716] 両毛人 さん
[20717] 白桃 さん

町村制施行後の「加納」の変遷は次のとおりです。

【上加納村】
1889(明治22).7.1上加納村の一部をもって「上加納村」を編成
(岐阜駅および駅前通・安良田町は岐阜市)
1903(明治36).4.1岐阜市へ編入

【東加納町・西加納町・下加納村 →加納町】
1889(明治22).7.1加納町のうち東部20ヵ町をもって「東加納町」を編成
加納町のうち西部6ヵ町をもって「西加納町」を編成
下加納村をもって「下加納村」を編成
1897(明治30).4.1東加納町・西加納町・下加納村 が合体
1940(昭和15).2.11岐阜市へ編入

市制・町村制施行直後の1891(明治24)年測図の地形図(の復刻版)によれば,
・「東加納町」と「西加納町」は,実際には“北”側の中山道に沿った「東加納町」,“南”側のお城とその周辺の「西加納町」という位置関係になっています。
・町村制施行以前の(旧)上加納村のうち,「岐阜市」の一部となったのは,岐阜駅構内と岐阜市街へのびる通り沿い,および名古屋から岐阜へ通じる街道に沿った街区(安良田町[のうち東海道線以北])の区域のようです。1891年段階で既に市街化していて,中心部と市街地が連続しています。
・東海道線の南側と,安良田町の東側が,町村制による「上加納村」を構成しますが,1891年の段階では安良田町のすぐ東側の通り沿い以外は市街化されていません。
・当然,「岐阜」と「加納」とは全く別個の市街地を形成しています。

1920(大正9)年測図の地形図では,既に開業している笠松への軌道線(現在の名鉄本線の一部)を軸に,(狭義の)岐阜と加納の間の区域の市街化が始まっています。
(ついでに,元々,岐阜都市圏の私設鉄道網では[新]岐阜から笠松を経て竹鼻・大須方面へ向かう路線が「本線」でした。一方で,尾張[愛知県]側では,名古屋[押切町]から枇杷島を経て津島へ向かう路線がいち早く建設され,次いで,弥富から津島・一宮を経て奥町[尾西市]から木曽川橋の手前まで延びる路線,つまり現在の名鉄尾西線が早く整備されました[木曽川橋~玉ノ井間は統合後に廃止]。枇杷島から新岐阜へ向かう現在の名鉄本線は,昭和になってこの地域の各鉄道が統合されてから整備された新しい路線です。)

全体を俯瞰すると,次のようになると思います。

・大雑把な地域の把握として,稲葉山下・長良川南岸の市街地を(狭義の)「岐阜」と呼ぶ。
・「岐阜」に南隣する区域を,大雑把に「加納」と呼ぶ。
・加納は,北側の「上加納村」と,南側の「下加納村」に分割される。
・江戸時代初期以降,「加納」に大名が配置された。
・加納に入封した大名は,この地位の南側「下加納地域」に築かれた城郭を本拠地とし,「加納城下町」を整備した。
・この城下町区域を,「上・下加納村」から特に分けて「加納町」とする。
・城下町のうち,“町人地”はこの町を通過していた中山道に沿って配置した。
・一方で,中山道筋の南側,お城に近い区域は武家屋敷地とした。
・明治に入り,中山道沿いの町人町と,お城の近くの武家屋敷地区とは,それぞれ別個に行政末端の区画を構成する。
・1889(明治28)年の市制・町村制施行に際し,旧城下町「加納町」を分けて,中山道沿いの町人町区域を「東加納町」,お城の近くの武家屋敷地区を「西加納町」とした。
・城下町・加納を取り巻く,“農村”としての上・下加納村は,岐阜市街の延長区間として既に市街化した岐阜駅周辺を分離して,そのまま“村”となった。
・そんなこんな,全部ひっくるめて1940年の大合併で,この地域全域が「岐阜市」となった。

考えてみれば,
戦国末期に美濃1国を「乗っ取った」斎藤道三が稲葉山城に拠り,麓の「井ノ口」に城下町を整備するまで,戦国後半,美濃国の守護大名であった土岐氏が本拠を置いたのは加納でした。
それが斎藤氏の支配(前にも触れたことがありますが,斎藤道三[利政]の「国盗り物語」は,実は彼一代ではなく,彼の父親から2代にわたる乗っ取り工作の結果,という考え方が最近では有力です)下で「井ノ口」に中心が移り,斎藤氏を滅ぼした織田信長がこの地を新たな本拠とし,「岐阜」と改名して以来,美濃南西部の中心として成長したのでした。
ところが,徳川政権(江戸幕府)の支配下では,岐阜城とその城下町が廃棄され,かわって加納が再び美濃西部の行政中心として整備されたわけです。
これに対して,県庁設置を節目に岐阜が“巻き返し”に出て,結局昭和初期までに“加納に対する優位”を確立しました。結果,加納は岐阜市に編入されることとなります。

かくて,すべてをひっくるめて,最近500年間を通した 岐阜 vs. 加納 の“熾烈”な競争は,全般に岐阜優位に進んでいるように感じます。

1920年国勢調査で加納町は10082人を数える大きな町でしたから、当時から岐阜市と市街が繋がっていたのでしょうね。

1920年の段階ではまだ,岐阜市街と加納市街とは別個の市街地を形成しています。
ただ,この頃から岐阜から笠松方面へ敷設された電鉄線を軸に市街化が進行し,高度成長が終結する1970年頃までに「駅裏」たる加納側の市街化がほぼ完了します。
1920年段階の「加納町」の人口は,近世以来の「城下町 兼 中山道の宿場町」という,二重の役割を反映したものではないか,と思います。
[21647] 2003年 11月 2日(日)20:49:52千本桜[軒下提灯] さん
二本松市郭内
[21646]両毛人さん
白河市の郭内ですが、城郭の内部という意味の和名の可能性が高いようにも思います。
郭内で思い浮かぶのは二本松市郭内です。二本松城址あたりの地名になります。川を挟んで両側に町並みが形成された都市は沢山ありますが、二本松って丘陵を挟んで両側に町並みが展開します。ちょっとミステリアスというか、個人的にはかなりミステリアスでわくわくする街です。郭内・竹田地区と本町・亀谷地区の間を走る尾根。これ、何なんでしょうね。だからこそ、ここに城下町が築かれたのかもしれませんが、地形と町並みが不思議な絡みをしていますね。市街地中央を東西に走るこの尾根の道は散歩コースになっています。今頃の季節、いいですよ。皆様もどうぞ。↓二本松市街地の地形図です。
http://mapbrowse.gsi.go.jp/cgi-bin/nph-mm.cgi?mesh=5640332&x=-1&y=-1
[23298] 2004年 1月 1日(木)20:58:56Issie さん
城下町花巻
[23287] 白桃 さん
これは昭和15年の人口ですか?だとすると、花巻は昭和25年に2万人余ですしたから、その間に分離等がありましたでしょうか?

すみません。
あれはウッカリ,稗貫郡全体のデータを載せてしまいました。
1940年10月1日調査時点の「花巻町」のデータは以下のとおりです。

世帯数人口総数
花巻町3,31416,95331,47933,367

花巻は城下町ではなかったように記憶しているのですが

近世の花巻はあくまでも「南部家盛岡藩」の領内であって,独立大名の城下町ではありません。
けれども南部家は領内の主要拠点に有力家臣(南部氏一門を含む)を配置していました。
中でも花巻は南隣する「伊達家仙台藩領」に対する前線に位置していたので,南部領内でも重視されたようです。
で,花巻には城郭を中心とする街区と,稗貫地方の商業拠点と宿場機能を備えた「川口町」とからなる,典型的な城下町構造が形づくられました。この構造は,城郭を含めて現在でも割とよく保存されているようです。
明治・大正期になりますが,宮沢賢治の家はこの地を代表する商家であったわけで,だから彼の実家は商業地区の「里川口町」にあるのです。

こんなページがありました。
http://www.airinkan.com/h-rekisi.html


「前線」という点では伊達家の側から見た場合も当然同じであって,こちら側の前線に当たる水沢には伊達一門の留守氏(中世以来の名族を独眼流政宗の父・叔父の代に乗っ取ったわけですが)が配置されて「城下町」となっていました。天保期の蘭学弾圧による被害者の代表である高野長英が当初養子に入った「高野家」は,この留守家の「藩医」の家です。
けれども,この水沢留守家もまた幕府からは独立した大名とはみなされていません。
[34577] 2004年 10月 29日(金)00:52:21今川焼 さん
合併を前に「氷上郡6町の記憶(1)」
合併まであと3日となった兵庫県氷上郡の各町の印象をまとめてみました。本当はいろいろ資料にあたってみてと考えていましたが、このところ何かと忙しく、合併期日も迫ってきましたので記憶と印象だけで綴ります。

●柏原町(かいばらちょう)
1955(昭和30)年に柏原町と新井村が合併して誕生。
平安時代に山城国の石清水八幡宮を勧請した八幡神社の門前町が町のルーツで、江戸時代は織田藩2万石の城下町として郡内の中心的地位を占めるようになりました。(ただし町は城下町と称していますが、城は造られず正確には陣屋町です。またその領地も郡内の一部地域にとどまっていました。)明治以降は、県立中学がいちはやく1897年に開校、また国・県の出先機関もことごとく柏原に設置され、郡内に2つある総合病院もいずれも柏原町と、公的機関の一極集中はさらに進みました。
柏原(かいばら)と変わった読み方をする町名ですが、もともと「栢原」と書いていたものを明治の初め佳字の「柏」に改めたものです。ですので町内に柏の木が多いわけではありません。むしろ街路樹などに多用されているのが町木のケヤキで、これは町中にある木の根が橋の欄干のように川をまたいでいる「木の根橋」に由来しています。(参考[5617] TN さん)
郡内でもっとも人口の増加率が大きく、また昼間人口率が129%と県内の町ではトップです。
人口約10000人


●氷上町(ひかみちょう)
1955(昭和30)年に成松町と生郷村・沼貫村・葛野村・幸世村が合併して誕生。
氷上盆地(とはあまり言いませんが)の枢要部を占める人口・面積とも郡内最大の町。古代の氷上郡の郡衙が町内の氷上地区に置かれていたと推定されることから「氷上町」を名乗っています。
町の東部で国道175・176号線、県道柏原青垣線が交差し、その付近が氷上郡の地理的中心になり、大型スーパーをはじめとするロードサイド店の集中出店ゾーンとなっています。また来年には舞鶴若狭道の春日I.Cから分岐して延びてくる高規格道路のインターチェンジが建設中で、新市の商業中心地が形成されようとしています。氷上町はこの付近を市役所新庁舎の候補地として推しています。(新庁舎完成までは現氷上町役場が市役所本庁舎として使用されます)
新市名「丹波市」に対しては反対意見が根強く、町議会の紛糾により合併関連議案の議決は6町の最後になりました。
町の東部に瀬戸内海側と日本海側を分つ「水分れ(みわかれ)」と呼ばれる「日本一低い分水界」があります。
人口約19000人
[36063] 2004年 12月 26日(日)02:05:18【4】EMM さん
軒下提灯さんあて2題+1
[36057] 軒下提灯さん

いえいえ、「金沢」というのがあとから着けられたいわば「瑞祥地名」なのです。
「尾山」にしてもほんのちょっと先にあっただけ、みたいですが。


金沢の中心である金沢城は前田家の城として有名ですが、もともとは戦国時代に柴田勝家の甥である佐久間盛政が築いた城で、柴田家滅亡後に加賀を領地とした前田利家が七尾の小丸山城から本拠地を移したものです。
さて、佐久間盛政が城を築く前、金沢城のあたりには一向一揆の中心となった大寺院がありました。
この大寺院の名が「尾山御坊」なのであります。
尾山御坊は御山御坊、金沢御坊、金沢御堂とも呼ばれていますが、この尾山御坊に関する本願寺の書状以前には「金沢」という名が出てくる古文書はないようです。
(元々「金沢」というのは金洗い沢という小さな沢の名前でした。この沢は現在は金城霊沢として残っています)
また、佐久間盛政が城を建てた当初は「尾山城」でしたので、周辺に築かれた城下町も「尾山」と称されていたはず。
(実際、佐久間時代に成立した8つの町名を総称して「尾山八町」といいます)
本格的に町全体の名前として「金沢」使われるようになったのは前田利家が当地の支配者となった頃と考えられます。
(佐久間の使用した「尾山」の名を嫌い、かつて対立した一向宗が使用していたものではあるものの縁起の良さそうな金沢のほうを採用した?)
こういう経緯があることから、長年にわたって公式には「金沢」ですが、下々は「尾山」とも呼んでいたようで、時代が下ってもつい最近までその名残が残っており、郊外の村から金沢の繁華街に出ることを「尾山に行く」という風に言ったのです。
さすがに、我々の年代ではもう言いませんが。

ちなみに、室町時代までは現在の金沢の中心地は小さな村々が点々とあるだけのところでした。
室町時代に加賀の守護として勢力を持っていた富樫氏は現在の金沢市南部~野々市町に当たる富樫荘が本拠地でした。
金沢の名の由来である金城霊沢にまつわる芋掘り藤五郎という昔話が当地に伝えられていますが、この藤五郎が住んでいたとされるのが金沢市南部の山科というところで、富樫氏の本拠地のまんまど真ん中だったりします。
藤五郎の話の時代は金沢城周辺は村の端っこの、ジネンジョを取りに行く「山」だったのです。
(金沢北部の住人としてはこれだけではシャクなので、南北朝時代の国司の館は金沢の北部方面にあったこと[21613]、古墳時代の豪族の墳墓が市北部に多数ある事を申し添えておきます)
それが前述のとおり佐久間盛政、前田利家によって城下町が作られ、現在に至っているという訳です。

(この歴史があるもんですから、現在の市町村合併話に際して野々市町サイドから「金沢市ごとき歴史の浅いところがなんぼのもんじゃい」的発言が出てきたりします。それを言ったら、旧小坂村や旧森本町だって負けんぐらい歴史があるんだい!と言いたくなりますが、特にその旧森本町の合併後の状況が、野々市が合併に乗ってこない一因であったりするので…)




話は変わりますが、金沢市内の「↑金沢 ○km」標識は今年の春~夏頃に見ているのですが、一応確認しておいた方が良かろう、と思い現地確認に行ってきました。
国道8号線を津幡町から金沢市に入ると、利屋町~二日市町にかけて1~2枚あったはず、だったのですが…
無くなってました(つ;)
最近、津幡町内の国道159号線が津幡バイパスに1本化され、津幡町太田~金沢市今町間が8号・159号(ついでに249号)の重複区間だったものが8号単独になっており、どうもその前後に標識が変わってしまったようです。
ちなみに金沢市今町の8号と159号の分岐点では8号側に「↑福井・小松」、159号側に「↑金沢市街」(距離表示無し)の標識が出ています。
ここから先の159号にも「↑金沢 ○km」があったはずなのですがやはり無くなっており、代わりにこんな標識が…

 ↑小 松 ○km 兼六園 ○km
(実際には縦に並んでます)

国道157号線でも、8号バイパスから分岐したすぐ(野々市町地内)には「↑金沢 7km」の標識があるものの、金沢市内に入ったとたん「↑兼六園」(距離表示無し)に化けてしまう。
う~ん、金沢市の中心は兼六園なのか………。

多数ある、とデカデカと書いてしまったものの、実際には金沢市内の「↑金沢 ○km」標識は無くなってしまったと言っていいようです。
まだ富山から来る国道304号・359号についての確認がまだなので、ここに残っている可能性はありますが、年内中は確認に行っている暇がない…





最後にもう1点。
[36010]でもお願いいたしましたが、再度はっきりとお願いさせて頂きます。
私のハンドルネームは「EMM」、全角文字です。
半角文字では書かないで頂きたいのです。
試しに記事検索機能で本文検索してみてください。半角では全角、全角では半角は検索されません。
後々過去記事を探す時に困るのです。
「EMM」と半角で書いてくる方が何名かおられるため、一時ハンドルネームの変更も考えた事もあります。
結構こだわっておりますので、なにとぞよろしくお願い申し上げます。
また、私以外にも全角アルファベット・数字をハンドルネームを使っていらっしゃる方が何名かいらっしゃいますので、同様に対応してくださるよう併せてお願い申し上げます。




※金沢の地名のくだりの部分を書き直し
[36757] 2005年 1月 14日(金)21:42:34【6】じゃごたろ さん
上諏訪
似たような話題を何度も書き込んで恐縮ですが、「御神渡(おみわたり)」を調べている間に「上諏訪」に関する情報も集まりましたので、その情報を自分なりにまとめてみました。

古くは「下諏訪」は「しものすわ」と呼ばれ、下社のある諏訪湖北岸一帯を指す地名であり、「上諏訪」は「かみのすわ」と呼ばれ、上社のある諏訪湖南岸、特に上社のある神宮寺周辺を指す地名であったそうです。その後、下社の門前町が中仙道の宿場として「下諏訪宿」となり、その周辺が特に「下諏訪」と呼ばれるようになります。そのため現在の「下諏訪」と下社のある位置は一致します。一方、高島城の城下町が甲州街道の宿場として「上諏訪宿」となりましたが、これは神宮寺周辺とは一致しません。現在の「上諏訪」とはこの「上諏訪宿」のおかれた高島城や上諏訪駅周辺を指す地名となりました。

さてここで問題なのは「上諏訪宿」です。はからずもIssieさんが昨年[26852]で、

上諏訪は下社の側なのですね。
<上社> 富士見町,原村,茅野市,諏訪市(中洲・湖南・豊田・四賀)
<下社> 諏訪市(上諏訪),下諏訪町,岡谷市

と仰っているように現在の「上諏訪」は下社、つまり「しものすわ」の領域にあたります。どういうことでしょう。

現・諏訪市は、まず昭和16年に上諏訪町、四賀村、豊田村が合併して旧・諏訪市となり、さらに昭和30年に中洲村、湖南村と合併して現在に至ります(参考:IssieさんのHP)。御柱祭の諏訪市の区分けは、この諏訪市を構成した昔の村単位であることがわかります。

ではこの上諏訪町をさらに細かく見てみると、明治7年に大和村、下桑原村、小和田村が合併して上諏訪村となったものが、のちに町制を施行したものであることがわかります。現在「小和田(こわた)」は高島城の東側に地名として残っているように、小和田村は「上諏訪宿」の存在する村です。その北隣が大和村、南隣が下桑原村です。(実はこの小和田そのものが「御神渡」と非常に関係が深いのですが、それは別途ということで)

ではこの「上諏訪宿」のある小和田村は「かみのすわ」と「しものすわ」のどちらだったのでしょうか。

もし小和田村が「かみのすわ」であったとすると、その南隣の下桑原村も「かみのすわ」と言えます。では「かみのすわ」の小和田村と下桑原村が大和村と合併した際を考えると、その合併でできた上諏訪村が「かみのすわ」ではなく「しものすわ」に組み込まれるということは不自然であり、まず考えられません。つまり少なくとも小和田村と大和村は「しものすわ」であったと考えるのが自然です。

ということは、「上諏訪宿」とは下社の領域「しものすわ」にありながら「上諏訪」の名を与えられたということになるのです。どういうことでしょうか。

高島城が築城されたのは比較的新しく、江戸幕府が開府する直前の1598年に日根野織部正高吉が設計し、完成したものです。この高島城下が城下町のとなるのはその後であり、江戸時代になって甲州街道が整備され「上諏訪宿」となるわけです。もしかしたら湯治場としてそれ以前から発展していたのかもしれませんが、高島城下が「上諏訪」と呼ばれるようになったのは、この「上諏訪宿」以来ではないかと思います。

つまりこういう事が考えられます。現在の「下諏訪」という地名は「下諏訪宿」を経由して直接的に下社に由来するものです。しかし現在の「上諏訪」という地名は直接的に上社から由来するものではなく、「下諏訪」よりも「かみのすわ」に近い方、もしくは「下諏訪」よりも江戸に近い方という意味合いで、高島城下に割り当てられた地名という意味合いが強いのではないでしょうか。ただし「下諏訪」が由来する「しものすわ」が、「かみのすわ」があって初めて成り立つものであり、「上諏訪」が「かみのすわ」とは間接的に由来するということは否定しませんが。

皆さんはどうお感じになりましたか。

さてここで、根本的な問題が残っています。「かみのすわ」は上社に由来し、「しものすわ」は下社に由来するとすると、そもそも上社、下社の「上」「下」はどうして決められたか、ということです。それと関連があるのが「御神渡」ではないかと思います。

何度もここで書き込んでいますが、昔の諏訪湖はいまよりも大きかったと言われています。諏訪湖周辺の地図を見ながら、想像を豊かにして以下をお読みください。

出典がどこだかわからなくなってしまいましたが、江戸時代には諏訪地方(高島藩)の石高を上げるために釜口(天竜川の注ぎ口)を削って、諏訪湖の水位を2m程度下げて陸地を増やしたため、諏訪湖の面積が半分ほどになったということらしいです。諏訪湖の岡谷側は、岡谷IC付近を扇の要とする扇状地形であり、意外と傾斜があります。そのため水位が2m上がっててもそれ程面積は増えません。つまり、水位を下げた際に陸地となったのは諏訪湖の南東の諏訪市側ということになります。

では現在の諏訪湖の面積を二倍にしたらどうなるでしょうか。おおよそ現在の諏訪IC付近まで湖であったと容易に想像できます。それ以前の時代にはもっと広かったでしょう。そうすると、諏訪湖の北端にちょうど下社が位置し、南端に上社が位置するように見えませんか。

そこで「御神渡」です。この「御神渡」は太古から発生する自然現象であり、諏訪神社の歴史以前から諏訪の地に住む人々に知られたものであることは確かでしょう。そのような人々が、一夜にして現れる(といわれる)「御神渡」という自然現象を目の当たりにして、「神様が馬に乗って通った跡」とか「竜神の現れ」と思うのは当然のことと思います。

諏訪湖には竜神伝説があります。大きく蛇行する「御神渡」がこの竜神伝説の由来となったと思われます。地誌によると、上社の祭神である建御名方神(たけみなかたのかみ)は諏訪の地に入った後に諏訪湖の竜神を討伐したとあるようですし、天竜川の名前も諏訪湖の竜神に由来するという説もあります。ちなみに、太古の諏訪湖は釜無川に注いでいたものが、八ヶ岳の噴火によりその流路を遮られ、釜口で決壊して流れ出したのが天竜川であるとも言われています。それが元は「天流川」と呼ばれていたのが竜神伝説と重なり「天竜川」になったと。

話は「御神渡」に戻しますが、太古の人々がその様な自然現象に畏怖心を抱き、その神を祀り、鎮めようとするのは自然な流れです。そして「御神渡」が現れ達する諏訪湖の北岸と南岸にそれぞれお社を建てて祀ったのが現在の諏訪大社の始まりではないのでしょうか。「御神渡」の神事では南北方向に「一之御神渡」「ニ之御神渡」の二本が現れますが、上社には前宮・本宮、下社には春宮・秋宮のそれぞれニ社づつあるのは偶然の一致でしょうか。

男神の祀られる上社と、女神の祀られる下社を結ぶように「御神渡」が現れる、と言うととても神秘的に感じられますが、その逆に「御神渡」の現れる両岸にお社を建てたと考えれば必然的なものとなります。これは記紀の時代以前の話であり、諏訪大社がいつから存在するか不明な、日本で最も古い神社の一つとされるのもそのためでしょう。その後、大和勢力に国譲りをした出雲勢力の伝説をはじめとした様々な伝説が混交して、現在の諏訪大社が成り立っていったのではないでしょうか。

さて「上社」と「下社」。「御神渡」が「神が通った跡」だとすると、どちらからどちらへ通って行ったかは気になるところです。そしてその道筋で、神様が降り立った方が「上」であり、神様が上陸した方が「下」であるとするのも当然のことでしょう。

残念ながら私はこの重要な部分に到達しておりません。敢えて言うならば、太陽の昇る南側から神様が降り立ったと考えるとか、「御神渡」の割れ目からその方向を南から北へと判断したのではないか、ということです(実際に私は御神渡を見たことがないので何とも言えませんが)。そして最初は区別のなかった社が、「御神渡」の「上」「下」に連携するように、「上社」「下社」とそれぞれ呼ばれる様になっていったのではないかと思っています。

長々と書き込んだわりには尻切れトンボ的な書き込みになってしまいましたが、現在の私が考えられる内容は以上です。いかがだったでしょうか。最後の「上」「下」に関してはもっと情報を集めてみたいと思います。

そうそう、あと調査の発端となった「御神渡」に関しては別途書き込みをしたいと思います。
[39531] 2005年 4月 9日(土)20:50:23Issie さん
城下町か否か
[39508] 百折不撓さん
確かに県庁所在地の市は、城下町が多いですね。
と言うか、城下町で無いところの方が少ないでしょうね。

[39524] 中島悟 さん
城下でないところ・・・長崎、宮崎、山口、あと沖縄(首里じゃなく那覇)もいいのかな?結構あるよ。

確認してみましょう。

【類型1】城下町A ---“江戸時代”に大名領(藩)の中心都市であったところ(支藩も含む)
盛岡市,仙台市,秋田市,山形市,福島市,水戸市,宇都宮市,前橋市,東京,富山市
金沢市,福井市,名古屋市,津市,和歌山市,鳥取市,松江市,岡山市,広島市,徳島市
高松市,松山市,高知市,福岡市,佐賀市,熊本市,大分市,鹿児島市

【類型2】城下町B ---江戸時代初期に大名領の中心であったことがあり,幕府直轄となって以降も中心都市としての機能を維持したところ
甲府市,静岡市,大阪市

【類型3】準城下町 ---大名領の中心都市に類するところ
京都市

【類型4】非城下町 ---“江戸時代”に大名領の中心都市すなわち「城下町」ではないところ
札幌市,青森市,さいたま市(浦和),千葉市,横浜市,新潟市,長野市,岐阜市,大津市
神戸市,奈良市,山口市,長崎市,宮崎市,那覇市

江戸(東京)は言うまでもなく,将軍を主君とする徳川家中の総城下町ですね。
「朝廷」を天皇を主君,公家をその家臣とみなして大名家中(藩組織)に見立てれば,京都も機能的には「城下町」に準ずるものと見なせなくもなさそうですが,もちろん普通は「城下町」とはされません。
首里も京都に準ずるものとみなすことができますが,米軍統治下の1954年に那覇市に編入されるまでは那覇とは別の都市でした。

【類型4】のうち,以下の都市は後の合併によって旧城下町ないしは陣屋町を市域に含むことになったけれども,中心市街自体は「城下町」ではありません。
 さいたま市(岩槻),千葉市(生実),横浜市(金沢),長野市(松代),岐阜市(加納)
 大津市(膳所),奈良市(柳生)

「城下町」をどのように定義するかによってこのあたりの判定は変わってくるでしょうが,一般に理解されている公約数的な解釈は
・領域全体にわたって領主(大名)の直接的支配が確立し
・家臣が個々の領地から離されて城下への集住が進み
・領域内の主要な商人・職人も城下への集住が求められ
・それらの居住区が計画的に配置されて
その結果
・領域全体の政治・経済の中心としての機能を確立した都市
と言うようなものであるように思います。

このような都市は戦国時代末期から現れ始めますが(美濃の斎藤氏の支配拠点である井ノ口,すなわち後の岐阜など),本格的に全国に建設されたのは徳川氏の支配の下に幕藩体制が確立してからで,その意味ではすぐれて江戸時代のものです。

岐阜は関ヶ原で西軍についた織田秀信が領地を没収されて以来,廃藩置県に至るまで大名が配置されることはなく,その意味で「城下町」としての機能を失いました。
山口も関ヶ原に参加した(でも戦闘に参加していない)毛利秀元が長府に移されて以降「城下町」としては廃れました。文久3(1863)年に萩から藩庁機能が移されて行政中心として復活しますが,江戸時代の「いわゆる城下町」には含まないほうがいいように思います。

ま,要するに,
現在残っている県庁所在都市の中で,小柳ルミ子の歌で連想されるような「いわゆる城下町」ではない都市も,意外に多いよ,
という結論でよろしいかと思います。
[39561] 2005年 4月 10日(日)11:40:26Issie さん
鎌倉は「中世都市」か?
[39541] ズッキー さん
大多数の岐阜市民も、いわゆる城下町だと思い込んでいるでしょう

つまるところ,「城下町」をどのようにとらえるか,ということなのです。

[39531] で触れたとおり,井ノ口(→岐阜)は最も早い時期に出現した「城下町」の1つです。
けれども関ヶ原後,岐阜城は廃棄され,主要建築物は加納城に移されました。江戸時代を通して金華山上にあったのは「城址」であって,「現役のお城」ではありません。
岐阜城址にも麓にもお殿様が住まうことはなく,岐阜は藩政の中心ではなく商業都市として江戸時代を過ごしました。
その意味で,岐阜は少なくとも「近世城下町」ということはできなかろうと思います。

同じように江戸時代初め,こちらは豊臣氏の滅亡後ですが,城の廃棄された伏見も江戸時代を「城下町」としてではなく,京都の外港としての商業都市として過ごしています。けれども町名に豊臣時代の記憶をとどめていることは,少し以前にここで一連の書き込みが行われたとおりですね。

多くの住民が城下町と「思い込んで」いる,というのは,現代の岐阜市が「城下町」であることに自らのアイデンティティを求め,セールスポイントとした結果だと思います。
現在,金華山の上に建っている建物は1956年に350年ぶりに建てられた鉄筋コンクリート造りのものですね(中世千葉氏の支配拠点として関東有数の都市に発展したとは言っても,あるはずのない天守閣を亥鼻台に建ててしまった千葉よりは,ずっと歴史に沿ったものではありますが)。
「城下町・岐阜」としてのアイデンティティは,ある意味,「作られた歴史」というべきものかも知れません。

ところで,鎌倉市では現在,中世以来の歴史を持つ都市として世界遺産への登録をめざす動きがあります。
もちろん,鎌倉は12世紀末以来,室町時代前半まで武家政権の中心地として繁栄し,それを伝える歴史的事物が現在も多く存在する事実を確認した上で,
それでは,鎌倉は「中世都市」と呼べるのか,考えてみましょう。

鎌倉は,足利政権が幕府を京都に置いて以降も,関東の中心として鎌倉公方と関東管領を頂く“小幕府”の所在地として栄えました。けれども,鎌倉と京都の対立,鎌倉公方と関東管領の対立,関東管領上杉氏の分裂・抗争などを通じて,関東は京都よりも早く騒乱の時代を迎えました。抗争の中で鎌倉は政治的求心力を急速に失い,都市として衰退していくことになります。
戦国時代,(後)北条氏が関東での支配を確立したとき,その「首府」の地位にあったのは小田原でした。そして北条氏の滅亡と徳川氏の入府によって,その地位は江戸に移ります。

江戸時代,7つの切通しの内側を主なエリアとする「狭義の鎌倉」には,極楽寺・坂ノ下・長谷・乱橋材木座・大町・小町・扇ヶ谷・雪ノ下・西御門・二階堂・浄妙寺・十二所の12ヵ村がありました。
これらの村は江戸時代後期にはいずれも幕府直轄領として,一部が大寺社の領地としてあてがわれるという形で,奉行支配の「都市」ではなく代官支配の「農村」として支配を受けていました。
実際,明治半ばの地図でも,長谷に門前町のような街並みが見られ,鶴岡八幡宮門前の雪ノ下に小集落がある程度で,鎌倉に広がっているのは純農村的な土地利用です。
「明治の大合併」に始まる近代市町村制を,鎌倉は「西鎌倉村」「東鎌倉村」の2つの“村”からスタートしました。
明治・大正期に「鎌倉郡」の郡役所が置かれたのは鎌倉ではなく戸塚です。昭和になって戸塚を含む鎌倉郡の北半分が横浜市に引き剥がされた後,残った南半分は1948年までに「鎌倉市」に統合されますが,広域行政上は藤沢を中心とする「高座地域」または「湘南地域」と一体のものとして扱われ,現在に至ります。
鎌倉が「都市」として復活するのは,保養地として注目され,横須賀の海軍将校の住まいとして人々が流入し始めた明治末期以降のことで,つまり,現在の鎌倉市は近代以降に建設された都市です。

このあたり,古代以来ずっと「都市」でありつづけた京都や博多などと根本的に違うところです。
鎌倉には「中世都市」としての“記憶”が多く残されているけれど,現在の鎌倉は「中世以来」の都市ではなく,その間に大きな断絶が存在します。
それを「中世都市」ととらえるかどうかは,きちんと議論されてしかるべきものと考えます。

岐阜が「城下町」であるか,という議論も,同じようにあり得るように思います。
[45529] 2005年 10月 9日(日)02:18:06【1】Issie さん
Re^2:「案山子」の風景
「木綿のハンカチーフ」で検索をかけてみたら,どこでもこの話題で盛り上がるようですね。「この歌は大嫌い」という意見もありましたが,それはそれでなるほどと思いました。

[45500] 稲生 さん,ほか
私は、さだまさしの「案山子」の歌詞の中の光景がどこであるか、皆さんに尋ねてみたいです。

長野の城山(じょうやま)から信越線を見下ろしてもいいのですが(…見えたかな?),中世の城跡ではなくてやっぱり近世のお城なんでしょうね。

“雪”がキーワードの1つかなと思うのですが,たぶん高田や長岡のような豪雪地帯ではなく(長岡に“城跡”などない),秋田や津軽(弘前)のような“厳しい冬”でもなさそうです。
また,仙台とか盛岡,金沢のような大きな城下町ではなくて,中小藩の小ぢんまりした城下町がシックリ来そうな気がします。
津和野もいいのですが,福島,あるいは 三春 なんかどうですか?

※実は「がんばれ元気」は,描かれる列車が幹線の客車列車らしく,内陸っぽい風景で,雪の描写があまりなくて,で,東京から一晩だと…
福島 あたりかな,と目星をつけていたのでした。

[45502] eiji_t さん
マイペースの「東京」

前にも話題になったのですが,「最終“電車”」なんですね。
「電車」だと,“上野駅”ではなくて“東京駅”のイメージかな。
だから,東海道・山陽方面(決して,電化されていなかった紀勢線や山陰線方面ではない)??
…とは言え,「鉄」ではない“普通の人々”の間では「汽車」が廃れて,「電車」と「列車」の混同がだいぶ進んでいるので,“狭義の「電車」”にこだわることもないのですが。

「なごり雪」

東京での“なごり雪”だから,「故郷」に雪が降らないとは限らないとも思います。

[45492] いっちゃん さん
でも、夜汽車は客車であって欲しい・・・かな。

それも,決して“ブルートレイン”ではなくて,旧型客車。
「木綿のハンカチーフ」は,電気機関車牽引でもいいかな。

ちなみに,1975年当時の夜行「アルプス」は電車(少し前はジーゼルカー)でしたが,新宿-松本-長野間の夜行普通列車(昼行も)は,その頃まで客車列車でした。
[45626] 2005年 10月 14日(金)00:38:47【2】EMM さん
その頃は金沢では皆そう認識していた可能性大
昨日今日と仕事中は書類作成に追われておりました。
で、作った書類を上司に見てもらったところ、中に書かれた文章を確認しながらボソッと、
「うーん、中身はだいたいこれで良いね…あとはここら辺の文言が回りくどいのを直してもらえば…」
へい。よー分かっとりやす。
明日が今週の山。明日さえ乗り切れば…


さて、[45614]YUTAさんにも取り上げて頂きました拙稿[45485]の「木綿のハンカチーフ」の考察は自分でもムリヤリであることは分かって書いていたのですが、その後も何とか北陸、できれば金沢に「我田引歌(??)」できる歌が無いか、と考えていました。
そしたらふと、ご幼少のみぎりに「これは金沢のことを歌った歌だ」と認識していた歌があったことを思い出しました。
それは小柳ルミ子「私の城下町」。
ただ、記憶にあるのは保育園に行き出すかどうか、と言う時分の話なので、歌を聴いて自分で認識したのではなく、まわりの大人に教え込まれて覚えていた、と言うところだと思うのですが。

試しにネット検索してみると、何件か「私の城下町=金沢」説を書いているところがあるようです。
例1
しかし、あまりにもご幼少すぎる時分の話のため、歌詞の出だししか覚えておりません。
で、歌詞検索サイトで調べてみると…結構歌詞短いんですね。
キーワードも「城下町」「格子戸」「町のはずれで鐘の音」「川と橋」…何だかどこにでも当てはめられそうです。う゛ーん。

で、試しにネット検索で「"私の城下町" "小柳ルミ子"」+○○でいくつかの城下町について検索してみましたが、「ここが舞台?」見たいな事が書かれたサイトはなかなか出てこない。
松江、津和野、会津若松、岡山、和歌山、松本、小浜、彦根、熊本、弘前…と色々なところを入れていった中で、金沢以外に「ここが舞台?」みたいなことが書かれていた町がもう一つ。
どこかというと郡上八幡で、どんなサイトに書かれているのか思ったら…落書き帳やないですか。
発言の主は[9676]白桃さん。記憶してらっしゃいます?
(実はもう一つ郡上八幡説の書いたサイトがあったのですが、読んでいると白桃さんの記事を元に書いたのではないかという疑念が沸かないでもなく)

余談ながら、カラオケの映像は歌のタイトルや歌詞に具体的な地名がでてくる場合は当地でロケハンされたものが映る例が多い(あくまで「多い」だけ)です。
しかし、具体的な地名が無くなおかつ作詞者などからの「○○をイメージした」と言ったアナウンスもないような場合は、そのカラオケの制作会社が持っているイメージ映像のデータベースの中から「らしい映像」を選んで適当に当てはめている場合が非常に多いです。
(偶然合致した例もあるかもしれませんが)
なので、カラオケで○○の映像が使われていたからあの歌の舞台は○○では?…と考察することは非常に危険です。

#何の歌だったか忘れましたが、歌の中で取り上げられているところと映像の場所が大きくかけ離れていたので間奏中にに文句言いながら歌っていたことがありました。


※追記。
ふと、グリグリさんの年代なら「私の城下町」がヒットしていた頃の様子は覚えているのでは、と思ったり。
グリグリさんのまわりでは「私の城下町」=金沢、と言うようなことは言われていたでしょうか???
[47642] 2005年 12月 25日(日)08:40:55千本桜 さん
白石市の中心集落名を特定する
[44796]千本桜
中心集落名には取りあえず大字名を当てはめてみる。それでしっくりしないなら行政区名、それでもダメなら旧市町村名、それでもダメなら宿駅などの町場名、それでもだめなら現行市町村名などなど、あの手この手でぶつかるだけ。これが法則。

白石市=中心集落名「白石」  ウォッちずで見る白石  Yahoo!地図情報で見る白石

白石市の市街地は、仙南地域で最も地価の高い白石駅前通、および仙南唯一のアーケード商店街中町・長町を核にして展開する。市街地には、市役所、白石駅、仙南信用金庫本店などが立地するほか、白石城武家屋敷などの観光スポットも含まれ、城下町特有の落着いた美しい町並みをしています。近年では新幹線白石蔵王駅付近の宅地化や国道4号バイパス沿道への郊外型店舗の張付きにみられるように、藩政時代の周辺村域にも市街化が及んでいますが、市街地の大部分は藩政時代に白石本郷と呼ばれていた村の領域内に収まっています。

さて、この市街地をひとつの集落と見立てた場合、どのような地名で表せば違和感無く通じ合えるかです。
1・この市街地の根源は城下町白石&宿場町白石であり、白石と呼ばれる町場を形成していた。
2・藩政時代、この町場の村名は白石本郷であった。
3・明治の大合併時に白石本郷は周辺村と合併して白石町となり、白石本郷は白石町の大字名になった。
4・市街地が拡大した現在も、その広がりは大字白石本郷の範囲を大きく食み出してはいない。
以上のことから、白石市の中心集落名は、藩政期の町場名および村名、さらに明治から昭和期の大字名に由来して「白石」。
[51416] 2006年 5月 21日(日)14:56:53白桃 さん
棚倉町
[51408]千本桜さん
この棚倉は10万石の城下町なのに現在は1万5千人の町。石高と現在人口の比から受ける都市停滞ぶりには、かの米沢市民ものけぞってしまうのではないでしょうか。
棚倉という町は、1889年(明治22年)に市町村制度が始まったときに、(当時県内に市が存在しなかったとはいえ、)福島県の筆頭に置かれていますね。しかし、10万石とは名ばかりのようで、実高は少なかったようです。支配家が目まぐるしく交代したこと、しかも、見せしめの転封対象地としての性格も強かったことも、そのあたりに関連してくるのではないでしょうか。それにしても、立派な城下町がその後の国勢調査史において、一度も2万人を超えることがなかったというのも解せませんが…。
いずれにしろ、「かの米沢市民」にイナバウアをやっていただくほどのことでもないでしょう。
[53817] 2006年 9月 5日(火)00:53:37ぺとぺと さん
和歌山
[53811]今川焼さん

和歌山に関するご考察、大変興味深く拝読いたしました。
私自身は自論で話を展開できるような見識は持ち合わせていないので、当の和歌山市のホームページをそのまま引用させていただくと、
豊臣家滅亡後の元和5年(1619)には、徳川家康の第10子徳川頼宣が55万5千石を領して和歌山城に入ります。以後、和歌山の町は、江戸幕府御三家の紀州徳川家の城下町として栄えます。
町は、城を中心に広がり、かつて雑賀と呼ばれた地には、新しい町名が付けられました。街には「大水道」と呼ばれる下水道設備が完備しており、紀州徳川家55万5千石の富みが集積されていました。江戸後期には約9万人の人口を擁する全国7位の近世都市でした。
とあります。
まさに、今川焼さんのおっしゃるように55万5千石の富みが集積された結果だったようです。

江戸時代に約9万人だった人口が、何故明治12年には6万2,000人にまで減少しているのかは知る由もありませんが(統計の信憑性の問題?)、明治22年以降の人口・面積の推移については、同じく和歌山市のホームページに掲載されていましたので、その一部を抜粋してみました。
特筆すべきは人口密度で、狭い面積であるとはいえ明治30年には1万人を突破しており、当時の京都市(上京区・中京区)や現在の特別区と比較しても遜色のないレベルとなっています。
当時は高層住宅などなかったことを考えると、いかににぎやかな街であったかがしのばれます。

年次面積(平方キロ)人口(人)人口密度
明治225.5151,6039,365
明治305.5157,26010,392
明治405.5174,27113,479
大正元5.5176,23413,836
大正106.7692,09913,624
昭和元6.7697,80014,467
昭和1030.95179,7315,807
昭和2072.07146,9202,039
昭和3083.15219,9012,645
昭和40204.76330,8091,616
昭和50206.68390,7801,891
昭和60207.40401,5761,936
平成元207.45399,2811,925
平成10209.42389,8091,861
【参考:京都市】
年次面積(平方キロ)人口(人)人口密度
明治2229.77279,1659,377
明治3029.77332,83311,180
明治4031.28407,42313,025
(出典:京都市ホームページ)
[56513] 2007年 1月 29日(月)02:19:15白桃 さん
岡山市を特定するには
「東かがわ市」についてはオーナーに却下されましたし、むじながいりさんからのご指摘を受けなんだか非常に怪しくなってきた「浦安市」。「一つの市を特定する条件」って、なかなか難しいですね。
でも、懲りずに「岡山市」。
まず、×なもの
白桃饅頭を販売している唯一の市(普遍的ではないわナ)
左右対称市名人口最大市(これは論外)
政令市に最も近い市(これも論外)

ところで、左右対称市がどれぐらいあるか、調べてみました北海道だけ(笑)。
北見は×、室蘭惜しい、三笠ヤバイ、で、結局、○にして良いのは赤平だけ?
北海道じゃないですけれど、人吉は×ですよね。「人」がOKなら、「人口」も「入口」も同じになってしまいます。

大分話がそれましたが、こんなのどうでっしゃろ。
「市町村名が無かった有人地域を含む唯一の市」
1960年国勢調査で「児島湾干拓地7区」の人口は1200人と記載されており、この地域は後に灘崎町に編入されました。その灘崎町が岡山市に編入されたので・・・。
エェ~い、ややこしい。

やっぱり誰がなんと言おうと、
岡山は白桃にとって、「♪わたしの城下町」、「♪青春の城下町」で特定されます。
[58044] 2007年 4月 16日(月)13:00:01【2】むっくん さん
犬山と西尾の差異
[57500]矢作川太郎 さん
この点については2つ例を挙げたいと思います。それは犬山市(大字)犬山と西尾市街地です。どちらも城下町ですが、まず、この2つの市街地の大きな違いは市街地が「大字」か「町の総体(集合体)」で構成されているか、と言う点です。無論、明治期の合併の際も施行の手法が犬山は「稲置村→犬山町」と言うものだけなのに対して、西尾は「(俗に言う)西尾20町+鶴城村(鶴城と言うのは西尾城の別名?)→西尾町」と言う様に異なっています。私はこの2つの市街地がナゼこの様に異なった対応をされたのか大変不思議に思っています。例えば町の数に依ってこの様な差が生じているのでしょうか?
この件ですが、私は1つの仮説を持っています。

まず江戸時代の天保国絵図を見ると、○○町、△△村の2種類の表記があります。
その後、明治になり○○町でも石高を持つところは一律に○○村とされました。この後、○○村から町の部分を分立させて、A町B町C町D町等を○○村とは別個に作ることも選択出来るようにしたのではないでしょうか。もちろん分立ではなくて○○村からA町B町C町D町等に分割してもよく、町の部分を分立させずに○○村のままとどまってもよいのです。
ところが江戸時代に△△村と村を名乗っていたところは、町の部分を分立させても××町とは名乗れずに××村と名乗らなければならかったのでしょう。
以上が原則です。
ところが、幕末期には江戸初期に定めた城下町○○町に隣接する☆☆村まで城下町が拡がる場合も出てきました。そのため、☆☆村も本来の城下町と一体の物とみなし、E町F町G町等を分立させることも出来るという例外事項をここでは考えます。

上記の仮説を滋賀県の事例にあてはめてみます。

1.仁正寺(城下町)
仁正寺は天保国絵図では仁正寺村とされていました。その後文久2年(1862年)に西大路村と地名を改めて明治を迎えます。明治時代となっても西大路村のままでした。明治大合併で周囲の9村と合併して西大路村となりました。

2.大溝(城下町)
大溝は天保国絵図では大溝町とされていました。それが明治時代となり大溝村となりそのまま町の部分を分立させる選択肢を取らず、周辺の2村と合併して明治7年に勝野村となりました。明治大合併ではさらに周囲の2村と合併して大溝村となりました。

3.彦根(城下町)
彦根は天保国絵図では彦根町とされていました。それが明治時代となり彦根村となり、その後区制施行(M5.4.9)に合わせて(もしくはそれ以前に)96町に分割されました。その後町の再分割や合併を経て天保国絵図で彦根町とされていた区域は明治大合併前には78町となりました。
彦根では近隣の佐和町や中藪村・大橋村・後三條村の一部も城下町・彦根町と一体となっていました。そのため近隣の中藪村・大橋村・後三條村では町の部分を□□町等として分立させることが出来ました。明治大合併では江戸時代の彦根町の全区域の78町及び近隣の14町(中藪村・大橋村・後三條村・佐和町の一部)が彦根町となりました。

#佐和町では農村部は明治7年に芹川村として分立し、さらに明治12年に芹川村のうちの町の部分が芹新町など5町として再分立するという複雑な経過をたどります。


以上、代表的な3例を見るとむっくんの仮説はうまく成り立っていることが分かります。それでは次に愛知県の城下町の犬山と西尾について上記の仮説をあてはめてみます。

天保国絵図を見ると犬山は犬山村、西尾は西尾町となっています。

犬山は犬山村から明治時代となってから稲置村と名称を変えただけで明治大合併を迎えたのだと私は推測します。上記でいうと1の仁正寺と同じケースだと思われます。

西尾は西尾町から明治時代となってから西尾村となりました。その後西尾村から西尾20町を分立させ、残った西尾村を鶴城村と改称し明治大合併を迎えたと私は推測します。上記でいうと3の彦根と類似のケースであると思われます。

犬山及び西尾の双方でむっくんの仮説と矛盾するところはありません。
このような説明で、市街地が「大字」となる場合と「町の総体(集合体)」となる場合の差異が理解できるのではないでしょうか。
私は明治の大合併だけを見ていては犬山と西尾で差異が生じたのは分からないと思います。


また、私の仮説は城下町に限らず、実は港町などでも成り立ちます。


4.大津(宿場町・港町・園城寺(三井寺)の門前町)

大津は天保国絵図では大津町とされていました。大津町は石高を持たないので明治時代となっても大津町のままでした。その後区制施行(M5.4.9)に合わせて85町に分割しました。町の再合併を経て、明治大合併では江戸時代の大津町の区域内の総ての町(80町)と周囲の11町6村と合併して大津町となりました。

ここでもむっくんの仮説はうまく成り立っていることが分かります。

#ここで明治初期の自治体の名前は旧村旧高取調帳によっています。
[58062] 2007年 4月 17日(火)01:57:52oki さん
藩政村について~その4
むっくん さん
[58044] 犬山と西尾の差異
[58043] 新田・枝村・城下町
[58035] 天保国絵図・旧村旧高取調帳・郡区町村一覧

十番勝負でお忙しい中、詳細なレスを付けていただき有り難うございます。
ただ、いくつか誤解があるようなので、その点への説明も加えながら、私の意見を述べたいと思います。

1.明治時代以前は米を中心に社会が成り立っていたのであるから、石高を持つ農村(藩政村)を行政単位の中心とし、石高を持たない町は行政単位の例外事項と見る。

これは私の説明不足だと思いますが、石高を持つのは農村だけではなく、また石高の内容は米だけではありません。
石高の基礎となるのは水田、畑地、宅地の面積で、この面積に石盛と呼ばれる単位当たり収量(1反当たり1石など)を乗じ、これらを総計して石高が決定されます。江戸時代の水田と畑地との面積に関する資料はごく少ないですが、「明治以前日本土木史」所収の「町歩下組帳」では、江戸中期に水田172万町、畑地132万町で、両者の比率は57:43になっています(関東は特に畑地が多く、比率は37:63です)。水田から得られる米は現物納ですが、畑地、宅地は石高をその時々の米価で換算した金納であったようです。
重要なのは宅地も石高に組み入れられることで、結果として農耕収穫のない漁村、港町、宿場町などにも村高が付されます(宅地に収穫高があるわけはありませんが、現在の固定資産税のようなものとして高付けされ、石盛は畑地と同様であったようです)。そのため、
例外として石高を持たない宿場町・港町・門前町などを付け加える
とは言えないわけです。

次に城下町ですが、城下町の特性をきわめて簡単に整理すると次のようになるかと思います。
1.近世初期、兵農分離を徹底するため、従来農村に居住し農民を直接支配していた武士を、藩主直轄地である城下に集住させた
2.集住した武士に消費物資を供給するため、商工業者も城下に呼び寄せた
こういう形で計画的に建設された都市が城下町である。
城下町は武士の居住地域と商工業者(町人)の居住地域に分けられますが、領主直轄地として一体的な都市と考えることができ、その内部は複数の町に区分されています。
また、商工業者を集めるため、先の宅地に関わる年貢を免除されることが普通です(これを地子免除といいます)。武士の宅地に年貢が課されることはありませんから、城下町には石高がないわけです(あくまで原則で、例外は多数あります)。
もっとも、城下町といってもピンからキリまであるわけで、数百の町から構成される大都市から、数町の小城下町まで多様です。さらには、藩主の半数程度は城を持たない陣屋大名ですが、これらについては、厳密には「城下」町が存在し得ない、ということにもなります。

[58044] 犬山と西尾の差異
で展開された各城下町に関する考察は、おそらく考えすぎで、実態はもっと単純なものだと思います。
まず、彦根と西尾ですが、どちらも城下町としては比較的大きいものです。特に彦根は、井伊家35万石、譜代最大の大藩で、嘉永3年(1850)に町方だけで50ヵ町,3099戸を数え、藩士数は元禄8年(1695)に彦根在城だけでは1万9000人に達したとのことです(いずれも平凡社百科事典による)。明治5年頃の数値を反映する「共武政表」では、人口は24368人となっています(共武政表は国会図書館のデジタルライブラリーにあります)。
西尾は幕末期の石高が6万石とさほどでは大きくはありませんが、「江戸時代は西尾藩の城下として栄え,岡崎,吉田(豊橋)とともに三河三都と称された(平凡社)」とのことで、かなり繁華な都市だったことがうかがえます。共武政表による人口は7095人です。
この2つについては、幕末期に城下を構成した町々が明治維新後もそのまま維持された上で(多少の異動はあったでしょうが)、最終的に明治合併期に彦根町、西尾町が形成され、その内部に、旧城下内の町々が大字の形で残されたのだと思います。
この過程で、彦根町→彦根村→彦根村から96町の分立→明治大合併期に彦根町誕生などというプロセスを仮定する必要は特にないでしょう。(そもそも、天保国絵図に彦根村はありますが彦根町はありません。彦根村というのは彦根城下町を建設した際に城下から外れた部分が村方として残ったものだと思われます。また西尾町はありますが、これは西尾城下町の町方の総称と考えるべきでしょう)。
一方、仁正寺(西大路)と大溝ですが、前者は幕末に1.8万石、後者も2万石の極小藩で、いずれも陣屋大名です。つまり城を持っていないわけで、先のように、厳密には「城下」町を持ち得ない藩です。実際のところは、大溝は町だったようですから、武士の居住地のほか若干の町場が形成されていたのかもしれません。西大路は陣屋所在地が村なわけですから、傍目から見ても町と言えるほどの人口集積がなかったのでしょう。(共武政表によれば、西大路村の人口は1646人、大溝が周辺の2村と合併した勝野村が1917人です)。
どちらにせよ、これらは彦根などの城下と違ってその内部構成体である町々を持たず、明治以降は陣屋や武士居住地を含めて村になってしまったものと思われます(現在の地図を見ても、1藩の中枢が所在した片鱗すらうかがえません。)

次に犬山ですが、国宝犬山城はあまりにも有名ですし、その城下町も形成されていたようです。しかし実際のところ、犬山の城主成瀬氏は石高こそ3.5万石ですが、身分は尾張名古屋藩の付家老であり、独立の藩として認められたのは明治になってからです。おそらく、犬山城下町がさほど大きいものではなかったため、明治維新後に犬山村に編入され、犬山村が稲置村に改名された上で明治合併期に犬山町になったものだと思います(共武政表による稲置村の人口は6159人で、西尾と大差ありませんから、犬山城下町の村への編入には何らかの事情が作用したかもしれません。藩政期に存在した犬山村は、犬山城下町になり損なった村方でしょう)。
明治合併前に合併していた町村は、たとえ藩政期に独立村であったものでも大字として扱われず、それが現在まで引き継がれているのが一般的ですから、犬山城下町に関してもその一例と見なして差し支えないと思います。

膳所に関してはよく分からないのですが、
江戸時代には膳所城城下町のうち、町人町は農村たる藩政村からは独立した村とされていてました。
膳所の場合は町人町・侍屋敷町は共に農村たる藩政村の一部であるとの説も有力なので
という記述から推測すると、膳所村などのうちの一部が膳所の城下町になっており、残りは高のついた村方だったのだと思います。膳所藩の石高は6万石ですが、大津という大商業都市が近接していたため、商工業は不振で、つまり町人はあまり居らず、城下町の住民は武士が主体だったのではないかと思います。共武政表による膳所村の人口はわずか1840人ですから、版籍奉還や廃藩置県によって士族が四散した後は独立した町を形成するに至らず、旧城下町が元々の村に編入されたのではないでしょうか。

大津は、都市としては膳所よりよほど大規模です。信長時代の城郭は明智光秀の居城であった坂本ですが、秀吉の時代には大津に移されました。大津が城下町であったのは関ヶ原合戦時までで、このとき、東軍についた大津城主京極高次は籠城戦で西軍の進撃を阻止しましたが、この籠城戦によって大津は焦土と化し、その結果として城が膳所に移っています。しかし、大津自体は家康から地子免許の特典をうけて復興し、東海道の宿場町、琵琶湖水運の要的な港町として幕府の直轄都市となり、元禄期には2万人近い人口を記録しています(共武政表では15932人)。最盛時で100ヵ町を数えたそうですが、天保国絵図の大津町というのはこれら町々の総称でしょう。関寺町に高が付いているのは、地子免許を受けた時点では大津に含まれいなかったためだと思われますが、国絵図、旧領旧高いずれでもわずか9石ですから、すべて地子(宅地年貢)であり、実質的には大津の町と一体化していたと考えていいのではないかと思います。

長くなったので、とりあえず切ります。
[58209] 2007年 4月 29日(日)19:45:57oki さん
藩政村について~その6 城下町
今回は、城下町について考えを述べたいと思います。

[58109] 藩政村について~その5 で書いたように、
城下町を構成する町々は、藩政「村」とは別に扱うことが必要
というのが私の考えです。
城下町というのは、領主が家臣である武士を集住させるために建設した都市ですが、その政治的・社会的意義は、従来農村に居住して農民を直接支配してきた武士を農村から切り離し城下に居住させることによって領主直属の家臣団に組み込み、農村からの年貢を領主が直接収納する体制を造り上げることにあった、と思います(この体制が完成したのは地方知行が蔵米知行に転換した江戸中期で、城下町の軍事的意義についてはまた別ですが、くだくだしいので略します)。
江戸期の幕藩体制が封建制であった、つまり中国史の概念で言って「封とは支配すべき領域の境界を定めること,建はその領域に国を建てること」と解するなら、個々の藩は日本の中の自治国家であり、城下町はその首都であると考えることができます。城下町は、領主直轄の特別な地域であり、「年貢を納める藩政村の上に君臨する」もので、郡や村と同一のレベルにあるものではない、というのが私の考えです。
この意味から言うと、
[55501] 88 さん
(2)城下町は、「郡」(あるいは「郷」)には属するのでしょうか? 例えば、福岡の城下町の一つである「天神町」の、「那珂郡馬出村」に対応する呼称は、何でしょうか。 単に何もつかずに「天神町」?「那珂郡天神町」?「福岡天神町」?「福岡城下天神町」?
という問いに対する答えは、「天神町」は、それが属する城下町福岡が一体となって「那珂郡馬出村」などの村の「上」に君臨する存在で、馬出村と同一レベルで扱うことはできない、ということになります。
あえて住所として表記すれば、「筑前福岡天神町」となるでしょうから、福岡は郡と、天神町は村と同一レベルと言えるかもしれません。しかしこれは、福岡が黒田藩の首都であり、領下の村々から年貢を収奪する領主支配の拠点であるという事実を前提として、あえて言えばそう解釈することもできる、ということです。
ところが、このような城下町の存在形態は、当然のことながら明治維新によって激変します。大区小区制の時代は私自身よく分かっていないので何とも言えませんが、郡区町村編制法施行時には、城下町を構成する町々は、村と同一視されるようになったと考えられます。
ただ、これにも、区が編制された城下町と、それ以外とで相違があります。区が編制された福岡などの地域では、府県の下位区分として区があり、旧城下町の町々は区の中に組み込まれました。一方、区にならなかった城下町の町々は、郡の直下に組み込まれます。例示すれば、区が編制された広島では「広島県広島区水主町」で、区のない徳島の場合は「徳島県名東郡寺島町」です。徳島の場合、旧城下町を構成した寺島町は、藩政期に村であった「徳島県名東郡田宮村」と同じレベルの存在として扱われています。
しかし、実際には徳島城下町は維新後も一体的な都市として存在したわけで、それを構成する町々がバラバラにされて旧藩政村と同一レベルで扱われるのは不都合です。そのため、旧城下町の町々は「徳島」の城下町名を冠称し、「徳島寺島町」などと称して旧城下町であることを主張しました。この現象は、確認した限り、区にならなかった旧城下町に共通しています。
このような冠称は、旧城下町を構成した町々が明治大合併時に徳島市になった時点で廃されました。徳島以外でもそうですし、市ではなく町になった城下町でも同様です。いずれの場合も、冠称によって旧城下町であることを主張する必要がなくなったからですね。

「城下町を構成する町々が、村と同一視されるようになった」というのは、区が編制された地域では区と郡が同一レベルにあって、区に属する町と郡に属する村とが同じレベルで扱われており、区が編制されなかった地域でも、旧城下町の町々は郡直下に属して村と同じように扱われた、という意味です。前回の書き込み[58109]で示したように明治以降の統計に突然町が表われるのはそのためですし、この取り扱いは現在でも変わっていません。私は、このような扱い方でよかったのか、という疑問を持っていますが、現時点で何を言ってもどうしようもないことではあります。

ともあれ、旧城下町のあり方が以上のようなものであったとすれば、「市区町村変遷情報」では、旧城下町を構成した町々について次のように扱うのが妥当だと思います。

1.旧城下町については、藩政「村」とは別の存在として扱う。
2.具体的には、城下の名称(福岡、広島、徳島など)を明示した上で、そこに属した町々の名称を列記する。
3.この場合、町々が侍屋敷地であるか、町屋であるかは考慮しない(下位区分として区別することは妨げない)。
4.藩政期の存在としては上記のように扱うが、明治維新後は藩政「村」と同列の存在とする。その場合、郡区町村編制法の施行下では、区の下にあった町々とそれ以外とを判別できるようにする。
5.現在の町丁大字との対応関係では、藩政「村」と同様に扱う。

私の考えは以上です。これだけでは非常にわかりにくいと思いますので、引き続き城下町の変遷事例を書き込むつもりですが、長くなったので今回はここまで。
[64173] 2008年 3月 31日(月)04:36:19oki さん
盛岡仁王村について
[64165] hmt さん
これらの村の多くは、近くの「○○町」と共に津・宇都宮・大津・岐阜・青森・山口・宮崎の市街を形成していますが、盛岡城下町だけは市街地の名称に「仁王村」など「村」だけが用いられており、「町」という名は使われていません。
従って、明治22年の市制にあたり、「仁王村」などいくつかの「村」から直接に「盛岡市」が誕生したことになります。
これが 村だけで市になった事例 の第1号と思ったのですが、念のため 新旧対照市町村一覧 を開いてみたら、仁王村・志家村に続いて“仙北町の内”と書いてあります。地方行政区画便覧では「仙北町村」だったのですが、疑問が残ります。

hmt さんがあげられたうち盛岡仁王村(等)は、ほかの村から市になったものとは性格が違うと思うので、以前に調べた結果を記しておきます。

盛岡は南部藩20万石の城下町であり、幕末明治初期、東北のみならず全国でも有数の都市に数えられ、市制施行時の最初の市の一つであったことはご存じの通りです。
通常であれば盛岡レベルの城下町は、郡区町村編制法の下で、区にはならないものの、旧城下町を構成した町々が単独の自治体として郡に直属するのが通例です(多くの場合、各町には城下名が冠称されます)。その中で盛岡のみ、旧城下が解体されて仁王村、志家村、東中野村、加賀野村、山岸村、三ツ割村、上田村、仙北町村の「村」になっています(これらの村には盛岡が冠称されています)。
その理由はよく分かりませんが、はっきりしているのは、盛岡城下が村に分解されたのは1878(明治11)年の郡区町村編制法の施行時ではなく、明治4(1871)年だということです。
南部藩は戊辰戦争の結果いったん改易され、改めて白石13万石に転封されることになりましたが、償金70万両を納めることを条件に盛岡13万石への復帰が許されました。しかし、敗戦、転封、所領の10郡から4郡への縮小などのため、最終的に藩財政が破綻、明治3(1870)年、他藩に1年先がけて廃藩し、盛岡県となっています。
盛岡城下町の各丁、小路が、城下形成以前の旧村に属せられ、城下が(形の上で)消滅するのが翌明治4(1871)年です。廃藩と旧城下町の消滅に何らかの関係があると見るのが妥当でしょうが、理由は不明です。考えられるのは、明治新政府の南部藩に対する懲罰、あるいは南部藩から明治政府に対する恭順の意の表明、というところです。ただ、明治政府にとってのA級戦犯である若松や仙台、長岡でも、旧城下町はそのままの形で維持され、盛岡のように村になってはいませんから、明治政府側の意向とは考えにくい面があります(長岡藩も盛岡と同様、明治3年に財政破綻によって廃藩しています)。南部藩内部には、明治政府への恭順派と反政府派との対立があったようで、盛岡城下の解体にはそれが影響している可能性がありますが、詳しいことは分かりません。

いずれにせよ、盛岡は他の大規模城下町とは異なる形で「村」とされたわけですが、それによって住民が四散したわけではありません。明治5年以降の記録である第1回共武政表で盛岡の人口が25,457人、1880(明治13)年の第2回共武政表で32,735人、1886(明治19)年の地方行政区画便覧で盛岡仁王村をはじめとする6ヶ村の人口が30,069人(盛岡仙北町村、山岸村、新庄村3ヶ村の人口が含まれていません)、1889(明治22)年の合併時点で31,581人等々の状況で、旧城下の人口がそのまま維持され、おそらくは増加傾向を示していたと考えられます。
盛岡が市町村制施行時に最初の市の一つになったのも、市となるに十分な人口と、「都会輻輳ノ地」と呼ぶに相応しい市街地を備えていたからでしょう。その意味で、盛岡仁王村などを「村だけで市になった事例の第1号」と呼ぶのは誤解を招きかねない表現だと思います。行政区画として「村」であったことは事実ですが、そもそも盛岡城下を「村」にしたこと自体が例外的、変則的な事態で、実際には他の城下と同じく、南岩手郡に直属する町の集合体であり、人口集積の面でも、「村」と呼ばれるべき実態はなかったからです。
なお、盛岡市は、仁王村、志家村の全域と、東中野村、加賀野村、山岸村、三ツ割村、上田村、仙北町村の各一部(旧城下町部分)が合併して成立しますが、9村の村名は大字として維持され、その下に58の小字が設定されています。この小字が、本来の盛岡の町名に当たるものでしょう。ただ、大字が維持されたために、市内の正式地名は盛岡市大字仁王字内丸などといった表記になったようです。実際には、岩手県の公式文書でも「大字仁王字」の部分が表記されず、盛岡市内丸などとされたようですが。

新旧対照市町村一覧で「仙北町の内」とあるのはよく分かりません。1886(明治19)年の地方行政区画便覧で仙北町村なので、1889(明治22)年の合併時までに仙北町に改称していることは考えにくいのですが、この間の文書が入手できないので、確言はできません。
仙北町(ちょう)は北上川西岸に位置しますが、東岸中心に形成された盛岡城下の一部でした。仙北町村(まちむら)は、城下の一部である仙北町に、北上川西岸の周辺農村を併せて成立した村であったかと思われます。
[67197] 2008年 11月 5日(水)02:00:29YT さん
江戸時代の府城(仙台)の人口
名古屋[67059]、金沢[67090]に続き、江戸時代の地方都市の代表として仙台の人口を調べてみましたが、色々苦労しています。

関山直太郎氏の『近世日本の人口構造』には以下の仙台の人口が記載されています。

年号西暦町方人口
寛保2年1742年20,374
天明6年1758年11,610
享和年間1802年頃13,302
文政8年1825年13,749

然るに関山氏が元資料として掲げている高橋梵仙氏の『日本人口史之研究』、小野均氏『近世城下町の研究』、豊田武氏『日本の封建都市』に上記人口の記載は見つかりませんでした。よってこれらの数字の本来の出典は不明です。

それとは別に豊田氏の『日本の封建都市』には明和9年(1764年)の数字として町方戸数2385戸、町方人口2万3098人というのが載っております。出典は『封内風土記』となっておりますが、これは1772年頃に仙台藩の田辺希文が編纂したものだそうです。明治になって活字化された鈴木省三校訂本を読んだところ(原文は漢文)、府城25町の人口の内訳は以下の通りです。

府城25町町方戸数町方人口
大町1492,441
肴町821,285
南町81935
立町981,219
柳町46687
荒町921,133
国分町1131,672
旧材木町48675
北材木町821,007
北目町62793
二日町68926
両染師町86704
田町48483
新伝馬町53796
穀町32287
南材木町64578
河原町46707
南鍛冶町65616
北鍛冶町52440
宮町117779
亀岡町30164
大崎八幡町901,341
支倉澱橋町26370
処々士宅・廃地・市店89441
処々寺院門前市店6662,619
合計2,38523,098

「処々士宅・廃地・市店」が何を意味するのか私には詳しく判りませんが、武家地に点在する町方人員のことを意味するのでしょうか?同様に「処々寺院門前市店」は寺社方支配場内に住む町方人口のことだと推測しますが、違うかも知れません。

自分がざっと見た限り、これらの調査人口が明和九年のものだとはどこにも書いてありませんでした。ただ『封内風土記』は全編漢文ですので、見落としがあるかも知れません。

武家人口は不明ですが、豊田武氏によると「町屋敷の戸数は約1,400戸、人口約14,000人、侍屋敷の戸数は門閥以下処職人に至るまで8,900余戸(寛文元年仙台士名元牒)であるから、その人口は一家5人として44,000余人に当り、総戸数10,300余戸、総人口58,000余人となる。」

明治2年の仙台藩の華士卒族の人口は4万9422人ですが、約15%が江戸在住、約80%が城下在住と仮定しますと、大体4万人の武士階級が城下に住んでいたことになり、仙台は江戸時代人口6万人前後の都市であったと推測されます。というのは私の概算です。

武家人口の推定を含め、残りの資料は多分『仙台市史』当たりに収録されていそうですが、機会があれば調べてみます。
[67508] 2008年 12月 5日(金)03:11:10【1】YT さん
仙台藩の人口 -1-
ほぼ一カ月ぶりに[67197]の続きをまとめます。

先月、今月と当分忙しく、ここ暫く文献調査の機会がほとんどない状況です。

江戸時代の仙台の人口を調べる過程で、
(1) 1772年頃に仙台藩の田辺希文が編纂した『封内風土記』
に記載の仙台の人口を[67197]にまとめましたが、このほか仙台藩時代の人口に関しては、
(2) 玉山勇「江戸時代の人口問題 ―仙台藩の場合―」 『国民経済雑誌』 1942
年、73巻(1号)、pp. 63-94.
(3) 『宮城県史』
にまとまっておりましたので以下紹介します。

まず仙台藩の身分別人口は以下の5年間分伝わっております。

元号元禄8年寛保2年天明6年享和2年文政8年
西暦1695年1742年1758年1802年1825年
惣人高819,749816,061596,282639,070687,802
御一門並諸士諸組付諸職人202,541182,678130,509140,438146,352
仙台寺院人高2,8846,2494,0074,4964,695
 内出家631863594652710
 内俗2,2535,3863,4133,8403,985
御郡方人高542,268559,204411,496440,799481,180
近江国御知行所人高9,0958,9177,9828,0898,129
常陸国御知行所人高10,1949,2997,6117,3587,402
下総国御知行所人高155143147150
仙台御町方人高22,70620,37411,61013,30313,749
一関御家中人高3,3752,8922,6652,7703,113
一関御知行所人高26,69426,29320,25921,67123,032
惣人高と合計の差81

江戸時代武家および使用人の人口は幕府の統計からも除外されていましたが、このように各藩の内部資料には武家・使用人の人口統計が残っています。なお仙台藩の場合は少数の被差別階級の人口が別扱いになっていたようですので、藩が把握していても「惣人高」に加えていない人口が若干あったようです。一関藩は仙台藩の支藩で、仙台藩の「惣人高」に加えられています。
仙台藩は陸奥国の他、近江国、常陸国、下総国にも飛び地を領有しており、御郡方人高(=陸奥国御知行所人高)、近江国御知行所人高、常陸国御知行所人高、下総国御知行所人高、一関御知行所人高の5箇所が仙台を除く郡方の人口です。
一方仙台の人口に関しては仙台御町方人高(町方人口)と仙台寺院人高(寺社方人口)が判明しております。
「御一門並諸士諸組付諸職人」とされる武家・使用人人口は地方に暮らす半農の郷士の人口を含んでおり、城下に暮らす御一門などの武家人口が不明です。ただ町方戸数2385戸に対し、侍屋敷の戸数は8900余戸と伝わっており、仙台府内の武家・武家使用人人口は4万4千人程度と推測されています。

一方[67197]でまとめた『封内風土記』には仙台藩の封内(陸奥国領内)のみの人口がまとめられおり、改めて紹介すると以下の通りです。

仙台城下町または郡諸士並諸士家僕町人百姓
大町2,441
肴町1,285
南町935
立町1,219
柳町687
荒町1,133
国分町1,672
旧材木町675
北材木町1,007
北目町793
二日町926
両染師町704
田町483
新伝馬町796
穀町287
南材木町578
河原町707
南鍛冶町616
北鍛冶町440
宮町779
亀岡町164
大崎八幡町1,341
支倉澱橋町370
処々士宅廃地支店441
処々寺院門前市店2,619
宮城2,95031,141
名取2,10331,324
柴田1,89618,953
刈田15,44611,970
伊具7,39618,614
亘理8,4438,839
宇多3234,139
黒川2,61510,813
加美1,29715,003
玉造3,0678,710
桃生3,85932,757
牡鹿27931,786
本吉42142,612
登米6,79523,193
志田6,18214,923
遠田12,29012,832
栗原6,48365,621
胆沢6,32330,876
磐井3,92355,396
気仙16328,309
江刺2,77032,553
合計95,02423,098530,364

つまり明和9年(1764年)の仙台藩には地方に9万5024人の郷士・使用人が暮らしていたことになります。寛保2年(1742年)の武家・使用人人口は一関藩を除く4国で合計18万2678人ので、人口差の8万人がそのまま仙台に住んでいたと仮定すると仙台城下の人口は10万人を越えてしまいますが、まあ『封内風土記』の武家・使用人人口は色々漏れがありそうですので、この推論は成立しないでしょうね。
[67524] 2008年 12月 7日(日)01:14:11YSK さん
岩槻、武蔵野の情景
こんばんは、日中は穏やかでしたが、夕方以降徐々に寒さが増してきている当地です。本格的な寒波がやってきているようですね。

さて、先日より6年ぶりに再開している「シリーズさいたま市の風景」、土曜日は第二弾として、6年前はさいたま市の一員にはなっていなかった岩槻へと行ってまいりました。人形の町だけあって、市街地には名前が聞いたことがあるものも含め、たくさんの雛人形や羽子板などを扱う店が立ち並んでいました。藩政期は城下町であった岩槻はまた、岩槻公園(岩槻城跡)をはじめ、江戸期の雰囲気を感じさせる事物がまた多いのも特徴的でした。現代的な住宅地域となっていても、薬医門風の門構えが風格を感じさせる一角があったり、旧藩校の建物が埼玉県下で唯一残されていたり(遷蕎館;せんきょうかん)と、思わぬ発見に出会える町であると感じました。

岩槻の町からは、少し郊外のエリアまで足を伸ばしてみました。前回の見沼再訪でも書きましたとおり、さいたま市を歩いていて感じることは、里山のみずみずしさです。台地に切れ込むように中小の河川が流下し、見沼田んぼなどの小規模な沖積低地が展開するさいたま市域は、そうした台地と低地との境の斜面などを中心に落葉広葉樹林が穏やかに広がります。この季節は足元いっぱいに降り積もった落ち葉を踏みしめながら、豊かに染まった赤や黄色や茶色の木々が、本当に目にやさしく輝くようで、空気はひんやりしていますが心はあたたかさに満ち溢れてきます。畑には小松菜やブロッコリーなど、これからうまみを増してくる野菜がふんだんに植えられていて、随所に心踊らされる風景がありました。

武蔵野、ほんとうによい風景ですね。帰路には久しぶりのさいたま新都心・けやきひろばへ。恒例のイルミネーションを楽しみました。
[67542] 2008年 12月 8日(月)21:00:38Issie さん
今週の黄門様
今ちょうど「水戸黄門」を放送中で,今週は肥前伊万里の“化け猫騒動”のお話ですが,数週間前に黄門様御一行は播州赤穂城下を通過しました。お城のお殿様はもちろん 浅野内匠頭。でも,お殿様は江戸にいていないので,国元を切り盛りするのは城代家老の 大石内蔵助。…まだ,「松の廊下」の前なのですね。

[67535] むっくん さん
明治40年3月25日印刷、同3月30日發行)では上假屋、中村と並んで赤穂(加里屋)と記載されています。

番組では「赤穂の城下」と言っていたかな。こういう呼び方なら,城下町の(本来の)固有の名前を気にする必要はないかも。
あるいは,「かりや」(←加里屋でも,仮屋でも)という固有名とは別に,お城と城下町全体をひっくるめた総称として「赤穂」と呼ぶことはあったのかもしれませんね。

ところで,この「加里屋」と「上仮屋」。いわゆる「上・下地名」の配置とは少し違っていて面白いですね。
現在の地図を見ると,恐らくは住居表示による新町が生まれていて両地区の境界が不分明なのですが,「上仮屋」はお城を中心とした区域。主に武家町だった区域でしょうか。「加里屋」の中心部は昔の町人町の区域を中心とした城下町の本体部分,ということになるのかな。
「加里屋」は結構広がりを持っていて,市街地の北側や,反対に恐らくはかつての塩田であった海岸部にも広がっているのですが,やはり本体は城下町部分でしょうね。
お城を中心とした「上仮屋」があるのは,「加里屋」の“南側”で,そばを流れる千種川から見れば“最下流”。つまり,この「上かりや」という地名は川の流れの方向によるものではありません。
京都を基準とした遠近,という点からも,陸路であればやはり千種川沿いに下ってきて先に「かりや」に到達して,その“奥”に「上かりや」がある,というロケーションですから,ここでも上下が逆になっています。
強いて言えば,海路からアプローチすれば,“下流側”の「上かりや」から加里屋川をさかのぼって「かりや」の城下町中心部に入る,という順番になりますが。
勝手な憶測ですが,城“下”の「かりや」に対して,お城のある方が「上」という意味で「上かりや」ということになったのでしょうか。
[67560] 2008年 12月 10日(水)02:56:32【2】YT さん
江戸時代・明治初期の鹿児島の人口
[67556]むっくんさん
共武政表記載の人口は誤記ではないと思われます。
折角ですので、鹿児島の江戸時代から明治初期までの人口を以下まとめます。

(1) 『鹿児島県史』2巻 (1940年)
(2) 尾口義男「薩摩藩の人口」『黎明館調査研究報告』1998年11号87頁
に江戸時代の鹿児島の人口がまとまっています。

江戸時代の統計は大概は武家人口が除かれており、総数が不明なことが多いのですが、
鹿児島藩に関しては、武家の人口まで細かに記録が残っているようです。
もっとも抜け道が相当あり、鹿児島藩全体で20万人近く記載漏れがあったようですが。

年号貞享元年明和9年寛政12年文政9年嘉永5年
西暦1684年1727年1800年1826年1852年
士人躰4,1494,2354,3254,487
人躰外士4,0954,1694,4664,972
士妻子6,9327,3248,0038,712
福昌寺役人・同家内915
浄楽並火地神座間家内9
妙音寺地神盲僧・同家内3
出家318289297285
諸士家来並足軽・諸座附・寺社門前27,72528,11335,77439,922
士族
卒族
平民
在郷10,38211,95414,28514,281
三町5,7375,1854,9414,040
横井野町104115153129
荒田浜123988866
不明 (合計不一致)162
以上計49,09659,72761,48272,35076,912
穢多・慶賀8911510586
鹿児島総計49,09659,81661,59772,45576,998

以上より、江戸時代の鹿児島は10万都市であった名古屋、金沢には劣るものの、仙台と同等、幕末は仙台以上の人口(約8万人)を有し、ほぼ藩の石高にふさわしい大都市であったことがわかります。もっとも在郷 (農民)や荒田浜 (漁村民?)といった分類が混ざっており、一部郊外の農村・漁村を含んでいたようですが。

一方明治以降の統計をまとめると以下の通りです。

年号明治4年1月15日以前明治6年正月調明治8年以前明治12年1月1日調明治13年1月1日調明治14年1月1日調明治17年1月1日調
西暦1871年1873年1875年1879年1880年1881年1884年
史料薩隅日地理篇考日本地誌提要第一回共武政表第二回共武政表第三回共武政表第四回共武政表都府名邑戸口表
鹿児島85,43527,24089,37432,06720,17120,67049,360
 士族26,992
 卒族2,571
 平民55,872
鹿児島六日町287
中町889
金生町707
築町120
今町340
泉町556
潮見町930
生産町647
易居町804
呉服町770
大黒町269
船津町2,128
薪町1,998
住吉町1,147
堀江町1,027
車町401
泉和屋町617
恵比寿町417
栄町439
柳町717
浜町611
小川町803
向江町1,641
東之町357
中之町413
西之町611
塩屋町1,624
以上計85,43527,24089,37453,33720,17120,67049,360

近代デジタルライブラリーに収録されている薩隅日地理篇考は、1898年出版ですが、冒頭を読めばわかるようにオリジナルは明治4年1月15日に編纂されたもので、人口自体は明治4年以前のものということになります。

明治8年の第一回共武政表は、実際に収録されている統計は明治5年から明治8年までの本籍人口が混ざっています。例えば近江国の場合、第一回共武政表では578,099人となっておりますが、これは明治6年1月1日調の近江国の本籍人口と一致します。一方薩摩国に関しては、第一回共武政表の476,442人は、明治5年549,440人、明治6年586,324人、明治7年590,246人、明治8年590,521人に比べて明らかに少なく、何らかの藩政史料を元に作成したと推測されます。

日本地誌提要第3冊(PDF)は明治6年1月1日調であることが明記されています。また明治11年、12年、13年の第二回共武政表、第三回共武政表、第四回共武政表は、収録された人口はそれぞれ明治12年1月1日調、明治13年1月1日調、明治14年1月1日調と、翌年の正月現在の本籍人口を記載していることが明記されています。明治17年の『都府名邑戸口表』も明治17年1月1日調の本籍・現住人口が収録されています(近代デジタルライブラリーに収録されているのは明治19年の『市街各邑及町村二百戸以上戸口表』)。

さて、上の表を見ればわかるように、(1) 薩隅日地理篇考、第一回共武政表のように人口を8万人とするグループ (2) 日本地誌提要、第2回共武政表のように人口を3万人前後とするグループ (3) 第3回共武政表、第4回共武政表のように人口を2万人前後とするグループ (4) 明治17年以降人口を5万人前後とするグループ の4通りあります。これら4つはどうみても鹿児島の範囲が異なるわけですが、第2回共武政表には上表のように鹿児島近隣の小さい町が別統計として記載されていたので、鹿児島を含めてそれらを合計してみたところ、53,337人でほぼ明治17年以降と同じ範囲の鹿児島であることが分かります。

このように鹿児島に関して何通りもの統計が存在する背景については、どなたか明治初期の鹿児島について詳しい方に解説して欲しいところです。

#追記
なお江戸時代の史料、薩隅日地理篇、第1回共武政表記載の鹿児島の人口は、鹿児島郡全域であることは確かなようです。寛永13年(1636年)の史料では、「城外」の鹿児島郷の人口が33,432人と記載されており、鹿児島城下町(城下町の人口は記載されていない)と区別されております。貞享元年(1684年)から嘉永5年(1852年)までの5つの史料では、上表のように「鹿児島」の人口がまとめられ、それとは別に直轄領38ヵ郷、私領13ヵ郷の合計人口が見分別に記載されており、この段階では鹿児島郷全域が統計上の鹿児島として扱われています。薩隅日地理篇では「鹿児島郷」の人口が記載され、第1回共武政表では「鹿児島郡」が鹿児島の人口として扱われております。
以上より幕末の鹿児島の城下町人口も、「在郷」を除いた6万人程度とみなした方がいいかも知れません。

しかしながら日本地誌提要、第2回、第3回、第4回共武政表の数字は都市人口としては明らかに少なすぎ、行政上の鹿児島が狭められたのだと思います。第3、4回共武政表では鹿児島郡内の「人口一百以上輻輳地」としては鹿児島しか記載されておりませんが、第2回共武政表では上表にまとめたように、鹿児島六日町から塩屋町までが鹿児島郡内の人口一百以上輻輳地として別途記載されております。「2万~3万人」という数字は上士が暮らす武家屋敷地区のみの人口、「5万人」という数字は町人階級などが暮らす地域を含めた人口、「8万人」という数字は農村部を含めた「鹿児島郷」または明治時代の「鹿児島郡」の人口ということになるのかも知れません。
[67750] 2008年 12月 28日(日)18:28:57【1】YT さん
江戸時代の都市人口(2) 主要都市の推定人口
実際に江戸時代の都市人口の情報を集めてみると、そのほとんどは一部の年についてしか判明しませんし、大概は武家人口が不明です。過去の都市人口の推定には人口増加率のほか、判明している町方人口に、城下町に暮らす武家・使用人人口を加える必要があります。同じような研究は過去にありましたが、以下私自身が推定した都市人口を表にまとめてみました。カッコ内の値は根拠が薄く誤差が大きいものです。福岡と博多、宇治と山田は合わせて一個の都市とします。

都市分類1600年1650年1700年1750年1800年1850年
江戸総人口(6万)(50万)(80万)(100万)(100万)(100万)
町方25万40万51.0万49.2万57.0万
大坂総人口(25万)28万38万42万39万34万
町方26万36.4万40.4万37.9万32.6万
京都総人口(40万)40万37万33万30万29万
町方38万35.2万31.5万28.5万27万
名古屋総人口(4万)11万11万12万12.5万12.5万
町方5.5万5.6万7.3万7.5万7.6万
金沢総人口(4万)11万12万12万12万12万
町方5.5万6.9万6万5.6万5.9万
広島総人口6.5万7.5万7.5万7.5万7.5万
町方3.6万3.7万3.3万2.9万2.5万
和歌山総人口(6万)8万(7.5万)(7万)(6.5万)
町方4.2万
仙台総人口(5万)7万6.5万5.5万6万
町方2.2万2.0万1.3万1.5万
鹿児島総人口(3万)4.5万5.0万5.0万6.3万
町方0.6万0.5万0.4万
熊本総人口1.3万(5万)5.5万5万5万5万
町方2.5万2.0万1.8万2.1万
総人口8万7万6万4.8万4.6万4.2万
町方6.9万6万4.7万4.5万4.1万
徳島総人口(4万)(4.5万)(4.5万)(4.5万)(5万)
町方2.1万
総人口3万4.5万5万4.5万4.5万
町方0.5万1.2万1.5万1.1万
福岡・博多総人口(5万)(5万)5万(5万)4.5万4.5万
博多町方1.8万1.9万1.5万1.5万1.5万
福岡町方1.5万0.8万
福井総人口(4万)4.8万4.4万4.3万4.1万4.3万
町方2.5万2.1万2.0万1.8万2.0万
富山総人口2.4万(4万)(4万)(4万)4.5万
町方1.6万2.7万
岡山総人口4.3万4.5万3.9万3.7万3.4万
町方2.9万3.1万2.5万2.3万2.0万
伏見総人口(2.5万)3.0万3万3.4万4.2万
町方2.9万3万3.3万4.1万
長崎総人口2.5万4.5万6万3万3万3万
町方2万4.1万5.8万3万3万2.7万
宇治・山田総人口(2.5万)3.5万4.5万(3.5万)(3万)(2.5万)
山田町方(2万)3.1万4.0万(2万)
宇治町方0.4万0.4万
駿府総人口(10万)(2万)2万2万2万2万
町方1.7万1.6万1.6万1.6万
山口総人口(8万)1.5万(1万)(1万)(1万)1万
町方1万0.6万

以上「最大時の人口4万人以上」を目安にまとめました。人口は1800年頃の推定人口順に並べてあります。以上のほか、鳥取、松江、米沢、秋田、弘前、盛岡なども推計次第で4万人以上となります。ただ4万人のラインを大きく上回ることはないので省略しました。

年代別に人口順をまとめますと以下のようになります。

1600年頃:1位(40万):京都、2位(25万):大坂、3位(10万):駿府、4位(8万):堺、山口、6位(6万):江戸、7位(5万):博多

1650年頃:1位(50万):江戸、2位(40万):京都、3位(28万):大坂、4位(11万):金沢、名古屋、6位(7万):堺、7位(6.5万):広島、8位(6万):和歌山、9位(5万):仙台、熊本、福岡・博多、12位(4.8万):福井、13位(4.5万):長崎、14位(4.3万):岡山、15位(4万):徳島

1700年頃:1位(80万):江戸、2位(38万):大坂、3位(37万):京都、4位(12万):金沢、5位(11万):名古屋、6位(8万):和歌山、7位(7.5万):広島、8位(7万):仙台、9位(6万):堺、長崎、11位(5.5万):熊本、12位(5万):福岡・博多、13位(4.5万):鹿児島、岡山、徳島、宇治・山田、萩

1750年頃:1位(100万):江戸、2位(42万):大坂、3位(33万):京都、4位(12万):金沢、名古屋、6位(7.5万):和歌山、広島、8位(6.5万):仙台、9位(5万):鹿児島、熊本、福岡・博多、萩、13位(4.8万):堺、14位(4.7万):徳島、15位(4.3万):福井、16位(4万):富山

1800年頃:1位(100万):江戸、2位(39万):大坂、3位(30万):京都、4位(12.5万):名古屋、5位(2万):金沢、6位(7.5万):広島、7位(7万):和歌山、8位(5.5万):仙台、9位(5万):鹿児島、熊本、11位(4.6万):堺、12位(4.5万):福岡・博多、萩、徳島、15位(4.1万):福井、16位(4万):富山

1850年頃:1位(100万):江戸、2位(34万):大坂、3位(29万):京都、4位(12.5万):名古屋、5位(12万):金沢、6位(7.5万):広島、7位(6.5万):和歌山、8位(6.3万):鹿児島、9位(6万):仙台、10位(5万):熊本、徳島、12位(4.5万):福岡・博多、萩、富山、15位(4.3万):福井、16位(4.2万):堺、伏見

16位前後には秋田、盛岡が入っているかも知れません。

和歌山、宇治・山田、萩、徳島、高松、秋田、米沢、長岡、鶴岡、赤間関、佐賀、久留米、会津若松に関してはもう少し文献を調査する余地があります。

意外な都市の名前が登場しているかもしれませんが、どうでしょうか。

※順位を一部修正し、1600年頃の数字を少し訂正・追加しました。
[74046] 2010年 1月 25日(月)07:06:45【1】千本桜 さん
淡路&四国についてのお尋ね。ややこしい涌谷町。
ちょっとお尋ねします。大型バスで伊丹空港から淡路島の淡路ICまで行きたいのですが、いろいろなルートが浮かんできて迷っています。下記の三ルートを考えてみましたが最短時間で到達できるのは、どのルートでしょうか。途中で観光はしません。ただ走るのみです。有料道路の通行料金は気にしません。
1・伊丹空港→中国池田IC→(中国自動車道経由)→神戸JCT→(山陽自動車道経由)→神戸西IC→(神戸淡路鳴門自動車道経由)→淡路IC
2・伊丹空港→中国池田IC→(中国自動車道経由)→西宮山口JCT→(阪神高速7号北神戸線経由)→布施畑JCT→(神戸淡路鳴門自動車道経由)→淡路IC
3・伊丹空港→(阪神高速11号池田線経由)→豊中IC→(名神高速道路経由)→西宮IC→(阪神高速3号神戸線経由)→月見山出入口→(第二神明道路経由)→垂水JCT→(神戸淡路鳴門自動車道経由)→淡路IC

同じように、大型バスで徳島県の脇町うだつの町並みから香川県琴平町の金刀比羅宮まで行きたいのですが最短時間で到達できるのは、どのルートでしょうか。
1・脇町うだつの町並み→(県道12号を西へ走行)→美馬市美馬町→(国道438号経由)→琴平
2・脇町うだつの町並み→(県道12号を東へ走行)→脇町IC→(徳島自動車道経由)→美馬IC→(国道438号経由)→琴平
3・脇町うだつの町並み→(県道12号を東へ走行)→脇町IC→(徳島自動車道経由)→井川池田IC→(国道32号経由)→琴平
4・脇町うだつの町並み→(県道12号を西へ走行)→美馬IC→(徳島自動車道経由)→井川池田IC→(国道32号走行)→琴平

[74025] 白桃さん
ややこしや、津山東町と加茂町
宮城県の涌谷町もややこしいです。涌谷市街は江合川を挟んで両岸に展開していますが江戸期の自治体区分では左岸が涌谷村、右岸が馬場谷地村になります。市街の重心は馬場谷地村の方にあります。しかし、地籍上は別々の村でも二つの村は一体となって城下町を形成していましたから、地理的には一つの都市集落と解釈して良いだろうと思います。この涌谷村と馬場谷地村の関係が少しややこしい。
まず、馬場谷地村から。江戸期には馬場谷地村に涌谷町と呼ばれる宿場町が置かれ、それを取り囲むように伊達氏家中小路が配置されました。当時の人がこの地理空間を馬場谷地という名でとらえていたか、それとも涌谷という名でとらえていたか非常に気になるところですが、答えは町村制施行時の町村名にありそうです。明治22年、馬場谷地村は単独で町制を敷き涌谷町に改称しました。隣に涌谷村があるのを承知で涌谷町を名乗るとは身勝手にみえますが、たぶん地籍上の村名「馬場谷地」よりも町場名「涌谷」の方が広く知られていたからだろうと思われます。馬場谷地村が単独で町村制下の町になった涌谷町(明治22年~昭和23年の自治体)の区域には大字がありません。現在、この区域の住所は自治体名+小字名で涌谷町字○○と表記します。
次に涌谷村です。涌谷村には涌谷城があって城下の家並みが広がっていました。明治22年、涌谷村は上郡村、下郡村、小塚村と合併して元涌谷村になりました。角川地名大辞典には「隣村の馬場谷地村が江戸期の宿場町名の涌谷町を継承し涌谷町と改称したので、涌谷村に元の字を冠した。」と書いてあります。隣村に名前を奪われた恰好ですが、当時の人がどのように感じたかは不明です。元涌谷村(明治22年~昭和23年の自治体)は旧4村の名を大字として残しましたから、江戸期の涌谷村の区域は元涌谷村大字涌谷になりました。住所は自治体名+大字名+小字名で元涌谷村大字涌谷字○○と表記します。昭和23年、涌谷町と元涌谷村が合併して現行涌谷町になりました。現在、住所の上で涌谷町涌谷と表記される区域は江戸期の涌谷村の内にあるでしょうか、それとも馬場谷地村の内にあるでしょうか。くだらないクイズで済みません。

訂正
朝の忙しい時間に書込みしましたので安易に端折りすぎた箇所がありました。昭和23年、涌谷町と元涌谷村が合併して現行涌谷町になりました。と書きましたが、正しくは、昭和23年、涌谷町と元涌谷村が合併して涌谷町になり、その後、昭和30年に涌谷町と箆岳村が合併して現行の涌谷町になりました。が正しいので訂正します。
[74197] 2010年 2月 21日(日)20:39:19【4】Issie さん
油津のこと
[74136] 白桃 さん
日南市の中心は?

少し時間が取れたので「飫肥・油津周辺」について調べてみました。

【飫肥】
平安時代中期の「和名抄」に 日向国宮崎郡 管下の“郷”の1つ「飫肥郷」として現れます。
もちろん,近世以降現在まで続く 飫肥市街 に直結するものではなく,ずっと広い範囲を領域とする地名と考えるべきでしょう。そもそも「郷」(律令制初期は「里」)という区画は自然の村落ではなく,律令国家が口分田を支給し徴税と徴兵を行うための“戸籍”を編纂するために編成された“人工的な”区画です。
 ※律令制において「里(郷)」は50戸を単位に編成されました。だから「五十戸」と書いて「さと」と読みます。でも1郡内の戸数が50の倍数であることはまずないので,端数の戸で「余戸」を編成しました。のちに「余部」という表記も行われ,「あまるべ」「よべ」などと読まれます。中には,わざわざ旧字体の「餘」で表記するところもあります。

平安末期から鎌倉時代にかけて,飫肥は「北郷」と「南郷」に分けられ,日・隅・薩3ヵ国にまたがる広大な「島津荘」の“寄郡”とされました。“寄郡”というのがどういうものか,今一つわからないのですが,本来は荘園の領域内ではなく“国衙領”であるのだけれれども,実際は「島津荘」の支配下に置かれた区域,というほどの意味なのかな,と感じました。
ともかく,この 島津荘 の荘官・地頭(=現地管理人)として源頼朝に任命されたのが 惟宗(これむね)忠久。以後,彼の子孫は「島津」の名字を名乗り,南九州で繁栄します。したがって,飫肥南・北郷も島津氏の支配下に入りました。
 ※惟宗氏は渡来系 秦氏 の子孫で,平安朝廷では明法家(みょうぼうか:律令法の専門家)の実務官僚。平安時代後期,各国の在庁官人や荘官で「惟宗氏」を名乗る者が現れますが,都の惟宗氏との関係は怪しげ。幕末・廃藩置県まで続く対馬の 宗氏 も惟宗氏を名乗っています。一方,惟宗忠久の子孫は 島津氏 を名乗った後,忠久が頼朝の落胤だとか何だとか言って「源氏」に乗り換えてしまいます。

飫肥城を最初に築いたのは南北朝時代の地元武士団とされていますが,島津氏と戦国時代に日向国内で勢力を伸ばした 伊東氏 との抗争が激化すると,島津側の最前線となり,双方の争奪の場となりました。戦国最末期に一旦は島津氏に追い落とされた伊東氏が豊臣秀吉の九州征伐後の処分で領地を回復し,那珂郡と宮崎郡に合わせて5万石ほどの所領をあてがわれました。これが「飫肥藩」の始まり。
城下町の建設は戦国末期の島津氏支配下で始まったようですが,本格化するのは伊東氏の支配が安定してから。ほぼ完全に“近世の産物”です。
1889(明治22)年,城下町以来の市街地である 本町・今町 と 板敷村・吉野方村・楠原村 が合併して「飫肥村」,1900(明治33)年の単独町制施行で「飫肥町」となりました。
なお,伊東氏が支配した 飫肥藩 の領域は,ほぼ現在の日南市(北郷・南郷の両町編入後)と清武町を合わせた範囲に相当します。だから行政機構としては,飫肥藩と現在の日南市役所がほぼ等価値なのですね。日南市長が5万石のお殿様。

【油津・平野】
[74167] 千本桜 さん
江戸時代、油津は平野村の一部だった。

「油津」という港町は古く「油之津」と呼ばれ,古代以来,対外貿易拠点として栄えました。ただ,地名としては広域に用いられることはなく,例えば「飫肥郷」内の“地点名”として用いられたようです。
これは近世の伊東氏(飫肥藩)の支配下でも同じで,検地を通じて近世村が編成されたとき,油津の港町部分と広渡川左岸の農村部とを合わせて「平野村」としたのでしょうね。幕府から伊東家への領地宛行(あてがい)の際にも那珂郡39ヵ村の1つに「平野村」が現れます(「油津」は登場しません)。
伊東家(飫肥藩)は油津に「油津地頭」を置きましたが,その職掌が今一つわかりません。村方支配の責任者である 郡奉行(郡代) の配下にあるのですが,平野村の農村部と一体に管轄したのか,それとも港町部分だけを別個に管掌したのか。また,民衆の側も油津の商人独自の自治組織があったのか,それとも農村部の「百姓」と一体で「平野村」の自治を担ったのか,調べきれませんでした(これは史料に基づかない勝手な憶測ですが,城下町の建設に際して油津の商人たちも移転を命じられているかもしれません。すると,“本店機能”とともに町自治の担い手であるべき“旦那様”たちも飫肥城下に移ってしまい,油津の港町にあるのは船積みに必要な機能と人員だけだったかもしれません)。
ともかく,1882(明治15)年の「油津村」の分立は,農村を主体とする平野村の中から港町部分が独立した,と見ることができるのではないかと思います。そして,1908(明治41)年の境界変更は,この時点までに港町の隣接区域として市街化した部分を 油津町 に取り込んだもの。
小学校や鉄道駅などのようにある程度の広さの土地を必要とするものを(当時の)ビルトアップエリア(既存市街地)内に設けるのは困難ですから,行政上の町域が既存市街地に限定されるなら隣接する町村に設けられるのはよくあることです(ただし,小学校の系譜には注意が必要です。1872(明治5)年の学制発布を受けて設けられた最初期の学校は既存市街地内のお寺などを利用しているかもしれません。そして以後,現在の呼称と位置に落ち着くまでにさまざまな学校が合流しているかもしれません)。

【吾田】
平野村は明治22年に星倉村などと合併して吾田村になりました

実はこの「吾田(あがた)」こそ,この地域の地名の中で最も古いと言えるかもしれません。何しろ,「日本書紀」の 神武天皇即位前紀(巻第三) に登場するのですから。
アマテラス(天照大神)の孫として高天原から高千穂峰に降り立った(天孫降臨)ニニギ(天饒石国鐃石天津日高彦火瓊瓊杵尊)のさらに曽孫であるイワレヒコ(神日本磐余彦尊=神武天皇)が妃を娶(めと)る段にある

「長而娶日向国吾田邑吾平津媛為妃」
(長(ひととな)りたまひて日向国の吾田邑(むら)の吾平津媛を娶(ま)きて妃(みめ)としたまふ。)

の「吾田邑」がそれ。
ここに出てくるお姫様の名前にある「吾平津」を「あびらつ」と読んで「油津」の古い形という解釈があります。恐らくはこれが下敷きとなって,明治の大合併で平野村その他が合併して発足する新自治体の名前を決めるにあたって日本書紀に由来を求めたのでしょう。何しろ,神武天皇の最初のお妃の出身地ですから。
油津には 吾平津(あひらつ)神社 があり,祭神の1人が 吾平津昆売命(あひらつめのみこと)=吾平津媛 です。この神社の創建は元明天皇代の和銅2(709)年だとか。ちょうど日本書紀の編纂たけなわの頃ですね。

ただし,この「吾田」や「吾平津」を本当はどう読んだのか,実はわかりません。中には原典本文の割注に万葉仮名で読み方を明示しているものもあるのですが(その万葉仮名をどう読むかがまたわからないのだけど),「吾田」「吾平津」にはそれがありません。そこで,「吾田」を「あた」と読み薩摩の「阿多」(南さつま市)に,「吾平」を「あひら →あいら」と読んで大隅の「姶良」(姶良市)または「吾平」(鹿屋市)に比定する解釈もあります。
伝説上の“皇室揺籃の地”とは言っても,ヤマトから見れば“辺境”の地。古事記・日本書紀の地名記載は畿内・近国については詳細ですが,遠方についての地理感覚はとても大雑把です。「高千穂峰」は霧島火山であるという“通説”がある一方で,(西)臼杵郡にも堂々と「高千穂」があるくらい。
だからみんな自分に都合のよいように解釈するのでしょうね。
[76264] 2010年 9月 28日(火)22:35:16【1】Issie さん
館山
[76262] 白桃 さん
しかし、安房のもとは阿波だったとは・・・アワワ・・・

馬琴さんもそう言っているし,古代にこの地を支配した「阿波国造」の由来もそのようになっている,とても古い時代からの言い伝えなのですが,それが歴史上の「事実」かどうかは必ずしも定かではありません。
もちろん,過去に hmt さんが何度も紹介されているように,たとえば紀州と房総の間に密接なつながりがあったであろうことは多く指摘されていることですから,さらに足を延ばして四国の阿波とのつながりがあっても不思議ではないのですが。

[76253]
「市制施行前に館山北条町を名乗っており、しかも当時は旧北条町の人口が多かったのに、どうして館山市と言う名前になったの?」

館山駅も当初は「安房北条駅」という名前でした。北条にありますからね。1946年に「館山駅」と改称されたようです。「館山北条町」が「館山市」になるのが1939年だから,戦争をはさんで7年(正確には6年半)のタイムラグがありますね。

なぜに「北条」ではなく「館山」が選ばれたか,という問いに対する館山市の公式の答えがあればいいのですが,私はそれを知らないので勝手な憶測をすると,たぶん,「北条」よりも「館山」の方が知られた地名だったのではないか,と考えます。

まず,館山は戦国時代の里見氏の城下町でした。「里見」などというローカルな戦国大名,普通はみんな知らないはずですが,それを馬琴さんが空前のベストセラーで世間にあまねく知らしめてくれました。ただし,「南総里見八犬伝」はあくまでもフィクションであって,史実とはだいぶかけ離れているようです。でも,史実をフィクションが凌駕することはよくある話で,少なくとも「八犬伝ゆかりの地」として「館山」はそれなりに知られていたのではないか,と思います。あくまで,南房総ローカルな中心地である「北条」よりも。
ちなみに,戦国末期に房総の覇者であった里見氏は豊臣・徳川の両者から支配圏を狭められて安房一国に押し込められ,江戸時代最初の年号(慶長)が変わらないうちに改易されてしまったので,館山が近世城下町であった期間は最初期のごく短い間だけでした。田沼時代の天明年間に「館山藩」が復活しますが,それは1万石ほどの極小藩(里見氏の時代は安房一国で12万石)。これが廃藩置県まで続くけど,“城下町館山”とは言い難いものがあります。

もう1つ。「館山」は海軍航空隊の基地として知られていました。時代が時代ですから,こちらの要素の方が大きかったかもしれません。
航空隊が設けられたのが1930年。その後も館山には海軍の施設の集積が進んでいきました。北条ではなく,もっぱら館山に。
そんなわけで,むしろこちらとの関連で「館山」の地名が広く知られていたものと思います。

「館山市」の誕生は,実は中国で苦戦していた陸軍に比べて,まだ海軍は無傷で元気だった1939年。「名」という点では,館山の方が北条よりもずっと上を行っていたのではないか,と推測しています。
[77092] 2010年 12月 23日(木)18:24:49YT さん
米沢藩の人口
[77088] oki さん

「天保郷帳」にしろ「旧高旧領取調帳」にしろ、名称や石高が実態とずれている場合は少なくありません。特に天保郷帳は諸藩が幕府に提出した資料がもとになっており、外様大藩の場合は幕府向けと藩内用との二重帳簿を作成している事例がよくあります。

『天保郷帳』記載の内高21万6161石2斗2升0合2勺4才(天保5年(1834年)現在)から『旧高旧領取調帳』記載の内高33万6645石5斗7升2合9勺4才(一応、明治元年(1868年)現在)へ、わずか34年間の間に内高が12万石、56%増加したということ自体、幕府へ報告した内高と、藩内で把握していた内高の間にかなりの差があることを示しているといえるでしょう。

ただ、米沢藩に関しては人口についても異常な点があります。米沢図書館所蔵の『秘庫文書 八』に、米沢藩時代の人別の集計が元禄5年(1692年)~慶応3年(1867年)までの176年間分が途切れることなく伝わっています。これだけ長期間の間の人口変遷が残っているのは、他には例がありません。高知土佐藩の場合、天和元年(1681年)から寛政10年(1798年)までの118年分が『土佐史料』の「楠目氏覚書」に記載されていましが、原史料は二次大戦の空襲で焼失してしまっています。南部盛岡藩もかなりの記録が残っていますが、途中から数字に手心が加わり、飢饉による人口減少を隠蔽したと考えられています(詳しい解説は速水融「近世日本の人口構造と変動」日本学士院紀要, 2007年, 62巻(3号), 285-309頁参照)。

『秘庫文書』記載の米沢藩の人口変遷については、吉田義信『置賜郡民衆生活史』(1973年)から引用しますと、以下の通りです。

元号西暦総人口元号西暦総人口元号西暦総人口元号西暦総人口
元禄5年1692年133,259元文元年1736年114,307安永9年1780年103,628文政7年1824年110,183
元禄6年1693年132,199元文2年1737年113,983天明元年1781年103,789文政8年1825年110,341
元禄7年1694年131,966元文3年1738年113,314天明2年1782年103,569文政9年1826年110,859
元禄8年1695年132,187元文4年1739年112,315天明3年1783年103,991文政10年1827年111,710
元禄9年1696年131,973元文5年1740年112,378天明4年1784年103,281文政11年1828年112,854
元禄10年1697年130,568寛保元年1741年111,578天明5年1785年100,946文政12年1829年113,619
元禄11年1698年130,102寛保2年1742年111,458天明6年1786年100,381天保元年1830年113,860
元禄12年1699年129,734寛保3年1743年111,283天明7年1787年99,985天保2年1831年113,651
元禄13年1700年128,696延享元年1744年111,118天明8年1788年99,508天保3年1832年114,373
元禄14年1701年128,407延享2年1745年110,178寛政元年1789年99,123天保4年1833年114,999
元禄15年1702年128,031延享3年1746年110,064寛政2年1790年99,296天保5年1834年115,300
元禄16年1703年127,062延享4年1747年110,232寛政3年1791年99,119天保6年1835年114,109
宝永元年1704年126,513寛延元年1748年109,882寛政4年1792年99,085天保7年1836年115,085
宝永2年1705年125,954寛延2年1749年108,885寛政5年1793年99,785天保8年1837年114,983
宝永3年1706年124,893寛延3年1750年108,859寛政6年1794年101,124天保9年1838年113,404
宝永4年1707年124,540宝暦元年1751年108,623寛政7年1795年102,236天保10年1839年113,113
宝永5年1708年123,852宝暦2年1752年108,858寛政8年1796年101,507天保11年1840年112,968
宝永6年1709年123,403宝暦3年1753年109,068寛政9年1797年103,721天保12年1841年113,973
宝永7年1710年122,245宝暦4年1754年107,996寛政10年1798年104,395天保13年1842年114,974
正徳元年1711年122,385宝暦5年1755年107,317寛政11年1799年105,047天保14年1843年115,010
正徳2年1712年122,110宝暦6年1756年106,390寛政12年1800年106,213弘化元年1844年115,695
正徳3年1713年120,705宝暦7年1757年102,628享和元年1801年107,110弘化2年1845年116,598
正徳4年1714年120,711宝暦8年1758年100,900享和2年1802年106,965弘化3年1846年117,689
正徳5年1715年121,194宝暦9年1759年100,007享和3年1803年106,121弘化4年1847年118,799
享保元年1716年120,606宝暦10年1760年99,369文化元年1804年105,888嘉永元年1848年119,995
享保2年1717年120,650宝暦11年1761年99,552文化2年1805年106,760嘉永2年1849年119,804
享保3年1718年120,609宝暦12年1762年100,024文化3年1806年107,547嘉永3年1850年120,638
享保4年1719年120,099宝暦13年1763年100,560文化4年1807年107,192嘉永4年1851年121,856
享保5年1720年118,615明和元年1764年101,489文化5年1808年107,052嘉永5年1852年122,361
享保6年1721年118,537明和2年1765年101,845文化6年1809年107,453嘉永6年1853年123,355
享保7年1722年118,209明和3年1766年102,434文化7年1810年108,313安政元年1854年124,128
享保8年1723年117,881明和4年1767年102,485文化8年1811年108,949安政2年1855年124,709
享保9年1724年117,134明和5年1768年102,020文化9年1812年108,998安政3年1856年125,130
享保10年1725年116,702明和6年1769年102,434文化10年1813年108,985安政4年1857年125,685
享保11年1726年115,660明和7年1770年102,905文化11年1814年109,126安政5年1858年126,207
享保12年1727年115,096明和8年1771年103,818文化12年1815年109,773安政6年1859年127,080
享保13年1728年115,015安永元年1772年104,042文化13年1816年100,511万延元年1860年127,860
享保14年1729年114,207安永2年1773年103,961文化14年1817年110,947文久元年1861年128,313
享保15年1730年114,429安永3年1774年103,901文政元年1818年111,107文久2年1862年129,003
享保16年1731年114,051安永4年1775年104,154文政2年1819年110,998文久3年1863年127,773
享保17年1732年113,711安永5年1776年104,498文政3年1820年109,602元治元年1864年127,588
享保18年1733年113,975安永6年1777年103,625文政4年1821年109,603慶応元年1865年128,103
享保19年1734年113,772安永7年1778年103,702文政5年1822年109,557慶応2年1866年143,126
享保20年1735年113,762安永8年1779年103,605文政6年1823年109,726慶応3年1867年144,153

慶応2年でいきなり人口1万5000人分人口が増えていますが、これは屋代郷3万石が加増されたからで、維新後は再び置賜郡オンリーの、表高14万7248石、内高28万4748石、現高6万3269石、総人口12万9753人に減らされます。

ここで特徴的なのは、石高と人口の比です。28万~30万石もの内高がありながら、13万人の人口しか養えていないのです。速水融氏は1人1石という定説を覆し、1石0.28~0.55人に修正しておりますが、これも江戸時代初期の小倉藩の話で、明治維新当時の人口/内高比は平均1石0.96人です。東京府、大坂府のような都市、その他小藩でみられる異常に高い人口/内高比を除けば、広島藩の1石1.89人が目に着きますが、おそらく広島藩では実際の石高と内高の解離が激しかったのでしょう。

これに対し米沢藩は1人0.45石であり、一部の小藩を除けばほぼ全国最低レベルです。この原因として考えられるのが、異常な武家人口です。幾つか米沢藩の身分別人口をピックアップすると:

元号西暦総人口諸奉公人又者共ニ御城下町人弐百弐拾六ヶ村出家修験座頭武家の割合(%)
元禄5年1692年133,25931,17312,12988,52585037520723.39
元禄14年1701年128,40729,96011,48185,47093537818323.33
安永5年1776年121,73024,06116,09980,4886353499819.77
天保11年1840年112,96825,6086,66779,8464993014722.67
弘化3年1846年117,68926,9646,77383,0835083154622.91
文久2年1862年129,00332,0366,94389,1285173235624.83

直江兼続は家臣を帰農させることなくすべて奉公人として雇い続けたというのが美談とされていますが、米沢藩の歴史をひも解くと、むしろこのことが江戸時代を通じて米沢藩の人口停滞の原因となる重荷になったように思えます。

もちろん宝暦・天明・天保の大飢饉の際、他の東北諸藩に比べて人口減少率が低いというのは、米沢藩の藩政として大麦を推奨したとか、米の備蓄などを行った結果でしょうし、米沢藩の人口が少ないというのは、米沢藩が貧しいということを即意味するのではなく、家族制度の変化(家を継ぐ長男のみが結婚、晩婚化など)が原因の一つでしょう。米沢藩に見られる比較的緩やかな人口/石高比は、ある程度ゆとりある生活のために家族制度が変化し、家族計画による人口抑制策が働いたことによるものでしょう。
[78338] 2011年 5月 17日(火)00:57:16【1】EMM さん
なかなか難しいのであります
[78254] オーナー グリグリ様
[78168] にも書きましたが、兼六園の造成など城下町金沢を整備し、加賀藩の体制を固めた、三代藩主「前田利常」を実質的に推したい気がします。EMMさん、どう思いますか?
うーん、私は前田利家一択ですね。
百万石まつりに出たこともあり、幼少より百万石音頭を歌って過ごし、高校の時は尾山神社の前を通って登下校していたものですから…正直、金沢に住み続けていると利家の名に接する機会はかなりあるのに対し、利常は金沢では取り上げられる機会がかなり少ないと感じます。
確かに利常は金沢の町の整備や加賀藩の統治政策を固めたのは利常ですし、「鼻毛大納言」のあだ名で面白いエピソードも多いんですけどね。
利常の孫である五代・前田綱紀も名君の誉れ高き方ですが、やはり利家と比べるとその名を目にする機会が少ないかも。
あと、全国的な知名度という点でもどうでしょう?やはり利常や綱紀は利家には敵わないように思うのですが。

ちなみに、福井で同様の話を持ち出すと、多分出て来るのは柴田勝家なのではないでしょうか。
福井市では春に越前時代行列と言うイベントがありますが(今年は大震災の影響で中止ですが)、様々な時代の人物が出て来る中で柴田勝家とお市の方は芸能人が配役されており(参考)、このイベントの主役として扱われていることが分かります。
(ちなみに、その他に登場するのは継体天皇・新田義貞・朝倉義景・結城秀康・松平春嶽・橋本左内などなど多種多様)
富山でも佐々成政をリスペクトする人がいる節が。(例1例2

それから、文化人。
もし三文豪から一人選べと言われれば泉鏡花になるのかなぁ。
でも私は何となく加賀千代女か高峰譲吉博士を推したいなぁ。

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ちょっと思ったのですが、「その地に住んでる人のイメージ」「その地の出身者の人のイメージ」「その地に直接縁のない人のイメージ」がどこまで折り合うか、と言う事につきるのではないでしょうか。
あと、生誕の地にこだわる必要があるのでしょうか?こだわってしまうと、「ネット検索では前田利常がどこで生まれたののか書いてあるところが見当たらない」「高峰譲吉博士は生まれは高岡で、翌年に金沢に移住」と言ったところが引っかかってくる…
[81195] 2012年 7月 28日(土)19:04:11hmt さん
明治13年共武政表を眺める (10)岐阜都市圏に飲み込まれた 加納
戸数一千以上を擁する 「1880年の都市リスト」 には、324の地名が挙げられていました。
これに対応する現在の自治体の数は、225市20町ですから[81146]、79地名が「都市圏の一部になった地名」という計算です[81154]

そこで、京都近くの柳原・伏見に始まり、大阪付近[81176]・東海[81182]・東京付近[81187]と、都市圏の一部になった地名を巡ってきました。済んだのは、畿内13、東海道20の合計 33ですから、まだ 79の半分にもなりません。少し先を急ぎましょう。

…とか言いながら、東山道諸国に足を踏み入れたら、最初に現れたのが「岐阜」と「加納」でした。
美濃国厚見郡 を見ると、上加納を含めて3つの町が並んでいます。戸数は、岐阜町1596, 上加納村725, 加納駅1073。

岐阜町だけに「官庁6」とあり、ここが行政中心地であると知れます。明治4年に笠松に置かれた岐阜県庁は、今泉村[4082]の西本願寺仮庁舎を経て明治7年には小熊村[20742]に 2代目の県庁舎が開庁。現在の岐阜市司町で、共武政表では「岐阜町」に含まれていますが、町村制施行前の正式行政地名では、まだ岐阜51町ではなく“隣接4村”[79386]に県庁があったのですね。木造畳敷きの庁舎で、下記3代目県庁舎の南側にありました。

大正13年に鉄筋3階建で建設された3代目県庁舎(現・岐阜総合庁舎)までは市役所の北の司町にありました。
しかし、昭和41年に移転した現在の4代目岐阜県庁舎は、岐阜市内とはいうものの、岐阜市役所から遠い郊外の「薮田」にあり、多くの都道府県が 便利な市内中心地に庁舎を置いている中で 特異的です。県庁舎の歴史 参照。

落書き帳記事 岐阜・加納 は、県庁舎だけでなく、3つの町に関する Issieさんの記事も収録しています。

戦国大名・斎藤氏の支配拠点として現れた 城下町の井ノ口[39531]→織田氏の岐阜[4082]
関ヶ原の戦で西軍に与した織田秀信【清州会議では秀吉に抱かれ、信長の嫡孫であることをアピールされた 幼名三法師】の改易により 岐阜城が破却された後は、城下町ではなくなったものの、長良川水運の拠点である岐阜は、近世にも 商業都市として生き続けました[39561]
その稲葉山下・長良川南岸の市街地・岐阜は、明治4年の新政府による府県統合で、美濃国を管轄する「県の名」に使われ、行政中心としての地位回復が約束されました。
暫定的に笠松[75944]に置かれた県庁も、明治6年には岐阜(今泉仮庁舎)に来ました。

戦国時代の山城である岐阜城を廃した徳川家康は、中山道の要衝を放置しておいたわけではなく、亀姫の夫の奥平信昌をして、岐阜の南の加納に築城させました。その後は譜代大名の城下町として、濃尾平野北部に重きをなした加納。
[4082] Issie さん
【明治6年岐阜県庁が今泉村に移転した】この段階で「岐阜」と「加納」とはお互いに独立した都市でした。

長良川の「岐阜」と中山道の「加納」との間を取り持ったのは、第3の交通機関・鉄道でした。
文明開化の世になり計画された中山道幹線鉄道。明治15年にできた敦賀港(金ヶ崎)・長浜間の路線によって建設資材を送り込みながら、明治20年には加納に到達しました[61303]

明治20年に加納停車場のできた地が「上加納村」で、加納城と城下町とが作られた「下加納村」よりも岐阜寄りの北側にありました。その2年後の市制町村制施行時の変遷情報を見ると、“上加納村の一部”が岐阜市内に編入されていますが、これが Issieさんの [20736]上加納村岐阜駅前というタイトルの地名なのでしょう。

[79395]によると、最初に作られた当時から加納にあった岐阜駅は、大正になってから、更に南に動いたとのことです。
岐阜と加納の間の上加納に鉄道の停車場ができて、互いに独立していた2つの町場の間が市街化し、その岐阜駅が南に動いたことが駅前市街地の南側への拡大を更に進めというプロセスで、加納の町は岐阜都市圏の一部として飲み込まれていったように思われます。

先を急ごうと言った舌の根も乾かぬまま、オフ会最有力候補地[80767] の意識も手伝い、思わず長文。
[82003] 2012年 10月 24日(水)22:37:22hmt さん
高知ではないのに何故か土佐
既に[82000] なると金時 さんから大和高取藩の名が出ていますが、一応補足してしておきます。

[81997] 白桃さん
藩が核となっている都市の多くは市制施行をしておりますが、今なお“町”に甘んじ?ている自治体
17町のうちで最も人口の少ないところです。いつか其処を訪ねてみよう・・・高知ではないのに何故か・・・

[81146]で、明治13年共武政表に出ていた戸数一千以上地名表の中から、現代も「町」である自治体を拾いました。
その時にも顔を出さなかったから、明治13年の戸数も一千未満だったわけです。

改めて心当たりの町を明治13年共武政表で確認したら、大和国高市郡土佐駅 戸数607とありました。
但土佐町85戸 土佐村89戸 清水谷村200戸 観覚寺村127戸 下子島村106戸 合607戸 3276人 土俗土佐駅と唱ふ

高取藩は、近世では珍しい 現役の山城 を幕末まで維持していた藩なのですね。
江戸時代初期には 藩庁も山の上にあったようですが、さすがに交通不便で 留守番を残して山麓の城下町に移転。
明治22年町村制で 奈良県高市郡高取村
高取町の町並み
[91505] 2016年 9月 25日(日)23:46:08伊豆之国 さん
"Supertown"歩き & 「(にわか)領地」訪問はお預け(天気予報に振り回されたみちのく独り旅)
去る21日より2泊3日で、宮城・岩手両県の旅。今回はその道中記を。
今回の道中、夏休み中に本業の多忙(八王子市の物件([91416])もその一つなのですが)で取れなかった休暇をこの時期になってようやく取れたことによるものでした。けれども折からの台風の接近を初め、とにかく天気予報がころころ変わり、直前になって宿と泊まる日だけは決めてきてネットから予約は取り、訪れる場所は既に決めていたものの、スケジュールははっきり言って出発当日の朝まで「ほとんど白紙状態」だったのでした。
初日は、ともかく「晴れ間は出る、雨の確率は低い」と言うことで、「町歩き」を。東京駅から新幹線で、福島駅で降りて在来線に乗り換え、白石駅で下車。40年ほど昔、その白石市にある「小原温泉」に一泊し、「蔵王のお釜」を見たり、遠刈田温泉にあるこけし工房を見学したりした記憶が残っているのですが([90481])、 そのとき素通りした、伊達家重臣・片倉家の城下町、白石の市街地の町歩きから。(「にわか領主」である)掛川城と同様、木造で平成7年に天守閣が再建された白石城(白石市HPより)、市内で唯一残ったと言う武家屋敷豪商の屋敷を回り、名物の「温麺(うーめん)」(私は小原温泉に泊まったときよりも前、子供のころから知っていたのですが、実際に味わったのは40何年ぶり…)をご馳走。でも、駅前通から中心市街の印象はというと、人影もまばらで店じまいして久しいような商店も目立ち、やはり千本桜さんが危惧されていた通り([90177])
白石は仙南の中心都市から脱落
と言うのも案外当たっているような感じも見受けられ、新幹線の駅が白石駅に併設されなかったこと、その新幹線駅「白石蔵王駅」も町外れの田んぼの中にあって利用客数も伸びず、1日の乗降客数は1000人にも満たず「閑散駅」の地位に甘んじたままになっているようです。
ところで、この白石城主として、戦国末期より明治に至るまでこの地を治めてきた片倉氏。伊達政宗の幼少時代から後見人として仕えてきた初代・片倉小十郎景綱の子、二代目小十郎重長は、優れた武勇で名を轟かせ、「大坂夏の陣」ではあの真田信繁(幸村)と激闘を繰り広げ、「鬼小十郎」と恐れられた武将でした。その信繁が死を前にして、重長を「敵ながら大した者だ」と褒め、自らの子女をその重長に託し、そのとき預かった阿梅は、後に重長の後妻となっています(白石市HPより)。私が白石駅で降りて町のほうに出たとき、「『真田丸』ゆかりの町」の幟が立っていたのを見て、「何でやねん?」と怪訝に思ったのですが、白石城のすぐ下にあった「探訪ミュージアム」を見てきてその関係を知ったのでした。
白石駅からは再び「鈍行」で大河原駅で降り、いよいよ千本桜さんの地元、”Supertown”大河原の市街地に出ます。駅前の印象では、白石のそれよりも栄えている印象で、白石川に架かる橋を渡って旧街道沿いの中心街へ。豪壮な商家もあり、「町」としては結構栄えているな、という印象を受けましたが、明らかに店じまいしたような感じの商店も多く、千本桜さんがおっしゃる通り([90177])、人口こそ微増しているものの、繁栄に「陰り」が見えているような雰囲気にも思えたのでした。それから繁昌院にお参りした後、白石川を再び渡って、この町のシンボルでもある土手の桜並木へ。曇り勝ちの天気で、遠くに見えるはずの蔵王連峰は雲の彼方でしたが、桜の葉が青々と茂り、薄暗い土手の道を延々と歩いて行くのも、心地よい気候とあいまって、それはそれでまた風情があるものだな、と思ったのでした。やがて町境を越えて柴田町に入っても桜並木はなお続き、右手からは東北本線の線路も並行。今も結構な本数が走っている長い編成の貨物列車と、2~4両の短いローカル鈍行列車との対比に、今の東北本線の地位と役割が見えてきたのでした。今年の春にできたばかりの陸橋「しばた千桜橋」を渡って東北線と県道を越え、新幹線がなかった頃にはいつも気になっていた風景であった、「伊達騒動」を基にした小説「樅の木は残った」で名高い船岡城址へ。足元を見ると、真っ赤な彼岸花が今まさに花盛り…。曇り空で方角もよくわからず、ともかく坂道を下りて平地に出ると、「しばたの郷土館」があったので、資料館の中を見学。市街の中心部、船岡駅の方角と思しきほうへ向かって歩き、やが県道が見えてそちらに出て、駅に向かって歩くことに。交差点を左折したところが駅なのですが、この船岡駅の駅舎、「第一印象」では「昔の役所か、学校か、武道場か?」と言ったように見えて、これが「駅」だとは一瞬信じられないような戸惑いを抱いたのでした…。船岡駅周辺の印象も、柴田町自体が槻木との「中心が2つある町」であるせいなのか、大河原よりは少し小さい、むしろ仙台のベッドタウンの色彩が強い、と言った感じに見受けました。
船岡駅から東北線で白石駅に戻り、バスで遠刈田温泉のリゾートホテルに。夜遅くに露天風呂に入ると、外は雨…。雨は翌朝起きたときも降り続いていましたが、直行バスで仙台に戻ったころにはすっかり上がっていて、仙台駅からは市内の観光地巡りのバスで青葉城址へ。伊達政宗の銅像の前で、「(戦国市盗り合戦の)初代青葉城主の座を目指しての挑戦([91287])」を「宣言」したのでした(笑)…。既にお昼を過ぎたので、名物の「牛タン」定食で空腹を満たすことに。先のバスが片道の環状ルートで、仙台駅に戻るまでに行きの倍の時間がかかるため、待っていたタクシーに乗り、仙台駅からは仙石線で、これまで何度も訪れているとは言え、やはり「定番」の松島を目指したのですが、既に雨が降り出し、松島海岸駅に着いた頃には本降りになっていたため、湾内一周の観光船で再び松島海岸に戻ることに(塩竈行きの船もあったのですが、30分後の出航で、しかもこの天気では近くの名所巡りも億劫で…)。本塩釜で降りての鹽竈神社への「(にわか)領地獲得御礼」参りも、「この雨の中、しかも前日からの長い歩きで足がガタガタでは…」と、この時点でほぼ断念(翌日に回すことも決して不可能ではなかったのですが、どう見ても日が暮れてからになりそうなので)。仙台駅に戻り、新幹線で2日目の宿泊地・花巻へ、と言うことにしたのですが、荷物を預けていた仙台駅の構内の広さに道に迷い、次に北上・新花巻に停まる列車まで1時間待ち。この間に宿に「予定より遅れる」旨の電話を入れ、地下の売店で「どうしても買っておきたかった」名物「九重」([60404])を買い、北上駅で「鈍行」に乗り換えて花巻駅へ。この時間帯にバスがないので、タクシーで花巻温泉へ。この豪華な高級ホテルの和室が、直前のネット予約で1万円を切る値段で、しかも一泊2食付で泊まれるとは、「価格破壊もここまで進んだとは…」と驚いたものでした。ホテルでは隣接する同一グループの宿と合わせて温泉の「梯子」、館内には昔の風景も展示され、この地を走っていた「軽便電車」(HP,[73249])の写真も…。ちなみにこのホテル、同じグループの経営する3軒のホテルが渡り廊下でつながっていて、実質的には1軒の巨大ホテル。しかし、渡り廊下でつながっている各棟は、傾斜地に建っていることもあって、渡り廊下でつながる同じレベルの階が、それぞれ「1階」「2階」「3階」と異なっていて、ちょうど私がこの旅に出る直前に話題になった「建物の階数の数え方論争」を思い出していたのでした。
ところで、花巻と言えば、その花巻東高校出、「二刀流」の日本ハム・大谷選手。でも、楽天に入れなかったことで、「もし楽天に入っていれば、田中マー君がメジャー入りしてからこんなに弱くなるようなことはなかったのでは…」と複雑に思っている東北人も多いのでは、と妙なことも思ったりしたのでした…。
翌朝、起きてみたら外は雨でしたが、9時過ぎに宿を出た頃には上がり、時折晴れ間も出て汗ばむ陽気。送迎バスで新花巻駅に出て、宮澤賢治記念館を見学。地図を見て新花巻駅の近くにあることを知り、歩いても行けなくはない距離でしたが、駅前は閑散としていて本当に何もないような殺風景、どの方向へ歩いたらよいのかよくわからないので、駅前で待っていたタクシーを使うことに。「雨ニモ負ケズ」や童話の世界で子供の頃から親しんでいた賢治でしたが、文人としてだけではなく、鉱物、農業、天文、音楽など、幅広い分野の知識を豊富に備えた「マルチ人間」だったと言うことを、今更ながらその多芸多才ぶりに感心したのでした。
新花巻駅に戻り、新幹線とは対照的な狭いホーム1本だけの釜石線乗り場から「鈍行乗り継ぎ」で平泉へ。過去2度訪れているのですが、今回は実に30年ぶり、もちろん世界遺産になってからは初めて。毛越寺はその当時の印象がすっかり抜け、中尊寺にしても、金色堂まで続く長く薄暗い参道のイメージぐらいしか残っていなくなっていて、実際に歩いてようやく当時の記憶が蘇ってきた、と言う感じだったのでした。  
本堂を過ぎ、拝観券の売り場まで来て、財布を見ると…残り1千円を切っている!金色堂だけは何とか見られる金額なのですめが、宝物殿・秘仏拝観と共通券が買えない…。ここまできたのに万事休すか…」と慨嘆…身軽で歩くために、平泉駅のコインロッカーに重いバッグを預けていたのですが、その中に万札が入っていたのでした…。でもすぐに振り返って横を見ると、信用金庫のATMがあり、郵貯カードも使える!これぞまさに「地獄で仏」。郵貯カードを持ってきていたので、必要金額を引き出し、無事共通券を買って、大震災以来5年ぶりに公開された秘仏→宝物殿→金色堂の順に拝観を済ませ、土産物屋が軒を並べる、バス停のある麓に戻ってみると、既に雨が本降りに。参道を歩いているうちは鬱蒼と茂る並木が雨除けになっていて、雨天になっていたのを感じさせなかったのでした。
予定外のタクシー利用が続いたことなどもあって、平泉駅から鈍行乗り継ぎで、帰りの新幹線は仙台駅からと決めることに。ここまで昼食抜きできたこともあり、最初の乗り継ぎ駅・一ノ関駅で、既に冷え切っていた売れ残り?の駅弁。一ノ関駅からは小牛田行きとまたも細切れ、しかも悪評高い「701系」の長椅子式車両。でも空腹に耐え切れず、昨年の東海道中([88822])と同様、弁当を頬張るのを強行。小牛田駅で仙台方面へと乗り継ぐのですが、仙台行きの電車が出発する直前、忘れ物に気づき、さっき乗ってきた電車が折り返して一ノ関行きになる電車に大急ぎで戻ると、その忘れ物が無事すぐに見つかり、結局次の電車に乗り換えて仙台駅に。新幹線に乗り換えて東京駅に着き、新宿で小田急に乗り換え…。嗚呼、帰り道は遠刈田、いや遠かった…。

♯書き込みの途中で誤操作したため、いったん削除した上で改めて書き込みし直しました。
[91576] 2016年 10月 6日(木)17:29:02千本桜 さん
[91551] ニジェガロージェッツ さん
[91554] k_ito さん

[91548] で出題した
ここはどこでしょう
の答は、(A)萩博物館、(B)田中義一総理大臣、(C)菊屋家、(D)菊屋横丁、(E)高杉晋作、(F)江戸屋横丁、(G)木戸孝允、(H)萩西中学校、(I)萩高校、(J)堀内鍵曲、(K)口羽家住宅でした。

1泊旅行することは多々ありますが、今回はめずらしく2泊3日の団体旅行。ただし、広島市内で開催される研修会に参加することが条件です。旅行計画は、見学場所、見学地での滞在時間、道順、宿泊旅館、昼食店、さらにはトイレ休憩の場所から観光ボランティアガイドの設定まで、すべて自分で立案計画しました。旅行計画を業者に頼みたくない理由は、微細な事柄が伝わってこないからです。宴会場の広さは何畳?などの確認は、旅行業者を通さずに旅館と直接交渉した方が早いし、細やかな事まで聞き取れるというのが私の考えです。

今回の旅行の概略は、仙台空港→広島空港→広島市内(平和記念公園・原爆ドーム・研修)→宮島(厳島神社・ナイトツアー・宿泊)→岩国(錦帯橋・吉香公園)→秋芳洞(秋吉台はバスの中から展望)→萩(萩八景遊覧船・堀内地区・萩城城下町地区・宿泊。翌日は松下村塾・松陰神社・東光寺)→下関(火の山公園・唐戸地区)→門司(門司港レトロ地区)→福岡空港→仙台空港でした。

秋芳洞を出発して萩へ到着。まず、萩城跡近くの萩八景遊覧船乗場へ。40名が4艘の船に分乗して水の上から萩を観光。萩八景遊覧船に乗るのは全員が初めてで、みんなキャーキャー言いながら楽しそうでした。でも船から見える景観はいまひとつ迫力不足かな。下船後の観光は、萩は初めてという人のために史跡・萩城城下町(菊屋横丁・高杉晋作誕生地・江戸屋横丁・木戸孝允旧宅など)を現地の観光ガイドさんに案内してもらうように設定。別行動をしたい人のためにはレンタサイクルを紹介。

当然、私はレンタサイクル。萩の中心商店街探訪と、47年前に萩を訪れた時に最も印象に残った平安古(ひあこ)の鍵曲へ行くのが目的でした。ところが、貸し自転車を借りた人たち5名が「千本桜さんの後をついて行きます」と、私の後をついてくるではありませんか。う~ん、これはまずい。「ここが萩の商店街です」と、ジョイフル田町のアーケード商店街を案内しても、喜んでくれるはずがない。急遽、コースを変更。町人町&中級武士が住んだ史跡・萩城城下町地区と、上級武士が住んだ堀内地区の重要伝統的建造物群保存地区を重点に絞ってサイクリングすることにしました。心残りは、集合時刻が迫って平安古の鍵曲に行けなかったことです。でも、いいじゃないですか。旅は道ずれと言いますから、高齢者の人たちと一緒にサイクリングしたことは想い出に残るでしょう。翌日は40名全員で松下村塾、松陰神社、東光寺を見学。東光寺は良かったですよ。午前中の早い時間だったので逆光が射していました。逆光を浴びて佇む大きな三門や500基もの石灯籠がクラクラするほど幻想的でした。

ここで、こぼれ話を1つ。40名の団体ですから、萩に詳しい人、詳しくない人、いろんな人がいます。同行のおじさんが「萩焼って、かたいの?やわらかいの?」と聞いて来たので大笑い。どうやら「萩焼」とは、前日宮島で食べた「もみじ饅頭」のようなものだと思っていたらしい。それから、やらずじまいに終わったことを1つ。萩の人に「仙台銘菓・萩の月を知ってますか?」と突撃インタビューするつもりでしたが、うっかり忘れていて実行しなかったのが残念。
[95564] 2018年 3月 21日(水)02:13:11【3】かぱぷう さん
福岡市の中心は「福岡」か
好きな祭りは博多祇園山笠、操る言語は博多弁、TULIPで好きな曲ベスト5に“博多っ子純情”が入り、初詣の三社参りは櫛田神社・住吉神社・警固神社と2つが博多のお宮、JRで利用頻度が一番高いのは最寄りの原田駅ではなく博多駅。博多愛は強い私です。

[95537]白桃さん
ここで【かぱぷうさんへの質問】です。
福岡市の市制施行時に、博多と福岡の住民(または議員?)の間で市名に関して大バトルがあったという話を聞いています。当時の人口も非常に拮抗していますが、現在の福岡市の「中心」って「博多」か「福岡」のどちらですか?これは、非常に難しくかつデリケートな問題で、決定しない方がよいかもしれないのですが、個人的な見解を是非お聞かせいただきたいものです。
こう問われては出てこないわけには参りませんっ!!
(んなこと息まきながら、登場が遅くなってしまいましたが^^;)


まず、福岡・博多の歴史を簡単に押さえておきましょう。
古代より大陸の玄関口として開かれた博多の街、国際交流の拠点として大陸から来た使節の迎賓館の役割をもつ「鴻臚館(コウロカン)」が置かれ、中世においては日宋貿易の貿易となり、やがて“博多商人”と呼ばれる有力豪商が育っていきました。その一方で、古代の白村江の戦いで大敗した後は新羅が攻めてくるのではないかと懸念されたり、中世では元が本当に攻めてきたり(元寇)と他国からの危険にさらされた地域でもありました。戦国期には相次ぐ戦乱で焼け野原となりますが、1587年に豊臣秀吉が当地を平定。博多商人と連携した自治都市・博多を作り、復興にあたって“太閤町割”を実施しました。この町割は現在の博多の街の区画として現在も残っております。
余談ながら、根っからの博多の人間で秀吉のことを悪く言う人をあまり聞きません。太閤町割が博多祇園山笠においての“流”(ナガレ:「恵比寿流」「土居流」といった祭りのブロック割)の確立に大きな役割を果たしたことがあるものと思われます。

…と、ここまでは『博多の歴史』です。福岡のふの字も出てきておりません。
福岡という地名が出てくるのは関ケ原の戦いの後、当時豊前中津藩の藩主であった黒田長政が筑前五十二万石を与えられたときからです。長政は小早川の居城であった名島城(福岡市東区)に入りましたが、名島城は手狭で防御面で問題があったことから、街を流れる那珂川の西岸・那珂郡警固村福崎の地を選び築城することにしました。その際、この地を黒田家ゆかりの地である備前国福岡にちなんで「福岡」と命名したのです。当時の博多の街の中心は那珂川東岸にあり、博多全体を取り込んでこの地域全体を福岡と呼ぶこともアリだったのかもしれませんが、黒田藩は博多地域の町人による自治を事実上認めます。
このとき双子都市「武家の街・福岡」「町人の街・博多」という枠組みが生まれました。

明治に入ってもこの棲み分けは変わりませんで、博多の街の方が華やかだったのですが、行政所管が福岡側にあったからでしょうが、少しづつ博多の優位性が揺らいでいきます。1878年の郡区町村編制法によってこの地域は福岡区となりました。もちろん、博多側は面白くありません。1889年の市制施行を迎えるにあたって市名を決める際の議会では福岡側と博多側が真っ向で対立しました。この話、いろいろと尾ひれがついているようなのでどこまで信じていいのかよくわかりませんが、一般的に言われているのは「福岡市派と博多市派の間で市名について採決を行った結果、こともあろうに同数。本来は投票権がない議長(福岡側の人)が議場に降りて投票に加わって福岡市多数で決着」「折衷案として、1889(明治22)年に博多側に設置された九州鉄道(のちに国有化)の駅は博多駅」というところです。

この結果、地図上から「博多」という地名が姿を消しました。地域の名称であった「博多」はどこぞの町名ではなかったからです。地名としての「博多」が復活するのは、1969(昭和44)年になされた住居表示で「博多駅中央街」「博多駅前」「博多駅東」「博多駅南」の町名が発足したときでした。
#ただ、この一帯は当初から開けていた博多地域とは少し離れた場所です。ちなみに1972(昭和47)年の政令指定市施行に伴い「博多区」が発足しますが、区域は広く元来は博多と呼ばれていない福岡空港や雑餉隈のあたりも博多区となりました。このため、福岡では旧来からの博多地域のことを分かりやすく示すために“博多部”と呼ぶことがあります。

時代が進むと、徐々に福岡側が街としての力をつけてきます。福岡側の中心となった街は、天神。
菅原道真公を祀った水鏡天満宮が町名の由来となったこの街は、城下町福岡の武家屋敷が所在していました。明治維新により天神は役割を失いますが、警察や県庁・市役所といった役所が置かれ官庁街として体裁を整えていきます。1924(大正13)年、福岡~久留米間で九州鉄道が開業(現在の西鉄・1889年に博多~千歳川間で開通した、のちに国有化される九州鉄道とは別の会社)。この福岡駅が置かれたのが天神でした。1936(昭和11)年に福岡駅に隣接するターミナルデパート・岩田屋が開業しましたが、この頃は福岡一の繁華街はまだまだ博多。九鉄電車の乗客が伸び悩んでいたこともあり、開業の折には口の悪い者から「天神やらに誰が買い物に来るとか?狸や?狐や?」などと揶揄されたりもしたそうです。それでも少しずつながらも商業集積が進んでいきました。

天神が大きく伸びるのは戦後です。1945(昭和20)年6月19日の福岡大空襲で福博の街は壊滅的被害を受けますが、先に復興に向けた大きな動きを見せたのは博多ではなく天神でした。1946(昭和21)年秋に西鉄福岡駅・岩田屋の西側に「新天町」商店街を創業。1948(昭和23)年には岩田屋や新天町、西鉄などが集まり、親睦団体「都心界」を発足させます。都心界発足には岩田屋が大きな役割を果たしましたが、岩田屋の影響が強くならないよう、発言権も運営経費もすべて加盟者で平等となるようにし、天神地区の商人が一体となって「天神地区を都心にしよう」という気概で街を盛り上げていく土壌を作りました。こうして天神は力をつけ、急速に発展し、九州一の繁華街の地位を確立していきます。
ただ、天神の発展を語る上で忘れてはいけないことがあります。天神に岩田屋を創業した中牟田家、新天町創業の中心的役割を果たした人達、そして明治末期に私財を投げ打って市内電車開業に尽力して天神発展の礎を築き、天神を南北に貫くメインストリート「渡辺通り」にその名を残す渡邉與八郎、みんな博多商人だったのです。

1975(昭和50)年、山陽新幹線が博多まで開通。福岡市は新たな九州の玄関口の役目も担うようになります。東京や大阪に本社を置く企業が九州の拠点を構え、その様は「支店経済」とも言われました。それらの企業の多くが支店を構えたのが博多駅周辺や“博多部”一帯で、今では「繁華街・天神」「ビジネス街・博多」と立場が逆転してしまいました。
現在の博多の商業集積はどうなっているのでしょう。地盤沈下してしまった“博多部”では福岡市が中心となり下川端地区再開発事業を展開、1999(平成11)年に商業施設「博多リバレイン」が開業しますが、苦戦が続いています。1995(平成7)年に開業した「キャナルシティ博多」は健闘していますし、2011(平成23)年に博多駅が新しくなり開業した「JR博多シティ」と、隣接する地に2016(平成28)年に開業した博多マルイが入居する「KITTE博多」は天神地区が脅威に感じるくらいの活況を呈していますが、キャナルも博多駅も“博多部”ではありません。今や、福岡の人が「博多で買い物をする」といったらこれは十中八九で博多駅周辺のことを指します。

…ちっとも“簡単に”とはいきませんでした(^^;


さて、質問に対するお答えですが、現在の福岡市の中心を問われたときの答えは「博多」ではないことはお分かりいただけると思います。もちろん“博多部”でも博多駅周辺でもありません。

では「福岡」?それも否ではないでしょうか。
“博多部”も天神も、福岡市というエリアに属する街々のひとつなので、「博多か福岡か」は比較できる範囲ではないと私は考えます。「“博多部”は福岡ではない!だから博多か福岡かという選択肢はアリ!」という見方もできないこともありませんが、ちと苦しいのではないかと。

私の答えは…。再び[95537]白桃さん
(「天神」というご回答はご勘弁ください。笑)
白桃さんが「ご勘弁ください(笑)」とおっしゃる、まさかの「天神」を満を持して答えさせていただきます(笑)
[100338] 2020年 9月 25日(金)21:30:50白桃 さん
「町」のままの城下町・陣屋町
この前の連休最後の日に、Go To Travelも何も利用せず県内旅行に出かけました。目的地は「城下町」大多喜です。私、大多喜は初めてなのですが、落書き帳メンバーの何人かは訪れているようですね。同じ県とは言え、浦安からだと大多喜は遠いです。公共交通機関のみを利用した時間距離で言えば、関宿や館山、銚子あたりより遠いかも。外房の大原から「いすみ鉄道」で大多喜へ、帰路は「小湊鉄道」で五井に出たのですが、両鉄道会社ともスイカが使えない。このことをすっかり失念していましたので、新浦安駅でチャージした5億円?が無駄に終わりました(この日から禁酒が始まりましたので、駅構内のコンビニでも、スイカでお酒も買ってません)。
そんなことはどうでも良いですね。肝心の大多喜ですが、ま、期待を裏切ると言うことはなかったのですが、城下町の風情がもう少しあっても良いのでは、という印象です。
大多喜に行く電車の中で、「いまだに、市に成っていない城下町って、三春、津和野、日出、高鍋…」同伴のオバさんに説明してるのに、まったく無関心で、「大多喜って海の近く?」
そんなこともあり、「町」のままの城下町・陣屋町を以下のとおり調べてみました。しかし、城下町も広い意味では陣屋町ですし、同じ場所にあっても〇〇城、〇〇陣屋と時代によって呼び方が異なるところもあり、城下町と陣屋町の区別は明確ではありません。とりあえず、幕末、文久3年(1863年)の時点で2万石以上を城下町、2万石未満を陣屋町としておりますが、詳しい方がいらっしゃいましたらご教示ください。
〇城下町
藩名石高(万石)現自治体戸口表戸口表名称戸口表人口町制(年)
棚倉10.0福島県棚倉町第一表棚倉村2,8551889
三春5.0福島県三春町第一表三春町6,0501889
津和野4.3島根県津和野町第一表津和野5,9591889
壬生3.0栃木県壬生町第一表壬生町4,8451889
松前3.0北海道松前町第一表福山10,1871900
高鍋2.7宮崎県高鍋町第一表高鍋4,3131901
高取2.5奈良県高取町第一表土佐5451891
日出2.5大分県(日出町)第一表日出3,6001889
小幡2.0群馬県甘楽町第三表小幡村1,1511925
大多喜2.0千葉県大多喜町第一表大多喜2,8601889
〇陣屋町
藩名石高(万石)現自治体戸口表戸口表名称戸口表人口町制(年)
西大路1.8滋賀県(日野町)第三表西大路村1,569
三日月1.5兵庫県(佐用町)第二表三日月1,2981934
一宮1.3千葉県一宮町第一表一宮本郷村4,5411890
多古1.2千葉県多古町第一表多古村1,7991891
勝山1.2千葉県鋸南町第一表加知山村1,9301896
1.2大分県玖珠町第二表2,7791893
菰野1.1三重県菰野町第一表菰野村3,1311928
多度津1.0香川県多度津町第一表多度津6,1981890
注1:明治になってから発生した藩は除外しています。
注2:戸口表とは「市街名邑及町村二百戸以上戸口表」(M.21年「内務省総務局」)で、戸口表人口は戸口表に記載された現住人員(1886年12月31日調)
注3:現自治体欄の町名が(  )となっているところは、その城下町(陣屋町)が現自治体の【前身】ではないことを示します。
[100347] 2020年 9月 28日(月)07:09:39勿来丸 さん
房総の城下町
[100338]白桃さん
肝心の大多喜ですが、ま、期待を裏切ると言うことはなかったのですが、城下町の風情がもう少しあっても良いのでは、という印象です。

千葉県民でありながら大多喜へ行ったことは一度もないのですが、白桃さんの記事を読んで「なるほどそうなのか」と思った次第です。
大多喜といえば昔から大きな城下町で、徳川四天王の1人本多忠勝も治めた地ですね。江戸時代は間違いなく「大城下町」だったと思いますが、明治維新以降は財政の都合もあり発展が難しかったのでしょうね。

ちなみに私の自宅から一番近い城といえば久留里城です。小さい頃訪れました。模擬天守があったのは覚えていますが、あまり記憶がないのです……。でも景色は良く、いかにも穴場だなって感じです。
久留里町といえば、君津市域で唯一の「生まれながらの町」ですが、明らかに君津市の中心地ではありません。1960年代に製鐵所がやってきた以上そっちに吸い取られるのは必至でしたね(君津市が誕生したのは1971年)。八幡から社員とその家族合わせて2万人が君津に移住してきた様子は「民族大移動」と呼ばれていたのだとか。それだけ沿岸部の発展が著しいものだったのですね。

[100337]駿河の民さん
冒頭の「この地方の外から走る列車」はたぶんその夜行列車なのです。
駿河の民さんが乗ったのは「日の出」だと思いますが、私が乗ったのは「月明かり」ですね。名古屋から乗りました。ちなみに名古屋で降り立ったのはこの時の乗り換え待ちが初めてでした。

[100346]グリグリさん
「データの説明」ページを拝見しました。冒頭の
公表日を感染発生日としている都道府県(上記以外の26都道府県)
これは「24都道府県」の誤りだと思います。
[100349] 2020年 9月 30日(水)07:59:35【1】白桃 さん
南総里見発見でんでん(暴かれた四つの城下町の不思議な秘密)
ご案内が遅れましたが、先日、「白桃市町村人口研究所」に「わたし」そして「青春」の城下町という特集を立ち上げました。
昭和歌謡風の特集名になっていますが、これまでの落書き帳において「城下町」という語句が出てくる記事の中から、適当に精査して(本当は厳正な審査?をして)選びだしました。その内容は、特集名からのイメージとは若干違っているかもしれません。私自身は、城郭の形態、領主の変遷、町割り、といったものにはあんまり興味がないので、城下町の姿がなんとなく思い浮かぶようなものを集めています。ただ、白桃自身の記事は、実に他愛もないものです。
そこで、奮起一発。これから珠玉???の記事を投稿します。
安房の館山、摂津の三田、周防の岩国、豊後の日出、この四つの城下町の共通点は何でしょうか?

館山の場合旧町名町になった年---戸口表戸口表名称戸口表人口1930年国調人口
1933年館山北条町館山1889年第一表舘山町2,7159,184
1939年館山市北条1889年第一表北條村2,2379,651
三田の場合1955年国調人口
1956年三田町三田1889年第一表三田2,9768,005
1958年三田市三輪1927年記載なし8,981
岩国の場合1935年国調人口
1940年(4月)岩国市岩国1889年第一表岩国8,18713,225
麻里布1928年第二表今津2,09115,724
日出の場合1950年国調人口
1954年日出町日出1889年第一表日出3,6005,070
豊岡1898年第二表豊岡2,7795,093

答えは、上表のとおり、お城があって、生まれながらの「町」としての歴史も古く、そして現在の自治体名となっている旧町は、【前身町】ではない、ということです。

注1:【前身町】については[99148][99882]をご参照ください
注2:戸口表とは「市街名邑及町村二百戸以上戸口表」(M.21年「内務省総務局」)で、戸口表人口は戸口表に記載された現住人員(1886年12月31日調)

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