[33148]太白さん
この地図が表現する「江戸」の範囲
[33164] ryoさんが「朱引内」のソースとしてリンクされた東京都公文書館のHPには
江戸朱引図 があります。この図には 朱引線(御府内外境)と 町奉行支配境墨筋 とが記載されています。
この「墨引」範囲をたどってみると、東は猿江村のあたり [都営新宿線住吉駅付近] が張り出しているが、その他はほぼ大横川 [三ツ目通りの東の運河] の線です。北は駒込村、西は柏木村・千駄ヶ谷村までが墨引内。そして南は 下高輪町と北品川村の間に墨筋が引かれています。
太白さんの記述はこの「墨引」範囲を指しているようです。
リンク画像は「文政元寅年八月に江戸の範囲確定を評定所で評議し、十二月に老中決済を受けた」という趣旨のことが書いてある右端が切れているのですが、それでも「別紙絵図朱引ノ内ヲ御府内ト相心得」という勘定奉行の公式見解を読み取ることができます。
江戸東京博物館の図録「大江戸八百八町」に収録されている「旧江戸朱引内図」(上記リンク画像と同じ)から、朱引の内側に記入されている村の名を読みとってみました。
南品川町、下大崎村、上大崎村、白金村、中豊沢村、上豊沢村、上渋谷村、隠田村、代々木村、角筈村、鳴子宿、戸塚村、上落合村、長崎村、上板橋村、下板橋村、瀧川村、堀ノ内村、上尾久村、下尾久村、町屋村、三河島村、小塚原町、千住町組中川町、木下村、木下川村、葛西川村、亀戸村、小名木村、萩・又兵衛新田、中里新田村、八郎衛門新田、太郎兵衛新田
ryoさんもご指摘になっていますが、朱引の外にある中目黒村と下目黒村だけが町奉行支配の「墨引内」として突出しています。
ところで、
[14798] Issieさんが紹介された
1989年に東京都が発行した「江戸復元図」によれば,1869(明治2)年の「朱引き線」は,以下の点を通過しています
の範囲は、文政元年の朱引の範囲より明らかに縮小されています。「御一新」による見直しがあったのでしょうか?
西が上になります。この描き方は、江戸時代の江戸の地図に共通しています。
上記の江戸朱引図は、東が上になっていますね。
もっとも、同じく東京都公文書館の「江戸府内朱引図」 (乾と坤)は、西が上です。こちらは墨引線がありません。
江戸切絵図は、御城の方角が上になっているものが多いように思いますが、そうでない図もあります。
石川島に人足寄場が設置された18世紀末
鬼平で知られる長谷川平蔵宣以が、1790年に開設した石川島の人足寄場は、技術習得、精神教育、資金提供を通じて収容者の社会復帰を図る施設でした。
新大橋は歴史がある
両国橋の「大橋」に対して「新大橋」と命名されたのですが、それが元禄6年(1693)のことですから、隅田川でも古参ですね。
1912年にカーネギー社の鉄材を使った橋が、木橋時代よりもやや上流の現在位置に架けられました。間もなく市電も開通。
1923年の関東大震災の折に避難の道として多数の人命を救ったこの橋も、1977年に現在の斜張橋に架けかえられ、旧橋の一部は、博物館明治村に保存されています。
溜池は池だった
溜池は江戸時代が始まって間もない1606年に浅野幸長が江戸城外堀として築造したとも伝えられますが、もともと四谷方面から流れていた川の水が自然に滞留する沼地だったのでしょう。
自然のままでは汐が逆流する可能性もあったことから、堰を造って溜池とし、上水の確保にも利用しました。ダムから勢いよく溢れ出る水が流れる下流は汐留川と呼ばれるようになり、汐留は現在は かつて河口があった付近の地名になっています。
明治8年(1875)の東京第二大区小区分絵図ではしっかり水を湛えた池が描かれています。池の下手にある工学寮が1877年に工部大学校に改称されたのですから、工部大学校を建設するために溜池が埋め立てられたわけではありません。
余談ですが、
工部大学校址碑は会計検査院の横にあります。その敷地は、ここから文部科学省、霞が関ビル、更には現在の外堀通りの向う側に及んでいた日向延岡藩内藤家の上屋敷跡です。溜池から外堀に落ちた水は延岡藩邸に沿って左折し、虎の御門の前で右折し新橋に向いました。商船三井ビルと虎の門三井ビルのL字形配列は、この左折した外堀の跡です。現在の道路は鍵の手を避けて特許庁前(溜池の跡)から虎ノ門交差点へとカーブしているので、千代田区霞が関三丁目の一部が外堀通りの右側(港区側)に取り残されています。(実は、ここにかつてhmtの職場があったのです。)
それはさておき、
人文社の「明治の東京」(1996)p.60には、明治10年に堰の石を60cmほど除いたら、あれよあれよという間に干上がって、池が小川になってしまったと記されています。
というわけで、明治16年参謀本部測量の5千分一図ではここは湿地になっています。明治20年に埋め立てられました。
昭和になってからここに地下鉄が通りましたが、やはり溜池の跡は地盤が悪かったようで、営団は溜池山王駅開設の前に、地下構造物を造り直す大規模改良工事を行なったようです。
弁天島は陸続き…東側からの参道…19世紀の時点ですでに「池中参道」があったようにうかがえます。
[32193]hmtでリンクした
不忍池の最後の項目には「寛文の末(1670)に陸道が築かれ、木橋が架けられ」と記されています。
ア!
[33170]KMKZさんが既にレスしておられましたね。
東側からの参道は17世紀から存在したのですが、架橋なので陸続きではないと考えています。
[32231]は西側からの長い「池中参道」についての疑惑に答えたものですが、短い東側についても同様である旨、言葉を添えておくべきだったかもしれません。