[14611] special-week さん
[14722] ありがたき さん
「江戸の範囲」については,タイトルのような有名な川柳があります。
「かねやす」というのは当時有名な商店の名前で,1986年当時も化粧品・小間物屋として営業中だったそうです(平凡社『アトラス東京 -地図でよむ江戸~東京』,1986年)。だいたい,現在の本郷3丁目交差点のあたりですね。
一般的な認識としては,中山道口の「かねやす」に加えて,甲州街道口の「四谷大木戸」(現四谷4丁目交差点),奥州街道口の「小塚原」(骨ヶ原;現大関横町交差点=地下鉄三ノ輪駅付近),東海道口の「高輪大木戸」(札の辻=現三田3丁目)あたりが「江戸の極まり」というところだったのではないでしょうか。
江戸時代の行政機構というのは,近代以降の行政システムとは根本的な部分から違う原理で営まれていたので,現代の「東京都」なり「23区」なりと同じ感覚で「江戸の範囲」を規定することはできません。
さしあたり,江戸の「町人町」の区域は「(江戸)町奉行」の管轄,郊外の農村部は「勘定奉行」の管轄,という区分があるわけですが,このあたりの線引きは必ずしも体系的ではない。場合に応じて,かなりの異同があったようです。
「江戸」の市街地内でも,お寺や神社の境内は「寺社奉行」の管轄であり,旗本・御家人屋敷は「目付」の支配,大名屋敷は大名自身を介して「大目付」の管轄,というわけで,一体的・一円的な行政が行われていたわけではありません。
「町」というのは本来,町奉行支配下の町人町の区域での「自治」単位の呼称でした(だから,町人町ではなかった武家屋敷地区には「町名」がなかったのです)。
そのようなわけで,「江戸の範囲」というのは時により場合により,さまざまに変動するものでした。
…といっても,それではあまりに不便なので,江戸時代後期になると「江戸の範囲」をある程度確定しておこう,という動きが生じます。
そうして指定されたのが
[14722] で ありがたき さんが紹介されている「朱引き内」であり,「墨引」という線でした。
1989年に東京都が発行した「江戸復元図」によれば,1869(明治2)年の「朱引き線」は,以下の点を通過しています(*印は現在の地名)。
芝札の辻~麻布三之橋~麻布仙台坂~*日赤病院下交差点~*青山学院大学キャンパス~*青山通り~*外苑前交差点~*神宮外苑西縁~*新宿御苑東縁~*市谷富久町交差点~*靖国通り~*市谷住吉町交差点~*地下鉄若松河田駅~*大久保通り~*牛込若松町交差点~*地下鉄早稲田駅~*都立新宿山吹高校~江戸川橋~護国寺外縁~*不忍通り~*千石2丁目バス停~*白山下交差点~*白山1丁目交差点~*日本医大病院南縁~*藪下通り~*団子坂上交差点~*谷中小学校角~*日暮里駅~*下谷柳通り交差点~*千束1丁目交差点~*西浅草3丁目交差点~*浅草馬道交差点~*東浅草1丁目交差点~山谷堀~吾妻橋~北十間川~横十間川~小名木川~大横川~仙台堀川~富岡八幡宮外縁~永代橋
…というわけで,品川宿や内藤新宿(新宿)はもちろん,巣鴨や駒込,新吉原(千束)や洲崎(東陽町)の遊郭や岡場所までもが「江戸の外」なのですね。佃島や石川島も「朱引き」の外なのですが,ここは別扱いだったのでしょう。
江戸,というよりも「東京」の範囲がある程度確定するのは明治維新後,「大区・小区制」を経て1878(明治11)年の郡区町村編制法で「東京15区」の範囲が定められてからのことです。
このときの「15区」の外縁は,1889(明治22)年の「市制・町村制」施行による「東京市」の外縁よりもかなりの凹凸のあるものでした(「15区」の外縁は概ね“朱引き線”よりも外側を通過しています)。
たとえば,市制施行後の「東京市深川区」は横十間川をもって南葛飾郡下の亀戸・大島・砂各村に境することになるのですが,それ以前の「深川区」は竪川や小名木川に沿って東へ延びる区域がある一方,横十間川の西側にも「南葛飾郡」に属する村が存在していました。
下谷の根岸や谷中,牛込と早稲田,青山と渋谷の境界や麻布の外縁についてもかなりの出入りがありました。
したがって,「東京市」の各区を編成するにあたって,旧15区の範囲がそのまま継承されたわけではなく,“郡部”に属していた村々の一部が「東京市○○区」に編入される一方で,「東京市」の範囲からはみ出た「旧○○区」の一部は反対に周辺の郡部各町村に編入されています。
そのような意味では,「東京」の範囲が明確に固定化したのは,ようやく1889年の市制施行時点ということになるのかもしれません。