133年前1871年12月25日、関東地方各県(の前身)が発足しました。
この年、明治4年7月の廃藩置県で生まれた飛地だらけの3府302県を、おおむね郡単位にまとめて、3府72県の新しい行政区画を作る作業は、10月28日の群馬県から始まり、約1ヶ月かけて全国に及びました。
このうち、関東地方の分が11月14日に布告されています。約1年後の1873年から採用された新暦にあてはめると冒頭の日付になりますが、埼玉県の「県民の日」は旧暦表示の11月14日になっています
[21976]。
この太政官布告により、関八州プラス伊豆の9ヶ国に 東京府・足柄県・神奈川県・入間県・埼玉県・木更津県・印旛県・新治県・茨城県・栃木県・宇都宮県が設置されました。
一足先に発足した(第1次)群馬県を加えた1府11県が、現在の県につながる行政区画として成立したわけです。
さて、「目でみる埼玉百年」(埼玉県1971)という本を見ていたら、p.14にこの太政官布告などの写真(部分)が出ていました。
そこで、布告文を読みながら、埼玉県の生まれた頃(1871~1876年)の関東地方を振り返ってみました。
なお、関東地方の県域や県名に触れた過去記事は、Issieさんの
[1644][18896][19025][24127]、両毛人さんの
[16764]、hmt
[20917]などがあります。
[10577]には統合分割の歴史が県の順番に影響を及ぼした事例が示されています。
太政官日誌明治四年第九十三號(1871年)
〇辛未十一月十四日
御布告書寫
今般関八州群馬縣ヲ除クノ外并ニ伊豆國従来ノ府縣被廃更ニ左之通府縣被置候事
〇埼玉縣(注:サイタマと振り仮名。古墳群のサキタマと読み方が違うためでしょう。) 縣廳 岩槻
武蔵國 埼玉郡 葛飾郡ノ内 足立郡ノ内
この県を構成する3郡のうち、葛飾郡は印旛県を主体として3府県にまたがる大きな郡のほんの一部にすぎず、南隅の足立郡も東京府とまたがる地域であり、当時の県の中心地域は埼玉郡でした。この時点では「埼玉縣」の名称も、「県廳岩槻」も妥当です。
発足当初の県庁組織は、庶務・聴訟(裁判も県の仕事でした)・租税・出納の4課で、定員は50人程度というから、人口(43万人)1万人あたり 1.2人となります。現在、埼玉県知事の事務を補助する一般職員の定数は8016人となっていますから、人口1万人あたり 11.4人。約10倍になっています。
なお、岩槻には県庁舎として適当な建物がなかったので、旧浦和県庁舎を仮に使いました。
1876年には荒川西側の旧入間県の領域を併合するなど、埼玉県の中心地域が移動したこともあり、埼玉県発足から19年も経過した後の1890/9/23、足立郡の浦和がそのまま正式の県庁所在地になってしまいました
[22470][20917]。
当時の埼玉県は、およそ現在の埼玉県の東部3分の1で、荒川の西側は入間県でした。入間県の西部は秩父の山地で、面積では勝るものの、人口(41万人)や石高(約40万石)では埼玉県と同程度の県でした。
〇入間縣(注:振り仮名なし) 縣庁 川越
武蔵國 横見郡 入間郡 秩父郡 男衾郡* 大里郡* 榛澤郡* 賀美郡# 幡羅郡* 比企郡 新座郡 那賀郡# 児玉郡# 高麗郡 多摩郡ノ内
1896年の郡制により大里郡*や児玉郡#に統合されて消滅した北部の小さな郡の名が見えます。(横見郡は比企郡に、高麗郡は入間郡に統合)。