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[20917] 2003年 10月 12日(日)13:58:51hmt さん
埼玉にない埼玉県庁
[20742]ズッキー さん
明治22年の合併まで、岐阜町に県庁が無いのに、岐阜県と名乗っていたんですね!昔の人はおおらかだったのかな?他にもそんな県庁所在地があったんでしょうか?

岐阜県庁の場合は、暫定的な笠松から1年余で岐阜郊外の今泉村に移った時点で実質的な所在地と看板とが一致したと考えても良いのではないでしょうか。

「看板に偽りあり」が永続したのは埼玉県庁です。埼玉郡岩槻町に置く予定で命名された埼玉県庁は、暫定的に足立郡にあった旧 浦和県庁を利用して1871年発足しました。1876年に県域が西側(旧入間県域)に拡張したことや、1883年に日本初の私設鉄道として上野―熊谷間が開通した鉄道路線を考えると、県庁が岩槻に移転せずにそのまま浦和に居座ったのは、正しい判断だったと思われます。しかし、浦和定着の時点で看板を浦和県又は足立県に改めることはありませんでした。
県庁の移転に先立ち金沢県から石川県(郡名)に改称して「看板の偽り」を避けた例もあるのに、埼玉県が名実不一致のまま現在に至ったのは、“できるだけ早めに…”という発言がなかったせいですかね(笑)。
100年以上放置された名実不一致は、2001年に埼玉郡域でないところに「さいたま市」という僭称地名を誕生させてしまった原因にもなりました。

神奈川県庁も神奈川宿や現在の神奈川区の領域に存在したことはないようですが、この場合は少し複雑な事情があるようです。
安政5年(1858)の日米修好通商条約で開港を約束した5港のひとつは「神奈川」でしたが、幕府は警備上の理由から開港場を横浜村に変更し(警備区域内であったことは「関内」という地名に残されています)、外国に対しては「横浜は神奈川の一部である」という強引な論理で押し通しました。
幕府から新政権に引き継がれた神奈川奉行所は、慶應4年(1868)3月19日に横浜裁判所、4月20日に神奈川裁判所、6月17日に神奈川府、9月8日の改元を経て明治元年9月21日に神奈川県と慌しく改名されました。樋口雄一氏 http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/401_1.html によると、神奈川府の前には慣用的に横浜県の名もあったようです。
3月に横浜裁判所を名乗りながら翌月には神奈川裁判所という朝令暮改ぶりから、“開港場は横浜”と認識していた日本の新政府が、前政権が締結した条約の手前、対外的には“ここは神奈川”で押し通さなければならないことに気付き、慌てて改名した事情を読み取ることができます。
すなわち、神奈川県庁(神奈川裁判所はIssieさんの説明[229]のように行政機能を持ち、県庁の前身と言えます)は、実質的には神奈川宿の地域にはなかったものの、形式的には「横浜をその一部として含む(ご都合主義で設けた)仮想的神奈川」に存在していたということになるのでしょうか。
[22470] 2003年 12月 2日(火)22:07:17hmt さん
建物があったから県庁が来た + 色々なバス
[22449]夜鳴き寿司屋 さん
明治期の県庁移転の理由が三重県などのように県庁に使用できる大きな建物
埼玉県は当初は岩槻に県庁を設置する予定で県名も埼玉郡から付けられた
その通りです。明治4年(1871)7月の廃藩置県後、同年11月に全国的な県の統合があり、埼玉県もこの時に誕生しました。[21976]参照。現在の埼玉県東部約3分の1の地域、江戸川の少し西にある 庄内古川=昔の渡良瀬川 から荒川までの間です。県庁の位置は この県域の中心を占めた埼玉郡の岩槻町とされ、県名もこの郡名によりました。
しかし岩槻には庁舎として適当な建物がなく、浦和宿の旧浦和県庁舎を仮に使いました。

埼玉県の県域はこの後で 東は江戸川まで(1875)、西は 荒川から秩父までの 旧入間県の範囲に拡大し(1876)、明治23年(1890)9月23日に 浦和が正式に埼玉県庁の位置になりましたが、県の名は埼玉のままでした。これが「埼玉にない埼玉県庁」のいわれです。[20917]参照。

[22435] EMM さん
北陸鉄道バスは「赤バス」、国鉄バス(当時)は「青バス」
むかしむかし 東京市営は「黄バス」、東京地下鉄道 (1938年に東京乗合自動車を合併) は「青バス」でした。戦時交通調整により 市営>都営バスに統合。
「銀バス」とか 車体の色を付けた呼び名は各地にあると思います。
[36047] 2004年 12月 25日(土)13:48:18hmt さん
埼玉県の生まれた頃(1)―今般関八州(中略)府県被置候事
133年前1871年12月25日、関東地方各県(の前身)が発足しました。
この年、明治4年7月の廃藩置県で生まれた飛地だらけの3府302県を、おおむね郡単位にまとめて、3府72県の新しい行政区画を作る作業は、10月28日の群馬県から始まり、約1ヶ月かけて全国に及びました。
このうち、関東地方の分が11月14日に布告されています。約1年後の1873年から採用された新暦にあてはめると冒頭の日付になりますが、埼玉県の「県民の日」は旧暦表示の11月14日になっています[21976]

この太政官布告により、関八州プラス伊豆の9ヶ国に 東京府・足柄県・神奈川県・入間県・埼玉県・木更津県・印旛県・新治県・茨城県・栃木県・宇都宮県が設置されました。
一足先に発足した(第1次)群馬県を加えた1府11県が、現在の県につながる行政区画として成立したわけです。

さて、「目でみる埼玉百年」(埼玉県1971)という本を見ていたら、p.14にこの太政官布告などの写真(部分)が出ていました。
そこで、布告文を読みながら、埼玉県の生まれた頃(1871~1876年)の関東地方を振り返ってみました。

なお、関東地方の県域や県名に触れた過去記事は、Issieさんの[1644][18896][19025][24127]、両毛人さんの[16764]、hmt[20917]などがあります。[10577]には統合分割の歴史が県の順番に影響を及ぼした事例が示されています。

太政官日誌明治四年第九十三號(1871年)
〇辛未十一月十四日
御布告書寫
今般関八州群馬縣ヲ除クノ外并ニ伊豆國従来ノ府縣被廃更ニ左之通府縣被置候事
〇埼玉縣(注:サイタマと振り仮名。古墳群のサキタマと読み方が違うためでしょう。) 縣廳 岩槻
武蔵國 埼玉郡 葛飾郡ノ内 足立郡ノ内

この県を構成する3郡のうち、葛飾郡は印旛県を主体として3府県にまたがる大きな郡のほんの一部にすぎず、南隅の足立郡も東京府とまたがる地域であり、当時の県の中心地域は埼玉郡でした。この時点では「埼玉縣」の名称も、「県廳岩槻」も妥当です。

発足当初の県庁組織は、庶務・聴訟(裁判も県の仕事でした)・租税・出納の4課で、定員は50人程度というから、人口(43万人)1万人あたり 1.2人となります。現在、埼玉県知事の事務を補助する一般職員の定数は8016人となっていますから、人口1万人あたり 11.4人。約10倍になっています。

なお、岩槻には県庁舎として適当な建物がなかったので、旧浦和県庁舎を仮に使いました。
1876年には荒川西側の旧入間県の領域を併合するなど、埼玉県の中心地域が移動したこともあり、埼玉県発足から19年も経過した後の1890/9/23、足立郡の浦和がそのまま正式の県庁所在地になってしまいました[22470][20917]

当時の埼玉県は、およそ現在の埼玉県の東部3分の1で、荒川の西側は入間県でした。入間県の西部は秩父の山地で、面積では勝るものの、人口(41万人)や石高(約40万石)では埼玉県と同程度の県でした。

〇入間縣(注:振り仮名なし) 縣庁 川越
 武蔵國 横見郡 入間郡 秩父郡 男衾郡* 大里郡* 榛澤郡* 賀美郡# 幡羅郡* 比企郡 新座郡 那賀郡# 児玉郡# 高麗郡 多摩郡ノ内

1896年の郡制により大里郡*や児玉郡#に統合されて消滅した北部の小さな郡の名が見えます。(横見郡は比企郡に、高麗郡は入間郡に統合)。


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