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[57479] 2007年 3月 30日(金)20:06:5188 さん
戸長・戸長役場について
「先入れ先出し」で投稿しておりますのでご了承を・・・・。

[57439] 紅葉橋律乃介 さん
いつもありがとうございます。
「戸長役場」・・・(中略)・・・他の府県がどうだったかは分かりませんが、北海道では一つの役場が複数の村を所管していました。

「戸長」は、明治4年4月の戸籍法によって地方に区が設けられ、政府の当初の意図としては「戸籍事務だけの取扱者」として戸長・副戸長が置かれたのが始まりでした。次第に従来の庄屋・名主・年寄等と権限が競合するようになり、また、地方によっては区に大小の区別をつけ、大区がいくつかの小区を包括するところも出てきました。このため、庄屋等を戸長・副戸長と改称し、土地人民に関する事件一切を取扱うようになり(M5.4.9太政官布告第117号)、また、大区に区長、小区に副区長を置くようになりました(M5.10.10大蔵省布達第164号)。

このように大区・小区制度は変化していったのですが、あまりに旧来の地方の実態と断絶していたためにいろいろな問題を生むようになりました。
第一に、従来の町村と無関係に設定されたこと。M11.5の元老院会議での報告では、全国に大区907、小区7,699、このとき町村数80,000余、また郡は717。大区と郡が一致しないところがかなりありました。
第二に、従来の町村役人は、「行政機構の末端」「町村という団体の代表者」という二つの役割を持っていましたが、大区小区制の区長・戸長は「行政機構の一員」との面だけが強調されたことです。区長・戸長の任命方法については定めがなく、次第に官選が一般的になり、人選は従来庄屋等を務めたような階層が選ばれることも多かったのですが、中には地区外の者が任命されることさえあり、区長・戸長が町村を越えた区域におかれたこともあって一般住民から切り離された存在になっていきました。そして、旧来の町村は、行政単位としての性質を失って小区の中に埋没していきました。ただし、これらは制度の変更だけであり、生活共同体としての町村は実態として存在していました。また、地租改正、徴兵、徴税、戸籍調査などの行政の実施にあたっては、結局この実体としての団体である町村を通じて遂行せざるを得なかったのが実態でした。

このように、藩体制を否定して、中央から派遣された地方長官の下で大区・小区という人為的な行政区画をおき、県令-区長-戸長といった官僚機構だけで行政を行おうとしたことは、地租改正、学制、徴兵制などの国民への新しい負担と相まって、不平士族の反乱や農民の反抗・一揆といった抵抗を引き起こしました。
このため、大区小区制を廃止して、古来からの郡町村を復活させて地方行政の単位としようとしたのが、三新法の一つM11年の「郡区町村編制法」の立法の趣旨でした。
第六条 毎町村ニ戸長各一員ヲ置ク又数町村ニ一員ヲ置クコトヲ得
このとき、当初の政府原案では第六条は「毎町村ニ『総代トシテ』戸長一人ヲ置ク」(『 』は88が追加)で、町村は「純然たる自治体とし、国の行政区画たる性質は与えない」というものでした。その後、元老院で上記条文に変更されたことにより、町村は「行政区」の性格もあわせもつことになり、戸長も「行政事務ニ従事スルト其町村ノ理事者タルト二様ノ性質ノ者」(郡区町村編制府県会地方税両規則施行順序 明治11年太政官番外達)と、「町村の理事者であるとともに、国の出先機関たる性格」をもあわせもつようになりました。この行政事務従事者としての戸長は、県令-郡長-戸長のルートで監督を受けることとなり、これがその後の「機関委任事務」の起こりでした。
しかしながら、府県と市町村が純然たる国の行政区画ではなく、「地方団体」としてその存立を認められることとなったのは、わが国の地方自治制度にとって画期的なことでした。

話は戻って、「郡区町村編制法」の第六条「数町村ニ一員ヲ置クコトヲ得」とあるように、狭小町村は数町村連合して一戸長役場を置くことが認められていた、ということです。
例えば当地香川県では、明治11年(当時は愛媛県)現在で83町401村島に対し、戸長役場数は313で、いくつか兼ねていたことがわかります(「香川県史 第五巻 通史編 近代I」(昭和62年 編集・発行:香川県)に引用されている「明治十一年愛媛県統計表」「愛媛県郡区町村一覧」)。
また、参考までに郡役所も概ね2郡をまとめて1箇所にありました(この単位で明治32年に郡を再編)。当時はすべて・それぞれに設置するほどは体制整備は追いついていなかった(そこまでの必要もなかった?)、というところでしょうか。
M17年には、「戸長管区制の拡大」がなされ、戸長官選、戸長役場管轄区域の拡大等の改正が行われました。結果的に、この拡大された戸長役場の管轄区域が、明治の大合併で誕生する町村となった例も多くありました。

このため全国にも同様の例は多いと思いますが、北海道の場合は他県とは歴史も、1町村の規模も異なりますので、とりわけ戸長役場の所在も複雑なのかもしれません。
 このかなりややこしい管轄区域の変遷も、やはり「市町村変遷情報」に反映する…ことは可能でしょうか?
全国的な調査もおそらく困難ですし(調べるとすると各県史が一番作業しやすいかも)、将来構想、ということではいかがでしょうか?
#まして北海道や沖縄は他の地域とは歴史・制度が異なる点が多いので、別の考え方をしたほうがよいのかもしれません(以前にも私も触れたかもあしれません)。

参考文献:「地方自治百年史 第一巻」(編集:地方自治百年史編集委員会、発行:地方自治法施行四十周年・自治制公布百年記念会、発売:財団法人地方財務協会)
[58214] 2007年 4月 30日(月)08:27:45【1】88 さん
「府藩県一般戸籍ノ法」、大区小区制などについて
[57479]拙稿でも市制・町村制以前の明治初期の市町村制度については触れたのですが、拡充版です。
全国に同じ制度を導入したものの、(後年の市制・町村制と同様に)施行の時期は異なるものも多いようですが、香川県の例を併記してみました。各地域によって異なる部分があれば、置き換えてみていただけると幸いです。
参考文献
「地方自治百年史 第一巻~第三巻」平成4年3月30日発行、地方自治百年史編集委員会編集、地方自治法施行四十周年・自治制公布百年記念会発行、財団法人地方財務協会
「香川県史 第五巻 通史編 近代I」昭和62年3月30日発行、編集・発行:香川県、四国新聞社
「香川県史 第十一巻 資料編 近代・現代資料I」昭和61年2月28日発行、編集・発行:香川県、四国新聞社

年月日事項香川県の例
(1)M4(1871).4.4太政官布告第170号「府藩県一般戸籍ノ法」
(2)M4(1871).7.14廃藩置県
(3)M4(1871)11.15第一次香川県設置
(4)M5(1872).2.1「府藩県一般戸籍ノ法」実施
(5)同上「区」設置第一区~第八十八区
(この頃次第に)(地方によっては区が大区・小区に移行)
(この頃次第に)(従来の庄屋等と戸長との権限の競合の問題)
(6)M5(1872).4.9太政官布告第117号(詳細は下記)
(7)M5(1872).5.3「大里正・里正・年寄」の制廃止
同上「戸長・副戸長・村役人」設置
同上「戸長職掌大概」制定
(8)同上区の区画改正(小規模、総数は変わらず)
(9)M5(1872).10.10大蔵省布達第164号(いわゆる大区小区制、詳細は下記)
(10)M6(1873).2.20香川県は名東県(阿波国、淡路国)に編入
(11)M7(1874).2.13大区区画編成:第十三大区~第二十四区
(12)M7(1874).2.20小区区画編成:五十七小区
(13)M7(1874).4.23小区の改編:五十五小区
(14)M8(1875).9.5名東県から分離、第二次香川県発足
(15)M8(1875).9.25大区名改称:第一大区~第十二大区
(16)M9(1876).8.1大区区画改編十二大区を七大区に(小区はほぼ従前どおり)
(17)M9(1876).8.21香川県を廃し、愛媛県に編入
(18)M9(1876).9.14大区名改称:第一大区~第七大区(順序入替)
(郡区町村編制法以降については別稿にて)

(1)(4)(5)(8)
太政官布告「府藩県一般戸籍ノ法」
版籍奉還、廃藩置県と、府県段階の中央集権化が推進されたあと、明治政府は、従来まちまちであった町村の区画及び統治機構にも、中央集権化の方向に沿った改編を行っていきます。
そうしたなかで、「府藩県一般戸籍ノ法」、いわゆる「戸籍法」が布告されます。構成は全文三十三則と附録から成ります。
第一則では、「臣民一般其住居ノ地ニ就テ」として、(従来の族属身分別ではなく)住居主義の戸籍編成を採用しています。実施は翌M5(1872).2.1からとされ、この年が干支では「壬申」にあたることから「壬申戸籍」と呼ばれ、M19(1886)年の全面改定まで引き継がれました。
また、「各地方土地ノ便宜ニ随ヒ予メ区画ヲ定メ、毎区戸長並ニ副ヲ置キ、長並ニ副ヲシテ其区内戸数人員生死出入等ヲ詳ニスルヲ掌ラシムヘシ」と、「区画」を定め、戸長と副戸長を置くように規定されています。これが、「区」です。
第二則では、「但戸長ノ務ハ是迄各所ニ於テ荘屋名主年寄触頭ト唱ルモノ等ニ掌ラシムルモ、又別人ヲ用イルモ妨ゲナシ」とあります。戸長は旧来の村役人が任命される場合が多かったのが現実でした。
第三則では、「一府一郡ヲ分ケ何区或ハ何十区トシ其一区ヲ定ムルハ四五町モシクハ七八村ヲ組合スヘシ、然レトモ其小ナルモノハ数十ニ及ビ、大ナルモノハ一二ニ止ムルモ、都テ其時宜ト便利トニマカセ妨ケナシ」とあり、区画の広さに一応の標準を示してはいますが、地域の実情による編成を許容しています。
区は、「府藩県一般戸籍ノ法」の施行のM5.2に設置されました。
香川県の例では、区は第一区~第八十八区まで設置され、「八十八区制」とも呼ばれました。同年M5(1872).5には早くも一部で区画改正が行われました(増減はあるが計八十八区は変わらず)。
戸長らは、「戸籍事務だけの取扱者」としておかれました。土地人民に関することは従来どおり庄屋・名主・年寄等が取扱いました。次第に権限が競合するようになり、また、地方によっては区に大小の区別をつけ、大区がいくつかの小区を包括するところも出てきました。

(6)(7)
M5(1872).4.9付け太政官布告第117号は、旧来の荘屋(庄屋)、名主、年寄等をすべて廃止して戸長・副戸長と改称し、戸籍事務以外にも土地人民に関する事件一切を取扱わせる旨の通知です。
「戸長職掌大概」では、戸長の職務を定めたものです。以下に記します。
 一 政令の布達と施行、村民への解説
 一 戸籍調査、人口増減と牛馬数の調べ
 一 正租・雑税の徴収
 一 郷校(学校)の開設と啓蒙
 一 孝子篤行者及び窮民の状況調査
 一 風紀の監督、矯正
 一 火災水害の救助
 一 荒蕪地の開墾と植栽
 一 堤防の修築
 一 村役人の監察
 一 郡村入費明細の記帳
また、副戸長は戸長を補佐し、村役人は各村に設置され戸長・副戸長の指揮に従って各村の事務を遂行するもの、と規定されています。
従来、寄合で決めていた村の自治に関する事項は少なく、中央政府や地方長官の命をうけて、県の行政事務を分担執行する任務が主でした(村落自治の理事者というよりも国政や県政事務を分担する末端行政官)。

(9)
M5(1872).10.10付け大蔵省布達第164号は、「大区小区制を原則とする」旨の通知です。各地方土地の便宜により、大区に区長、小区に副区長等を置くという原則とするもので、既に地方で事態が進行したものを、中央政府が追認した例です。こうして、県からの布達の取扱いや町村本来の事務に及んでくるようになると、当初戸籍編成のために設置された区がいつしか普通行政区画に変わってきました。
大区小区制の導入の理由もいくつかありますが、主たる理由としては次のものが挙げられます。
・ 政治的配慮
 戸籍作成のみならず徴兵制の実施、学校の設立、地租改正の前提としての地券発行業務等、戸長の行政事務はますます多端となり、県-区の二段階の行政区画では対応しきれなくなり、県の行政事務を補佐し小区を監督する大区の設定が必要となり、県-大区-小区の三段階行政区画が導入
・ 地理的・財政的配慮
 戸数及び石高をできるだけ平均化するとともに、多端な行政事務の負担に応じうる財政能力のある地方行政区画を編成

(16)
「大区小区の区画改編」は、内務卿大久保利通に提出された「大区画合併及大小区長職制章程等ノ儀ニ付伺」によるものです。方針としては、従来の郡ごとに一大区を置き「事務取扱来候処、実際不都合ノ廉不尠候ニ付、篤ト熟慮ノ上」、改編するものです。
5戸=1伍
5伍=1組(組長を置く)
12組(=300戸)=大組(戸長兼書記を置く)
10大組(=3,000戸)=1小区(小区長を置く)
8小区(=24,000戸)=1大区(大区長を置く)
を目安としましたが、実際には、現香川県では、1小区あたりの平均戸数は2,059戸となりました。平均石高は5,802石であり、5,000石台に58%、6,000石台をあわせると92%にのぼります。
八十八区制の編成が一定数の戸数(1,200~1,600戸程度)を基準にして同一郡内の村を機械的に組み合わせていたことに対し(M4(1871).7.4太政官達郷村定則では概ね1,000戸程度を想定)、「小区編成の基準を戸数から石高へ」変化させました。
[58394] 2007年 5月 8日(火)22:29:5688 さん
郡区町村編制法について
[58214] 拙稿 「『府藩県一般戸籍ノ法』、大区小区制などについて」の続きです。郡区町村編制法以降、市制・町村制の直前までです。
参考文献は[58214]と同じです。

年月日事項香川県の例
(19)M11(1878).7.22「郡区町村編制法」公布
(20)M11(1878).12.16郡区町村編制法適用
(21)M11(1878).12「戸長職務心得」
(22)M17(1884).12.25太政官布達第204号(連合戸長役場区域の拡大等)
(23)同上愛媛県大書記官甲第207号同上布告
(24)M18(1885).1.15同上施行

(19)(20)
従来の大区小区制(当時は全国に907の大区と7,699の小区があった)は「制置宜シキヲ得ザルノミナラズ、数百年慣習ノ郡制ヲ破リ、新規ニ奇異ノ区画ヲ設ケタルヲ以テ頗ル人心ニ適セズ、又便宜ヲ欠キ人間絶テ利益ナキノミナラズ、只弊害アルノミ」(「地方体制三大新法理由書」)と反省されました。郡区町村編制法の主旨は、
 第一 大小区ノ重複ヲ除キ以テ費用ヲ節ス
 第二 郡町村ノ旧ニ復シ良俗ニ便ス
と、伝統的な町村自治・良俗を容認しながらも、
 第三 郡長ノ職任ヲ重クシ以施政ニ便ス
であり、町村及び戸長に対する郡長の監督的権限を強化することを忘れませんでした(同)。

また、大区小区制では小区のもとに町村が埋没されがちでした。しかし共同体としての町村が不必要となって消滅したわけではなく、かつて町村内に関する協議事項、例えば年貢の割付、村入用費の勘定、村役人の選定、他村との貸借や訴訟、用水の配分、入会地の管理、祭礼の打合せ等を協議してきた寄合の制は廃され、町村共同事務は戸長の権限に吸収されました。にもかかわらず、町村住民の協議・協賛なしに、戸長といえども一方的に町村事務を遂行することは困難になってきました。このため、寄合の制に代わるべきものとして、大区小区制期に「町村会議事仮規則」、三新法(郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則)のもとで「町村会規則」が制定されるようになったのも十分理由があったといえます。
――――――――――――――――――――――――――――――
「郡区町村編制法」明治11年太政官布告第17号(M11(1878).7.22布告)
郡区町村編制法左ノ通被定候条此旨布告候事
第一条 地方ヲ画シテ府県ノ下郡区町村トス
第二条 郡町村ノ区域名称ハ総テ旧ニ依ル
第三条 郡ノ区域広濶ニ過キ施政ニ不便ナル者ハ一郡ヲ画シテ数郡トナス(東西南北上中下某郡ト云カ如シ)
第四条 三府五港其他人口輻湊ノ地ハ別ニ一区トナシ其ノ広濶ナル者ハ区分シテ数区トナス
第五条 毎郡ニ郡長各一員ヲ置キ毎区ニ区長各一員ヲ置ク郡ノ狭少ナルモノハ数郡ニ一員ヲ置クコトヲ得
第六条 毎町村ニ戸長各一員ヲ置ク又数町村ニ一員ヲ置クコトヲ得
――――――――――――――――――――――――――――――
この第二条により大区小区が廃され、郡及び町村が行政区画として復活しました。
第六条の「数町村ニ一員ヲ置クコトヲ得」とあるように、狭小町村は数町村連合して一戸長役場を置くことが認められていました。
[57479]拙稿でも述べましたが、町村は「純然たる自治体とし、国の行政区画たる性質は与えない」とうのが当初案でしたが、元老院で変更され、、町村は「行政区」の性格もあわせもつことになり、戸長も「町村の理事者であるとともに、国の出先機関たる性格」をもあわせもつようになりました。

第四条の「区」(計33区)については、概ねその後の「市」にあたるものですが、これについては[7772] Issie さん が詳しいのでこちらをご参考に。この「区」の特徴は、
・ 例えば京都は「上京区」「下京区」の2区であり、この2区を総括する「京都市」の類のものは存在しなかった
・ 「区」は「郡」の外にあった
・ 「区」の中に「町村」を含んでいた
ということが挙げられます。つまり、言うなれば
・ 県-郡-町村
・ 県-区-町村
の2種類により県の行政体制が整備されたことになります。
ただし、「区」は自治体ですが、「郡」はこの時点では自治体ではありませんでした(後述)。

第三条の「郡」に関して。郡は、明治維新前においては、自治体ではなかったが一つの行政区画であり、「郡代」というような行政機関が存在していました。しかし、維新後は、大区小区制の実施によって行政区画たる性質も消滅し、単なる地理的名称に過ぎないものになっていました。この郡区町村編制法の制定により、再び行政区画たる地位を与えられることになりました。
(その後M23(1890)の郡制により「自治体」、T12(1923)の郡制廃止により再び「行政区画」となりますがこれはまた別稿にて)

香川県の例では、M13(1880)の香川県令の「県政引渡演説書」によると、郡町村編制に際し、「各町村ノ内従来名称ノ判然タラサル者アリシカ為メニ、既ニ分離シテ独立ノ実アル数村モ強テ之ヲ合セテ一村トナシ、或ハ又其実財産ヲ共有シ利害ヲ相同フスル一村モ強テ之ヲ二村トナシ」と、実情に合わない町村名も見られたようで、「是等ハ更ニ実際ニ就キ其名称ヲ正シ之ヲ確定シ、本年二月四日付ヲ以テ内蔵両卿ヘ申報セシ」とあります。県庁において町村の実情を掌握したのはM13(1880)初頭らしく、東西または上下を冠する町村においては、そのような分離又は統合の扱いを受けたことが想定されます。

(21)
「戸長職務心得」(M11(1878).12)第一項では、「戸長ハ官民両属ノ性質ヲ有スルモノニシテ、或ハ行政吏員トナリテ上旨ヲ庶民ニ通シ、或ハ町村ノ理事者トナリテ下情ヲ官府ニ達スルノ任」と、行政吏員と町村理事者の二つの任務がうたわれています。
しかし、町村限りの事務といえども、「町村戸長職務規則」第三条にあるように「戸長ハ郡長ノ監督ヲ受ケ行政事務ニ従事シ、及ヒ町村共同ノ事務ヲ弁理スルモノトス」とあり、郡長の監督を受けることには変わりはありませんでした。

(22)(23)(24)
M17(1884).12.25太政官布達甲第204号、及びその施行に関してです。
時代は自由民権運動も急進化の傾向を見せ、国政のよき協力者であった戸長及び地方民会の議員たちも、民選の戸長や議員であるために住民寄りとなり、このため、政府は半ば地方自治的な三新法の再検討を行い、官治的統制の強化を図る必要があると判断しました。
この趣旨から、先行してM17(1884).5の太政官布達では、従来の民選による戸長の選出(M11(1878)内務省乙54号達、「戸長はその町村住民においてなるべく公選させ、府知事県令より辞令書を手渡し、公選方法は地方適宜に定める」旨)ではなく、戸長の官選制が布達されました。そして、あわせて、従来の町村戸長役場を廃し、新たに広域の町村戸長役場管轄区域及び役場の所在村を示す区画編成が布達されました。この結果、平均5町村、戸数500戸を標準にして1戸長役場を置くことになりました。
この連合戸長役場管轄区域の拡大は、国政事務の負担に応じうるだけの一定水準以上の財政能力を持った行政区画をつくり出すことを目的としていました。財政能力を高めることによって、例えば「良戸長ヲ得ントスルハ本案ノ希望スル所」(M17元老院会議)というのもその現れでした。しかし他方で連合戸長役場区域の拡大は、村落共同体を超えたもっと広い地域から戸長を選ぶことであり、町村は下級行政単位としての地位を再び失うことを意味していました。結果は、従来の町村戸長と住民を結びあわせていた連帯意識に楔を打ちこみ、行政官としての性質を濃くした戸長をつくり出すことに成功したといえます。しかし、更にもう一方では、戸長役場管轄区域は単一の行政単位ではなく、数個の町村の連合体であって、町村にはそれぞれ町村総代人が置かれ、日常の事務をつかさどっていたのが現実ですが、このことは、従来の「むら」を超えた広域の行政村を目指しながらも、「むら」(自治村)の独自性には十分配慮をしていたという点で、三新法と来るべき町村制の過渡期に位置づけられる改正でした。
また、連合戸長役場管轄区域の拡大によって、町村会よりも連合町村会に実質的機能が移っていきました。このこともまた、行政村としての議案審議が主となり、自治村(「むら」共同体)が抱えている問題は従属的にしか取り上げられなくなりつつあることを意味していました。

M17(1884).12.25香川県(当時は愛媛県)「町村戸長役場管轄区域の編成」の例です。他の村も同様です。
―――――――――――――――――――――――――
甲二百九号
明治十八年一月十五日限リ従前ノ町村戸長役場ヲ廃シ更ニ町村戸長役場管轄ノ区域及ヒ役場ノ位置別紙ノ通相定ム
右布達候事
明治十七年十二月二十五日
         令 関新平代理 愛媛県大書記官 湯川彰

  大内郡
一 坂元村 南野村 馬宿村 黒羽村
 右四ヶ村ヲ一区域トナシ戸長役場ヲ馬宿村ニ置ク
(以下略)
―――――――――――――――――――――――――
[58627] 2007年 5月 23日(水)05:50:21【1】88 さん
市制・町村制について
[58214] 拙稿 「『府藩県一般戸籍ノ法』、大区小区制などについて」、[58394]「郡区町村編制法について」の続きです。
まず、引用ばかりですが、市制・町村制の背景及び趣旨を説明する、いい文章が続出していますので、ご容赦を。

参考文献
(1)「地方自治百年史 第一巻」平成4年3月30日発行、地方自治百年史編集委員会編集、地方自治法施行四十周年・自治制公布百年記念会発行、財団法人地方財務協会
(2)「香川県史 第五巻 通史編 近代I」昭和62年3月30日発行、編集・発行:香川県、四国新聞社

―――――――――――――――――――――――――
★その1 文献(1)より
(二重引用になる「  」は、山縣有朋談「徴兵制度及自治制度確立ノ沿革」(明治憲政経済史論、明治百年叢書 山縣有朋意見書 所収)です。
山縣原文(「  」内)はカタカナをひらがなに引用者(88)が置き換えました。(これだけで私にとっては随分読みやすくなりました。))
 江戸時代の町村の規模は、幕藩体制が下部単位に対して採った要請に基づいて成立していた。一言でいえば、その区域の要件は、年貢を請負ってそれを領主に確保する能力であった。そこでは村費において用排水関係の経費が大きなウエイトを占めていた。・・江戸時代の村は、・・・基本的には、一つの生産共同体であったということがいえよう。
 明治以降になると、町村費の中で、地方村役場関係の経費のウエイトが高まり、その中に地券、戸籍、徴兵等明治国家の形成に伴う政府関係の仕事が増えてくる。特に、学校関係の経費の増大が顕著になる。
 こうなってくると、江戸時代以来の生活・生産共同体的な村の規模では、これに対応が困難になってきた。・・・本格的な地方制度である市制・町村制の施行をひかえ、制度が要求する行政単位としては、従来の町村の規模では、人的能力も負担能力も十分でないと認識されるに至ったのである。
 このように、明治の大合併は、社会経済の発展による生活空間の拡大というような自然発生的な要因に基づくのではなく、明治国家の下部機構を担う行政単位としての能力の創出という行政便宜的な要因に基づくところにその大きな特色がある。
 この矛盾は、明治政府の当局者も認識していた。町村合併の強行には、政府部内にも金子堅太郎のように、将来実体が伴うようになってから自然な形で町村合併をすべきである、という意見を主張するものもいた。制度の創立責任者である山縣有朋自身が、後年、「従来より存在せる町村の区域を濫りに変更す」ることは、「恰かも数家を合併して団欒たる一家を造成するの不自然にして、好結果を奏し得さるが如く・・・数箇町村を併合して一町村と為すとも、其の町村民相協同して能く自治を為すこと極めて難かるへし、是れ寧しろ当然の懸念たり」と述べ、町村合併の強行は、「自然に発達し来りたる天然の部落を併合するものにして、暴断なるか如き観なきにもあらす」と評している。
 しかし、山縣も述べているように、「・・・・・当時全国町村の数七万に余り、小町村に至りては、僅かに三十戸又は四十戸を有するに過ぎす。今之に対して新町村制を適用するとも、其の実効を奏するは、炭火を擁して涼風を求むるの類たるへし。則ち多数の町村は、到底自治体として独立の能力を有せさること、瞭として※日を覩るよりも明かなり」という認識が、「新自治制を実施する為めには、町村の併合を為すの必要已むを得さるものあり」として、「日夜殫思し、終に意を決して百難を排し、新町村制の実施以前に於て、先つ町村併合の処分を断行することとした」のである。
(※は白+「激-さんずい」)
★その2 文献(2)より
これも、カタカナをひらがなに引用者(88)が置き換えました。
「今市制・町村制を設くるは、地方自治及分権の主義を実行するに在り。自治分権の法を施すは即立憲の制に於て国家の基礎を鞏固にする所以のものなり。蓋町村は自然の部落に成立ち、百端の政治悉く町村の事務に係らさるものなし。今や中央政府の制度を整理するに方り、之に先て地方自治の制を立てんとするは目下の急務なり。地方の制度整備せすして独先中央の組織を完備せんことを求むるは、決して順序を得たるものに非ざるなり。故に国家の基礎を鞏固にせんと欲せは、必先町村自治の組織を立てさるを得す。之を喩へは町村は基礎にして国家は猶家屋の如し。基礎鞏固ならす、家屋独能く堅牢なるの理ある可からす。且今憲法を制定せられ、国会を開設せらるヽも僅々一両年を出てさるの秋に方りたれは、益々地方制度の確立は一日も猶予す可からさるを見るなり」(亀卦川浩「明治地方制度成立史」)
★その3 文献(2)より
これも、カタカナをひらがなに引用者(88)が置き換えました。
M21.6.13各地方長官あて内務大臣訓令
町村制を施行するに付ては、町村は各独立して従前の区域を存するを原則となすと雖とも、其独立自治の目的を達するには、各町村に於て相当の資力を有すること又肝要なり。故に町村の区域狭小若くは戸口僅少にして、独立自治に耐ゆるの資力なきものは、之を合併して有力の町村たらしめさるへからす。
★その4 文献(1)より
「自治制定の顛末」大森鐘一述、内務省書記官 大森鐘一の回顧談
「・・・一面より見ると、廃藩置県よりは寧ろ此の二二年の町村合併こそ明治政府の英断といふことができるであろうと思ふ。・・・往昔から自然に存在して居った天然の部落を適宜に分合するといふことは、是れ亦容易ならぬことである。・・・調査の時日が少なく、実施の日が切迫して居って、今日より回想すると、俗にいふ盆と正月が一緒に来たような有様であった。」
―――――――――――――――――――――――――

さて、時系列的に触れます。参考文献は冒頭のとおりです。
年月日事項香川県の例
(25)M21(1888).4.17市制・町村制公布(官報は4.25付け)
(26)M21(1888).12.3第三次香川県設置
(27)M22(1889).4.1市制・町村制施行(35府県)
----26府県(31市)、9県(市なし)
M22(1889).5.1市制・町村制施行(2府県)
----東京府(東京市)、宮崎県(市なし)
M22(1889).6.1市制・町村制施行(1県)
----岡山県(岡山市)
M22(1889).7.1市制・町村制施行(2県)
----山梨県(甲府市)、岐阜県(岐阜市)
M22(1889).10.1市制・町村制施行(3県)
----愛知県(名古屋市)、鳥取県(鳥取市)、徳島県(徳島市)
M22(1889).12.15市制・町村制施行(1県)
----愛媛県(松山市)
M23(1890).2.15市制・町村制施行(1県)香川県市制・町村制施行
----香川県(高松市)

郡区町村編制法の後、戸長役場管轄区域の拡大や戸長官選制などは、官治的統制の強化という色彩の強いものでした。しかし、これは財政面など町村情勢の緊迫化に対する応急処置的な性格を多分にもっているもので、憲法を頂点とする国会体制の整備の中において、永続性をもつ体系的な地方制度がいずれは必要という認識は政府にもありました。
M15には憲法調査のためにプロイセン帝国に派遣された伊藤博文の取調項目の中に「地方制度ノ事」が含まれ、また、内務大書記官村田保による町村法草案(M17.5)、政府雇ルードルフによる町村法草案(M18~19頃)、内閣雇ドイツ人顧問ロェスレルの意見書(M19.10.23)、内閣雇ドイツ人顧問モッセの意見書(M19.7.22)など、さまざまな検討がなされてきました。M20.1.24付けで政府は「地方制度編纂委員」を任命し、山縣有朋内務大臣が委員長に就任しました。そして何度も案を作成し、修正を重ねた上で、M21.4.17に市制・町村制が公布されました。

市制・町村制を導入した理由は、冒頭の各引用でも触れたように、明治政府の方針としての、国家の基礎の創造というのが主たるものでした。
市制は、M22.4.1より、地方の情況を裁酌し、府県知事の具申によって内務大臣が指定する地に施行することに附則で定められていました。内務大臣は、M22.2.2内務省告示第1号で36箇所を指定したのを初め、同年中に数回に分け計40箇所を市制施行地に指定しました(このあたりの詳細はIssieさんのHPを参照してください)。
町村制は、M22.4.1より、地方の情況を裁酌し、府県知事の具申によって、内務大臣の指揮をもって施行すべきこと、また特別の事情がある地方では、勅令をもってこの上記を中止することがあること、北海道、沖縄県その他勅令をもって指定する島嶼には施行しないことが附則で定められていました。
これらの規定により、市制施行と同時に町村制が施行され、市制施行地を持たない県では町村制のみが順次施行され、M23.2.15の香川県で予定された全土の市制・町村制の施行が終わりました。
(最初の「市制」に関しては、落書き帳創成期(記事番号二桁時代!)にこんな議論もありました。)

「独立自治に耐ゆるの資力なき」町村は、合併によりその資力をつくり出すことが要求され、その規模は「大凡三百戸乃至五百戸を標準」とする基準が示されました。独立自治の目的を達しうる町村は分合を必要とせず、またM17年改正による「現今の戸長所轄区域にして、地形民情に於て故障なきもの」は戸長役場管轄区域のまま町村合併を進めるよう指示されました。
なお、合併された旧町村は新町村の大字となり、その大字の名称のまま現在に至っているものが数多くあるのは、既にご承知のとおりです。
[58745] 2007年 5月 30日(水)19:08:2488 さん
府県制・郡制について
[58214] 拙稿 「『府藩県一般戸籍ノ法』、大区小区制などについて」、[58394]「郡区町村編制法について」、[58627]「市制・町村制について」の続きです。
参考文献は[58214]と同じです。

年月日事項摘要香川県の例
(28)M23(1890).5.17府県制・郡制公布
(29)M24(1891).4.1郡制施行(青森県など9県)最初の郡制
(30)M24(1891).7.1府県制施行(長野県)最初の府県制
(31)M32(1899).3.16(新)府県制・(新)郡制公布
(32)M32(1899).7.1(新)郡制施行(東京府など5府県)45府県中最後の郡制香川県郡制施行
(33)M32(1899).7.1(新)府県制施行(東京府など7府県)45府県中最後の府県制香川県府県制施行

山縣有朋内務大臣の地方自治制の構想では、市制・町村制の制定のあとは、郡制・府県制の制定を目指していました。そもそも、市制・町村制の検討過程でも、郡制・府県制は同時並行で検討されていました。
M21(1888).9.25には第一次案が閣議決定され、元老院において検討されましたが、次のような根本に関わる批判が続出しました。
廃案説
・郡及び府県は元来行政区画で自治体ではないので郡制や府県制は無用
・府県や郡に自治を与えれば、国政にも自治を要求する勢いを生み遂には国体を破るに至る
時期尚早論
・憲法をはじめ各種重要法律が次々と施行されるじきに郡制・府県制までも施行すると混雑をきたすから市制・町村制の施行を見てからでよい
・市制・町村制すら今日の民度に照らして尚早だと考えられるのに、さらに広汎複雑な郡や府県に自治を与えるのは尚早
結局、この第一次案は廃案となりました。
M23(1890).1.21には第二次案が閣議決定され、元老院において検討されました。この第二次案では、相当自治的な色彩が後退し、府県・郡の法人性や条例制定権などは全面的に削除され、府県会の権限についても明示的に限定して縮小されました。そして、一部修正の上正式決定し、M23(1890).5.17に公布されました。憲法発布(M22(1889).2.11)には遅れましたが、第一回帝国議会開会(M23(1890).11.29)の半年前、第一回総選挙(M23(1890).7.1)の一箇月半前で、モッセや山縣有朋が強く望んだ、国会開設以前の地方制度成立は、かろうじて間に合いました。

府県・郡は、府県会や郡会を有していることもあり、一応「自治体」とは言えます(府県知事・郡長が府県・郡の首長とされています)。しかし、本来府県・郡は国の行政区画であり、これを管轄する府県知事や郡長(幹部職員なども)は、国の官吏(国の行政のためにおかれた官吏)です。このため、執行機関に関する規定の一部は、府県制・郡制ではなく、「地方官官制」(M19勅令第54号)にあります。このため、市や町村と比べると、自治体とはいえ、その権限はかなり制限されていました。

府県制は郡制を実施した府県に施行するものとされていましたが、当時の郡は、規模・区域ともに不ぞろいで、この分合を行ってからでないと郡制が施行できないというところにありました。
当時の郡の総数は、M11年郡区町村編制法以来716郡でしたが、小さなものは一郡一村のもの(福岡県席田郡ほか)から、大きなものは一郡で人口20万人を有するもの(新潟県中頸城郡)まであって、著しく大小不同であり、また、区域の錯綜しているものも少なくありませんでした。政府は、当初は全国一斉に郡制を実施するつもりで、M23の第一回帝国議会に郡の廃置分合に関する法案を提出しました。しかし、そもそも前述のとおり府県制・郡制の成立までが難産であり、また、同国会には府県制・郡制の施行延期の法案まで提出され(衆議院では可決されたが貴族院で否決されて未成立)、こういった背景からもこの郡の廃置分合法案は廃案になりました。
結局政府は、取りあえず問題のない府県から郡制を施行し、その間に適切な廃置分合について調査することに方針を変更しました。その結果、郡制はM24.4.1から郡の配置分合を必要としない府県から順次施行され、M29の第九回帝国議会でようやく郡廃置法案が成立しました。このため、大半の府県で郡制が施行されたのはM29.4.1以降で、府県制の施行はそれよりもさらに遅れたところが多かったのです。
府県制・郡制は、M32.3.16に改正・公布されました。施行はいずれもM32.7.1です。上記の年表で、(新)府県制・(新)郡制とあるのは、このものです。つまり、東京府などの5府県では、(旧)郡制は施行されることはなく、また、東京府など7府県では(旧)府県制は施行されることはありませんでした。既に(旧)郡制・(旧)府県制が施行されていた府県では、M32(1899).7.1をもって(新)郡制・(新)府県制が施行されました。(改正内容は省略)

なお、沖縄県、北海道及び島嶼は、別の制度であるため、説明を省かせていただきました。三大都市(東京市、京都市及び大阪市)については、hmt さんによる六大都市等の制度についてをご参照ください。

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これまで4回にわたり、明治初期の地方自治制度について投稿して来ました。これまでのものを総括して整理し、また、市区町村変遷情報への対応方法についての案を今後お示ししたいと考えています。
[59148] 2007年 6月 16日(土)08:40:28【1】88 さん
明治初期地方自治諸制度と、市区町村変遷情報での対応について
過去の一連の私の投稿「明治初期 地方自治制度の変遷について」を受けた、取りまとめ版です。

年月日制度府県区(*1)区(*2)町村
(江戸期)行政区画自治体
M元.閏4.21府藩県三治の制
M2.1.21他版籍奉還
M4.7.14廃藩置県行政区画
M5.2.1府藩県一般戸籍ノ法地理的名称行政区画
M11(1878).12.16郡区町村編制法行政区画自治体
M17(1884).12.25戸長役場拡大
M22(1889).4.1他市制・町村制自治体
M24(1891).4.1他府県制・郡制自治体自治体
T12(1923).4.1郡制廃止行政区画
T15(1926).7.1郡役所廃止地理的名称
S22(1947).5.3地方自治法
(*1)「府藩県一般戸籍ノ法」によるもの。区だけではなく、大区・小区を含む。
(*2)「郡区町村編制法」によるもの。「三府五港其人民輻湊ノ地」。なお、「区」の中に「町」「村」を含んでいた。

定義は、次のように考えています。
(A)自治体首長・議会が存在し、域内のことを自治的に決定する制度がある
(B)行政区画国の出先機関としての組織(現在では財務局や地方整備局を統合したものに相当)
(沖縄総合事務局のようなもの?)
(C)地理的名称(A)(B)に該当せず、ただ名称として呼称する
もちろん、いくつかの権能を兼ねていることも多いのですが、より権能の強い方で表記しました。(C)より(B)、(B)より(A)の方をもちろん優先しました。
なお、北海道・沖縄、島嶼、東京都制、三大都市等はここでは省略させていただきました。

上記の取りまとめは、私も少し自信がないところもあります。さらなるご教授をいただければ幸いです。そもそも、単純化は困難なのかもしれませんが。

さて、市区町村変遷情報で、どう取扱うか、です。
特に注目したいのは、「府藩県一般戸籍ノ法」(いわゆる「戸籍法」)の「区」(後に「大区」「小区」を含む。上記(*1))です。この「区」は自治体ではなく、あくまで「行政区画」です。この状態はM5年からM11年の短期間であり、また、江戸期以前からの長年に渡り使用されてきた「郡」は、この6年間ほどの間も現実には併用されていたようです(注)。また、[58214]拙稿 の年表中の(8)~(18)のように短期間に何度も区画・名称変更をしているようで、あまりにも複雑です。このため、市区町村変遷情報では、この「区」(大区、小区とも)は割愛させていただこうかと考えています。
現在の政令市の区は行政区画であり、郡は地理的名称なのですが、現在はこれらは位置づけも明確になされていますので(地方自治法なり条例なりで)、既に対象にしている、ということにしたいと考えています。
府県の変遷については、範囲が市町村と重なることもあり、取扱うとしても別メニューが適切だと考えます(やはり何らかの対応はしたいですが)。
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(注)
「香川県史 第十一巻 資料編 近代・現代資料I」(昭和61年2月28日発行、編集・発行:香川県、四国新聞社)にある、「大区編成並びに区長任命の達」(明治7年2月13日名東県権令から各区戸長あて)によると、
今般讃岐国各郡並小豆嶋ヲ大区ト相定別紙ノ通区長申付候
(中略)
第十三大区大内郡区長並学区取締兼務
(後略)
[58214]拙稿の(13)と同日付け文書で、既に「区」が存在していましたが、新たに「大区」「小区」を定めたときのものです。

また、明治9年7月の「讃岐国公立小学校一覧」(前掲書)でも、
名称学科位置設立
東園小学讃岐国大内郡東山村明治7年
等と、やはり郡を使用しています。
[62370] 2007年 11月 3日(土)22:43:53【1】Issie さん
Re:都道府県
[62368] グリグリ さん
過去記事にあるのかも知れませんが(記憶にはありません)、

ずっと前にあったかもしれませんね。
「地方行政官庁」を並列する際の呼称,という意味でなら,
「府県制」が「道府県制」と改称され,それまで北海道(という名前の地方)における自治体の法人としての呼称であった「北海道地方費」がこの改正法律の附則によって「道」と呼ばれることになった1946年9月,あるいは「地方自治法」施行に際して「北海道庁官制」が廃止されて地方官庁としての「北海道庁」が地方自治体としての「北海道」にかわった1947年5月3日,といえるのかもしれません。

「都道府県」に至る流れをおさらいすると…

1)初めに「府藩県」という呼称が成立した。
・王政復古によって成立した明治新政府は,慶応4(明治元)年閏4月21日(太陽暦1868年6月11日)に 政体書 を発し,地方官庁として「府,藩,県」を置くこととした。府→藩→県 というのは,政体書の第12条「官職」に記載されている順番。
「府」と「県」は明治政府の直轄地に置かれる。当初,「府」は(江戸)町奉行や遠国奉行の支配地など各地に設置されたが,明治2年7月17日(太陽暦1869年8月18日)の布告により,京都・東京・大阪の3府に限定される。この措置から「府」が「県」よりも上位であることが推察される。
「藩」は,大名改め“諸侯”の支配地。明治2年6月17日の 版籍奉還 により,諸侯は天皇(政府)により任命される地方長官,すなわち「知藩事」とされ,「藩」が正式な地方行政官庁となる。
この地方制度を「府藩県三治制」と呼ぶ。

2)廃藩置県 (明治4年7月14日;太陽暦1871年8月29日)により「藩」が廃止。地方行政官庁として「府」「県」が残る。

3)1886年1月,北海道3県(札幌・函館・根室)が廃止されて,「北海道庁」が設置される。以後,地方官庁を並列する際には「庁府県」という呼称が用いられるようになる。

4)1943年7月に「東京都制」が施行されて「東京都」が設置,地方官庁の首位に置かれる。

5)1946年9月に「府県制」の改正に際して「北海道会法」と「北海道地方費法」が廃止されて「府県制」に統合される(同法は「道府県制」と改称)。
・なお,この府県制改正は,それまで“官選”であった知事・長官(東京都,北海道庁)を住民による直接選挙による“公選制”とすることが主たる目的であった。東京都と北海道の住民が1947年4月5日の「第1回統一地方選挙」で選んだのは「知事」ではなく「長官」である。

6)1947年5月3日,新憲法および地方自治法施行により,「道府県制」「東京都制」が廃止。「東京都」も「北海道(庁)」も各府県も等しく 地方自治法 による自治体(普通地方公共団体)となる。

「北海道開拓使」ないし「開拓使」が置かれていた時期には「使府県」という呼称が行われていたような気がしないのでもないのですが,確認していません。
また,地方官庁として並列する場合には「庁府県」ですが,「道府県」という呼称も「北海道庁」存在時にも行われていたかもしれません。これも未確認です。

当たり前のことですが,少なくとも「都道府県」の4つがそろう1943年7月1日以前ではないことだけは,確かですね。
順番は…,結局は“過去の歴史の蓄積”ということなのでしょうかね。「庁府県」なのは,どうも 北海道庁 が他の一般府県よりも上位に置かれていたせいであるようです。たとえば,俸給の面でも 北海道庁長官 の方が 府県知事 よりも高給でした。逆に言えば,「東京府知事」の地位はそれほど高くなかったのですね。
でも,東京都が設置されると,他の府県知事や北海道庁長官が「勅任官」(天皇の命令で任命する)とされたのに対して,「東京都長官」は 内閣総理大臣 などと同じ「親任官」(天皇が直接任命する)とワンランク上に位置づけられていました。
だから“長官”(知事を含む)のランクから言えば,都→道→府→県 という順番なのでしょうね。
(この部分,百瀬隆『事典 昭和戦前期の日本 制度と実態』1990年,吉川弘文館 を参照)
[62660] 2007年 11月 25日(日)12:08:5988 さん
明治時代の市制施行の検証について
[62504] むっくん さん
遅くなりました。ある程度整理ができたので、第一弾として投稿します。(大正・昭和初期の内務省告示等が容易に確認できれば、第二弾として書きやすいのですが・・・・・。)

市制町村制の前に、まずは地方自治法での規定をおさらいしておきます。[55225] 拙稿でも述べたように、地方自治法では合併・改称などの根拠は、詳細は[55225]を見ていただくとして、・・・改称は条例、その他は総務省告示で効力が発生します。改称は総務省告示はなされますが、周知に過ぎません。編入等も都道府県告示等は現実にはありますが、直接の効果はありません。
例として、H16.10.16付けでの常陸大宮市の発足を紹介します(抜粋)。3本の総務省告示(平成16年7月9日付け総務省告示第524号~526号)があるのですが、これを見比べるとわかります。
○編入
・・・東茨城郡御前山村、那珂郡山方町、同郡美和村及び同郡緒川村を廃し、それらの区域を同郡大宮町に編入する旨、茨城県知事から『届出』があったので、同条第六項の規定に基づき、告示する。
 右の処分は、平成十六年十月十六日からその効力を生ずるものとする。
○改称
・・・第三条第三項の規定により、平成十六年十月十六日から茨城県那珂郡大宮町の名称を常陸大宮町に変更する旨、同条第六項の規定により、茨城県知事から『通知』があったので、同条第七項の規定に基づき、告示する。
○市制
・・・第八条第三項の規定により、那珂郡常陸大宮町を常陸大宮市とする旨、茨城県知事から『届出』があったので、同項の規定に基づき、告示する。
 右の処分は、平成十六年十月十六日からその効力を生ずるものとする。
『 』の記号は引用者が補記しました。このとおり知事から総務大臣へ行為の表現は、改称は「通知」(総務大臣が口を挟む余地がない)、編入及び市制は「届出」(最終権限は総務大臣にある)ことが伺えます。
ちなみに、改称の正式な根拠は、上記総務省告示ではなく、大宮町の名称変更に関する条例です。
大宮町の名称変更に関する条例
平成16年3月29日
条例第7号
本町の名称「大宮町」を「常陸大宮町」と変更する。
附 則
この条例は,地方自治法(昭和22年法律第67号)第7条第1項の規定により,那珂郡大宮町が同郡山方町,同郡美和村,同郡緒川村及び東茨城郡御前山村を編入する日から施行する。

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(1)郡区町村編制法から市制町村制への切り替えで市制施行した40市
さて、前置きが長くなりました。市制町村制です。
まずはM21公布の市制町村制です。施行はM22.4.1以降各府県ごとに順次行われ、M23.2.15の香川県が45番目で最後でした(北海道及び沖縄県を除く、以下同様に45府県での議論とする)。郡区町村編制法からの切り替えである「市制町村制」の実施と、市制町村制実施後の町→市や村→町は、異なる考え方をした方がよさそうです。
まず、[58627] 拙稿を抜粋します。
年月日事項
M22(1889).4.1市制・町村制施行(35府県)26府県(31市(*1))、9県(市なし)
M22(1889).5.1市制・町村制施行(2府県)東京府(東京市)、宮崎県(市なし)
M22(1889).6.1市制・町村制施行(1県)岡山県(岡山市)
M22(1889).7.1市制・町村制施行(2県)山梨県(甲府市)、岐阜県(岐阜市)
M22(1889).10.1市制・町村制施行(3県)愛知県(名古屋市)、鳥取県(鳥取市)、徳島県(徳島市)
M22(1889).12.15市制・町村制施行(1県)愛媛県(松山市)
M23(1890).2.15市制・町村制施行(1県)香川県(高松市)
(*1)31市
京都市,大阪市,堺市,横浜市,神戸市,姫路市,長崎市,新潟市,水戸市,津市,静岡市,仙台市,盛岡市,弘前市,山形市,米沢市,秋田市,福井市,金沢市,富山市,高岡市,松江市,広島市,赤間関市,和歌山市,高知市,福岡市,久留米市,熊本市,鹿児島市,佐賀市

このように、M21.4.25法律第1号市制(旧字体は新字体に置き換え、項番号追加、以下同じ)の
第百二十六条 此法律ハ明治二十二年四月一日ヨリ地方ノ情況ヲ裁酌シ府県知事ノ具申ニ依リ内務大臣指定スル地ニ之ヲ施行ス
のように、繰り返しになりますが全国一斉ではなく、各府県ごとに順次、市になるところには市制、その他の町村には町村制を、従来の郡区町村編制法に代えて導入していきました。このため、M22.4.1からM23.2.15までの間は、郡区町村編制法による区町村と、市制町村制による市町村が(各府県内では統一されていますが)全国で見ると混在していました。
M22.2.2内務省告示第1号では、市制施行地として36市が指定されていますが([62504] むっくんさん参照)、実際の市制施行日は、上記のとおりM22.4.1が多いものの何回にも分かれて施行しています。また、[62504] むっくんさんでもご紹介のあった佐賀市,岐阜市,甲府市,鳥取市の4市は、前述の36市とあわせて、「(郡区町村編制法から)市制町村制の施行時に生まれた市(町村制による町村を経ていない)」(40市)です。
また、市制町村制施行日が各府県ごとに異なるため告示を簡便にしたのか、そもそも本当に内務省告示の段階では施行日が未定であったのかは不明ですが、内務省告示では市制施行地のみを指定し、市制施行日についてはその府県内の町村制施行日とあわせて府県令で明示する手続きを行っています。もっとも、内務省告示を工夫する手法もあったとは思いますが(例えば施行日だけを後から告示する等)、何故かこのような内務省告示と府県令の二本立てになっています。府県令の位置づけについて規定がないのはこれまでも述べてきたとおりです。
なお、M21.4.25法律第1号町村制でも、
第百三十七条 此法律ハ明治二十二年四月一日ヨリ地方ノ情況ヲ裁酌シ府県知事ノ具申ニ依リ内務大臣ノ指導ヲ以テ之ヲ施行ス可シ
となっています。

(2)郡制第2条による市制施行した6市、郡制未施行のため市制第126条による市制施行した5市
一方、[62504] むっくんさんでご紹介のあった大津市は、これら40市とは異なります。
大津市は郡区町村編制法からM22.4.1に町村制による滋賀郡大津町となりました。そして、上記の40市のような市制第126条ではなく、M23.5.17法律第36号郡制
第二条 郡内ノ町村ヲ変シテ市ト為シ若ハ市ヲ変シテ郡内ノ町村ト為スハ其市町村会ノ申請ニ依リ内務大臣之ヲ定ム
を根拠として、市制を施行しました。
明治期の市制施行は、前述の40市以降はM25.4.1の前橋市からM44.9.1の高田市まで、大津市を含めて24市あります。大津市のように郡制第2条を根拠としての市制施行は6市(長野市、奈良市、青森市、大津市、若松市(福島県)、門司市)しかなく、他の18市は当初市制施行の40市と同様、市制第126条を根拠とした市制施行でした。
郡制の施行日は、
第八十九条 此法律ハ町村ヲ施行シタル各府県ニ施行スルモノトス其施行ノ時期ハ府県知事ノ具申ニ依リ内務大臣之ヲ定ム
のとおり、これも市制町村制と同様に府県まちまちでした。郡制はM32.3.16法律第65号の(新)郡制で全面改正されるのですが、このときにまだ改正前の郡制を施行されていないところが5府県(東京府、神奈川県、京都府、広島県、香川県)あるほど、郡制施行は遅れました。この遅れの結果、5市(前橋市、宇都宮市、四日市市、尾道市、丸亀市)では(旧)郡制第2条の規定が使えず、やむを得ず市制第126条の規定を根拠として町村からの市制施行を実施するしかなかった、と推測します。この市制の第126条は、町村制第137条と対をなし、どう見ても郡区町村編制法からの切り替えを想定しているようにしか見えません。(旧)郡制を施行していない状況で、市制第126条を根拠としての市制施行は、「規定漏れによる苦し紛れ」としか思えない市制施行だと思います。もっとも、内務省からしてみれば、(旧)郡制の施行が遅れたのが想定外であったのでしょう。(旧)郡制の施行には従来の郡の再編が前提となっており、その郡の再編は法律を伴うのですが、[58745] 拙稿でも述べたように反対も多くなかなか法律が成立せず、再編が遅れた結果、郡制の施行も遅れたことが大きな要因であろうと推測します。

(3)(新)郡制施行後、市制第126条による市制施行した13市
(新)郡制の施行日は、
第百二十条 此ノ法律ハ明治二十三年法律第三十六号郡制ヲ施行シタル府県ニハ明治三十二年七月一日ヨリ之ヲ施行シ其ノ他ノ府県ニ関スル施行ノ時期ハ府県知事ノ具申ニ依リ内務大臣之ヲ定ム
で、(旧)郡制施行済みの府県はM32.7.1から、未実施のところは個々に決定、とありますが、実際には未実施の5府県も同じくM32.7.1から施行されました。この(新)郡制には、(旧)郡制の第2条のような規定が何故か存在しません。このため、(新)郡制施行後(明治末までではM33.7.1の小倉市以降の13市)はすべて市制第126条を根拠として市制施行されました。先ほどの郡制を施行していない町村からの市制施行18市と同様、根拠規定としては苦しいのを承知で市制施行を行ったのではないでしょうか。

M44.4.7法律第68号市制、M44.4.7法律第69号町村制により、従来の市制・町村制は全面改正されました。この(新)市制、(新)町村制は、M44.9.22勅令第238号により、M44.10.1から施行されました。
M44.4.7法律第68号市制((新)市制)
第三条 市ノ廃置分合ヲ為サムトスルトキハ関係アル市町村会及府県参事会ノ意見ヲ徴シテ内務大臣之ヲ定ム
M44.4.7法律第69号町村制((新)町村制)
第三条 町村ノ廃置分合又ハ境界変更ヲ為サムトスルトキハ府県知事ハ関係アル市町村会ノ意見ヲ徴シテ府県参事会ノ議決ヲ経内務大臣ノ許可ヲ得テ之ヲ定ム所属未定地ヲ町村ノ区域ニ編入セムトスルトキ亦同シ
3 第一項ノ場合ニ於テ市ノ廃置分合ヲ伴フトキハ市制第三条ノ規定ニ依ル
と、前述の規定漏れとも思える市制の手続きについて、(新)市制・(新)町村制の中できちんと規定を設けています。

この(新)市制、(新)町村制以降の市制については、大正・昭和初期の内務省告示等を確認できていませんので、後日とします。

※参考条文のまとめや64市の市制施行に関する資料は別稿とします。
拙稿「明治初期 地方自治制度の変遷について」もご参照ください。
[62661] 2007年 11月 25日(日)12:09:02【2】88 さん
明治時代の市制施行一覧について(根拠法抜粋付き)
[62660]拙稿で検証の対象とした、明治期に市制施行した64市の一覧を示します。
市制施行内務省告示その府県における
番号年月日市名年月日番号根拠法の表現郡制施行年月日
1M22.4.1京都市M22.2.2内務省告示第1号市制第126条(*1)
2M22.4.1大阪市M22.2.2内務省告示第1号市制第126条(*1)
3M22.4.1堺市M22.2.2内務省告示第1号市制第126条(*1)
4M22.4.1横浜市M22.2.2内務省告示第1号市制第126条(*1)
5M22.4.1神戸市M22.2.2内務省告示第1号市制第126条(*1)
6M22.4.1姫路市M22.2.2内務省告示第1号市制第126条(*1)
7M22.4.1長崎市M22.2.2内務省告示第1号市制第126条(*1)
8M22.4.1新潟市M22.2.2内務省告示第1号市制第126条(*1)
9M22.4.1水戸市M22.2.2内務省告示第1号市制第126条(*1)
10M22.4.1津市M22.2.2内務省告示第1号市制第126条(*1)
11M22.4.1静岡市M22.2.2内務省告示第1号市制第126条(*1)
12M22.4.1仙台市M22.2.2内務省告示第1号市制第126条(*1)
13M22.4.1盛岡市M22.2.2内務省告示第1号市制第126条(*1)
14M22.4.1弘前市M22.2.2内務省告示第1号市制第126条(*1)
15M22.4.1山形市M22.2.2内務省告示第1号市制第126条(*1)
16M22.4.1米沢市M22.2.2内務省告示第1号市制第126条(*1)
17M22.4.1秋田市M22.2.2内務省告示第1号市制第126条(*1)
18M22.4.1福井市M22.2.2内務省告示第1号市制第126条(*1)
19M22.4.1金沢市M22.2.2内務省告示第1号市制第126条(*1)
20M22.4.1富山市M22.2.2内務省告示第1号市制第126条(*1)
21M22.4.1高岡市M22.2.2内務省告示第1号市制第126条(*1)
22M22.4.1松江市M22.2.2内務省告示第1号市制第126条(*1)
23M22.4.1広島市M22.2.2内務省告示第1号市制第126条(*1)
24M22.4.1赤間関市M22.2.2内務省告示第1号市制第126条(*1)
25M22.4.1和歌山市M22.2.2内務省告示第1号市制第126条(*1)
26M22.4.1高知市M22.2.2内務省告示第1号市制第126条(*1)
27M22.4.1福岡市M22.2.2内務省告示第1号市制第126条(*1)
28M22.4.1久留米市M22.2.2内務省告示第1号市制第126条(*1)
29M22.4.1熊本市M22.2.2内務省告示第1号市制第126条(*1)
30M22.4.1鹿児島市M22.2.2内務省告示第1号市制第126条(*1)
31M22.4.1佐賀市M22.3.18内務省告示第10号市制第126条(*1)
32M22.5.1東京市M22.2.2内務省告示第1号市制第126条(*1)
33M22.6.1岡山市M22.2.2内務省告示第1号市制第126条(*1)
34M22.7.1岐阜市M22.6.10内務省告示第18号市制第126条(*1)
35M22.7.1甲府市M22.6.10内務省告示第18号市制第126条(*1)
36M22.10.1名古屋市M22.2.2内務省告示第1号市制第126条(*1)
37M22.10.1徳島市M22.2.2内務省告示第1号市制第126条(*1)
38M22.10.1鳥取市M22.9.11内務省告示第24号市制第126条(*1)
39M22.12.15松山市M22.2.2内務省告示第1号市制第126条(*1)
40M23.2.15高松市M22.2.2内務省告示第1号市制第126条(*1)
41M25.4.1前橋市M24.10.9内務省告示第49号市制第126条(*2)M29.7.15
42M29.4.1宇都宮市M29.3.2内務省告示第28号市制第126条(*2)M30.7.1
43M30.4.1長野市M30.3.8内務省告示第21号郡制第2条(*3)M24.4.1
44M30.8.1四日市市M30.7.6内務省告示第48号市制第126条(*2)M30.9.1
45M31.2.1奈良市M31.1.20内務省告示第3号郡制第2条(*3)M30.8.1
46M31.4.1尾道市M31.2.12内務省告示第11号市制第126条(*2)M32.7.1
47M31.4.1青森市M31.2.19内務省告示第13号郡制第2条(*3)M24.4.1
48M31.10.1大津市M31.7.27内務省告示第70号郡制第2条(*3)M31.4.1
49M32.4.1若松市(福島県)M31.9.24内務省告示第95号郡制第2条(*3)M30.10.1
50M32.4.1丸亀市M31.12.6内務省告示第124号市制第126条(*2)M32.7.1
51M32.4.1門司市M31.12.28内務省告示第135号郡制第2条(*3)M29.7.1(注)
(新)郡制施行M32.7.1
52M33.4.1小倉市M33.3.1内務省告示第15号市制第126条(*4)M29.7.1,M32.7.1(注)
53M33.4.1高崎市M33.3.1内務省告示第16号市制第126条(*4)M32.7.1
54M35.4.1佐世保市M35.3.19内務省告示第15号市制第126条(*4)M32.7.1
M35.6.1(下関市)(赤間関市から改称)
55M35.10.1呉市M35.9.1内務省告示第63号市制第126条(*4)M32.7.1
56M39.4.1長岡市M39.3.30内務省告示第32号市制第126条(*4)M32.7.1
57M39.8.1豊橋市M39.7.5内務省告示第64号市制第126条(*4)M32.7.1
58M39.9.1宇治山田市M39.7.5内務省告示第63号市制第126条(*4)M32.7.1
59M40.2.15横須賀市M40.1.29内務省告示第7号市制第126条(*4)M32.7.1
60M40.4.1福島市M40.3.8内務省告示第23号市制第126条(*4)M32.7.1
61M40.5.1松本市M40.4.16内務省告示第45号市制第126条(*4)M32.7.1
62M44.4.1大分市M43.8.2内務省告示第103号市制第126条(*4)M32.7.1
63M44.7.1浜松市M44.6.13内務省告示第46号市制第126条(*4)M32.7.1
64M44.9.1高田市M44.7.13内務省告示第49号市制第126条(*4)M32.7.1
(新)市制町村制施行M44.10.1

(*1)郡区町村編制法からその府県内が一斉に市制・町村制を実施するときに、市制第126条に基づき市制施行した。
内務省告示中に市制施行日はなく、別途各府県令でその府県での市制町村制の施行日を定めている。
(*2)郡区町村編制法からその府県内が一斉に市制町村制を実施するときには町村として町村制施行した。その後、市制第126条に基づき市制施行した。
郡制がその府県では施行されていなかったため、郡制第2条による市制施行を行うことができず、やむを得ず市制第126条により市制施行したものと思われる。
内務省告示中に市制施行日の規定がある。
(*3)郡区町村編制法からその府県内が一斉に市制・町村制を実施するときには町村として町村制施行した。その後、郡制第2条に基づき市制施行した。
郡制がその府県では施行されていたため、市制第126条ではなく、本来の趣旨どおり郡制第2条に基づき市制施行した。
内務省告示中に市制施行日の規定がある。
(*4)郡区町村編制法からその府県内が一斉に市制町村制を実施するときには町村として町村制施行した。その後、市制第126条に基づき市制施行した。
(新)郡制がすでに施行されていた((新)市制町村制は施行前)ため、やむを得ず市制第126条により市制施行したものと思われる。
内務省告示中に市制施行日の規定がある。
(注)福岡県は、M29.7.1に郡制を施行した。このため、51門司市は郡制第2条(*3)によりM32.4.1に市制施行した。
その後、福岡県はM32.7.1に(新)郡制により郡制を施行した。このため、52小倉市は市制第126条(*4)によりM33.4.1に市制施行した。

なお、本調査にあたっては、IssieさんのHPの市一覧表に大変お世話になりました。このHPで、日付と告示番号がわかっているので、内務省告示を探して確認することが容易でした。この場をお借りしてお礼申し上げます。
―――――――――――――――――――――――――
[62660]拙稿に関連した、各法律を抜粋します。
M21.4.25法律第1号市制
第四条 市ノ境界ヲ変更シ又ハ町村ヲ市ニ合併シ及市ノ区域ヲ分割スルコトアルトキハ町村制第四条ヲ適用ス
第百二十六条 此法律ハ明治二十二年四月一日ヨリ地方ノ情況ヲ裁酌シ府県知事ノ具申ニ依リ内務大臣指定スル地ニ之ヲ施行ス

M21.4.25法律第1号町村制
第四条 町村ノ廃置分合ヲ要スルトキハ関係アル市町村及郡参事会ノ意見ヲ聞キ府県参事会之ヲ議決シ内務大臣ノ許可ヲ受ク可シ
第百三十七条 此法律ハ明治二十二年四月一日ヨリ地方ノ情況ヲ裁酌シ府県知事ノ具申ニ依リ内務大臣ノ指導ヲ以テ之ヲ施行ス可シ

M23.5.17法律第36号郡制
第二条 郡内ノ町村ヲ変シテ市ト為シ若ハ市ヲ変シテ郡内ノ町村ト為スハ其市町村会ノ申請ニ依リ内務大臣之ヲ定ム
第八十九条 此法律ハ町村ヲ施行シタル各府県ニ施行スルモノトス其施行ノ時期ハ府県知事ノ具申ニ依リ内務大臣之ヲ定ム

M32.3.16法律第65号郡制
第百二十条 此ノ法律ハ明治二十三年法律第三十六号郡制ヲ施行シタル府県ニハ明治三十二年七月一日ヨリ之ヲ施行シ其ノ他ノ府県ニ関スル施行ノ時期ハ府県知事ノ具申ニ依リ内務大臣之ヲ定ム
注:(旧)郡制第2条に相当する規定はなし

M44.4.7法律第68号市制
第三条 市ノ廃置分合ヲ為サムトスルトキハ関係アル市町村会及府県参事会ノ意見ヲ徴シテ内務大臣之ヲ定ム

M44.4.7法律第69号町村制
第三条 町村ノ廃置分合又ハ境界変更ヲ為サムトスルトキハ府県知事ハ関係アル市町村会ノ意見ヲ徴シテ府県参事会ノ議決ヲ経内務大臣ノ許可ヲ得テ之ヲ定ム所属未定地ヲ町村ノ区域ニ編入セムトスルトキ亦同シ
3 第一項ノ場合ニ於テ市ノ廃置分合ヲ伴フトキハ市制第三条ノ規定ニ依ル
[62662] 2007年 11月 25日(日)12:09:1888 さん
明治時代の市制町村制、郡制、府県制の施行日について
[62660][62661]拙稿に関連して、(旧)市制町村制・(新)市制町村制、(旧)郡制・(新)郡制、郡再編、(旧)府県制・(新)府県制の施行日の一覧を示します。府県制等、まだあまり触れていない話題もありますが、今後触れる機会があるでしょう。
参考資料:「地方自治百年史 第一巻」(編集:地方自治百年史編集委員会、発行:地方自治法施行四十周年・自治制公布百年記念会、発売:財団法人地方財務協会)、及び近代デジタルライブラリー(国立国会図書館)から「法令全書」です。
(旧)市制町村制(新)市制町村制(旧)郡制(新)郡制郡再編(旧)府県制(新)府県制
番号府県名施行日施行日施行日施行日施行日施行日施行日
2青森県M22.4.1M44.10.1M24.4.1M32.7.1-M24.8.1M32.7.1
3岩手県M22.4.1M44.10.1M30.4.1M32.7.1M30.4.1M30.7.1M32.7.1
4宮城県M22.4.1M44.10.1M27.4.1M32.7.1-M27.7.1M32.7.1
5秋田県M22.4.1M44.10.1M24.4.1M32.7.1-M24.8.1M32.7.1
6山形県M22.4.1M44.10.1M24.4.1M32.7.1-M24.8.1M32.7.1
7福島県M22.4.1M44.10.1M30.10.1M32.7.1M29.4.1M31.2.1M32.7.1
8茨城県M22.4.1M44.10.1M29.7.1M32.7.1M29.4.1M29.10.1M32.7.1
9栃木県M22.4.1M44.10.1M30.7.1M32.7.1M29.4.1M30.10.1M32.7.1
10群馬県M22.4.1M44.10.1M29.7.15M32.7.1M29.4.1M30.4.1M32.7.1
11埼玉県M22.4.1M44.10.1M29.8.1M32.7.1M29.4.1M30.4.1M32.7.1
12千葉県M22.4.1M44.10.1M30.4.1M32.7.1M30.4.1M30.10.1M32.7.1
13東京府M22.5.1M44.10.1-M32.7.1M29.4.1-M32.7.1
14神奈川県M22.4.1M44.10.1-M32.7.1M29.4.1-M32.7.1
15新潟県M22.4.1M44.10.1M30.1.1M32.7.1M29.4.1M30.4.1M32.7.1
16富山県M22.4.1M44.10.1M29.6.1M32.7.1M29.4.1M29.7.1M32.7.1
17石川県M22.4.1M44.10.1M24.7.1M32.7.1-M24.10.1M32.7.1
18福井県M22.4.1M44.10.1M24.4.1M32.7.1-M24.8.1M32.7.1
19山梨県M22.7.1M44.10.1M24.8.1M32.7.1-M24.10.1M32.7.1
20長野県M22.4.1M44.10.1M24.4.1M32.7.1-M24.7.1M32.7.1
21岐阜県M22.7.1M44.10.1M30.8.1M32.7.1M30.4.1M30.10.1M32.7.1
22静岡県M22.4.1M44.10.1M29.9.1M32.7.1M29.4.1M30.4.1M32.7.1
23愛知県M22.10.1M44.10.1M24.4.1M32.7.1-M25.10.1M32.7.1
24三重県M22.4.1M44.10.1M30.9.1M32.7.1M29.4.1M31.4.1M32.7.1
25滋賀県M22.4.1M44.10.1M31.4.1M32.7.1M30.4.1M31.8.1M32.7.1
26京都府M22.4.1M44.10.1-M32.7.1--M32.7.1
27大阪府M22.4.1M44.10.1M31.6.1M32.7.1M29.4.1-M32.7.1
28兵庫県M22.4.1M44.10.1M29.7.1M32.7.1M29.4.1M29.10.1M32.7.1
29奈良県M22.4.1M44.10.1M30.8.1M32.7.1M30.4.1M31.3.1M32.7.1
30和歌山県M22.4.1M44.10.1M30.9.1M32.7.1M29.4.1M31.9.1M32.7.1
31鳥取県M22.10.1M44.10.1M29.9.1M32.7.1M29.4.1M30.4.1M32.7.1
32島根県M22.4.1M44.10.1M29.8.1M32.7.1M29.4.1M31.4.1M32.7.1
33岡山県M22.6.1M44.10.1M32.4.1M32.7.1M33.4.1-M32.7.1
34広島県M22.4.1M44.10.1-M32.7.1M31.10.1-M32.7.1
35山口県M22.4.1M44.10.1M29.9.1M32.7.1M29.4.1M30.4.1M32.7.1
36徳島県M22.10.1M44.10.1M24.4.1M32.7.1-M24.9.1M32.7.1
37香川県M23.2.15M44.10.1-M32.7.1M32.4.1-M32.7.1
38愛媛県M22.12.15M44.10.1M30.4.1M32.7.1M30.4.1M30.10.1M32.7.1
39高知県M22.4.1M44.10.1M24.4.1M32.7.1-M24.9.1M32.7.1
40福岡県M22.4.1M44.10.1M29.7.1M32.7.1M29.4.1M29.10.1M32.7.1
41佐賀県M22.4.1M44.10.1M30.6.1M32.7.1M29.4.1M30.9.1M32.7.1
42長崎県M22.4.1M44.10.1M30.4.1M32.7.1M29.4.1M30.9.1M32.7.1
43熊本県M22.4.1M44.10.1M29.6.1M32.7.1M29.4.1M29.9.1M32.7.1
44大分県M22.4.1M44.10.1M24.4.1M32.7.1-M24.8.1M32.7.1
45宮崎県M22.5.1M44.10.1M30.4.1M32.7.1M29.4.1M30.9.1M32.7.1
46鹿児島県M22.4.1M44.10.1M31.4.1M32.7.1M30.4.1M31.9.1M32.7.1


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