[7705] utt さん,
[7717] ken さん
>>都道府県の格っていうものは、なんなんでしょうね?
>廃藩置県時に「府」を置いたのは、「大阪、京都を一介の県にするなんて、
>とても考えられない」という「特別感」が気持ちの上でも、実態としてもあったと思いますね。
>せめて称号を付けたいという心理。
本来,「府」と「県」の間に“格”の違いがあったのかどうかわかりません。
実は明治政府の発足直後には,江戸(東京)・京都・大阪を含めて,以下の「府」が設置されています。
箱館府 68.閏4.24(69.7.8 廃止,開拓使の管轄へ)
江戸府 68.5.11(68.7.17 東京府へ改称)
神奈川府 68.6.17(68.9.21 神奈川県へ改称)
越後府 68.5.29 [高田→柏崎]→ 68.9.21 新潟府(70.3.7 水原県と統合,新潟県へ改称)
越後府 69.2.8[水原;新潟府から分離](69.7.27 水原県へ改称;70.3.7 新潟県へ統
甲斐府 68.10.28 (府中県・市川県・石和県を統合;69.7.20 甲府県へ改称)
渡会府 68.7.6 (69.7.17 渡会県へ改称)[伊勢市山田]
京都府 68.閏4.24
大阪府 68.5.2
長崎府 68.5.4 (69.6.20 長崎県へ改称)
(日付はもちろん旧暦)
この段階では各地に「藩」が存在していますから,これらは当然すべてが旧幕府直轄領を管轄するものです。そして,どれもが「町奉行」や「遠国奉行」などが管轄していた(あるいはそれに匹敵しそうな)主要都市ですね。良く見ると「3府+5港(兵庫を除く)+甲府・山田」という組み合わせですね。「越後府」というのが若干意味不明ですが。
それに対して「代官」「郡代」の管轄していた地域には「県」が設置されています。
どうも,“格の違い”というよりは,“機能の違い”という気がしないでもありません。
“5港”のうち「兵庫県」が初めから「県」なのが一瞬不思議に感じたのですが,考えてみたら明治政府の発足当時,兵庫(神戸)はまだ開港されておらず,この取り扱いが明治政府にとって最初の大きな外交課題だったのでした。それが原因かしら。
その後発布された太政官布告によって「府」は東京・京都・大阪に限定されることになり,それ以外はすべて「県」に改称されています。ここには「府」は別格,という意識が芽生えているのかもしれません。
なお,誤解なきように。
この段階の「府」は基本的にはその都市と近郊地域を管轄するという点で,現在の「市」レベルの行政単位です。そもそも「郡県制」では中国の秦の時代以来,「郡」の方がより大きな区分で「府」や「県」はその下位区分でした。ところが,日本では廃藩置県後の府県の統合・再編を通じて,「府県」と「郡」の関係が逆転してしまったのですね。
>「道」は逆に「県」たり得ない未熟児としての「置県までの暫定名」という意識だったと思いますよ。
>いずれ置県する、という考えは絶対にあったはず。
1869年に「蝦夷ヶ島」が「北海道」と改称されて,11の「国」とたくさんの「郡」が設定されます。
この段階では北海道に限らず「内地」でも,「道-国-郡」という律令制以来の地域区分の体系と,幕府や敗戦藩から没収して明治政府直轄になった地域に設置された「府県」とは全然別の体系で,お互いにリンクはしていなかったような気がします。
初めのうち,明治政府は北海道を郡単位で分割して諸侯(旧大名)に管轄権を与えようとしていますよね。だとすれば,そこは「県」ではなくて「藩」の領域になったのかもしれない。結局その方針は放棄されて,「開拓使」が北海道全域を管轄することになるのですが。
ともかく,「開拓使」が1882年に廃止された後,実際北海道には「函館県」「札幌県」「根室県」の3県が設置されました。けれども1886年にはこれらの「県」は廃止されて,「北海道庁」が設置され,これが「北海道」という呼称の地域を管轄することになりました。
ここも誤解なきように。
この段階の「北海道」という呼称は「府」や「県」に類似した「道」という地域区分の単位に由来する(つまり「東京+府」のように「北海+道」)のではありません。“内地”でとっくの昔に「道」という地域区分が意味を失ってしまったこの当時,「北海道」はもはや分解することのできない“一塊”の,そして単なる地域呼称です。ここを管轄する地方官庁は「北海道」ではなく,「北海道庁」です。
「(南)樺太」を管轄する「樺太庁」,「関東州(旅順・大連地域)」を管轄する「関東庁」,「南洋諸島」を管轄する「南洋庁」と,「北海道」を管轄する「北海道庁」は,地域と管轄官庁の呼称としてパラレルの関係にある,と考えるとわかりやすいかもしれません。
「道」が「府」や「県」や「都」と同じ地域区分の単位となるのは,実に1947年の地方自治法施行以後のことなのです。
そして,地方自治法の下では「都」「道」「府」「県」というのは単に従来の呼称をそのまま継承しているだけであって,(少なくとも)制度上それぞれの語尾にかかわらず47都道府県は「完全に同格」の存在,ということになっているはずです。
>>しかし、平成版・廃県置県を考えてみても、大宝律令の分国制が、千数百年たっても、現状の生活圏と一致しているところが多いのは驚きますね。
>いえ、国境の変化は少なからずあるみたいです。
これも誤解が多いんですけどね,律令時代から「国」の範囲が不変だったわけではありません。
たとえば「志摩」。今は志摩半島に限定された小国ですけれども,元々は現在の三重県北牟婁郡の地域も「志摩」に含まれていました。徐々に「紀伊」との国境が東へ移動して,つまり「紀伊」が東へ拡大して行ったのです。
たとえば今は「信濃」に含まれる木曽。元々,「信濃」と「美濃」の境界は木曽川と奈良井川(千曲川・信濃川水系)の分水界の鳥居峠とされていました。つまり,木曽川沿いの谷間は「美濃」で恵那郡の内。「長野県木曽郡」の旧称は「西筑摩郡」ですが,それはもともと奈良井川の谷間だけが信濃に属していて,つまり松本平南半部の「筑摩(つかま)郡」が,のちに木曽川の谷間で伸びて行ったせいです。
で,こうした「国」や「郡」の領域の調整が全国単位で行われたのが豊臣政権から徳川政権初期のことなのですね。現在の「国郡」区分は,基本的にここで確定した近世以降のものが使用されているのです(さらに明治になって多少の調整があった)。