都道府県市区町村
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記事数=20件/更新日:2012年7月23日

新規開店したばかりの「hmtマガジン」ですが、親サイトの「都道府県市区町村」に敬意を払って「都道府県」という特集を組みましょう。

最初の3編は、親サイト「都道府県市区町村」の名称に関するもの。最初は「都道府県」だけだったのですね。

次が、都道府県制度に関するもの。
さしあたり、落書き帳初期の記事を収録し、必要ならば後日追加しますが、要点は次のようです。
戦前の制度は「府県制」で、北海道の役所は別制度の「北海道庁」でした。
戦時体制の「東京都制」によって、3種類の制度の下にある1都1道2府43県が出揃いました。
戦後は、日本国憲法の下での地方自治法(1947年)によって、「都道府県」の性格はすべて同じものになりました。
都・道・府・県と4つの名で区別されるのは、歴史的ないきさつにすぎません。
沖縄復帰により「47都道府県」に戻ったのは1972年でした。

最後に、“「都道府県」という用語”について、2007年グリグリさんの疑問に始まるスレッドを収録。
現在の都道府県は同格ですが、初期の府と県とは、“格の違い”というよりも“機能の違い”があったようです[7739]
開拓のフロンティア北海道や戦時体制下で生まれた東京都は言わずもがな。
「都道府県」という順番は、かつての国の立場からの関与度の順(地方自治の視点からすれば、自治が制限された順)だったのかもしれません。

★推奨します★(元祖いいね) グリグリ


[1] 1999年 11月 21日(日)09:10:00オーナー グリグリ
都道府県フォーラムはじめます!
みなさんこんにちは!
「GLinGLin」オーナーのグリグリです。
「都道府県のデータ」に関連して、都道府県、市などをテーマとしたフォーラムを開設しました。日頃疑問に思っていることなど、また、このHPに対するご意見・ご要望など、何でも書き込んでください。
では、皆さんの書き込みをお待ちしています。
[17] 2000年 1月 18日(火)00:24:27オーナー グリグリ
コーナー名称を変更します!
『都道府県フォーラム』から『都道府県落書き帳』に変更します。
フォーラムだとちょっと堅苦しくて書き込みし辛いようなので、落書き帳にしました。
気軽に書き込みしてください。よろしくお願いします。
[1873] 2002年 6月 16日(日)07:45:41オーナー グリグリ
リニューアル(都道府県市区町村)
『都道府県市区町村』と企画名をリニューアルし、ページ構成も階層構造を明確にして分かりやすくしました。いかがでしょうか。今までの全国の市町村一覧というトップメニューは分かりにくいこともあり廃止しました。すべて「都道府県市区町村」のトップメニューからの動線になります。リニューアルの主な項目(方針)は以下のとおりです。

■すべてのページの最上部左側と最下部左側にページの深さが分かる表示と各階層のトップページへのリンクを付けました(一部作業中で未完成のページあり)
■ページの途中にページトップに戻るリンクを付けました
■ページ構成の階層構造を上下するリンクを基本とし、他の階層へのジャンプ(ハイパーリンク)は原則廃止しました(都道府県別の市区町村一覧、公式HP一覧、定形外URL一覧の同一都道府県内リンクは特別)
■公式ホームページ関連をまとめました(公式HP一覧、定形URLの目的外利用、定形外URL一覧など)
■変更情報を3ページに分けました

以下の項目はまだ作業中です。
●雑学ページの更新(色の市区町村以降)
●変更情報の情報内容更新

他にもありますが(落書きタイトルバーの常連機能、アーカイブズ企画追加、雑学追加...)とりあえずこんなところです。引き続き、ご意見・ご要望をお願いいたします。
[47] 2000年 5月 20日(土)07:33:29オーナー グリグリ
まとめてフォロー
さきしま さんへ
「さいたま市」正式に決まりましたね。
確かに落とし所としては妥当かとは思いますが、私はひらがなの市というのは、
なんか重みがないようで、あまり好きではありません。

Maybe さんへ
ご訪問ありがとうございます。
「全国市区町村リスト」見ました。
町村まで全部リストするのはなかなかできないことだと思います。

キラー・カーン さんへ
官軍・賊軍という話は私もどこかで聞いたような気がするのですが、
おそらく違うと思います。PHP文庫の「47都道府県うんちく事典」には
都道府県名の由来が詳しく述べられています。それを見る限りでは、
ご指摘のような話はないと思います。この本によれば、都道府県名は、
都道府県庁所在地の都市名、あるいは、その所属する郡の名前から
付けられています。例外は、万葉集からの命名である「愛媛」、それと
北海道と沖縄です。栃木と三重は栃木市と四日市市(三重郡にあった)に
県庁所在地があったときの命名です。

では、埼玉県は? 埼玉県の県庁所在地は当初岩槻市にありました。
岩槻市は埼玉郡に属していたからです。

なお、この本に、都道府県の区割りや県庁所在地の決定に当たって、
新政府側に属したかどうかが考慮されたとするのは俗説とあります。
ただし、名称については、幕府側にたったところでは、藩名と同じ
名称を避けるために郡名を採用したいという気持ちが働いたのかも
しれない、と記述されています。

ではまた。
[228] 2001年 5月 3日(木)12:42:01Issie さん
都道府県の由来
何か呼ばれたみたいですが…
「都・道・府・県」と並列でよばれ,上下関係というか序列のようなものがあるように感じられるのですが,現行の「地方自治法」ではそれぞれに全く違いはなく,完全に“同格”の存在です。「〇〇県」とか「××府」などといっているのは,それぞれの自治体が“歴史的な呼称”を使用しているにすぎない,と解釈できます。

本来,「都」と「道」と「府・県」は由来の異なるものです。
「府・県」が設置されるのは,慶応3年末(1867年,年末なので太陽暦ではすでに年が明けて1868年)の王政復古で明治新政府が旧幕府の支配地域を引き継いで政府直轄領としたときのことです。基本的に代官の支配していた地域に「県」,町奉行や遠国奉行の支配していた主要都市などに「府」が設置されました。これらはその後の再編を通じて「府」は東京,京都,大阪の3つのみとなりました。次いで,明治4年(1871年)の廃藩置県で,それまで「藩」の管轄であった地域にも「県」が設置され,明治23年(1890年)の「府県制」によって「市制・町村制」「郡制」とともに明治憲法下での地方制度が完成しました。
「北海道」は本来,地方自治体ないしは地方官庁の呼称ではなく,「蝦夷ヶ島」とよばれていた島の呼称,あるいは「東海道」「南海道」「西海道」などと同格の地域呼称でした。青森県以南の3島に「府県制」が施行された後も北海道には「府県制」は施行されず,別の法令を根拠とする地方官庁・地方自治体として「北海道庁」「北海道会」が設置されました。この場合,「東京府」「神奈川県」と“同格”の呼称は「北海道庁」となります。
「東京都」は,戦時体制強化の一環として昭和18年(1943年)に「東京府」と「東京市」が統合されて設置されました。「府県制」ではなく「東京都制」という法令を根拠とします。東京では「東京市」の自治権の前に,実質上「東京市」以外の区域しか管轄の対象とならない「東京府」の方が立場が弱く,しかも明治以来「東京市」が政党勢力の最大の拠点(尾崎行雄は市長,鳩山一郎や三木武吉は市会の有力者)であったため,政府としては「東京市」の力を弱めるチャンスをねらっていたようです。「東京都」が発足した結果,旧東京市民は自分たちの都市区域の議員を選挙する権利,つまり「市」レベルでの自治権を奪われました(八王子市民は市会議員と都会議員とを選挙できる)。

戦後,「府県制」「東京都制」などが廃止されて「日本国憲法」とともに「地方自治法」が施行されました。このときに,各自治体の呼称は従来のままで「都・道・府・県」の4つはすべて“同格”に扱われることになったのです。
「地方自治法」には都道府県名の改称の手続きが規定されていますが,これが実際に行われたことはありません。
同じく,都道府県の合併・分離の規定もありますが,これも行われたことはありません。ただし,「分離」の方は長野県で実現寸前まで行ったことがあるのですが。
したがって,たとえば「埼玉県」と「群馬県」とが合併するようなことは「地方自治法」では予想はされています。ただ,合併後にどのような呼称とするか,つまり「府」や「都」になれるのか,というような明文規定は「地方自治法」そのものにはもちろん,施行令や施行規則にもないようです。
あるいは,「地方」規模で3~4県ほどが合併した場合には「州」の方がよい,という意見も出てきそうですね。

や,長々どうもすみませんでした。
[233] 2001年 5月 4日(金)09:53:55Issie さん
長野県の分県問題
> 長野県が分離というのは、長野と松本の分離でしょうね。

そうです。長野と松本の仲の悪さは有名ですからね。
ほかの多くの県では明治から大正にかけて盛んであった分県運動も
昭和以降はほぼ下火になるのですが,
長野県では戦後になっても松本と,それに諏訪と伊那がひきづられる形で
「南信」地方の分離運動が続きました。
そして,日本国憲法と地方自治法に基づく新しい地方制度に移行したばかりの
1948(昭和23)年春の県議会の議題となりました。
当然,分離賛成派の南信選出議員と反対派の北信(長野・上田・佐久)選出の
議員との間で紛糾し年度末から新年度当初にかけての議会は麻痺しました。
そして,いよいよ採決かというとき,傍聴席から誰かが県民歌として県民誰もが
知っている「信濃の国」を歌いだすと,分離賛成派も反対派もそれに加わり,
議場全体に歌が広まって,結局この話はうやむやになってしまった,
という有名なエピソードがあります。
どこまで本当の話なのか私にはちょっと自信がないのですが(以前,地元紙の
「信濃毎日新聞」の記事をさがしてみたのですが,戦後の2~4面しか紙面の
ない時期で,議会の細かい動向は記載されていませんでした),
少なくとも分県決議が議題に上り,それで県議会が紛糾したことは確かです。

ただし,仮に県議会で分県決議が可決されたとしても,
実はそれを決定する権限は県議会にはありません。
地方自治法では,都道府県の廃置分合は「法律」による,と規定しているからです。
したがって,県議会の議決の後,内閣が法律案を作成して国会で審議
ということになるのでしょうが,当時の芦田内閣と,国会の勢力分布では
どうなったことでしょうね。
[967] 2002年 2月 24日(日)21:06:36Issie さん
戊辰戦争伝説
> 戊辰戦争の遺恨

別にこの話題に関して,ということではないのですが…

一般的な話として,私は「戊辰戦争で…」という話はあまり信用していません。
もちろん,個々の話題について確かに戊辰戦争が原因で,ということはあるのだろうと思います。
しかし,「賊軍」「官軍」という色分けで全部をひっくるめて一律に説明する説は信じることができない。

たとえば,よく話題になるのは都道府県名について。
いわく,「賊軍」であった地域の県は懲罰の意味も含めて従来の藩名から改称された…。
これは本当か?

現在の47都道府県について大雑把に言えば,東日本では県庁所在地ではなく郡名による県が多く,西日本に所在地名による県が多いのは事実です(ただしあえて言えば,秋田・千葉・佐賀・大分・宮崎・鹿児島の各県は郡名と所在地名が同じで,どちらによるものか判断できない)。
でも,これは結果の話であって,1871年の廃藩置県の段階からこの47都道府県に統合することを構想していたとは思えない。
この47という数や各県の名称になるまでには多分に偶然によるものが少なくないし,途中の変遷を見れば,一概に「賊軍」「官軍」の色分けで説明できるほど単純なものではないように思います。

たとえば,「賊軍の首魁」であった徳川宗家の藩を前身とする県は,なぜいまだに「静岡県」なのでしょう(“駿河府中”から“静岡”へ改称したのは明治政府ではなく,徳川家自身です)。当然,真っ先に改称され,県庁が移転されてしかるべきです。
福島藩主の板倉氏は代々幕府の高官で,当然戊辰戦争の「賊軍」です。戦後に藩主は移転させられたけど,城下町の福島はそのまま県庁が置かれつづけ,しかも「信夫県」とはなっていません(1871年11月半ばの半月を除いて)。
新政府に協力的であった福井藩や宇和島藩を前身とする県は改称された上,隣接する県に併合されてしまいました(福井県はその後,幾多の変遷を経て復活しますが)。
新政府主流派の一角である「佐賀県」でさえ,しばらくの間はなくなっていたのです。

「戊辰戦争で…」と説明するのは簡単だし“面白い”のですが,それが本当かどうかはそれぞれの事例についてきちんと確認することが必要なのだろうなぁ,と思います。
もちろん,これは「戊辰戦争が原因である」というのを全否定するものではありません。本当にそれが原因の場合もあるでしょう。それがきちんと確認できればそれでいいのです。

ところで,福島と二本松の話,詳しいことは私は知らないのです。
[3779] 2002年 10月 11日(金)08:27:40【2】蘭丸 さん
都道府県の相違と来歴
 過去ログで、都道府県の違いや、歴史に関するものがありましたので、私の知っている限りの情報を書かせていただきます。

 現行の都道府県制度は、地方自治法上、地位についてその名称による差異は全くなく、同等のものとして一律に規定しています。単に現行法の制定当時に存在した沿革上の名称をそのまま踏襲したまでのことです。ですから、地方自治法や都道府県条例では、市となるための要件や町となるための要件などは規定されていても、「府となるための要件」や「都となるための要件」は存在しないわけです。

 特に府と県はその実態から言って全く同じものです。なぜ、「府と県は」かというと、東京都の特別区の存在が「都」に府県とは違った役割を持たせているからです。
 すなわち、東京都はその区域の内、市町村の区域については通常の府県の権能を有し、特別区の区域については府県と市の両方の権能を有するという離れ業をやってのけています。これも一言で言えば、沿革上の都の組織を踏襲した結果です。戦時中、首都の一体的な行政遂行を目的として東京府と東京市を統合した「東京都制」が施行されましたが、戦後も「東京市」が復活することなくそのままの形が残されたわけです。戦後、区長の公選が行われましたが、昭和27年に議会選任制(都知事の同意のもと、議会が選任)となり、特別区は再び都の内部団体としての色彩が濃くなります。しかし、これでは通常の有権者は基礎自治体である市町村と広域自治体である府県の両方の自治に参加できるのに、特別区の有権者は都の自治にしか参加できない(通常の地方自治は二層制だが、特別区では一層制)という問題点が指摘され、昭和50年、区長公選が復活し、平成11年には基礎自治体に昇格して他の市町村なみの体裁を整えるにいたったのです。
 しかし、依然として都区財政調整制度や、23区職員の一括採用、消防・水道の都による運営など、通常の市町村とは異なる面が多く、やはり現在も名実共に「特別区」なのです。

 また、現在の「都」は、戦前の「東京都制」とは違って、東京に限った制度ではないので、例えば神奈川県や大阪府を大都市行政の一手段として「都」とすることは法理論上は可能です。そもそも、都と特別区の定義自体が自治法にはない、と言った方が早いでしょうか。

 道についても、沿革上の呼称をそのまま用いているだけであり、元来、一地方名であったものが府県と同じ位置付けをされた、という経緯の違いがあるだけで府県と同様のものです。

 ちなみに王政復古ののち、府は10府ありました。このことに触れている書物がわりと少ないので以下に列挙してみます。

 箱館府、東京府(←江戸府)、神奈川府、新潟府(←越後府)、甲斐府、
 度会府、京都府、大阪府、奈良府、長崎府
 ※東京府は江戸府から、新潟府は越後府から改称したものですが、新潟府とその後別個に成立した越後府とが
  一時並立した時期もあった様です。これを含めると11府あったことになります。

 この10府の内、のちに残る3府以外は全て1年足らずで廃止されている様です。しかし、当時の政府がどこを要地と考えていたかを物語る興味深い事実だと思います。

 それにしても、いろいろな統計をとる際に、23区は一つの都市と見なされながら、それを指す適切な言葉が存在しないのにはやっぱり違和感ありますよね。例え「特別区」、「23区」と表記しても、他のケースでは「神奈川県-横浜市-都筑区」のように住所表記と一致するのに対し、「東京都-特別区-渋谷区」なんていう住所ないですよね。
[7739] 2003年 1月 16日(木)00:01:18【1】Issie さん
3府以外の府
[7705] utt さん,[7717] ken さん
>>都道府県の格っていうものは、なんなんでしょうね?
>廃藩置県時に「府」を置いたのは、「大阪、京都を一介の県にするなんて、
>とても考えられない」という「特別感」が気持ちの上でも、実態としてもあったと思いますね。
>せめて称号を付けたいという心理。

本来,「府」と「県」の間に“格”の違いがあったのかどうかわかりません。
実は明治政府の発足直後には,江戸(東京)・京都・大阪を含めて,以下の「府」が設置されています。

箱館府 68.閏4.24(69.7.8 廃止,開拓使の管轄へ)
江戸府 68.5.11(68.7.17 東京府へ改称)
神奈川府 68.6.17(68.9.21 神奈川県へ改称)
越後府 68.5.29 [高田→柏崎]→ 68.9.21 新潟府(70.3.7 水原県と統合,新潟県へ改称)
越後府 69.2.8[水原;新潟府から分離](69.7.27 水原県へ改称;70.3.7 新潟県へ統
甲斐府 68.10.28 (府中県・市川県・石和県を統合;69.7.20 甲府県へ改称)
渡会府 68.7.6 (69.7.17 渡会県へ改称)[伊勢市山田]
京都府 68.閏4.24
大阪府 68.5.2
長崎府 68.5.4 (69.6.20 長崎県へ改称)
(日付はもちろん旧暦)

この段階では各地に「藩」が存在していますから,これらは当然すべてが旧幕府直轄領を管轄するものです。そして,どれもが「町奉行」や「遠国奉行」などが管轄していた(あるいはそれに匹敵しそうな)主要都市ですね。良く見ると「3府+5港(兵庫を除く)+甲府・山田」という組み合わせですね。「越後府」というのが若干意味不明ですが。
それに対して「代官」「郡代」の管轄していた地域には「県」が設置されています。
どうも,“格の違い”というよりは,“機能の違い”という気がしないでもありません。

“5港”のうち「兵庫県」が初めから「県」なのが一瞬不思議に感じたのですが,考えてみたら明治政府の発足当時,兵庫(神戸)はまだ開港されておらず,この取り扱いが明治政府にとって最初の大きな外交課題だったのでした。それが原因かしら。

その後発布された太政官布告によって「府」は東京・京都・大阪に限定されることになり,それ以外はすべて「県」に改称されています。ここには「府」は別格,という意識が芽生えているのかもしれません。
なお,誤解なきように。
この段階の「府」は基本的にはその都市と近郊地域を管轄するという点で,現在の「市」レベルの行政単位です。そもそも「郡県制」では中国の秦の時代以来,「郡」の方がより大きな区分で「府」や「県」はその下位区分でした。ところが,日本では廃藩置県後の府県の統合・再編を通じて,「府県」と「郡」の関係が逆転してしまったのですね。

>「道」は逆に「県」たり得ない未熟児としての「置県までの暫定名」という意識だったと思いますよ。
>いずれ置県する、という考えは絶対にあったはず。

1869年に「蝦夷ヶ島」が「北海道」と改称されて,11の「国」とたくさんの「郡」が設定されます。
この段階では北海道に限らず「内地」でも,「道-国-郡」という律令制以来の地域区分の体系と,幕府や敗戦藩から没収して明治政府直轄になった地域に設置された「府県」とは全然別の体系で,お互いにリンクはしていなかったような気がします。
初めのうち,明治政府は北海道を郡単位で分割して諸侯(旧大名)に管轄権を与えようとしていますよね。だとすれば,そこは「県」ではなくて「藩」の領域になったのかもしれない。結局その方針は放棄されて,「開拓使」が北海道全域を管轄することになるのですが。
ともかく,「開拓使」が1882年に廃止された後,実際北海道には「函館県」「札幌県」「根室県」の3県が設置されました。けれども1886年にはこれらの「県」は廃止されて,「北海道庁」が設置され,これが「北海道」という呼称の地域を管轄することになりました。
ここも誤解なきように。
この段階の「北海道」という呼称は「府」や「県」に類似した「道」という地域区分の単位に由来する(つまり「東京+府」のように「北海+道」)のではありません。“内地”でとっくの昔に「道」という地域区分が意味を失ってしまったこの当時,「北海道」はもはや分解することのできない“一塊”の,そして単なる地域呼称です。ここを管轄する地方官庁は「北海道」ではなく,「北海道庁」です。
「(南)樺太」を管轄する「樺太庁」,「関東州(旅順・大連地域)」を管轄する「関東庁」,「南洋諸島」を管轄する「南洋庁」と,「北海道」を管轄する「北海道庁」は,地域と管轄官庁の呼称としてパラレルの関係にある,と考えるとわかりやすいかもしれません。

「道」が「府」や「県」や「都」と同じ地域区分の単位となるのは,実に1947年の地方自治法施行以後のことなのです。
そして,地方自治法の下では「都」「道」「府」「県」というのは単に従来の呼称をそのまま継承しているだけであって,(少なくとも)制度上それぞれの語尾にかかわらず47都道府県は「完全に同格」の存在,ということになっているはずです。

>>しかし、平成版・廃県置県を考えてみても、大宝律令の分国制が、千数百年たっても、現状の生活圏と一致しているところが多いのは驚きますね。
>いえ、国境の変化は少なからずあるみたいです。

これも誤解が多いんですけどね,律令時代から「国」の範囲が不変だったわけではありません。
たとえば「志摩」。今は志摩半島に限定された小国ですけれども,元々は現在の三重県北牟婁郡の地域も「志摩」に含まれていました。徐々に「紀伊」との国境が東へ移動して,つまり「紀伊」が東へ拡大して行ったのです。
たとえば今は「信濃」に含まれる木曽。元々,「信濃」と「美濃」の境界は木曽川と奈良井川(千曲川・信濃川水系)の分水界の鳥居峠とされていました。つまり,木曽川沿いの谷間は「美濃」で恵那郡の内。「長野県木曽郡」の旧称は「西筑摩郡」ですが,それはもともと奈良井川の谷間だけが信濃に属していて,つまり松本平南半部の「筑摩(つかま)郡」が,のちに木曽川の谷間で伸びて行ったせいです。
で,こうした「国」や「郡」の領域の調整が全国単位で行われたのが豊臣政権から徳川政権初期のことなのですね。現在の「国郡」区分は,基本的にここで確定した近世以降のものが使用されているのです(さらに明治になって多少の調整があった)。
[62368] 2007年 11月 3日(土)21:38:35オーナー グリグリ
都道府県
過去記事にあるのかも知れませんが(記憶にはありません)、「都道府県」という用語はいつできたのでしょうか。何故、「都・道・府・県」の順番に並んだのでしょうか。「都府道県」「都府県道」などでもおかしくないように思いますが(都府県道は別の意味になってしまうかな)。
[62370] 2007年 11月 3日(土)22:43:53【1】Issie さん
Re:都道府県
[62368] グリグリ さん
過去記事にあるのかも知れませんが(記憶にはありません)、

ずっと前にあったかもしれませんね。
「地方行政官庁」を並列する際の呼称,という意味でなら,
「府県制」が「道府県制」と改称され,それまで北海道(という名前の地方)における自治体の法人としての呼称であった「北海道地方費」がこの改正法律の附則によって「道」と呼ばれることになった1946年9月,あるいは「地方自治法」施行に際して「北海道庁官制」が廃止されて地方官庁としての「北海道庁」が地方自治体としての「北海道」にかわった1947年5月3日,といえるのかもしれません。

「都道府県」に至る流れをおさらいすると…

1)初めに「府藩県」という呼称が成立した。
・王政復古によって成立した明治新政府は,慶応4(明治元)年閏4月21日(太陽暦1868年6月11日)に 政体書 を発し,地方官庁として「府,藩,県」を置くこととした。府→藩→県 というのは,政体書の第12条「官職」に記載されている順番。
「府」と「県」は明治政府の直轄地に置かれる。当初,「府」は(江戸)町奉行や遠国奉行の支配地など各地に設置されたが,明治2年7月17日(太陽暦1869年8月18日)の布告により,京都・東京・大阪の3府に限定される。この措置から「府」が「県」よりも上位であることが推察される。
「藩」は,大名改め“諸侯”の支配地。明治2年6月17日の 版籍奉還 により,諸侯は天皇(政府)により任命される地方長官,すなわち「知藩事」とされ,「藩」が正式な地方行政官庁となる。
この地方制度を「府藩県三治制」と呼ぶ。

2)廃藩置県 (明治4年7月14日;太陽暦1871年8月29日)により「藩」が廃止。地方行政官庁として「府」「県」が残る。

3)1886年1月,北海道3県(札幌・函館・根室)が廃止されて,「北海道庁」が設置される。以後,地方官庁を並列する際には「庁府県」という呼称が用いられるようになる。

4)1943年7月に「東京都制」が施行されて「東京都」が設置,地方官庁の首位に置かれる。

5)1946年9月に「府県制」の改正に際して「北海道会法」と「北海道地方費法」が廃止されて「府県制」に統合される(同法は「道府県制」と改称)。
・なお,この府県制改正は,それまで“官選”であった知事・長官(東京都,北海道庁)を住民による直接選挙による“公選制”とすることが主たる目的であった。東京都と北海道の住民が1947年4月5日の「第1回統一地方選挙」で選んだのは「知事」ではなく「長官」である。

6)1947年5月3日,新憲法および地方自治法施行により,「道府県制」「東京都制」が廃止。「東京都」も「北海道(庁)」も各府県も等しく 地方自治法 による自治体(普通地方公共団体)となる。

「北海道開拓使」ないし「開拓使」が置かれていた時期には「使府県」という呼称が行われていたような気がしないのでもないのですが,確認していません。
また,地方官庁として並列する場合には「庁府県」ですが,「道府県」という呼称も「北海道庁」存在時にも行われていたかもしれません。これも未確認です。

当たり前のことですが,少なくとも「都道府県」の4つがそろう1943年7月1日以前ではないことだけは,確かですね。
順番は…,結局は“過去の歴史の蓄積”ということなのでしょうかね。「庁府県」なのは,どうも 北海道庁 が他の一般府県よりも上位に置かれていたせいであるようです。たとえば,俸給の面でも 北海道庁長官 の方が 府県知事 よりも高給でした。逆に言えば,「東京府知事」の地位はそれほど高くなかったのですね。
でも,東京都が設置されると,他の府県知事や北海道庁長官が「勅任官」(天皇の命令で任命する)とされたのに対して,「東京都長官」は 内閣総理大臣 などと同じ「親任官」(天皇が直接任命する)とワンランク上に位置づけられていました。
だから“長官”(知事を含む)のランクから言えば,都→道→府→県 という順番なのでしょうね。
(この部分,百瀬隆『事典 昭和戦前期の日本 制度と実態』1990年,吉川弘文館 を参照)
[62373] 2007年 11月 4日(日)05:49:40【1】雪の字 さん
「都道府県」の起源
ご無沙汰しております、雪の字です。

[62368] グリグリ さん
「都道府県」と言う言葉がいつから使われるようになったのかは、私もずっと気になっていました。樺太の地方制度について調べていくうちに、ふと気になったのがきっかけでした。
「落書き帳」の過去ログを検索してみたりしましたけれど、本格的に「都道府県の起源はいつなのか?」と調べるまでには至っておらず、残念ながら、はっきり「これだ!」と申しあげる根拠は、未だ発見できておりません。
ご参考までに、これまで気づいたことをご紹介したいと思います。

なお、以下は「都道府県」と言う「言葉」の起源について考えてみたものです。制度上の「都道府県」については、これまで幾人もの方が詳しく書いておられますので、そちらをご覧下さい。
「地域」と「自治体」を混同なさらないよう、お願いいたします(グリグリさんをはじめ、ほとんどの方には申し上げるまでも無いことですけれど)

まず、既に[62370]でIssieさんも書いておられる通り、「都」の出現が昭和18年です。
このとき、従来の「庁府県」と合わせて「都庁府県」という言葉が現れます。例としては、昭和18年勅令第548号「地方行政協議会令」などがあります。
そして、この時点で、「道府県」と言う言葉は既に存在していました。
北海道を「道」と略すことは、意外ですけれど、「北海道庁」時代にも行われていました。いくつかの法令などでも、「道府県」という言葉が使用されています。起源はかなり古いようで、私がこれまで目にした中で最も古いものは、明治40年の「師範学校生徒定員ニ関スル件」(勅令第347号)です。
(これ以前の使用例をご存じの方がおられましたら、ご教示頂ければ幸いです。なお、明治19年の「師範学校令」(勅令第13号)では、「府県」という言葉が使われています)
このように、昭和18年には、「庁府県」と同時に「道府県」と言う言葉が存在しており、前者については「都」と合わせて使われています。
このことから考えると、「都道府県」という言葉も、昭和18年に使われ始めた可能性がきわめて高い、と思います。

とはいえ、実際の使用例は未確認ですから、現実の起源は、やはり制度と同じ「地方自治法」以降かもしれません。曖昧なことしか申し上げられず、恐縮ですけれど、この一文がさらなる話題の呼び水となればと思い、あえて書き込みさせて頂きました。


[59383]以降にレスを下さったみなさん
時機を逸してしまい、反応することができず、失礼しました。
いろいろご教示くださり、ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
[62375] 2007年 11月 4日(日)11:56:49【3】Issie さん
続・都道府県
[62373] 雪の字 さん
北海道を「道」と略すことは、意外ですけれど、「北海道庁」時代にも行われていました。いくつかの法令などでも、「道府県」という言葉が使用されています。

補足をありがとうございます。
「師範学校生徒定員ニ関スル件」(勅令第347号) の現物を今,目にすることができないので,ここで使われる「道」が“地方官庁としての「北海道庁」”を意味するのか,“地方区分としての「北海道」”を意味するのか,どちらかわからないのですが,後者の意味として「北海道」を「道」と称することはあると思います。

「東京府」とか「神奈川県」などの府県名は,“地方官庁の名前”であると同時に“地方区分の名前”でもあります。前者を「北海道庁」「樺太庁」,後者を「北海道」「樺太」と呼んで区別できる両地域とは違って,“内地”の府県はこの二面性があるために,むしろややこしくなるのかもしれません。
が,この後者,“地方区分”の単位を並列するときには,「道府県」という呼称が成り立つのだろうと思います。

「蝦夷地」を改称した「北海道」(明治2年8月15日:太陽暦1869年9月20日)という地方区分名の由来には,さまざまな説明があるわけですが,“内地”の地方区分との整合性を考えれば,「東海道」以下の7道と同格のものであると思われます。それは,「北海道」を 渡島国 以下11の「国」に分け,各国をさらに「郡」に分ける,道・国・郡制を内地と同様に採っていることからも分かります。
まず,「道」が「国」よりも大きな地方区分単位であることは明白です。ただ内地では,本来は道国郡とは全く別系統の制度である「府県」で分けることが行われて,「東海道」以下の7道は行政上の地方区分としては,ほぼ廃れてしまいました。

本来別系統ですから,「道」と「府県」の上下関係あるいは包摂関係を考察することはできないのですが,1つだけ手がかりとなるのは 北海道 に「県」が設置されていた4年間(1882~86年)。「北海道」の中に「札幌県」「函館県」「根室県」の3県が設置されていたわけだから,「道」の方が「県」よりも“大きな”単位であることが推察できそうです。そういえば,「箱館府」が設置されたこともありました(ただし,「北海道」設置前に廃止)。
とりあえず,区分の大きさという点では「府」と「県」が“同格”であると考えれば,「道>府県」ということになるのかもしれません。
いや,こんな回りくどいことを考えなくても,「道府県」という順序はその大きさから感覚的に理解できそうです(この場合,「府」の方が「県」よりも上位であるという暗黙の了解があってのことですが)。

最後に登場した「都(と)」が首位に躍り出るのは,結局のところ「都(みやこ)」であることに尽きるのでしょう。むしろ,[62370] で触れた「東京府」の地位の低さの方が,(今日の目から見れば)驚きの対象です。が,実際,東京府知事には他の45人の知事が持っている“警察権”を(形式的にも)持っていなかった(各府県における警察の責任者は知事であるが,東京府のみ 警視総監 とされ,知事の指揮下にはなかった)ことをはじめ,46人の知事の中で最も権限の少ない知事だったかもしれません。
その警視総監も,1943年には 東京都長官 の指揮下(制度上は,長官が兼任する 関東信越地方総監 の指揮下)に入り,「都長官」の地位・権限は大きなものであったようです。
ま,「都」が首位であるのは当然,というのは理解できることでしょう。

今さら参考にする必要もないことですが,ついでに 律令官制 にさかのぼってみると,現在の道府県知事に相当する「国守」(国司の長官)と東京都知事に相当する「左京大夫(さきょうだいぶ)/右京大夫」(京職[きょうしき]の長官)」を比較すると,前者は大国(国は大きさないし重要度により 大・上・中・下 の4等級に区分された)の守(かみ)で“従五位上”,後者は“従四位下”で3ランクも上に位置づけられています。上国の守は“従五位下”が相当とされていますが,これは京職の次官,つまり 東京都副知事 に相当する「左京亮(さきょうのすけ)/右京亮」と同格です。
都(みやこ)を管轄する役人の地位は,地方官よりも高かったのです。
もちろん,20世紀も半ばになってこのようなものを参考にしたわけもないでしょうが,「都(と)」の位置づけは,やっぱり高いのですね。
[62377] 2007年 11月 4日(日)12:31:53【1】hmt さん
「都道府県」という用語は、昭和18年7月1日の東京都制と同日に誕生
[62368] オーナー グリグリ さん
過去記事にあるのかも知れませんが(記憶にはありません)、「都道府県」という用語はいつできたのでしょうか。
[62370] Issie さん
当たり前のことですが,少なくとも「都道府県」の4つがそろう1943年7月1日以前ではないことだけは,確かですね。
[62373] 雪の字 さん
昭和18年…従来の「庁府県」と合わせて「都庁府県」という言葉が現れます。例としては、昭和18年勅令第548号
昭和18年には、「庁府県」と同時に「道府県」と言う言葉が存在しており、前者については「都」と合わせて使われています。
このことから考えると、「都道府県」という言葉も、昭和18年に使われ始めた可能性がきわめて高い、と思います。

日本法令索引 により、法令名に現れた「都道府県」という用語を調べてみました。

それによると、制定時の昭和16年10月1日には「道府県農業再保険審査会規程」(勅令889)の題名が、昭和18年7月1日の東京都制と同日に「都道府県農業再保険審査会規程」と改正されています。
農林省令の「都道府県農業共済保険審査会規程施行規則」も、同日の改正で「道府県…」から変ったようです。

この昭和18年よりもずっと前から、「北海道庁」を「府県」と併称する「道府県」という言葉が存在したことは、雪の字 さんの発言にある通りです。明治40年の勅令よりも前、明治38年の大蔵省令 を早い事例として示しておきます。
北海道罹災救助基金法第4条及罹災救助基金法第16条第2項に依り道府県罹災救助基金管理方法左の通指定す

もっと前に遡ると、明治35年の 司法省令第4号 では、
監獄費ヨリ北海道地方費及府県ニ償還スヘキ費額
というように、「北海道地方費」と「府県」とを書き分けていますから、日露戦争頃が分かれ目でしょうか。

「北海道地方費」という言葉については、過去記事 でも触れていますが、上記の例に示されたように、北海道庁の管理する「費用区分」としての使い方が正統的なもののような気がします。

北海道(という名前の地方)における自治体の法人としての呼称であった「北海道地方費」[62370] Issie さん
のように、北海道地方費そのものが北海道庁とは別の「法人」だったという根拠があれば、考えを変えなければならないのですが。

[62368] オーナー グリグリ さん
過去記事にあるのかも知れませんが

冗談めかした言い方ですが、かつて[53577]において、こんなことを書いたことがあります。
「北海道庁」と呼ばれたことは聞いていましたが、「北海道地方費」という地方自治体があったとは初耳であり、かつ意外でした。
昔は「都道府県市区町村」は「都費府県市区町村」だったの? いや、1943年より前、「都」も「特別区」もなかった戦前だから「費府県市町村」?
でも、やっぱりおかしいな…というのが、率直な気持ちです。

【追記】
本文で記した明治38年の大蔵省令の例示は、[62373] 雪の字 さんの発言
明治40年の「師範学校生徒定員ニ関スル件」…(これ以前の使用例をご存じの方がおられましたら、ご教示頂ければ…
に応じたものだったのですが、[62385]で記したように、「師範学校…」が明治30年の勅令だったので、明治38年の使用例を示すことは無意味だったようです。
[62385] 2007年 11月 4日(日)19:35:02【1】hmt さん
近代デジタルライブラリー収録の「法令全書」
[62375] Issie さん
「師範学校生徒定員ニ関スル件」(勅令第347号) の現物を今,目にすることができないので,

国立国会図書館の近代デジタルライブラリーに収録されている明治の「法令全書」については既に言及したことがあります。[61876]
この電子図書館が実現する前の 2004年当時、法令全書閲覧のためにIssie さんが国会図書館に足を運ばれていたことは[32037]で承知していたのですが、最近は近代デジタルライブラリーを利用されているものとばかり思っていました。

まだご利用経験がないのでしたら、僭越ながら「師範学校生徒定員ニ関スル件」を題材に、私の心得ている手法を紹介することで、ご参考に供します。

最初に、年代が明治19年2月よりも前か後かをチェックします。
「太政官布告」など、慶応3年10月大政奉還から明治19年2月公文式公布に至るまでに制定された法令ならば、日本法令索引(明治前期編) の検索対象になっています。
この場合は、検索結果から直接に法令全書の該当ページにリンクされているので、それ以上の手間は要りません。

明治19年2月以降明治末年までの場合は、日本法令索引 で検索して、日付と法令形式、番号を確認しておきます。
「師範学校生徒定員」の場合は年代からしてこれに該当し、検索結果は下記の通りでした。
師範学校生徒定員(明治30年10月 9日勅令第347号)

オヤオヤ、[62373] 雪の字 さんが書かれた“明治40年”は誤記だったようですね。
この日付・種別・番号の情報を手がかりに、近代デジタルライブラリーのURLを探します。

ここで、法令全書が収録されたURLのフォーマットを例示しておきます。
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40022968&VOL_NUM=00081&KOMA=28&ITYPE=0
NUM=00081が第81冊を、KOMA=28がその28コマであることを示しています。

年号と冊子番号との関係は次の通りです。
イロハ別索引第1-2冊慶応3年第3冊明治2年第4冊明治3年第5冊明治4年第6冊
明治5年第7冊明治6年第8冊明治7年第9冊明治8年第10冊明治9年第11冊
明治10年第12冊明治11年第13冊明治12年第14冊明治13年第15冊明治14年第16冊
明治15年第17冊明治16年第18冊明治17年第19-20冊明治18年第21-22冊明治19年第23-24冊
明治20年第25-26冊明治21年第27-29冊明治22年第30-32冊明治23年第33-37冊明治24年第38-40冊
明治25年第41-43冊明治26年第44-46冊明治27年第47-49冊明治28年第50-52冊明治29年第53-56冊
明治30年第57-60冊明治31年第61-64冊明治32年第65-69冊明治33年第70-74冊明治34年第75-78冊
明治35年第79-83冊明治36年第84-88冊明治37年第89-93冊明治38年第94-98冊明治39年第99-104冊
明治40年第105-110冊明治41年第111-116冊明治42年第117-122冊明治43年第123-128冊明治44年第129-134冊
明治45年第135-139冊

ここまで来れば、冊子からページを探すことに熟達した Issie さんにとっては、該当ページにたどりつくことは容易だと思います。

私は、法令全書の配列順序についてさほど詳しくないので、索引>法律>予算>勅令>省令>…というような順番に並んでおり、それぞれについて日付順(省令は省の種類に関係なく日付優先)という程度の概略の知識だけを頼りに、その年の中の位置を推定し、試行錯誤を繰り返しながら該当するURLに到達しています。
もっとよい手法があれば、教えていただきたいと思います。

このようにして到達した「明治30年10月9日勅令347号」は、第58冊483コマ、すなわち
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40022968&VOL_NUM=00058&KOMA=483&ITYPE=0
です。

問題の「道府県」は、“道府県管内学齢児童数三分の二に対し…”という文脈で使われています。
“地方官庁としての「北海道庁」管内”を意味しているようですね。

【追記】
[62379] faith さん
明治34年の北海道会法、北海道地方費法によって、(島としての)北海道全体をカバーする自治体が初めてできた…
すなわち、「北海道及び府県」という言葉が使われるようになるきっかけはここにあると考えます。

北海道会など北海道全体をカバーする地方団体が出現する明治34年よりも前から、既に「北海道庁」の中には、「府県」に類似した「地方団体的機能」が存在したと思われます。
明治30年の勅令において、既に「北海道」と「府県」を併称した「道府県管内」という使い方がなされていたことは、そのような実態を反映したものであると考えます。
[62386] 2007年 11月 4日(日)21:42:36北の住人 さん
北海-道
「都道府県」「道府県」という語の使用時期ではなく、北海道という地域を単に「道」と表現したのはいつ頃からかということについてです。
手元にある明治20年代の本(明治24年発行、永田方正「蝦夷語地名解」など)には「当道」「本道」という表現がみられ、明治30年2月発行の「札幌沿革史」(札幌史学会著)の序文には「自明治二年、始定置道之制、以札幌為庁治」という表現があります。
明治2年の松浦武四郎「北海道々国郡名撰定上書」で「道名之儀申上候書付」として幾つかの名称を武四郎が考え、その後「北海道」の名が制定されたわけで、公式ではないかもしれませんが、道内ではその頃から「道」という略称を用いていたのではと思います。

なお、「札幌沿革史」を著した「札幌史学会」の会長は新渡戸稲造であり、「札幌沿革史」編集の中心人物は永田方正です。
[62392] 2007年 11月 5日(月)00:43:46雪の字 さん
都庁府県と都道府県
[53090]で、三文字県名は無い、などと書いてしまった雪の字です。またやってしまいました…

既に[62385]hmtさんがご指摘下さいました通り、勅令第347号「師範学校生徒定員」(前の書き込みでは、法令名を「師範学校生徒定員ニ関スル件」としましたけれど、日本法令索引に従います)の年代は、明治40年ではなく、明治30年でした。
図書館で条文を筆写した際に誤記したものと思います。最近はできるだけコピーを取らせて頂くようにしているのですけれど。とにかく、誤った内容を書き込んでしまい、申し訳ありませんでした。
なお、[62373]の誤記につきましては、敢えて訂正せず、そのまま残したいと思います。紛らわしい内容が残るのは好ましくないと思いますけれど、頂いたレスとの整合性を保つため、そして自戒の意味を込めてのことです。どうか悪しからずご理解下さい。

では本題です。
[62375]Issieさん
ここで使われる「道」が“地方官庁としての「北海道庁」”を意味するのか,“地方区分としての「北海道」”を意味するのか(中略)後者の意味として「北海道」を「道」と称することはあると思います。
[62385]hmtさん
“地方官庁としての「北海道庁」管内”を意味しているようですね。
ここで思い出したものがあります。
内務省警保局が作成したある史料(戦前期であることは間違いないと思いますけれど、正確な年代は不詳。国立公文書館蔵。請求番号:分館-06-031-00・平13警察00045100。国立公文書館デジタルアーカイブで画像を閲覧できます)の中では、北海道および他の府県に並ぶ「庁府県」として、東京府(或いは東京都?)ではなく「警視庁」が挙げられているのです。「庁府県」と「道府県」の意味の違いを示す、一つの例のように思われます。
「都庁府県」は、地方官庁の略称、そして「都道府県」は、その管轄区域を指す略称、と理解して良いのではないでしょうか。

[62386]北の住人さんの書き込みは、上の解釈を補強しているようです。また(少し話題とは外れますけれど)、松浦武四郎から「地方自治法」に至るまで、北海道の「道」とは、「五畿七道」と言う場合のような「道」である、という感覚が(制度上の実態とは関わりなく)働いていたことを示している様にも思われます。
ちなみに、このあたりの話題は、アーカイブスの北海道はなぜ「北海」と略さないの?などでも詳しく触れられておりますね。興味深く拝見致しました。

余談ですけれど、
[62377]htmさん
[53577]の「都費府県市区町村」は衝撃的で、良く記憶に残っております。樺太はどうなるの?と頭を捻ってみたものです。答えは出ませんでしたけれど。

それに致しましても、[62373]で書き込みさせて頂いた後、[62375]で早速Issieさんのレスを頂き、さらに[62377]ではhmtさんのご教示で「都道府県」の起源が(しかも「日本法令索引」と言うページの存在を知ることができたというプラス・アルファまで付いて)判明するまで、経過時間は6時間足らず、レス数にして僅か4つ!
改めて、「落書き帳」の凄さを感じました。
[62394] 2007年 11月 5日(月)17:51:53【1】hmt さん
戦前 内地の地方官庁は 2庁3府43県?
[62392] 雪の字 さん
北海道および他の府県に並ぶ「庁府県」として、東京府(或いは東京都?)ではなく「警視庁」が挙げられているのです。

例示された文書を閲覧してみると、“カフェーは各地方法令たる庁府県令に依って取締まっている。” と記した上で、警視庁「特殊飲食店営業取締規則」、千葉県「カフェー取締規則」等を紹介しています。

戦前の「警視庁」は、知事の管轄下にある現在とは立場が異なり、内務省の直轄でした。
警視総監は 東京府知事と同格、というか俸給は上だったとか。
戦前、内務省管轄下の 北海道庁長官や 府県知事は、「北海道庁令」や「府県令」という命令を制定することができましたが、同様に、警視総監も「警視庁令」を制定することができたのですね。

そういう意味では、地方官庁としての性格もあった3府43県と並ぶ存在として、「北海道庁」の他に「警視庁」もあったわけで、内地の地方官庁は 「2庁3府43県」だったのでしょうか。
# 拓務省管轄下の外地には、朝鮮総督府、台湾総督府、樺太庁、南洋庁などもありました。関東州[35703]の行政官庁の名は時代により異なりますが、関東庁の時代もありました。

東京都公報の歴史 を見ると、ずっと下の方に、警視庁と東京府が共同で発行した公報の写真が掲載されています。
本年十月一日より警視庁東京府公報を発行し、警視庁令は同日より右公報に登載するを以て公布式と定む(明治31年9月25日、警視庁令第28号)

これを見ても、「警視庁」は「東京府」と同格の地方官庁だったことが窺えます。
[62849] 2007年 12月 15日(土)14:08:40【1】オーナー グリグリ
「都道府県」という呼称の順序について(御礼&再疑問)
一ヶ月以上前になりますが、[62368]で私が投げかけた疑問に対して多くの書き込みをいただきました。御礼が遅くなり申し訳ありません。一応全部読ませていただいていますが関連する書き込みは、[62370][62373] [62375] [62377] [62385] [62386] [62392] あたりでしょうか(すみません、全部拾いきれてないかもしれません)。

「都道府県」という呼称は東京都ができた後からと言うのは当然なのですが、「都」+「道府県」の順序関係になったのは自然だとして、なぜ「道府県」なのかということが疑問の発端でした。皆さんの議論も「道府県」の成り立ちに集中しましたね。とくに、これは以前からも話題になっていた北海道の特殊性に議論が集中した感があります。しかしながら、北海道を「道」で代表することになった経緯はともかく、なぜ「道」「府」「県」の順序なんでしょうね。[62375]でIssieさんが
「道府県」という順序はその大きさから感覚的に理解できそうです
と述べられていますが、私は単純に数の少ない順に並べたのかなと考えていました。「1都1道2府43県」という表現が先にあったのか、あるいは意識したのではないのかなと(同数の都と道はその格の違い?もしくは語呂の良さで順序付けかな)。沖縄返還前の私の小学生時代には「1都1道2府42県」と覚えさせられました。この語呂は今でも脳に鮮明に焼き付いています。
[75405] 2010年 6月 25日(金)22:26:51hmt さん
「都道府県」という呼称の順序について
[62849] オーナー グリグリ さん
「都」+「道府県」の順序関係になったのは自然だとして、なぜ「道府県」なのかということが疑問の発端でした。
なぜ「道」「府」「県」の順序なんでしょうね。

hmtマガジンの 特集 都道府県 を見直したら、次の記事がありました。

[7739] Issie さん  3府以外の府
良く見ると「3府+5港(兵庫を除く)+甲府・山田」という組み合わせですね。「越後府」というのが若干意味不明ですが。
それに対して「代官」「郡代」の管轄していた地域には「県」が設置されています。
どうも,“格の違い”というよりは,“機能の違い”という気がしないでもありません。

なるほど。「府」は国家統治の重要拠点であり、「県」 = 一般の旧幕府直轄地 とは違う、国の関与が大きい地域と思われます。

「国(政府)の関与が大きい」とは、言い換えれば「自治の制限」ということです。
後の時代になりますが、3府の中核をなす東京・京都・大阪の3市は、「市制町村制」直前に制定された特例法によって、事実上自治が骨抜きにされることになります[53890]

開拓のフロンティアとして政府直轄地的な性格の強かった北海道[53577]。府県制とは別立ての北海道庁官制により統治され、地方自治は極めて制限されたものでした。

そして、戦時体制下に制定された「東京都制」[228][74793]。大日本帝国の要である「帝都」の統治システムは、政府の方針に沿ったものでなければならず、明治以来の数十年で少しずつ進展してきた地方自治体制を逆行させるものでした。

結局のところ、1943年までに出来上がった「都道府県」という言葉に現れた4種類の順番は、国の立場からの関与の大きい順番であると理解できます。

戦後の日本国憲法・地方自治法で「都道府県」の法的な違いはなくなったが、4種類の言葉とその順番は、慣習として生き残っている。
これが「再疑問」に対する私の答えです。

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