[57874] 役チャン さん
湯浅の庁舎は…4階建てですが その頃の流行だったのかどうか 消防署の望楼のような更に4階分くらいの高い塔屋が建っていました。
望楼らしい塔屋があるという記述に接して、ピンと来たのは、地震が起きた際の津波への警戒体制です。
紀州の湯浅町と広村(現・広川町)は、昔から何度も繰り返して起こった南海大地震による津波の被害を受けてきた歴史があります。
最近400年間を見ても、慶長10年(1605)、宝永4年(1707)、安政元年(1854)、昭和21年(1946)と、約100年毎に地震津波災害を被っており、次の南海地震の到来も、時間の問題とされています。
インド洋大津波(2004年12月)の後で、「稲むらの火」の物語を紹介しました。
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これは、広村の濱口梧陵が、安政南海地震に伴なって起こった津波の「引き波」を高台から発見し、とっさの機転で稲むらに火を放って村人に危険を知らせ、多くの人命を救ったというお話です。
ラフカディオ・ハーンの英文の著作「A Living God」によって、この話を学んだ広村の中井常蔵が書いた文章が、戦前の
「小学国語読本」 と、その後の国民学校の「初等科国語」に収録され、昔は「国民の常識」になっていた話でした。
ところで、改めて
防災システム研究所 の記事を見ると、「稲むらの火」は、教科書の物語のように、村人に津波の危険を知らせる目的ではなく、暗い夜に逃げ道を教える目印だったようです。
実は 前日、嘉永7年11月4日(1854/12/23)10時頃には東海地震が起こっており、この時から津波襲来を警戒していました。
そして、30時間後の11月5日16時頃には南海地震が起こり、これが大津波をもたらしました。夜になっても逃げ遅れた人が多く、これを高台に導いて救うための目印の火でした。
# 11月に大災害に見舞われた嘉永7年は、師走に安政元年と改元され、歴史記録としては、東海地震・南海地震も「安政」になっています。実際には年号のような「安らかな政治」が実現したわけではなく、天災も終息せずに、翌年10月には安政江戸地震に襲われます。
話を「醤油のふるさと」に戻します。
鎌倉時代、紀州由良(紀州湯浅から熊野道を1里余南)の興国寺開祖・法燈國師覚心が南宋からもたらした金山寺味噌。
夏野菜を塩と麹で漬けた保存食品ですが、その「樽に溜まる液体」で食べ物を煮ると美味しいことから、わざと水分を多く仕込んだ「溜まり醤油」が湯浅で造られるようになったのが醤油の起源とか(紀伊国名所図会)。
現在でも、湯浅には醤油屋さんがたくさんあるようですが、全国的な5大メーカーは、東の野田と銚子(2社)、西の龍野と小豆島になっています。
その銚子のヤマサの主人が、「稲むらの火」の濱口梧陵で、広川をはさんで湯浅と町続きの広村の人でした。
一見離れているような紀州と銚子ですが、紀州から黒潮の道を進めば銚子に行き着くのですね。古くから漁民の漂着などを通じて交流の歴史があったものと思われます。
銚子最大の産業である漁業も、紀州から導入された技術でした。銚子の外川港を作ったのは、紀州出身の崎山次郎右衛門とのことです。
17世紀、江戸が日本の政治中心地になって大都市に発展すると、醤油の需要も増えましたが、初めは上方からの「下り醤油」が上物とされたのは「下り酒」など他の商品と同様でした。しかし、関東での現地生産品=「下らない物」も、こと醤油に関しては、やがて高い評価を得るようになりました。
それは、大豆や小麦の原料に恵まれていただけでなく、上方の醸造技術者が渡ってきたためでもありました。
紀州広村の濱口儀兵衛(初代)が銚子に渡り、ヤマサ醤油を創業したのは正保2年(1645)、3代将軍家光の時代でした。
少し後に江戸に出現した伝説的な豪商・紀伊國屋文左衛門も紀州湯浅の出身でした。
11月8日の「ふいご祭り」で撒く蜜柑が江戸にないと聞き、みかん舟を仕立てて時化の海に乗り出して名を挙げ、その後、材木で巨利を得たり、吉原での豪遊でも知られる人物です。
時代は下って、「稲むらの火」の濱口梧陵は、19世紀に広村の分家に生まれた人ですが、銚子の本家を継いで七代目濱口儀兵衛を名乗りました。
安政地震津波の後の復興、防潮堤構築にも尽力しました。安政5年に完成した
広村堤防 のおかげで、第二次大戦直後の昭和南海地震による津波の被害は、安政に比べて大幅に軽減されました。浸水範囲を比較した地図あり。
彼はもともと産業界の人ですが、時代の激流の中で大活躍しています。防潮堤構築等の社会活動については既に触れました。
教育分野では「耐久社」を設立。現在の耐久高校。
安政5年には、江戸の西洋医学所の火災に700両を寄付して再建しました。現在の東京大学医学部。
政治の面でも、和歌山藩の末期には、その勘定奉行を勤め、明治の新政府ができると大久保利通により初代の駅逓頭に任命されました。
しかし「郵政民営化論者」だった彼は、官営により急速に近代郵便制度を確立しようとする前島密と意見が合わず、早々と和歌山県知事に転じたそうです。
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