[63711] 白桃 さん 明治31年「日本帝国人口統計」
明治2年「版籍奉還」が実施されました。「版」は 版図=領地 のことですが、「籍」の方は「領民を登録した帳簿」です。
土地・職業に固定された封建時代の人民は、人別帳や宗門帳に登録され、籍帳は毎年更新されていたようです。
明治になって産業構造が変化すると、人別帳による管理は不可能になり、代りに「戸籍」で管理する制度が創出されました。最初に作られた戸籍制度は、6年ごとの戸籍編成(
戸籍法第四則)を建前としていましたが、実際には明治5年に「壬申戸籍」が作られた後、いつまでも一斉調査が実施されませんでした。
戸籍法第五則では、“編成は爾後6ヶ年目を以って改むべしと雖も、其間の出生死去出入等は必其時々戸長に届け…”となっており、絶え間なく進行する出生・死亡・結婚・寄留等のデータが集まる各地の戸籍役場では、一斉調査に備えた付箋を貼り付けていたので、戸籍簿は付箋だらけになりました。
このような事態になると、いっそのこと一斉調査などやめてしまえということになります。
届出を強制すれば、最新の追加情報は自動的に入手できます。付箋を使わずとも、戸籍簿に直接追記することができるように、あらかじめ各人毎に欄を区切った罫線入り戸籍簿にしておきます。これが明治19年式戸籍制度でした
[62667]。
サンプル
この届出方式は、個別の管理には適合しており、現在まで踏襲されていますが、政策を決めるためのデータの取得には不向きでした。
例えば、軍部は非常時に動員できる医師・看護員・職工・舟夫などの「人的資源」を把握しておく必要があります。そのようなデータを独自に調査集計したリストには、「徴発物件表」
[63482]というその目的を端的に示した名前が付けられています。その前身は「共武政表」
[62939]という名でした。
戸籍事務を管轄していた内務省も、人口統計を発表しています。
本籍人口をベースに、寄留などによる出入を修正して「現住人口」を求めたものです。
明治5年から19年のデータは、
明治期日本全国人口統計データ [63483] oki さん に集録されていますが、府県別、郡区別などであり、7万以上に及ぶ町村別のデータはありません。
市制・町村制が実施された明治22年になると、
39市・15859町村 の年末現住人口データが、翌年10月の
内務省告示34号 で発表されました。
39市が右側の1頁にちょうど収まって、別格の存在であることを示しているようです。
明治22年以降明治30年まで(1889-1897)毎年末の「市町村現住人口」が内務省告示で発表されています。
この時代の人口データには、市制・町村制が実施されなかった北海道と沖縄県、それに島嶼のデータが欠けています。
明治31年(1898)新たな戸籍法の実施に伴ない、戸籍事務は司法省の所管に移り、人口統計事務は内閣の直属として統計局が扱うことになりました。
「明治三十一年日本帝国人口統計」 は、この時に内閣統計局によりまとめられたものです。
この明治31年以降は、町村制にかかわらず北海道と沖縄県、それに島嶼のデータも集録対象になりました。
なお、「日本帝国人口統計」は明治34年(1901)の発行ですが、その前年の
官報付録 で、「道府県島郡市町村現住人口」が発表されています。
官報の注釈(一部を引用)
明治31年12月31日に於ける其市町村の本籍人口に入の人員を加へ出の人員を除きたるものなり 陸海軍在営艦准士官以下の人員及び在監人員は本表に参入せず
「日本帝国人口統計」の方は 兵営・軍艦・監獄にいる人数も数えるので、官報の人口とは異なる値になります。
参考
官報付録では、明治36年末、明治41年(1908)末と、5年ごとのデータが発表されています。
これに続く大正2年(1913)、大正7年(1918)のデータは
「日本帝国人口静態統計」 があります。
そして、最終的には戸籍制度とは別に「国勢調査」が実施されることになりました。
前記大正7年のデータが発行された大正9年(1920)がその年であり、内閣統計局改め「国勢院」という名前になっていました。
第1回国勢調査が行なわれた1920年よりも前は、この落書き帳では「有史以前」
[19923]と呼ばれていました。
その時代にも、戸籍をベースとした政府の人口統計があり、市制町村制実施の1898年以降ならば1年~5年の間隔で市町村単位の現住人口が近代デジタルライブラリーで閲覧できることを紹介しました。