「宝塚」を話題にした機会に、この名が「地名になった」のは意外に新しいことを記しておきます。
[96956]で紹介されたFAQの回答には、「その近くで物を拾った人には幸運が舞い込むと信じられていた古墳」があり、これが市名の由来という説が記されています。
自治体名としての「宝塚」が出現したのは、宝塚市成立の約3年前、1951/3/15の町制/改称でした。
兵庫県川辺郡小浜村→宝塚町。
変遷情報を明治合併の 1889年まで遡っても、「宝塚」という旧村名は見当たりません。
「宝塚」が地名になったのは何時からか?
古墳の呼び名から地名になる間を繋ぐ名前としては、「宝塚駅」が思い浮かびます。
阪鶴鉄道宝塚駅(国鉄>JRの前身)は 1897年12月開業。阪急の前身・箕面有馬電気軌道の開業は 1910年。
駅名より更に古いのが温泉名でした。阪急の創業者・小林一三が、宝塚音楽学校創設【1913年】の頃を回顧した『宝塚生い立ちの記』を
青空文庫で読んでみると、「四十年前の宝塚風景」として次のように記されていました。
宝塚という名称は、以前には温泉の名であって、今日のような地名ではなく、しかもその温泉は、すこぶる原始的な貧弱極まるものであった。その温泉の位置はやはり現在の旧温泉のある附近…武庫川の岸にささやかな湯小屋…。その湧出する鉱泉を引いて、初めて浴場らしい形を見せたのは、明治二十五年のこと…。
その後、阪鶴鉄道の開通とともに、宝塚温泉は急速な発達を遂げたが、1910/3/10 【阪急の】電車開通当時は、武庫川の東岸【左岸】すなわち現在の宝塚新温泉側はわずかに数軒の農家が点在するのみで、閑静な松林のつづく河原に過ぎなかった。
その宝塚温泉も、明治時代に栄えたのは武庫川西岸の旧温泉側【武庫郡良元村】であったようです。
駅側の
新温泉は、阪急が乗客誘致のために明治末の 1911年に開業したものです。
私は 1950年代末期頃 大理石を使った豪華な大浴場を利用した経験がありますが、炭酸泉に溶食されていました。
炭酸カルシウムの大理石が炭酸水に溶けるのは、ケミストならずとも常識でしょう。
小林一三さんは偉大な事業経営者ですが、材質選定が不適切と実感したのでした(笑)。
それはさておき、宝塚温泉としては、広く事業を展開した新温泉が栄えました。
小林さん本人は「無理にこしらえた新都会」と記していました。
蒸気加熱設備のない室内プールで失敗しても、これを温泉客寄せの 少女歌劇場に転用し、花嫁学校につなげるなど、事業展開の才能には舌を巻きます。
「タカラヅカ」の名は温泉から脱皮し、新しい舞台芸術として 広く知られる名前になりました。
新温泉のある東岸側・川辺郡小浜村が 1951年に「川辺郡宝塚町」を名乗ることになったのも当然でしょう。
変遷情報を見ると、昭和合併時代の 1954/4/1に
宝塚市が誕生しています。
1950年国勢調査人口では、武庫川右岸の武庫郡良元村 21687人、左岸の川辺郡小浜村 15090人で、居住者は良元村の方が多いのですが、新市名は、一足先に小浜村から改名していた 全国区の「宝塚」になりました。
突然ですが、ここで女性首長の情報です。
宝塚市になって消滅した兵庫県武庫郡良元村の 最後の村長は女性でした。
岡田幾(おかだ いく) 1951/7/5当選 1954/4/1良元村消滅
岡田指月(しげつ)の名で俳誌「白扇」を共宰する女性俳人でした。
合併問題の渦中にあった村長就任時の句:身をすててゆくや茨の夏の道
宝塚市誕生を喜ぶ句:春光に産声高し宝塚
安堵して村長職を辞任する時の句:戦ひは終りて安き日永かな
出典 近代宝塚歴史紀行
【追記】
この記事は小林一三『宝塚生い立ちの記』の冒頭文「宝塚という名称は、以前には温泉の名であって、今日のような地名ではなく」に基づいて書いたものです。
その後、1672年の検地記録に「川面村の小字として宝塚東・宝塚南・宝塚北が記されている。」という異説が記されていることを、Wikipediaで発見しました。しかし、この点については 未修正です。ご承知ください。