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落書き帳

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[71778]2009年8月24日
hmt
[71779]2009年8月24日
Issie
[71783]2009年8月25日
hmt
[71790]2009年8月25日
伊豆之国

[71778] 2009年 8月 24日(月)14:09:48hmt さん
♪三島は近年ひらけたる 豆相線路のわかれみち
[71775] オーナー グリグリさん 豆相(ずそう)
伊豆と相模の両国を表すのではなく、伊豆と相模の境界エリアである湯河原や熱海のあたりをさす地域名のようです。

後北條氏から韮山代官所・足柄県[24127]に至る密接な関係を背景に、なんとなく 伊豆と相模の総称 として「豆相」という地名を理解していましたが、御説のように、総称というよりも境界領域という気もします。

江ノ島方面から伊豆の山々を望む表現として「豆相越しの夕陽」という使い方

これで思い出したのが、徳富健次郎「自然と人生」に収録されている「相模灘の落日」というエッセイの冒頭です。

秋冬風全く凪ぎ,天に一片の雲なき夕,立つて伊豆の山に落つる日を望むに,世に斯る平和のまた多かる可しとも思はれず。
初め日の西に傾くや,富士を初め相豆の連山,煙の如く薄し。

「芦花公園」というと、蘆花が晩年に永住した東京府北多摩郡千歳村粕谷(現・世田谷区)と思いますが、浪子と武男の純愛物語「不如帰」(ほととぎす)を 旅館に滞在 して執筆した 逗子にも、蘆花記念公園があります。

“富士を初め相豆の連山”には、一瞬「エ?!」となりましたが、別格の富士を筆頭に記し、その前景をなす伊豆の山々を続けた表現なのでしょう。
「豆相」でなく「相豆」でしたが、これも せいぜい箱根まで で、丹沢・大山には及ばない用法と思います。

タイトルは、もちろん1900年に発表された大和田建樹作詞 地理教育 鐵道唱歌第壹集 の16番。
相模を走っていないのに、豆相鉄道とは?
1912年に駿豆電気鉄道。これも駿河の路線なし。大雄山鉄道を合併した1941年に伊豆と相模の路線が揃ったのに、駿豆鉄道。伊豆箱根鉄道という実態に合った名になったのは、1957年でした。

なつかしのメロディーの定番「湯の町エレジー」(1948)では、豆相の山々とは呼ばずに、♪伊豆の山々月淡く…
[71779] 2009年 8月 24日(月)16:09:14【4】Issie さん
づのくに
[71778] hmt さん
1912年に駿豆電気鉄道。これも駿河の路線なし。

1934年に丹那トンネルが開通して熱海廻りルート上の現在位置に移転するまで 三島駅 は現在の御殿場線上にありました。現・下土狩駅。所在地は「駿東郡」ですから,駿河。というわけで,一応「駿豆線」ではあったのですね。

※つまり,東海道線が御殿場廻りだった頃の三島駅は,伊豆の中心都市である“行政上の三島町”ではなくて,「隣国」の駿河にあったのでした。“川向う”でも同じ国内の 厚木駅(厚木ではなく海老名に所在) や 新潟駅(新潟ではなく沼垂(ぬったり)に所在) と,どちらがビックリ度が高いでしょうかね。三島の宿場が鉄道を嫌ってああいうルートになった(いわゆる「鉄道忌避」),…わけではありませんね,たぶん。御殿場から山を下ってくるには,いや,それ以上に沼津から当時の非力な蒸気機関車で御殿場まで山を登っていくには,あのルートが合理的だったのでしょう。
ただし,(御殿場線上の)三島駅の開業は1898(明治31)年で意外に遅い。国府津から御殿場・沼津を経て静岡まではすでに1889(明治22)年に開通しています。つまり,鉄道は9年間も三島を素通りしていたわけ。…これには宿場と何かあったのかもしれない,と憶測したくもなりますが,どうなんでしょう。官設鉄道(東海道線)の三島駅開業と同時に,豆相鉄道も1ヵ月前の開業時に暫定ターミナルとしていた三島町内(三島町駅)から三島駅に乗り入れて,両線の乗換駅となりました。
ちなみに,東海道新幹線の開業は言うまでもなく1964年のことですが,(現在の)三島駅に新幹線が停車するようになったのは1969年。こちらも5年間,三島を素通りしていたのでした(ただし,車両基地が三島にあるので運転上の停車はあったのですが)。歴史は繰り返す…。
私が初めて新幹線に乗った時,ちょうど三島の駅が工事中でした。

話を戻して…,
そんなわけで,豆相鉄道は「駿河国内の伊豆三島駅」をターミナルとしていたので,辛うじて「駿豆線」の面目を保っていたわけですが,元々「駿豆線」とは三島町内と沼津駅を結んでいた軌道線の名前(駿豆電気鉄道)だったようです。さらにさかのぼれば,函南に水力発電所を設けて,静岡・神奈川両県の境界エリアに電力を供給していた「駿豆電気」がルーツだとか。戦時中の電力国家管理以前は電力会社が副業で電気鉄道を経営するのはよくあったことで(だから,田舎にも電車が走っていた),「駿豆」もその例の1つ,というわけですね。
豆相鉄道は1898年の開業後,1907年に「伊豆鉄道」に譲渡され,さらに1912年に「駿豆電気鉄道」に買収されたのでした。その後,若干の曲折を経て1923年に“堤資本”傘下(後の西武系列)に入り,1941年に同じく堤資本傘下の 大雄山鉄道 を合併して,1957年に「伊豆箱根鉄道」と改称します。そして,まさに「豆相地域」を舞台に“五島慶太資本”傘下(東急系列。戦後の“大東急”解体後は小田急系列)の 箱根登山鉄道 と激しい競争を繰り広げることになるのは,有名なお話。
その間に,1934年の東海道線のルート変更および三島駅移転の結果,駿豆線は駿河から撤退し,「駿豆」の名前の元となった軌道線は1963年に廃止されたのでした。

総称というよりも境界領域という気もします。

「武相」も同じような意味で使われている気がします。
ところで,字を逆にした「相武」を「さがむ」と読むと,「相模国」成立前に配置された国造(相武国造)にあてられた表記と読み。後の相模国の東半分=相模川以東もしくは西岸の秦野盆地等も含めた地域(逆に言えば,足柄地域と三浦半島を除いた地域)の旧名,と推定されているようです。
市ヶ谷から移転してきた陸軍士官学校の別称を発祥とする「相武台」は,移転当時の陸軍大臣・杉山元の揮毫による“公式解釈”(旧士官学校=現米軍キャンプ座間内の「相武臺の碑」碑文)によれば,武官養成学校にふさわしく「武ヲ相(み)ル台」という意味で,相模・武蔵とは関係ない(だから“合成地名”ではなく,偶然の一致),ということになっています。
もちろん,両国にまたがるという意味で「相武」が使われる例も多いようです。
[71783] 2009年 8月 25日(火)14:18:00hmt さん
「駿豆」と「駿河」
[71779] Issie さん
元々「駿豆線」とは三島町内と沼津駅を結んでいた軌道線の名前(駿豆電気鉄道)だったようです。

なるほど、言われてみれば駿豆電気鉄道は、沼津(駿河)と三島(伊豆)を結ぶ電車の会社名としては当然でした。

鉄道線(豆相鉄道>伊豆鉄道)の方が距離も長いし、こちらが本線と思ってしまうのですが、支線のように見える軌道会社(駿豆2国に供給エリアを持つ電力会社?)が鉄道を買収したのならば、買収された鉄道の起点(当時の三島駅)が駿河国内にあったことを持ち出すまでもなく、当時は「駿豆」でよかったわけですね。

起点が駿河でなくなった今も「駿豆線」を名乗っていますが、遂に上州に到達できなかった「東上線」[39241] に比べればましか。

鉄道以外において「駿豆」が使われた事例として、静岡県の 駿豆水道事業
♪富士の白雪ゃノ~エ が 融けて流れて 湧き出した三島の柿田川から、水源に恵まれない熱海市などへの給水。

スルガ銀行も沼津だし、駿河国そのものは広い地域です。

[21201] Issie さんによると、「駿河」というのは,本来は富士山麓あたりの地名で、現在の「駿東郡」の古称が「駿河郡」だったとか。
そして、1912年 駿東郡小山町 が誕生する直前に、東海道本線「小山駅」が「駿河駅」に改称されているのですね。

東北本線と重複していた「小山駅」の同名回避という理由はわかりますが、わざわざ小山町誕生の時期に合せたのは?
本来は広域地名である「駿河」をピンポイントな駅名に使ったのも不思議。
東海道本線が駿河国に入って最初の駅だから?

しかし、1934年の丹那トンネル開通で本線の座を失い、御殿場線に。戦時中には単線化。それでも相変わらず駿河駅を名乗り続け、1952年に至り駿河小山駅に改称。

[21201] Issie さんの発言
【駿河が】静岡県東部の地名であるとすると,静岡で「駿河」を名乗るのには少なからず違和感を感じます。
にもかかわらず、その1年半後の 2005年4月に 静岡市駿河区が誕生。
今度は、駿河という地名が、かつての駿河府中付近の狭い地域に限定された地名になってゆくのでしょうか?

駿河から、ふと思い出した言葉が “奈良の神主 駿河の神主”

(伊豆箱根鉄道が)まさに「豆相地域」を舞台に(中略)箱根登山鉄道 と激しい競争を繰り広げることになるのは,有名なお話。

映画化もされた獅子文六の小説「箱根山」の題材。半世紀前、1956年から1961年にかけての事件。
[71790] 2009年 8月 25日(火)22:56:25伊豆之国 さん
「ご当地」の話題なのに、乗り遅れてしまいました‥
[71775]オーナー グリグリさん
「豆相」という地域名
ですが、
[71778][71783]hmtさん
相模を走っていないのに、豆相鉄道とは?
[71779]Issieさん
(御殿場線上の)三島駅の開業は1898(明治31)年で意外に遅い。国府津から御殿場・沼津を経て静岡まではすでに1889(明治22)年に開通しています。つまり,鉄道は9年間も三島を素通りしていたわけ。…これには宿場と何かあったのかもしれない,と憶測したくもなりますが,どうなんでしょう
お二方が詳細に書き込んでくれたお蔭で、「ご当地」の話なのに出番がほとんどなくなってしまいました‥。ということで、今回の書き込みはほんの補足程度に。
さて、現在の伊豆箱根鉄道駿豆線の前身・豆相鉄道。相模を全くかすっていないのに「豆相」を名乗ったのも不思議ですが、あるいは箱根の山を越えて行く壮大な「夢の路線」の構想を抱いていたのでしょうか‥。この「豆相鉄道」は、当初の計画では沼津を起点としていたそうですが、鉄道誘致に乗り遅れて衰退が進んでいた当時の三島の町民が、積極的に用地を提供するなど活発に動き、当時の長泉村に三島駅(現在の下土狩駅)を設置すると共に、起点もこの新駅に変更することに成功、こうして「豆相鉄道」は明治31年6月15日に(旧)三島-南條(現・伊豆長岡)間で営業を開始することになったのです。三島駅の開業が遅れたことについては、三島市史によると
当時の三島宿民には未だに幕末徒歩時代の夢が忘れられなかったものか、新しい交通機関によって町の発展を願う者は数少なかった。現実にこの頃の旅行者の総ては依然として昔ながらの駕籠、或いは馬の背を借りるという状態であったので、旅籠は栄え宿場は殷賑を極めるとあってみれば岡蒸気(ママ)と称される欧米風の乗物の出現には無関心であることが寧ろ当然であった
(原口隆行氏著「鉄道唱歌の旅・東海道線今昔」→[68592])とあり、当時の三島町を挙げて猛反対したように書かれていますが、真相はというと、[71779]でIssieさんがおっしゃるような線形・地形の関係のほかに、かといって全く反対がなかったというわけでもなく、町民の一部に反対が出たりして前述のように駅の誘致に出遅れ、線路が町から遠いところを通り駅もできなかった、というところではないかと思うのですが‥。
東海道線が御殿場廻りだった頃の三島駅は,伊豆の中心都市である“行政上の三島町”ではなくて,「隣国」の駿河にあった
[70888]ぺとぺとさん
三島高等学校(中略)のように別自治体にあるもの
私立三島高校は三島市にはなくて「駿河」の長泉町にあります(昭和34年までは三島市にありました‥学校HPより)。

ところで、先日の大地震ですが、父の実家に電話したところ、「ほとんど被害もなく、無事」ということで、まずは一安心‥。

話は変わりますが、前回の書き込み[71758]関連で。
「上信越自動車道は軽井沢町を通らない」(碓氷軽井沢ICは安中市)
「中央本線は中央市を通らないが、中央自動車道は中央市を通る
この二つ、実際に通って初めて知りました‥。


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