[71778] hmt さん
1912年に駿豆電気鉄道。これも駿河の路線なし。
1934年に丹那トンネルが開通して熱海廻りルート上の現在位置に移転するまで 三島駅 は現在の御殿場線上にありました。現・下土狩駅。所在地は「駿東郡」ですから,駿河。というわけで,一応「駿豆線」ではあったのですね。
※つまり,東海道線が御殿場廻りだった頃の三島駅は,伊豆の中心都市である“行政上の三島町”ではなくて,「隣国」の駿河にあったのでした。“川向う”でも同じ国内の 厚木駅(厚木ではなく海老名に所在) や 新潟駅(新潟ではなく沼垂(ぬったり)に所在) と,どちらがビックリ度が高いでしょうかね。三島の宿場が鉄道を嫌ってああいうルートになった(いわゆる「鉄道忌避」),…わけではありませんね,たぶん。御殿場から山を下ってくるには,いや,それ以上に沼津から当時の非力な蒸気機関車で御殿場まで山を登っていくには,あのルートが合理的だったのでしょう。
ただし,(御殿場線上の)三島駅の開業は1898(明治31)年で意外に遅い。国府津から御殿場・沼津を経て静岡まではすでに1889(明治22)年に開通しています。つまり,鉄道は9年間も三島を素通りしていたわけ。…これには宿場と何かあったのかもしれない,と憶測したくもなりますが,どうなんでしょう。官設鉄道(東海道線)の三島駅開業と同時に,豆相鉄道も1ヵ月前の開業時に暫定ターミナルとしていた三島町内(三島町駅)から三島駅に乗り入れて,両線の乗換駅となりました。
ちなみに,東海道新幹線の開業は言うまでもなく1964年のことですが,(現在の)三島駅に新幹線が停車するようになったのは1969年。こちらも5年間,三島を素通りしていたのでした(ただし,車両基地が三島にあるので運転上の停車はあったのですが)。歴史は繰り返す…。
私が初めて新幹線に乗った時,ちょうど三島の駅が工事中でした。
話を戻して…,
そんなわけで,豆相鉄道は「駿河国内の伊豆三島駅」をターミナルとしていたので,辛うじて「駿豆線」の面目を保っていたわけですが,元々「駿豆線」とは三島町内と沼津駅を結んでいた軌道線の名前(駿豆電気鉄道)だったようです。さらにさかのぼれば,函南に水力発電所を設けて,静岡・神奈川両県の境界エリアに電力を供給していた「駿豆電気」がルーツだとか。戦時中の電力国家管理以前は電力会社が副業で電気鉄道を経営するのはよくあったことで(だから,田舎にも電車が走っていた),「駿豆」もその例の1つ,というわけですね。
豆相鉄道は1898年の開業後,1907年に「伊豆鉄道」に譲渡され,さらに1912年に「駿豆電気鉄道」に買収されたのでした。その後,若干の曲折を経て1923年に“堤資本”傘下(後の西武系列)に入り,1941年に同じく堤資本傘下の 大雄山鉄道 を合併して,1957年に「伊豆箱根鉄道」と改称します。そして,まさに「豆相地域」を舞台に“五島慶太資本”傘下(東急系列。戦後の“大東急”解体後は小田急系列)の 箱根登山鉄道 と激しい競争を繰り広げることになるのは,有名なお話。
その間に,1934年の東海道線のルート変更および三島駅移転の結果,駿豆線は駿河から撤退し,「駿豆」の名前の元となった軌道線は1963年に廃止されたのでした。
総称というよりも境界領域という気もします。
「武相」も同じような意味で使われている気がします。
ところで,字を逆にした「相武」を「さがむ」と読むと,「相模国」成立前に配置された国造(相武国造)にあてられた表記と読み。後の相模国の東半分=相模川以東もしくは西岸の秦野盆地等も含めた地域(逆に言えば,足柄地域と三浦半島を除いた地域)の旧名,と推定されているようです。
市ヶ谷から移転してきた陸軍士官学校の別称を発祥とする「相武台」は,移転当時の陸軍大臣・杉山元の揮毫による“公式解釈”(旧士官学校=現米軍キャンプ座間内の「相武臺の碑」碑文)によれば,武官養成学校にふさわしく「武ヲ相(み)ル台」という意味で,相模・武蔵とは関係ない(だから“合成地名”ではなく,偶然の一致),ということになっています。
もちろん,両国にまたがるという意味で「相武」が使われる例も多いようです。