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落書き帳

東京府荏原郡馬込領桐ヶ谷村

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[78471] 2011年 6月 3日(金)13:42:50hmt さん
東京府荏原郡馬込領桐ヶ谷村
[78468] むっくん さん
15 新設/村制 荏原郡池上村
東京府令第25号【の7/35】では「馬込領」は桐ヶ谷村の右肩に小さく記されています。
「領」とは、【(江戸時代)埼玉県下の水利水防単位の事例】というもののようで、正式な村名に入れるにはふさわしくないように思えます。

変遷情報 における「市制町村制施行前の町村名等」欄のデータレコードとして、「馬込領桐ヶ谷村」と「桐ヶ谷村」と、いずれを採るべきか という問題ですね。

「市制町村制施行前の村名」データとして 私が参照した資料は、いずれも 内務省地理局編纂の 「郡区町村一覧」「地方行政区画便覧」 です。
2つの資料に関する記事の一部

郡区町村一覧の 東京府荏原郡 には、同じ大きさの字で「馬込領桐ヶ谷村」と記されていました。
地方行政区画便覧の第3表 東京府荏原郡 を見ると、下池上村戸長役場管内に「馬込領桐ヶ谷村」があり、谷山(ややま)村戸長役場管内にある「桐ヶ谷村」と区別されていることがわかります。
いずれの資料も、「現行東京府布令類纂」に収録された東京府令第25号の「小書き」方式と違いますね。

埼玉県にある「○○領」の付いた村名について話題になったことがありました。関係記事
その際は、埼玉県北足立郡 10町335村の中に、根岸村(2)、別所村(4)、辻村(4)、領家村(7)、在家村(2)、町谷村(2)と、同名の村が多数あることから、「○○領」は、それらを区別する符丁らしいと説きました[68339]

今回も同じ武蔵国です。
荏原郡 7町83村の中にある 2つの「桐ヶ谷村」を区別するため、一方だけに「馬込領」を冠したように思われます。
しかし、その表記方法は「小書き」方式でなく、「馬込領桐ヶ谷村」で一体となった村名になっています。

参考までに、埼玉県北足立郡の場合は、郡区町村一覧 でも地方行政区画便覧 でも、例えば「根岸村」の肩に「浦和領」と細書する「小書き」方式が使われています。

荏原郡の事例と北足立郡の事例とで、「○○領」の意義に 実質的な差異があるのか否かは 不明ですが、いずれの地理局資料でも 2種類の表記が意図的に使い分けられているようです。
変遷情報においては、「馬込領桐ヶ谷村」のままでよいのではないでしょうか。

余談ですが、桐ヶ谷という町名は 現在の品川区から消えていますが、桐ヶ谷斎場[71932]は健在。
問題の「馬込領桐ヶ谷村」は 大田区でしょうが、地名がすっかり変っています。馬込や雪谷という地名から類推するのみ。
[78476] 2011年 6月 4日(土)19:48:13【3】Issie さん
2つの桐ヶ谷村
[78471] hmt さん
問題の「馬込領桐ヶ谷村」は 大田区でしょうが、地名がすっかり変っています。馬込や雪谷という地名から類推するのみ。

たとえば,1922(大正11)年部分修正の5万図を見ると該当すると思われる位置に「桐ヶ谷」の地名はありません。もう1つの「桐ヶ谷」(こちらは「品川領」)は,「大崎町」内の地名として記載されています。
そこで,[68352] でも話題に上がった『新編武蔵風土記稿』(江戸時代後期,化政年間に幕府機関によって編纂された準公式地理書)に当たってみました。関連部分をそのまま引用します。

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○桐ヶ谷村(馬込領・巻46)
桐ヶ谷村は当郡品川宿より西南の方一里半余にあり、家数十五軒、東より南へは市ノ倉村に界ひ、正南は堤方村に接し、西は池上村に隣り、北は馬込村に及ふ、東西十五町南北八町余、水田少なく陸田多し、土性は赤土野土錯(まじ)りに耕作に宜(よろしか)らす、元禄八年織田越前守検地す、御入国の後山本藤右衛門知行となり、それより今の又十郎に至るまで子孫世々襲領す
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現在の町名としては「桐ヶ谷」だけでなく,隣接する「市ノ倉」「堤方」も消滅していますが,「堤方」は呑川に架かる橋とバス停に名前が残ります。文章中の記述と“明治の大合併”で「池上村」に合併されたという事実から,池上本門寺の東側,大田区中央五~六丁目のあたりに相当するものと思われます。
地図をよく見ると,本門寺の東側のヤト(池上一丁目)に「桐里保育園」というのがあるのですが,もしかしたら「桐ヶ谷」と関係があるのかもしれません。

現在も斎場にその名を残す品川区の「桐ヶ谷」については,こう書かれています。

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○桐ヶ谷村(品川領・巻53)
桐ヶ谷村は郡の東境にあり、江戸日本橋より二里半の行程なり、家数六十軒、東は居木橋(いるぎばし)下大崎谷山の三村に隣り、南は谷山戸越の二村に接し、西は下目黒村に及び、北は上大崎村に交(まじわ)る、東西二十町南北八町余、南の方はすべて丘なり、北に及びては地低くして谷合多し、村の東の方に相州街道係れり、下大崎村より入て戸越村に達す、此間五町許(ばかり)、当村開墾の年代詳(つまびらか)ならず、御入国の後御料所にて元禄八年織田越前守検地す、又同じ頃村西の溜井を開墾して水田とせしもの五段、伊奈半左衛門検地して新田となる、今は一円に大貫治右衛門光豊が支配所なり
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というわけで,「桐ヶ谷村」の重複については特に記載がありません。位置が離れていることと,所属する領が違うことで別の村であることが明らかであるからなのかもしれません。

「新編武蔵風土記稿」の荏原郡部分には,桐ヶ谷村のほかに「小山村」と「久ヶ原村」が2つずつ記載されています。
「小山村」は 馬込領 と 世田ヶ谷領 の2つ。このうち,「世田ヶ谷領小山村」については“古くは「尾山村」とも書いた”という記述があり,これは現在の世田谷区尾山台付近のことと思われます。「馬込領小山」は商店街で有名な品川区の「武蔵小山」ですね。
こちらの重複についても特に記述はありませんが,考えてみれば表記は同じでも 世田ヶ谷領(世田谷区) の方は「おやま」,馬込領(品川区) の方は「こやま」と読みが違いますね。

一方,六郷領 と 馬込領 で重複する「久ヶ原村」については記述があります。

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○久ヶ原村(六郷領・巻44)
久ヶ原村は、郡の中ほどにあり、正保及元禄年中改定の国図共に村名の字を久原としるせり、今の字にかきかへしは何の頃よりにや定かならず、又同じ図をみるに、其頃すでに馬込領久河原、六郷領久河原と二村に分ちて記したれど、古(いにしえ)は一村たりしなど土人の伝へあり、もとより地形も接したれば、さもありしならん
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○久ヶ原村(馬込領・巻45)
久ヶ原村は、六郷領久ヶ原村に弁せし如く、その地あひ接したれば、昔は一村なりしやとおもはる、されど正保の頃改定の国図及び田園簿には、はや各村別ち記せり、土人の伝へには古は当村を今里村と号せしといへり、もし然(しか)らんには一旦故ありて六郷領の久ヶ原村とあはせて一村となせしならん、されど領名の異なるはもとより別村なれば、古は属する所の郷庄ともに同じからず、後の世はその郷庄の唱へも失ひしかど、領名をもてわかつにおよび猶(なお)その属する所を異にせるなるべし、土地の六郷領久ヶ原村につゞきたるは西の方にて、南の方は徳持村にとなり、東は池上村を限とし、北は道々橋村に接せり
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現在は大田区の「久が原」と表記する地名ですね。文章中の記述から,「久河原」という表記もあったことがわかります。
編者は,元々は「久原村」という1つの村であったものが江戸時代初めの正保年間以前に東西に分割され,西側が 六郷領,東側が 馬込領 に属したと推測するとともに,地元の人の言い伝えでは,馬込領に属する東側の部分がさらに古くは「今里村」と呼ばれていた,と記述しています。
明治の大合併前の村では「久ヶ原村」が1つしかありませんから,明治期には再び1つの村にまとめられたのでしょうかね。

参考までに,以下,「新編武蔵風土記稿」の荏原郡部分に記載されている村を列挙します。

【六郷領】
八幡塚村,雑色村,萩中村,羽田村,羽田猟師町,麹屋村,下袋村,東大森村・西大森村・北大森村,北蒲田村,新宿村,浜竹村,高畑村,古川村,道塚村,町屋村,御薗村,小林村,女塚村,新井宿村,不入斗村,堤方村,徳持村,蓮沼村,市ノ倉村,安方村,原村,古市場村,今泉村,矢口村,下丸子村,鵜ノ木村,嶺村,久ヶ原村

【馬込領】
久ヶ原村,道々橋村,雪ヶ谷村,池上村,馬込村,桐ヶ谷村,中延村,碑文谷村,小山村,谷山村,上目黒村,中目黒村,下目黒村

【世田ヶ谷領】
世田ヶ谷村,弦巻村,経堂在家村,用賀村,瀬田村,上野毛村,下野毛村,野良田村,等等力村,小山村,上沼部村,下沼部村,石川村,奥沢村,奥沢新田村,衾村,深沢村,野沢村,馬引沢村,池尻村,池沢村,三宿村,太子堂村,若林村,代田村,上北沢村,下北沢村,松原村,赤堤村

【品川領】
大井村,上蛇窪村,下蛇窪村,戸越村,桐ヶ谷村,居木橋村,上大崎村,下大崎村,二日五日村,品川宿(南品川宿,南品川宿猟師町,南品川宿新開場,北品川宿,品川宿歩行新宿)

【麻布領】
白金村,今里村,上高輪町在方分,下高輪村,三田村

以前,[68370] のあたりで「領」について触れたとき,多摩川以南の 橘樹郡 や 都筑郡(現川崎市および横浜市北部)では郡内各村の「領」への帰属が錯綜していて(「神奈川宿」は「神奈川領」には属しない,など),「領」の領域自体がモザイク状になっている,という旨の報告をしたことがあるのですが,荏原郡内ではそれぞれの領の領域が一円的にまとまっているようですね。
そうした中で,「久ヶ原村」が 六郷領 と 馬込領 とに分割されて所属していたわけです。

長文御免。
[78478] 2011年 6月 4日(土)22:25:41hmt さん
東京府荏原郡馬込領桐ヶ谷村(補足)
[78471] hmt
[78476] Issie さん
たとえば,1922(大正11)年部分修正の5万図を見ると該当すると思われる位置に「桐ヶ谷」の地名はありません。
池上本門寺の東側,大田区中央五~六丁目のあたりに相当するものと思われます。
「桐里保育園」というのがあるのですが,もしかしたら「桐ヶ谷」と関係があるのかもしれません。

5万分の1「東京西南部」にはなかったとのことですが、25000分の1「川崎」図幅(昭20部修)には、現在の中央六丁目付近に「桐ヶ谷」の地名がありました。

この付近は、昭和7年の 東京市への編入に際して大森区「桐里町」になったようで、占領時代に米軍が作った JAPAN CITY PLANS OMORI [63901] にも、KIRISATOCHO や ICHINOKURACHO の文字がありました。
[84741] 2014年 1月 8日(水)18:25:40【2】むっくん さん
Re:変遷情報における対応漏れ対応(その1~その4)
遅くなりましたが、新年あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。

[84595][84684][84685][84698]グリグリさん
なお、[78468]の後半から[78469]の東京市以外については対応済みと考えてよろしいですね。
これはご推察の通りです。
また、私の指摘箇所に付き、対応していただき有難うございました。ざっと一通り当方でも確認しました。

まず、対応漏れ及び誤修正は3箇所見つかりました。
M22.4.1京都市
●上京区第7組
笹屋町二丁目→笹屋町二丁目, 笹屋町三丁目
との修正が必要です。

M22.5.1東京市
●四谷区
元鮫河橋南町→元鮫ヶ橋南町
との修正が必要です。
●牛込区
市谷佐砂土原町二丁目→市谷佐土原町二丁目
との修正が必要です。

次に、[84570]グリグリさんにて表記の揺らぎに関する方針が定まりましたので、関連する箇所については本稿で記載することとします。

M22.5.1東京市
●下谷区
坂本村(本)→阪本村(本)
●浅草区
坂本村(微)→阪本村(微)
との修正が必要となります。
参考:府令第25号(PDF)(M22.4.11)3コマ、読売新聞に記載の府令第25号(このことに関するところはM22.4.12の1頁に記載)

これに関しましては[78466]拙稿の
(1)が一番信頼できるのではないかと考えられますので、(1)を最優先に採用しました。
を翻すこととなりました。


最後に馬込領桐ヶ谷村の表記の件です。
[78466]拙稿の(4)で紹介した、東京府に郡区町村編成法を施行するにあたった際の甲第49号布達(東京府大小区画ヲ廃シ区郡名称ヲ定ム附合併改称)(PDF)(M11.11.2)(1~41コマ)を改めて見てみますと、32コマに馬込領桐ヶ谷村とありました。
次に市制町村制施行時の廃置分合を見てみます。
[78468]拙稿で紹介した府令第25号(PDF)(M22.4.11)7コマでは「馬込領」は桐ヶ谷村の右肩に小さく記されていますが、読売新聞に記載の東京府令第25号(このことに関するところはM22.4.14の別冊1頁に記載)では、馬込領桐ヶ谷村と同一の文字の大きさで記載されています。

続いて法令面を見てみます。
郡区町村編成法施行下の東京府において、町村の合併もしくは改称が行われる際には、布達(M19.4.5までは甲号布達、M19.7.26までは布達)及び府令(M19.7.27以降)で公告されているようです。そして市制町村制施行時までに、東京府より馬込領桐ヶ谷村を桐ヶ谷村へと改称する旨の布達や府令は出されていないようです。
以上からは、確たることは言えないため、現状のままで保留としておくのが無難であると思います。


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