お茶濁しの「○○跡地形」その②です。
結構、以前になりますが仕事で河川沿いの農家の方と現場でお会いしておりました。すると田んぼの横に
少し小高くなった細長い土地 が河川と直角方向にずっと続いている事に違和感を覚えました。そこには柿やら松やらの木が植えられ畑もされていますが、田んぼよりも無意味に高く、そこまで盛土する必要はなさそうです。
気になって仕方がなかったので農家の方に聞くと、「川の反対側の方が面白いから見てみ。」と言うので反対側を見てみると、そこには溜池があって
なぞの道 が溜池を分断しています。確かに田んぼ側より更に違和感があります。無理に溜池を分けているし、おまけに無意味にカーブしていて真っ直ぐでない。「なんで、こんな変なものを作ったんだぁ? 」と目を白黒させていたら、農家のおじさんは嬉しそうに答えを教えてくれました。
「昔はここを鉄道が走ってたんやで。」
確かにすぐ北側にJRの大和路線(関西本線)が通っているので、ルート変更があったのかと思ったら、まったく別の「天理軽便鉄道」なる鉄道が走っていたとの事でした。
航空写真 で見たら、河川の両側に謎の小高地が続いているのが良くわかります。鉄道跡だと言われれば納得です。
天理軽便鉄道は、大正4年に大阪方面からの天理教信者の輸送を見込んで、法隆寺から丹波市(たんばいち)(現 天理市)に建設されたナローゲージの鉄道です。(天理教、恐るべしです! ) 後に東半分の平端~丹波市間が大阪電気軌道(現 近鉄)に譲渡されて、現在も近鉄天理線として残っています。新法隆寺~平端間は昭和20年に戦争の影響で運転停止となり、昭和27年に正式に廃止となった模様です。
リンクページ の風景画と写真からは、当時のなんとものどかな風景が見て取れます。
農家のおじさんの年齢からすると鉄道が走っていた当時は知らない筈ですが、おそらく払い下げを受けたころに親から聞かされたんだろうなと思った次第です。
近鉄が、かつて奈良や三重に作られた鉄道を大正から昭和にかけて次々と買収して、今の私鉄随一の営業距離を誇る鉄道網を持ったことは知っていましたが、普段、利用することも多い天理線がそのような歴史を持っていたのは初めて知りました。どうせなら法隆寺~平端間も残していてくれていたらJRの乗換えが便利だったのにな、というのは天理市民のひとり言です。
関西以外の人にはローカルすぎる話題でした。すみません。