[105305] YTさんの
明治23年(1890年)12月31日における日本国内の人口上位500市区町村
を拝見していて、地元奈良県内の町村を見ていて興味がわいたので、抽出して少し分析してみました。500位以内に入っている奈良県内の市町村は10町村なので、奇しくもトップ10になりました。
◆1890年12月31日における奈良県の市町村現住人口 上位10位
順位 | 郡名 | 市町村名 | 現住人口 | 備考 |
1 | 添上郡 | 奈良町 | 24,209 | 現奈良市中心部 |
2 | 添下郡 | 郡山町 | 12,770 | 現大和郡山市中心部 |
3 | 吉野郡 | 十津川村 | 10,399 | 現十津川村域 |
4 | 山辺郡 | 二階堂村 | 7,796 | 現天理市西部 |
5 | 吉野郡 | 下市町 | 7,535 | 現下市町北部 |
6 | 山辺郡 | 山辺村 | 7,130 | 現天理市中心部 |
7 | 式下郡 | 川東村 | 7,110 | 現田原本町東部 |
8 | 高市郡 | 白橿村 | 7,070 | 現橿原市南部 |
9 | 吉野郡 | 大淀村 | 7,021 | ほぼ現大淀町域 |
10 | 宇智郡 | 五條町 | 6,637 | 現五條市中心部 |
表にしてみたとき、上位の2町、県都奈良と柳沢15万石の城下町郡山が1位2位なのは予想通りですが、予想外だったのが3位の十津川村です。これについては後述しますが、他の中心地域を押しのけて3位に入っているのは複雑な思いです。そして4位以下も「村」が並んでいます。現在の居住地である旧二階堂村が4位というのも、天理市の中心部にあたる山辺村が6位、さらに隣の川東村が7位と現在の人口分布と比べると随分と違和感のある町村名が並んでいるのが何とも不思議な印象をうけました。
当時は鉄道も発達していないため、大阪への通勤がほぼ無く職住近接であった事から、農業も含めて産業が盛んで面積の広い町村の人口が多くなっている傾向が見て取れます。10位の五條町はかつては代官所も置かれた南部の中心地でしたが、面積が小さいので辛うじて10位には入ったいう感じでしょう。「町」でいえば、当時の高田町や桜井町、八木町、御所町、上市町、田原本町などの地域の中心となる町がランク外となっているのは、やはり何れも面積が小さい事によると考えられます。
さて、3位に入った十津川村ですが、これは1890年12月の人口統計であるからといえます。十津川村は同年6月に十津川郷6か村が合併し、1つの十津川村になった事により人口上位になった訳ですが、これは、その前年の1889年8月に発生した十津川大水害により甚大な被害を受けた事に起因するものであり、非常に複雑な思いです。
本題からは外れますが、1889年の十津川大水害について少し紹介したいと思います。
1889年8月に秋雨前線と台風によって日雨量1000mmを超える豪雨が降り続き、十津川郷全域で1080箇所の大規模な山腹崩壊が発生。37箇所で天然ダムが発生し、天然ダムの決壊に伴う大洪水により甚大な被害が発生しました。十津川郷(北十津川村、十津川花園村、中十津川村、西十津川村、南十津川村、東十津川村の6か村)では、村民12,862人のうち死者168人、全壊半壊家屋は全戸数の1/4にあたる610戸。堆積した砂礫は平均30mの厚さにもなり、耕地埋没や山林崩壊などで生活基盤を失った者は約3000人に及び、被災者2,691人が1889年10月に北海道に移住し、新十津川村が作られました。そして、翌1890年6月に十津川郷6か村が合併し、現在の十津川村が作られました。
大水害の前の人口規模であれば、十津川郷で考えれば郡山町を超えて県内2位のレベルなのですが、そもそも大水害が無ければ大合併も行われていなかった訳で、ランク外となっていたはずです。それらの歴史を知っているが故、このランキングを見たときには非常に複雑な思いがありました。
しかし、今と同じ巨大な十津川村域とはいえ、この時代の吉野の山間部に10,000人を超える人口があったというのは、流石は、壬申の乱以来、幕末まで村落共同体として存在し続けた十津川郷だなと感じ入る次第です。
本題に戻りますが、トップ10を見るに付け、地域の中心地だった五條や高田等を押さえて、二階堂村が4位になっていたのは本当に驚きました。(4位以下はドングリの背くらべの印象はありますが…)おそらく産業といっても農業くらいしか無い農村であったと思われますが、山林が無く耕地面積が広いので人口も多かったのでしょう。逆に五條や高田などは江戸時代から市街地が形成されており、その地域が町となったので面積の小さいコンパクトな町になったと考えられます。
現在であれば、都市部=人口が多い。農村部=人口が少ない。というのが、当たり前の感覚なのですが、明治期の町村の単位は以前からの集落の集合体である事も多く、町村単位の人口として考えると、必ずしも都市部の人口が多いとも限らないというのは新しい発見であり、都市の形成過程が垣間見れて、なかなか興味深いデータだと感じました。